姉妹園の「新宿せいが子ども園」の保護者が、地域に子ども(小学生以上)の居場所を作るために話し合う機会を作るそうです。題して「地域の子どもの居場所と育ち〜見守る保育から考える〜」。同園は開園のとき学童クラブがあったのですが、定員が増えたときに学童がなくなり、落合第四小学校区域の学童クラブに移動になりました。
関心のある方はぜひご参加くださいと、お誘いをいただきましたので、ご案内します。私も出かける予定です。
日時:1月19日(日)10:00〜12:00
場所:新宿せいが子ども園
2020/01/08
姉妹園の「新宿せいが子ども園」の保護者が、地域に子ども(小学生以上)の居場所を作るために話し合う機会を作るそうです。題して「地域の子どもの居場所と育ち〜見守る保育から考える〜」。同園は開園のとき学童クラブがあったのですが、定員が増えたときに学童がなくなり、落合第四小学校区域の学童クラブに移動になりました。
関心のある方はぜひご参加くださいと、お誘いをいただきましたので、ご案内します。私も出かける予定です。
日時:1月19日(日)10:00〜12:00
場所:新宿せいが子ども園
2020/01/07
松の内最終日の今日7日(月曜日)、千代田区が開いた千代田区新年交歓会に招待されました。九段下から徒歩5分のホテルグランドパレスの2階の大広間に、ざっと1000人ぐらいの方々が集まりました。千代田区の区政を支えている区議会議員、町会連合会、社会福祉協議会、外国の在日大使館、消費者団体、消防団、民生児童委員、文化功労者、そのほか各種団体の代表者が勢揃いという新年会でした。
千代田区に来てまだ1年も経っていない私が、お互いに顔を合わせて挨拶できた方は、まだほんの少しです。石川区長をはじめ、岩本町三丁目町会の栗下会長、須田町二丁目町会の斎藤会長、和泉橋出張所の石綿所長、和泉こども園小林園長、和泉小学校渡辺校長、同丸山副校長、小林たかや区議会議長はじめ数人の区議会議員さん、そのほか区役所の方々など約20名ほどでした。
千代田せいが保育園は千代田区の委託事業です。実施主体は千代田区であり、公立も私立も、同じ自治体ですから同じ保育料です。そこに保育の質の差があってはならないわけで、少しでも区全体の保育環境が良くなるためには、区内の教育関係者と区政担当者が協力していく必要があります。
ホームページによると、この会が「新年交歓会」という名称で開催してから60年になるそうです。
http://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kuse/kucho/schedule/h30-kuchokodo/h300107.html
2020/01/06
こどもたちから「あけましておめでとうございます」と言われると、嬉しいものですね。家で練習してきた方もいて、その話も微笑ましくて、今日は楽しい朝夕になりました。恥ずかしかったりして挨拶が言葉にならなくても、久しぶりの保育園に楽しそうにきてくれている姿が嬉しいです。
今日は書道教室を開いている布川先生の指導の元に、最年長のらんらんさんが書き初めをしました。今年の干支の「子」という字を筆で半紙と絵馬にかき、絵馬はカラースタンプで飾りました。半紙のは近く飾ります。子どもたちの書きっぷりには、その子らしさが出ていました。筆をゆっくりと動かす子、ビューッと軽やかに動かす子、太い線になったり細い線になったり、大人とは違う「とらわれない自由さ」がいい味を出しています。かいている様子は、わらすのブログでどうぞ。
私も久しぶりに筆で書いてみました。そこで発見です。これはやらないとダメですね。自分のイメージ通りに筆が動かないことことが悔しくて、練習したくなりました。布川先生も「そうなんです、大人は何度も書きたがるんです」と。なるほどと納得しました。絵馬にも「子」と書いたのですが、筆が滑るし、変な方向へ「ハネ」がはねてしまうし、みっともない絵馬になってしまいましたが許してもらおうっと。
2020/01/05
