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園長の日記

まったりと過ごすアフター・ランチタイム

2024/03/12

みなさん、ランチタイムはどのようにお過ごしですか。外食?弁当?リモート勤務で自宅で食事? いろんな「お昼ごはん」があると思いますが、ランチタイムの後のひとときは、どんな気分でしょうか? お腹は満たされて、その後の「ほっと一息」、気持ちの方の空腹を満たすような、休息のひとときでもあるでしょう。12日火曜日の昼間、ちょうど今が、何も考えない束の間のちょっとした「白紙」の時間です。

それでも私の仕事は午後からの仕事(保育に関する運営に関する業務)が休憩とは関係なく舞い込んでくるので、場所を離れないと、ぼんやりしたりできません。そんな時に、子どもたちが事務所にやってくることがあります。私の机の下に潜ってみたり、カーテンの裏に隠れて友達とヒソヒソ話をしたりしています。その子どもなりに「くつろぎの空間」なのでしょう。子どもたちのアフター・ランチタイム。昔ならタバコでも吸って一息入れるような時間です。今は会社の中にお菓子コーナーがあったり、お茶やコーヒーのサーバーがあったりするのでしょう。

1日にはリズムがあって、食事が済んだ後、まったりと過ごす時間が子どもにもあるようです。保育園の生活にはそんな姿がよく見られます。子どものために、ごろりと横になる場所があります。カーペットにふわふわのぬいぐるみや毛布があるような場所です。午睡の空間とは別です。会社にもあると、いいアイデアとか浮かびそうですけどね。

資質・能力をもっと私たちの身近なものへ

2024/03/11

今日は午前中にオンラインライブで国の審議会を視聴し、夕方は第三者評価の関係者とオフラインで会議をもちました。これからの保育や教育をめぐって、真剣な議論をしている空気に触れたり、気になる「論点」や「見え方」に出合うと、自分がこれまで慣れ親しんできた世界の中に、知らない道の入り口が立ち現れてくる感覚がして、刺激や示唆をもらいます。

「そうだった。そのことがこれにつながるんだ!」とか、という「通路」が見つかったり、これまでよく考えたことがないようなことを知り、ちゃんと知りたい、理解したいと思います。保育のことなのに、なぜ保育の仕事をしている現場にいながら、会議やミーティングで語られていることを考え続けることができないんだろう。いったん自分の中に理解して思い出せることなら、実践のなかで使いながら考えることができるはずなのですが、そこまで理解できていないことがよくわかります。何ごとも、やはり、まずはそこからなのです。

この1か月ほど、私は次のフレーズを何度も何度も頭の中で繰り返しています「資質・能力とは、一種の行為における総合的な動きであり、勢いであり、絶えず伸びていく運動であり、たえざる関わりと変化によって変容する過程である」。このことが、目のまえで起きている子どもの姿として、だんだん見えてくるようになるから不思議です。

何度も振り返ってみて初めて、自分の考えになっていきます。目のまえに子どもがいて、事実はそこで起きているのに、その事態の作用や意味など見えていないかぎり、大事なことにたどり着けないかも。

プロセス志向である幼児教育の「資質・能力」と言うのは、平たく言うと「感じたり、気づいたりすること」そして「考えたり工夫したりすること」、そして「情意ともに協同性を発揮すること」。そういうことが起きるべきして起きるということを目指します。

私たちが使いこなす必要のある七つ道具の使い勝手がどうなのか、使いこなしてみて初めて「もっとこうしたらどうか」が出てくるのでしょう。

私の提案は、事実を概念で分析してつなぐときに意味が生まれるようになっているとしたら、そうしないでジェームスや西田幾多郎が述べたように「多即一」として子どもの姿をそのままにとらえたらよろしいのではないか。つぎの文章を子どもの遊ぶ姿になぞらえて読んでみると、その意味が分かってもらえるのではないだろうか?

