サニーフラワーダンスお友達大募集
2024/12/07
2024/12/07
2024/12/04
事務所の印刷機から、セリフの書かれた台本が印刷されてきます。今週末のお楽しみ会の準備をしている先生から台本をもらって読みながら、先日やった1回目のリハーサルを思い出します。劇遊びは普段やっている遊びがそれなのですが、さらに行事にそれを位置付けたとたん、なにか別物になってしまう感覚があって、それを別物にしないようにしたいと思います。そのポイントの一つが、自分たち始まった遊びが、見てもらう遊びに変わっていくということがあります。見てもらいたい!と俄然張り切って楽しみにしている子どももいれば、当日にはまた「そうならない」場合もあります。
生活というものは、基本は「自然にそうなる」という状態がベースになります。緊張していたり、いつも頑張っているという状態では、生きていけません。基本はやりたいからやっている。何もしたくない時はしない。いずれも「そうなるようになっている」という状態です。大人だってそうでしょう。基本はそんな感じのはずです。そこに時には努力や挑戦や歓喜や落胆などが入り込んできます。「時には」の頻度は人によってかなり差がありそうですけれど。
自然とそうなるようになる状態というのは、例えば身体的にも精神的にも、だらっとして気が抜けている状態から、元気はつらつと、活発に遊び込んでいる状態まで、周期的に変化していきます。そこにはリズムがあります。そういう変化を含めて「自然にそうなる」という状態が毎日の繰り返される生活リズムです。
そこに行事という、普段できないことをやってみようという、いわばハレの活動がやってきます。これは数ヶ月ぐらいの、ちょっと長い周期でやってくる感じです。今週末の、幼児のお楽しみ会もそうですが、子どもたちといると、それにむけて、ウキウキとした気持ちが伝わってきます。それも「自然にそうなる」の一部です。面白いことが始まるという予感が、通低音のように聞こえてくる時があるのです。
大学から音楽の先生がいらして、いろんな話をしたこともあり、このリズムのような、脈を打つ生活リズムには音楽性があって、聞こえない音楽が生活を奏でているのかもしれないと思いました。生活の中にある躍動の周波数が、聞こえない音を奏でている。そういう想像も面白い。リハーサルというのは、前奏曲がところどころなっていて、何か向こうからやってくる感覚のなかで、そこに向けての今も何かがなっているのかもしれません。
自然にそうなるという状態は、くつろいだ状態から何かが自ずと動き出すものなので、行事というのは、不思議なもので「くつろいだ状態」でありながら、「ハレの気分」も同居してくるのです。一人一人の子どもの胸のうちで、どんな前奏曲がなっているのでしょう。聞こえるものなら聞いてみたいものです。もし人間が作曲の表現器官を与えられていたら、きっと奏でてくれるはずです。お楽しみ会の前奏曲。すでになり始めている音楽。
2024/12/03
園だより12月号 巻頭言(全文)より
研修レポートを読むのが楽しい。というのは、書いている人の気づきに「確かに!」と同感することがあって「そう言われてみると、確かにそうかもなあ」と新たな問いが生まれてくるからです。よくわかっていなかったことに気づくというのは、わかったつもりになっていた状態よりはいいと思いので、ちょっとだけ、不安定な状態に戻るのですが、それもまた次に進むために必要な感覚ではあります。行きつ戻りつ、先に行っている理路をつかって、ちゃんと説明できるかどうか。自分が問われてくるからでもあります。
こんなレポートでした。研修のテーマは「保育を支える思想と哲学」というもので、研修報告の要点には「ヴィゴツキーの遊び論の限界も捉えながら「あそび」のなかに学びを組み込もうとする保育の居心地の悪さのようなところについても考えていく」とあります。この居心地の悪さの例として、講義のなかで挙がっていたのが「泥団子転がし」のエピソード。傾斜に転がして遊んでいた子どもたちに「なんで速いだろう?」「なんで遅いと思う?」と投げかけ、何かに気付かせようとする保育者がいたという話だそうです。
