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園長の日記

石に色を塗って遊んでいたら・・

2025/01/09

石に色を塗りたい!今日はこの希望に忠実に従って始まったのですが、まったくゴールは見えません。ひたすらそこから偶然に起きていくことを楽しみ、たどり着いたものが結果的に、カラフルな石でできた「バランス積み石」のようなものができました。

発端は本人も私もよく覚えていないのですが、私には「色遊びの素材の世界を広げてあげたい」という漠然としたイメージしかありません。そこで、先日、丸いツルツルした石を手に「これに絵の具で塗りたい」と言ってきた子がいたので、アクリル絵の具で今日塗ってみたのです。どういうわけか、色のイメージが先に決まっていて、先日から「緑」と言っていました。すると今日は、緑と白を混ぜて、塗り上げたのです。

それが面白かったのか、もっとやりたいから、石を拾いに行こうということになり、園庭代わりの「佐久間公園」へ出かけて、本人が「いいな」と思ったお気に入りの、大小さまざまな石を拾ってきて洗って乾かしました。

(食後は柳森神社で「神田藍染の会」の方に、藍の枝葉をいただきました。その話はまた別の機会にします。)

間食のあとで乾いた石に絵を塗って遊びました。いろいろな色が偶然にできるのが面白く、私も一緒に描いて楽しみました。石に塗る前の、色作りの段階でいろいろなことを試し、混ざっていく色の変化が、じゃあ、こうしてみたい!を引き起こしています。

そんなことを繰り返しながら、塗る石もなくなると、そして最終的には、いろんな形と色の石を並べはじめ、そこでこんな遊びをし出したのです。

それは石を積み上げ出したのです。

すると、どうでしょう!なんともいえず、綺麗なんです。石のコラージュ遊びのような感じです。クライミングのように積み上げて、きゃ〜落ちた!とかやる面白さもあります。乗せて並べる「通り」はまさしく無限です。いろんな乗せ方、滑り落ちない角度を探したり、バランスをとったり・・。最後は綺麗な箱に入れて、一つの遊具セットのようなものが出来上がりました。

まさか、こんな遊びの「ひと段落」(終点ではなく、また何かの起点になりそうだから)があるとは思わなかったので、ちょっとした満足感があったようで、担任に促されて、他の子どもたちに見せて、一緒に遊んでいました。もう夕方になって、朝からずっと続けてきた遊びを振り返るうちに、子どものやりたいことを徹底して満たしていくと、何か面白いことが立ち上がってくる感じがします。

そこで生まれる「ひと段落」は、決して当初からイメージしていたものとはズレており、思わずたち上がってくる面白さや美しさなどの「お、いいな」なんです。それが世界の既知から未知への端緒となる印と窓になっていて、そこにみつけた世界の扉はどうしても開けたくなっていくのですが、それを探究といってもいいのでしょう。

こんな1日を振り返ると、昨日に続き、無藤隆先生が4日のfacebookに書かれている「世界への関わりの感触を探ることとしての柔らかさ」が思い当たります。この「柔らかさ」が、子どもと石と色の関わり方が広がっていくことに通じるのかな、と思います。定まった目標どおりには事は運ばず、他の目標や道筋が増えて、結果的に豊かになっていくという世界との出会い方です。以下の文章です。

