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園長の日記

保育園で晩御飯を食べて帰ろう

2024/01/12

今日は保護者コミュニティ「しずくの会」との共催で、夕方のレストランを開きました。約30家庭の親子に晩御飯を食べてもらいました。メニューは主食が台湾の丼ルーローハン、副菜は中華サラダ(野菜のナムル)かコールスローの選択、それと中華スープとデザートに果物(ミカンかバナナ)です。ふだんの給食の献立のなかで子どもたち人気のあったものから選びました。

この試み、開園して5年が終わろうとしていますが、やっと実現しました。これまでコロナ禍もあったため、給食の試食会もままならなかったのですが、毎日こどもたちが食べている保育園の味を家族て味わってもらう機会にもなりました。保育園の家庭にとってワークライフバランスの工夫は、当事者でないとわからない苦労というものがあります。

とくにお母さん(あるいはお父さん)だけが専ら食事をつくる家事分担になっているとき、毎日朝夕の献立を考えて買い物や料理をすることは、並大抵のことではないことが多いでしょう。なにも考えなくてもいい日がある、というだけでもちょっとした開放感を感じるかもしれません。保育園でたまに晩御飯を食べて帰ることができれば、お風呂に入ってあとは寝るだけ。親子で過ごす時間がゆっくりとれたりするといいですよね。

調理担当の栄養士たちも「美味しいといってお代わりに来てくれてうれしかった」とのこと。当園の職員には本当に頭が下がります。今回は全部保育園で用意してみましたが、別の形と組み合わせながら、継続的にできるスタイルをみつけていきたいと思います。参加された方にはアンケートをネットでお願いしましたが、どうぞよろしくお願いします。

除夜の鐘と松の内~仏と神の習合

2024/01/11

今日は保育園で鏡開きをしました。こどもに「鏡開きって何?」と聞かれるので、神様にお供えしたお餅をみんなで、分けて食べることだよ。お餅を割るってことなんだけどね。ここでいう神様とは、トイレの神様と同じで、「八百万の神」を受け入れる感覚が風習であったように、ご先祖様が仏様であり神様であるような存在としてある何かです。神棚と仏壇が同じ部屋にあっても何も違和感のないような形で、私たちの風習のなかに溶け込んでしまっているものでしょう。

いってみれば、日本的な宗教的な営みは、条件としての信念や信仰はなくても、謂れや習慣で成立しているように見えます。それが宗教的な営みだという自覚すら必要としないほど、それとして受け入れてしまうあたりが神仏習合を成し遂げてきた日本文化の本質のような気がします。つまり日本的営みは儒教的な生活信条(クレド)も、「八百万の神」も、仏教的無常観も画然とした境界をもたないあいまいな連続体として成立しているように思えます。

保育園や学校の公教育のなかに特定の宗教を持ち込まないというルールを思うとき、千代田区区報に「正月は神様を迎える行事」という説明が書かれていても、そのルールに抵触することにはならないでしょう。なぜなら、たとえば他の宗教から「区報の新年一号に神道の説明をしていいのか」という問い合わせがあったとしても、たぶん「あれは風習や謂れの説明であって、特定の宗教をとりあげているつもりはありません」と答えるだろうと想像できるからです。

紙面の構成にもあのあたりの苦心がのぞきます。全体のタイトルは「正月小話」として構成されているのです。

同様に「大晦日小話」があるなら、除夜の鐘の謂れや習慣の説明ができ、決して仏教を取り上げているのではないということになるのかもしれません。それにしても一年を振り返るときは、つまり終点に極まるときはお寺で仏と出会い、始点に立つときは神社で旅立ちを清めてもらうという使い分けの機微に、日本的な心の動きの洗練さを感じるのですが、いかがでしょうか?