保育園は昨日4日(土)が仕事始めでしたが、多くの保護者の皆さんは明日6日(月)からが仕事始め、小学校は8日(水)からですね。子どもたちは元気でしょうか。今年の正月は比較的暖かったので、過ごしやすかったですね。明日元気な皆さんとお会いするのが楽しみです。
さて私は3日(金)午前中に神田明神に参拝して保育園の除災招福、皆さんの健康と安寧を祈願してまいりました。保育園の地鎮祭も江戸総鎮守である神田明神にお願いしたのですが、日本の神道のいいところは、八百万の神と言われるくらいの多神が当たり前なところでしょう。その神社の祭神は色々な神様が同居しています。神田明神も大黒様、恵比寿様、将門様。恵比寿様に商売繁盛を祈願される方が多いイメージありますね。
もともと日本の神様は訪れる神様です。「神は来るもの、仏は往くもの」という言い方がありますが、言い得て妙です。「神はあるもので、仏は成るもの」というのもあります。松飾りやしめ縄を依代(よりしろ)に保育園に「来ていただいている神様」に感謝して明日を迎えたいと思います。
園だより1月号は4日(土)からお配りしていますが、ホームページもすでにアップしてありますのでご覧ください。
2020/01/04
園だより1月号 巻頭言より
あけましておめでとうございます。今年は東京オリンピック・パラリンピックの年として必ず歴史に残る年になります。皆さんに一人ひとりにとってどんな一年になるか、わくわくする一年ですね。この一年でさえ、どんな年になるのかわからないのですが、10年後の2030年がどうなっているのか、見通すのは難しいです。それでも、きっとこんな社会になりそうだから、こんな資質・能力が必要だという「未来からの視点」を見つけながら保育を創っていきたいと思います。そこで参考にしている指標の一つが、国連の「17の持続可能な開発目標」(SDGS)です。その一つが「質の高い教育をみんなに」です。
質の高い保育は、「その子にとっての経験の質」の高さと言い換えられます。同じ活動を、同じ時間、同じ場所で「させる」のではなく、「いつ、何を、どうやってやるか」の最適値を各自に保障することが大切になります。すると、それは対象もタイミングも「選択」が必要であり、複数の選択肢のある環境を用意せざるを得ません。育ちの支え方も、一人ひとり異なってくるので、子どもの周りにはタイプの違う他人や必要です。(オープン保育)
もう一つのキーワードが「自覚」です。子ども自身が考え、自分は何をやりたいのか自問自答できる力。自分は何が好きなのか、得意なのか、自分が生かされる環境を探し求める力がこれからの時代に最も必要な探求の方向だと思います。これは非認知的能力です。自分の社会の中での「志」を明確にしていく生き方、と言ってもいいでしょう。私は生物学者の「相川先生」を演じる高橋一生主演のドラマ『僕たちは奇跡でできている』のあるシーンが印象に残っています。自分の生き方に迷っている大学生に、小林薫扮する大学教授が「こんな風に考えるのはどうかな」と語ります。
「アイスの木のスプーン。普通はただのゴミだよね。でも相川先生がやっているのは、それを、どう生かしきるか、ってことだと思う。フィールドワークでは、ちょっとしたことに役に立つ。種や苗を植えた時の目印にしたり、魚を釣る時の浮きに使ったり。スプーンは他の何かにならなくても、色々と生かされる。スプーンが他のものと比べて何ができるとか、できないとかじゃない。ただそのものを生かしきること」
そこから学生たちは、「自分の道」を歩き始めるのですが、そこでの「自覚」の仕方は、その時代の「環境の選択肢」が見えることが大事です。多分、保護者の方がピアノや英語や体操や空手の教室に通わせてみようとするとき、「この子は何に向いているのかな」と考えるのと似ています。そこで保育園で計画しているのが「5歳のハローワーク」です。プロとして働いているお父さん、お母さんの出番です。子どもたちに今の仕事を伝える機会を作りますので、子ども向けに教えてください。子どもたちの「生きる道」を一緒に作り上げましょう。
子どもの経験の質を環境の選択肢から考える。その一歩を進めたいと思います。
2020/01/03
