MENU CLOSE
TEL

園長の日記

今年の運動会はコンテンポラリーダンス

2020/08/08

10月24日(土)の今年の「親子運動遊びの会(運動会)」ではコンテンポラリーダンスを楽しもうと計画しています。つまり、体を動かすことをアート的にやってみようというわけです。昨年は「鬼ごっこ」と「相撲」を取り入れましたが、今年は「ダンス」でやってみようと思います。昨日7日(金)に、それを先生たちに説明しました。

皆さんはご自身の体について、どんなイメージを持っていますか? 私は身体、からだという言葉からは、健康やスポーツに関するものをたくさん思い浮かべてしまいます。しかしヒトの身体は、もっと広く捉えたいと思っています。特に乳幼児にとっての運動は、心と体が同時に動くものなので、体だけを動かすことは難しいものです。学校でもダンスや踊りが取り入られていますが、それが苦手な子どもにとって、新しい跳び箱や鉄棒になってはなりません。それは楽しいものであって欲しいのです。

これまでの経緯を少し説明します。昨年8月25日(日)、屋形船に乗った翌日ですが、ダンサーの青木尚哉さんと小学校の図画工作の先生がコラボレーションしたイベントを海老原商店で開いていました。その様子は「園長の日記」に記してありますが、青木さんは「身体」を図工の素材のようにして作品を表現するということをしていました。その時は気づけなかった身体表現の面白さを、今でははっきりと説明できます。というのは、その後今年2月から3月にかけてアーティストである青木尚哉さんとその仲間のダンサーの方々に保育園に来てもらい、子どもたちと一緒に体を動かす遊びをたくさんやってもらったからです。そこではっきりとわかったのは、子どもは青木さんのアプローチが、子どもたちには大人気でした。

 

昨日の説明会では、その時の様子の一部を動画で見てもらいました。アーティストである青木さんは、正確にいうと「コンテンポラリーダンサー」の第一人者であると同時に、振付師でもあります。インタビュー記事があるので読んでいただきたいのですが、青木さんはクラシックバレエのダンサーとしての活躍後、そのダンスを成り立たせている「身体そのもの」と「舞踏」の関係を探求していきます。そこで生まれたアートが「ポイントワーク」という身体表現でした。子どもたちが「マネキン」と言っているアレです。

http://dancerssupport.com/interview/2886/

手や足には骨と関節があって、それをゆっくりと1つずつ動かしてみるというものです。4秒おきぐらいに「ワン」、「ツー」、「スリー」という英語音声のテンポに合わせて、「テン」まで、即興的に動かしていきます。変化していく身体の形を作り上げていくとき、子どもたちは「こうしたらどうかな。あ、こっちがいいかな」という「自分なりの思いつき、アイデア」が動き出します。交代して友達に自分の体を動かしてもらうと、自分の身体の動きを体験します。どんな格好をしているのかを想像しながら、自分ではやったことのない姿勢や格好が生まれ、その身体感覚を体験します。よく「身体との対話」といったことが言われます。実はこれがダンスの基本であることがとてもよくわかります。

日本の幼稚園や保育園には、スイスの作曲家ダルクローズが作り上げた「リトミック」が輸入されて盛んに行われていますが、青木さんは「本物のリトミックを子どもたちに教えるときは、丁寧に身体とリズムの関係を体験していくプロセスを大切にするんですよ」と言います。「どんなダンスをするにしても、こういうことが基本になります」と。実は昨日の運動会会議には、青木さんにも参加していただきました。ダンスにおける「美」とは何かについても語っていただいたので、それは明日のブログでお伝えします。今年の運動会は、青木さんにインストラクターとして参加していただき、親子でダンスを楽しみましょう。

美の時間

2020/08/07

1日24時間の中には、労働時間と私的時間があります。きっと誰にでもあるでしょう。人によっては働くこととそうでない時間になるかもしれませんし、他人に貢献する時間と自分のための時間に区分できるのかもしれません。この2つに時間以外に、必ず、誰にでもあるもう1つの時間として「睡眠の時間」があります。これも仕事柄、睡眠そのものについては、健康とか習慣とかの話として意識することが多いのですが、睡眠というものは、それ以外にも、夢の時間とか無意識の活動時間とか、意識が宇宙に戻っている時間とか、人生の土台を作っている時間とか、いろいろな言い方ができる時間でもあります。子どもにとっての労働とか仕事とかは遊びになるのかもしれませんが、どの時間もそんなに明確に分かれていないのが「子どもの時間」であるかもしれません。

