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園長の日記

木場公園で季節を満喫

2024/12/10

バスで出かけた木場公園。幼児クラスに、半分の2歳児クラスも合流しました。詳しくは保育ドキュメンテーションをどうぞ。

大きなアスレティック遊具での遊びと、雑木林での遊びが両立できるのが「冒険広場」です。かりに園庭があっても、こんなたくさんの落ち葉はありません。

落ち葉をかき集めて、パラパラと上に投げたり、大きな山をつくり、まるで大型クッションかトランポリンのように、遊んだようです。

こういう遊びをすると、まるでからがの中に季節が入り込むような感覚とでもいっていいでしょう、忘れられない季節の体験になることでしょう。

 

 

 

公園の葉っぱも、子どもの手にわたり満足そう

2024/12/09

公園の葉っぱが、子どもたちに話しかけています。

「ここにいるよ!」「ぼくはどう?」「わたしもみて!」

それが子どもたちには、よく聞こえるようです。

枝から舞い落ちたきれいな葉っぱたち。

いろんな色や形をした、一枚、いちまい。

地面から吸い上げられていった水や栄養がお日様とであって輝き、

何かを成し遂げて、また地面に戻っていく。

子どもたちに手にとってもらう、葉っぱたち。

子どもに楽しみを与えてくれる、葉っぱたち。

葉っぱたちも、子どもたちに遊んでもらって、満足だったことでしょう!

 

落ち葉でコラージュしてみた

2024/12/09

12月中旬の和泉公園は、大きな枯葉がたくさんあります。これは、そこから持ち帰った葉っぱで作った子どもたちの表現。

散歩などで子どもたちが持ち帰るものには、意味があります。持ち帰るものと、持ち帰らないものがあるので、そのことだけでも、少し察しがつくのですが、さて、どうでしょうか?

どんなふうに心惹かれたのかは、子どもは言葉で説明してくれないので、このような「形」で表現していくことで、何かが現れてくる気がします。それは大人も同じかもしれませんね。いいものはいい、何か気になる、としかいいようがないといったふうなことですからね。

この並べ方にも注目したいです。葉っぱの上下があるようです。枝との関係も見えてます。そして全体的に結構バランスがいいのは、先生のアレンジでしょうか?

園長の感謝と願い(お楽しみ会を終えて)

2024/12/09

お楽しみ会はいかがでしたでしょうか?今回は、初めて、保護者の方にも、出し物をやっていただき、ありがとうございました。園だけでは提供できないことや、親御さんのを子どもたちが見ると言うのも良い経験になりました。

早速アンケートの回答ありがとうございます。それを読んでいて、ちょっと反省しました。会の最後の挨拶で、私が余計なことを話したかもしれないと。ちょっと言い訳になりますが、長年の経験から、このような行事が子どもの出来栄えを発表するような集大成のような受け止め方をされると困るなぁと、ちらっと思ったからです。アンケートを読んでいて、余計なことだったと思った次第です。うちの保育園の大切にしていることをよく理解してくださっていると感じて、胸がいっぱいになりました。ありがとうございました。

・・・

アンケートを読ませていただく前に、少し書いていたものがあるので、紹介させてください。お楽しみ会のアプローチで先生たちがかなり苦心している点です。先生たちの努力を褒めて欲しいと言う気持ちです。行事の前には紹介しにくかったので、ここで少し説明します。

これまでのお楽しみ会は、どちらかと言うと、劇と合唱合奏でした。しかし、その本質であるはずの遊び性の豊かさが伝わらないもどかしさを感じていたので、先生たちが最も大切にしているものをそのまま表そうと言う方針に昨年より変えました。以下の説明は、私の代弁的な説明になります。

(1)遊びの虚構性を劇にしたい

子どもたちが自発的にやり出す遊びの中には、いろいろな要素が混ざっています。幼児の場合、紙や粘土などの素材を活かして何かを作る遊び、道具を使って体を動かしたり楽しさ、何かになったつもりのごっこ遊びなどが混ざっています。

