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園長の日記

納涼会パート2

2024/07/30

8月3日(土曜日)午前中は園の「納涼会」ですが、引き続き、卒園児を対象とした納涼会パート2が開かれます。主催は保育園と保護者有志からなる実行委員会。親子共々70人ぐらいが集まる、賑やかな同窓会になりそうです。

保育園の納涼会は午前中ですので、お間違い無いようにお願いします。

 

胸がいっぱいになる体験

2024/07/28

皆さんはご自身の人生の中で、何かの気持ちで胸がいっぱいになった体験というのはありますか?それはどんな時だったでしょうか?

きっと子どもたちにもそんな体験があるはずです。飛び上がるような喜びや、ジーンとくる嬉しさ。それは子ども同士の関係の中で起きていることもあります。子どもがそんな体験をしている側で、大人が運良くそれを感じ取ることができるかもしれません。

そう考えると、そんな経験は私の場合はやっぱり幼稚園のときの初恋の人だったり、小学校時代の親友と遊び惚けた時間のなかのほんの一コマだったり、中学校のときの部活動の地方大会でペアを組んだ彼との「あの試合」だったりします。

大人になってからはどうして生きているのかといった悩みを聞いてくれたグルとの出会いや、知らないところで応援してくれた方からの激励をふいに受けた経験などがあります。

こんなことを思い出したのは、フェイスブックで知り合った「いいね」同士のある方が新幹線のなかでの偶然の出会いについて書かれていたので「そんなことが起きるのか」と、こちらまでエキサイトさせられたかからです。

やっぱり人生を変えるのは出会いですね。

余談ですが、ということは教育の場こそ、そこを目指すべきなんではないでしょうか?

 

 

神田ベアーズで「大筆」体験

2024/07/26

大きな模造紙に、大きな筆で文字や絵を描く体験をさせていただきました。歩いて15分ほどの神田ベアーズさんから、カブトムシのお礼にと、大学生による大筆パフォーマンスに招待されたのです。年長のすいすいさん7人と出かけてきました。

パフォーマンスは3種類。床に敷いた大きな紙の上で、リズムに合わせて踊りながら大きな筆で文字を書いていきます。出来上がると写真のような文章が書かれていました。

その次は、襖位の4枚の立てたパネルに2人ずつ入れ替わりながら、やはりリズムに合わせて体を動かしながら描いていきます。次の写真。

そして最後は子供たちも参加。床に敷いた大きな模造紙の上に、文字と絵を描きました。

保育園のお友達たちとの交流もでき、また大学生との会話や書き方を教えてもらったり、褒めてもらったりしながら楽しい時間を過ごすことができました。

子どもたちがつくる納涼会

2024/07/26

8月3日土曜日に開く予定の納涼会は、子どもたちの意見が反映されたブースが色々とできますが、そのうちの「輪投げ」と「的当て」は、遊ぶ道具を子どもたち自身が作っています。

その発展していく様子のいきさつが写真入りで、3階の部屋の入り口にど張り出されています。同じ内容が、日々の保育ドキュメンテーションでスマホで見ていただいてきたものですが、同じ遊びのところだけこうしてつなげて展示してみると、遊びの発展の変化がよくわかります。

5月ごろに始まった輪投げの輪の装飾が、国旗のカラーになったり、その頃参加しなかった子が最近は加わるようになってきたり、輪投げの棒をどうやったら作れるか、地面に垂直に立てる方法をいろいろ考えたり、話し合ったり。

屋上で行う予定の的当ては、水鉄砲で的に当てるのですが、その的は「当たって倒れるもの」にしたいと言うことになったようで、紙コップだと水が当たると壊れやすいので、プラスチックのコップで作ろうと言うことになったようです。色をつけ始めると、ステンドガラスのように綺麗だと言うことに気づいたこともたちが、トカゲや怪獣やうさぎなどを作り始めています。

看板もたくさんできて、その「ことば」や飾りを子どもたちが「あいうえお表」を見ながらつくっています。

乳児室の音環境について

2024/07/24

言葉は聞こえないと獲得できないので、生活のなかの声が赤ちゃんにちゃんと届くように、室内は図書館と同じ静けさを確保しています。

24日水曜日、見学者にそんな説明をしました。見学者の方と言うのは保育者です。そのうちの1人の方はベテランの先生ですが、乳児室の音環境と言葉の獲得との関係の話など、あまり聞いたことがないとおっしゃるのです。

しかも、当園の子どもが落ち着いていることや、赤ちゃんの泣き声が穏やかだで、その方が経験されてきた保育園での赤ちゃんの鳴き方と違うとおっしゃるのです。また、うちの先生たちが普段の普通の会話のような感じでしか話していないこと、大きな声を張り上げてないことなどに驚かれていました。

他の保育園の実情はよくわからないのですが、今でも先生が大きな声を出して、子どもたちを導いているような保育がまだあるそうです。

異なる年齢の中で生まれる年長のメリット

2024/07/23

保育環境研究所ギビングツリー(藤森平司代表)が主催している研修会が年間を通じて何回か開かれているのですが、そのうち最も参加者が多い「保育環境セミナー」を3回のシリーズ(7月9月11月)にして、それぞれの回に主なテーマを設けています。初回の今回(7月22日〜24日)は「子ども同士の関わり・異年齢」編です。