仕事と子育ての両立という言い方があります。それができる環境を作るのが私の仕事でもあるのですが、福祉先進国と思われているスウェーデンでさえ前世紀の前半は、それが両立できない時代だったことやその時代の社会の空気が、今日みた映画でわかりました。と同時にこうした女性の生き方の延長線に今の福祉国家ができていったのかもしれません。主人公の女性は名著『児童の世紀』を現した晩年のエレン・ケイに10代で会っているそうです。
あえて映画のタイトルは伏せますが、観終わってこんなことを考えました。人は誰かを好きになり、結婚して子どもを授かるかもしれません。その好きになる相手と時代によっては、波乱に満ちた人生を送ることになります。例えば、それは予期せぬ妊娠がわかり、それは隠さなければならない祝福されない状況だったら。さらに相手の夫も信用できなくなり、自分一人で生き始めなければならなくなる。さらに産んだ子どもを遠い里親に預けざるを得なくなり・・。
辛い選択の連続なのですが、人は何かを失い、でも何かを得ます。その選択は一種の賭けなのですが、その「選択の仕方」にその人の価値観や生き方が現れるのかもしれません。しかし人生は選ぼうとして選んだわけでもなかったり、どうしようもなく選ばされることもありますし、また選ぶ猶予が与えられずに突然やってくることもありますね。人生を山道に例えるなら、分かれ道が頻繁に現れて、しかも日が暮れ始めていて早くたどり着かないといけない。時間は待ってくれないのです。
そこで問われる真価って何だろう。それは、この女性が示しているような直感的な真実です。彼女にとっての真実に誠実に生きている力強さが、胸を打ちます。その美しさを伝えてくれる映画でした。内容は辛い物語ですが、でも救われるのは、主人公が世界的に有名な児童作家となり、その後94歳まで幸せに過ごしているのです。ただ若き青春時代にこんな波乱万丈の人生があったとは、ほとんどの人が知らなかったことです。
黒柳徹子の映画評を紹介します。「私の大好きな作者の若い頃の話。こんな経験があの作品を作らせたの?「子どもの本の女王」と呼ばれた陰に、こんなことがあったの?才能って、こんな風に花開くんですね。すごい!!」黒柳徹子がこの物語が好きなのはすごく納得できます。親子でいる風景がたまらなく素敵でした。
2020/01/02
「いろいろなものには“深み”があります。保育の“楽しさ”にも深みというものがあって、その深みをみんなで追究できたら素敵です」
これは今日投函した年賀状に書いた言葉の一つです。深みのある味、深みのある言葉、深みのある芸術作品・・大抵の場合、「深い」ことは良い意味で使われます。もし「この料理は味わい深い」と言われたら料理人は嬉しいはずです。ただ「美味しい」と言われるより以上に。どんなものに、「深い」という言葉が使われているか、これまで何年もずっと考えていました。もちろん保育にとってです。そして一定の結論を得ました。それは二つの条件が必要なのです。
一つの条件は、複数の要素が絶妙なバランスを達成していることです。多面的にその良さを感じるのです。もしお茶やワインやコーヒーが好きな方がいらしたら、味わい深いと感じる時の、その味の理由を説明してみてください。複数の要素が混ざり合って、あるいは響き合って、一つだけでは出せない味わいが一つのハーモニーを醸していることでしょう。
もう一つの条件は、長い時間がかかっていることです。伝統的なものに、深い美を感じるのです。時間の洗礼を受けているのです。多くの人々から時を超えて敬意を受けていることがわかるような何かです。
私はそれに「楽しさ」を取り上げたいのです。浅い楽しさではない深い楽しさです。しかも保育の、です。保育の質が高い時、それを実現させている関係者は楽しいはずです。子ども自身も、親も家族も、私たち保育者や地域の人々が、楽しいと感じ、それが深まること、味わい深いこと、そんなことを目指したいからです。深さには限界がありません。さらに深いものがあるのです。
こんなことを、考えながら、昨日の元旦に届いた年賀状を一枚ずつ眺めて過ごす時間がありました。その絵柄と言葉の背景を想像するのが楽しくて、一人ずつに返事を書きました。私は相手によって思いつく言葉が異なるので、一枚ずつ「どんな言葉なら、どんな風に届くんだろう」と、色々と言葉を選びました。
