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園長の日記

クラス別の年間目標

2025/03/28

令和7年度 クラス別年間目標

年度末にやっていることの一つに、その年度の振り返りと新しい年度に向けての計画づくりがあります。この二つは繋がっています。みなさんの企業でも事業所でも個人事業でも、計画・実施・評価・改善というPDCAサイクルがあると思いますが、それと同じです。このサイクルを回してより良くしていきます。このサイクルの輪は小さいものでは、1日単位のものから、年単位のものまで(もっと小さいものから大きいものまでありますが)、それぞれクルクル回しながら、スパイラルアップしていきます。このPDCAサイクルでは、大きく2つのこと「子どもの育ち」と「自らの保育」を振り返ります。

実際にはどうやるのかというと、日案、週案、月案のなかでも、子どものを観察して、記録をとり、振り返り、計画を立てる。このアセスメントサイクルが回っています。毎日お伝えしている保育ドキュメンテーションは、記録の部分をお見せしていることになるのですが、その前後を<観察>と<振り返り・次への計画>がサンドイッチしています。

成長展の展示に表したものは、4期の記録を並べた<記録>であり、1年単位の<振り返り・次への計画>の資料となりました。それを作る過程が<振り返り・次への計画>にあたっています。子どものの育ちを振り返りながら、どのようにその子らしく育ったのか、その姿を記述する定性的なアセスメントです。

その結果、令和7年度の年間のクラス目標が話し合われて、表現されました。全体の計画の中心部分に位置づきます。その内容は、4月のクラス別保護者会で説明したいと思います。

第三者評価の結果が公表されました

2025/03/27

当園の第三者機関による受審結果が、東京都のホームページに公表されました。保護者のみなさんにもご協力いただいたアンケートの結果も載っています。

🔳とうきょう福祉ナビゲーション福祉サービス第三者評価

https://00m.in/Vjlsn

この遊びを守ってあげたい・・・何から?

2025/03/27

予定を変更して室内で遊んだり、屋上で昼食を食べたいと言い出したり、約束を破られて涙をこぼしたり、保育園ではいろんなことが起きるのですが、こういう生活を守ってあげたいと思うのですが、一体私は何から「守ろうとしているのだろう」とふと思うことがあります。

それは、乳幼児教育で大事にしていることであり、養護と教育が一体であることであり、資質能力であり、ご領域や10の姿であり・・・ようするにウェルビーングなのですが、それが侵食されてしまいかねない危うさから守ろうとしているのだろうとは思います。

その大きなモーメントは、うちの子どもが将来「社会的・経済的成功」につながるのか?あるいは小学校以降の学びや生活に有効なのか?そういう心配からやってくる「あれこれ」の一面でもあります。総括りでいい悪いという話ではもちろんありません。そこをどうやってうまく納得してもらえるのか?

そこに部分的につながるような話になるかどうかわかりませんが、こんな4象限の分類表を見ました。コンサルタントの山口周さんの作った表です。

縦軸が自分らしさの軸。横軸が社会的成功の軸です。それぞれ上や右にいくと高くなります。どちらの要素も低い左下は「安易な落とし所」となっていて、どちらもほどほど中途半端です。右下は「マキャベリ的人生論」で社会的・経済的に成功したけど虚しい。左上は「ルソー的人生論」で自分らしさを求めたけど社会的・経済的に不安。

どちらの要素も高い右上は「アリストテレス的人生論」となっていて、自分らしい人生と経済的・社会的成功の両立となっています。ここを目指して可能なようにするには、どうしたらいいのか?というわけです。

私が守ろうとしているのは、この両立につながらないような一面的な議論や方法に対して「?」と感じているところに近いなあ、と気づきました。これは嗅覚としか言いようがないのですが、偏ったものに騙されるなよ、と言いたくなる感じです。

福祉や教育にいるとどうしても右下への志向と思考が疎くなる気がします。そこも考えた時にやってくる傾向から守るためにも、冒頭の保育理論を世間に向けて強化しなければ、思うのです。