研修を受けた先生は、これについて<子どもを発達的な視点で捉えてみよう、という癖がついている保育者にとっては、ついやってしまいがちな行動かも、とも思います。ただ、あそびの楽しさや面白さは、大人の意図とは別のところにある、というところは、ほんとうにその通りだと感じると同時に、大人はもっと、ただただ楽しい!おもしろい!という情動の面を大切にしてみる視点も必要なのかなと感じました。>と書いて、自身の小学校のときの遊びの実感を振り返って考察しています。<・・・>部分がレポートの引用です。
その小学校の時の遊びとは、蝉を捕まえてきては部屋に放して遊んだというもの。
<・・・セミ取りに夢中になっていて、虫取り網とかごを持って近所をうろうろしたり、何匹も捕まえてきて部屋に放ってみたりして遊んでいました。夏休みには夜中までセミの羽化の観察をしました。そうしてセミとたわむれて遊んでいるうち、あるとき『死んでしまったセミは、ひっくり返って足が閉じているけれど、まだギリギリ生きているセミは、ひっくり返っていても足が開いているようだ・・・』ということを発見しました。それ以降、「このセミ、まだ生きている」とか「これはもう死んじゃっているな」と観察実験を重ねて、それが確信に変わっていったとき、自分だけの秘密の発見をしてしまった気がして、嬉しくなったのを覚えています。・・・>
そしてこういう話になっていきます。
<・・・どんな遊びにも、「もっとこうしてみようよ」とか「こんどはこうやってみる?」といった実験的な要素があって、子ども自身がそれを選びながら楽しんでいるのではないかな、と感じます。子どもたちのごっこあそびを見ていても、「じゃあ、これを〇〇ってことにする?」「いいねぇ!」という会話がよく聞こえてくるし、砂場遊びでも、運動遊びでも同じような姿が思い浮かべられます。(ヴィゴツキーの遊び論の話では、なりきり遊びにスポットが当てられて論じられていましたが、そこにとどまらない遊びがたくさんあるな、とも感じました。)
こうして、遊びの中で何かに気付いたり、こうやってみようかな、と自分なりにトライしてみたりする楽しさや面白さは、自分の中から湧きおこってくるものであり、誰かに言われて気付いたり意図して組み込まれたものではなかなか体験できないのだろうと感じています。
子どもたちは、何かに気付こうとして遊んでいるわけではないけれど、こうして何か好きなあそびや熱中できるあそびを繰り返すうち、“もしかすると、こうなのではないが“とが”もっとこうしてみようかななどと、おのずと自分なりの実験や試行錯誤をしてのめりこんでいくのだと考えました。それは、友だち同士の中でも生み出されるし、自分自身の中でも生まれてくる面白さだと思います。・・・>
小学校の頃の実感と思い出は、私にもいろいろあるのですが、幼児期のそれはなかなか思い出がありません。でも実際に保育園で子どもたちの遊びのそばにいると、ここで先生が<いわんとしたいこと>には共感できます。でもうまく説明できないのですが、子どもの情動の面と、自分から動き出すものの、その二つは取り替えがきかない、かけがえのなさ、に関する実感です。
確かに、たとえば同じことを繰り返しているようにみえながら、例えば好きな絵本を何度も楽しむのはお咎めがないのに、なぜ虫探しや泥だんご転がしだと、そればっかし!という視線を浴びがちなのだろうか?そんなことをふと思い付きます。
ちょうど、さきほどお迎えに来たお母さんに抱かれて、Yくん(4歳児の男の子)が泣いていました。あれ、どうして泣いているかな?思って声をかけたら<野球をもっとやりたかった(お迎えが早い)>と悔しがっていたようです。明日もできるよ、というのは慰めにならないことは、私もよくわかります。やりたいのは今なんですからね。研修レポートはこう続きます。遊びを考察するために、足場かけ論と増幅論を題材に学んできたようです。
<足場かけ論のように次々と遊びを発展させていくことを求めていくのではなく、増幅論のようにその遊びにとどまりながら、何度も繰り返し、深めていく・・・というところにこそ、ほんとうの面白さが見出されていくように感じました。>
スキャフォールディングって、そんな単純なものじゃないと思うけどなあ。まあ、そういう理解が浸透しているのでしょうか?
