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園長の日記

第3回 STEM保育 水と油と絵具のコラボ

2020/12/03

科学実験は色々なものがありますが、私の好みは普段の生活の中で何気なくやり過ごしていることを、改めて真正面から取り上げて、実験や観察をしてみるというやり方です。大人もびっくりするような美しさや不思議さと出あうことができます。この方法は日常的に使っている感覚を「拡大する」という方法です。私は「虫眼鏡理論」と名付けました。見る、聞く、味わう、かぐ、触るという五感の機能を拡大するのです。例えば「見る」の例なら、虫眼鏡や顕微鏡や望遠鏡で「見る」のです。そうすると、肉眼の解像度では見えなかったものがより「見える」ようになります。小さいものを大きく、遠いものを近くに見るのです。

これは視覚の例ですが、聴覚も味覚も嗅覚も触覚も「拡大する」ことができます。そうすると、それまでの世界が全くちがってくるのです。同じ世界のはずなのに、全く異なる美しい真実を見せてくれるから面白いです。

今日は「サラダドレッシング」をじっくりと観察してみました。すでに混ざっているドレッシングを見るのではなく、水と油の段階からそれぞれをじっくりと見るのです。具体的には次のようにやってみました。

ガラスの瓶に水道の水を入れます。そこにサラダ油を注ぎます。油はボコボコと入っていくと、最初は油の水玉ができますが、しばらくすると透明になって、水の上に層を作ります。それだけでも「わあ、きれい!」という感想が漏れます。

そこへ、子どもたちが大好きな絵の具に登場してもらいます。今日は青と赤を使いました。絵の具を水で薄めてスポイドでそーっと垂らします。ここからは大人も未知の世界になります。

赤い水滴は丸くなって油の層の中を落ちていくのですが、そのまま通り抜けて水の層へ落ちていくかというと、そうなりません。水と油の境目の膜のところに留まります。しかもその膜が少し凹んでいる状態になります。それをすいすいのJくんは「油が底みたいになった!」と表現しました。

青と赤の水玉は、引き合って集まってきます。すると、しばらくすると、その重さから水と油の境目の膜が遂に破れて、す〜っと色水が水の層の中に流れ込んでいくのです。色水の方が真水よりも重いので、ガラス瓶の底に溜まっていくのです。

この一連の出来事は美しく、私は「この実験はね、心が落ち着く実験なんだよ。気持ちが綺麗になっていくんだよ」と説明すると、深い沈黙と納得が起きていることがわかりました。

水と油と絵の具の比重の違いが生み出す自然の演出の中に自然の法則が見えるのですが、例によって、その意味がわかるようになるのは、もっと後でいいでしょう。今は、目の前で起きている現状の美しさに目を奪われて欲しいと思います。

 

楽しい劇遊び「いいものを観た!?」

2020/12/02

もし毎日、保護者の方が読むといい日記があるとしたら、それは園長の日記ではなくて「ぼくの日記」「わたしの日記」です。ぼくは今日、こんなことが面白かったなあ、わたしはあれが楽しかった、あそこでこんな事したんだよ、そうしたらびっくりしたけど、○○ちゃんがこうしたから嬉しかった・・・こんな子ども目線の記録を読むことができたら、それにマサる保育記録はないかもしれません。

でも、それを読むと、心痛むことが描かれているかもしれません。「ぼくがあの時泣いたのは、悔しかったからじゃないのに、○○ちゃんは、わかってくれない、それが辛かったんだ、でも自分が悪いのもわかっていたけど、でも悪いのはぼくだけじゃなくて、だって先に始めたのは・・・」みたいな恨み節が描かれるかもしれません。

しかし、そんな記述がされることは、まず「ない」と言っていいでしょう。子どもは基本的には振り返らないのです、子どもには未来を見つめることの方が忙しいからです。すると、自分を振り返ることがないのなら、子どもが日記を書くなんてことは、そもそも期待できないことかもしれません。そういえば、昔は小学校で夏休みの日記なる宿題があり、毎日、それを書くのは苦痛だったことを思い出します。

もし、子どもが日記を書くことがあるとしたら、文学的素質に長けた子どもか、それとも未来が閉ざされているアンネ状態になっている時であり、それは発達の課題として深刻です。というわけで、とりあえず、子どもが書く理想の日記なるものはあり得ないという結論にしておきましょう。

