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園長の日記

サンタという物語

2019/12/24

クリスマスの本来の意義から遠く離れて、日本のクリスマスは独自の文化的な道を歩んできました。キリスト教徒にとっての今夜は静かに祈る時間です。子どもへの文化的継承をその仕事にしている幼児教育関係者の多くは、このクリスマスをサンタクロースと結びつけて迎えることに、ほとんど違和感すら持たずに、それが当たり前のことのように習慣づけられているように思えます。この子たちが、幾つになるまでサンタクロースという存在を信じるのでしょうか。この時期になると毎年そう思います。そして子どもたちは、サンタクロースがもって来てくれるプレゼントを本当に楽しみにしています。

今日は「あわてんぼうのサンタクロース」からのお手紙も最後でした。それによると、明日のクリスマス会に来ると書いてありました。そこでエントランスの金魚がいるあたりに、クリスマスツリーに見立てた手形ページェントを飾りました。みんなで成長をお祝いしたい、みんなでサンタをお迎えしよう。そんな意味を込めた装飾です。

私たちはこの時期に、毎年新しいおもちゃを加えるのですが、それはサンタクロースがもって来てくれます。またご家庭へもって帰って家族で遊んでもらいたいプレゼントもあります。今年はお楽しみ会で「神田囃子」に触れたので、獅子舞をモチーフにした制作キットです。親子遊びのひと時に使ってみてください。

 

小学生2人が保育園体験に

2019/12/23

「はい、一列に並んで。順番にやるから」。小学2年生のRくんが、わいわい、らんらんの子どもたちに上手に遊びを教えてくれています。柔らかい素材の組み立てパズルで、家でもよくやっているそうです。園にはないおもちゃで、いろいろな形を作れるので、どうやったらそれができるか、教えてもらうために人だかりができる人気ぶり。そこで冒頭のような促しをしてくれていました。

担任も「彼、すごいですよ、とても落ち着いて子どもたちに対応しています。もう、毎日来てほしいですよ」と褒めていました。本人の感想を少し紹介します。

「ぼくがいちばんたのしかったことは、ぼくがもってきたワミーで、みんなが作ったのをつなげて、け虫ごっこしたことです。ほかにもなわとびをつくりました。次くるときは じかんがあるときにきたいです」

「これも、読んで」。小学3年生のNちゃんは、ちっち、ぐんぐんの子どもたちに絵本を読んであげています。「ママだっこ」「あぶくたった」「おつきさまこんばんは」「かおかお どんなかお」など、次から次へと「これも読んで」と、子どもたちのリクエストが尽きません。それに応えるNちゃんは、もうすっかり園児と仲良しです。

「はじめはかんたんかと思っていたけれど、いろんな本を読んだりしていた内に、だんだんたいへんになって来ました。こんど来るときはわらすをたんとうしたいです」

2人は、園児のお姉さんとお兄さんです。とてもしっかりした小学生で、送り迎えの時に保育園のことは知っているので、入りやすかったかもしれません。

この「保育園体験」ですが、園児に限らないで広く受け入れます。近隣の小学校へもポスターを送ることにします。

 

あわてんぼうのサンタクロースからのお手紙

2019/12/23

今日のお手紙 12月23日(月)

「トナカイって何?」 「サンタが乗ってくるときの」

保育室のいろんなところに、7人の小人たちと トナカイがいました。

 

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以下では、これまでのお手紙とその内容をお伝えしています。

 

12月20日(金)

 

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12月19日(木)

クリスマスまであと6日

サンタさんは保育所保育指針を知っているみたいです。

保育所保育指針や幼稚園教育要領には「健康」について

「自ら健康で安全な生活を作り出す力を育てる」と書いてあります。

あくまでも自分で作り出せるように育てるので、自分で考える力のある子どもには、それを伝えているんですね。さすがサンタさん!

 

12月18日(水)

サンタさんはみんなの健康も気にかけてくれているんですね。

12月17日(火)

新しい絵本はどこにある?