保育界では「遊び込みから探究へ」ということがよく言われるようになってきました。また「プロジェクト的な活動」もよく取り上げられるようになってきました。研修レポートでは、探究との類似性へと、話が展開していきます。
<それは、子どもたちのあそびへの「探求」というところにもつながっていくのだと感じます。今年、園では「探求」というテーマを深めていますが、それについて考えていると「繰り返す」という言葉がなにかキーワードのようにも感じられます。同じことを「もう一回!もう一回!」と繰り返すこと。
その中で、子どもたちは、微妙な変化や違いを感じ取ってみたり、それをプラッシュアップしてみようとしたりしているのではないかなと思えます。発達的な意図や教育的な意図を持たせようとしてその行動を見てしまうと、大人の視点からば”ただ同じことを繰り返しているだけで変化がないよね”という見方になってしまうのかもしません。でも、子どもにとってはそれは大切な探求の時間であり、面白い!たのしい!と思えるから何度もやってみる、という姿でもあるのだと感じます。「探求」という言葉とあそびの「増幅論」は、何かつながるものがあるように思えました。>
このレポートについて、書いた先生と話してみると「同じような経験がこれかなあと思って」と、蝉の話を思い出したそうです。次々と展開してく活動の見栄えの良さに惑わされないで、その子の切実な楽しみのようなところをちゃんと支えてあげる感じ。そしてこんな結論に至っています。
<大人は、子どもの興味や関心が引き出されていくような環境を用意してみるけれど、そこに子どもたちがどう関わって、どう遊んでいくか、は子ども自身が決めることなのだと思います。少しきっかけを作ったり、ヒントを作ったり、より良い場所へ行ってみたり…という環境構成は保育者の役割だと思いますが、目の前の子どものあそびに、必要以上に何か意味や意図を持たせようとしすぎないことも大切だと感じました。子どものあそびのありのままの楽しみや面白さを、一緒に感じ取り、そっと見守ってみること、そして大人自身が楽しむことを忘れずに過ごしていきたいと思います。>
というわけで、必要以上な意味や意図は「的外れ」に過ぎないでしょうし、私はただ感じて見守るだけでも物足りないとも感じてしまいます。いや、そういうことが大事な時もありますけれども、でも私はさらに、この遊びの余白の部分に、意味を見出だしたい。ここで書かれている意味や意図とは違うのですが。その営みとしての探究は、はやりやめるわけにもいかないのでした。
そして実際にもっと先へ考察を深めている方からの学びを踏まえると、この研修で前提にしている遊び論のモデルがちょっと古いのでしょう。遊び論はもう少し進んでいるようです。でも、この辺りから、ちゃんと「ありがちな反論」を乗り越えていく必要があるだろうことはわかります。きっと学びの概念が古いのだろうと思います。3つの資質・能力からちゃんと学べば、心情・意欲をとても大切にしているし、情動と知と課題解決プロセスが遊びに含まれていると思えるからです。環境からの呼びかけに応答するという生態学的な思いつきの動向も、学びを考える時に、もっと大切にするべきなのでしょう。
2024/12/02
<巻頭言12月号より>
遊びの中に学びを読み取りすぎる居心地のわるさ
先生の研修報告から。研修のテーマは「保育を支える思想と哲学」というもので、研修報告の要点には「ヴィゴツキーの遊び論の限界も捉えながら「あそび」のなかに学びを組み込もうとする保育の居心地の悪さのようなところについても考えていく」とあります。この居心地の悪さの例として、講義のなかで挙がっていたのが「泥団子転がし」のエピソード。傾斜に転がして遊んでいた子どもたちに「なんで速いだろう?」「なんで遅いと思う?」と投げかけ、何かに気付かせようとする保育者がいたという話だそうです。
研修を受けた先生は、これについて<子どもを発達的な視点で捉えてみよう、という癖がついている保育者にとっては、ついやってしまいがちな行動かも、とも思います。ただ、あそびの楽しさや面白さは、大人の意図とは別のところにある、というところは、ほんとうにその通りだと感じると同時に、大人はもっと、ただただ楽しい!おもしろい!という情動の面を大切にしてみる視点も必要なのかなと感じました。>と書いて、自身の小学校のときの遊びの実感を振り返って考察しています。(詳しくはHP「園長の日記」をご覧ください)
