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園長の日記

小学校を訪ねて(3)生活科と体育を参観する

2024/03/07

今日は中休みが始まる頃に小学校を訪問しました。担任の先生が1年生の教室に案内してくださり、授業で使った「てんつなぎ」というプリントを体験させてもらいました。

1から番号が振ってある黒い点を鉛筆で線を書いてつないでいくと、ある形になるというもの。先生が「すぐにできたねえ」と喜んでくれるとKさんもニッコリ。3時間目は生活科でした。

この時期の小学校では一年の振り返りをしています。今日見せていただいた授業では、「生かつかカード」というオリジナルの日記を用いて、今年の1年間を振り返っていました。

A4サイズぐらいの、絵と文字でその日の出来事を記録できるもので、先生が4月ごろは「絵だけだったけど、ひらがなが出てきて、だんだん増えてきて、この頃になると4行も書いているね」などと電子黒板に、ある子どものそれを大きく映し出して、一年を振り返っていました。記憶がよみがえるように思い出してから「自分で自分に手紙を書いてみよう」と展開していきました。

1年生は2クラスあり、もうひとクラスは体育館で体育でした。縄跳びでやっていて、前回し、後ろ回し、片足とび、大縄跳びなど、保育園でもやっているような活動でした。

保育園と違うのは、全員が縄跳びをしないといけないことで、その範囲の中で、何々跳びをしていいこと、何回跳ぶかの目的を持って挑戦していくような活動になっていました。

卒園児の他に、この小学校で開かれている活動を通じて知り合った友達がいたこともあり、見学を終えて「楽しかった」と。入学に向けて安心して迎えることができそうです。

「そうか面白い!」から「やばい!」まである学び

2024/03/06

何かを学ぶために、ある「空間」へ出かけるとします。あえて場所と言わず空間というのは、オンラインの場合もあるからです。そこでは、あるテーマについての情報がやりとりされることになります。その情報の中から、参加者がそれぞれにとって「そうか!」とか「なるほど!」とか、いろいろなこと「気づき」が起きているでしょう。


例えば「どう考えればいいんだろう?」と思っていたことに視界が開ける感じがあると、それは嬉しいものです。数学なら問題が解けたというアハ体験がありますが(実は私の場合は、ないことが多かった。ふ〜ん、そういうものか、の方が多い)、そういうのはともかく、保育の場合は、ちょっとそう事とは違う気がします。ずっと追っかけていくと、納得できる記述というか、説明に出会うことができると、まるで「雲がはれる」という言い方に近いことが起きます。そういう見方をしだしたら、そういう風にか見えなくなる、みたいかことに近いかもしれません。

そういう経験を研修報告で他の人たちに伝えることができるものでしょうか? それは決して不可能ではなく、あるまとまった量の知識をきちんと理解して、その長めの言葉で言い表された事柄を、事実と思えることと照らし合わせながら自分の文脈で並べ直して考え直してみる、といったことが必要になる気がします。何度もそれを頭の中で反芻するかのようなことなのですが、その上で保育の事例について、そのスポットライトを当ててみると、そういう理解の仕方がいいかもしれないという、保育を進める上での行動指針のようなことをイメージすることにつながっていきます。


保育をよくしていくには、どうしても、子どもの理解なり、関わり方なり、どんな活動をするかなりの判断に向かって、その事例に関して、いったん、ちゃんと立ち止まって振り返るという営みが不可欠でしょう。

振り返る中で、よく理解できていないことが見つかったりします。でも、それと同時に「じゃあ、これはどうなるのよ」も生まれてきます。そうやって保育の探究のテーマがまた見つかっていくのですが、それは会議などで話し合って出てくるというよりも、日々の保育の話し合いの中で展開されていることであって、無理やりこれでいいだろうと結論づけて疑問を残さないような進め方では、それ以降の展開の可能性が少ない気がします。変な言い方かもしれませんが、「ちゃんとわからないこと」がちゃんとあったほうが良いのです。