今回のセミナーで再確認したのは、協同性の中で年長児童(その集団の中で相対的に年上の子ども)のメリットです。0歳から満6歳までいる保育園で、その関係性は複雑で単純化はできませんが、私たちの異年齢保育を実践している園の中で話題になり、指摘されていることを箇条書き的に取り出してみると、次のようなことがありそうです。

まず「違いについて気づき興味を持つ」ということがあります。保育園では合同保育という時間があります。朝夕の子どもが少ない時間帯は、たいてい乳児から幼児まで年齢の異なる子どもたちが一緒に生活する時間帯があるものです。また年長の子どもたち(当園ではすいすい組になります)が、お手伝い保育などで、乳児の子どもたちのお世話を手伝っている姿をみると、発達や育ちの違いというもの(という言葉で大人がイメージしているものとは違うでしょうが)に気づいていきます。これは満2歳くらいの子どもでも、自分より小さい赤ちゃんのことを赤ちゃん扱いできる、という姿をよく見かけます。

じっくりと座って話し合ったりできる「ピーステーブル」の空間もまた、自分の思いや考えをしっかり伝え、また相手の思いや考えに気づくというためにもあります。幼児でよく見かけるのですがケンカなどなっとき、その問題を解決するための話し合いというよりも、相手の違いに気づくためという経験になっていそうです。

そのような繰り返しの中で「異年齢の子どもの欲求や興味を知り、共感することができる」という経験になっていそうです。「思いやり、援助の気持ち、寛容さの育ち」と言って良さそうな姿が見られるようになります。乳児でも「いい子いい子」と頭を撫でてあげたり、泣いている子どもにティッシュをとってあげたりしているのですが、だんだんとその姿に気持ちがこもっていくとでもいうのでしょうか、そのような育ちに見えてくるのです。最初は大人がやっていることを真似しているわけですが、次第に心情が生まれ、そこから意欲的にそういう姿勢を心の育ちとして感じるようになります。環境との相互作用の中で浮き出てくる姿、とでもいうのでしょうか。私たちはそこに内面の育ちを感じています。

反対になんでも譲るということだけではなく「年齢の違う子どもに対して自分の言い分を主張する」ということもいい経験になります。このことは言い換えると「異なる要望や行動様式をお互いに調整しなければならないという基本的姿勢を学ぶ」ことになっていそうです。

次のことは言われることですが、確かに「他人に教えることで自分の能力を定着させることができる」ということもありそうです。人類はどうして教える、伝える、手伝う、分け合うということを好むのかという「利他性」の研究がありますが、その中の他人に「教える」ことは、自分の持っている知識や技能を他者のために繰り返し使うことで、そのためにどうやったら相手に伝わるのかを考えて工夫したりしていますし、その表現の変化も見られます。そこにもいわゆる学びに向かう力や学びに向かう人間性の涵養ということがあるでしょう。

私たちのグループには「お手伝い保育の自己評価表」というのがあって「小さい子どもの気持ちに気づいたか」という項目を大切にしています。さらに「小さい子のお手本となることで、自信をつけることできる」ことは、大人の安全基地や賞賛や援助を補うもの、あるいはそれに代わるものとして、子ども同士の関係を育てていくことの基盤になっていきそうです。

このような生活は「異年齢の子どもとの葛藤の中で自分の立場を守ることができること」に繋がりそうですし、またお手伝い保育の振り返りやお集まりのミーティングなどで担任が意識している中に「自分をお手本ととらえて、自分の言動を振り返ってみることについて興味を持つ」ということを意識してもらっているのですが、そういう姿も確認できます。子どもがお手伝いを好むのは、小学校以降でよく言われる当番活動と似たようなことに通じる協同性でしょう。

 

大西拓磨「僕に必要だったのは主体性だったんですよ」

2024/07/22

「日本の教育で考えると、押し付けすぎているとか、そもそもシステム的にどうなのかとか賛否あるじゃないですか、そのあたりどう思いますか?」

こんな質問に、デザイナーの大西拓磨さんが約1年前に、こんな風に答えていました。

「いやあ、ほんと賛否あるし、ぼくはどっち側でもないんですけど、一個人で言うとぼくは受験して大学にはいって、あなたは何もすることがありません、と言われるまでは、与えられたものに必死だったんですよ、受験勉強があって科目があって、社会に出て、ぼくはまだ出てないんですけど(当時)、大人になって必要だったものは主体性だったんですよ。自分で問題を発見して、自分で解決策を考える。答えがあるかどうかわかんないものに対して考え続けるというような態度が必要だった。

それでいうと、高校とか中学とか、自由研究と体育だけでいいんじゃないか(笑)。もちろん、リテラシーとして文字をよめるとか、計算できるとか、ある程度、数学の道具を知っていることは必要だったりするんですけど、個人個人が考えた問題を解くみたいな。私はこれが好きだから、これを研究しますといえるのが、そもそも大事なのかなと思って。

