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園長の日記

「日曜開放」が教えてくれること

2023/12/03

日曜開放をやってみて気づく大切なことがあります。親同士が必要なことをして対話を楽しんでいる、そのそばで子ども同士が遊び込んでいる。大切なことというのは、このような空間こそが、人類の子育ての本来に近いんじゃないかということです。平日に子どもだけがたくさんいるというのは、不自然な仕組みじゃないんだろうか。

私には頭に焼き付いている一枚の写真があります。それはこれなのですが、ジャレド・ダイアモンドが撮影した伝統的社会(ニューギニアのダニ族)での食事の様子(宴会)を撮ったものです。人類はこのような環境のなかで食べ物を分け合い、食事をしていただろう、と思います。子どもたちはそこで群れて遊んでいます。

(写真 ジャレド・ダイアモンド「昨日までの世界」より)

それと同じような空間を日曜開放やコーヒータイムのときに感じます。「このような機会を用意してもらえてうれしい」と保護者の方にお礼をいわれたのですが、その方は、こうもおっしゃいました。「ここでは他の子どもたちとも遊べるので(家とはちがう)」と。平日の保育園はそれが当たり前なのですが、そのときは親御さんはそばにいません。でも今日のように、親も交えての、子どもの同士の遊びを中心とした過ごし方は、家でも保育園でもない、また別の新しい空間なのですが、その安定具合がなんとも自然なのです。過不足感がない、誰も無理していない、子育てや教育の変な背伸びやストレスがない。それぞれがやりたいことをやって過ごしているのです。

もし、この状態の延長線に、職住接近の就労が成立するなら、また子どもの幼児教育も成立するなら、新しい教育・子育て空間として真面目に創造してみたいテーマだと思うのです。

小春日の屋上で言葉の戯れとともに昼食を楽しむ

2023/12/02

今週を振り返って印象的だったことが2つあります。一つは屋上でたべたお昼ごはん。小春日和だった30日(木)。

数日前から屋上で食べたら気持ちいいだろうという子どもたちの発案からきまったもので、椅子やテーブルを子どもも一緒に屋上へ運び、丸く囲んで食べたのです。雲一つない晴れ上がった澄み切った青空のもと、開放的な空間が気持ちよく、闊達なおしゃべりでにぎやかな昼食になりました。

子どもはお笑い芸人のように、おかしなことを言って人を楽しませようとするときがあります。私がその気持ちがわかって楽しくなり、子どもなりの冗談にウケて大笑いしていると、それがまた拍車をかけたのか、お笑いネタの連発に調子があがっていきました。

ちょっと首を縦に振りながら、「ねえねえ、園長先生、耳の中覗いて、脳みそ食べた?」だとか「園長先生、さっきさあ、鼻からオ〇ラした?」とか、ナンセンスギャグのオンパレードでした。

あまり上品とはいえないのですが、思い付きで言葉を組み合わせてみることで周りが反応してくれる表現の楽しさを知り、いろんなバリエーションをひねり出す達成感がありそうです。

私が座るテーブルと椅子がないからと、子どもが運んでくれたりと、嬉しいことをしてくれる年長さんたちでした。

思いつきの楽しさから生まれる目標志向の遊び

2023/12/01

(園便り12月号「巻頭言」より)

みなさんは何か面白かったことや楽しかったこと、成功してうまくいったことがあったりしたら、どうなりますか?(あるいは何をしますか?) まずは、またそれをやりたい、また経験したいと思うでしょう。家族や友人と話したり、日記やブログを書いたりSNSに発信したり、LINEで共有したりするかもしれません。仕事だったら振り返ってミーティングでしょうか。保育もそうします。あるいは詩や和歌にしたり、小説にしたり、絵画や作曲のアイデアになったりしている方もいることでしょう。このように私たちは自分の経験を、ある面では言葉や記号や記録に残したり、詩歌や絵や音楽や映画やダンスなどの広い意味での「表象」にして共有していると言えます。もちろん、そんなことをしなくても身体的な生命活動として「生きる」ことは基底的なことして、歴然とあって、それと一体的な形で表象文化も形作られているように思えます。

では子どもたちはどうしているのでしょうか? 子どもの場合は、そうした手段が限られているので、再現遊び、何かのごっこやつもり、見立てになることが多い気がします。赤ちゃんが救急車の音が聞こえてくるだけで、あ!と指差して「ピーポー」と教えてくれたり(言葉になるもの)、積み木を動かしながら「ブッブー」と見立て遊びになる子もいれば、幼児になるとアゲハを絵に描いたり、絵本や図鑑を作る子もいます。最近の保育日誌にも、そんな様子がたくさん書かれています。1歳児クラスの子たちが、目の前に何も物がないのに思い付きでケーキやニンジンなどを「ハイ」と手渡して遊んでいる様子に想像力を感じたと書いてありましたよね。