<その中で、子どもたちは(繰り返し遊ぶ中に)微妙な変化や違いを感じ取ってみたり、それをプラッシュアップしてみようとしたりしているのではないかなと思えます。発達的な意図や教育的な意図を持たせようとしてその行動を見てしまうと、大人の視点からば『ただ同じことを繰り返しているだけで変化がないよね』という見方になってしまうのかもしません。でも、子どもにとってはそれは大切な探求の時間であり、面白い!たのしい!と思えるから何度もやってみる、という姿でもあるのだと感じます。>
<大人は、子どもの興味や関心が引き出されていくような環境を用意してみるけれど、そこに子どもたちがどう関わって、どう遊んでいくか、は子ども自身が決めることなのだと思います。少しきっかけを作ったり、ヒントを作ったり、より良い場所へ行ってみたり…・・という環境構成は保育者の役割だと思いますが、目の前の子どものあそびに、必要以上に何か意味や意図を持たせようとしすぎないことも大切だと感じました。子どものあそびのありのままの楽しみや面白さを、一緒に感じ取り、そっと見守ってみること、そして大人自身が楽しむことを忘れずに過ごしていきたいと思います。>
2024/12/01
昨日のお楽しみ会はいかがでしたでしょうか?
11月18日に「ちぐん」のブログに次のようにご案内しました。(パスワード必要)
https://www.chiyodaseiga.ed.jp/chicchi/
https://www.chiyodaseiga.ed.jp/gungun/
<この行事は、「発表会」という趣旨や形式ではなく、どちらかというと、子どもたちが日ごろ楽しんでいる生活や遊びの中に 保護者の方も一緒に入り込んでいただきながら、その世界をみんなでたのしもう!という時間にしたいと考えています。それなので、(ちぐに組は特に)なるべく普段通りの子どもたちの姿を引き出すため、できる限り日常の園生活に近い環境で、会をすすめたいと思っています。
…とは言いつつ、ちぐん組は、みんなで広々楽しみたいという思いもあり、今年は2階のランチルームで開催してみる予定です。(果たして、どうなるでしょうか…!保護者のみなさんも、お子さんと寄り添いながらリラックスした雰囲気で、お楽しみください^^)・・>
またにこにこ組の予告編としては、同じく11月18日の「園長の日記」で、ご紹介させてもらいました。
<子どもなりの意欲が溢れている遊びだから心も躍動し楽しいのだと思います。そういう意味でも、お楽しみ会なども、これからどうなっていくかわかりませんが、それぞれの子どもたちがいま最も楽しんでいる「お話し」を楽しみたいと思っています。>
さて、生活発表会ではなく、お楽しみ会。実際のところはどうだったでしょうか。普段の日常の園生活で心弾ませて遊んでいる楽しさを、お届けできたでしょうか。私たちが感じたは、親御さんがいることで、さらに嬉しい! 楽しい! が膨らんだと思います。また、ちぐん組では親子さんに紙芝居を読んでいただいたり、ギターで伴奏していただいたり、あるいは、にこにこ組では、おおかみに食べないで〜と、子どもと一緒に守ってくださったり、麻酔注射をしていただいたり、大いに活躍いただきました。(ご協力ありがとうございました)子どもはたちは、その遊び心が、大好きです。そしてやっぱり。子どもたちも大喜びでした。
職員の感想にこんなのがありました。
「大人が楽しんでいくうち、客席?側で見ていたいIくんも、楽しそうな笑顔が出てきていました。いろんな参加の仕方があって良いな〜と思います。Iくんは舞台のほうを向いてニコニコ見ていたので、お父さんやお母さんはその表情に気付かなかったかもしれないけれど、そうしてちょっとした表情の変化にも、子どもの楽しむ気持ちが表れていると思うので、(Iくんの例に限らず)そうした面も保育者としてクローズアップして伝えていけたら良いなと思いました。」
