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園長の日記

お帰りなさい、チュンちゃん

2023/10/13

セキセイインコのチュンちゃんが、保育園に戻ってきました。夏の間、涼しい避暑地にいました。主任の家です。日本がこんなに暑い夏になると避暑地に「避難」や「疎開」と言いたくなります。無事に戻ってきて子どもたちも嬉しそうでした。

今日もいい天気なので午前中は外へお出かけです。乳児は佐久間公園、幼児は和泉公園でした。以下はそれぞれのドキュメンテーションのまとめ、から。

<ちっち組>

遊具や砂場があったり、電車を近くで見れたり、ヒメリンゴが落ちていたり…。自然にたくさん触れながら身体を思う存分動かして楽しんできました。帰り道は「楽しかった」と話してくれたり、もっと遊びたかった!と気持ちを訴える姿が見られたりと、楽しく過ごせたようです♪ 今後も自然や地域と関わりを大切に持ちながら過ごしていけたらと思います!

<ぐんぐん組>

今週は、佐久間公園で遊ぶことが多かったので、子ども達も前回遊んだことを思い出して、ひめりんごを使ってケーキ作りを始めてみたり、神社の中を探索したりすることを楽しむ姿がありました。同じ公園で続けて遊ぶなかで、子ども達にとって印象的だったできごとやお友達との楽しい体験が次の日の遊びにも繋がってきているなぁと感じました。

<にこにこ組>

朝は2階へ上がらずそのまま早めにちぐに合同で散歩へ出かけた。いつもよりもスムーズに出発することができ、遊ぶ時間もいつもよりも多少長く取ることができた。 たくさん体を動かす時間が取れたことはとても良かったので今後もこの流れは取り入れていきたい。

<わいわい組>

今日は、選択で過ごす。久し振りに会うチュンとの再会を喜んで受け入れている。新しいおもちゃやチュンの変化で気づいたことを繰り返し話していた。

<らんすい組>

今日は、和泉公園にお部屋との選択で過ごしました。和泉公園にいく前には、らんすい組の男の子たちがとてもハマっている生き物への関心が散歩でも表れていました。先生「これー持っていっていい??」と生物図鑑をもってきて、なにか捕まったら見てみようねーと生き物採集に燃えていました。他園の子どもたちと公園で競うように、「俺ら捕まえようぜー」と負けん気が凄く、トンボを追いかけ走り回って、気の合うお友達と楽しく過ごしていました。

 

環境との関わり方や意味に気づく

2023/10/12

先週から毎日のように午前中は外へ出かけています。乳児は佐久間公園、34歳は電車で十思公園、年長は科学技術館と北の丸公園です。園庭がない当園のような保育園は、地域を園庭代わりに使いこなすために、それぞれの場所の特徴を保育に取り込んでいきます。それぞれの活動の様子は各クラスのドキュメンテーション(スマホで見ることができます)でご覧ください。

私は今日は年長と一緒に過ごしたのですが、科学技術館はお泊まり会いらい2回目です。1回目よりも今回の方がそれぞれの場所や装置に馴染みがあるので、少し体験が深まったようです。鍵盤が描かれた床を足で踏むとその音が鳴るのですが、当てずっぽうで歩いたり走ったりすると、それで音がすること自体が面白いようで、何度も繰り返しています。

NHKのピタゴラスイッチで球が転がっていくと物が動いたり倒れたりしながら、ゴールまで辿り着くのがありますが、あれと同じようなことを、ボーリングの球ぐらい大きな金属球で、フロア全体をぐるりと一周させるようなゾーンがあります。

機械を操作して押したり、転がしたり、クレーンで持ち上げたりしながら、その都度、止まってしまう球をなんとか次の場所へ動かすような仕掛けになっています。かなり力がいるのですが、球を動かすことで、仕掛けの意味(物体に働く力のパターン)に気づくことができます。