それでも大人は子どもに1日を振り返えさせることがあります。その時、子どもはそのときに印象に残っていることを口にするものなのですが、今日はそれとはちょっと異なる発言を目撃しました。わいわいのKHちゃんが、他のクラスの劇遊びを見ることができて「嬉しかった」としみじみいうのです。それを私のそばで聞いたH先生によるとそれは「楽しかった、という意味だった」と翻訳してくれました。

今日12月2日に何があったのかというと、幼児はお楽しみ会で行う劇遊びをクラスごとに通しでやってみたのです。最初がわいわい組の「大きなかぶ」、その次がすいすい組の「エルマーの冒険」そして3番目にらんらん組の「ももたろう 」です。わいわい組の彼女は、その後のお兄さん、お姉さんたちの劇に心打たれたようです。少し大げさにいうと、今日は子どもたちは、観劇会を観たのと同じ経験をしたのです。劇遊びなるものの楽しさを味わうことができたとしたら、その経験は、きっと家族の人に話したくなるはずです。

「子どもは未来である」という言い方を私はよくするのですが、それは子どもの本質が未来に咲く花にとっての種のような状態だからであり、それとは反対に大人は、咲き終わった花であり、その種子や次世代へ命のバトンを渡すことに役割が移っていくので、どうしても過去を振り返るのでしょう。場合によっては前世まで振り返る大人もいますが、子どもにそのような関心や眼差しが生まれるはすがありません。

願わくば、私たち大人は、子どもが今日心動かされたことに共感できるといいのです。お楽しみ会の見方はそこに大きなポイントがあります。大人のために出来栄えのいい劇を演じることが目的ではありません。子どもにとって「楽しかったよ」「ほら、ここが楽しいんだよ、そこを観てね」というところに注目してあげましょう。どの子も、それをやることが楽しそうでしたよ。

アドベントカレンダーと将棋

2020/12/01

12月24日までのアドベントカレンダーが今日から始まりました。玄関の赤い靴下には、毎日サンタからのメッセージが届きます。

主にわいらんすいの子どもたちが楽しみますが、にこにこ組にも、外国製のアドベントカレンダーが届きました。大きなハウスの扉を開くたびに人形が出てきます。

今日の園長による読書タイムは、『エルマーときょうりゅう』の続きです。カナリアが棲むカナリア島の王様だけが知っている秘密が何か、というところまで読みました。「ねえ、宝物って、どこにあるの?」とすいすいさんの目が輝きます。王様が罹っている「知りたがり病」が、どうもすいすいの子どもたちに移ってきました。

久しぶりに千駄ヶ谷の将棋会館に出かけて「将棋セット」を買ってきたのが昨日の夕方。早速本日12月1日から、子どもたちの生活に将棋を持ち込みました。

将棋は日本で最も長い歴史があり、世代を超えて最も利用者が多いボードゲームです。81マスの盤上を40の駒が動き、さらに取った駒を好きなところに置けるので、その手数のバリエーションは膨大で、今もなお新しい定石が生み出され続けているという、稀に見る複雑なゲームです。それなのに5歳ぐらいになると駒の動きを覚えることができるので、園児でもすぐに実践できるのが魅力です。

「やりたい!」という子が6人ぐらい集まってきたので、4人を同時に相手にやり始めてみると、みんなとても意欲的です。「これ何?」「ぎん、だよ。横と後には行けないよ」といったやりとりを、4人それぞれとやりながら、実際に指しました。将棋会館で買ったのは4セット。それが初日にフル稼働です。そのうち1つのセットは駒1つずつに矢印で動ける方向が書いてあるので、将棋初心者には覚えやすい優れモノです。

12月中には、かなりの子どもたちが将棋を指せるようになっているかもしれません。

 