特別展示の第4期を読み終えて

2025/03/26

成長展の特別展示は第3期(10月〜12月)までの子どもたちの様子を描き展示しました。先週末に最終の第4期(1月〜3月)のそれが完成しました。そして今日、それを丹念に読み終えました。1年間を4期に分けてそれぞれの期の育ちを振り返ってみたわけですが、その4期を全部並べて読み進めてみると、とても興味深いことに、1年間の育ちが立ち現れてくるという現象が発生します。ぜひ、みなさんもご自身の目でお確かめください。

その「現象」の謎解きになるかどうかわかりませんが、少し前提となっていることをお話しします。

この展示内容のために選ばれている写真とコメントは、お察しのとおり、膨大な数にのぼるのですが、それでも全体のほんの一部でしかりません。それでも先生たちが選んだ事例は、その時期の育ちの何かを表しています。それを繋げてみたときに初めて見えてくる育ちのストーリーが浮かび上がってきました。ストーリーといっても、別に脚本があるわけではありません。結果的にみえてくる育ちの流れのようなものです。私にはこんなふうに見えたという感想をもっているのですが、それは人によって違うかもしれません。

 

このことを、どう例えるといいのでしょう。満天の星空に星座を描くことに似ているかもしれません。どの星とどの星を結ぶかは任意であるはずですが、白鳥や柄杓が見えてくるのは、私たちのイメージの投影です。いろんな絵が無数に描けるはずなのです。それをアインシュタインは自身が見出した理論についてさえ、同じことを言っています。数学のトポロジーと同じことになります。

そのたとえよりも「別の宇宙に出てしまう」と言った方がいいかもしれません。今流行りのマルチバースに似ています。理論的には存在する可能性が高い仮説だが、誰もみたことがないという事情に似ています。すでに過ぎ去った過去なので、いまからそこをねらって(写真とコメントを撮ったり)記録することは不可能なのですが、それでも、その頃に別の似た事例もそこにきっと見出すことができるに決まっているというような事情です。

そうしたことを差し置いても、ここで選らばれた事例は、事実であるという意味でドキュメントとして価値があるはずです。「そうそう、このエピソードは◯◯ちゃんのことを、よく表しているよね」といった数々だからです。また、「こういう経験に似たことがたくさんあるよね」ということが選ばれています。それだけではなく、逆もあります。「よくこんなことがあるもんだね」ということも記録されており驚きます。

これらの事例は、いわばノンフィクションであることは間違いない、と言いたいのですが、それでもある1つの視点から切り取った姿ではあります。具体的には、国が定めた要領や指針に基づく子どもの姿です。それでも、また繰り返しますが、そこにも結果的に何を選び並べるかという選択があって、一つの傾向や偏りがあるはずなのです。さらに、ある側面が強調され過ぎていたり、全く触れられていない事実が隠れていたりするかもしれません。その歪さが大きいと、そこに描かれていることは何か大切なことから「的外れ」ということになるのでしょう。

さて、果たしてどうでしょうか? そうかどうかは、案外簡単な判断かもしれません。というのも私にはそう的外れではないという確信がもてました。みなさんは、いかがでしょうか?それはみなさんが判断できます。ご自身のお子さんのことですから、きっと合点や納得がいくことが見出されると思うのですが、いかがでしょうか?

どんなに遠くに離れても

2025/03/25

2人で屋上で寝転がっていると、薄い雲の隙間から飛行機が見えました。「また飛んでこないかなぁ」と私が言って、彼はそばで3輪車や滑り台で遊んでいます。きっと私が「あ、飛行機だ」と、いうのを、待ちながら遊んでいたでしょう。

子どもといると、子どもがくちずさんでいる歌が気になる時があります。何度も口ずさんでいるので、気になって調べてみたら「ピカチュウのドキドキかくれんぼ」でした。

🎵どんなにとおくにはなれても、どんなに隠れても、どんなに小さく静かでも君を見つけ出すよ。・・

こういうちょっと影を感じさせる歌が、子どもの心にしみていると言うのは、ちゃんと向かい合ってあげたいと感じたのでした。誰に対しても、そうということではありませんが。