もうこんな歳にもなって(あるいは保育をこれだけ積み重ねてきていながら)「もっと早く知っていたら」とか「そういうことなら、これはどうなるの?」といったことが起きることもあって、恥ずかしさや悔しさを覚えることもあります。自分の不勉強を棚に上げて「そういうこと、早く言ってよ」と言いたくなることだってあります!まあ、結局は自分のせいなのですがね。そんなことをしていると、また調べたいことが増えてしまって困ってしまいます。でもそれは、楽しみでもあるのですが、締切がないので先延ばしになっていくことも多いのです。

一方で、そういうこととは別に、疑問などにも思ってもいなかったことが、「やばい、違ってた!」とか「まずいなあ、そうだったのかあ」みたいになることだってあります。そこまででなくても「その辺りは気をつけよう」とか「みんなに伝えなくちゃ」とか、修正や再確認などになります。こういうことは早く行動に移すことになります。

何かを学ぶということについて、もっと他の整理の仕方もあるのですが、何かの学びが「気づき」になるのは、それが「わかる」という経験だという言い方ができるのなら、すると、何か世界が開かれていくような感じがして、世界の見方が変わってくるようなことが面白いと思います。こういう楽しみは動物にもロボットにもないものでしょうけれど、人間の生きている世界の狭さであり広さなのかもしれません。

実験が遊びに乗っ取られていく体験

2024/03/05

自分(私)の「頭の硬さ」に気づかせる「子どもの遊び」。どんな時に自分の頭の硬さを感じるかというと、子どもが遊び始める姿を肯定できない心理の時です。期待している姿なら肯定できても、子どもが「面白い」と感じることに、そうか、そこが面白いんだ、と素直に受け止められない時があります。大抵は大人が色々用意して、そうなって欲しいと計画したりしている時ほど、その脱線にみえる姿を肯定できない傾向が自分の中にあるのに気づくのです。

先ほど、こんなことがありました。私が年長の子ども3人と坂道の勾配を変えたら車がどれくらい遠くまで走るか、ということをやってみました。これは完全に大人主導で子どもをつき従わせるような活動です。いわゆる子ども主体でもなんでもありません。でも、それを私が「実験」と称して、それらしい物を持ち出して、それらしいことをやるものですから、子どもたちには人気なのです。「何か面白いことが始まりそうだ!」という予感から、「ジッケン、やるやる!」と、意欲満々です。まあ、だまされているんです、最初は。

そこで今日は「坂道にいろんなものを転がして、どうなるかジッケンしてみたいんだけど」というと、やるやる!とワクワクしながら始まりました。ツルツル坂とガザガザ坂の滑り具合を比べようというわけです。板を乗せる柱のような土台(橋梁のようなもの)が4つあって、それ1個の高さに板を斜めに置いて、車をするすると走らせてどこまでいくか、止まったところに付箋をつけて、最長距離を目指します。

何回かやると、坂道のガードに擦れると止まる位置が短くなることに気づく子がいます。車を道の真ん中に置いてガードに擦らないように走らせると遠くまでいく。ただ、それに気づくことから、より遠くまで走らせよう!というようになるのかというと、なりませんでした。子どもの興味は「そっち」に収斂していくのではなく、拡散します。手を「そっと離す」のではなく、勢いをつけてバーっと走らせたり、急な坂上にして、地面にドンとぶつかって転がる車にゲラゲラ笑い出し、それが面白くなってきます。用意した車以外に、こっご遊び用の野菜やら、ドーナツやら電車やら、いろんなものを持ち込んで転がし始めます。

そうだよね、別に摩擦の違いで滑り具合が変わることなんかに興味を持続なんかできないよね。と私も頭を切り替えて、子どもの遊ぶままにしてあげます。ところが、ある子がドーナツのような輪になっている遊具を転がすと、面白い動きをしました。くるりと戻ってきたのです。そこでまた、一つギアが入ったように、次々と転がし始めます。やるたびに転がる軌跡が異なり、同じ動きをしません。集めては転がし、集めては転がし、何回も繰り返します。そうしているうちに椅子の脚の間を転がして通すことを目標にして、そこに「行った、行った」とか「だめ」といいながら、試すというか試行錯誤的な感じになってきます。