・・これぞ春の七草

2024/01/05

 

「せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すすな すずしろ これぞ七草」。

こういうものは、周りの大人がただ何度も唱えているうちに、子どもは覚えてしまうものです。別に子どもに覚えさせたくて大人が唱えるわけでもないのですが、実際は「こっちがスズシロじゃないの、いわゆるカブの丸いのがスズナでしょ」みたいなことを言い合いながら、お盆に7つの草を並べて、展示して、子どもたちに見せました。

今日は「七草がゆ」だったんです。3時におやつにしました。ちょっと塩気のあるビスケットとセットで。保育園のおやつというのは、正式には「間食」ですから、お菓子ではなくて、おにぎりやパンや麺などの時もあります。

ただ、こうやって七草がゆの話をしているのは、お代わりを何人もするほど大人気だったからです。昨年までの「七草がゆ」は、あまり人気がなくて、残っていたのです。しかし今回は完食でした。

どうしてこうも違ったのかというと、お粥ではなくて、さらりとしたお茶漬けのようにしてみたからです。炊き込んだお粥の場合は、かみごたえがなくべっとりとして、幼児には不人気でした。(でも乳児には離乳食のようなものだからでしょうか、よく食べています。)どうも幼児になると、かみごたえのある食べ物の方が人気なようです。

そこで、カツオと昆布からとった出汁のカニ玉スープに、七草が入ります。このスープを、軟らか目に炊いたごはんにかけて食べるのです。野菜が苦手だという子も「美味しい」と食べていたので、びっくりです。何人もお代わりをしていました。ぜひ、ご家庭でもお試しあれ。

今年も子ども同士の関係を大切に

2024/01/04

<午睡の際、Aくんが布団にブロックを持っていき遊んでしまっている姿が年明け多くあったことから、時間をきめブロックで遊んでから何も持たず布団に戻るという方法を取った。遊び初めは布団に持っていきたいと言っていたが、何度か説明すると、その場で遊び始め、アラームが鳴ると片付けをして布団に戻ることができていた。Sちゃんが一緒だったことで、切り替えができていたのかと感じる。今後もブロックで遊びたいといった際には、続けていきたい。>

この今日の2歳児クラス(にこにこ組)の日誌(振り返り)を読んでいて、子ども同士の関係の発達について、大切な一面を思い出します。それは子ども同士のつながりが、心の拠り所やエネルギーの補給基地の役割になっているように感じることが多いという話です。
そのことを、この記録を書いた担任に伝えると「そうなんです。子どもが親子の愛着関係と似たような関係に感じることがあります。例えば、Kさんが何かで泣くようなことがあると、ほぼ同じ月齢の「Yちゃんに話を聞いて欲しかった」と言って泣くことありました。Yさんはちょっと大人びた雰囲気を持っているところがあり、Kさんにとっての心の拠り所のようになっているというのです。
子ども同士の関係が育っていくというのは、このように子ども同士の中に、お互いに楽しくなったり、過ごしやすくなったりする関わり方を紡ぎあっているような側面があるのです。
このことは、広い意味での協同性です。何かの目的に向かってそれぞれが役割を持って力を合わせていくようようなものとは違います。担任は「本当によくわかっているなあ」と思うことが強くあるそうで、そういう子どもたちの持っている素晴らしさに気づくと、「子どもをよく見ようと思うし、ちょっと引いた場所で見守ろうと思うようになります」と言っています。

園だより 1月号 巻頭言「その時々を大事に刻みながら自立心と協同性を育みたい」

2024/01/04

(園だより1月号巻頭言より)

「自分の意思をしっかりともち、自分の気持ちをはっきりと伝える姿がさらに増えてきた。もっと遊びたい・今はやりたくないなど、言葉や仕草で表現することが一段と増え、いやいやも出てきているが、子どもとの対話を大切にして、思いを受け止めながら大人の思いも伝え、一番いい方法を考えたり、折り合いをつけていけるように関わっていきたい。」

これは12月の保育会議で報告されたちっち組(0歳児)の、最近の子どもの姿です。ここに見られるように、乳児の自立性と社会性・共感性がこの時期から大きな経験になっていることがわかります。自分を主張することと、他者との関係の中でその折り合いを見出していくこと。

子どもの主体と大人の主体の間に、相互の共感性を基軸にしながら、自分の気持ちや思いを伝えて受け止めてもらいながらも、その一方でお友達や先生から抑制や我慢を求めれることに対して、自分でその先をどうするか、自分自身をコントロールしていく実行機能の働きが育つような経験の積み重ねが起きています。

