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園長の日記

自分の真実を信じて生きる強さ

2020/01/03

仕事と子育ての両立という言い方があります。それができる環境を作るのが私の仕事でもあるのですが、福祉先進国と思われているスウェーデンでさえ前世紀の前半は、それが両立できない時代だったことやその時代の社会の空気が、今日みた映画でわかりました。と同時にこうした女性の生き方の延長線に今の福祉国家ができていったのかもしれません。主人公の女性は名著『児童の世紀』を現した晩年のエレン・ケイに10代で会っているそうです。

あえて映画のタイトルは伏せますが、観終わってこんなことを考えました。人は誰かを好きになり、結婚して子どもを授かるかもしれません。その好きになる相手と時代によっては、波乱に満ちた人生を送ることになります。例えば、それは予期せぬ妊娠がわかり、それは隠さなければならない祝福されない状況だったら。さらに相手の夫も信用できなくなり、自分一人で生き始めなければならなくなる。さらに産んだ子どもを遠い里親に預けざるを得なくなり・・。

辛い選択の連続なのですが、人は何かを失い、でも何かを得ます。その選択は一種の賭けなのですが、その「選択の仕方」にその人の価値観や生き方が現れるのかもしれません。しかし人生は選ぼうとして選んだわけでもなかったり、どうしようもなく選ばされることもありますし、また選ぶ猶予が与えられずに突然やってくることもありますね。人生を山道に例えるなら、分かれ道が頻繁に現れて、しかも日が暮れ始めていて早くたどり着かないといけない。時間は待ってくれないのです。

そこで問われる真価って何だろう。それは、この女性が示しているような直感的な真実です。彼女にとっての真実に誠実に生きている力強さが、胸を打ちます。その美しさを伝えてくれる映画でした。内容は辛い物語ですが、でも救われるのは、主人公が世界的に有名な児童作家となり、その後94歳まで幸せに過ごしているのです。ただ若き青春時代にこんな波乱万丈の人生があったとは、ほとんどの人が知らなかったことです。

黒柳徹子の映画評を紹介します。「私の大好きな作者の若い頃の話。こんな経験があの作品を作らせたの?「子どもの本の女王」と呼ばれた陰に、こんなことがあったの?才能って、こんな風に花開くんですね。すごい!!」黒柳徹子がこの物語が好きなのはすごく納得できます。親子でいる風景がたまらなく素敵でした。

 

 

楽しさの「深さ」について

2020/01/02

「いろいろなものには“深み”があります。保育の“楽しさ”にも深みというものがあって、その深みをみんなで追究できたら素敵です」

これは今日投函した年賀状に書いた言葉の一つです。深みのある味、深みのある言葉、深みのある芸術作品・・大抵の場合、「深い」ことは良い意味で使われます。もし「この料理は味わい深い」と言われたら料理人は嬉しいはずです。ただ「美味しい」と言われるより以上に。どんなものに、「深い」という言葉が使われているか、これまで何年もずっと考えていました。もちろん保育にとってです。そして一定の結論を得ました。それは二つの条件が必要なのです。

一つの条件は、複数の要素が絶妙なバランスを達成していることです。多面的にその良さを感じるのです。もしお茶やワインやコーヒーが好きな方がいらしたら、味わい深いと感じる時の、その味の理由を説明してみてください。複数の要素が混ざり合って、あるいは響き合って、一つだけでは出せない味わいが一つのハーモニーを醸していることでしょう。

もう一つの条件は、長い時間がかかっていることです。伝統的なものに、深い美を感じるのです。時間の洗礼を受けているのです。多くの人々から時を超えて敬意を受けていることがわかるような何かです。

私はそれに「楽しさ」を取り上げたいのです。浅い楽しさではない深い楽しさです。しかも保育の、です。保育の質が高い時、それを実現させている関係者は楽しいはずです。子ども自身も、親も家族も、私たち保育者や地域の人々が、楽しいと感じ、それが深まること、味わい深いこと、そんなことを目指したいからです。深さには限界がありません。さらに深いものがあるのです。

こんなことを、考えながら、昨日の元旦に届いた年賀状を一枚ずつ眺めて過ごす時間がありました。その絵柄と言葉の背景を想像するのが楽しくて、一人ずつに返事を書きました。私は相手によって思いつく言葉が異なるので、一枚ずつ「どんな言葉なら、どんな風に届くんだろう」と、色々と言葉を選びました。