このようなことが面白いのは、自分の身体、感覚を使って働きかけながら、物が動いたり変わったり音がしたりするからでしょう。具体的に触ったり、握ったり、押したり弾いたり、引っ張って弾いたり、自分で働きかけたことで物が変化していく。そこには物理法則があるのですが、体験することで何か気づき、じゃあこうしたら?と考えたり工夫したりすることが起きていました。どうしたらいいのかわからなくなるときは、その仕組みを理解することが難しい場合です。それでも遊び方を教えるだけで、やり方がわかれば楽しめるので、大事なことはやることで気づけるようになっていました。

同じようなことが、お弁当のあと、北の丸公園の雑木林で遊んだ時にもありました。木登りです。

どの木なら登ることができるか?木の枝と自分の手足、バランスの関係を探りながら、あれこれ考えながら登ることができる手順を発見していきます。

枝の隙間に靴がや膝が挟まって動かなくなったり、斜めの木にお尻と足を押しつけてバランスをとっている状態から、次の上の枝に手が届かない時は諦めるしかない、ということに気づいたり。身体と木との会話のようなことが繰り広げられていました。環境との関わり方と意味に気づくことが、こんな形でも起きているんですね。

代弁とは「気持ちを言葉でなぞる」こと

2023/10/11

「先生、うまいこと言うなあ」と1歳児クラスのブログを読んで感心しました。以下に紹介します。最後に「こっそり共有するのが嬉しい」と書いてあったのですが、保護者の皆さん全員と共有したいので、ここに紹介させてもらいます。やっぱり、うちの先生たちは、子ども同士の関わりの育ちに関心が強く向くようです。

・・・・・いつものように、子どもの名前はイニシャルに変更します・・・・・・

昼食前、Sくんが水道で手を洗っていると、その隣の蛇口に、Yくんもやってきました。


Yくんが来ると、Sくんはさらりと隣の蛇口に手を伸ばし、ひねって水を出してあげていました。


Yくんも、そこで手を洗いはじめます。

言葉を交わすこともなく、ほんの数秒のことでしたが、なんだか、その言葉のいらない自然な関係や関わりが素敵だな〜と感じました。

さらにその後も水道の手洗いのようすを見ていると、Cちゃんが後ろで順番を待っていたRくんに「Rくんどうぞ〜」と、”自分の使っていた場所が空くよ”と伝えてあげたり、となりのお友だちに石けんを渡してあげたり…。

お友だちのものが欲しかったり、お友だちのことをやってあげたかったり、まわりの友だちに興味を持って関わりたい!という気持ちも強くなっているぐんぐんさんたち。
その分、時には相手との気持ちのズレやすれ違いで ぶつかって、ケンカになることも多いけれど、じっくりとよーく見ていると、こんな風に、相手への気遣いや “やってあげる・やってもらう(さらには、相手にやらせてあげる)” の関わりも、たくさん隠れています。しかも、そんな姿に限って、とってもさりげなく、自然に見せてくれるので、パッと見た姿だけでは、なかなか気が付きにくかったりもしますね。

お散歩前には、Rちゃんが、Sくんの帽子を持ってきて、渡してあげようとしていました。
みんな、自分のものだけでなく、それぞれのお友だちの持ち物をよく覚えています。

Rちゃんが、帽子を差し出しながらSくんを追いますが、Sくん、まだ帽子をかぶりたいタイミングでなかったのか、違うところに気が向いていたのか、Rちゃんが帽子を差し出していることになかなか意識が向いていないようすです。
Rちゃん、その姿を感じ取ったのか、”まぁいっか”と一旦帽子を渡しに行くのをやめようとしていました。それもまた、相手を思いやる姿かもしれません。渡してあげたい自分の思いもあったけれど、いまは受け取らないみたいだな…と相手の姿に目を向けて切り替えています。
・・・なのですが、この場面では、Sくんは帽子を嫌がっていた訳でもなく、そこに気が向いていないだけのように見えたので、大人が「Rちゃんが、しおんくんの帽子持ってきてくれたよ〜」と言葉にのせて伝えると、ふとその姿に気がついて、帽子のやりとりをしていました。