「知覚と概念の重要な相違点は、知覚が連続的で概念が不連続的だということである。(中略)知覚の流れはそれだけでは何ものをも意味しない。それはただ存在しているだけである。近くの流れをいかに細かく分断してみても、それは常にmuch- at- once(多即一)であり、概念作用によって、そこから無数の側面や特徴を選び出し、分離し、そこに意味を与えることができる。(中略)知覚の流れを分断する操作は、全く概念上の操作に他ならない。もし、いまただちに概念的な見方をすっかり捨て去って、むき出しの感覚的生活に首尾よく逆戻りすることができるならば、<百花繚乱のなかを昆虫がぶんぶん飛び交っている状態を大規模にした混乱状態>と誰かが形容したような状態があらわれるだろう。このmuch- at- once(多即一)においては、矛盾はなく、すべてのものが生き生きとしていて、しかも明瞭な姿で存在する」

どうでしょうか。子どもの姿はこのように日常的にはとらえているということでしょう。そこに創発的に生まれる学びの契機や相互性を見出すために、一から多を導きだす、一旦は「資質・能力」の物差しで分析し、概念化してみる、というというわけでしょう。

「一」中にどんな「多」を見出すのか、そこを行ったり来たり。私たちは何かを見て理解するときに、そういうことをしているのでしょうね。

小学校訪問を終えての気づき

2024/03/09

小学校を訪問して感じたことはたくさんあります。そのなかで幼児教育と小学校教育の「幼小」のつながりのところに焦点をあてて、私の感想をまとめておきたいと思います。

子どもたちが切り開いていく世界への探究を支えていくことが教育だとしたら、幼児教育ではまずは遊び性が横溢し、楽しいという感情が基本に流れている「面白空間」が基本になります。今日はあれをしようと、わくわくしながら、園にやってきてわき目もふらずに遊び始めます。そこに遊びを通した学びがいろいろ起きていて、その学びの芽生えのところを、小学校での学びに生かしてもらいたいと願っています。

(1)まずは学習空間について。この園の「面白空間」と学校の「学びの空間」との差を、子どもたちが肌でどう感じるだろうか。まずはそこが気がかりだったのですが、訪問での出会いは学習そのもとというよりも、授業の雰囲気とか、知っている子どもとか、やさしそうに教えてくださる先生とか、また遊び時間の交流とかの体験を通じて、学校という空間を楽しそうなところだと感じてもらいたくて計画しました。

3学期のこの時期でも1年生は、あまりキチキチやっていません。1年生の終盤として、幼児期の遊び性のなかの無自覚な学びの芽を、系統的な学習の学びに生かしてもらうためにも、その遊び性から自覚的になって行く学びへのなだらかな、つながりを図ろうとしているようにみえました。

(2)教室の環境。幼児教育の場合は「もの」と「先生」が「子ども」に呼びかけ合うような形で展開している共主体的な活動としての遊びが多く、それが諸所の「世界」への導きになっているわけですが、小学校では、子どもがそれまでの感触として経験している、個別具体的なある意味で<想像している世界>が、もう少し<本当の世界>として立ち現れてくるように、確かなことを学んでいくことになっていくのでしょう。

そういう意味では、子どもの活動の軌跡として目に見えると途中経過的な具体的なこの詳細は、一時的な訪問だけでは見えないので、1年間を通じて、どんなことが意図されているのか、先生たちとの今後の交流で学んでいきたいと思います。

(3)個別に学ぶ姿。これがもう少し多様にあっていい気がしました。見る限り一斉授業の進め方が大半でした。どこまでそこを多様にするかは別にして、何をいつどう学ぶかのバリエーションはもう少し広がっていっていくことでしょう。それは生活科を中心にほかの教科との合科や関連をどこまでやるかということと関係します。そこを創り出していく時代になっているのは間違いないのでしょうから、できるだけ期待しつつ応援していきましょう。

(4)学習規律について。授業中の雰囲気と中休みの遊びの時間との境があるのは仕方ないにしても、静かに前を向いて先生の言うことを聞く、という学習スタイルがどこでも前提になっていました。そのためなのか姿勢正しく座るといったことが学びのスタイルとして前景化しています。そこれから外れるいろいろな要素と、本来必要な個別支援と重なってしまうのは、(3)のことと関連しそうです。

・・などと、こちらから期待を述べるのはやさしいのですが、それを創り出すのは並大抵ではないこともわかります。私たちも「幼児期の終わりまでに育てたい10の姿」をどうやって小学校へ伝えるのか。それを幼児教育が用意しないといけないでしょう。要録でそれが伝わるとも思えないので、工夫が必要でしょう。