そうすると、子どもは心動かされたことをもう一度味わいたくて、目の前に「現前化」させたいのかもしれません。それがリプレゼンテーションだとするなら、それは日本語では表象と訳されてきたので、まるで頭の中というか、心のことのように思ってしまいます。でも語源に遡って、再現という意味にとどめるなら、これらの活動を見ていると、好きなことを見つけて繰り返しうまくやっていくための技能を学んでいるようにも見えてきます。

そんな時、無藤隆先生から次のような見方を教わりました。遊びは「思いつきをする楽しさと,そこから少し先の目標を立てて実現しようとする課題解決の充実感からなる。それは物事の可能性を知ること。私の言い方では環境からの呼びかけに応えて、世界性へと開かれること。そして、そこでの目標を立てての課題解決の練習となる」という考えです。

とても新鮮で、遊びと生活を一体として捉えることができ、大人も含めて子どももやっている再現させている活動が、実は世界に深く入り込んでいくための生きる姿そのものと思えてきます。私たちは表象に慣れていますが、知覚から表象を経由して行為しているのではなくて、知覚したことと行為することを一体的につなぐ生態学的な捉え方があり、その考え方から遊びを豊かにすることが発想できるかもしれません。

同じものでも「配列」を変えてみる

2023/11/29

昼間の公園で、子どもたちがきれいな葉っぱを並べたり、日光にすかして葉脈を見たりしています。

同じ「もの」でもたくさん集めたり、光にかざしたり、空間の中での「配列」を変えてみると、違った姿が姿を表ます。ここでいう「配列」というのは、その物の置かれている物的世界のレイアウトのことなのですが、見えるためには光が必要なので、それは必須の条件です。真っ暗な空間では何があっても「見えない」からです(もちろん輻射熱のようなものを感知できれば、それは「見える」よういにすることも可能ですが)。

ここに虫眼鏡を持ち込んで、光の解像度を上げたり、さらに顕微鏡を持ち込んでもっと大きくして物の配列を観察すると、物はまるで別物のよういになるでしょう。それが「葉っぱ」であることもわからなくなるかもしれません。さらに繊維質や細胞まで小さくなったら、それはもはや「葉っぱ」ではなく、植物全般に共通した何か、になってしまいます。さらに分子や原子にまで小さくなってしまったら、他のものと変わりない物質でしかありません。

わたしたちの視力、視線から見える「もの」の姿は、煎じつめると、そういう意味での「配列」です。物は私たち人間の裸眼で見えている世界と、電子顕微鏡や天体望遠鏡を駆使して「見える世界」は、物の大小、上下、奥行きが変わり、つまり物の「肌理」(きめ)が変わります。そこに環境の持っている情報が異なってくることになります。さらに記号や数学を用いて「見えてくる世界」は、目に見える肌理の世界を超えて、世界を成り立たせている構造や力学さえも推論できるようになっていきます(人工衛星によるGPSやビッグデータなど)。

このように考えると、人間が進化の中で身につけてきた自然な身体的な知覚の世界と、人間が人工的に作り上げてきた科学的な力が合わさって、複合的に世界を捉えるようになってきていることに気づきます。幼児教育として何が望ましい子どもの経験になるのか、そこを整理してみる必要性を感じます。

きれいな落ち葉ならべ遊び

2023/11/28

思いつきで楽しいことが始まるのが「遊び」ですが、その「面白さ」は子どもにとってと、大人にとってもがシンクロする時があります。

ぐんぐん組(1歳児クラス)の子どもたちが、公園できれいな落ち葉を拾って並べて遊んでいます。

その例としてわかりやすいし、面白いですね。

 

なぜ造花ではダメなのか?

2023/11/27

当園は造花はできるだけ使いません。それは「自然」ではないからなのですが、なぜ自然にこだわるのかというと、自然なるものを経験するのが乳幼児教育だからです。

子どもは自然とそうでないものの区別がつきません。自然の草花は季節によって変化します。今朝は幼児の部屋で先週から育てはじめたシイタケが大きくなっていました!

今の季節では例年よりも公園の紅葉は落ち葉が遅いのですが、その色の変化に気づいたり、地面に落ちている葉っぱを拾って触ったり、踏んでパリパリする音や感触を味わったりすることが大切になります。

毎年それをつみかさねているうちに自然というものが季節の変化とともにあることや、活きている物だから芽が出たり花を咲かせたり枯れたりすることに気づき、そこに子どもたちが、その子なりの好奇心から世界とかかわっていく可能性が広がっていくことでしょう。

遊びは将来に役立つから?