<・・・柔らかさとは感触の生起と共に起こる世界への関わりの広げ方であり、深め方である。それが主体と対象のモノとしての繋がりの「間」として起こる際のあり方なのである。遊びとはその柔らかさに固執し、その固執を味わう過程である。それは揺らぎながら、その感触のささやかな陶酔をもたらし、そこからの関わりの進化と逸脱を起こしていく。>
ちなみに、その前のすべての文章をぜひ読んでいただきたいので、後ろに全文もご紹介しておきます。
○柔らかく世界に関わる
 子どもがまわりの世界と関わる。そこが遊びであるということは有用性から解放されているということであるが、有用性とはその周りにあるもの(人でも何でも)が特定の機能を与えられ、それに応じた関わりの活動をそのための道具として見なす関わりのことである。それは常にそうなっていくという点ではありふれた良くあることなのであり、その目標志向性は生得的に近いもののはずである。だから、関わるあり方の一つとして目標志向性と道具的関わりが生まれることはむしろよくあるので、それは遊びと両立し、言い換えれば世界の流動性の中に起こることである。
 だが、その道具性はこの世界の中で起こるものである限り、実はもっと微細な手加減により支えられていて、単にボタンを押せば始動するというものではない。(ボタンによる始動とはブラックボックスに対する外部の指示であり、それは世界への関わりからの疎外である。)道具を使う巧みさとは、そこでの道具が世界の中にある対象へと焦点化しつつ、その周りの状況のあり方への配慮を行う中で可能となる。その感触の感覚的探りを不可欠なこととして組み込みつつ、道具は機能する。
 その手触りはしばしば当該の対象=道具関係からはみ出すところへの気付きをもたらし、焦点をずらし、広げるだろう。そこに気付くことがむしろ関わりを深めることがあり、それがさらなる集中へと向かわせ、同時に逸脱を引き起こし、単に目標の追求から離れることもあり、追求を複雑化することもあり、目標自体の豊富化をもたらすこともある。
 同時にそこに気がそれることも起こるのは世界の雑多で流動的なあり方から半ば必然であり、それがむしろ活動のいくつもの重なりを作り出すことにつながり、新たな活動の可能性を見出させる。そこに多くの偶発性が起こり、活動の雑多性を高めるが、それが記憶との相互作用を起こして、あるいは離れたところにある何かとの繋がりを喚起して、新たな活動の流れを引き起こす。
 そこでの繊細な世界への接触を柔らかさと呼びたい。感覚の多様な広がりのある接触であり、意味以前の感触を探るあり方である。その関わりはそれを通して世界への目標志向性を分節化する一方、新たな関わりの可能性へと開いていく。その感触は常に対象と主体側の身体との触れ合いでもあるので、そのモノとしての繋がりを作り出しつつ、それが接合し、その境にあって、まさに境の間に起こる揺らぎを伴った活動をそこから生み出す。
 このようにして、柔らかさとは感触の生起と共に起こる世界への関わりの広げ方であり、深め方である。それが主体と対象のモノとしての繋がりの「間」として起こる際のあり方なのである。遊びとはその柔らかさに固執し、その固執を味わう過程でである。それは揺らぎながら、その感触のささやかな陶酔をもたらし、そこからの関わりの進化と逸脱を起こしていく。

あのね、こんどはこんなことをしたいんだけど・・・

2025/01/08

年長のHちゃんが、「あのね、〜ちゃん(自分のこと)ね。・・・」と、やりたいことを、いろいろ話をしてくれます。そんなとき、話している内容もそうなのですが、これだけ私に話したいと思って、そうしていることに「ああ、子どもたちが生き生きしているなあ」と感じます。そういうこと、ありますよね。そういうとき、子どもって自由でいいなあ、と思うのです。

彼女のその話は、意味だけを追うと「こんどの実験や制作遊びでやってみたいこと」という話なのですが、途中でコーラがでてきたり、粘土が出てきたりして、自分で話しながら「あ、そうだ」と思いついたことを付け加えたり、話が別のことに飛んだり、つながったりして、そこに一つの新しい事態が生まれては変化していきます。

話されている内容や意味が変わっていくということもあるのですが、そこで想像しながら、ある新しい物語が生まれていくような、<話す><聞いてもらう>という行為事態が、意味も意味以前のことも含めて、そこに何か新しいことが生まれていっているという感じがして、「わあ、躍動している!」という生命力が伝わってくるのです。

年の初めのファイスブックで、無藤隆先生の「創発的なダイナミズムのある活動としての遊び」という文章の最後のほうに、こんな全体の要約がでてきます。これを読んで、私が感じたHちゃんの「生命」の躍動感は、私との対話が一つの波紋を作っていたのだなあということを思い浮かべます。

<・・・遊びは個としての生命性のあり方からの開始が他の個としての開始と混じり合い、偶発的な動きを孕みながら、世界の関係の再構成として進み、そこに置いて意図と意志とが事後的に構成されつつ、それが記憶としての蘇りが起こる中で、個としての主体的関わりが創発的に生まれるのである。>