簡単にいうと制作や運動や模倣が相互に繋がりあっています。今年の幼児のお楽しみ会では、3歳児クラスのお店屋さんごっこ、4歳児クラスの野球物語、5歳児クラスのヒーローショーは、ちょうど制作遊び、運動遊び、ごっこ遊びが表に出ていたと言えるでしょう。

そもそも遊びには虚構性があります。自覚してやりだすと演劇性といっていいのかもしれません。年長さんのヒーローショーは演劇的でした。年少の本物のパン屋さんのようにやりたい、年中の大谷翔平のようにホームランを打ちたい、年長の悪者を打ちまかすヒーローになりたい。本当にはできないけど代わりにやっているとも見えますし、そのために思いついたいろいろな目的を達成する充実感もあります。

繰り返しても飽きない芸術性も含まれています。まるで本物のドーナツのような、透明な袋に装飾されたパンやお菓子。売り子や応援のグッズのデザイン。バットで打てば飛んでいくボールの感触。ヒーローに変身するための手の込んだ衣装。最後は音楽で、みんなが好きな「にじ」と「100%勇気」を歌いました。

それらを作ったり、やってみたり、演じてやってみたりする楽しさを繰り返し味わってきました。それをやっている時間は、子だもたちにとってかけがえのないもので、しっかり守ってあげないと、なんでもない時間のように思われがちな、壊れやすい空間なのです。目に見えない薄膜のような時空で覆われた空間とでも言っていいようなもので、その中は、面白さや楽しさで埋まっています。発見や驚きや冒険が展開されます。

(2)発達は経過で見なければ伝わらない

そのような遊びは、ただやることが楽しいのであって、別に誰かに見てもらうためにやっているものではありません。やっている遊びの中に、お父さんやお母さんも一緒に入って過ごす時空が継続的に成立すれば、それは子どもにとっては最も幸せな時間になりえます。似たような単発のイベントならできますが、時間をかけて作り上げていく遊びそのものに大人が参加すると言うのは難しいものです。保育者の専門性はそこにもあります。

ただ、子どもはやっていくうちに、その面白さを大好きな人、つまりお父さんやお母さん、お家の人に、伝えたい、共有してほしいと言う願いも、自然に生まれてくるのです。遊びは頑張ってやるものでも応援してもらってやるものでもありません。自分が発見した面白さや楽しさを、分かち合って欲しいと言う気持ちから、その心の交流を期待して、子どもたちは待ち遠しく思うのです。何かが上手にできたとか、立派だったと言うところを褒めてもらいたい、というのが主ではないのです、もちろん、それは嬉しいことですけれど。また、そう感じていたことも忘れてしまうこともあるようですけれど。

(お父さんによる、こま回し)

これらの遊びの進展状況や、活動がどのように変化していったかは、先生たちがそのプロセスを丹念にドキュメンテーションにしてお伝えしてきました。それぞれが、遊びの発端の頃から、その変化をたどっていくと、その過程に、それぞれが好きなことややりたいことを追求しながら、みんなで1つのものを作り上げていく、協力していく姿が見られました。

そのプロセスの中で、一つ一つ「面白い!楽しい!」と味わっている子どもたちの発見の連続がそこには見られます。そこに気づくことが、先生たちの面白さでもあり、保護者の方に伝えたいと思う動機もなっています。

(お父さんの、ブレイクダンス)

(3)子どもの遊び性を守りたい

そうすると、案外難しいなぁと思うのは、遊びの醍醐味を伝えたい行事なのに、その日が、何かの成果の集大成のように受け止められると言うことです。そこに至るまでの共同的で演劇的な遊びの世界に、まるで、リアルな現実の評価のまなざしが注がれるようなときのようで、それに沿おうとすると、見られることに慣れていない乳幼児の遊びの世界はフリーズしてしまいがちです。

気分良く、その流れの中で思いついたことも、ちょっと考えれば、違った!と思ってやめてしまうような、まるで泡のように素敵なこともすぐにパチンと消えてしまうようなことも、いろんなことが生まれては消えて、を繰り返しています。ものによっては大きく膨らみ発展したりします。できると思って、はいはいと元気よく手を挙げたけど、いざ、口にしようとすると、何も言えなくなってしまうような、誰もがそういう経験を持ってると思います。そのようなこと、丸ごと全てが、生き生きと活動していて、時に微笑ましく、時に素晴らしく、時に目を覆いたくなるような姿を見せてくれるのです。