同じ言葉でも相手によって、受け止め方が変わることが想像できるからです。長い文章になってしまう場合もあれば、スピノザの言葉を引用する場合もあったり、即席の俳句を筆で書いたりもしました。もっとも短い言葉は「今度はアキバで」でした。受け止めてらもう相手がいることだけで、嬉しいと思えることが言葉の関係性です。
いただいた年賀状で深いなあ、と感じたものは、4文字しかありませんでした。でも、彼女は美大卒のアーティストでありながら保育士なので、それだけで意図やセンスが伝わってくるのです。私にとっての「深さ」の条件をクリアしています。それが冒頭の写真の年賀状「2020」です。
2020/01/01
よく晴れた元旦の朝。宇宙飛行ができる時代になっても、見えないクラウド(雲)のコンピュータが知らない間に「私の好み」を教えてくれる時代になっても、やはり多くの人々が地平線や大海原や霊山(例えば富士山)から陽が昇ってくることに重要性を感じているからでしょう、全国各地の初日の出の映像が、テレビで放送されました。何の疑問もなく、それが当たり前と思っているかもしれませんが、年の初めに太陽を拝みたくなる国民がこれだけいることには意味がありそうです。
それは紛れもなく太陽が生命の源であることを、日本人が無意識に生活律として体に染み込ませているからではないでしょうか。実は母音の「あ」と太陽は関係します。太陽が昇ってくる姿を見ると、太古のヒトは「あ〜」という感嘆の声をあげました。「あ」は畏敬の念を表す母音です。母音と感情は結びついているのですが、その話はまた別の機会にしますが、畏怖の対象でもあった太陽に神性を感じたのは神話を見れば世界共通であることがわかります。
日本ではイザナギの左の目からアマテラス(天照大御神)が、右の目からツクヨミ(月読命)が、そして鼻からスサノオ(須佐之男命)が生まれます。この三神を貴士と言います。こうした物語は、各地にありましたが時の藤原政権が編集して話を繕って都合のいいストーリーに仕立てていきます。日本神話は「古事記」や「日本書紀」に書かれている話ですから、ちょうど藤原不比等の晩年ごろ、つまり養老4年(720年)に編纂が完成しました。そこで今年は「日本書紀」編纂1300年に当たります。日本のはじまり、ここにあり。このキャッチコピーは、1月15日から東京国立博物館の平成館で開かれる特別展「出雲と大和」で使われています。
さて2020年がはじまりました。天照大御神を祀る神社は全国にありますが、伊勢神宮の内宮がその総本社です。しかし日本の神々は多種多様であり、記紀神話に出てくるもの、あるいはそれ以外の神々を正月に招き入れるために、松門を飾ります。なぜ松かというと、日本の海岸線には松がたくさんありました。この100年ぐらいで、原因がよくわからない「松枯れ」が急速に進んでしまったのですが、古くから日本には海岸にはクロマツ、内陸にはアカマツがあるのが普通でした。冬でも青く生命力のある松の木。縁起がいいもの、めでたいものを招く力を松に感じたのです。日本人は海岸や山中で、神やその恵みを待っていたのです。めでたいものに来て欲しい、それをもたらす神を呼び寄せる「依代(よりしろ)」が門松です。
松は、梅や竹と並んで、日本画や襖絵や舞台背景、緞帳にも描かれ、庭園や能舞台にも必須です。しめ飾りは、正月に神様が留まっていただく聖なる場所の表示です。それには藁とシダ(ウラジロ)が使われてきました。
行事のたびに、いろいろな植物を用いている日本の文化。各自が大晦日までたどる反省的時間から一転、朝日が昇るのに合わせて、今度は良きものの到来を自然界と交信し合う松の内の時間。面白いですね。私たちの精神の脈動のあり方にも、文化が流れています。
2019/12/31
スタジオジブリがアニメ映画にしたことで、それを見て大好きなった昔話があります。それが「ねずみのすもう」です。来年の干支が「子」なので、多くの方が年賀状で色々な、可愛いねずみのイラストに触れたことでしょう。ねずみのすもうに出てくるねずみは、貧乏な家のねずみで、おじいさんとおばあさんに愛されるからでしょうか、ねずみという存在が愛おしく感じられます。