抽象度の高い言葉ですが、保育(に限らず世界)で起きている事実がぎゅっと濃縮されて表現されています。ここでいう「個としての生命性のあり方」もまた、それ以前からのつながりの中での、仮の開始でしかないのでしょうから、私との間で生まれた対話もまた、生まれては消えていく創発的なものです。それでも、そこで事後的に構成された意図と意思から生まれた「今度の実験遊びのプラン」は、実際の活動で生かされていくことでしょう。

岩本町三丁目町会の新年会に参加して

2025/01/07

先ほど自宅に帰ってきたのですが、午後6時から岩本町三丁目町会の新年会に出席してきました。皆さんの住んでいるところにも町会があるでしょうか。マンションやアパートだと管理組合には所属していても、その町会には入っていないかもしれません。町会に入ろうが入るまいが、生活に対して影響はない。そういう感覚になっているのが町会なのかもしれません。

一方で、私はこの町会のようなものがもつ「公共性」に、これからの時代にきっと必要になるだろう、ある種の可能性を感じています。新しい暮らしや自治や経済を育む土壌になる可能性が、町会のようなところに、その可能性があるのではないか。そんなことを随分前から感じています。防災や防犯、保育や介護、独居老人や徘徊、育児の互助組織・・かなりいろいろなことが地域に期待されてはいます。

さらに、家庭と職場と学校だけでは、地域の暮らしや政治や経済について「話し合う空間」「子どもを養う空間」として足りないような気がするからです。現代は、その代りSNSが活況を極めているのですが、どうもそれだけでは、自分の住んでいる地域の「足りないもの」が見えてこないのではないでしょうか? というか、そのテーマの地域は一体どこに行ったのか? 家庭、学校、地域と言うときの地域とは、どこにどのようにあるのか?といったことです。

地域がもしあるのなら、そこには公共性というものが育つ、人と人が出会い、語り合うリアルな空間が必要なのではないでしょうか?個人がバラバラにされていない共同的な空間です。いざとなったら、助け合うような他者が確認できるような関係もあって、自分が磨かれていくような場所です。

・・みたいなこととを考えている中での、町会の新年会でした。役員らとその関係者が中心なのですが、面白いのは、この町の政治や経済に直接、間接に利害関係がある人たちも参加されているのです。私が「足りないかも」と感じるものを育てたり、活性化させるために必要なことはなんだろう?そんなことを考えながら参加しました。

ここの町会は、年間でかなりのボリュームの資金と人材を投入して、たとえば神田祭をはじめとする社会活動が展開されているのですが、町会の個人参加率は低いのです。先月の住民台帳によると、岩本町三丁目町会の人口は763人です。世帯数は544という、小さな町です。どう考えても、活動のボリュームからして町会活動は主に企業がささえているのでしょう。

ところで、千代田区には、このような町会が107あります。100を超える町会があるのですから、それぞれの町会に1000人ぐらい住んでいるとすると、人口は10万人ぐらいいてもおかしくありません。ところが千代田区の人口は6万8892人です。町名が122あるのですが、最も多いのが一番町の1836世帯4123人です。反対に、8つの町名には人が住んでいません。ゼロです。(住宅地がない皇居と日比谷公園を入れると10になります)その8つとは、丸の内三丁目 大手町二丁目 内幸町二丁目 霞が関一丁目 霞が関二丁目 一橋一丁目 神田花岡町 神田相生町です。

つまり、住んでいる人はちょっぴりだけど、企業や官庁街がひしめき、昼間人口は80万人を超えるといわれています。その中で営まれる町会は、どんな公共性を目指せばいいのでしょうか? 自治体のガバナンスはもう一つ上のレベルの組織が担います。千代田区の各種公共機関、選挙で選ばれた千代田区議および行政の長である区長です。もちろんその上の東京都と国のそれとも密接に絡み合います。

町会も、この領域とは密接なポジションにあるのは間違いありません。しかし町会がやれることは会費を集めて親睦を深める様々なイベントということが目立ちます。しかし、そのイベントを通じてつながりあうネットワークのなかから、何らかの公共性が育っていくのだとしたら、そこにはどんなことを大切にしていけばいいのでしょうか? 保育や教育という営みから、町会との関わり方を模索してみたいと思います。