そうして、大人が言葉に乗せながら、子ども同士の関係を繋いでいく瞬間もあります。

子ども同士の関係を繋いでいくときに大切にしたいと思うのは、そこに大人の気持ち(主張)を入れ込まず、『それぞれの子どもの気持ちを言葉でなぞる』ということです。
例えばこのシーンで考えると、Sくんに対して「帽子受け取ってあげて」と言うのでなく、”Rちゃんが渡してあげたいと思っている”ということを、伝えていきたいな、と思います。受け取るか受け取らないか、そのときかぶるかかぶらないか は、Sくんが決めることだからです。
もしも、渡してあげようとしたけれど、Sくんが嫌がったとしたら、そのときは、「いまはかぶりたくなかったみたいだね。渡してくれてありがとう」ということをRちゃんに伝えたかもしれないな、と思います。
「子ども同士の関係をつなぐ」というのは、関わり合った結果がいつも『うまくいく』ということではありません。自分には自分の思いがあって、相手には相手の思いがある。そのお互いの気持ちに寄り添い、言葉でなぞりながら、「じゃあ、どうしようか」と一緒に考えていく・・・それを根気強く、繰り返していく中で、子どもたちも少しずつ、自分たちでその対話を試みるようになっていきます。
自分の「こうしたい!」の思いが強く表現できるようになって、ケンカも激しくなってくる時期でもありますが、その中で感じる悔しさや葛藤、気持ちを通わせていく過程も、まぁいっか、と思える気持ちも、すべてが大切な経験だと考えています。その体験を何度も繰り返して、対話やコミュニケーションを経験していく中で、子ども同士での関係性が育まれていきます。
わたしたちは、「こうしたら良いんじゃない?」「これは、嫌だな、悲しいな」などと大人の思いも伝えつつ(もちろん「うれしいね!」「ありがとう!」などのポジティブな思いも含めて)、あくまで子ども同士の関係の中にそっと寄り添うことを、大事にしたいなと思います。子ども同士の関係に関わりすぎず、でも引きすぎず…の距離感が、難しいけれど面白いところです。
だからこそ、最初の手洗いのシーンでも、大人は何も言葉をかけず、子どもたちのやりとりをそーっと眺めて、静かに感動していたのでした。そんな、静かな感動をひとりで噛み締めるのはもったいないので、こうして、お家の方やまわりの先生たちと こっそり共有するのが、嬉しい瞬間でもあります。

・・・・・いかがですか?先生たちの考えていること。大事にしたいと思っていること。気づかれていない言葉にならない思いが見えるようにする「言葉でなぞる」という表現に私は感心したのですが、昨日の「環境からの呼びかけに対する子どもの呼応」という話を思い出すと、これも子どもにとっては、お友達の気持ちを、先生が押し付けがましくなく、環境からの「呼びかけ」に変えてあげているように見えなくもありませんね。人的環境は、空間や物の環境とはまた異質ではあるのでしょうけれど。

環境の「呼びかけ」があって子どもが「呼応する」

2023/10/10

話題になってすぐに手に入れ、人に勧めている本があります。『子どもが中心の「共主体」の保育へ』(小学館)。保育園用にも置いておきますので、保護者の皆さんも手にとってご覧ください。私たちが目指したい保育がここにあります。この本の中で、すでに聞いていた(読んでいた)話だったのですが、活字になって世の中に公になると、以下のことが個人的に大きなインパクトがありました。それは環境からの呼びかけに子どもが呼応する、という捉え方です。

子どもが思わず遊び始めるのは、その周りにある環境の方から「呼びかけ」(無藤隆先生)てくるものがあるからだという表現に接し、個人的にはとても腑に落ちるのです。これまで、身近な環境に子どもが自発的にかかわるという言い方がされても、またそれでいいのですが、私はずっとそれでは矢印が一方通行のような気がしていました。とくに環境との「相互作用」と言いながら、環境の方からくるものをどう考えたらいいんだろう?とか、アフォーダンスの概念で理解していればいいのだろうか? などと勝手に想像していました。