ここに自立心と協同性の根っこの部分が経験されていっている、と言っていいのだろうと思います。そのプロセスがどうなっているのか、さらに分析的に分け入ってみることもできます。その時に、赤ちゃんを「有能な赤ちゃん」とみるとしたら、どのあたりがそうだと思えばいいのでしょうか? ちっち組と言っても、もうこの12月末の時期の0歳児クラスは、最も月齢の低い子どもでも、当園の場合は2月生まれのRちゃんが10ヶ月です。ちょうど、9ヶ月革命が起きている時期です。

一方で、高月齢の5月生まれの男子が2人いて、彼らは1歳7ヶ月(19ヶ月)です。1歳半を過ぎれば、他者の意図を察した上での模倣、つまり他者の目的意識を理解した上で、他者がやっていることを自分もやろうとしています。お友達や大人がやっていることをそのまま真似することもありますが、どんな意図や目的でその人がそれをしているのかを察して、その目標を実現させるために、自分なりの方法でやり始めているかもしれません。

他者の意図やつもりを推理する力は、その同じ状況にいれば思いつきやすいでしょう。なので保育者は少し年齢の異なる子どもたち同士がやり始めることをそっと見守り、観察し、そこに起きていることにあまり干渉しないように配慮しています。そこで冒頭の担任の心配りをもう一度読んでみましょう。そこには「子どもとの対話を大切にして」ということがはっきりと意識されています。

これは子ども自身が折り合いをつける社会性を獲得していく過程において、大人のいうことを聞く子どもにしようとしているわけではなくて、お互いに「一番いい方法」を探していこうね、という民主的な手続きに似た対話をここで繰り広げたい、そうなればいいな、と願っているのです。まずは「子どもにとってどうか」ということが先にあって、その上で「じゃあ、これはどう?」という応答性になり、子どもの方はそれにまた応答するという対話が重ねられることになっていきます。

それくらいのことを、すでにこの子たちはやっています。自分の中での気持ちと付き合わせて、喜んで受け入れたり、あるいは渋々受け入れたり、反対に強く反発したり、怒ったり、泣いてせがんだり、中にはそれが効果があると覚えた方法を繰り返す出してくる場合もあるでしょう。無視したり、逃げたり、知らないふりをしたり、まるでさっきまでのこだわりが嘘のようになかったことになっていたり・・・。それなりの折衷案の数々の変奏曲だか変化球だかも、また楽しいものであって、そういうあたりにも個性が表れています。

これはもちろん乳児に限りません。幼児にも、あるいは私たち大人も大なり小なり、身近な家庭や地域の中でも、あるいは国際社会でも、そしてインターネットの中でも、悲喜交々、丁々発止のどんな対繰り広げられています。話が繰り広げられるのか、やりたいことや相手や気分や状況で変わってくるので一概にも言えませんが、それでもその全体を包み込むようなおおらかさを保って、ときどきを刻んていきたいと思います。

 

20240104 巻頭言1月号(印刷用)

どうぞ楽しいお正月をお迎えください

2023/12/28

今年最後の保育。普段と変わらない楽しい1日でした。この1年間お世話になりました。そして楽しい時間をありがとうございました。

振り返れば、今年はコロナ後の活気ある生活が戻ってきた一年だったと思います。そのぶん、どこか止まっていた針が急いで動き出したような印象があります。皆さんにとっては、どんな保育園生活だったでしょうか。

保育園は明日から1月3日までお休みです。皆さんいいお正月をお迎えください。そしてまた4日にお会いしましょう。

栄養士目指す学生と園児が交流

2023/12/27

栄養士を目指している学生さんたちに、今日は遊んでもらいました。学生さんたちが用意してくれたのは椅子取りゲーム「フルーツバスケット」でした。各自がりんごやみかん、大根など「冬に美味しいもの」になって輪になって座ります。輪の中央に立っている子が「みかん」とか「だいこん」などと言うと、言われたフルーツや野菜の子は別の椅子へ急いで移動するというゲームです。

