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園長の日記

「量子的子ども像」というのはどうか?

2025/03/19

子どもの心の動きを大人が想像するとき、子どもと大人と世界という「ドーナツ型」をモデルにしがちだが、そうではない読み取り方があっていいとずっと感じてきた。子ども同士の世界は、その間に大人が入り込んでしまうと、その世界は別のものになってしまうと感じるときがよくあるからです。それはまるで素粒子のふるまいを描くジレンマに似ているので、量子的子ども像と私は読んでみたい。そんなことを言っている人はまだ誰もいないかもしれませんが、理学部出身の私としては、とても似ていると思うのです。

大人の世界でも人間関係というのは、ほぼ社会性といっていいわけですが、それはまさに様々なことが生起していて、そのドラマは無限にあるので、それをすべて描き切ることは原理的に不可能です。できることは観測できる世界のなかの代表的な切り取り方をコレクションしていくことしかできそうもありません。

大人が子ども同士の関係の中に入り込んでともに生きる感覚から子どもを「あらわそう」とすることはたくさん論じられていますが、そういう次元を超えて、もう少し俯瞰的なところから、子ども集団のもっている潜在的な生命力の動向を描いてみたいと思います。

量子的というのは、原子の周りをまわる電子を例に考えると、ほんとうは電子は確率的に存在するとしかいいようがないのが事実であって、電子は軌道をぐるぐる回っているわけではありません。ボーアモデルが軌道があるように想定したら波動でも粒子でもある電子のふるまいに計算して合致しているということにすぎません。そこにある確率で存在するとしかいいようのない存在の仕方をしているのです。

その量子力学が誕生してちょうど100年ですが、現実にさまざまな分野で使われいてます。子どもの個々の内面の変化を、保育者がその一瞬とらえたとしても、その前後で解釈した意味付けでしかなくて、現実はすでに過ぎ去り、別の動的な状態にあるに決まっています。子どものエピソードをいくら「それらしく」描いてもその「事実」は、別の意味付けが可能かもしれません。なぜなら子どもの姿を語り合い、多面的にとらえようということが推奨されていて、実際にそうしてみると、確かに、新たな見方に気づき合うことが多いからです。

そうすると、子どもの姿とはどこまで言っても仮説的な記述であって、「こうだ」と誰も確定できない確率的な動向ともいえるでしょう。ここまではよく言われていることと変わりはありません。

ところが「子ども集団」となると、途端に分析が難しくなります。実際に子ども集団の中に分け入ってその動向をつぶさに観察してみると、子ども同士の相互作用は実に複雑で、あいまいで、デリケートで、フライジャルな様相を呈しています。

それでも、まるで、つかの間の閃光のように意味がみえてくるのであって、それを観察者は「面白いことに気づいた」と、切り取って描くのです。まるで電子がある軌道にだけ存在するかのように説明するのに似ています。そのありようを量子的子ども像といってみたいのです。

まだ生煮えの着想なので、たくさんの事例を通じて考えてみたいと思います。集団行動のダイナミックスを感じるモデルが抽出できるかもしれません。

卒園式の翌日は・・・

2025/03/17

「昨日はありがとうございました」「昨日の余韻がまだのこってま〜す」と笑顔で交わしあった朝。大人は気持ち的に昨日をひきづっているのですが、子どもたちは、またいつもの遊びに熱中しています。

子どもは振り返ることなく、あるのは未来のみ。広大な未来しかない子どもたちにノスタルジーなんてあるわけないか! そうだよね!!毎年のことなのに、大人はその瞬時の舞台転換についていけず、気持ちの時差になれないものですね。

午前中はさすがにまったりと室内遊びにして、年長さんは昼食をささっと済ませて、電車で市谷の釣り堀へ遊びにいきました。

そのあとは、子どもたちと一緒に近所の「海老原商店」の海老原さんと、ボタン屋さんに、卒園記念のどら焼きをもって挨拶へ。もうすぐ学校は春休みになりますが、保育園はありません。あと2週間をいかに充実させるか。3月31日(月)まで、目一杯やりたいことをやり抜きましょう。

ところで、年長さんが出かけた後の、ごろごろタイム(食後の休息の時間)を私が担当しました。部屋遊びを観察していると、子どもは基地作りのようなことが好きなのですが、そのこぢんまりとした空間を随所につくっては、子どもの団欒を楽しんでいました。

対話とか会議とか話し合いとか、大人の用語はいろいろとあるのですが、子どもたちのそれに耳を澄ますと、何を交わし合っているのか大人には不思議なやりとりに見えることが多く、まるで意味と感情が溶け合ったような、未分化とでもいうような、一緒感覚が成立しています。