2023/11/26

昨日25日の土曜日の日誌には、遊んでいる様子と掃除を手伝っている様子が記録されていました。写真は金曜日の公園です。

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SくんとRくんは、2人で一緒に遊び過ごしていることがほとんどであった。制作ゾーンに長くいて、折り紙や画用紙でポケモンのごっこに必要な物を園欄で作っていた。AくんとHくんは3階フロアーを自由に遊んだ後、ごっこゾーンが居心地が良くなって2人でお医者さんごっこを繰り広げていた。 Yさんは、M先生がお気に入りで傍にいる事も多かったが、部屋の清掃の手伝いでは、モップを率先して行っていた。ごっこよりも、リアルな手伝いを好んでいるようであった。

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生活と遊びの行ったり来たり。その2つのことのように分けてみることを最近疑っているのですが、それでもやはり遊びというものが、くっきりと際立って存在しているように思えて仕方がありません。

ただ、その二つに分類されてしまう前に常に活動というものが、それは「生きている」と言うことなのですが、そのなかに潜む多様なかかわりのシステムが、シームレスに「柔軟性」にとみながら機能しているのでしょう。

遊びを実社会で役立つための練習とみる見方があるのですが、本当でしょうか? 遊びもまた、人間の進化の中で生まれたものでしょう。もしそうなら、遊ぶ動物の方が遊ばない動物よりも、自然選択によって未来のとってよい活動が選び抜かれたということになるのですが、そんなこともあるのでしょうか?

そういう目的論的な見た方よりも、生きるために必要なことをやっていると、生まれたものが、その環境の違いとして何かの副次的な効果を生んでいるもかもすれません。もし将来の準備だというのなら、社会が変わって将来に必要なことが変わっても、変わらない何かのために役立っているとしたら、その変わらないものは何で、それと遊びがどう関わっているのかを知りたくなります。

 

エンカウンター(出あい)としての経験

2023/11/26

今週を振り返ってみると、年長児たちは公園での雲梯がブームになっているのですが、落ち葉などでバーベキューごっこも盛んでした。0歳児の赤ちゃんはトンネルをくぐったり、1歳児たちは屋上で電車ごっこを楽しんでいます。

子どもの好奇心の旺盛さを、私たち大人はよく理解していないのかも知れません。もしみなさんの中で、海外でも国内でも旅行が好きで、新しい世界(未知なる世界)への冒険や探究が好きなら、その心情は子どもが本来的に持っているものに近いかも知れません。

その例えがあっているとしたら、子どもたちは「毎日が海外旅行」なのでしょう。新しい場所へ行ってみたいという強い動機があって、でも知らない土地でうまく宿泊先を見つけたり、乗り物に乗れるようになったりするまでには、不安と戸惑いもあります。それを乗り越えていく好奇心や逞しさ、あるいはトライアンドエラーにめげない気持ちが必要です。

子どもたちが新しい世界を探索することに長けており、その新しい世界に出逢いながら、その都度、どうやったら自分のものにできるのか、何かを自分のものにしていくことに真剣に取り組んでいるのでしょう。

 

 

いろんなことが気になってやってみたくなること

2023/11/24

今日24日(金)の日誌を読みながら、ふとこう思いました。こんなに小さい時からまずはやってみたくて、その結果どうなるかわからないけど、近寄っていく。そしてその場所や空間の何かを感じ取る。やってみながら、その環境の意味や関わり方がやってくる。

そういうことをするのが、その時が始まりではなく、実はずっと活動している継続的な時間の流れの中で、走り出したり立たずんだりする姿に、始まりとりを私たちが当てはめているだけかもしれません。私たちは冷静に考えれば、生きている限り常に「動いて」いて(睡眠中や休憩をしていても)、ある「活動」の中にあって、初めから何かをやっているとも言えます。そして、ほとんどのことが生きていくために必要な活動であり、環境と調整したり、様々な情報の検索と活用が試されているような気がしないでもありません。

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広い空間を一斉に走るちっちさん。気になる場所へ行ってみます(ちっち)

今日は、ワテラスへ行きました。広い芝生よりも隅っこにある草原の中が好きなぐんぐんさん。芝生とは違った落ち葉の感触やひっそりと隠れられるところが子ども達にとって好奇心がくすぐられて面白い場所になっているようです。「もういいかーい」と大人が少し関わってみると、お友達の近くに集まってきて隠れたり、見つけてもらったりしながら一緒に遊ぶ楽しさを感じていました。(ぐんぐん)

ちっちの子どもたちが「気になる場所へ行ってみたくなったようです」とか、「子どもたちは新しいことが好きなので」などの表現によく出逢います。要するに子どもたちは未知のものへの関心がとても強く、自分の関わりの中でそれを取り入れていくために、さまざまな関わり方の調整をしていて、その動きや活動の中に教育の五領域の内容が盛り込まれているように思えます。

子どもたちが生きていく世界にどうやったらうまく参加できるようになるのか、つまりそれぞれの環境の意味がわかり、その中で生きていく方法を身につけていくこと。世界への探索行動をいろいろ思いつきで試すことが遊びになっていて、その世界との対応の方法を幅広くするための柔軟性のようなものが遊びという姿になっていくのかも知れません。

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