今日の午前中は、健康に関する睡眠、つまり質の高い睡眠を考える時間がありました。永持伸子さんの講師によるオンライン「Mam’s Salon」です。4家庭5人の父母が参加してくださいました。Zoomによる開催は今年度で4回目になりますが、もっとも多い参加をいただきました。すべて地域の方です。

サロンの進行役をやりながら、「面白いなあ」と感じることがあります。それは子どもにとっての質のいい睡眠とは、もちろん、単に時間の長さではなく(例えば昼寝の時間と夜の時間を足して何時間だから大丈夫、などのようなものではなく)、生き物である私たちを包み込んでいる大いなる生態的リズムにどうしたら合わせられるか、とか、そのズレにどうやったら気付けるか、とか、あるいは入眠の前の意識として「これから寝よう」という自覚や、睡眠への安心や信頼が睡眠の深さに影響するといった、いわば「生態学的心理学」のような話になっていることです。それでも、睡眠や自己意識は「見えない」ので、形のあるアフォーダンスのような話とは思えないのですが、でも「睡眠のコツ」の話を聞いていると、まるで「良質な睡眠」という目に見えない「型」があって、それにどうやったらフィットしていけるか、そういう時間のマネジメント術のような話になっていくのです。それが面白かった。心と身体が一致するための秘訣になってもいます。

午後は、今年の運動会をどういうものにするか、私から先生たちへのプレゼンテーションをしました。その話は明日のグログで詳しく紹介するとして、千代田せいが保育園のカリキュラムは、一貫して子どもと家庭の実態から必要なことを計画していくものなのです。ちょうど東大先端研の児玉龍彦さんが先ほどテレビで「走りながら考える」と語っていましが、全く同感です。情報は研究室ではなく社会にある、指標(数値)に振り回されないといった話にも共感しました。ウイルスの特性を正確に理解することからしか、適切な方法を編み出せないことがよくわかります。

この物事への行動様式は、アートと同じです。今年の運動会はそうするつもりなのですが、その先生たちへのプレゼンのあと、海老原商店の海老原さんから、来年に延期された「東京ビエンナーレ」への協力要請を受けました。今月末に海老原商店の外観(駐車場側)が、ちょっと面白いことになります。私たちは自分自身のことも、あまりよくわかっていないのですから、わかったような気になって他人が自分とは異なる行動をしているからといって、否定するのではなく、見えていないものを、もっとよく見ようとした方がいいと思います。今日は全部、「美」について語ったつもりなのですが、その心は明日説明します。

 

8月6日と8月9日と

2020/08/06

 

私が通った中学校は長崎の浦上天主堂から1キロぐらいのところにあります。爆風で崩れたマリア像は、私にとって戦争の象徴です。今日6日はヒロシマに原爆が投下された日ですが、ナガサキは9日です。私は約10万年の人類のグレートジャーニーが辿り着いた長い長い物語の1つの結末は、ナガサキだと思っています。人類って、なんと愚かなんでしょうか。地球に住んでいる80億の人口のうち、その99%は、その途方もない愚かさを知らないままでしょう。今後はもっと知らないままになるのでしょう。

ヒロシマ・ナガサキは、人類が実際に行った一切の過去の歴史の中で、規模においても手段においても、短期間に本当に実行されてしまった最大で最悪の集団殺戮です。それを実行した国が、世界の民主主義と人権のリーダーだというのも歴史を見れば真っ赤な嘘ですが、その「事実」について、日本人はこの75年間、ぼんやりと霧がかかったような目でしか見ることができませんでした。今でもそうかもしれません。それは日本が行った戦争犯罪への罪悪感によって帳消しにされてきたからでしょう。1つ1つの事実の酷さを冷静に受け止めることがいかに困難なことか。私たち人間の認識は「物語」に沿ってその立場から眺めることしかできないのでしょうか。語り続ける困難さ以上に、どう語るかも合わせて困難な戦後75年を迎えます。

 

意図込み模倣

2020/08/06

もちろん、この半年、3ヶ月、そういった期間によって成長しているのは年長児だけではありません。ちっち・ぐんぐんの今日のクラスブログには、乳児が協力したり、手伝ったり、教えたりする姿が報告されています。お友達がやっていたこと、やってもらったことを「真似て」やり始めているのですが、考えれば考えるほど、不思議な乳児の力だと思えてきます。今日は、この乳児の模倣力について、ちょっと深く考えてみましょう。