12月16日(月)

クラスのブログにもあるように、いつの間にか、保育園に小人がこんなにいっぱい・・・!子どもたちには、謎めいていて、「!」「?」が飛び交っていました。

12月13日(金)

「サンタさんも来ない日があるんだね」と話していた13日ですが、その日のお手紙は16日(月)のに入っていました。「小人さんで忙しかったんじゃない?」と言っておきました(微笑)

キラキラ星。

16日、園舎北側、神田川のベランダをイルミネーションで飾りました。キラキラ星もあるよ。

12月12日(木)

12月11日(水〕

 

12月10日(火)

12月9日(月)

 

12月6日(金)

12月5日(木)

12月4日(水)

12月3日(火)

12月2日(月)

保育者になるという意味

2019/12/22

先日、園のある先生と「保育者は何を目指すべきか?」「保育者の役割は?」という話になりました。そのとき私の頭に浮かんだ答えは、3つありました。ひつは子ども、保護者、保育者、家庭と園の環境の4つを俯瞰的に眺めたときの役割と専門性、もう一つは子ども一人ひとりが異なる発達の理解と必要な援助の内容を想定できる力、環境の再構成もここに入ります。そして3つ目が、ほかでもない「その子ども」との確かな心の通い合いです。これが保育者になる意味です。

この3つ目の心の通わせ方は、前後の時間を気にしないで没入するような一定の時間が必要で、濃密に共に過ごす中でしか共有できない「喜びのエール」が起きるような「生きた時間」です。その質感は、一人ひとりの子どもとの間にある確かな手触りであったり、ゲラゲラと屈託のない笑い声が伴ったりします。

1つ目や2つ目はまず頭で理解することから入っていって、子どもに出会う筋道なのですが、3つ目の子どもとの過ごし方は、集団を相手にしたり、「次はこれをやるからそれまでにこれを」といった段取りが頭を占めている時には、まずできない接し方になります。

直線的な時間の流れの中での「今」ではなく、その前後関係を無視できる状況が保証された中での「子どもの時間」です。そんな時間は子どもの根源的な何かが噴き出してくるので、保育者はある意味で覚悟が必要です。汚されたり蹴られたり水をかけられたり酷い言葉が出てきたりしながらも、それがルールや決まりなどの次元を超えて、心底「笑う」「楽しい」「嬉しい」という中に深くのめり込んでいくような「子どもの時間」です。

思い起こせは、本当の意味で心を通わせているな、と思える瞬間が、ちょっとだけ色々あった12月のお楽しみ会後の、この2週間でした。それは束の間の一瞬で終わってしまうことが多く、また直線的な段取りの時間に掬い取られてしまうのですが、それでも「さっき、そこが楽しかったよね」という確認と「またね」という同意だけはとって、お終いにしていくような瞬間です。

例えば、運動遊びで「波がやってきました」と大声で教えてくれるHくん。私の胸に馬乗りになってから「(転覆は)まだだよ!早く出発して」と、船が転覆する瞬間までのドキドキ感をできるだけ味わいたい一心のNくん。顔は見えないけど、私のお腹の上を思い切り足で踏みつけながら、堪えているのに我慢できずに笑い声が漏れているKくん。あるいはサンタクロースが持ってきてくれた五味太郎の絵本を読んでいて、家の窓から見える姿から「ネズミかな?」と思ってページを開くと、違っていたという展開が可笑しくて、なんども戻っては繰り返すように求めてくるHくん。またこんな受け取るメッセージを感じることもあります。「美味しかったよ。ありがとう」の気持ちを確認したくて、それを聞くことが嬉しいから、お菓子を先生食べてみて「美味しかった?」と何度も確認したい気持ちを見せてくれるMちゃん。これらのどの子たちに、共有した思いがあります。

「もっと深く付き合ってよ。まだまだ足りないよ」

これにどこまで、私たちが応答できているか。その深さが問われていると思えてならないのです。時間を気にしないで、周りの目を気にしないで、もっと自由に遊びたい! その満足する心の底は、心の海のずっと深いところにあるのに、浅いところからすぐに浮かび上がらざる得ないような潜りにも似た、表面的な遊びと対応。次のことが待っていることへ急がされる時間。

3番目の遊びを、心の通わせ方を、再認識して保証すること。これは極めて大事です。しかし、そのために必要な職員配置になっていない制度の限界もあります。私の仕事はこれを突破しないといけないことです。なぜなら、この「養護の働き」が満たされて初めて、子ども自身が動き出すことができるからです。ちゃんと受け止めれば、手を離しさえすれば(ハンドオフ)子どもから離れてやり出すに決まっているのです。海の底にちゃんと足がついたら、子どもは底を蹴って浮かぶのです。子どもを信じるというのは、この心の海には底があることを信じることです。これが見守る(ハンドオフ)という意味でもあります。