しばらくその歌を、一緒に歌い、その歌にまつわる話をたくさん聞いてあげました。知らないキャラクターがたくさん出てくるのですが、それぞれに詳しいエピソードがあります。その世界のイメージを抱いて、保育園で自分の居場所を見つけていく姿と重なっています。そういう時間を過ごしているうちに、どうしてさっきまで、そういう姿だったのかということがわかりました。

このような過ごし方をして、初めて心が通じ合うということがあります。一緒にいるという事は、大切な空白の部分を、空白として感じ合うことなのでしょう。

 

 

 

藍の会からいただいた種をまきました

2025/03/24

神田藍の会から頂いた種を育てようと活動を始めました。

以下は3月24日(月)の主任の保育ドキュメンテーションからの紹介です。

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江戸を代表する藍染めの浴衣(ゆかた)と手拭(てぬぐい)の大半は、紺屋町一帯(保育園を銀座方面)の染物屋で染められました。「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」と言われていたほどで、紺屋町の名物が江戸の名物でもありました。 「地域の文化を身近に」と活動を進めている藍の会。最近は神田地域の事業所なども参加して藍を育てているそうです。

 

保育園でも、この「藍」を育ててみようと早速種まきをしました。(先日神田明神にて奉納したもの)

まずは、たねについて考えてみたり、想像したり、思い思いに感じたことを伝え合っていました。

色は・・・「黒、茶色、緑、肌色、おうどいろなど 固さ・・・「固い、つぶれない、痛い」 疑問に思った事「どうなんだろう」「どうやってはなになるんだろうか」・・・・

藍の会の方から頂いた育て方の手紙をみんなで読んでみました。

「第一関節」(人差し指)というワードに「むむむ?」と。

植え方を知って、早速やってみました。

さて、3週間くらいで芽が出てくるとのこと。 夏には、葉が取れてそれで藍染め、叩き染め。 食べる事もできるとのこと。 さらに、花まで育ててまた来年に楽しみに。。。 どうなっていくのでしょうか。

植えたプランターをどこに置こうか? 子どもたちが考えて「玄関」「お部屋」「ベランダ」の3か所に置きました。 これから、藍の育ちを見守っていきます。

 

 

「量子的子ども像」というのはどうか?

2025/03/19

子どもの心の動きを大人が想像するとき、子どもと大人と世界という「ドーナツ型」をモデルにしがちだが、そうではない読み取り方があっていいとずっと感じてきた。子ども同士の世界は、その間に大人が入り込んでしまうと、その世界は別のものになってしまうと感じるときがよくあるからです。それはまるで素粒子のふるまいを描くジレンマに似ているので、量子的子ども像と私は読んでみたい。そんなことを言っている人はまだ誰もいないかもしれませんが、理学部出身の私としては、とても似ていると思うのです。

大人の世界でも人間関係というのは、ほぼ社会性といっていいわけですが、それはまさに様々なことが生起していて、そのドラマは無限にあるので、それをすべて描き切ることは原理的に不可能です。できることは観測できる世界のなかの代表的な切り取り方をコレクションしていくことしかできそうもありません。

大人が子ども同士の関係の中に入り込んでともに生きる感覚から子どもを「あらわそう」とすることはたくさん論じられていますが、そういう次元を超えて、もう少し俯瞰的なところから、子ども集団のもっている潜在的な生命力の動向を描いてみたいと思います。

量子的というのは、原子の周りをまわる電子を例に考えると、ほんとうは電子は確率的に存在するとしかいいようがないのが事実であって、電子は軌道をぐるぐる回っているわけではありません。ボーアモデルが軌道があるように想定したら波動でも粒子でもある電子のふるまいに計算して合致しているということにすぎません。そこにある確率で存在するとしかいいようのない存在の仕方をしているのです。