ゲームを用意してくれたのは同じ区内にある短大の学生さんたちで、この学校とは実習やボランティア体験の受け入れ、私と当園の栄養士による特別授業での講義など、関係を深めている間柄です。1月末に保育園で子どもたちち一緒にクッキングをするので、今日はその初顔合わせでした。お昼寝の時間だったので、起きている子どもたちが希望制で参加しました。学生さんに自己紹介と「冬に美味しい果物や野菜」について話してもらい、その後、椅子取りゲームを楽しんだわけです。

この学校の学生たちに、私たちが講義や実習で伝えてきたことは、一言でいうなら、「食の営み」は「栄養学」を包摂しているということでした。食の営みは保育のある一面をさし、保育である以上、さまざまな専門性の相乗効果で成り立ちます。それは、例えば医療が医師、看護師、医療技師、栄養士などから成り立つチーム医療であるように、保育も保育士、看護師、栄養士ら協働で成り立つチーム保育であるということです。その具体的な活動の一つに調理もあり、それも子どもがかかわるということでした。その調理体験を1月末にやります。食の営みとしての食育です。

 

生存に必要な「世界の探索」という視点

2023/12/26

最近、これまで使っていた言葉に新しい意味が付け加わっていく感覚があります。私にとって、もっとも大きな変化は「遊び」の定義です。これは無藤隆先生に教わったもので、12月の園だよりの「巻頭言」として、12月1日付のこの欄で、すでに紹介したものです。味わい深いので何度も呟いて(もちろん頭の中でですが、笑)います。

「遊びは思いつきをする楽しさと,そこから少し先の目標を立てて実現しようとする課題解決の充実感からなる。それは物事の可能性を知ること。私の言い方では環境からの呼びかけに応えて、世界性へと開かれること。そして、そこでの目標を立てての課題解決の練習となる」

遊びをこのように捉えると、生活と遊びという区別に意味はなくなり、年齢もあまり関係ないように思われます。さらになぜ人間は進化の中で遊ぶようになったのか、ということを考えても、少し先の目標を立てて実現しようとすることで身につくことは、子どもが大人になった時に有利だという考えとも矛盾しません。また石器時代の人類の多くが大人になれなかったことを踏まえても、子ども時代にとっても意味があります。たとえば課題解決の充実感から様々な認知・非認知的スキルの習得につながるとも思えるからです。

そして私の中のキーワードとして急浮上しているのが「探索」という言葉です。保育の中で、探索活動という言葉を聞かない日がないくらい、頻繁に使われ、書かれています。たとえば、昨日と今日の0歳クラスの日誌を見てみましょう。

「・・・コンビカーに乗ってみる中で足で蹴ると進むということを習得し、広いホールの中を気のおもむくままに走っていました。広々とした環境に心も開放的になり、ダンスしたり探索したり…思わず体が動きだすような子どもたちの姿がありました。」(12月25日)

「・・・お兄さんお姉さんの遊びをよく見て、同じようにやってみたり、やってみる?と誘ってもらって、そばで見守ってもらうことで、安心して探索にふみだす様子がありました。」(12月26日)

探索ではないにしても、発見や収集などの姿は毎日のようにみられます。新しい場所に出かけて、いろんなことを発見して思い思いに体を動かし、いろんなことを試しています。

確かに私たちは生きるために必要なことを優先してきたに違いなく、そのために、まずはありとあらゆるものが、世界の知覚から生存確率を高める行為に繋がっていたはずです。その行為が生存に役立たないなら、私たちは今生き残っていないでしょうから。その生存のスキルの向上に、子どもの探索は役立っているのではないかと思えてきたのです。

そういう意味で、ヒトは探索の名人であるはずです。新しいものが好きであること、そこに生存に役立つものは取り入れ(たとえば旨・甘・塩・酸・苦みのうち、栄養になる旨味や甘味は好むなど)、危険なものは避ける(腐敗と毒の可能性が高い酸味と苦味は避けるなど)などは生得的な味覚として備わっています。ただ、厄介なのは人間が良かれと思って人工的に作り上げてきたが、私たちの生存を脅かし始めているということです。

もちろん自然も脅威(天変地異など)であることは変わりません。しかし、それに匹敵するほど、あるいはそれに勝るほどの生存の危機(核兵器や環境問題など)をもたらし始めているのも事実でしょう。私たちが作り出すほとんどのものは、一旦人間の表象を通過しているので、つまり人が考えて作り出したものがほとんどなので、何かデザインされているものばかりです。