しかし、これで私の理解が一つ、つながりました。ミッシンクリンクがつながったというとかっこいいですが、つながってないことの方が多いんですけど、でも理解できたというのは嬉しい。子どもと環境の関係について、特に遊びの説明について、はっきりと環境からの「呼びかけ」に子どもが「呼応する」というように考えればいいとなると、子どもの選択の意味もクリアですし、個々の子どもが、そことの関わり方や意味に気づき、ということにもつながっていく。子どもの活動や遊び、あるいは主体的活動としての遊びの理解がわかりやすくなったのです。

 

自分で決めることを支えること

2023/10/07

頭で分かってはいるけど、行動に移すことができないこと。私にはしょっちゅうあります。できない理由はいろいろですが、案外自分でも「手強い」のは、納得できないで、もうもやしているのに、やらないといけない時です。頭でもよく納得できないでいるのでしょうね。でも立場上とか、言った手前とか、まあ、いろいろありますよね。

それは子どもだってあるでしょう。決めた時間に起きることや寝ること、好物の甘いものや炭水化物を食べすぎないこと、ケンカになって自分が悪いとわかているけど素直になれないこと。大人でも似たようなことありますよね。子どもの場合で、先週見かけたことは、どうしてもママに会いたいと朝から「お家に帰る」「ママに会いたい」と言って聞かないこと、それとは反対に好きな遊びを終わることがなかなかできず、お迎えの時間だけど「帰りたくない」と言ってお家の人を困らせること。また昼間でもありますが、遊びや遊具の交代は「わかっちゃいるけど、やめられない」の一つかもしれません。

今日は実習生の日誌を読み返して、総評をまとめていました。保育の理解の仕方の中には、そうはっきりと断言できるようなものは、意外と少なくて、例えば子どもが「自分でそうしよう」と決めているように見えていることも、いろんな要素や力が働いて、複雑な無意識の働きの結果、そうなっているのだろうということが多いと思います。その要素や働きの中に、保育者が支えるというによる影響も当然含まれます。それは、どういうことなのかを実習生にも理解してもらいたいと思うことがあるのです。

例えば10月2日(月)のことです。私はブランコに乗ってい3歳のIちゃんを後ろから押してあげていました。それが楽しいらしく何度も「もっと早く」とせがむので、押して大きく揺らしてあげていたのです。しばらく経ったとき、年長のHちゃんが「やりたい。代わって」と走ってきました。Iちゃんは黙っています。もうずいぶん乗っているので、代わってあげようという気になるのかな? どうするかなあ? と見ていたのですが、黙っているので「変わってほしいと言われていることはわかるけど、もっと乗っていたい」と思っていることがすぐわかりました。年長のHちゃんは、交代して遊ぶということを相手にも期待して「もう、代わって」と、強くもう一度言うのですが、だめだと諦めて別のところへ行きました。

そのいきさつを、ボランティアにきていた小学6年生のAさんもみていて「こういうとき(Iちゃんに)代わってあげるように言うの?」と私に聞くので「そうだね、Iちゃんはわかっているんだけど、そうしたくないんだよね。どうやったら自分で、いいよ、って気持ちになるのかな。大人が『代わってあげなさい』と、そうさせてしまうのではなくて、自分でそういう気持ちになるといいんだけどね」というと、小学生のAさんは「ブランコ、もっといっぱいやるといい」と言います。満足するまでブランコすれば、代わってあげようという気持ちになるだろう、と考えたようです。

年長のHちゃんは、乗るのを諦めましたが、乗りたい子が多いときは、また別の結果や違った行動になる場合もあります。ブランコに列ができるときもあります。そいうときは自分から交代することや、順番で遊ぶことなどを受け入れやすい状況だったりします。また相手によって自分のやりたいことを押し通せたり、自分が我慢しないといけなかったり、します。特に相手が知っているお友達だったり、その友達関係のあり方によっても、違ってきます。また援助している先生によっても変わるときもあります。また家でも、お父さんかお母さんかでも、子どもは自分の思いや気持ちの押し出し具体を変えることがあることに思い当たることでしょう。