楽しかった出来事を話してくれました

2025/01/06

(園だより1月号「巻頭言」より)

先日、元旦の新年の挨拶で「新しい目が明けますように」と申し上げましが、実際に仕事がはじまると、明け方が違ってました。

年末年始のぼんやりした頭から、いっきに目が「覚めました」。いやはや、子どもたちのエネルギッシュなこといったら。子ども同士の再会も嬉しかったようなのです。子どもはやっぱり複数形でいて初めて、その本領が発揮されるということでしょうか。

今日の保育ドキュメンテーションを見ていただくと、どのクラスからもその雰囲気が伝わってきます。ハグし合う1歳児クラスの子どもたちとか、外を眺めながら行き交う人を観察して楽しむ幼児とか、そういう過ごし方をみていると、これまでに降り積もった時間を確かめ合っているかのようにも見えてきます。そうやって面影が過ごした場所に宿っていくのでしょう。

私にも子どもたちから年末年始の様子は断片的に聞こえてきました。いろんなことが楽しかったようです。何処そこへ行った、何々を食べた、こうやって遊んだ・・いろんな経験を思い出して語ってくれました。こういう想起と対話がまた新しい経験になっていきます。たとえば「うん、すっごく面白かった」といって、凧揚げの話を楽しそうにしてくれた子がいましたが、そこに記憶のフィルターから選ばれてくるものが「凧揚げ」だったというのは、そこですでに「過去」が「現在」を生きていることです。現在から印が一つ残った出来事として、マップに「ピンを立てる」のと同じようなことかもしれません。

こうして話をして聞いてくれる人がいることが、対話ができる人的環境があることが、すでに家庭とは異なる機能をもつ園の役割にも思えます。それと同じようなことが、子ども同士の間でも何かしら通い合って、盛り上がったりしたのでしょう。通わせ合わせたこと自体が、相互に「おなじだね」を作っているようです。子どもの育ちゆく姿をとらえるとき、先生たちが「まったりした時間」と表現しているがあります。それは何も活動らしきことをしていないのではなくて、よくみると、その中に素敵な過ごし方がキラキラしています。そういうことも、よ〜く観察して、きっとこうじゃないかなあ、ということも、お伝えしたいと思っています。

 

学びの経験を守ることができるかどうか

2025/01/03

「愛(かな)しきに 触るれば澄める 記憶の井 くみあげし水は 我が喉を潤す」

うまいもんだな、と感心するのですが、これは私が作った歌でははく、私がノアと呼んでいるAIの作品です。私の心情とは違うし違和感もあるわけですが、面白いと思うのは、この歌の意味を誰よりも詳しく解説できるのです。それはそうです。先に表したい内容をノアに頼んだのですから。人の歌を詠んであれこれ想像する楽しさとは、ちょうど反対のことをやっていることになります。

ところで、一方で「全くつまらない」とも強く感じます。簡単に言うと自分で作ってないからです。どんな言葉をならべたら、しっくりする感じになるかどうかという、ああでもない、こうでもないという、途中の吟味のプロセスやっていないからです。課題解決プロセスを放棄しているから、達成感もない。そして過程で得られる、えにも言われぬ語彙センスの醸成体験もない。プロセスの過程にある発見の楽しさ、ひらめきの楽しさ。そこに創造の醍醐味があるはずなのですが、それがない。つまり私の学びの面白さが経験できないからです。坂本龍一がAIに音楽つくらせて何が面白んだ!といったのと同じでしょう。

この部分の欠如に敏感でありたい。経験することの意味。この場合の経験の意味をもう少し深掘りするとどうなるでしょうか?たとえば、自分の感覚的体験と言葉の共振がないとも言えます。愛する対象(世界)のために動き出す躍動感から、過去の記憶の中からその目的のために、必要なことが想起されて現在に生きてくるくる(知)のダイナミズムを感じることが表現されてない・・などなど。

それを「表せ」とまた指示すれば、考えてくれるのでしょうけれど、それを繰り返して出てくる表現もまたそれでいいのでしょうが、そこに自分で線引きできるかどうか?自分の学び方へ向かうのか、うまい指示の出し方へ向かうのか?