日本のむかし話で、ねずみはあまり悪者になりません。農耕文化が始まっていた弥生時代には、米などの食料を貯蔵していた高床式の倉庫の柱に、ねずみ返しが設置されていました。そういう意味では害獣だったのかもしれませんが、昔話では、それほど悪いイメージはなく、子沢山からか、どちらかというと幸多き世界として描かれています。
ねずみのすもうのねずみも、食べ物が少ないので痩せていて、すもう大会でちっとも勝てません。それを見かねたおじいさんとおばあさんは、かわいそうに思って、正月用にとっておいたもち米で餅を作って食べさせるのです。豊かな長者の家のねずみもそれを羨ましがります。正直なおじいさんとおばあさんは、二人のねずみにまた餅をついて食べさせます。長者のねずみは小判を運んできます。そしておじさんとおばあさんは豊かに暮らすのです。
思いやり、助け合い、その愛情の対象がねずみにも届く話に、日本文化の優しさを感じます。この話には、意地の悪いじいさんは登場しないので、懲らしめられることもなく、ほのぼのした気分で終わるから私は好きです。これを宮崎駿がアニメにすると、ねずみの仕草の愛らしさが増します。絵本もいいのですが、動く映像の動かし方にも、対象への愛情の深さの差を感じることができ、良質なアニメの芸術性を体験できます。
ねずみが干支の最初になるのは、ご存知だと思いますが、日本の昔話になっています。あの「十二干支の起こり」です。神様の所へ動物たちが先を急ぐ話です。ねずみはこっそりと牛の背中に乗って、門が開いた途端に飛び降りて、1番に門に飛び込むのでした。そんなずる賢さを持ち合わせながらも、決して敵には回さななかった人間との暮らしの中での距離感。日本の家屋の屋根裏にねずみがいても、あまり気にしなかったのが日本人だったのではないでしょうか。
さて、除夜の鐘が聞こえてきました。百八つの煩悩の数え方は色々な説がありますが、それらのどの説にも出てくる共通する6つの煩悩があります。私の仏教の師、故中村元先生によると、それは「六根本煩悩」です。その内、とくに次の3つが大事だと思って、生活信条(ライフクレド)にしています。私は煩悩の三大悪だと勝手に定義しています。
私たちの人生を狂わす原因が自分の精神性にあるとすれば、この「貪瞋癡の三毒」でしょう。私は高校の倫理社会の先生から教わりました。ドンジンチ。大事です。昔話の倫理とも一致するのは、日本に仏教が渡来した時から、日本の風土とモラルにフィットしたのだと思います。
まずは貪(トン・貪欲)、つまり人やものごとに対する執着、貪ること。好きなことを追求するのはいいのですが、それに溺れてはいけないのです。欲張りじいさんのような人になってはいけません。
2つ目が瞋(ジン・瞋恚、怒り)、つまりすぐにイライラしたり批判せずにはいられない怒ったりする心です。最近の日本人の大人にとくに目につくようになりました。共感する力が弱い人が増えています。昔の大人は些細なことにもっと大らかでした。外国の絵本は罰し方がどぎついのですが、日本の昔話はちょっとちがいますね。
3番目は癡(チ・無明)で、これは諸行無常などの真実をわきまえない根本的無知ともいうべきものです。実は貪も瞋も無明から生まれます。お釈迦様が苦が生まれる理由(縁起)を手繰り寄せていったとき、生(老病死)への執着にたどり着くのですが、それも無明であることに通じます。悟りはそれらの煩悩が断たれた時ですが、もしそうなったら私たちは彼岸にいます。
昔話には、彼岸がよく出てきます。「ねずみ浄土」も「浦島太郎」も「鶴の恩返し」も、私たちのすぐ近くに動物が誘って連れて行ってくれます。これらの物語を絵本で読んであげている時、いつも頭の中になっている言葉が「ドンジンチ」です。昔の人は、「昔々、あるところに」と始まる素話によって、除夜の鐘を鳴らすことと同じことをやってきたのかもしれません。初詣と同じ気持ちで昔話を親子で楽しみましょう。
そろそろ大晦日もあと1時間となりました。嵐の歌う「カイト」を聞いたところで、今年最後のあいさつをさせていただきます。
本年は本当にお世話になりました。来年も良い年にしましょう。
(私も子年生まれ。来年はねずみにも幸多き年でありますように!)