それはそうでしょうね。乳児の頃から「ことばの前のことば」で気持ちを通じ合わせてきたわけですから、まだ文節化されていない世界との戯れこそ、子どもの得意とする生息地なのでしょう。

そんなふうに思うと、いろいろな場所にできるこじんまりとした空間は、子どもたちが一緒にいながら、何かがゆっくりと生まれてくるための孵卵器のようにも見えてきます。

すいすいと泳ぐ魚たちが年長さんたちなら、年少や年中のこの子達は、クラムボンのように、おしゃべりの泡ぶくを出しながら、くっついたり、離れたり、出たり入ったりしながら、蟹のようでもあります。

何をやっているわけでもなく、景色を見たり絵本を手にしたり、転げ回ったり。子どもたちが、それだけできっと集団としての大切なことをやっているのかもしれません。

生態系としての子ども集団は、まるで多様な水生動物が共存している川の中ようでした。

胸がいっぱいになる卒園式でした

2025/03/16

卒園式が、終わりました。証書授与のときに、担任が一人ずつにメッセージを読み上げました。内容は事前に読んでいたとはいえ、担任が必死で言葉を詰まらせないようにしていることが伝わってきて、私の方も冷静さを保ちながら、保育証書を読み上げることになりました。姉妹園とは異なり、子どもたちの気持ちや親御さんたちの表情がみえるので、どうしても涙腺が緩みます。

毎年のことですが、私の拙い挨拶で伝え切れなかったことを、藤森理事長に分かりやすく話を補ってもらいました。千代田小学校の須藤俊之校長先生からも、温かいお祝いのことばをいただきました。子どもたちに人気のダンサーの芝田いづみさん、シェフの江口颯良さんもきてくださいました。青木尚哉さんからのビデオメッセージには、子どもたちから笑い声が漏れて、すこし緊張がほぐれたようです。

子どもたちからの呼びかけと歌(「夢をかなえてドラえもん」と「イノチノマーチ」)は、一生懸命、綺麗に歌おうとしていました。子どもたちの卒園制作は、子どもたちで色を塗ったギター。保護者からは、カホンを頂戴しました。それらを使って職員からの贈る歌はザ・クロマニョンズの「不器用」を歌いました。担任がミュージシャンなので、式は音楽性が豊かでした。

保護者の方からのお祝いの言葉は、とてもありがたく感動しました。ありがとうございました。卒園式は、子どもが主役なのですが、卒園を讃えるために大人が気持ちを込めます。その気持ちが本物なので感動します。はやりこういう機会がないと、こんなことは起きません。ありがたいものです。

記念の写真撮影などのあと、保護者のみなさんが卒園を祝う会を開いてくださいました。たくさん準備してくださり、心のこもったプレゼントと上映にもお礼申し上げます。本当に、ありがとうございました。

 

子どもの育ちは卒園式にも現れる

2025/03/15

それが最もよく現れるような場面をいかにつく出すか?保育はその条件のようなものを具体的な環境を通して具体化していく営みなのでしょう。その空間の中に生起する出来事の中に、子どもの姿が浮き出てくるようなあり方として。それが卒園式でも起きるのだということを目の当たりにしてきました。今日は姉妹園の卒園式でした。

「それ」というのは一言で言うのは難しいのですが、最も近いのは「育ち」という言葉でしょうか。もっと広がりのある繊細な経験のことなのですが、卒園児26名の全体が醸し出してくる雰囲気、一人一人へメッセージ、呼びかけの声、何気ない子ども同士の気遣い、歌声の響き、大きくなったら何になりたい!という思い。それを包み込む親や先生の一人一人に去来する思い出。そうした諸々の思いが交錯する空間でありながら、幸せを希求する方向に発される輝き。

セレモニーがそれにとどまらないためには、本人の姿が伝えてくるものが物語るとしかいいようがないでしょう。この子達のことを知らない私は、それを6年間共にしてきた親や先生の思いを知ることはできません。それでもこのような子供達の姿が、なんとも可愛くて胸を打つのは、子どものもつ不思議な力のなせることだと思います。

とびだせ すいすい 卒園式をまえに

2025/03/14

どんな卒園式にしたいかを子どもにきくと「楽しい卒園式」という言葉がでてきます。その「楽しい」の中身は子どもによって異なるかもしれません。ところが、大人がイメージする卒園式の場合に「楽しい」が入ってくるかどうか? 12月に開いた「お楽しみ会」なら、劇遊び、ごっこ遊びをご家族と一緒に楽しむという「ねらい」があるので、まさに「楽しい」というイメージと一致します。私たち大人が卒園式や入学式にこめる思いは、重みがあります。子どもたちにもその重みを感じています。それがどこからくるんだろう?と考えると、やはり、この生活がもう直ぐ終わるという予感から現実に向かっている時間がそうさせていくように思えてきます。