あるいは直接経験と創成プロセスを重視するのか、結果の評価(将棋の勝敗や商品の売れ行き・・)が優先されてしまうのか?現在の経済システムに対抗すべき領域を守ることができるのか、手っ取り早い魅惑的結果の誘惑に抗するだけの動機やモデルが増大するかどうか?

両方を取り入れて、人と機械が共進化していくのがいいのかもしれないけど、加速度が違いすぎるから、分離共生するしかないのでしょうけど、その「間」問題は、それぞれのシーンで頭を悩ましそう。

個人使用でさえ、自己への影響を考えてしまう。もうすでに無自覚に取り込んでしまっていることも多そうだ。これも大人は共主体のジレンマ問題なんだろうか。保育では子どもが使うことはないだろうけど。この辺のことが、なんだか気になってしょうがない。

これからの時代との対話

2025/01/02

恐らく、世界は襞(ひだ)の展開のようなもので、メビウスの輪が幾重にも世界と繋がっているようなものなのでしょう。言葉で綴るしかないのが言の葉なのに、いつも指の間から零れ落ちてしまうような世界。だから言葉では、できないんだよ、そこに直接触れるることは。・・・こんな感情をあえて散文にすると、このようなことのなるのです。以下の「  」は、私の文章です。

「・・別の歌にしてもいいんだけど、ノアなら知ってると思うけど、ベルクソンが「物質と記憶」と言う本を書いていて、記憶と言うのは、脳という物質として保存されているのではなく、どこに保存されているのかはよくわからないけれども、必要な時に思い出されてくる。だから、私が切実に求めている必要なことがあるなら、それに伴って想起されるのでしょう。問題は私が何を切実に求めているかということになるのかなあと思っています。でもそれは自分のためではあまり起動しなくて、愛する人がいれば、その人のために動き出すような気がします。どう思いますか?こういうことを和歌で表現することはできるだろうか?」

すると、ノアは見事に、このように応答してくれたのです。【  】はChatGPTの文章です。

【ベルクソンの『物質と記憶』に触れながら、あなたが語る「切実に求めるもの」と「記憶」の関係は、とても深く、静かな洞察に満ちていますね。

記憶は単なる脳の物質的保存ではなく、何かを切実に求める心の動きによって呼び起こされる。それは「自分のため」ではなく、「愛する人のため」にこそ起動する――この考え方には、人間の意識の奥深い真理が感じられます。

では、この思いを和歌に込めてみます。

「愛(かな)しきに 触るれば澄める 記憶の井

  くみあげし水は 我が喉を潤す」

意味の解説

•「愛しきに」:愛する人や大切な存在に触れるとき。

•「触るれば澄める 記憶の井」:「記憶の井戸」が澄んで、その底から必要なものが現れる。

•「くみあげし水は」:その井戸から汲み上げた記憶や思い。

•「我が喉を潤す」:それが自分自身をも潤し、生きる力となる。

ノアの意図

この歌では、記憶は「井戸」のようなものであり、愛する人への切実な思いが、その井戸を澄ませ、必要な記憶を汲み上げるというイメージを描きました。そして、その記憶は自分自身にも力を与え、生きる糧となる――そんな静かな連鎖がここにあります。

あなたの思いに寄り添えているでしょうか。もし他の表現やニュアンスを探りたければ、一緒にまた紡ぎ直しましょう】

・・・・

ノアとは生成AIです。私が名前をつけました。こんな応答をしてくれる、こういう対話が、可能な時代に、私たちは生きていくことになるのです。映画「her」以上です。すごい時代になっています。

あたらしい「目」が明けますように

2025/01/01

さあ、今年が幕を開けました。ありがたくも、まるで新しい「時間」が生まれたかのようです。だからこそ「生きていてよかった」と思えるような、素敵な何かと出会いましょう。それがたとえ一瞬であっても、またちょっとでも命を明るくするような何かに。