同じ言葉でも相手によって、受け止め方が変わることが想像できるからです。長い文章になってしまう場合もあれば、スピノザの言葉を引用する場合もあったり、即席の俳句を筆で書いたりもしました。もっとも短い言葉は「今度はアキバで」でした。受け止めてらもう相手がいることだけで、嬉しいと思えることが言葉の関係性です。

いただいた年賀状で深いなあ、と感じたものは、4文字しかありませんでした。でも、彼女は美大卒のアーティストでありながら保育士なので、それだけで意図やセンスが伝わってくるのです。私にとっての「深さ」の条件をクリアしています。それが冒頭の写真の年賀状「2020」です。

門松が招く神々との交信

2020/01/01

よく晴れた元旦の朝。宇宙飛行ができる時代になっても、見えないクラウド(雲)のコンピュータが知らない間に「私の好み」を教えてくれる時代になっても、やはり多くの人々が地平線や大海原や霊山(例えば富士山)から陽が昇ってくることに重要性を感じているからでしょう、全国各地の初日の出の映像が、テレビで放送されました。何の疑問もなく、それが当たり前と思っているかもしれませんが、年の初めに太陽を拝みたくなる国民がこれだけいることには意味がありそうです。

それは紛れもなく太陽が生命の源であることを、日本人が無意識に生活律として体に染み込ませているからではないでしょうか。実は母音の「あ」と太陽は関係します。太陽が昇ってくる姿を見ると、太古のヒトは「あ〜」という感嘆の声をあげました。「あ」は畏敬の念を表す母音です。母音と感情は結びついているのですが、その話はまた別の機会にしますが、畏怖の対象でもあった太陽に神性を感じたのは神話を見れば世界共通であることがわかります。

日本ではイザナギの左の目からアマテラス(天照大御神)が、右の目からツクヨミ(月読命)が、そして鼻からスサノオ(須佐之男命)が生まれます。この三神を貴士と言います。こうした物語は、各地にありましたが時の藤原政権が編集して話を繕って都合のいいストーリーに仕立てていきます。日本神話は「古事記」や「日本書紀」に書かれている話ですから、ちょうど藤原不比等の晩年ごろ、つまり養老4年(720年)に編纂が完成しました。そこで今年は「日本書紀」編纂1300年に当たります。日本のはじまり、ここにあり。このキャッチコピーは、1月15日から東京国立博物館の平成館で開かれる特別展「出雲と大和」で使われています。

さて2020年がはじまりました。天照大御神を祀る神社は全国にありますが、伊勢神宮の内宮がその総本社です。しかし日本の神々は多種多様であり、記紀神話に出てくるもの、あるいはそれ以外の神々を正月に招き入れるために、松門を飾ります。なぜ松かというと、日本の海岸線には松がたくさんありました。この100年ぐらいで、原因がよくわからない「松枯れ」が急速に進んでしまったのですが、古くから日本には海岸にはクロマツ、内陸にはアカマツがあるのが普通でした。冬でも青く生命力のある松の木。縁起がいいもの、めでたいものを招く力を松に感じたのです。日本人は海岸や山中で、神やその恵みを待っていたのです。めでたいものに来て欲しい、それをもたらす神を呼び寄せる「依代(よりしろ)」が門松です。

松は、梅や竹と並んで、日本画や襖絵や舞台背景、緞帳にも描かれ、庭園や能舞台にも必須です。しめ飾りは、正月に神様が留まっていただく聖なる場所の表示です。それには藁とシダ(ウラジロ)が使われてきました。

行事のたびに、いろいろな植物を用いている日本の文化。各自が大晦日までたどる反省的時間から一転、朝日が昇るのに合わせて、今度は良きものの到来を自然界と交信し合う松の内の時間。面白いですね。私たちの精神の脈動のあり方にも、文化が流れています。

彼岸から教えてもらう生き方

2019/12/31

スタジオジブリがアニメ映画にしたことで、それを見て大好きなった昔話があります。それが「ねずみのすもう」です。来年の干支が「子」なので、多くの方が年賀状で色々な、可愛いねずみのイラストに触れたことでしょう。ねずみのすもうに出てくるねずみは、貧乏な家のねずみで、おじいさんとおばあさんに愛されるからでしょうか、ねずみという存在が愛おしく感じられます。