このように自分から何かをしたり決めたりするのも、ある程度発達してきたからといって、いつも安定的に同じようにできるというものではなく、その資質や能力が発現しやすい環境や状況というものがあって、それと切り離せないようなかたちであらわれるということがあります。その繰り返しの中で、長い目で見た時に、成長を感じる時がきます。

また私が「Hちゃん、ブランコ、代わってくれないかな、だって」とHちゃんの気持ちをただ代弁したつもりで言ったとしても、Iちゃんにとっては、一緒に遊んでいた私がそれを口にすること自体が、別の意味を影響を生むことになります。自分でそうか!と気づいて行う、ちょっとした後押しになることもあれば、かえってIちゃんの気持ちを頑なにすることだってあるでしょう。

このように、どんな援助や声かけのようなものがいいのか、などをその状況判断を抜きに一般化することはできません。やはり個別具体的な判断とその振り返りの繰り返しの中で、その子どもにとっての、ある確からしいことが見えてくるのだろうと思います。その子どもが「代わって」と言われたことがわかり、どうしようかなと考えたり、どう言ったらいいのか工夫したり、表現することは、それぞれです。その過程で、内面で動いている心情は前向きな肯定的な気持ちや不快な否定的なものの間で揺らぎながら、自分なりに出口や光と思えるところを見つけていくでしょう。

思いつきで思わず手が出て、体が動いてやっている遊びが面白くなって没頭し、さらにこうしたいという目標が見えてきてそれをやろうと工夫します。自分だけではなくてお友達とのやりとりを通して、やりたいことや思いつくことも変わっていきます。その都度の積み重ねから、なぜかより善いことにつながっていくのでしょう。どうやってそこに至るのか、大人も子どもも、自分の中で無意識の仕組みの中で起きていることは見えようがありません。ただ、個別多様であっても、その2〜3年という長いスパンの中で成長していく筋道があります。その道筋はよりよい生活のありように向かって参加していくものになるといいのですが。

それだけに、わたしたち保育者は、いろいろ望ましい結果を生むように環境を考えますが、年中、年長ぐらいになる子どもにとっては「自分でやった」「自分で決めた」「それがよかった」という実感を生むようなプロセスを大事にしながら、他者のことも考えながら自分で決めたと思える行動に結びつくように思えるのが「幼児期にふさわしい生活」の一要素のように思えます。

砂場や池の魅力

2023/10/05

保育ドキュメンテーションでお伝えしているように、今週から外遊びができる気候になり、散歩先でちょっとしたドラマが展開中ですね。乳児は芝生の上でピクニックのような解放感を味わっているようです。

1歳児や2歳児は公園にある砂場での見立て遊びも盛り上がっていますね。

幼児は3階ベランダの木枠に子どもたちが砂を入れて砂場が出来ました。

一方、幼児たちは団地の公園に見つけた池にザリガニがあることを知り、釣るための道具を作って持っていったものの・・・。「釣りは禁止」の現実に直面した子どもたち。さあ、どうする!?

芋掘りと斜面での運動遊び

2023/10/03

カラリとした秋風の中で、芋掘りができてよかった。私が前の園でよく行っていた川崎市の「黒川東農園」まで年長さんとバスで小一時間かけて出かけたのです。広々とした畑には、さつまいもの他に、落花生や柿、栗などのほか、人参やさといもなどの根菜類も育っていて、畑というものを実感してもらうためにも、ここにしています。

(芋掘りの様子は、クラスブログや、ドキュメンテーションをご覧ください)

一人3株ずつ掘りました。畑を管理している方は「ここんところ、ずっと雨が降ってないから、土が硬くて、きっと掘りづらいだろう」とおっしゃっていた通り、3分の1ぐらいまでは軍手をした子どもの自力で掘れるのですが、それ以上深いところは難しい。私たち大人が手伝ってあげながら、掘り出しました。それでも素手では硬いので、農家の方がシャベルで周りの土をゴクっと掘り上げてくださいました。