(お母さんによるゲーム)

立派にやれているか否か的な評価の眼差しは、遊びの世界の風船を、簡単に破裂してしまいがちです。それだけは起きないように、子どもの世界を守ってあげたいのです。練習を繰り返して、何かが上手になり、立派なものが仕上がってお披露目をする。それはそれで一見何の問題もないように見える流れなのですが、そこに脱線や行きつ戻りつも起きていて、本当の意味での遊び性を保障していくのは難しいものです。何割かの子どもには、その道だけで通用するかもしれませんが、私は多くの場合、そこでは本当の自発性が育ちにくいのではないかと感じています。

それから蛇足かもしれませんが、子どもは基本的に多動性を持ってます。じっとしておくと言うのは難しいものです。個性の差もありますが、数の多い集団が何か同じことを同じタイミングで同じ場所で揃えてやると言うのは難しいものです。気持ちが、ハイになっているときは、なおさらです。ふだんなら情報を制限してあげたり、注意をコントロールしてあげたり、気づいていない時は声をかけたりと言う事は必要ですけれど、行事ような時は限界があります。

 

「つろいだ雰囲気」と「ハレの気分」が混ざり合う

2024/12/04

事務所の印刷機から、セリフの書かれた台本が印刷されてきます。今週末のお楽しみ会の準備をしている先生から台本をもらって読みながら、先日やった1回目のリハーサルを思い出します。劇遊びは普段やっている遊びがそれなのですが、さらに行事にそれを位置付けたとたん、なにか別物になってしまう感覚があって、それを別物にしないようにしたいと思います。そのポイントの一つが、自分たち始まった遊びが、見てもらう遊びに変わっていくということがあります。見てもらいたい!と俄然張り切って楽しみにしている子どももいれば、当日にはまた「そうならない」場合もあります。

生活というものは、基本は「自然にそうなる」という状態がベースになります。緊張していたり、いつも頑張っているという状態では、生きていけません。基本はやりたいからやっている。何もしたくない時はしない。いずれも「そうなるようになっている」という状態です。大人だってそうでしょう。基本はそんな感じのはずです。そこに時には努力や挑戦や歓喜や落胆などが入り込んできます。「時には」の頻度は人によってかなり差がありそうですけれど。

自然とそうなるようになる状態というのは、例えば身体的にも精神的にも、だらっとして気が抜けている状態から、元気はつらつと、活発に遊び込んでいる状態まで、周期的に変化していきます。そこにはリズムがあります。そういう変化を含めて「自然にそうなる」という状態が毎日の繰り返される生活リズムです。

そこに行事という、普段できないことをやってみようという、いわばハレの活動がやってきます。これは数ヶ月ぐらいの、ちょっと長い周期でやってくる感じです。今週末の、幼児のお楽しみ会もそうですが、子どもたちといると、それにむけて、ウキウキとした気持ちが伝わってきます。それも「自然にそうなる」の一部です。面白いことが始まるという予感が、通低音のように聞こえてくる時があるのです。

大学から音楽の先生がいらして、いろんな話をしたこともあり、このリズムのような、脈を打つ生活リズムには音楽性があって、聞こえない音楽が生活を奏でているのかもしれないと思いました。生活の中にある躍動の周波数が、聞こえない音を奏でている。そういう想像も面白い。リハーサルというのは、前奏曲がところどころなっていて、何か向こうからやってくる感覚のなかで、そこに向けての今も何かがなっているのかもしれません。

自然にそうなるという状態は、くつろいだ状態から何かが自ずと動き出すものなので、行事というのは、不思議なもので「くつろいだ状態」でありながら、「ハレの気分」も同居してくるのです。一人一人の子どもの胸のうちで、どんな前奏曲がなっているのでしょう。聞こえるものなら聞いてみたいものです。もし人間が作曲の表現器官を与えられていたら、きっと奏でてくれるはずです。お楽しみ会の前奏曲。すでになり始めている音楽。