子どもにとっての楽しさは、ほんとにさまざま。その楽しさから引き込まれていく世界への筋道は一通りではないでしょう。親御さんの膝上が、きっと最もその世界を楽しめる特等席だったはずです。そしてその世界を安心して楽しんでいたのではないでしょうか。私からはKちゃんも、Tちゃんもニコニコと楽しそうでした。
アンケートは明日配信させてもらいます。今週末は、幼児クラスですね。どうぞお楽しみに。また来年は、すべてのクラスのものが通して見られるようにできたらと思いますが、どうなるか。ライブ配信は全クラスから見られるようにします。
明日からの生活も遊びに溢れた生活を、みなさんと一緒にたくさん作っていきましょう。
2024/11/28
子どもを未知の世界に誘いたいと思っていたら、いつの間にか私たち大人も未知の世界に引き込まれていた!ということがあります。今週初めの1歳児クラスの保育の記録に、それが書かれていました。
<柳北公園の落ち葉が、テラスにやってきて、その葉っぱ遊びがアリの観察のきっかけになって、アリとの出会いが、テラスの床下の世界につながって・・・と、毎日の遊びがどんどん色々な方向につながっていく様子が面白いです。(テラスの床下を覗いたことなど、この保育園に勤めてから初めてでした…!)子どもたちは、大人が気付かない、いろんな世界を見せてくれます^^>
この「まとめ」の前の、1連の写真報告を、ぜひご覧いただきたい。
このちょっとしたことのように思える展開の中に、担任のきめ細かな観察や優しさが垣間見えます。公園の落ち葉への関心を大切にしてあげたいという思い、公園で落ち葉を集めている子に、袋を用意してあげるかどうか。それをベランダに撒くことを許してあげるかどうか。その中に見つけたアリを追いかけ始める姿に、心の鼓動の高鳴りを聴くことができるかどうか。床の隙間を覗くために、スマホのライトを用意してあげるかどうか。
こうした、その都度のつながりは、まるで小さな木の実に細い糸を通してあげるような、小さな保育の営みなのです。それを丁寧にその糸に通し続けてあげるかどうか。担任が「ぐんぐんさんように懐中電灯を用意したいな」と呟いていたのですが、そういうことが嬉しい話です。子どもの後ろをちゃんとついていくような保育。後ろいいても子どもが注意を向けている世界へのピントは外さない。こっちだよ、と子どもが教えてくれることも多いですけどね。
2024/11/27
次回12月の「にちよう開放」は12月22日(日)です。園の歯科医の山本先生に来ていただき「歯科教室」を開いてもらうことになりました。時間は午前10時30分から11時ごろまで。ZOOM中継しますので、ご自宅からでもご視聴できます。
2024/11/26
当法人の理事長が代表をつとめる保育環境研究所ギビングツリー(GT)が主催する職域別セミナーが昨日と今日、新宿高田馬場で開かれました。このセミナーは保育園ならではの「チーム保育」をテーマにしたものです。参加者は全国各地から50人が集いました。オンラインはなしの対面のみです。ただし保育士はいません。保育士以外の職種が集うのです。こういう研修会は珍しいでしょう。なぜ、こんな研修会と申しますと・・・
ご存じのように保育園には保育士だけではなく、看護師、栄養士、調理員、用務員、事務員などいろいろな専門家がいて、それぞれが広い意味で「保育者」として保育を支えています。さらに園医さんや療育機関などの専門機関との連携、子育て支援のパートナーや地域の民生児童委員、保育ボランティアの方々など、裾野の広いネットワークが子どもの育ちを支えることになります。
医療に例えると、医師や看護師のほかに保健師、管理栄養士、理学療法士・作業療法士・言語療法士、臨床検査技師、臨床工学士、ケアマネージャー、 臨床心理士、医療事務などが支えている<チーム医療>に似ています。
そうした広い意味での<チーム保育>を展開していくために、どんなことが大切なのかを二日間にわたって学び合いました。まずは、その保育園が、組織としてその実現を目指している理念や目的、ビジョンなどの共有することが欠かせないのですが、GTの場合は、国の法令である要領や指針が基盤になります。子ども同士の関係を大切にしながら、子どもが主体的に環境に関わって、その関わり方と意味に気づき、探究を深めていくような生活をどのようにチーム保育のなかで作り出していくか? やりたいことや発達にあったことを選んで活動でき、あるいはその活動内容そのものを子どもと一緒に作り出していくような生活にしていきたい・・。
