今年度最後の「にちよう開放」の朝は、和泉橋出張所管内にある町会の3連合会の皆さんがいらっしゃいました。
こどもの日に子どもの作った「鯉のぼり」を、神田川の上を泳がせようというプロジェクトが持ち上がり、そのロープを張る実験です。当園の非常階段から、向こう岸は出張所の3階の会議室。
支柱が風で持っていかれないか心配しましたが、子どもの作るビニール製の鯉のぼりと聞いて、軽そうなので大丈夫そうです。園児も鯉のぼりを作って一緒に泳がせてもらうことにしました。
2024/03/24
今年度最後の「にちよう開放」の朝は、和泉橋出張所管内にある町会の3連合会の皆さんがいらっしゃいました。
こどもの日に子どもの作った「鯉のぼり」を、神田川の上を泳がせようというプロジェクトが持ち上がり、そのロープを張る実験です。当園の非常階段から、向こう岸は出張所の3階の会議室。
支柱が風で持っていかれないか心配しましたが、子どもの作るビニール製の鯉のぼりと聞いて、軽そうなので大丈夫そうです。園児も鯉のぼりを作って一緒に泳がせてもらうことにしました。
2024/03/22
秋葉原駅から京浜東北線に乗り、王子駅で都電荒川線に乗り換えて「荒川遊園」へ。弁当を持って電車で遠出できるのも子どもたちの成長の証ですね。9人の年長と職員4人でお別れ遠足第二弾を楽しんできました。遊園地で子どもと遊んで給料がもらえるなんて、保育ってなんて素敵な仕事でしょう! 出かける前に、赤ちゃんを抱っこしている保育中の先生たちにそう言ってみたら、100%冗談だと思われました。でも私は本当にちょっと、そう思ってるんですけどね!
遊園地の乗り物は強風に弱いということを今回知りました。数日前は強風で観覧車やスカイウォークなどの乗り物系は停めたそうです。それを知っている子どもたちは、遠くから観覧車が見えると「あ、動いてない!」「動いてる!」と戦々恐々、動いているとわかって喜んでました。・・・詳しくはクラスブログをご覧いただくとして、こんな晴れ渡った天気のもとで、時の経つのも忘れて友達と遊び回り、おうちの人に作ってもらったお弁当を広げてワイワイと食べる。素敵な思い出になったことでしょう。
ちなみに先ほど「大きくなったら保育士になりたい」と言っているMMさんに「荒川遊園地と保育園とどっちが楽しい?」と聞いてみたら「あらかわ遊園!」と即答でした。やっぱりそういうものか。でも私が「保育園っていってほしい」と思っていることも察しているので、わざと大声で即答だったんです、そんな表情をしてました。
2024/03/21
書店に行くのは好きです。どんな新しい本が出ているのか、何が売れているのか、定点観測は欠かせません。しかもいくつかの書店を回ると、共通しておいてある本と、そうでないものがわかって面白いものです。
アマゾンで見ていると欲しいものが増えてしまうので、どこで諦めるのか迷います。迷った本が書店に置いてあったら、手に取ってパラパラ。あるいは、図書館で、取ってみる。
ちゃんと読んで、頭に入ってきて、使うまでつながるようなものは、線を引いたり、メモをしたり、ノートに図を書いたりするので、結局は買ったものが1番役立っています。読みたいときに、そばにあるというのが1番良いということ。
本を読むものではなくて引くものだと言ったのは、たしか大宅壮一ですが、本の読み方、楽しみ方はいろいろですから、こちら読み手側の気分によってもいろいろであっていいし、本の内容によってもいろいろ違う。そう考えれば、本にこだわる必要はないのかもしれません。
インターネットとYouTubeとSNSで、ほとんどの情報が手に入り、発信し、学ぶことができる時代です。大学院レベルの講座もネットで開かれています。実際本の内容もネットで検索したり読んだりできるようになっているので、アナログな本だけが本ではないと言うことでしょう。オーディオブックも本ですし、読書と言う行動の一つです。
これからの多様なメディア、社会の中で生きていく子供たちにとって、学校教育や社会教育の中での読書をどう考えるか。幼児教育の絵本をどう考えるか。本とその周辺のことをつないで眺めてみないとなかなか見えてこないような気がします。