この模倣する力は、人類の親戚であるゴリラ、チンパンジー、オランウータン、ボノボといった霊長類も持っています。親や兄弟がやっている姿を見て、真似をして自分もできるようになっていきます。ところが、真似ると言っても、人類しかしない真似の仕方があります。それは他の霊長類にはできません。どんな真似かというと私が「意図込みの模倣」と呼んでいるものです。表面的に同じ行動や仕草をまねることをよく「猿真似」と言いますが、そうではなく、何の目的でそうしているかを、ごっそりとその目的や意味もまるまる理解した上で真似をしていく模倣です。これは人間しかできません。目的や意図を理解しているので、そのための手段をアレンジできるのが人間の模倣なのです。

エプロンをつける、おしぼりをおく、汚れ物を袋にいれる。こうした行動の意味を、1歳半ぐらいから理解できます。ですから「エプロンをつけてもらう」ことも「おしぼりをもらう」ことも、何かやってもらったことは、その目的と手段をセットで真似ができます。やってもらったことをやることは簡単なのです。

こんな有名な実験があります。大人がスイッチを手で押すと電気がつきます。それを見せると、赤ちゃんは真似をして手でスイッチを押して電気をつけます。ところが大人が手に荷物を持っていて手が塞がっているときに、「頭」でスイッチを入れると、赤ちゃんは「手が使えないから頭でやったんだな」と判断して、自分は手でスイッチをつけます。ところが、手が塞がっていないのに、大人が頭でスイッチを押すと、「わざとやったんだな」と理解でき、赤ちゃんも頭でスイッチを押すのです。あるいは大人が手が塞がっていて、ものを取ろうとしていると「察する」と、代わりに赤ちゃんがものをとってあげることをします。「困っているんだな」とわかるのです。

このように、他人が「〜をしようとしている」という意図を理解したり、「〜に関心があるんだな」と注意対象に注目できたり、意図や目的をなし遂げるための方法を変えてみたり、そういうことを2歳前後にはできてしまうのです。どうしてそんなことができるようになるのか、という理由の説明は、人類の進化論からの説明や、脳内の神経ネットワークの特徴などから説明が試みられていますが、私たち保育の実践者が心得ておきたいポイントは、こうした行動の背景にある他者への信頼と共感力の育ちです。その情緒的な心の通い合いがある仲間意識という集団の育ちがあって初めて、このような意図込み模倣は成立するということです。赤の他人の間で、このような姿を見ることはありません。

 

すいすいの成長

2020/08/05

2階のダイニングで昼食をとっていたとき、ふと、年長組すいすいの成長を感じた瞬間がありました。これは言葉で説明するのは、とても難しいのですが、かと言って、それでは動画だったらそれで理解してもらえるというものでもありません。2階から階段を降りながら「すいすいさん、なんか成長したよね」と主任に告げると「う〜ん、ほんとに。変わりましたね」と、同じ変化に気づいていました。

それを感じた時はこんな時です。昼食を久しぶりに子どもたちと一緒にとろうと、空いている席に座りました。すると、大抵、複数の子どたちは「ここにきて!」と開いているテーブルのスペースへの勧誘合戦が始まります。今日もHくんとJくんから誘われたのですが、「そこだと密になりすぎるから」と言って断ると、すんなりと受け入れたのです。これまでの彼らとは、ちょっと違いました。「へー、そんなに簡単に受け入れるんだ」と意外に感じ、その時は「密にならないようにする」ことを子どもたちなりに受け入れているんだな、と理解したのです。

しかし、その時、彼らの態度に少しだけ、自信のようなものを感じたのです。「それなら、しょうがないよね。まあ、いいか」という心の動きなのですが、「もう、それくらいのことには拘らないよ」という心の余裕もあるんです。食事は、一人ひとりが「ごちそうさま」をして、自分で食器を片付けて3階へ戻っていくのですが、その振る舞いにも、頼もしさを感じます。

年長さんだから、当然といえば当然なのですが、なんと言っていいのか、物事を落ち着いて終えていく姿を、お互いに見通しを感じあっていると言った様子で見守りあっているのです。Jくんが「いちばん最後はRくんだな」みたいな事を言っています。Sさんも、茶碗に残っていたご飯粒をきれいに最後まで食べよう、という促しにすんなりと応えて、そうしています。

どれもこれも、あえて語ることのことでもない、ほんとに些細な事でしかないのですが、その些細なことが1つずつできることは、大きな成長のための、1つ1つなのだと思います。