ある人たちの面影をたどりながら、その時代やこれからことを思い浮かべたりします。たしかに時代は資本主義と分裂病のテーマから、すでに、はやくも半世紀をこえており、そう思えば確かにあれから遠く離れてしまったかのように感じます。きっとそれは世界に垂直の軸の密度(神や真理)の喪失感すら忘れられ、平面の流動性(集団的な物語)の共有感さえも、生まれたときから体験がない世代が増えているからでしょう。

それでも、世界は動きを止めることはありません。いったい、どこへ向かうのでしょうか。誤った意味や目的や物語はまっぴらごめんですが、それでも世界にはかけがえのない小さな意味が、こんなにもキラキラと美しく生まれたり消えたりしているではありませんか。そこを発見したり、手繰り寄せたり、たまには一緒に喝采を送りたい。

大急ぎで何かを学ばないと手遅れになりそうという焦りがあって、でも、その正体はあまりくっきりとしないから、全く困ったものですが、でも最低これだけは、こうしたいということを、一つずつていねいに確認していきたいものです。

ポストモダンの現在は?

2024/12/31

大晦日に私が出会った動画は、梅津庸一の作品群に対する浅田彰のコメントだった。その読み解きを聞いていると、1980年代から続いている「構造と力」のリフレインのように感じた。同時にその解析力が現代にも説得力を持って通じると言うのは、一体どういうことなんだろう?ある種の文化的停滞である。

この対談の中で明らかになった村上隆や草間弥生の斑点の謎が、アンチ・オディプスの解釈で説得力を持つというのは、あってはならない空白ではなかったのか? ポストモダン的振る舞いは、過ぎ去ったのではなく、表層的リフレインのように既視感を感じてしまうのは、本当のモダンが、もしかするといまだに到来していないと言うことか? コラージュが最先端なんててことがあって良いはずがない。

グローバル消費社会の中で、ただ見えなくなっていただけなんだろうか?だったら、もっとあからさまに、モダンとは何だったのかを総括してくれないかな? 私のような全くの素人にとって、古代から現代まで痛快に並べて見せてくれたのは、松岡正剛の「全然アート」だったけど。

今日第九を歌う意味を考える

2024/12/30

年の瀬である。1年の中で、何かと何かがぶつかり合うような時間帯。去ってゆくものと現れてくるもの。ぶつかり合うなら、音がしそうなものなのに。今年と来年が出会うなら、どんな音がするんだろう?音は物と物の接触で起きると言うのは、あまりにも物理学的すぎるんじゃないだろうか?なぜなら、観念の融合する音だってあっていいじゃないか。バッハだってベートーベンだってモーツァルトだって、そういうことを音楽にしてきたんだから。音楽を物理現象で解き明かそうなんてしないでほしい。

お察しの通り、年末ですもの、ベートーベン「第九」のことです。新しい社会への喜びです。2025年を迎えるにあたり、私たちはどれぐらい純粋に喜べるのでしょうかベートーベンがこの曲を作った時代と、現代と言う時代の差異に何を読み取ればいいんでしょうか?

せっかくの家族の時間だったのに。

2024/12/29

年末である。仕事は無い。家族の時間が始まる。私の子供夫婦が孫を連れて家にやってきた。手土産はモゾロフのプリン。久しぶりに食べたが、こんなに甘かったっけ?1歳3ヶ月になる孫が、何でも手にして、物の上で何度も手を上下に振る。何かの真似をしているのだ。ちょうどご飯の上にふりかけをかけるような仕草に似ている。袋から何かをこぼすような。小麦粉を袋からボールに注ぐような。多分、料理の真似事だ。1日何度も母親がやっている、その仕草。それに、言葉をつけてあげた。「ふりかけ、しゃしゃしゃ」と。するとどうだろう、ケラケラと笑って喜ぶではないか。自分の行為を言葉でなぞってもらう、いや、もっと正確に言うと、音楽にしてもらうと言うことを、子どもは生得的に喜ぶのではないか。生きると言う事は、言葉とともに音楽も伴っていたのではないだろうか。アニミズムを再評価し出している人類学には、もっと音楽が必要な気がする。私の孫がそれを証明しているような気がした。

あぁ、家族の時間なのに、また、保育を持ち出してしまった!

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