遊びの中に学びを組み込みすぎる居心地の悪さ?について(再考)

2024/12/03

園だより12月号 巻頭言(全文)より

研修レポートを読むのが楽しい。というのは、書いている人の気づきに「確かに!」と同感することがあって「そう言われてみると、確かにそうかもなあ」と新たな問いが生まれてくるからです。よくわかっていなかったことに気づくというのは、わかったつもりになっていた状態よりはいいと思いので、ちょっとだけ、不安定な状態に戻るのですが、それもまた次に進むために必要な感覚ではあります。行きつ戻りつ、先に行っている理路をつかって、ちゃんと説明できるかどうか。自分が問われてくるからでもあります。

こんなレポートでした。研修のテーマは「保育を支える思想と哲学」というもので、研修報告の要点には「ヴィゴツキーの遊び論の限界も捉えながら「あそび」のなかに学びを組み込もうとする保育の居心地の悪さのようなところについても考えていく」とあります。この居心地の悪さの例として、講義のなかで挙がっていたのが「泥団子転がし」のエピソード。傾斜に転がして遊んでいた子どもたちに「なんで速いだろう?」「なんで遅いと思う?」と投げかけ、何かに気付かせようとする保育者がいたという話だそうです。

研修を受けた先生は、これについて<子どもを発達的な視点で捉えてみよう、という癖がついている保育者にとっては、ついやってしまいがちな行動かも、とも思います。ただ、あそびの楽しさや面白さは、大人の意図とは別のところにある、というところは、ほんとうにその通りだと感じると同時に、大人はもっと、ただただ楽しい!おもしろい!という情動の面を大切にしてみる視点も必要なのかなと感じました。>と書いて、自身の小学校のときの遊びの実感を振り返って考察しています。<・・・>部分がレポートの引用です。

その小学校の時の遊びとは、蝉を捕まえてきては部屋に放して遊んだというもの。

<・・・セミ取りに夢中になっていて、虫取り網とかごを持って近所をうろうろしたり、何匹も捕まえてきて部屋に放ってみたりして遊んでいました。夏休みには夜中までセミの羽化の観察をしました。そうしてセミとたわむれて遊んでいるうち、あるとき『死んでしまったセミは、ひっくり返って足が閉じているけれど、まだギリギリ生きているセミは、ひっくり返っていても足が開いているようだ・・・』ということを発見しました。それ以降、「このセミ、まだ生きている」とか「これはもう死んじゃっているな」と観察実験を重ねて、それが確信に変わっていったとき、自分だけの秘密の発見をしてしまった気がして、嬉しくなったのを覚えています。・・・>

そしてこういう話になっていきます。

<・・・どんな遊びにも、「もっとこうしてみようよ」とか「こんどはこうやってみる?」といった実験的な要素があって、子ども自身がそれを選びながら楽しんでいるのではないかな、と感じます。子どもたちのごっこあそびを見ていても、「じゃあ、これを〇〇ってことにする?」「いいねぇ!」という会話がよく聞こえてくるし、砂場遊びでも、運動遊びでも同じような姿が思い浮かべられます。(ヴィゴツキーの遊び論の話では、なりきり遊びにスポットが当てられて論じられていましたが、そこにとどまらない遊びがたくさんあるな、とも感じました。)

こうして、遊びの中で何かに気付いたり、こうやってみようかな、と自分なりにトライしてみたりする楽しさや面白さは、自分の中から湧きおこってくるものであり、誰かに言われて気付いたり意図して組み込まれたものではなかなか体験できないのだろうと感じています。

子どもたちは、何かに気付こうとして遊んでいるわけではないけれど、こうして何か好きなあそびや熱中できるあそびを繰り返すうち、“もしかすると、こうなのではないが“とが”もっとこうしてみようかななどと、おのずと自分なりの実験や試行錯誤をしてのめりこんでいくのだと考えました。それは、友だち同士の中でも生み出されるし、自分自身の中でも生まれてくる面白さだと思います。・・・>