 

Mam’s Salon きのうのつづき

2019/12/22

「ありがとうごっこを実践していきたいと思います」

20日のマムズサロンの参加者の中には、こんな感想を残されたら方もいます。「ありがとうごっこ」というのは、寝る前に子どもと語り合うのです。こんな感じです。

「ママね、◯◯ちゃんがスリッパ揃えてくれて嬉しかったよ、ありがとう」

「もっとあるよ、ありがとう、は。◯◯ちゃんがカーテン閉めてくれたでしょ、ありがとう」

こんな風に、ちょっとしたことを見つけて「ありがとう」っていうのを、言い合うのです。子どもは「ごっこ」の世界が大好きですから、きっとスーッと入ってくると思います。子どもは、子どもらしい発想で、そうきたか!というような、思わぬ発想で「〜ありがとう」と楽しみ始めるでしょう。

ありがとうと言われると、人は「心がほっこりします」(永持先生)から、「ギュウして」のハグもそうですが、安心と満足を得る方法としては、この遊びの方が毎日やっても、飽きないかもしれませんね。

子どものぐっすり睡眠に役立つノウハウがいっぱいのマムズサロン。次回は1月10日です。

Mam’s Salon No.2

2019/12/21

「睡眠の大事さがよくわかりました」「朝がゆっくりなので、スタートをもう少し早めにしようと思う」「ベッドでの絵本の話、まさに!と思った」ーー。

参加された方の感想です。2回目となる「赤ちゃん夜ぐっすりのためのマムズサロン」が昨日20日に開かれました。参加者は5名。古民家の海老原商店の2階の和室は、畳なので赤ちゃんと一緒に落ち着いて話を聞くことができます。

内容は前回と同じですが、私は2回目になるので1回目よりも、より深く理解することができました。私にとって今回の「気づき」は、夜よく寝るために必要なことは「子どものが満足して安心していること」の重要性でした。前回も聞いているはずなのに、なぜか今回は「ここ」が響きました。

特に「男の子は女の子よりも、ホルモンレベルで甘えん坊なんです」という話。女性である母親から見ると、男の子の甘えん坊ぶりは、可愛いと思うと同時に、「ちょっと恥ずかしいな」の気持ちが入ると思います。さらには「大丈夫かな、こんなに甘えん坊で」もあるでしょう。でも、今回の永持先生の話で「なるほど!」と思ったのは、愛情ホルモンと呼ばれるオキシトシン(第2回のコーヒータイムでも話題になった、アレです)が、ハグによってでるのですが、同じ程度になるのに、ハグの度合いが、男の子は女の子の倍も必要だというのです。

私にもよく「ギュウして」という子が何人もいますが、確かに男の子なんです。その場面をお迎えの時にお母さんにみられるのが、私も「ちょっと」とは思うのですが、でも、これはとても大切なスキンシップであり、親子ではぜひ遠慮しないでやっていただきたいのです。寝る前に子どもがスキンシップを求めるときは、心の満足、安心を得ようとしているのだと思いましょう。

絵本を中々終わらせてくれない時も、絵本を読んで欲しいから「もう一冊」と言ってくるのは、言葉と行動ではそうですが、心の言葉は「ママ、僕のこと大好きだって言って」「もっと僕のことギュウして」なのかもしれません。

眠くなるのは、昼間たくさん運動したから、よく食べたらから、という運動や食欲の満足だけではなく、心の安心という満足も必要という話です。男の子の気持ちは、母親でもわかりにくい面があるもののようです。ホルモンレベルのことですから、そういうことも知っているのと知らないのでは、許容度も変わってくるのではないでしょうか?