しかし、それを具体的に実現しようとすると、それぞれの園の置かれている条件によって、内容が変わってきます。そこで、要領や指針が求めている保育の姿を、具体的にこういうことになるのではないかと、そのレベルで具体化する事例を持ち寄って学び合う場がギビングツリーの特徴といっていいでしょう。具体的な実践事例から、大切な「実践理念」を導き出し、その具体化を図るというアプローチといっていいかもしれません。
そこで、まず大切なのは各園の職員が大切にしている子ども観や保育観を理解し合うことです。その中で、いわば目指していることの接点を増やしていく。それぞれ役割を明確にしながら、相互に理解して支え合うという関係づくりを目指すことになります。ここに一つの組織論が展開されるのですが、それは実践理念と離れるわけにはいきません。セミナーでは、調理や食育、保健の立場、ICTの活用、子育て支援、そして用務の立場から、それぞれ事例に基づく提案を各1時間ずつ報告してもらいました。
事例は実に多岐に渡り、それぞれの立場から見えている景色が違っているように感じるのですが、大切にしたい部分を丁寧に重ね合わせていくと、陥りやすい分岐点が見えてきたりします。同じような保育に見えても大事なことが違っていたり、一見別の方法に見えても、そこに至る経緯や置かれている条件や優先順位が異なるだけで、目指しているものがおなじであったりします。子どもの姿から考えるようにするとか、子どもから見たら大人はみんな先生ではないか、など、なるほどと思える実践的な視点をたくさん共有することができました。
2024/11/25
保護者の方々が毎日みてくださっている「保育ドキュメンテーション」ですが、それを表舞台だとすると、その裏舞台に「今日の気づき・振り返り」という記述欄があって、その二つをみると、<保育劇>の両舞台が見えてきます。
たとえば、ちっち組の表舞台には「今日は天気が良く散歩日和でした。みんなの好きな和泉公園で落ち葉にたくさん触れて遊んだちっちさんです。いろんな色や形の落ち葉がありましたが、大きな葉っぱはみんな一度は手に取っていて魅力的なんだなぁと感じた担任です。」と書いてありましたよね。
その裏舞台には「気分等からバギーに乗りたくない、一人乗りがいい、抱っこがいいと泣いて訴える姿があるが、バギーの中で楽しいことを見つけると笑いが起こったり喃語を発したりと子どもたちの中で共通の遊びが始まる様子がある。子どもたちにとって楽しめる遊びや歌など取り入れながら、世界観を見守っていきたい。
和泉公園では地面が落ち葉でいっぱいになっており自然物に興味が惹かれる姿があった。ちぎる、握りしめる、降らせる、顔を隠すなど様々な使い方を見つけて楽しむ姿があった。引き続き自然に親しみを持って過ごせるようにしていきたい。」と書いてあるのです。
表舞台に登場する「大きな葉っぱ」が、いかに子どもにとって魅力的なものなのか、感心し、その様子をお伝えしているのですが、子どもによって葉っぱがさまざまな使い方を呼び起こす素材として、親しめるようにしてあげたいと願っている先生の心情が伝わってきます。とくに表舞台には描きにくいバギーの中での「共通の遊びが始まる様子」について、その世界観を見守っていきたい、という先生のまなざしからは、子どもたちの持つ何か良い兆しというか、何かの芽生えを感じ取っているように思えます。
もうひとつ。2歳児クラスでは「公園では、枝や、枯葉を集めて、バーベキューをごっこを楽しんだり、枝を組み合わせてなにを作ってるのかなー?と覗いてみると、ツリー作ってるのー!と子どもたちからの言葉が!」とありました。それについて、振り返りの方には「紅葉した葉っぱや、木の実、枝を使ってお友達と一緒に協同して遊ぶ姿が見られた。あれもってくるねー、私はこれといったような、役割的な所もあった。保育者にも枝もってきてーとリクエストしたりと、ごっこ遊びのリアリティが以前より高くなった遊びになってきている。一緒の物を作ろうといった、目的が一緒で遊ぶ姿があったことがよかった。」と分析しています。