ソサエティ5.0の時代に、人間が作り出している環境が、もし子どもにとって必要な経験になっていないとしたら?たとえば小児科学会が2歳頃まではテレビを受動的に一人でけで見せないようにと啓発しているように。あるいは、子どもの「遊び」になっていない生活や活動だったりが、増えてしまっているような心配もあります。その境目なり区別なり、本当の正しい問いはなんだろうと考えたり。それは私たち大人に必要な世界の探索なのかもしれませんが、かなり難しい課題だと思います。

 

お楽しみ会(幼児)に向けた活動

2023/12/25

1月20日(土)に行う幼児の「おたのしみ会」。3つのクラスで、それぞれ何をやりたいか、話し合いとその活動(遊び)が始まっています。保護者に発達をお伝えする行事は年齢別で行っています。これから時々その経過報告をしていきます。以下は、まず年長さん。

10日ほど前の12月14日から、年長の最初の話し合いと活動は始まりました。

「おたのしみ会に向けた話し合い、初日。最近は、ダンスや楽器等が盛り上がっており、みんなに「みてもらいたい」という気持ちがありながらも、いざお父さん・お母さんに見てもらうとなると、恥ずかしい~という気持ちが出てきて、劇でクレヨンのくろくんを演じるのことも検討していたのですが、ペープサートで行うことになりました。子どもたちとつくっていく『クレヨンのくろくん』果たして、どんな作品になるのでしょうか・・・!」

自分たちが何かをやったときに、「ねえ、ねえ、見て」と、すにぐ見せたがるのが子どもたちですが、お楽しみ会のように協同して何かを創り上げるとなると、それはまたいろいろな意味で難しいようです。年長はとりあえず夏の誕生会でやったことのある人形劇『クレヨンのくろくん』を「みてもらいたい」と決って活動が始まりました。

そして今日25日に、その2回目の活動があって、前回と今回の分のドキュメンテーションが張り出されました。保護者の方には、その日のうちにネットでお知らせしているものです。掲示することで、これを見たりしながら、子どもと一緒に活動を振り返りながらの、これから約1か月後までの物語のスタートです。

ピアニカでの演奏を見てもらいたい子や、いつもやっている紙芝居の読み聞かせのように、絵本のお話(台本)を読んであげることを楽しみにしている子もいます。そのうち、役割の意味も実感されて、新しい関係(仲良し関係から同僚性に近い体験)も味わってもらいたいものです。

子どもも「いいから いいから」が口癖に・・

2023/12/22

今日はこんな絵本を読むよ、と3時のおやつの前に紹介しておくと、希望者だけが夕方の読み聞かせに集まります。選択制にすることで、聞きたい子だけが来るので私も子どもも過ごしやすく一体感のある空間になります。そういう空気感の違いに敏感なのが保育者でしょう。そこには心理的な無理がなく、面白くて楽しい空間になりやすいのです。

今日用意した絵本は2週間前に好評だった『いいから いいから』のシリーズの第二弾。温泉旅行に現れたおばけが、なんでも「いいから、いいから」と気にしないおじいちゃんに誘われて温泉にはいり、マッサージまで受けて・・・という奇想天外なナンセンスストーリー。子どもたちには、これが楽しいようです。

なんでも「いいから いいから」というようになります。読んでいて前に立ち塞がる3歳児の子に、私が「座ってみようね」と促しても、なかなか座ってくれない場面があったのですが、年長の子にすかさず「いいから いいから」と言われてしまいました。

クリスマスのお話も一つ『ねずみのフィピップ ぼくがサンタクロースだったらね』。これも「ちよだせいが文庫」の今のサンタ特集に追加しておきました。

そのあとは、年中のIRさんの強いリクエストによる『パンダ銭湯』。彼女が最も面白いと思うところは、パンダの目の周りの黒いところが、サングラスだったというところ。隠れていた、ちょっとこわい菱形の目が出てきて、その顔がおかしいらしい。そこが推しで選ばれました。耳の黒がワックスだった、というのも奇天烈で、年中ぐらいになると、そのおかしさにハマるようになるようです。

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