でも、明らかに大人にとっては本の優位性というものがあります。場所的にも時間的にも、今ここと言うことを超えて、無限といってもいい位広い世界につながっているからです。
さらに、認知や学びのモードといったフェーズで、このことを考えると、保育園や幼稚園に置いてある絵本、家庭の中にある絵本、その意味をもう一度考え直したくなります。また学校図書館や公共図書館のスタイルと言うものを、インターフェースのデザインとしても、考え直すことが必要になっている事情もあるようです。
2024/03/20
保育園はみなさんのホームグランドです。新しく入園される方々との個人別の面談が終わり、入園に向けた準備をされていると思いますが、保育園が子どもたちにとっても、アウェイではなくて家庭とはまた違ったホームになるといいなと思うと同時に、家庭からさらに広がっていく世界性を代表する「面白空間」として機能していくといいな、と思っています。
そのためにはまずは親子で足を踏み入れていただく時間を増やしていただき、最初は一緒に過ごしてみてください。4月1日(月)は親子で過ごしていただきますが、そのちょうど1週間前に当たる、今週の日曜日、24日は午前中に「いちよう開放」もやっていますので、親子で遊びにきてくださっても構いません。
2024/03/19
卒園した子どもたちが保育園で平日の午後や、学校がお休みの日などに来て、ボランティア活動をすることができます。せいがのS、サポートのS、スタッフのSでスリーエス(SSS)と呼んでいます。1997年にできた「せいがの森保育園」時代からやっているので、20年以上前から続いている活動なんです。
学童とは違って「保育」はしません。あくまでも乳幼児のサポート活動です。保育見習いのようなことなのですが、卒園児はそのサポートが上手いんです。年長の頃に「お手伝い保育」をやってきているので、小さい子どもの気持ちに気づいたり、必要なタイミングで手伝ったりできます。本人が遊ぶのではなくて、助けたり、手伝ったりすることが好きになる活動と言っていいでしょうね。
そう考えると、保育というのは、子どもが実現したいと願っていることを実現できるようにサポートすることとも言えるわけですから、そのお手伝いは小学生、中学生、高校生のための保育実習のようなものです。実際に卒園児が保育士になって姉妹園で働いていますが、本人は保育園時代から「大きくなったら保育士になりたい」と言っていたし、お手伝いも上手でした。
また保育園で保育をしていると、大人も人によっては「癒される」という体験になることがあります。子どものことが好きで、その好きな子どもに接することができるから、ということもあるのでしょうが、さらに、人を助けるとか役立つという実感が持てやすくて、それが自己有用感を得て、心の安定や自信につながる、という面があるかもしれません。
2024/03/18
先週から工事に入った屋上がきれいになりました。敷き詰めていたロールマットが古くなったので破棄し、柔らかい床に変えました。クッション性のある小さなゴムチップを塗り固めて仕上げる工法です。菜園や運動、気分転換、プール、ランチなど多目的に使います。
2024/03/17
今日は卒園式でした。
子どもたちには、わくわくしながら明日を登園の気持ちと同じように、卒園していく世界にわくわくしながら、歩んでいってほしい。そんな思いが流れている式でした。
改めて、ご卒園おめでとうございます。
2024/03/16
今日16日(土曜日)は姉妹園の「新宿せいが子ども園」の卒園式に参加しました。全園児数も170人を超えるので、卒園児も30名近くいます。保育証書を受け取って「大きくなったら〜になりたいです」というのですが、内容を聞いていると、その子どもにとっての世界がいろいろあって、当園よりも多様な感じがします。規模が大きいと職員や子どもの多様な個性と触れ合う機会も増えるのかもしれません。
この話になると、よく時代が大きく変化するから、今の職業があるとは限らないとか、何がなくなって何ができるといったことがよく語られます。確かにそれを見通して保育や教育を考えることは大事なことです。