私たちは子どもの成長を捉えるとき、個人の育ちと併せて、集団の育ちというものを捉えます。スポーツの団体競技に例えるなら、何に当たるのかわかりませんが、一種のチーム力の育ちに近いかもしれません。お互いのことを知り尽くしており、どうなっていくかの成り行きも了解しあっている仲間が増えていくと、次への見通しへ心の余裕を持って備えることができます。そんな落ち着き払ったような態度を感じました。

(写真は8月1日のお泊まり会のフィナーレより)

 

千代田区図書館からのお知らせ

2020/08/05

 

千代田区図書館からの情報です

vol.9千代田区読書振興センターからのお知らせ0805

Vol.9おはなしトレイン乳幼児版2020夏

「おはなしトレイン」は夏と冬の年 2 回発行しています。 千代田区立図書館ホームページでは、過去に発行した「おはなしトレイン」を 掲載していますので、ぜひこちらもご覧ください。

https://www.library.chiyoda.tokyo.jp/kids/bookadvise/

100の言葉

2020/08/04

「園長先生、青と紫を混ぜたら何色になるか知ってる?」と、Kちゃんが聞いてきます。「そうだなあ、きっと濃い紫になるんじゃないかな?」と答えると「ううん、違うよ、青だよ、紫と青を混ぜると青になるんだよ」と教えてくれました。これがKちゃんの実験結果の報告です。とっても真剣です。どうしても、これを「色水遊び」などと、名前をつけて、彼らが取り組んでいることにレッテルを貼ってしまってはいけません。混ぜる量で色合いが変わることに彼はすでに気づいていて、その上での発見報告です。

 

またSくんは、昨日からハマっているある曲を振り付け付きで歌って教えてくれるのですが、何の歌なのか分からなかったのですが、今日お迎えのときにお母さんに伺って謎が解けました。Sくんの頭の中でなっている曲は、私にまではリアルにそのまま届きませんが、明らかに彼はその曲が聞こえていて、それを再現することがとても楽しそうです。

 

Kくんは、色と色が混ざると色が変化することはすでに知っていても、「今度はこの色とこの色を混ぜたらどうなるだろう」という予想や期待を持ってやっている遊びであり、それは科学実験と同じ「仮説―実験―結果」のプロセスが見られます。Sくんの表現は、テレビで見たコマーシャル映像を私に伝えたくて再現しており、模倣から自分なりのアレンジを経たアーティストの表現と同じ過程を踏んでいます。

 

この二人がやっている遊びは、ほとんどの子どもがやっている遊びと同じなのですが、やっていることの本質を描き直すと、小さな科学者や小さなアーティストだと言えるから面白いと思いませんか。このように、色を再現したり、曲&振り付けを再現したりする活動は、人間しか行わない「表象」の編集なのですが、なぜか、人はこうしたことを面白がることができる資質を持って生まれてきたようです。

こんな子どもたちの様子に接していると、ここに物事を理解する時の「測定の原基」があるように思えます。例えば・・・

日本はいま何色だろう。黄?赤?青?緑?それとも・・・絵本「カラーモンスター」は、感情マネジメントの導入教材としても最適ですが、この絵本には、もう1つの色が最後に登場し、あえて感情の名前は伏せてあります。子どもたちは「○○じゃない?」といろいろな言葉を見つけてくるのですが、それが楽しい。子どもたちには、やはり「100の言葉」があるのです。

私は成熟していく社会というものは、もっと多様な色が共存ずるイメージを持っていたのですが、どうも様子が違ってきているような空気を感じます。3階のテラスに並んでいるペットボトルの色水のように、人や国はもっと多様であっていい。覇権とどう戦うか。こっちもの話も、とても難しい時代です。

コロナの気持ちになってみよう

2020/08/04

君はまた世間を騒がす、厄介者にらなってるよ。もうちょっと、静かにできないのかな?