2019/12/30
テレビやマスコミがなかった頃、それぞれの村には「ただの毎日」が続いていただけでした。昔の日本人にとって、日々の時間は、太陽の動きを拠り所として、生活を営み、ただ今日が何日だろうとあまりにきしていません。その時代の生活は「安全」で「食べ物」があれば、幸せだったのです。現代のように、テレビやSNSによる情報社会では、世界中の出来事をあっという間に共有してしまいます。先ほど今年の日本レコード大賞が、フーリンの「パプリカ」に決まりました。それを観ていて、園の子どもたちも大好きな歌だということに併せて、これだけ同じ人間が同じ歌を短期間に共有してしまうことに、改めて現代の情報社会は「すごいことかも」と思ったのでした。
せわしなく過ぎていく現代社会の時間。私のように物心ついたときにテレビがない時代を知っている者は、テレビやラジオが常に何かの情報を流している場所は苦手です。静かに瞑想しながら、自分の思いと向かい合う時間が好きです。常にイヤホンで何かを聞いている若者たちの生活スタイルを見ると、全く別の人たちのように思えてきます。情報が多すぎると、なんでも受け身の頭になってしまい、自分で考えることができなくなってしまうのではないかと心配になります。多過ぎる情報を処理しなければならない時、生きていく上で「本当に大事なこと」だけに専念できたら幸せだろうなあと思う時があります。その大事なことを思い出させてくれるのが「むかし話」です。
「むかし話」には、ある種の物語のパターンがあリます。正直者が幸せになり、欲深い者は幸せになれません。その典型が「ねずみ浄土」でしょう。おじいさんが山でおむすびを落として転がって落ちた穴には、ねずみが住んでいて、おむすびのお礼におじいさんを歓待して、歌を歌ったり、餅をついてご馳走を振舞ったりします。帰りにはねずみの宝の打ち出の小槌まで贈ります。それを知った欲深い隣のじいさんも穴に入っていきますが、にゃーお、と猫の鳴き声で驚かしたりするので、ねずみはいなくなり、真っ暗な中を土を掘って外に出ようとして、欲深い爺さんはモグラになってしまうのです。
これと似た話はたくさんあって、どれも幸せは「身の安全」と「富」。それに「結婚」して幸せに暮らしましたとさ、といった話が共通しています。昔の人たちが大切にしていた生活の中の幸せです。そうしたことを思い出しながら、年の瀬の情報に触れていると、色々なことが多すぎて疲れてしまいます。
もっとシンプルに、自分で感じ、自分で考え、自分で想像する時間を持つこと。資本主義社会である限り、消費行動を誘引する情報に満ち溢れています。それに受動的に巻き込まれるままにするのではなく、どこかで「線引きする力」がどうしても必要です。そのためも、自分一人になって、染み付いてしまっている、無意識に働いている行動や考え方に気づくことも大事です。自分にどんな傾向があるのかを自己認識することにもつながります。精神性を開発する時間を意識的に作り出しましょう。それが除夜の鐘の意義に通じるはずだからです。