小学校の頃の実感と思い出は、私にもいろいろあるのですが、幼児期のそれはなかなか思い出がありません。でも実際に保育園で子どもたちの遊びのそばにいると、ここで先生が<いわんとしたいこと>には共感できます。でもうまく説明できないのですが、子どもの情動の面と、自分から動き出すものの、その二つは取り替えがきかない、かけがえのなさ、に関する実感です。

確かに、たとえば同じことを繰り返しているようにみえながら、例えば好きな絵本を何度も楽しむのはお咎めがないのに、なぜ虫探しや泥だんご転がしだと、そればっかし!という視線を浴びがちなのだろうか?そんなことをふと思い付きます。

ちょうど、さきほどお迎えに来たお母さんに抱かれて、Yくん(4歳児の男の子)が泣いていました。あれ、どうして泣いているかな?思って声をかけたら<野球をもっとやりたかった(お迎えが早い)>と悔しがっていたようです。明日もできるよ、というのは慰めにならないことは、私もよくわかります。やりたいのは今なんですからね。研修レポートはこう続きます。遊びを考察するために、足場かけ論と増幅論を題材に学んできたようです。

<足場かけ論のように次々と遊びを発展させていくことを求めていくのではなく、増幅論のようにその遊びにとどまりながら、何度も繰り返し、深めていく・・・というところにこそ、ほんとうの面白さが見出されていくように感じました。>

スキャフォールディングって、そんな単純なものじゃないと思うけどなあ。まあ、そういう理解が浸透しているのでしょうか?

保育界では「遊び込みから探究へ」ということがよく言われるようになってきました。また「プロジェクト的な活動」もよく取り上げられるようになってきました。研修レポートでは、探究との類似性へと、話が展開していきます。

<それは、子どもたちのあそびへの「探求」というところにもつながっていくのだと感じます。今年、園では「探求」というテーマを深めていますが、それについて考えていると「繰り返す」という言葉がなにかキーワードのようにも感じられます。同じことを「もう一回!もう一回!」と繰り返すこと。

その中で、子どもたちは、微妙な変化や違いを感じ取ってみたり、それをプラッシュアップしてみようとしたりしているのではないかなと思えます。発達的な意図や教育的な意図を持たせようとしてその行動を見てしまうと、大人の視点からば”ただ同じことを繰り返しているだけで変化がないよね”という見方になってしまうのかもしません。でも、子どもにとってはそれは大切な探求の時間であり、面白い!たのしい!と思えるから何度もやってみる、という姿でもあるのだと感じます。「探求」という言葉とあそびの「増幅論」は、何かつながるものがあるように思えました。>

このレポートについて、書いた先生と話してみると「同じような経験がこれかなあと思って」と、蝉の話を思い出したそうです。次々と展開してく活動の見栄えの良さに惑わされないで、その子の切実な楽しみのようなところをちゃんと支えてあげる感じ。そしてこんな結論に至っています。

<大人は、子どもの興味や関心が引き出されていくような環境を用意してみるけれど、そこに子どもたちがどう関わって、どう遊んでいくか、は子ども自身が決めることなのだと思います。少しきっかけを作ったり、ヒントを作ったり、より良い場所へ行ってみたり…という環境構成は保育者の役割だと思いますが、目の前の子どものあそびに、必要以上に何か意味や意図を持たせようとしすぎないことも大切だと感じました。子どものあそびのありのままの楽しみや面白さを、一緒に感じ取り、そっと見守ってみること、そして大人自身が楽しむことを忘れずに過ごしていきたいと思います。>

というわけで、必要以上な意味や意図は「的外れ」に過ぎないでしょうし、私はただ感じて見守るだけでも物足りないとも感じてしまいます。いや、そういうことが大事な時もありますけれども、でも私はさらに、この遊びの余白の部分に、意味を見出だしたい。ここで書かれている意味や意図とは違うのですが。その営みとしての探究は、はやりやめるわけにもいかないのでした。