日本のむかし話で、ねずみはあまり悪者になりません。農耕文化が始まっていた弥生時代には、米などの食料を貯蔵していた高床式の倉庫の柱に、ねずみ返しが設置されていました。そういう意味では害獣だったのかもしれませんが、昔話では、それほど悪いイメージはなく、子沢山からか、どちらかというと幸多き世界として描かれています。

ねずみのすもうのねずみも、食べ物が少ないので痩せていて、すもう大会でちっとも勝てません。それを見かねたおじいさんとおばあさんは、かわいそうに思って、正月用にとっておいたもち米で餅を作って食べさせるのです。豊かな長者の家のねずみもそれを羨ましがります。正直なおじいさんとおばあさんは、二人のねずみにまた餅をついて食べさせます。長者のねずみは小判を運んできます。そしておじさんとおばあさんは豊かに暮らすのです。

思いやり、助け合い、その愛情の対象がねずみにも届く話に、日本文化の優しさを感じます。この話には、意地の悪いじいさんは登場しないので、懲らしめられることもなく、ほのぼのした気分で終わるから私は好きです。これを宮崎駿がアニメにすると、ねずみの仕草の愛らしさが増します。絵本もいいのですが、動く映像の動かし方にも、対象への愛情の深さの差を感じることができ、良質なアニメの芸術性を体験できます。

ねずみが干支の最初になるのは、ご存知だと思いますが、日本の昔話になっています。あの「十二干支の起こり」です。神様の所へ動物たちが先を急ぐ話です。ねずみはこっそりと牛の背中に乗って、門が開いた途端に飛び降りて、1番に門に飛び込むのでした。そんなずる賢さを持ち合わせながらも、決して敵には回さななかった人間との暮らしの中での距離感。日本の家屋の屋根裏にねずみがいても、あまり気にしなかったのが日本人だったのではないでしょうか。

さて、除夜の鐘が聞こえてきました。百八つの煩悩の数え方は色々な説がありますが、それらのどの説にも出てくる共通する6つの煩悩があります。私の仏教の師、故中村元先生によると、それは「六根本煩悩」です。その内、とくに次の3つが大事だと思って、生活信条(ライフクレド)にしています。私は煩悩の三大悪だと勝手に定義しています。

私たちの人生を狂わす原因が自分の精神性にあるとすれば、この「貪瞋癡の三毒」でしょう。私は高校の倫理社会の先生から教わりました。ドンジンチ。大事です。昔話の倫理とも一致するのは、日本に仏教が渡来した時から、日本の風土とモラルにフィットしたのだと思います。

まずは貪(トン・貪欲)、つまり人やものごとに対する執着、貪ること。好きなことを追求するのはいいのですが、それに溺れてはいけないのです。欲張りじいさんのような人になってはいけません。

2つ目が瞋(ジン・瞋恚、怒り)、つまりすぐにイライラしたり批判せずにはいられない怒ったりする心です。最近の日本人の大人にとくに目につくようになりました。共感する力が弱い人が増えています。昔の大人は些細なことにもっと大らかでした。外国の絵本は罰し方がどぎついのですが、日本の昔話はちょっとちがいますね。

3番目は癡(チ・無明)で、これは諸行無常などの真実をわきまえない根本的無知ともいうべきものです。実は貪も瞋も無明から生まれます。お釈迦様が苦が生まれる理由(縁起)を手繰り寄せていったとき、生(老病死)への執着にたどり着くのですが、それも無明であることに通じます。悟りはそれらの煩悩が断たれた時ですが、もしそうなったら私たちは彼岸にいます。

昔話には、彼岸がよく出てきます。「ねずみ浄土」も「浦島太郎」も「鶴の恩返し」も、私たちのすぐ近くに動物が誘って連れて行ってくれます。これらの物語を絵本で読んであげている時、いつも頭の中になっている言葉が「ドンジンチ」です。昔の人は、「昔々、あるところに」と始まる素話によって、除夜の鐘を鳴らすことと同じことをやってきたのかもしれません。初詣と同じ気持ちで昔話を親子で楽しみましょう。

そろそろ大晦日もあと1時間となりました。嵐の歌う「カイト」を聞いたところで、今年最後のあいさつをさせていただきます。

本年は本当にお世話になりました。来年も良い年にしましょう。

(私も子年生まれ。来年はねずみにも幸多き年でありますように!)