現代の民話

2020/11/30

昼食を子どもたちの隣で食べていたら、鬼滅の話で盛り上がっている時がありました。登場人物の名前当てクイズだったり、どうやって鬼をやっつけるかということだったり。そばで聞いていても、何が面白いのかよくわからないのですが、なぜか鱗滝左近次だけは「さん」付けだったりして、彼らの身近な物語になっています。私が生まれたのは1960年。その頃はすでにモノクロテレビが家庭に入り始めた頃。すでに子ども向けの漫画週刊誌もありました。それ以降に生まれた人は家にテレビのない生活を想像することは難しいでしょう。ましてや明治時代や江戸時代、さらにはそれ以前の子どもが接することができる物語といったら、家の人が語ってくれる民話ぐらいしかなかったはずです。その村に言い伝えられてきた「村ばなし」(松谷みよ子)が、主流だったのでしょう。

そのモチーフは、飢饉、疾病、戦争がほとんどです。いつも腹を減らし、ひもじい思いをして暮らしていく知恵や教訓が「言い伝え」られていったのでしょう。民話を聞き集めている小野和子さんが、次のような話を紹介しています。

「ひどい飢饉に見舞われた年のことだ。旅人がある家を覗くと、みんなで蕎麦を食っていた・最後の食糧として残しておいた蕎麦の実を挽いて蕎麦を作り、それを食っていたところだという。そして旅人にもそれを振る舞った。思わぬご馳走に出食わして、旅人は喜んでそれを食うと、礼をいって歩き出した。しばらくいくと、手に鎌を持った男に出会った。つい、蕎麦をご馳走になったことを話すと、男は「食ったあと湯を飲んだか」と尋ねた。「急いでいたから水だけ飲んできた」というと、男はやおら持っていた鎌で旅人の腹を裂き、なかから蕎麦を引っ張り出して、がつがつと食ったという。蕎麦は湯には溶けるが水には溶けないのだ。」

「だから、腹の中の食べ物を誰かに食われないように、物を食った後は必ず湯を飲めよ」と諭してこの話は終わるのだと言います。

こんな話が語られていた時代の切実なテーマは飢餓の中でどうやっていきのびるか、だったのです。確かに今の時代は飢えて死ぬことはなくなったかもしれません。しかし、病気や病原体の危機は現実に進行中です。その状況を民話にすることはしませんが、小説や映画や音楽やコミックの中の「メッセージ」になって、文化現象を産んでいると捉えれば、これらが現代の民話なのかもしれません。

無症状感染者を特定できる検査方法へ早急な転換を

2020/11/29

毎週ごとに振り返ったり、月ごとに思い返したり、半年とか一年というスパンで俯瞰してみたりすると、やっぱり「コロナ時代」の真っ只中にいる「今」を切り取るための物差しは、14世紀のペストや第一次世界大戦後のスペイン風邪の例を思い出さざるを得なくなり、人類史という「なが〜い」尺度になってしまいます。その結論は、過去に学んでいる人々の知見は、政治の判断に反映されないという矛盾したものです。

原理的にさえ思考すれば、感染を広げたくないなら、病原体がどこにあるかを特定して封じ込めるか、人間の方が抵抗力を持つか、その2つしかありません。ワクチンがまだなく、集団免疫獲得政策が現実的でないこと(スウェーデンも規制を強化中)を踏まえれば、病原体の封じ込め策を徹底するしかありません。それが論理的な帰結です。

春の第一波から、いまだに誤ったままの対策に留まっている理由は「濃厚接触者でない限り、無症状の人には検査はしない」という、厚労省・感染研村の組織的体質を引きずったままだからです。国の方針はPCR検査の劇的な量的拡大を進めないので、市場原理が働かずに民間企業の検査コストも下がりません。この構造問題を改善できないまま、第3波を迎えてしまいました。今の政策では、オーバーシュートは確定的になってしまいました。

8割が無症状で感染し、人に知らない間に移している以上、2割周辺だけを検査しても補足できないのは当たり前です。世界的にみても(台湾)、日本でも(北九州市)、感染源を押さえ込んでいる成功例は、感染が発生した施設やエリアを徹底的に検査しています。ところが日本政府の現在の感染対策は、個人の予防啓発と飲食店だけなので、感染を止めることは到底できません。

第二波は完全に消火しないで、火種を残したままだったので、再発火してしまいました。検査&隔離及び本人及び事業所への補償が不十分なので、検査拒否も生まれてしまいました。とにかく原点に戻って予防検査の充実を急ぐべきなのです。このままでは、緊急事態宣言を出さざるを得なくなるでしょう。本当に困ったものです。