そして実際にもっと先へ考察を深めている方からの学びを踏まえると、この研修で前提にしている遊び論のモデルがちょっと古いのでしょう。遊び論はもう少し進んでいるようです。でも、この辺りから、ちゃんと「ありがちな反論」を乗り越えていく必要があるだろうことはわかります。きっと学びの概念が古いのだろうと思います。3つの資質・能力からちゃんと学べば、心情・意欲をとても大切にしているし、情動と知と課題解決プロセスが遊びに含まれていると思えるからです。環境からの呼びかけに応答するという生態学的な思いつきの動向も、学びを考える時に、もっと大切にするべきなのでしょう。

遊びの中に学びを読み取りすぎる居心地のわるさ

2024/12/02

<巻頭言12月号より>

遊びの中に学びを読み取りすぎる居心地のわるさ

先生の研修報告から。研修のテーマは「保育を支える思想と哲学」というもので、研修報告の要点には「ヴィゴツキーの遊び論の限界も捉えながら「あそび」のなかに学びを組み込もうとする保育の居心地の悪さのようなところについても考えていく」とあります。この居心地の悪さの例として、講義のなかで挙がっていたのが「泥団子転がし」のエピソード。傾斜に転がして遊んでいた子どもたちに「なんで速いだろう?」「なんで遅いと思う?」と投げかけ、何かに気付かせようとする保育者がいたという話だそうです。

研修を受けた先生は、これについて<子どもを発達的な視点で捉えてみよう、という癖がついている保育者にとっては、ついやってしまいがちな行動かも、とも思います。ただ、あそびの楽しさや面白さは、大人の意図とは別のところにある、というところは、ほんとうにその通りだと感じると同時に、大人はもっと、ただただ楽しい!おもしろい!という情動の面を大切にしてみる視点も必要なのかなと感じました。>と書いて、自身の小学校のときの遊びの実感を振り返って考察しています。(詳しくはHP「園長の日記」をご覧ください)

<その中で、子どもたちは(繰り返し遊ぶ中に)微妙な変化や違いを感じ取ってみたり、それをプラッシュアップしてみようとしたりしているのではないかなと思えます。発達的な意図や教育的な意図を持たせようとしてその行動を見てしまうと、大人の視点からば『ただ同じことを繰り返しているだけで変化がないよね』という見方になってしまうのかもしません。でも、子どもにとってはそれは大切な探求の時間であり、面白い!たのしい!と思えるから何度もやってみる、という姿でもあるのだと感じます。>

<大人は、子どもの興味や関心が引き出されていくような環境を用意してみるけれど、そこに子どもたちがどう関わって、どう遊んでいくか、は子ども自身が決めることなのだと思います。少しきっかけを作ったり、ヒントを作ったり、より良い場所へ行ってみたり…・・という環境構成は保育者の役割だと思いますが、目の前の子どものあそびに、必要以上に何か意味や意図を持たせようとしすぎないことも大切だと感じました。子どものあそびのありのままの楽しみや面白さを、一緒に感じ取り、そっと見守ってみること、そして大人自身が楽しむことを忘れずに過ごしていきたいと思います。>

子どもたちの「遊びの世界」は、いかがでしたか?

2024/12/01

昨日のお楽しみ会はいかがでしたでしょうか?

11月18日に「ちぐん」のブログに次のようにご案内しました。(パスワード必要)

https://www.chiyodaseiga.ed.jp/chicchi/

https://www.chiyodaseiga.ed.jp/gungun/

<この行事は、「発表会」という趣旨や形式ではなく、どちらかというと、子どもたちが日ごろ楽しんでいる生活や遊びの中に 保護者の方も一緒に入り込んでいただきながら、その世界をみんなでたのしもう!という時間にしたいと考えています。それなので、(ちぐに組は特に)なるべく普段通りの子どもたちの姿を引き出すため、できる限り日常の園生活に近い環境で、会をすすめたいと思っています。
…とは言いつつ、ちぐん組は、みんなで広々楽しみたいという思いもあり、今年は2階のランチルームで開催してみる予定です。(果たして、どうなるでしょうか…!保護者のみなさんも、お子さんと寄り添いながらリラックスした雰囲気で、お楽しみください^^)・・>