でもせっかくゲートのようになっているのに、今度はそこにその輪を並べて塞いだりします。もう何が面白いんだかよくわかりません。私が想像する面白さと彼が感じる面白さがちがっているのですが、私にはそうしてみたくなる感じに、ついていくことができません。たぶん多くの大人はそれをみても退屈でしょう。でも子どもはそれを試してみたい、どうなるかやってみたいのでしょう。あれだけ熱心に繰り返し遊ぶのですから、楽しいに違いないのです。

転がり方の変化に関心が移っていったのか、両手をずらしてはじくように回すことができたことが嬉しかったのか、わざわざ私を呼びに来て回して見せてくれます。

・・子どもの遊びというのはこんな感じではないでしょうか。こういうことを飽きるまでいろいろやってみる時間がとても大切なのでしょう。そういう中から、なにか輪郭のはっきりした活動に形になって、そこに何か意味を獲得しているように見えるときに大人がそこに注目して取り出して子どもの姿を描くということを、やっているのだろうと思います。

このように大人の誘導で始めた「遊びを装ったジッケン」は、途中から見事に子どもに乗っ取られて、本来の子どもの遊びになっていきました。これでいいのだと思います。そこにこれまで何度も書いてきた「遊び性」が垣間見られます。あっちにいったりこっちにいったりしているように見える中に、子どもなりの面白さの発見があって、そこに表れては消えていくような目的のようなものが見え隠れして、それもまたすぐに移ろいだり消えたりするように見えます。それでも面白さが断続的に表れています。

きっといろいろなことを試しつくしたあとで、またこの坂道を使って、何かを思い立ち、使い始めるかもしれません。このように考えると、昔私が小学生のころ、板や棒や鉄くずやドラム缶などが転がった空き地があって、そこでよく遊んでいたことを思い出すのですが、そこで何をしていたのか覚えていないのですが、遊び性について分析しているようなことが含まれていたのでしょうか。自分ではよく分かりませんが、そうだったのかもしれません。

小学校を訪ねて(2)楽しそうな授業の雰囲気を感じる

2024/03/04

今日はS小学校を訪問しました。今日も3人。この小学校へ入学する予定の子どもは一人ですが、今回訪問できない小学校へ行く子どもと一緒です。さらに近隣の保育園もお誘いしたので三園での交流にもなりました。授業は2時間目の途中から、1組の国語と2組の音楽を参観しました。

教室と教室の間は可動式のパーテーションで区切ってあるオープンな空間で、廊下や扉がありません。副校長先生が案内してくださいました。1組は国語でしたが今年の1年間を振り返るという内容で、何月には何あった、何をしたというのを黒板に月毎に書いて、みんなで思い出していました。

「この頃からカタカナを始めたよね」「あれ7月が空っぽだよ。何したか覚えている人?」「神田祭」「それはもう少し前だったんじゃない?」「5月だよ」「そうだね」と言ったやりとりをしながら、1年間でやったことが埋まっていきます。これはちょうど今、保育園でもやろうとしていることと同じで、卒園式の呼びかけにつながる方法だね、と担任とも話しました。

この小学校は卒園児が空くなったので、今回が初めての訪問だったのですが、校長先生は「こうやって来てくださるのは大変大事なこと」と積極的です。また授業中であるにも関わらず、担任の先生方も「どうぞ、どうぞ、入りください。みなさ〜ん、今度1年生になるお客さんですよ。今何をしているのかみてもらいましょうね」と非常に好意的に明るい雰囲気で、私たちを教室に招き入れてくださいました。

授業も時々冗談も言いながら、児童たちも和やかな雰囲気でした。見学している園児も思わず声を出しても、それにも自然に答えてくださるような感じです。

2組の音楽は、鈴やカスタネット、鍵盤ハーモニカなど6種類ほどの楽器を鳴らして試していました。活動のめあてはわかりませんでしたが、グループごとに分かれて、楽器を交代して楽しそうでした。

授業見学の後は、中休みの間、園の前の公園で低学年の児童と一緒に遊びました。その後3時間目の最初の避難訓練の様相も参観して今日の訪問は終わり。

その公園で一緒に訪問したH保育園とA保育園のみんなと遊びました。鬼ごっこや大型遊具で遊んでいると、4年生がその公園にきて「春を探す」というテーマでの自然観察が始まりました。