個別にそれまでの芽生えを小学校へ伝えて生かしてもらう仕組みをどうやって作っていくのか。ここからは、自治体として取り組む仕組みづくりになります。千代田区は来年度から小学校区で幼児教育施設が集まって話し合う機会をもつことになりました。子どもたち一人ひとりの人権としての主体性の発揮をどう保障するか、それは一人ひとりの世界への探究の歩みをどう支えていくかということになるのでしょう。

 

小学校を訪ねて(4)4つの園で一緒に交流する

2024/03/08

久しぶりに朝から雪模様の今日、就学予定の年長児2人を連れてC小学校を訪問しました。近隣の3つの他園と一緒です。2時間目の途中から、1年1組は体育館へ行っていなかったので2組の算数と、そのすぐ隣の2年1組の国語を見せてもらいました。その後の中休みには卒園児を含めて教室や廊下で交流でき、幼小それぞれの子どもたちが楽しそうでした。

幼児は何かを「そうだ」と実感するのは、実際にその場に行くなど体験して初めて自分のことと分かるのではないでしょうか。でも今日の二人は、すでに姉や兄がいる小学校なので、何回か行ったことがあるようで、最初からあまり緊張感はありませんでした。

教室と廊下の間に壁のないオープンな配置になっているのですが、階段から上がったところで副校長先生と挨拶を交わすときまで、シーンと誰もいないかと思うほど子どもたちの声も聞こえません。どうしたんだろう? 誰もいないのかな?と思えるほど静かです。

そっと教室の方を覗くと理由がわかりました。机に向かっている真剣な横顔で何やらやっています。算数でした。青くて丸い図形を並べて何かを考えています。私たちも固唾を飲んで静かにしていると、先生が「こんにちは」を私たちに気づき何か声をかけてくださり「みんなこれが勉強しているってこういうこと?」と、冗談を言うと、わあっと笑い声が沸き起こりました。

すると、あっという間に教室は明るい柔らかい空間に変わりました。集中して何かに取り組んでいたことがわかり、それを中断させて申し訳なかったのですが、それでもそんなことは気にならないほどの、何か「弾力性のある空間」であることがわかります。中休みになると、卒園児と戯れあったり、会話を弾ませていました。椅子に座らせてもらったり、手作りの絵本を見せてもらったりと、のびのびとした時間を過ごさせてもらいました。

 

小学校を訪ねて(3)生活科と体育を参観する

2024/03/07

今日は中休みが始まる頃に小学校を訪問しました。担任の先生が1年生の教室に案内してくださり、授業で使った「てんつなぎ」というプリントを体験させてもらいました。

1から番号が振ってある黒い点を鉛筆で線を書いてつないでいくと、ある形になるというもの。先生が「すぐにできたねえ」と喜んでくれるとKさんもニッコリ。3時間目は生活科でした。

この時期の小学校では一年の振り返りをしています。今日見せていただいた授業では、「生かつかカード」というオリジナルの日記を用いて、今年の1年間を振り返っていました。

A4サイズぐらいの、絵と文字でその日の出来事を記録できるもので、先生が4月ごろは「絵だけだったけど、ひらがなが出てきて、だんだん増えてきて、この頃になると4行も書いているね」などと電子黒板に、ある子どものそれを大きく映し出して、一年を振り返っていました。記憶がよみがえるように思い出してから「自分で自分に手紙を書いてみよう」と展開していきました。

1年生は2クラスあり、もうひとクラスは体育館で体育でした。縄跳びでやっていて、前回し、後ろ回し、片足とび、大縄跳びなど、保育園でもやっているような活動でした。

保育園と違うのは、全員が縄跳びをしないといけないことで、その範囲の中で、何々跳びをしていいこと、何回跳ぶかの目的を持って挑戦していくような活動になっていました。

卒園児の他に、この小学校で開かれている活動を通じて知り合った友達がいたこともあり、見学を終えて「楽しかった」と。入学に向けて安心して迎えることができそうです。

「そうか面白い!」から「やばい!」まである学び

2024/03/06

何かを学ぶために、ある「空間」へ出かけるとします。あえて場所と言わず空間というのは、オンラインの場合もあるからです。そこでは、あるテーマについての情報がやりとりされることになります。その情報の中から、参加者がそれぞれにとって「そうか!」とか「なるほど!」とか、いろいろなこと「気づき」が起きているでしょう。