何かが終わって新しい何かが始まるというのは、存在し続ける生命(いのち)の特徴です。あり続けているのに、個体は一生という時間を生きる運命になっている、その生と死の循環の縮図を、入学や卒業というセレモニーは醸し出してしまうものに、思えてきます。それは去就と再生の儀式にどうしてもなっていくのでしょう。

今日は2回目のリハーサル、といっても通しでやってみたのは初めてですが、「ちょっと緊張した」という言葉もありました。練習を始める時、私はすいすいさんたちが主人公だよ、どんな式にしたいか、ともう一度聞いてみました。それを自覚できるようになってきているからです。自分たちで思い通りの楽しい式になるといいね、という気持ちを込めたのですが、夕方からの会場準備には本人たちも家具の移動などをせっせと手伝ってくれて、それがとても楽しそうでもあり、頼もしい限りでした。

式の中には子どもたちからの「呼びかけと歌」があります。その歌の一つは「イノチノマーチ」で、こんな歌詞です。

🎵 飛び出すぜ 心はどこへ 水の中 地図の外

はじまりだ いま おわらない もう

命のマーチ 水平線に

鳴らせ 無限の ファンファーレ

この歌を担任がふだんから子どもたちと一緒に歌ってきました。マーチに合わせて歩んでいく私たちのそれぞれの人生は、地図にも載っていない、行き先の見えない旅のようなものです。

でも私たちは最初から、なぜか、もうすでにここにいて、はじめっているいることに後で気づくのですが、それは終わることのない「いのちのマーチ」でありながら、喝采を集める今の連続でもあるのです。

卒園式は、みんなで讃えたいので、日曜日の開催です。

2歳児を配慮して年長が話し合いの結果を修正する

2025/03/13

幼児はふだん年少から年長までが一緒に生活しているのですが、その異年齢集団のなかで、当番活動というのがあります。そのなかの一つが話し合いの司会。色分けした異年齢グループが4つあり、日毎に変わっていきます。

その日課の一つに、朝や夕方に話し合って何かを決めるということが必ずあるのですが、3時のおやつを食べ始める前に、おやつの後でどこで何をして遊ぶかを決めます。

今日は赤グループの年長のMくんが司会でした。何人もの手が挙がっていますが、運動とかごっことかが決まっていきます。

ただ、そのときに話し合い集まっていたのは、3歳児以上のクラスだけだったので、2歳児がまだお昼寝からおやつの場所に来ておらず、それに気づいて、途中から話し合いの結果の修正がおきました。移行保育が始まって、一つしたのクラスが上に来て一緒に過ごすことが多くなってきも、つい2歳児にこにこ組のことを忘れてしまいがちなのです。

そこで運動ゾーンで一旦「野球」をすると決まっていたのですが、2歳児も来るとわかると、司会が意見を聞きなおし、年長のRくんが「ふつうの運動」と提案し直したのでした。さりげなく決まっていったのですが、この辺りも、自分たちのことは自分たちで決めていくプロセスの一つとして大切にしています。

結果的に、3階にきた2歳児にこにこ組の子たちは、5時までゲームパズルなどの机上遊びを選んで過ごし、運動ゾーンは結局、幼児たちが野球をしていたのですが。

 

保育園で晩御飯を フードコートで試食会

2025/03/12

スマホで注文すれば保育園に晩御飯の料理が届く「ちよだフードコート」。4月から月2回(第2、第4水曜日)、午後5時〜7時で計画中ですが、今日はその料理の試食会でした。

多くの方に味見していただきました。美味しいと好評でほっとしました。どのくらいの方が利用したいと思われているか連絡アプリでアンケートもしていますので、よろしければご返事ください。注文できるLINE用のQRコードは、後日、別途お知らせします。

野菜でお描きのアート体験

2025/03/12

幼児が紙皿にお絵描きをしました。画材は絵の具でもクレヨンでもなく、野菜のニンジンです。

色の違う3種類の人参をペースト状のピュレにして、チューブやスプーンで皿に載せていきます。そして茹でたいろいろな色と形の野菜(人参やたけのこ)を飾っていきます。

そして鑑賞したあと、最後はそれを食べます。

子どもたちの思いつきが形になっていくプロセスに、子ども自身がきれいだな、面白いな、を発見していきます。「どう?これ」といった風に何度も見せにくる子もいました。

フランス料理シェフの江口そらさんは、一流レストランから独立して食育活動の会社ラビットを起業しました。

丹精込めて育てている野菜農家とのつながりのなかで、乳幼児期からの味覚とアート体験を大切にする活動を展開しています。その後、当園との出会いから「味覚の探究」活動が始まりました。東京すくわくプログラムにもなっています。