「別に広げたいわけじゃなくて、ぼくだって、仲良くやっていきたいんだけどなあ」

じゃあ、もう少し人に移すの、やめてくれないか。陽性者が増えて、みんな困ってるんだよ。

「ぼくに、どうしろって言うんだよ。ただの粒々だよ。足もないし、手もない。空も飛べないし、自動車だって、飛行機にだって乗れやしないんだから。2〜3日ほっとかれたら、干からびてしまう、か弱き存在さ。君たちが僕にいろいろ、ちょっかい出すから、良くないんだよ」

なんだよ、そりじゃ、こっちが悪いみたいしゃないか。こんな暑いさなか、マスクなんかされられて、テレビのドラマは再放送ばかりだし、ノンフィクションは災害か大自然ものか料理番組だし、ニュースは明けても暮れても、君のことばっかり。この夏の帰省だって・・

「まぁまぁ、冷静に冷静に。そうやって、ペラペラ喋るのがよくない。ぼくのこともう、結構わかっているでしょ。僕らは細胞の中にいたいんだけど、水分がないと生きていられないから、僕らの仲間は唾液腺に溜まっているんだよ。哺乳類の中で、いや霊長類の中でも、飛び抜けて君たちは、よくしゃべる動物だし、食事をするときも分け合って、喋って食べたりするでしょ、しかもアルコールなんか発明しちゃって、ペラペラ、ガヤガヤ、大声出したり、叫んだりして騒ぐもんだから、僕たちが撒き散らされてしまうんだよ。もう少し、静かにして欲しいと言いたいのは、こっちなんだけどな」

そんなこと言ったって、言葉を獲得したり、食べ物を分けあったり、一緒に協力して子育てしたりするのが人間の人間たる所以なんだから、君にとやかく言われたくないんだがな。

「僕らだって、自分でこうなってしまったんじゃないよ。自分をコピーするときに、どうしてもちょっと差異が出てしまうんだ。それは君たちだって一緒さ。同じ地球の生命体から枝分かれしてきた兄弟だからな」

冗談じゃないよ、君と兄弟だなんて思いたくないな。

「でもしょうがない。事実はそうなんだよ。君たちも僕たちも、45億年前に同じ先祖にまでつながっているだ。まあ、君たちは僕たちの子孫だけどね」

まいったね、兄弟じゃなくて、今度は上から目線かい。でも言葉と共食は失いたいくないね。君を飛沫に紛れ込ませない方法を考えてみるよ。

「マスクもいいけど、テレパシーでも発達させたらどうだい。発話をしない意思疎通技術は、結構進んでいるはずだよ、君たちはイノベーションが好きなんだろ」

・・・・コロナくんとの付き合い方は、いろいろ考えてみる必要があるかもね。

 

 

大人こそ運動不足に気をつけましょう

2020/08/04

青い空、白い雲。屋上のひまわりが「待ってました」とばかりに、咲きました。梅雨が明けると、一気に暑くなった8月最初の平日だった今日3日、入園のための見学者と一緒に、園内を回りました。各階にベランダがあることで、暑い夏でもすぐにできる水遊びで「涼を取る」ことが可能なのは、ありがたい環境です。1階は0歳のちっち組と1歳のぐんぐん組が、2階は2歳のにこにこ組が、そして3階と屋上は3歳のわいわい組、4歳のらんらん組、5歳のすいすい組が分散して使っています。その様子を見て回ったのですが、見学者の方は、ベランダに加えて屋上にも大型プールがあることに驚いていました。「こんなところに、こんなスペースがあるなんて、知りませんでした」。私たちはすっかり慣れてしまっていても、こんな立地の保育園で毎日水遊びやプール遊びができるのは恵まれている環境なのかもしれませんね。コロナ対策で運動不足や座り過ぎが心配されている大人と違って、子どもたちは毎日、身体を動かす場所があるのもありがたいことです。

裸の王様

2020/08/02

毎週末にその週を振り返るとき、将来を憂う精神状態になるので、あまりCOVIT-19については語りたくありません。言いたいことはこれまで全て語ったので、同じことを繰り返し言うつもりもないからです。日本の国の意思決定の機能不全は深刻です。ここでは事態を見守ってはいけません。日本のこの第二波は、ついに人災になってしまいました。

昨日、こんな夢を見てしまいました。

・・・・梅雨が明けてセミの声が聞こえます。夏がやってきました。あの「裸の王様」の子どもが、火事だ!と叫んでいます。あちらこちらの町で家が燃えあがっています。でも消防車を呼ぶ人もいないのです。みんな火事だと思っていないみたいです。絵本だったら、子どもが火事だと言ったら、本当だ、火事だ、火事だと気付いてくれるはずなのに、なぜかみんな火を消そうとしないのです。

子どもがいいます「ねえ、どうして火を消さないの?」

大人がいます「坊やは火事に見えるのかい。あれは火事じゃないんだよ。大丈夫、大丈夫」と笑って歩いて行ってしまいました。・・・・・

 