例えば「どう考えればいいんだろう?」と思っていたことに視界が開ける感じがあると、それは嬉しいものです。数学なら問題が解けたというアハ体験がありますが(実は私の場合は、ないことが多かった。ふ〜ん、そういうものか、の方が多い)、そういうのはともかく、保育の場合は、ちょっとそう事とは違う気がします。ずっと追っかけていくと、納得できる記述というか、説明に出会うことができると、まるで「雲がはれる」という言い方に近いことが起きます。そういう見方をしだしたら、そういう風にか見えなくなる、みたいかことに近いかもしれません。

そういう経験を研修報告で他の人たちに伝えることができるものでしょうか? それは決して不可能ではなく、あるまとまった量の知識をきちんと理解して、その長めの言葉で言い表された事柄を、事実と思えることと照らし合わせながら自分の文脈で並べ直して考え直してみる、といったことが必要になる気がします。何度もそれを頭の中で反芻するかのようなことなのですが、その上で保育の事例について、そのスポットライトを当ててみると、そういう理解の仕方がいいかもしれないという、保育を進める上での行動指針のようなことをイメージすることにつながっていきます。


保育をよくしていくには、どうしても、子どもの理解なり、関わり方なり、どんな活動をするかなりの判断に向かって、その事例に関して、いったん、ちゃんと立ち止まって振り返るという営みが不可欠でしょう。

振り返る中で、よく理解できていないことが見つかったりします。でも、それと同時に「じゃあ、これはどうなるのよ」も生まれてきます。そうやって保育の探究のテーマがまた見つかっていくのですが、それは会議などで話し合って出てくるというよりも、日々の保育の話し合いの中で展開されていることであって、無理やりこれでいいだろうと結論づけて疑問を残さないような進め方では、それ以降の展開の可能性が少ない気がします。変な言い方かもしれませんが、「ちゃんとわからないこと」がちゃんとあったほうが良いのです。

もうこんな歳にもなって(あるいは保育をこれだけ積み重ねてきていながら)「もっと早く知っていたら」とか「そういうことなら、これはどうなるの?」といったことが起きることもあって、恥ずかしさや悔しさを覚えることもあります。自分の不勉強を棚に上げて「そういうこと、早く言ってよ」と言いたくなることだってあります!まあ、結局は自分のせいなのですがね。そんなことをしていると、また調べたいことが増えてしまって困ってしまいます。でもそれは、楽しみでもあるのですが、締切がないので先延ばしになっていくことも多いのです。

一方で、そういうこととは別に、疑問などにも思ってもいなかったことが、「やばい、違ってた!」とか「まずいなあ、そうだったのかあ」みたいになることだってあります。そこまででなくても「その辺りは気をつけよう」とか「みんなに伝えなくちゃ」とか、修正や再確認などになります。こういうことは早く行動に移すことになります。

何かを学ぶということについて、もっと他の整理の仕方もあるのですが、何かの学びが「気づき」になるのは、それが「わかる」という経験だという言い方ができるのなら、すると、何か世界が開かれていくような感じがして、世界の見方が変わってくるようなことが面白いと思います。こういう楽しみは動物にもロボットにもないものでしょうけれど、人間の生きている世界の狭さであり広さなのかもしれません。

実験が遊びに乗っ取られていく体験

2024/03/05

自分(私)の「頭の硬さ」に気づかせる「子どもの遊び」。どんな時に自分の頭の硬さを感じるかというと、子どもが遊び始める姿を肯定できない心理の時です。期待している姿なら肯定できても、子どもが「面白い」と感じることに、そうか、そこが面白いんだ、と素直に受け止められない時があります。大抵は大人が色々用意して、そうなって欲しいと計画したりしている時ほど、その脱線にみえる姿を肯定できない傾向が自分の中にあるのに気づくのです。

先ほど、こんなことがありました。私が年長の子ども3人と坂道の勾配を変えたら車がどれくらい遠くまで走るか、ということをやってみました。これは完全に大人主導で子どもをつき従わせるような活動です。いわゆる子ども主体でもなんでもありません。でも、それを私が「実験」と称して、それらしい物を持ち出して、それらしいことをやるものですから、子どもたちには人気なのです。「何か面白いことが始まりそうだ!」という予感から、「ジッケン、やるやる!」と、意欲満々です。まあ、だまされているんです、最初は。