私はその児童たちに「何かあった?」と聞いてみると、すでに咲いている桜や、その花の蜜を吸いに来ているたくさんの鳥、垣根がわりに並ぶ低木の香りのいい花、小さい蕾から白い花びらが芽生えている白梅など、注意してみると、至る所に春が来ているのを、4年生と一緒に春見つけを楽しみました。

帰りはH保育園に立ち寄らせてもらい、次回以降の交流を約束、同じ小学校区での交流がさらに進みそうです。

 

小学校を訪ねて(1)卒園児との再会

2024/03/01

年長のすいすい組は9人いますが、そのうち3人をその子らが入学するI小学校へ連れていきました。

着くとちょうど中休みで、いま3年生のNUくんが校庭に出てきていたので校門越しに「すいすいさんを連れてきたよ」というと「じゃあ、先生に伝えてきて来ようか」と案内してくれようとします。

「頼もしいね、こんなになるんだねえ」と私は担任のY先生と顔を見合わせました。彼とは1年ぶりの再会でしたが、園生活でいろんなエピソードを思い出し、その姿を重ね合わせながら大きな成長を感じました。

校庭を通って入る玄関で、うわ履きに履き替えながら、次々と1年、2年、3年生の卒園児たちと再会します。「あ、〜ちゃん」と名前を呼び合い、手を取り合ってぴょんぴょん飛んだりしています。こういうことだけでも、小学校がぐっと身近になります。校庭から教室へ生き生きと戻っていく小学生たちの姿がどう映ったでしょうか。6年生に姉がいるKくんは小学校でのその姉とあって嬉しそうでした。

当園の場合は、園生活の中で、乳児から幼児まで交流があるので、お互いのことをよく覚えているのです。

副校長のC先生が出迎えてくださり、挨拶を交わしてから教室を案内してくださいました。1年生はその前まえでは3クラスだったのですが、今年2クラスで、一クラスにいる生徒がちょっと多い感じがしました。

1組は算数でした。赤と黄色の三角のピースを並べて、いろんな図形を作ってみるというもの。その様子を教室の後ろから参観させてもらいました。2組には卒園児が4人いて、3人はその様子をじっとみつめていたのが印象的です。

その後、職員室と校長室の間の、廊下につながる空間に設けられている図書コーナーで、図鑑を見て過ごしました。

国が目指している小学校とも架け橋プランと比べれば、こういった訪問はまだその入り口に過ぎませんが、子供たちが少しでも小学校以降の生活や学びに前向きな気持ちを持って歩んでいけるように、と思っています。

今年の訪問は近くの保育園にも私が声をかけて一緒に出掛けたので、他園の4月から同じ1年生になる園児たちとの出会いと交流にもなりました。年長の残りの子たちも来週ほかの小学校を複数の保育園と一緒に、訪問する予定です。

子どももコミュニティも成長し続ける

2024/02/29

(園だより3月号「巻頭言」より)

成長展が終わり、こうした行事を通じても1年間を振り返る機会になっています。開園してまる5年。17日の卒園式を迎える準備をしていると、卒園していく子どもたちが愛おしい。これくらい長い目でみた時に、手元に見える風景や個人の記憶に頼っても細かなことは思い出せません。でも、その当時の写真や記録を紐解くことで、今の育ちがはっきり見えてくるような感慨を味わっています。これは子どものそうですが、コミュニティにも言えるかもしれません。

まだ生まれて1歳の「しずくの会」の今後のことです。この会について、私はこう思っています。保育園の仲間も「数あるコミュニティの一つ」です。まずは今いるいないにかかわらず親子関係が誰にでもあって、それを軸に色々な家族があったり親戚があったりするはずです。また家族を離れて、友人や知り合いがいたり、会社があったり、学校があったりと、それぞれの人間関係があって、その役割やら機能やらは社会的、歴史的な文化的背景を持っています。

その一つに保育園という、子どもが同じ場を共有している場があり、そこに集う親たちが語り合い、何かを生み出していく場があっていいんじゃないか、それはきっかけとして無いよりはあった方がいいんじゃないか。それが自然に近い形で誕生した「しずくの会」ですが、そこに入ることが義務だったり、意味を感じないのにやらされる感があるような運営にはしなくない、と思っています。