芋掘りをしていていつも思うのですが、農家の方は大抵、掘りやすいようにと蔓を切って準備してくれます。それなので、子どもたちは、芋は土の中に宝のように埋まっているもので、そういうものだと思い込んでいます。そこで蔓のついたままの畑を観察してから、株をふた株持って帰ってきて、玄関に展示しました。

畑のそば蔓で綱引き遊びをする時もあるのですが、今回は近くの坂のある公園で遊びました。

お弁当を食べた後、その斜面のある山の一角で体を動かして遊びました。落ち葉を投げ合ったり、桜や竹の枯れ木を集めたり、斜面をよじのぼってみたり、おそるおそり、下り坂を歩いてみたり。ただ斜面を走り回るだけでも、体の使い方を覚えていきます。勢い余って転びそうなって踏ん張ったり、小刻みに走った方がバランスが取れることなど、だんだん斜面遊びが面白くなっていくのが見ていてわかります。

事前にソリ遊びができることを知らせてあるので、子どもたちが事前に作って持っていきました。この遊びは、みんな初めて。大学生のアルバイト二人もやったことがないようです。私が見本のつもりでやってみせると、「やる、やる」と始まりました。地面の傾きや滑らかさなどで、滑りやすい場所とそうでない場所を見つけています。慣れてくると、うつ伏せになったり、横向きになったり。色々試してあそでいました。

運動遊びの後半は鬼ごっこやかくれんぼ。鬼決めで足を並べ始めると、「入れて〜」と集まってきます。鬼きめの唱え文句が長いのは、それをみて周りの子どもたちが「僕もやる!」と気づく意味もあるんでしょうね。12時半ぐらいから1時半まで、1時間もこんな場所で遊んでいると、時間が経つのも忘れますね。

子どもが無心に遊んでいる世界

2023/10/01

園だより10月号 「巻頭言」より

20231001 巻頭言10月号(印刷用)

前号(9月号)のこの欄に、遊びを終えて集まりへ気持ちを切り替える年長の姿に成長の姿を感じたと書きましたね。でも本当はその姿よりも、もっと大事なことがあります。子どもがいかに遊びが好きで、その感覚を大人が忘れないようにしたいということです。私が好きなエッセイに次のものがあります。ちょっと長いですが紹介します。

「子どもたちの鬼ごっこにまきこまれてひとときを過ごすとき、笑い合い、かけまわって、面白くてたまらない世界がそこに開けている。おとなになってから、稀にそのような機会に恵まれたとき、自分自身の少年時代に、友だちと日が暮れるまで遊んだ記憶がよみがえる。他のことは消え去って、胸のはずむ思いのその時が大きく浮かび上がる。そのような時を体験したことが、自分に子ども時代が確かにあったことの証しではないかとすら思う。

木々の茂みの中でかくれんぼの鬼になって数をかぞえている間、静まり返った木立は私を孤独にする。だが子どもたちも同じような一抹の不安をもって、同じ時を過ごしているのではないかと思う。やがて小さなさざめきがとところどころに聞こえてくる。かくれんぼのこの自然の余韻の中にいつまでもとどまっていたと子どもたちは願う。だが幼稚園には帰りの時があり、子どももおとなも現実の時間にひきもどされる。子どもは木の枝を手にして、家に持って帰るという。いま過ごした大きく広い世界の記憶を、手元にとどめる記念である。先生はそれを家に持って帰らせる。

現実の社会生活の場で子どもは生きているのだが、子どもが無心になって遊ぶとき、そのただなかに子どもの世界が開かれる。それは人間の精神の芽生える土壌といってもいいのではないかと私は考える。土壌がつくられなければ、葉も花も開かない。人間の発達は、現実をうまく処理する知能や問題だけのことではない。人が、自分自身として生き、また他人とともに生きる精神の豊かさがなかったなら、人間として貧しい人生になるだろう。子どもが無心に遊ぶとき、広く大きな宇宙に心が開かれている。おとなはこの子どもの世界にふれることによって、うるおいを与えられ、貧しく狭くなりかけている自らの心をひろげられる」(津守真『子どもの世界をどうみるか 行為とその意味』NHKブックス 1987年「子どもの遊びは精神の芽生える土壌」より)。