火事は見えるけど、コロナは見えないので、通報を待っていても間に合いません。どこに火事があるかを調べないと消せません。その検査はあまりしないで、通報のあった火事だけの数をカウントして、「困った、困った。でもまだ重症者は前の火事よりも少ないから、もう少し様子をみてみよう」と、どこで火事が起きているのか調べようとしません。この火事は2週間後に燃え始めるので、火がついているところは、もっとたくさんに広がっているのに・・・

サーべランスの体制強化がちっとも進みません。これまでの報道で、症状のない感染者を積極的に調べることがCOVID-19の対策の常識になっていることは、私たちも学びました。日本はクラスターの周辺しか調べてきませんでした。「リンクが追えないとお手上げ」の状態は、サーベランスとは言いません。世界から見れば異端の国になりました。

東京大学保健センター

http://www.hc.u-tokyo.ac.jp/covid-19/international/

山中伸弥による新型コロナウイルスの情報発信

https://www.covid19-yamanaka.com/cont3/17.html

 

でも、日本ではどうしても「治療としての検査」の枠を超えられません。その枠を広げようと、感染症法15条の改正のために、自民党の一部議員(武見敬三参院議員)が議論を始めましたが、それを待っていたら、今の炎は広がるばかり。感染研関連の専門家は、「必要なのは全ての無症状者への積極的なPCR検査ではない」(尾身会長、7月16日)と考える人が多いのです。

一方で、この同じ16日に、参議院の予算委員会で東京大学先端科学技術研究センターがん・代謝プロジェクトリーダー 医師・医学博士 児玉龍彦氏が、いますぐに手を打たないと「目を覆うような状況になってしまう」と警鐘を鳴らし、大きく報道されました。その時の提出資料が次のものです。うちの職員がこの資料を見つけてくれました。

https://www.ric.u-tokyo.ac.jp/topics/2020/ig-20200716_1.pdf

でも、その後はそうなっていません。こちらも「本当ですか?」と思ってしまいます。確かに、ついに各家庭の火災報知器がなりだしました。保健所はすでにオーバーワークなので、このままだと検査難民がどんどん増えていくのでしょうか。

さらに混乱しているのは、専門家の考え方もマスコミの報道スタンスも、人や組織によって、その前提になっている日本型コロナの「リスク」の見方に差が生じていいます。季節性インフルと同じと言う専門家もいれば、後遺症や変異も怖いと言う専門家もいます。世の中で一番恐ろしい「怒り」と「分断」の芽が出始めました。

不安や恐れのマネジメントのためにも、やはり検査がないと実態が見えないですよね。それがないと隔離も治療にも届かないのはもちろんですが、同時に何度も行ってきましたが予防マスクで終わらせずに「いま、自分が大丈夫かどうかを把握すること」が、経済を回すことにもなるのに(私はこのテーマは、自由に生きるという、人権の問題だと考えているのですが)。

高齢者施設でも病院でも、会社に出勤するためにも、先生が教育や保育をするためにも、学生が大学にいくためにも(MITやハーバード大などは週2回など検査)。そして陽性になった時のバックアップ体制も、極めて大事。例えば保育園を閉めるのではなく、代わりの職員をちゃんと確保する体制を組むこと。施設は消毒すれば、使えるんですから。それが怖くて陽性隠蔽が始まっているのです。

それはともかく、C P R検査は高すぎるので抗原検査をもっと安くして、インフルエンザの保険点数150点程度に抑えて。報道では例えばタカラバイオは2時間で5000件を処理できる検査システムを開発したようです。検査市場が勃興しているのです。このイノベーションでもっと早く安くなるでしょう。誰もが週1回ぐらいできる程度の極めて身近なものになっていくでしょう。量販店で変えるくらいの家電化してしまえばいいとさえ、思います。

したがってそしてR N Aの変異特定を待たずに指定感染症の定義を弾力的に運用できる体制に変えるべきです。その休業や風評被害を恐れて陽性結果を隠す空気をなくすためにも。長いですからね、この先も、コロナさんとのお付き合いは。

先週号の週刊誌のインタビューで、あの「8割おじさん」こと西浦博・北海道大学教授(8月から京都大学医学部研究科)は、やはり今は「強固な対策を行わなければ、流行は収束しないメジャーエピデミック(大規模流行)の分岐点にある」と語っていました。

しかも、私たちは5月になんとなく収束したと勘違いしていて、野球に例えるなら「まだ2回表で新型コロナウイルスが攻撃している段階」だという。確かに今年の感染者が出始めてから一度も、感染者数がゼロになった日はないし、第一試合は終わっていないのです。

top