またにこにこ組の予告編としては、同じく11月18日の「園長の日記」で、ご紹介させてもらいました。

子どもなりの意欲が溢れている遊びだから心も躍動し楽しいのだと思います。そういう意味でも、お楽しみ会なども、これからどうなっていくかわかりませんが、それぞれの子どもたちがいま最も楽しんでいる「お話し」を楽しみたいと思っています。>

さて、生活発表会ではなく、お楽しみ会。実際のところはどうだったでしょうか。普段の日常の園生活で心弾ませて遊んでいる楽しさを、お届けできたでしょうか。私たちが感じたは、親御さんがいることで、さらに嬉しい! 楽しい! が膨らんだと思います。また、ちぐん組では親子さんに紙芝居を読んでいただいたり、ギターで伴奏していただいたり、あるいは、にこにこ組では、おおかみに食べないで〜と、子どもと一緒に守ってくださったり、麻酔注射をしていただいたり、大いに活躍いただきました。(ご協力ありがとうございました)子どもはたちは、その遊び心が、大好きです。そしてやっぱり。子どもたちも大喜びでした。

職員の感想にこんなのがありました。

「大人が楽しんでいくうち、客席?側で見ていたいIくんも、楽しそうな笑顔が出てきていました。いろんな参加の仕方があって良いな〜と思います。Iくんは舞台のほうを向いてニコニコ見ていたので、お父さんやお母さんはその表情に気付かなかったかもしれないけれど、そうしてちょっとした表情の変化にも、子どもの楽しむ気持ちが表れていると思うので、(Iくんの例に限らず)そうした面も保育者としてクローズアップして伝えていけたら良いなと思いました。」

子どもにとっての楽しさは、ほんとにさまざま。その楽しさから引き込まれていく世界への筋道は一通りではないでしょう。親御さんの膝上が、きっと最もその世界を楽しめる特等席だったはずです。そしてその世界を安心して楽しんでいたのではないでしょうか。私からはKちゃんも、Tちゃんもニコニコと楽しそうでした。

アンケートは明日配信させてもらいます。今週末は、幼児クラスですね。どうぞお楽しみに。また来年は、すべてのクラスのものが通して見られるようにできたらと思いますが、どうなるか。ライブ配信は全クラスから見られるようにします。

明日からの生活も遊びに溢れた生活を、みなさんと一緒にたくさん作っていきましょう。

 

 

公園の落ち葉がベランダにきてアリが誘う床の下の世界

2024/11/28

子どもを未知の世界に誘いたいと思っていたら、いつの間にか私たち大人も未知の世界に引き込まれていた!ということがあります。今週初めの1歳児クラスの保育の記録に、それが書かれていました。

<柳北公園の落ち葉が、テラスにやってきて、その葉っぱ遊びがアリの観察のきっかけになって、アリとの出会いが、テラスの床下の世界につながって・・・と、毎日の遊びがどんどん色々な方向につながっていく様子が面白いです。(テラスの床下を覗いたことなど、この保育園に勤めてから初めてでした…!)子どもたちは、大人が気付かない、いろんな世界を見せてくれます^^>

この「まとめ」の前の、1連の写真報告を、ぜひご覧いただきたい。

・・・・
いかがでしょうか?

このちょっとしたことのように思える展開の中に、担任のきめ細かな観察や優しさが垣間見えます。公園の落ち葉への関心を大切にしてあげたいという思い、公園で落ち葉を集めている子に、袋を用意してあげるかどうか。それをベランダに撒くことを許してあげるかどうか。その中に見つけたアリを追いかけ始める姿に、心の鼓動の高鳴りを聴くことができるかどうか。床の隙間を覗くために、スマホのライトを用意してあげるかどうか。

こうした、その都度のつながりは、まるで小さな木の実に細い糸を通してあげるような、小さな保育の営みなのです。それを丁寧にその糸に通し続けてあげるかどうか。担任が「ぐんぐんさんように懐中電灯を用意したいな」と呟いていたのですが、そういうことが嬉しい話です。子どもの後ろをちゃんとついていくような保育。後ろいいても子どもが注意を向けている世界へのピントは外さない。こっちだよ、と子どもが教えてくれることも多いですけどね。

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