自由について

2020/11/28

千代田区内のある保育園の先生たちが今日の午後、研修として園の見学にきました。見学後の質疑応答の中で、私は「相手を困らせたり物を壊したりしない限り、子どもは何をしても自由です」と説明したのですが、この「自由」について次のように補足説明をしました。

◆自由とは自立と自律ができること

自分の意思で自分の考えや行動を決定することができるとき、それを「自由がある」と言います。その自由の中身は、2つの要素からなりたります。1つは「自立」です。何かに依存して決定しているのではなく、思い描いた通りに決定できないと「自由である」とは言えません。自立の反対は「依存」です。依存状態の中での自分の意思でできることは限られています。赤ちゃんにはほとんど自由があるとは言えません。

自由の2つ目の要素は「自律」です。こちらの反対は「他律」です。大人や他の人から、「ああしなさい、こうしなさい」と指示されて何かを実行しても、それは自分が決めたことではないので「他律」になります。これも「自由がある」とは言えません。自分のことは自分で律することができて初めて自由であると言えるのです。

この2つのことを踏まえて、要領や指針の「人間関係」のねらいは「支え合って生活するために自立する」ことだと書かれています。

◆心も体も思い通りになたいという自由

身体を思い通りに動かすことができることを「運動遊び」では目的にしているのですが、それも身体の自由を獲得して欲しいからです。これと同様に、自分の内面世界を自分自身で創り上げていく「精神的自由」を獲得して欲しいと願っています。実際のところ、人は他人からあれこれと指図されることを本質的に拒みます。精神的な奴隷状態を自ら望む人はまずいないでしょう。

◆自らの志を持つ自由

さらに、ここからが面白いのですが、なぜか人は自分の所属する社会や世界をもっとよくしようとします。一生の間に何が自分の価値なのかを確かめようとするのですが、それは個人では完結しないのです。他者(社会や未来になって初めて明らかになる評価も含めて)との関係の中に自らを置いてみて、人生の目的を考えようとします。何によって貢献できるだろう、自分の人生にどんな意味があったのだろうと探るのです。人はそれを社会貢献と呼んだり、人生の志と呼んだりします。

◆乳幼児期は自由を獲得するたの基礎を培う時期

誕生から死ぬまでの一生を考えると、乳幼児期の生活と遊びは、自由を獲得するために必要な基礎を培っていることになります。選択肢は無限に用意することは不可能ですが(もともと人生も限りあるいくつかの中からの選択の連続なのですが)、何をして遊ぶか決める自由、無限にはない時間の中で順番を決める自由、何をどれくらい食べたいのか、いつまでその遊びを続けるか、あるいは選択肢の中に自分のやりたいことがないことに気づくこと、こうしたいと主張すること、意見をのべること・・・そうした営みの中で自立と協同性を育んでいます。

◆自由遊びの意味

自分のことを自分で決めるとき、他者との関係から自分の意思を相手に理解してもらう説明力が必要なことに気づいたり、相手の希望や願いに気づいて自分の欲求を我慢したりする必要があることを知ります。社会性です。そう考えると「自由遊び」はとても大切なことが含まれていることがわかります。先に自由遊びへの欲求があって、その葛藤を解決するためにコミュニケーションが不可欠であり、双方が納得できる解決策を見出すことが生まれます。

この営みは現実の社会そのものです。私たち大人が日々直面している会社の仕事や、自治体や国の意思決定にどのようにコミットしながら、それぞれの自由を尊重し合うかという民主主義の営みそのものです。精神的自由を認め合いながら、法の平等や経済的な友愛など社会的な公正を作り上げること。それが政治の役割です。ですから自由という理念が人間の基盤になければならないのだと思います。

 

2020年から2021年へ

2020/11/27

園だより12月号 巻頭言より

 

ここ数年の年越しは例年とは違うものを感じます。社会の変化が激し過ぎて、一年前のことが遠い過去のことのように感じます。「これが終われば、また普通の生活が戻ってくるよ」ということを信じることができなくなってきたように感じます。後戻りしない時代の変化が起きているのを感じます。