先週から楽しみしていた4歳児のクッキー作りについては、「クッキングには全員が楽しんで取り組めており、五感を使って色々は発見や気づきがあった様子。エプロンを着る・脱ぐ・畳む・片づけるという所も、時間をゆっくりと確保することで自分でしっかりと行っており、成長を感じた。 Rちゃんは最近、Yちゃんとの仲が深まっており、年下の子に対しての気遣いや思いやりがとても素敵。それぞれの良い所を伸ばしていける関わりや活動を引き続き組んでいきたい」と振り返っています。
最後に年長さんが見つけたザリガニについて。「御徒町公園の池でザリガニを見つけ、最初は「飼いたい!」と興奮していましたが、特定外来生物の法律の話をできるだけわかりやすく伝え、持ち帰れないことを何とか理解してもらった。毒のある生物以外にも、このような特定外来生物もこの先増えてくることが考えられるので、併せて子ども達には伝えていきたい。」
どうでしょうか。毎回お伝えすることはできませんが、先生たちがこのように様々な願いをもち、何が子どもたちにとって望ましいかを考えながら、台本のない〈保育劇〉が展開しています。
2024/11/24
自分の意思で物事をちゃんと進めていくことを自立した姿と呼んでいいのなら、そうしていきたいという思いを伝えたい相手は、それまでの自分の経緯を理解してくれている人へ、かもしれません? しかも、その経緯をずっと支えてくれてきたと思える人だからこそ、そのことに応えたいと思うようになる気がします。
次のエピソードは、ある娘さんが結婚する時に父親に書いた手紙の内容です。こんな趣旨だったそうです。
<・・お父さん、これまで私を育ててくれてありがとう、というつもりはありません。私をこれまで見守ってくれてありがとう。・・私が結婚相手をつたえたとき、お前が決めた相手なんだから、とだけ言って信じてくれました。それでかえって本当にこの人でいいんだろうかと真剣に考えました・・云々>
見守ってもらえていると思う時、人は自分の歩みを、自分でもちゃんと振り返る、自分で自分も見返すようになる、ということかもしれませんね。つまり、見守ってもらえるという体験には、きっとその度合いの差、真剣さの度合いというものがあって、その強さが伝われば伝わるほど、自分で自分を大事にしようという気持ち生むのかもしれません。そしてそれを責任感、という言葉で語る場合もあるのでしょう。自分で決めたことだから責任をとりなさないという話ではありません。責任感というものが生まれてくる関係性というものが、先にあるのでしょう。
この話を聞いて思い出すのは、川上哲治が亡くなった時のお別れ会で、王貞治がこんな挨拶をしました。テレビでみたことを覚えています。ネットで検索すると、その全文を読むことができます。最後の文章は次のような言葉です。
<・・・巨人軍だけでなく野球界に残された大きな影響力は、これからも生き続けていきます。プロ野球界はもとより、野球ファンの間でながく語り継がれることでしょう。プロ野球界は力強く前進してまいります。どうぞ見守っていてください。 川上さんありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。ゆっくりお眠りください。 平成25年12月2日 読売巨人軍OB会長 王貞治>
これを聞いた時、野球界をもっと良くしていきたいというという王さんの決意が伝わってくるのです。そしてもう一つ、大事な人に見守られていることと、それに応えるべく向かう世界は、両者がともに大切にしたい世界を分かち合っているという関係がありそうだ、ということです。同じ方向を向いているのです。向かい合っているのではなく、二人が世界の方へ視線を送り合っているのです。
冒頭の自立した姿は、その歩む世界があって、その世界をよりよくしていく共同作業をしていくための自立に見えてきます。そこには見えないバトンが渡されていく、生きていく命の流れをそこに見出していくことも可能な気がします。そういう視点で歴史を学べると面白そうです。先人が見つけていた未来を思いをはせたり、そのつながりとしての未来を描いてみる。その営みはきっと子どもと過ごす生活に影響を与えていくことになるかもしれません。