そこで今日は「坂道にいろんなものを転がして、どうなるかジッケンしてみたいんだけど」というと、やるやる!とワクワクしながら始まりました。ツルツル坂とガザガザ坂の滑り具合を比べようというわけです。板を乗せる柱のような土台(橋梁のようなもの)が4つあって、それ1個の高さに板を斜めに置いて、車をするすると走らせてどこまでいくか、止まったところに付箋をつけて、最長距離を目指します。

何回かやると、坂道のガードに擦れると止まる位置が短くなることに気づく子がいます。車を道の真ん中に置いてガードに擦らないように走らせると遠くまでいく。ただ、それに気づくことから、より遠くまで走らせよう!というようになるのかというと、なりませんでした。子どもの興味は「そっち」に収斂していくのではなく、拡散します。手を「そっと離す」のではなく、勢いをつけてバーっと走らせたり、急な坂上にして、地面にドンとぶつかって転がる車にゲラゲラ笑い出し、それが面白くなってきます。用意した車以外に、こっご遊び用の野菜やら、ドーナツやら電車やら、いろんなものを持ち込んで転がし始めます。

そうだよね、別に摩擦の違いで滑り具合が変わることなんかに興味を持続なんかできないよね。と私も頭を切り替えて、子どもの遊ぶままにしてあげます。ところが、ある子がドーナツのような輪になっている遊具を転がすと、面白い動きをしました。くるりと戻ってきたのです。そこでまた、一つギアが入ったように、次々と転がし始めます。やるたびに転がる軌跡が異なり、同じ動きをしません。集めては転がし、集めては転がし、何回も繰り返します。そうしているうちに椅子の脚の間を転がして通すことを目標にして、そこに「行った、行った」とか「だめ」といいながら、試すというか試行錯誤的な感じになってきます。

でもせっかくゲートのようになっているのに、今度はそこにその輪を並べて塞いだりします。もう何が面白いんだかよくわかりません。私が想像する面白さと彼が感じる面白さがちがっているのですが、私にはそうしてみたくなる感じに、ついていくことができません。たぶん多くの大人はそれをみても退屈でしょう。でも子どもはそれを試してみたい、どうなるかやってみたいのでしょう。あれだけ熱心に繰り返し遊ぶのですから、楽しいに違いないのです。

転がり方の変化に関心が移っていったのか、両手をずらしてはじくように回すことができたことが嬉しかったのか、わざわざ私を呼びに来て回して見せてくれます。

・・子どもの遊びというのはこんな感じではないでしょうか。こういうことを飽きるまでいろいろやってみる時間がとても大切なのでしょう。そういう中から、なにか輪郭のはっきりした活動に形になって、そこに何か意味を獲得しているように見えるときに大人がそこに注目して取り出して子どもの姿を描くということを、やっているのだろうと思います。

このように大人の誘導で始めた「遊びを装ったジッケン」は、途中から見事に子どもに乗っ取られて、本来の子どもの遊びになっていきました。これでいいのだと思います。そこにこれまで何度も書いてきた「遊び性」が垣間見られます。あっちにいったりこっちにいったりしているように見える中に、子どもなりの面白さの発見があって、そこに表れては消えていくような目的のようなものが見え隠れして、それもまたすぐに移ろいだり消えたりするように見えます。それでも面白さが断続的に表れています。

きっといろいろなことを試しつくしたあとで、またこの坂道を使って、何かを思い立ち、使い始めるかもしれません。このように考えると、昔私が小学生のころ、板や棒や鉄くずやドラム缶などが転がった空き地があって、そこでよく遊んでいたことを思い出すのですが、そこで何をしていたのか覚えていないのですが、遊び性について分析しているようなことが含まれていたのでしょうか。自分ではよく分かりませんが、そうだったのかもしれません。

小学校を訪ねて(2)楽しそうな授業の雰囲気を感じる

2024/03/04

今日はS小学校を訪問しました。今日も3人。この小学校へ入学する予定の子どもは一人ですが、今回訪問できない小学校へ行く子どもと一緒です。さらに近隣の保育園もお誘いしたので三園での交流にもなりました。授業は2時間目の途中から、1組の国語と2組の音楽を参観しました。