むかし話に学ぶシンプルな価値観

2019/12/30

テレビやマスコミがなかった頃、それぞれの村には「ただの毎日」が続いていただけでした。昔の日本人にとって、日々の時間は、太陽の動きを拠り所として、生活を営み、ただ今日が何日だろうとあまりにきしていません。その時代の生活は「安全」で「食べ物」があれば、幸せだったのです。現代のように、テレビやSNSによる情報社会では、世界中の出来事をあっという間に共有してしまいます。先ほど今年の日本レコード大賞が、フーリンの「パプリカ」に決まりました。それを観ていて、園の子どもたちも大好きな歌だということに併せて、これだけ同じ人間が同じ歌を短期間に共有してしまうことに、改めて現代の情報社会は「すごいことかも」と思ったのでした。

せわしなく過ぎていく現代社会の時間。私のように物心ついたときにテレビがない時代を知っている者は、テレビやラジオが常に何かの情報を流している場所は苦手です。静かに瞑想しながら、自分の思いと向かい合う時間が好きです。常にイヤホンで何かを聞いている若者たちの生活スタイルを見ると、全く別の人たちのように思えてきます。情報が多すぎると、なんでも受け身の頭になってしまい、自分で考えることができなくなってしまうのではないかと心配になります。多過ぎる情報を処理しなければならない時、生きていく上で「本当に大事なこと」だけに専念できたら幸せだろうなあと思う時があります。その大事なことを思い出させてくれるのが「むかし話」です。

「むかし話」には、ある種の物語のパターンがあリます。正直者が幸せになり、欲深い者は幸せになれません。その典型が「ねずみ浄土」でしょう。おじいさんが山でおむすびを落として転がって落ちた穴には、ねずみが住んでいて、おむすびのお礼におじいさんを歓待して、歌を歌ったり、餅をついてご馳走を振舞ったりします。帰りにはねずみの宝の打ち出の小槌まで贈ります。それを知った欲深い隣のじいさんも穴に入っていきますが、にゃーお、と猫の鳴き声で驚かしたりするので、ねずみはいなくなり、真っ暗な中を土を掘って外に出ようとして、欲深い爺さんはモグラになってしまうのです。

これと似た話はたくさんあって、どれも幸せは「身の安全」と「富」。それに「結婚」して幸せに暮らしましたとさ、といった話が共通しています。昔の人たちが大切にしていた生活の中の幸せです。そうしたことを思い出しながら、年の瀬の情報に触れていると、色々なことが多すぎて疲れてしまいます。

もっとシンプルに、自分で感じ、自分で考え、自分で想像する時間を持つこと。資本主義社会である限り、消費行動を誘引する情報に満ち溢れています。それに受動的に巻き込まれるままにするのではなく、どこかで「線引きする力」がどうしても必要です。そのためも、自分一人になって、染み付いてしまっている、無意識に働いている行動や考え方に気づくことも大事です。自分にどんな傾向があるのかを自己認識することにもつながります。精神性を開発する時間を意識的に作り出しましょう。それが除夜の鐘の意義に通じるはずだからです。

年の瀬と「美」の極め方

2019/12/29

生活の中に「美」があるとすると、年の瀬はそれに拘りたいという意識が鮮明になる気がします。それはこうするもんだんだよ、という日本の「伝統的作法」を目撃することが増えます。日本ならではのカウントダウン、といってもいいのでしょうが、その時の刻み方の中に、なが〜い時間をかけて濾過したり、純化したりした技が覗きます。

それは例えば、食事がわかりやすいかもしれません。年の瀬になると、ふだんとは違って、色々な調理の仕方を再認識することが多くないでしょうか。帰省すると子どもの頃食べた味と再会できたり、味覚が幼少の記憶を蘇らせたり、思わずその味がエピソードを思い起こさせたりしますよね。美味しいものを食べたくなるとき、味のルーツを求めたがる自分がいます。

そんなことから、久しぶりに会った親戚と「せっかくだから」と今日は神田の老舗店で「なべ」を食べたのですが、そこには海の幸、山の幸がそれぞれ「どうぞ召し上がれ。どう、美味しいでしょ」と迫ってきました。長い間、多くの人がこの味を美味しいと賞賛してきたことを思うと、ちょっと大げさかもしれませんが、味を通じて、その世代を超えた江戸文化のコミュニティに参画している、といっていいのでしょう。伝統の味を体験するというのは、きっとそいういう時間軸を感じながら味わうことなのでしょう。帰省されているみなさんも、故郷の味に、懐かしさの時間を感じていらっしゃるのではないでしょうか。