この運営スタンスは、子どもにそうあって欲しいと願ってやっている保育テーマと似たところがあります。おそらく世界の教育はその方向をさし示しています。分断ではなく共生や協力、あるいはダイバシティやインクルージョンのテーマともつながります。それこそ民主主義のテーマと同じだと思っています。

大事にしたいのは、そこの当事者性、エイジェンシー(主体性)であり、他者と対話を閉ざさないことです。しんどくても話し合い、対話をやめない。でも決して傷つけない、暴力に訴えないということ。誤解や間違いやミスがあることもお互いに許しあい許容し合う関係を社会に増やしたいし、より良いものにしていくための提案やシェアリングにしていきたい。寛容性の高い世界を増やしていきたい。

それがいくら牧歌的で甘いと言われても、きっと続けていくことでしょう。

それが、そうではなくなってしまうこと、異なる他者を排除したり、話し合いにならないようなことが占領してしまうようなこと、あるいは孤立や格差の助長などが強くなってしまうなら、わざわざ維持する必要はないわけですよね。あるいは形骸化して有名無実のものになり、無理に形だけ維持するようなものになってしまうなら、しずくの会は、なくても構いません。さっさとやめた方がきっと別のものが芽を出しやすいでしょう。そんなふうに考えています。

でもきっと、子どもたちのために、あるいは私たちのために、きっとより良いことをしようとしたり、課題だと思うことを解決しようとしたりし出すことは、信頼関係が生まれてくれば、きっとなくならないので、そのためには何か動き始めると思います。しずくの会も、そうやってできたものであるし、やってきたことや、やろうとしていることがあるから、それはそれで動いていくことでしょう。

さて、この記録が来年、あるいは再来年、どんな風に再読されるのか、楽しみです。しずくの会がどうなっていくのか?

というわけで、子どもたちも卒園したらどういう風に育っていくのか、とっても楽しみです。成長展の毎年のファイルは、毎年の成長の記録でもあるのですが、積もるほどに見えてくる物語もあるでしょう。呼び起こされる記憶と共に今につながるストーリーが見えてくるかもしれません。ただ、これからもその日その日を大切に、その瞬間瞬間を大切にしていきたいものです。

本日28日で4月の園児が確定しました

2024/02/28

本日2月28日、4月入園の2次募集の結果が公表されました。その結果、各クラスは次のようになります。

0歳 1歳 2歳 3歳 4歳 5歳

定員 6  7  8  10 10 10 合計51

4月 6  8  9   6 10  7 合計46

目標 7  8  9  10 11 10 合計55

その結果、5月は次のように募集しますので、ご希望の方は3月末までに千代田区へ応募ください。

0歳 1名

1歳 0名

2歳 0名

3歳 4名

4歳 1名

5歳 3名

合計 9名

*ただし、千代田区のホームページよりも多いクラスがありますが、受け入れますので応募してください。

たわいもないことを語り合える空間に

2024/02/27

どんな人にも「井戸端会議」と呼ばれるようなことがなされる場があると良さそうです。あるいは路地裏の「縁側」のような空間です。人と人がゆるやかに交わるようなところ。そこではたわいもないことが話されていて、話すことがまるで体の振る舞いのようなものとしているような言葉のやり取り。そうだね、そうかな、まあね、でもさ、それはいいね、それもいいじゃないの、またね・・・。

ぽんぽん、と肩を叩き合って、何を話すわけでもなく、それでもつながっていることを確認しているようなこと。そういうつながりは、意味がないように見えて大事なことかもしれないと思わせるものがあって、そう思ってしまうと、また意味か!となってしまうのですが、いやいや、そんな場所ではありません、と何気ない背景に引き下がっていくようなところです。そこにいるもいないも、その時の気分次第。でも顔を見せないと「最近顔を見ないね、どうしたんだろう」と心配してくれる人がいて、「ちょっとお裾分け」とか言って、惣菜やら貰い物やらを分け合ったりするようなところ。