教室と教室の間は可動式のパーテーションで区切ってあるオープンな空間で、廊下や扉がありません。副校長先生が案内してくださいました。1組は国語でしたが今年の1年間を振り返るという内容で、何月には何あった、何をしたというのを黒板に月毎に書いて、みんなで思い出していました。

「この頃からカタカナを始めたよね」「あれ7月が空っぽだよ。何したか覚えている人?」「神田祭」「それはもう少し前だったんじゃない?」「5月だよ」「そうだね」と言ったやりとりをしながら、1年間でやったことが埋まっていきます。これはちょうど今、保育園でもやろうとしていることと同じで、卒園式の呼びかけにつながる方法だね、と担任とも話しました。

この小学校は卒園児が空くなったので、今回が初めての訪問だったのですが、校長先生は「こうやって来てくださるのは大変大事なこと」と積極的です。また授業中であるにも関わらず、担任の先生方も「どうぞ、どうぞ、入りください。みなさ〜ん、今度1年生になるお客さんですよ。今何をしているのかみてもらいましょうね」と非常に好意的に明るい雰囲気で、私たちを教室に招き入れてくださいました。

授業も時々冗談も言いながら、児童たちも和やかな雰囲気でした。見学している園児も思わず声を出しても、それにも自然に答えてくださるような感じです。

2組の音楽は、鈴やカスタネット、鍵盤ハーモニカなど6種類ほどの楽器を鳴らして試していました。活動のめあてはわかりませんでしたが、グループごとに分かれて、楽器を交代して楽しそうでした。

授業見学の後は、中休みの間、園の前の公園で低学年の児童と一緒に遊びました。その後3時間目の最初の避難訓練の様相も参観して今日の訪問は終わり。

その公園で一緒に訪問したH保育園とA保育園のみんなと遊びました。鬼ごっこや大型遊具で遊んでいると、4年生がその公園にきて「春を探す」というテーマでの自然観察が始まりました。

私はその児童たちに「何かあった?」と聞いてみると、すでに咲いている桜や、その花の蜜を吸いに来ているたくさんの鳥、垣根がわりに並ぶ低木の香りのいい花、小さい蕾から白い花びらが芽生えている白梅など、注意してみると、至る所に春が来ているのを、4年生と一緒に春見つけを楽しみました。

帰りはH保育園に立ち寄らせてもらい、次回以降の交流を約束、同じ小学校区での交流がさらに進みそうです。

 

小学校を訪ねて(1)卒園児との再会

2024/03/01

年長のすいすい組は9人いますが、そのうち3人をその子らが入学するI小学校へ連れていきました。

着くとちょうど中休みで、いま3年生のNUくんが校庭に出てきていたので校門越しに「すいすいさんを連れてきたよ」というと「じゃあ、先生に伝えてきて来ようか」と案内してくれようとします。

「頼もしいね、こんなになるんだねえ」と私は担任のY先生と顔を見合わせました。彼とは1年ぶりの再会でしたが、園生活でいろんなエピソードを思い出し、その姿を重ね合わせながら大きな成長を感じました。

校庭を通って入る玄関で、うわ履きに履き替えながら、次々と1年、2年、3年生の卒園児たちと再会します。「あ、〜ちゃん」と名前を呼び合い、手を取り合ってぴょんぴょん飛んだりしています。こういうことだけでも、小学校がぐっと身近になります。校庭から教室へ生き生きと戻っていく小学生たちの姿がどう映ったでしょうか。6年生に姉がいるKくんは小学校でのその姉とあって嬉しそうでした。

当園の場合は、園生活の中で、乳児から幼児まで交流があるので、お互いのことをよく覚えているのです。

副校長のC先生が出迎えてくださり、挨拶を交わしてから教室を案内してくださいました。1年生はその前まえでは3クラスだったのですが、今年2クラスで、一クラスにいる生徒がちょっと多い感じがしました。

1組は算数でした。赤と黄色の三角のピースを並べて、いろんな図形を作ってみるというもの。その様子を教室の後ろから参観させてもらいました。2組には卒園児が4人いて、3人はその様子をじっとみつめていたのが印象的です。