もう一つ、美味しさには「産地」「仕入れ」のこだわりもあります。日本の食文化を「持続可能な社会」にするためにも、そのこだわりの価値を共有することが大事だと思います。特に海外の人にも説明できることが間違いなく必要な時代になります。どうやったらこんな味になるのか、そこは老舗ならではの秘伝の技が隠されているわけですが、その要素の主役は、やはり「ネタ」でしょう。それを美味しいと感じるように、作りあげてきた伝統の作法は、無条件に受け入れ賞味したいと思えます。

日本食は餅をついたり、魚を焼いたり、根菜を煮たり、茶碗ごと蒸したりしますが、そうした調理方法と食具を編み出して、味を極めようとする営みは、人間だけが持つ好奇心のなせる技です。大人が「美味しい」と食べるとき、その側に子どもがいること。子どもは、風景としてそれをよく覚えているものです。それが食卓を家族で囲むことの大切な意味の一つです。

今年最後の保育

2019/12/28

今年最後の保育が先ほど終わりました。これで千代田せいが保育園の今年の保育が終了です。子どもがいなくなった保育園は、そこから始まる仕事があります。今日に限らず記録をとったり、おもちゃを消毒したり、加湿器を洗ったり、明日の準備をしたり、掃除をしたり、火の元を確認して戸締りをして終わりです。でも今年最後の今日は、水槽の水換えやら、クラスの仕上げの掃除やら、整理整頓やら、正月の飾りをしたりといった仕事がありました。

掃除は、お楽しみ会が終わったあたりから、先生たちがエアコンの清掃や道具の片付けなどをしてくれていますが、今日は最後に事務長と2人で運動ゾーンのマットを全部あげて綺麗にしました。また玄関周りやベランダの落ち葉を拾い上げて、元の状態に戻しました。さて、綺麗さっぱり、これで新しい年を心置きなく迎えられます。

 

納会と挨拶回り

2019/12/27

(新しいパンフレット)

 

世間一般は今日が仕事納め。役所が今日だから、それにならう会社も多いのかもしれません。保育園は働く家族のためにあるので、仕事から帰って来る方々をお待ちしてから私たちの仕事も終えることができるのですが、もちろん明日も仕事がある方もいらっしゃいますし、実は年末年始こそ、忙しくなる仕事が結構あります。当園は年末年始の保育はありませんが、それを切実に必要とされている方もいます。

今日は、色々な方と年末の挨拶をしましたが、当園の警備会社の担当の方は、「年末年始が本番ですよ」と言います。イベントの警備がこれから始まるのだそうです。またマスコミ関係の方とお話しすると、はやり年末年始の休みはないに等しいほどの忙しさ。仕事の分野や当番にもよりますが、なかなか休めないそうです。

神田ふれあい橋を渡っていると、会社の納会でしょう、食料をたくさん抱えたスーツ姿の一群と出会いました。私の前勤めていた会社では、社長が各局を回って来ていましたが、大抵午後3時か4時には仕事は終えて、会食が始まります。それが終わると外へ出て宴会、というのが多かったパターンでしたが、最近の会社のことはわかりません。色々と変わっていることでしょう。

何より、子どものいる家庭にとっては、会社の都合が優先されると家庭が回りませんから、子育てに優しい会社の習慣に変えてもらいたいものです。酒の席を利用した懇親という昭和の発想では、平成生まれ感性にマッチしないこともありそうです。何をどのように共有するか。組織のワンチームの作り方とも関係しそうな仕事の納め方です。

こうして毎日日記を書いていると、オフラインの世界では「良いお年を」と挨拶させてもらいましたが、ネットの世界では大晦日まで年末が続きます。

職員室だより(臨時号)を配布

2019/12/26

昨日あたりから年末の挨拶が始まっています。里帰りの方、実家へ帰る方、旅行へ行く方、いろいろな年末年始が始まっています。園だより1月号は年明けに配布しますので、本日、職員室だより12月号(1月の献立表付き)を配布しました。(ホームページにもアップしました)

年末年始の感染症予防について保健所で研修がありました。これまでお伝えしてきたことに加えて「年末年始に気をつけてほしいこと」として、海外旅行などによる感染に注意してほしいという話がありました。海外には日本ではかからない病原体もあります。体調には十分ご注意ください。そして海外旅行に行かれた方は、担任まで一声かけてくださるようにお願いします。