でも、将来の変化もそうでしょうが、実際は今でも、過去も本当に世界は多様で広いものなので、それに保育者がアンテナを張ってできるだけ興味を広げ、探究できているか、という視点も大事な気がします。子どもが実現したいと思うものを一緒に実現できるように支えること、あるいはどうやたらそうなるかを調べたり考え合ったりしていくこと。それに似たことが保育で、もっとできるようになっていくといいなと思います。
そう考えると「子ども発」の何かも大事なのですが、世界は誰かが、何かが「〜発」に相当することをやっていて、その組み合わせで複雑に動いているので、大きくなたったら「〜になりたいです」ということと同時に「〜をどうしたいです!」と思う気持ちがうごめいて膨らんでいくだろうなぁと、感じるのです。
実際に、これまででも〜になって終わることなんてなくて、常に何々になり続け、なり変わっているわけでもあるし。でもワクワクすしながら、憧れや夢を持てることは、やっぱりいいな(子どもが羨ましい?)と思うのでした。そして、それが実現できるように応援するよ!って思うのでした。
2024/03/14
大人はつい言葉で思考してしまいますが、子どもを見ていると、言葉や大人の考える思考ではない方法で、世界と対面しているように感じることがあります。
ある哲学者(パース)は「思考は信念を形成するためにある」と言います。信念とは疑念の反対で、問いに対する答えです。問うことと答えること、ここに思考の役割があるというのです。
さらに信念の形成というのは、いわば私たちが考えている常識のようなもので、改めて意識したり説明されることもなく、信じてやっていることになります。ですから、改めて「どうして?」と問うと、途端にはてな?となることもあるのです。
疑念とか問い、というと難しく感じますが「おもしろい」「ふしぎだね」という経験を思い浮かべてみましょう。それを経験してしまうということに、子どもの人間としての尊厳の起点があるようにも思えます。
その感じ方や、その子特有のものに違いなく、そこから世界に参入していくあり方は、決して同一のものではないからです。私たちが理念としての自由や人権を大事にしようという「考え」を持つなら、この子どもの感じるかけがえのない唯一性と、そこから世界ときり結んでいく出会いの表し方を大切にしたいものです。
それをここバラバラではなくて、子ども同士の認め合いということも含めた他者との関わり中で考えていきたいと思います。
2024/03/13
保育や教育では時々たとえ話が使われます。当園の子どもたちが先生と一緒に、あるいは時々保護者も交じって、何か忙しそうに活動している様子。いろん音と話し声がしてきて、何が出来上がるのか楽しみな時間と空間。
それを例えるなら、広い厨房で何人かのグループが、いろんな料理を作っている光景に似ているかも?と思うときがあります。それぞれ作っている料理は違っているけど、完成に向けて一生懸命、切ったり、混ぜたり、こねたり、丸めたり、炒めたり、揚げたり、ぐつぐつ煮込んだり、時々、味見なんかして、「もうちょっと、~しよう」だとか、「これをこうしてみたら」だとか、わいくわいガヤガヤ、飽くなき味の探究が展開されているかのような光景。
子ども集団の思い思いの遊びというのは、オリジナル料理を学んでいるカルチャースクールのがやがや感に近い気がしてきました。生徒たちは料理研究家の端くれで、入門者からベテランまでいるのですが、そこは美味しい味の出し方や伝統的な調理法などの知恵が渦巻いていて、結果的に「う~ん美味しい!」というゴールに向かって、語り合いながら料理を創り上げていくアート作品づくりのようなものだからです。
それは別に制作遊びだけのことではなくて、楽器をならしたり、将棋をさしながら「う~ん」と考え込んでいたり、トランポリンで2歳の子が「1,2,3と数えて、にじゅう何、とさんじゅう何を行ったり来たりして、60ぐらい跳んだんだけど、・・37、38」「39!!すごいでしょ!」とか、やってます。
美味しい料理を作るって、大変なことですよね。いろんな知恵とスキルが投入されていますよね。ちょっと味が薄いかな?と感じて塩が足りないと気づいたり、火加減やゆで加減を考えて工夫したり。子どもたちの遊びは楽しくてもっとやりたくて、真剣に学んでいるということがよくわかるのですが、この例え話は、どうでしょうか?