このような大きな変化が起きると、その影響を最も受けやすいのが「子どもと女性」です。子育て家庭もそうです。私たちの保育園生活も大きく影響を被ります。コロナ禍のいろいろなデータが出始めましたが、女性の自殺率が急上昇しています。子どもの虐待やその通報も増えているようです。社会の中の声になりにくい弱者の生活が脅かされています。

そんな時に私たちは周りの人たちを信じる力が問われます。他人を信じることができるためには、自分への自尊感情、自己肯定感を持っておく必要があります。そうでないと、他人を傷づけてしまう言葉や言動になってしまうからです。他人に責任を転嫁したい衝動も強まります。もし元気がなくなりそうだったら、自己肯定感の高い人のそばにいましょう。そういう人からは、実際に肯定的な感情を呼び覚ましてくれるものだからです。今は世の中全体が苦しい社会です。こんな時は、肯定的に社会に向き合っている人たちと手をつないでいましょう。それは、そっと静かに心で行動するだけでいいのです。気づかれないほどの心構えです。

その安心感を求める感覚は、子どもの方が繊細かもしれません。構って欲しいという欲求を叶えるために、人は大胆な手段をとることがあります。自分でさえ、自覚しないまま、いわば無意識の大きなプランにつき動かされているかの如く、目的を達成するために思ってもみないような方法で叶えようとすることがあります。そんな力を秘めているのが人間なのです。その子どもの声に耳を傾けておくことと、世の中で流行っていることの本当の意味を考えておくことは、大事なことのように思えてきます。

今年の前半は、まるで別世界の中を生きてきたかのように、あっという間に過ぎ去ってしまい、夏から秋、そしてこの冬までの時間の流れの早いこと。実感として今年はまだ半年ぐらいしか経っていないような感覚に襲われます。こんな時は、私はもっぱら瞑想します。長い人生の全体を見渡してから今を見つめることができるような感覚を思い浮かべながら、しっかりと今を生きたいと思います。今年最後の一か月、お楽しみ会の上映を楽しみながら、有意義な時間を過ごしましょう。新しい年をきちんと迎える心構えを作っておくためにも。

誕生会でやってみた劇遊び

2020/11/26

「サピエンス全史」のユヴァル・ノア・ハラリは人類だけが得たものに「認知革命」があるとしているのですが、これは表象を現実として認識できることです。別の言葉でいえば生物としての現実ではなく、人間だけが創りあげた虚構です。みんなでその幻想を共有することができる力を得たことによって、人間が動物以上の存在になったことになります。表象が共有されて虚構になる。その決め手は言葉です。言葉こそ虚構の骨格であり血液です。

それは、もちろん子どももやっていて、「嘘っこの世界」に入り込んで過ごすことの方が、生き生きとしているくらいです。保育者はこの「子どもらしさ」をしっかり守るべきです。ポイントになるのは虚構を全ての人が信じていることです。国によって言葉が異なっていても翻訳や通訳によって共有できます。地球上のどこにいても、同じ夢をみることができるようになったのが人類です。

今日26日の誕生会はそのことを証明したような時間になりました。じゃがいもの4人家族のお話です。北の国からやってきた長男「じゃーむす」(園長)には、お父さんの「じゃっく」(UKくん)、お母さんの「じゃじゃりん」(IKくん)そして妹の「いもーぬ」(NUくん)がいます。その4人が八百屋さんの店頭に並び、知り合いの奥さん(T先生、O先生、K先生)に買われていくのですが、はなればなれになっていく時、「おとうさん、さよ〜なら」「じゃーむすげんきでな〜」とか「おか〜さん、さようなら」「じゃーむす、げんきでね〜」という「今生の別れ」が演じられます。子どもたちは上手に演じてくれました。

そして一旦別れたものの、じゃがいも家族は、コロッケやフライドポテトやポテトサラダや芋団子になって、幼稚園のお弁当の時間に再会します。「じゃ、じゃーむすじゃないか」「と、とーさんじゃありませんか」「そのこえは、じゃーむすね」「か、かーさんじゃありませんか」「あ、そこにいるのは、いもーぬじゃないか」「おにいちゃん、また会えたのね」と再会を喜び合います。