その後、職員室と校長室の間の、廊下につながる空間に設けられている図書コーナーで、図鑑を見て過ごしました。

国が目指している小学校とも架け橋プランと比べれば、こういった訪問はまだその入り口に過ぎませんが、子供たちが少しでも小学校以降の生活や学びに前向きな気持ちを持って歩んでいけるように、と思っています。

今年の訪問は近くの保育園にも私が声をかけて一緒に出掛けたので、他園の4月から同じ1年生になる園児たちとの出会いと交流にもなりました。年長の残りの子たちも来週ほかの小学校を複数の保育園と一緒に、訪問する予定です。

子どももコミュニティも成長し続ける

2024/02/29

(園だより3月号「巻頭言」より)

成長展が終わり、こうした行事を通じても1年間を振り返る機会になっています。開園してまる5年。17日の卒園式を迎える準備をしていると、卒園していく子どもたちが愛おしい。これくらい長い目でみた時に、手元に見える風景や個人の記憶に頼っても細かなことは思い出せません。でも、その当時の写真や記録を紐解くことで、今の育ちがはっきり見えてくるような感慨を味わっています。これは子どものそうですが、コミュニティにも言えるかもしれません。

まだ生まれて1歳の「しずくの会」の今後のことです。この会について、私はこう思っています。保育園の仲間も「数あるコミュニティの一つ」です。まずは今いるいないにかかわらず親子関係が誰にでもあって、それを軸に色々な家族があったり親戚があったりするはずです。また家族を離れて、友人や知り合いがいたり、会社があったり、学校があったりと、それぞれの人間関係があって、その役割やら機能やらは社会的、歴史的な文化的背景を持っています。

その一つに保育園という、子どもが同じ場を共有している場があり、そこに集う親たちが語り合い、何かを生み出していく場があっていいんじゃないか、それはきっかけとして無いよりはあった方がいいんじゃないか。それが自然に近い形で誕生した「しずくの会」ですが、そこに入ることが義務だったり、意味を感じないのにやらされる感があるような運営にはしなくない、と思っています。

この運営スタンスは、子どもにそうあって欲しいと願ってやっている保育テーマと似たところがあります。おそらく世界の教育はその方向をさし示しています。分断ではなく共生や協力、あるいはダイバシティやインクルージョンのテーマともつながります。それこそ民主主義のテーマと同じだと思っています。

大事にしたいのは、そこの当事者性、エイジェンシー(主体性)であり、他者と対話を閉ざさないことです。しんどくても話し合い、対話をやめない。でも決して傷つけない、暴力に訴えないということ。誤解や間違いやミスがあることもお互いに許しあい許容し合う関係を社会に増やしたいし、より良いものにしていくための提案やシェアリングにしていきたい。寛容性の高い世界を増やしていきたい。

それがいくら牧歌的で甘いと言われても、きっと続けていくことでしょう。

それが、そうではなくなってしまうこと、異なる他者を排除したり、話し合いにならないようなことが占領してしまうようなこと、あるいは孤立や格差の助長などが強くなってしまうなら、わざわざ維持する必要はないわけですよね。あるいは形骸化して有名無実のものになり、無理に形だけ維持するようなものになってしまうなら、しずくの会は、なくても構いません。さっさとやめた方がきっと別のものが芽を出しやすいでしょう。そんなふうに考えています。

でもきっと、子どもたちのために、あるいは私たちのために、きっとより良いことをしようとしたり、課題だと思うことを解決しようとしたりし出すことは、信頼関係が生まれてくれば、きっとなくならないので、そのためには何か動き始めると思います。しずくの会も、そうやってできたものであるし、やってきたことや、やろうとしていることがあるから、それはそれで動いていくことでしょう。

さて、この記録が来年、あるいは再来年、どんな風に再読されるのか、楽しみです。しずくの会がどうなっていくのか?

というわけで、子どもたちも卒園したらどういう風に育っていくのか、とっても楽しみです。成長展の毎年のファイルは、毎年の成長の記録でもあるのですが、積もるほどに見えてくる物語もあるでしょう。呼び起こされる記憶と共に今につながるストーリーが見えてくるかもしれません。ただ、これからもその日その日を大切に、その瞬間瞬間を大切にしていきたいものです。

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