アスパラガスを幼児のライフ料理の副菜に

2025/03/12

2歳児のアスパラガス体験のあとは、幼児の昼食に副菜としてアスパラ焼きを加えました。

味覚体験の日(毎月第二水曜日)のお昼ごはんは、副菜に野菜のライブ料理が追加されています。

今日はカレーライスだったので、それにアスパラを添えて食べている子たちがたくさん。彩りも良くて食が進みました。

 

旬のはしりのアスパラガスを味わう

2025/03/12

今日の食材はアスパラガスです。白いのと緑のを比べてみます。と、思って始めたのですが、それよりも単に「食べること」を超えた関心の広がりを感じる活動になりました。

最初に「アスパラガス、知っている人?」とシェフのそらさんが聞いてみると「は〜い」。意外とみんな知っているんですね。好きだという子もいて、「へえ、そうなんだ!」と、大人が顔を見合う感じから始まりました。

この活動は、素材を見たり触ったりするところから、食べるところまで、一連の流れがあるのですが、それぞれを、いろいろやる前に「どうなると思う?」「どうしてかな?」などの質問と返事が繰り返されていきます。

その返事が面白い。触ってみたりすると、お皿にトントン叩いたり、音を立てたり・・「テレビで見た」「おうちでも・・」など。たとえば、どんないろ?ときくと、「きみどり、みどり、しろ、アスパラガス・・笑」。2歳児クラスの9人ですからね。

匂いをきてみると「しない」という子もいれば「する」という子も。

まな板と包丁が出てくるのは、毎度慣れているのですが「包丁は触っていいんだっけ?」というと、ダメ〜という返事だけではなく「手が切れちゃう」「指切っちゃう」と具体的な言葉がでてくる変化が。どっちから切ろうか?にも「白から切ろう」などと、これまでの経験から、それぞれの子どもに余裕のようなものがあって、「こうしたらいい」という自分なりの考えが溢れているように見えます。「中はどう?何色?」とのやりとりも楽しそうです。

午後の振り返りでも出た話題なのですが、「言葉でのキャッチボールが増えたよね」「次にこうなるだろうと見通しがでてきて、落ち着きを感じました」という話になりました。

つぎは皮むきです。ピーラーをつかって根本から少し上までの皮をそぎます。その皮も嗅いでみます。その次は茹でます。「お風呂に入るよ」と目の前の鍋に、長さの違うアスパラを、一人ずつ子どもが選んで、そっと入れます。優しい手つきです。少し塩も入れますが、「これ何かな?」「お砂糖」「おしお」・・溶けて見えなくなると「なくなった!」という声。

茹で上がったら、まな板に乗せると、少しいい香りがしてきます。たべたい?うん。少し長めの一口大に切って、「どっちがいい?しろ?みどり?」と聞きながら、お皿に取ってあげます。そろったら「いただきます」。美味しかったのか、意欲的にペロリ。それぞれの顔から受ける印象は「こんな味なんだな。うん、おいしいじゃん!」というような感じでしょうか。

アスパラガスのように縦に繊維のある野菜は、硬さによって食感が変わるのだとか。繊維質以外の部分、果物の果肉に相当する可食部分を「美味しい」と感じるために、小さい子どもには、柔らかめの方がいいそうです。口の中でとろけるような感じで、いわゆる狭い意味の「味」だけではなく「食感」をよくする工夫の大きい食材だと言えるのかもしれません。今日の茹で具合は、3分ぐらい。レストランだともう少し硬めにするそうです。

食感が敏感な子は、最初、白いアスパラを食べようとしなかったのですが、緑色の方を選んで食べた後は、白い方をおかわりしています。食べやすい「食感」だったからこそ「美味しかった」のでしょう。みんな食べ終わってもテーブルに残っている子もいて、まるで余韻を味わっているように見えました。

今度は焼いてみます。これも子どもたちは毎回大好きで、だんだん焼けていく様子をじっとみています。油をたらし、途中で塩を振り、香ばしい匂いがしてきます。「できたよ」というと、子どもたちがさっと席に戻ります。それも可愛らしくて微笑ましい。

今回の食べ比べは、食べること以外に関心が広がっている姿を随所に感じました。振り返りの時間に、担任の先生からは「砂場で遊んでいるときに、塩を振っている(アセドネ)そら先生の真似をしていたり、お家で買い物に行って「かぶ」を買ってとねだられたり、味の探究の世界がすこし広がってきたようです。

 

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