今日はお迎えの時に、屋上で育った思想をお店屋さんのようにお迎えに来ている保護者に販売していました。昨日のダンゴムシの話もそうですか、次のようなことをお伝えしたくなりました。保育者の専門性のようなことです。
「あの辺のことがどこから来ているのか、見ていきたいんですよね」「〜ちゃんがほんとに〜になって。次にどうするか楽しみなんんですよね」。こんな会話をしながら、子どもたちの様子を語り合うことが毎日のようにあります。
当たり前のように聞こえるかもしれませんが、私にしてみると、この先生たちが体験していることは、何がどうしてどうなった、式の、ある出来事を取り出しても収まらない、その状況までの経緯やら、親御さんとの長い対話の積み重ねなども含み込んだ中での、実感です。その継続的な流れの中で出て来る、いわば身体的な感覚に近いものを拠り所とした子どもの理解の仕方であって、また見通しを語っています。
保育でやっていることは非常に多岐わたることを想定しており、どのようになっても困らないろうに、こうなったら、こうしようというアイデアをリソースとして用意しておきます。その想定の範囲内に収まるようにあらかじめひろ〜く構えています。目の前の子どものことも周りにいる子どもたちのことも、同時に見ているので、一緒に連携して動いている先生たちがそれぞれ何をどう考えてやっているのかも、お互いにわかり合いながら、連携をとっている感じです。
先生たちの動きはまるで、その担当の幅の中で、子どもの思いつきが、いつ同時多発的に起きてくるかわからないような中から、子どものやりたがっていること、やろうとしていることが出てくると、先生たちが「よーし、来た来た!」とばかりに、そこに向いあうようなことをやっています。お店屋さんごっこから屋上で育った本物のシソ葉の販売屋さんになりました。
きのう紹介した、だんごむしのお家づくりですが、その先生が子どものやりたいことに込められていそうな「願い」を感じ取ったからこそ、その活動に先生の注意向いたのでしょうから、子どもと一緒に動き、子どもと一緒に「何を食べるんだろうね」と共感していくことができたのでしょう。
それまでの経緯の変化の連続している中で、新たに見せてくれる姿を楽しそうに親しみを持って接しています。その中で、冒頭のような会話が先生たちの中で交わされているのです。