保育園の中がそんな感じにならないかなあ。気兼ねのない空間。居心地のいい場所を一緒に作り出すような場所。今日は玄関の金魚の水槽を掃除しました。3人の年長さんが手伝ってくれました。優しく金魚を両手で救ってくれました。とても上手でした。保育園の玄関は金魚に餌をあげたりしながら、ちょっとした井戸端会議風の空間でもあります。

・・・今年の桜前線は早くきそうです。東京の開花予想は3月21日だそうで、卒園式の頃は桜の蕾が膨らんでいそう。暖かくなってきたら、公園でまた花見を兼ねたピクニックでもしましょうね。・・

先生は41人目の追究者

2024/02/26

子どもが何かをやっているとすると、それをみてつい大人の私たちは「こうしたらいいよ」と教えてしまいたくなります。今日もありました。なんという名前のおもちゃだったか、パッとわからないのですが、虹色のカラフルなスプリングになっていて、びよ〜んと伸びるやつ。それで遊んでいる子が何人かいたのですが、長〜く伸ばしたり、引っ張ったり、垂らしたり、その動きを楽しんでました。

みなさん、そんな姿をみると、「あれ」を見せてあげたくなりませんか?私はあのスプリングおもちゃ(と、ここでは呼部ことにしておきますが)をみると、階段を自分でビョン、ビョン、ビョンと尺取り虫のように降りていく動きを見せてあげたくなります。でも、そこをグッと堪えて「どう関わるのがいいんだろう」と思い直し、それを見せればきっと子どもたち自身で「それやりたい!」と、工夫し出すだろう。

試しに階段でやってみたのですが、幅がありすぎて、次の下へうまく跳ねません。同じステップのところに落ちて転げてしまいます。階段の幅を狭くするといいわけですが、子どもたちだけでは、それを思いつきそうもありません。さて、ここからどうするか。階段と階段の間にもうステップ作ればいいのですが、そこにちょうどいい大きさの箱か積み木を置いて見ればいいのですが、子どもと一緒に話しながら、そこを試してみるか、どういうふうに活動を繋げようか、そんなことを考えているうちに、今日は終わってしまいました。

ちょうど今読んでいる本に、先生は「41人目の追究者」とある。これは学校の40人学級を前提にした数ですが、私はスプリングおもちゃの発展系を探求中です。皆さんも、子どもと一緒に、1番最後についていく追究者になってみませんか?

(『「個別最適な学び」と、「協働的な学び」の一体的な充実を目指して』北大路書房より)

 

同期型から非同期型の生活や学びへ

2024/02/25

「今日話し合ったことを、確認のためにラインに挙げておきますね。確認して進めましょう」。こんなやりとりを経験している人は多いことでしょう。その場を共にするアナログな出会いや会合があって、さらにこれの議事録なり、メモなり、あるいは録画したものをネットで発信しておく。そうすることで、振り返ったり、修正しあったり、個々の記憶が外部記録に転換されて、「忘れる」ことがないうえに、いつでも思い出すことができるようになりました。

これと同じことを複数の相手と、複数のテーマで行っているのが、私たちの生活になってきました。家族のなかでもラインを使っているし、時には写真や動画が使われます。先日も旅先のオランダから友人のメッセージが届きました。もう一度見たい人は~で、も当たり前になったテレビ視聴、それぞれのペースで情報入手とコミュニケーションを、その要求や必要性が発生したタイミングで、つまりオンデマンドでやることが増えました。

今日の午前中の日曜開放でも、話し合ったことはオープンチャットなどを使って時間をかけて、共有することがしやすくなりました。このような同期したコミュニケーションから、非同期のコミュニケーションへの移行は、時間と場所を同じにしなければならなかった制約をほとんどなくしてきているように思います。

これと同じことを、令和の日本型教育、あるいは「個別最適な学びと協働的学び」のなかにみることができます。子どもたちは何を学ぶか、どういう方法で学ぶか、いつ学ぶか、そしてどこで学ぶかも個性化されていくでしょう。先生の方は、それに合わせて選択できる教材や教え方などの指導方法を個別化していくことになるでしょう。

私たちは、同期型から非同期型へ、時間も空間も超えて、しかも集い方やテーマもそれぞれに最適なものを自分で自己決定していく要素がふえてきていることを、生活の変化のなかにみることができます。

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