私は子どもと一緒に遊ぶとき、子どもの生きている「奥行きのある世界」に実際に入り込み、果てしなくいつまでも続く世界の中でお互いに心を通わせあっているという実感を覚えることがあります。他から切り離された遊びの時空が確かにあるのです。それをみなさん、思い出しましょう。まずは子どもは、そこの住人であることを。そして今月の保育参加や親子運動遊びの会で、その感じにぜひ触れてみましょう。

身体感覚の新しさを楽しむ(発見する)

2023/09/29

子どもは新しいことが好きです。心地いい感覚を見つけると、それをまたやろうとします。それはいろんな分野というか、世界にあるわけですが、今日は子どもたちが「自分の体を動かす」という中に、新しく「ここちよい」と感じるものを、たくさん見つけたようです。今日はダンサーの青木尚哉さんと芝田和(いづみ)さんがいらして、午前中、全てのクラスで運動遊びを楽しみました。

自分の指先や足先を意識して動かすこと。それを遊びにすること。たとえば「グーパー体操」と呼んでいる遊びは、立っても座っても、足を閉じていればグー、ひらけばパーです、それを太鼓やギターのリズミカルな伴奏で、グー、パー、グー、パーと、ゆっくりからだんだん早くやっていき、最後はぶるぶるぶる〜と震わせます。

それをやっている間、意識はその動きに集中しています。繰り返していくと、体がそれを覚え、慣れ、面白さが薄れていくのですが、「もっとグー」とか「もっとパー」などという言葉から、子どもたちは、その「もっと」を面白がって、やります。

そのグーとパーを「顔」でもやります。グーの顔とパーの顔。大人だったら、やってと言われてもやらないでしょうが、子どもたちは「そんなものはない」などと思わず、楽しくやります。そして「もっとグー」とか「もっとパー」の顔をします。

その動きから生じる「新しい感覚」の発見を楽しむこと。そこには未知の世界に繋がっているよ「ほら、そこ!」というように、ある種の勢いに任せて、その世界へ快感と共に飛び込んでいく感覚。やると楽しいので、面白いのでその世界を開いていく感じです。

ほかにも「マネキンとデザイナー」と名付けた遊びは、デザイナー役がマネキン役の手や足や胴や頭を、ていねいにゆっくりと動かしていきます。4秒ぐらいで「いち、にい、さん・・・じゅう」と10カウント数えながら、10回、いろいろなところを動かします。2歳児クラスの子たちは、それを動かして形が変わること自体が新鮮で、色々やりたがります。でも4秒に一回などのタイミングは、まだ守れません。どんどん動かしていく子が出てきます。

でも自分がマネキンになったつもりで、自分で自分の体を留まらせながら、手や胴体を動かしては、おかしくなって笑ったりしています。そのうち、大人の股や腕と地面の間に「トンネル」を見つけて、くぐったり、滑り込んだり、体を狭い空間に擦り付けてルツン!と飛び出るような(まるで魚が握られた両手から滑り出る時のように)動きを楽しむ子もいます。

新しい身体感覚の発見を楽しんでいるように見えます。その面白さや楽しさに誘われて、新しい体の動かし方を探求しているかのようです。子どもがそういう自分自身の体のかかわり方を無意識のうちに開いていく。幼児後半になると、自分の体への関わり方へに気づき。あるいは、体を動かすことが「体と環境とのかかわり方を広げていくこと」という言い方ができることに納得できます。

そういえば余談ですが、数年前、5領域に代わって、3つのかかわりの視点で0歳児の姿を捉えよう、という風に変わった時、身近な人や、身近なものとは「かかわる」という表現に違和感を持つことはなかったのですが、「健やかに伸び伸びと育つ」というところが、自分自身への関わりという意味を持つことがよくわからないでいたことを思い出しました。

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