ここ(孫正義育英財団)にきてすごく驚いたのは、小中学生ぐらいから研究をもっているんですよ、自分の。私はこれの研究をしますといえる。最初は大学の研究室に出入りしたりするんですけど、普通そういう選択肢があることを知らないし、そうならない。学校の勉強があって、それをやっていればよい、褒められる。学校で与えられたのを勉強させておきながら、ある日突然、自由なものをつくりなさいといわれて、結果だけ見せてくださいと言われる。

今でも覚えているのが、小学校3年生のときにぐらいに木星の研究といって、木星が好きだったので本とか読んでまとめたんです。そんなの別に研究でも何でもない。どうみられるか、優等生であろうとしただけだったというか。でもそうではなくて、その背後で自分はすきでやっていたことがいっぱいあって、ルービックキューブもすきだったし、部屋の間取りが好きで、理想の間取りのマンションを描き続けていた。ずっとやっていたんですよ。そっちの方が、今からしたら新しい研究っぽい。私はこれが好きです、私はこういう新しいことをしましたと言えるのに、それが自由研究になると当時全く思わなかったし。・・(木星の研究にしたのは)なんか学問寄り出し。自分の別に好きでも何でもないけど、みんなこうしたらいいんじゃないとかで自由研究をやってしまうんです。

だから僕が子どもを育てるとしたら、これは君にあう研究分野だねってみつけてあげて、というか、当人が夢中になっているものを研究としてアプリシエイト(賞賛)してあげて、それに対して援助するというか。例えば学校の先生という立場であれば、毎週、進捗確認とかして、こういうことを知りたいんだったらこういう方法があるというノウハウを教えてあげてとか。

本人のやりたいことを、主体性を伸ばしてあげる機会が、少なすぎたな、僕の人生には。・・周りにあわせて周りの顔色を窺っていたら、結局社会のためにあまり役に立てなくて、学校で教わったものというよりは、好きでやっていたことの方が役に立っている。本来は中学ぐらいで、義務教育終わっているのに、みんな高校へいって勉強しているで、もう少しなんか選択肢があってもいいのかな。義務教育終わっているのにそんな感じで大学までいっている。・・」

・・・
夏休みになって卒園児がボランティアに来ています。自由研究の話になって、このちょっと古い動画を思い出したのでした。

違う他者のなかで自分なりに自分を高めていきたい

2024/07/21

都内にある孫正義氏がつくった宿泊型のカレッジを紹介する番組をみていたら、そこにいる大学生が次のように語っていました。ここにいる学生たちの語りを聞いていると、いい学びの環境だなあ、と思います。

「年齢層が幅広いのがいいなって、ずっと思っていて、私は大学生で21歳で、ちょうど中間ぐらいの年齢層。社会人とかを見てたらなんかキラキラした社会人とかもいて、こういう人たちはどこから自分のやりたいことを始めてるんだろうって、すごい気になるし、話もしたくなるし、いろいろ学びたくなる。ぎゃくに年下の高校生の人たちもすごいことしてたりして、ちょっと焦るんですよね。でもここのカレッジ生って、すごい違うから、すごく焦るけど同じになりたいかというと違うから、まわりをみて、どう自分らしい道を見つけられるかなって、考えさせられるのが、すごくいいなって、ここ来てからずっと思っています。・・・自分なりに自分を高めていきたいという思考が生まれてきます」

学びの個別最適性と協同性の良さがある気がします。このような環境を多くつくり出したいものです。

保育園を「カレッジ」にしたい

2024/07/20

保育園を子供にとっては「学びのミュージアム」にしようと言うキャッチフレーズを使っていましたが、先生たちにとっての、カレッジのような場にするにはどうしたらいいだろう?

仕事そものが学びであるように、保育そのものを子どもと共に何かを創り上げる協同の学び場に変えていくこと。そんなことを思いながら、朝から睡眠講座をZOOMでひらき、午後から保育のミーティングを行い、夕方から職員厚生の時間を過ごしました。

講師と受講者の間をたもつ司会者のようなことをやっている私、職員と仕事のことを打ち合わせて話し合っているときの私、そして食事をしながら仕事以外の会話を楽しんでいるときの私。いずれも同じ私でありながら、そこで思いつくこと、相手と通じ合わせようとして向けている注意の先、さらに沸き起こってくる嬉しさや面白さ。

人は意識の持ち方で時間の質が変わるのですが、それは意識して変えることは難しくて、つまり意識の持ち方は意識の方だけで変えることはできず、環境とのつながりのなかで知覚も思考も無意識も大きく変化します。ただその違いを自分でコントロールしている自我のような自分はいつも、世界なかで自分の現在地を確認しながらやっているのですが、思わず引き出されてくる自分を発見して楽しくなります。

こういう「面白さ」は自分と世界をセットで気づくような面白さなのですが、職場をこのような学びの面白さを味わえる時間にするには、どうしたらいいだろうかと真剣に考えてみたいテーマだと思うのでした。

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