私も、安心して寝るには、この園長の日記を書き終えること。もう一つは、何かに熱中してアート的な活動を楽しむことができた時でしょうか。実は今日は先ほどまで保育園で絵本コーナーのパネルを作っていました。私のストレス解消法です。

 

小中高校生の保育園体験はじめます

2019/12/21

 

小学生や中学生、高校生の保育園体験を始めます。保育園に興味のある方は体験してみてください。園児のお兄さんやお姉さんも大歓迎です。過ごしてみたいクラスや活動を選べますので、相談しながら体験できます。気軽にご相談ください。

小中高校生の保育所体験

 

(注意)後日、ホームページの「子どものいる家庭」のカテゴリーに新たに「保育園体験」を設ける予定です。

お祭りの起源、そして子どもの「ハレとケ」

2019/12/18

「お祭りなんだから、さあさあ、呑んで呑んで!」

(17日の科学博物館で)

今年5月の神田祭の神輿神霊入れの座で、石渡さんにお神酒を勧められたことを思い出しました、「せっかくだから奥の席に座って」と。それは有り難いお誘いでありながら、こんな時間から飲むわけもいかないので、その旨を言い訳にすると「お祭りなんだから、無礼講でいいんだから」とその方はおっしゃいます。

嬉しいやら困ったらやらで、曖昧で煮え切らない、いかにも無粋な様子だったのでしょう、そばから「園長先生はまだこれから仕事なんだから、無理にすすめちゃダメだって」と救いの手を出してくださったのが、ちよだリバーサイドプロジェクトの岡田さんでした。まだ夕方の4時過ぎだったので無礼を詫びて園に戻ったのです。

忘年会やら懇親会やらの時期になりました。会社勤めの私たちには、こちらの方が「祭り」の気分を味わう機会かもしれません。ちょっとだけ「無礼講」の要素がありますよね。ちょっと寄り道します。

社会科学の学問によると、お祭りは定住社会になってから生まれました。その社会が生み出した言葉と法の中で毎日を過ごしていると、それは本来的に不自然なものなので、徐々に生命力が枯渇していきます。日本では「気=生命力」が枯れるという意味から「ケガレ」ることとみなされます。

そこで、日常世界の外側、人的社会の外側への接点を求めて、そこから生命力を呼び込んで回復しようとします。そこに聖なるもの、大いなる異質なるもの(自然や神や被差別社会)を呼び込み、穢れを晴す「ハレ」なる祭りを企てるのです。その時は、平時のルールは破られるので無礼講というわけです。「お酒の席ですからお許しを」というのも、似たような起源でしょう。

1960年生まれの私などは、その掟を破ってもいいという感覚、お祭りのキワドサの消息を皮膚感覚で知っています。私の小6の担任の先生は「おくんち」というお祭りに連れて行ってくれたのですが、その時、先生らしからぬ、普段は見せないある行動をしました。それはここでは言えませんが、私は小学生ながら「お祭りだと、それくらいは許されるんだ」ということを学びました。

ハレとケの世界を行き来することは、とても危険なことだったので、そこには心を鎮めるための儀式を必要としました。それが神輿だったり、お囃子だったりするのです。こんな経緯を抱えているのが、文化的歴史の中で生きている私たちの「心」なのです。

さて、寄り道から戻ると、本来子どもは、自然そのものです。異質な存在です。養老孟司さんに言わせると「子どもは自然だってことを、大人は忘れている。自然はいいなりにならないものと心得たほうがいい。デコボコの山道で転んで山に文句を言う人はいないでしょ。都市の平らなアスファルトの道を歩くことと同じように、子どもの安心、安全にばかり気を使い、言うことを聞く子にしたがっている」ということになります。

私には子どもは、赤ちゃんの頃から危険を回避する力を持っていて、大人をハレに導く力さえ持っているような気がします。大人が子どもの危険回避能力を奪っているのではないでしょうか。

昨日17日は、わいわい、らんらんの子どもたちが上野の科学博物館にバス遠足に行っています。その様子は「クラスブログ」で紹介されています。私は行けなったのですが、自然の存在である子どもが博物館で何に共振するのかということに興味があります。その私なりの「目撃」は次回に持ち越しです。

私は保育園を子どもたちのための「遊びのミュージアム」にしたいと思っています。子どもたちが、科博で何に着目しているのか、どんな印象を持ったのか、知りたいところです。子どもたちにとっても「ハレ」を感じる何かがあるんじゃないかと。

 

絵本ゾーンが1階に

2019/12/16

お待たせしました!やっと絵本コーナーができました。カーペットは1階のテーマカラーである赤に合わせ、本棚は壁と同じ白にしました。早速、利用していただき嬉しいです。これから絵本を充実させていきます。もし、ご家庭で寄付してくださる絵本があったら大歓迎です。絵本が増えてきたら、貸し出しも始めます。藤森平司ライブラリーもどこかに設ける予定です。もうしばらくお待ちください。

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