職員室だより 12月臨時号

豊かな日本を感じたクリスマスデー

2019/12/25

今日25日の「クリスマスデー」は、子どもたちの「幸せ」を実感できる1日でした。2019年という現代の豊かな日本の子どもたちが、いかに恵まれているか。それを感じました。今日の昼食の時、世界各地を歩いている経験豊かな坪井先生とそんな話になったのでした。それはまた最後にお伝えするとして、今日がどんなに「豊か」な日だったかをお話ししたいと思います。

◆バス遠足で木場公園へ(にこ・わい・らん)

11月6日(水)以来、久しぶりにきた木場公園です。景色はすっかり冬。2歳にこにこ組から4歳らんらん組みまで、冒険広場で遊びました。体をいっぱい動かすので、体はポカポカ。どの遊具もよく知っているので、まずこれをやりたい!という目的がはっきりしていて、滑り台やネット遊具、ターザンロープなど、それぞれがやりたい遊具へ走っていきます。充溢した運動遊びの時間を過ごしました。

これまで、この子たちと春から一緒に来ているので、これまでの生活経験の積み重ねによって、それぞれの成長ぶりがとてもよくわかりました。行動が落ち着き、社会性が育っています。例えば、私はターザンロープの担当でしばらくそこにいたのですが、他の園の子どもたちとも仲良く列を作って待って遊べたり、ロープを次の人にちゃんと手渡ししようと走って来たりします。この辺りにも精神的に一回り大きくなった成長が感じられます。にこにこさん(YSくん、KHさん、NSくん)もをやりたいというので、私が支えてあげて「滑走」しました。とても満足そうでした。

また運動能力がとても伸びていました。わいわいのSくんが、これまでできなかった鉄棒を登り切ったり、縦に張られたネットを登って反対側へ回ることができたり、いろいろな遊具に私を連れて行って「ねえ、みて」と、やるところを見てもらいたいことがいっぱいです。毎日の生活の小さな小さな積み重ねが、こんなにも大きな育ちに繋がるんだなということを実感しました。

◆行きのバスの中はクリスマスプレゼントの話題で持ちきり

行きのバスの中でのMCを担当したので、今日はクリスマスだから保育園にもサンタさん来てくれるかな?という話をしていたら「サンタさんきたよ」「プレゼントもらった」と、それぞれの今朝の体験を話してくれる子どもたちもいました。保育園では12月になってから、玄関のアドベントカレンダーに「あわてんぼうのサンタさん」のお手紙が届き、いろいろなメッセージを楽しんできましたが、今日はその大円団ともいえるスペシャルバージョンが展開されました。というのは、バスの中にもなぜがサンタさんからのお手紙が届き「11時20分から保育園で魔法をかけてクリスマスパーティをやるから、それまでに戻っておいで」というのです。そこで帰りは少し早く遊びを切り上げたのですが、たっぷり遊んだ後は、子どもたちの心は、魔法のパーティに向かっていました。トイレをすませるのも「急がなくっちゃ」と早い早い!行動は気持ち次第なんだなあ、微笑ましい姿を目撃できました。

◆帰りのバスでは歌を歌いながら

バス遠足で定着しているパターンの一つが、帰りのバスの中で、子どもたちは一緒に歌を歌うのが好きです。いつも子どもたちからリクエストで決まることが多いのですが、今日は「ありのままで」と「パプリカ」を歌いました。子どもたちはディズニーの映画を家庭で観ているようですね。アナ雪2のリクエストも出ていました。あまりにみんなが「ありのままで」を聞き入っていたので、私はこの曲は「千代田せいが保育園のテーマソングです」と言いました。それは「ありのままの〜という意味は、自分らしくということです。自分らしく生きることが素晴らしいことだと、この歌は言っていますよね」と。

◆クリスマスパーティ(昼食)

小さな保育園は全体がすっかりクリスマスの魔法にかかっていました。先生たちも知らない間に、2階のダイニングには、綺麗に飾られてました。子どもたちは園に戻ってくると「わあ〜」と感嘆の声が漏れます。THくんは私の手を引いて「ほら、見て」と風船や「メリークリスマス」と書かれた装飾文字やらを見つけては教えてくれます。

どうやってこうなったんだろう。らんらんの中の数人がその謎を知りたくて、「小林先生がやったの」と確かめたがります。でもそうではありません。サンタさんの魔法がキラキラした空間を作ったのです。そんな不思議な部屋に変わったダイニングに集まって、いよいよクリスマスパーティの始まりです。