2階のダイニング全体が八百屋になり、幼稚園になり、そこにいた子どもたちみんなんが、その世界にいるかのように感じてもらえたとしたら、それこそ模倣遊びであり、共同遊びであり、即席で出来上がった虚構を共有して過ごしたことになります。こんなことができるのも、人間には虚構を創り上げる言葉の獲得があるからです。このお話は絵本「じゃがいもポテトくん」なのですが、その中に出てくる料理を具体的にわかっておくことで、その世界に没頭しやすくなるので、最初に「じゃーむすクイズ」をやって、お話に出てくる料理に親しんでもいました。

誕生会で、劇遊びをしたのは、いま12月の「お楽しみ会」に向けて子どもたちが「お話」を自分たちで再現する「劇遊び」を楽しんでいますが、いろいろな身近なお話を劇にできることを実感して欲しかったからです。実現させたい目的を共有して力を合わせて作り上げること。劇遊びは、それを育てるために、とてもいい遊びなのです。

 

「やりたいえん」の劇遊び

2020/11/25

一日保育園にいると「これ見て!」と10回以上は言われます。同じように私が何かを作っていると「何しているの?」「私も(僕も)やりたい!」と必ず言われます。これだけ「やりたいだらけ」「まってられない」生活なので、保育園の名前もそうした名前にしたいほどです。中川李枝子さんの名作絵本に「いやいやえん」がありますが、それに倣うなら「やりたいえん」です。

どのゾーンで過ごすか、何をして遊ぶか、どの絵本を選ぶか、何をどれくらい食べるか・・・いろいろは選択の連続ですが、その中にもさらに小さな判断が積み重なって「その子らしく」が出来上がっていきます。実は明日の誕生会は絵本『じゃがいもポテトくん』を子どもと一緒に劇遊びにしてみるつもりなのですが、4人家族のじゃがいも家族のうち、お父さん、お母さん、妹の役を子どもに頼んでみました。すると、男の子でも率先して妹の「いもーぬ」役を選ぶ子もいれば、主役の「じゃーむす」じゃないと嫌だという子もいます。

劇遊びの中で「何になってみたいか」ということから「その子らしさ」が見えてきて面白いです。お母さんの「じゃじゃりん」をお願いしようと思っていたSさんが明日お休みなので、代わりにKくんがやってくれることになりました。子どもにとって、何かになってようとすることは、その子が抱いているそのイメージが肯定的かどうかにもよるのですが、すいすいくらいになると、全体のお話のためにその役が必要なら「やってもいい」という譲歩ができます。男の子だけどお母さんを引き受けてくれたKくんは「明日だけだよ」の条件付きでやってくれます。

単なる「やりたい」から、全体のためなら「やってもいい」という意識を持てる成長です。劇遊びにも悪役がないと面白くない、と思えるかどうか。いわゆる自己中心性の脱却ということですが、これは One for all ,  All for one の精神へとつながっていくものと言っていいでしょう。役割分担のある遊びの意義は、この発達の筋道の中にあるから大切な遊びということになります。このテーマは、今年の成長展でも取り上げる予定です。

 

旧今川中校庭で遊ぶ

2020/11/24

すいすい組は今日24日(火)、旧今川中学校の校庭で遊んできました。年長さん8人だけだったので、歩いて12〜15分しか、かかりませんでした。近いです。近隣の公園、例えば佐久間公園、和泉公園などに比べると遊具もなく、広いだけで一見もの足りないように見えるのですが、実は他の公園ではできない遊びができました。それは「ボール遊び」です。一般の公園はサッカーや野球、ドッチボールなどの球技は禁止されています。また児童遊園も、乳児や小さい子どもも一緒に遊ぶので、ボール遊びはできません。

その点、今日のすいすいさんたちは、サッカーボールを思いっきり蹴ったり、走ったりして遊びました。今日はそれ以外にも、転がしドッチボール、長縄跳び、鬼ごっこ、ドンジャンケンチ、ハンカチ落としなどをして遊びました。10時前から12時まで2時間たっぷりと外遊びができました。

千代田区にお願いして、この校庭を毎月1回使わせてもらうことになりました。基本的には毎月第二火曜日の午前9時〜12時です。来月は、すいすい以外のクラスでも利用してみたいと思います。

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