さて今日のメニューは豪華です。なんといってもクリスマスパーティですからね。

それにしても古川先生と増田先生には、感謝です。よくも二人でこんなにできるものです。高度な調理技術とスピディーさがないとできません。

 

◆お昼寝をしない子たちは絵本を読んで

寝ないで起きている子たちと一緒にいました。これは前の園でもそうだったのですが、私によってくる子たちはある特徴があります。甘えです。これはともて重要な欲求ですから、十分に満たしてあげることが大事です。絵本を読んだりしながら過ごしたのですが、口唇期の特徴を色濃く持っている子どもたちですから「おしりたんてい」が大好きな子もいれば、知識欲が旺盛な子もいて、分厚い図鑑を5冊も持って来て、順番に「読んで」ときた時には笑えました。最後は「おおかみと七ひきのこやぎ」を丁寧に読んであげました。子どもが物語の世界に真剣に入り込んでいるとき、ドキドキ感や安堵感などが伝わってきて、あの感覚は、子どもたちと世界を共有している!という手応えを感じますよね。絵本を読んであげるときの醍醐味だなと、いつも思います。

◆ついにやってきたサンタクロース

おやつの時間にもう一度、ダイニングに集まりました。おやつはムースです。そして今日のメインイベントが始まりました。

ついにサンタさんの登場です。会場が暗くなり、小さなクリスマスツリーが点滅し始めると、室内階段方から鈴の音が聞こえてきます。先頭には魔法で人間になったトナカイ、続いて妖精、そして白いひげを生やしたサンタクロースが、大きな袋を抱えてやってきたのです。

手紙を送ってくれていた本物のサンタさんが来たことに、子どもたちは惹きつけられています。せっかくだから「サンタさんに聞いてみたいことある人?」ということになり、どうやって夜にお家に入るのか? そりはどこにあるのか? 子どもらしい質問が出て、それにサンタさんが先生への「ひそひそ話」経由で回答が返ってきます。答えは明快でした。寝ているときに魔法の力で。そりは園の前にとまっているけど魔法でみえないようにしている。・・・魔法の力は偉大ですね(笑)。

サンタさんからのプレゼントは、クラスごとの袋に入っていました。みんなんが欲しかった絵本やおもちゃがいっぱいです。もちろん、子どもたちは大喜びです。おやつを食べ終わる頃、子どもたちのなから自然発生的に「あわてんぼうのサンタクロース」の合唱が起きました。このように歌い始める子どもたちの心の動きに「歌うこと」の最も自然なシチュエーションを確認できました。歌とはこうして歌うものだということを。

サンタさんを真ん中にしてクラスごとに記念写真を撮りました。タッチしてお見送り。キラキラした時間がたっぷりと流れていました。

◆今日1日に詰まったいた豊かさについて

こんなにモノが豊かにあるクリスマスのあり方を、どこかでしっかりと振り返る視点を持つことが大切だろうなと感じた1日でした。サンタクロースのプレゼントの起源は、聖ニコラウスの伝承です。貧しさから娘を売そうとしていた家族を知った聖ニコラウスが、真夜中に窓から金貨を投げ入れて助けた、というあの逸話です。投げ入れた暖炉のそばに靴下があって、その中に金貨が入っていたんでしたね。サンタクロースの精神は現代に何を問いかけているのでしょう。

優しさや助け合い、社会的公正という精神を培っていくことを確認する日にしたらどうでしょうか。クリスマスには社会的格差をなくす活動をする。寄付をするのもいいかもしれません。マスコミもその特集をする。社会的公正を実現するために日本が世界に向けて発信する日。そんな現代のクリスマスのあり方であってもいいかもしれません。

世界の貧しい国を歩いてきた坪井先生は、南アメリカのボリビアで、小さな少年の夢を聞いたことがあるそうです。それは戦士になって戦争に行くことでした。現在の話です。「日本の青年は17、18歳ぐらいになったら、一度、そういう世界を見てきた方がいいんじゃないか」と坪井先生は言います。

◆キラキラ光る星を見ながら

子どもたちは大きくなったら、他人の喜びを喜び、他人の悲しみを悲しめる人になってほしいと願います。それを保育目標に「思いやり」と表現しました。自分らしく、意欲的で、思いやりのある子ども。「ありのままに、やりたいことができ、他人に優しい人になろう」そう言い換えてもいいです。サンタクロースの精神とも一致しますから。

 

 

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