その量子力学が誕生してちょうど100年ですが、現実にさまざまな分野で使われいてます。子どもの個々の内面の変化を、保育者がその一瞬とらえたとしても、その前後で解釈した意味付けでしかなくて、現実はすでに過ぎ去り、別の動的な状態にあるに決まっています。子どものエピソードをいくら「それらしく」描いてもその「事実」は、別の意味付けが可能かもしれません。なぜなら子どもの姿を語り合い、多面的にとらえようということが推奨されていて、実際にそうしてみると、確かに、新たな見方に気づき合うことが多いからです。

そうすると、子どもの姿とはどこまで言っても仮説的な記述であって、「こうだ」と誰も確定できない確率的な動向ともいえるでしょう。ここまではよく言われていることと変わりはありません。

ところが「子ども集団」となると、途端に分析が難しくなります。実際に子ども集団の中に分け入ってその動向をつぶさに観察してみると、子ども同士の相互作用は実に複雑で、あいまいで、デリケートで、フライジャルな様相を呈しています。

それでも、まるで、つかの間の閃光のように意味がみえてくるのであって、それを観察者は「面白いことに気づいた」と、切り取って描くのです。まるで電子がある軌道にだけ存在するかのように説明するのに似ています。そのありようを量子的子ども像といってみたいのです。

まだ生煮えの着想なので、たくさんの事例を通じて考えてみたいと思います。集団行動のダイナミックスを感じるモデルが抽出できるかもしれません。

卒園式の翌日は・・・

2025/03/17

「昨日はありがとうございました」「昨日の余韻がまだのこってま〜す」と笑顔で交わしあった朝。大人は気持ち的に昨日をひきづっているのですが、子どもたちは、またいつもの遊びに熱中しています。

子どもは振り返ることなく、あるのは未来のみ。広大な未来しかない子どもたちにノスタルジーなんてあるわけないか! そうだよね!!毎年のことなのに、大人はその瞬時の舞台転換についていけず、気持ちの時差になれないものですね。

午前中はさすがにまったりと室内遊びにして、年長さんは昼食をささっと済ませて、電車で市谷の釣り堀へ遊びにいきました。

そのあとは、子どもたちと一緒に近所の「海老原商店」の海老原さんと、ボタン屋さんに、卒園記念のどら焼きをもって挨拶へ。もうすぐ学校は春休みになりますが、保育園はありません。あと2週間をいかに充実させるか。3月31日(月)まで、目一杯やりたいことをやり抜きましょう。

ところで、年長さんが出かけた後の、ごろごろタイム(食後の休息の時間)を私が担当しました。部屋遊びを観察していると、子どもは基地作りのようなことが好きなのですが、そのこぢんまりとした空間を随所につくっては、子どもの団欒を楽しんでいました。

対話とか会議とか話し合いとか、大人の用語はいろいろとあるのですが、子どもたちのそれに耳を澄ますと、何を交わし合っているのか大人には不思議なやりとりに見えることが多く、まるで意味と感情が溶け合ったような、未分化とでもいうような、一緒感覚が成立しています。

それはそうでしょうね。乳児の頃から「ことばの前のことば」で気持ちを通じ合わせてきたわけですから、まだ文節化されていない世界との戯れこそ、子どもの得意とする生息地なのでしょう。

そんなふうに思うと、いろいろな場所にできるこじんまりとした空間は、子どもたちが一緒にいながら、何かがゆっくりと生まれてくるための孵卵器のようにも見えてきます。

すいすいと泳ぐ魚たちが年長さんたちなら、年少や年中のこの子達は、クラムボンのように、おしゃべりの泡ぶくを出しながら、くっついたり、離れたり、出たり入ったりしながら、蟹のようでもあります。

何をやっているわけでもなく、景色を見たり絵本を手にしたり、転げ回ったり。子どもたちが、それだけできっと集団としての大切なことをやっているのかもしれません。

生態系としての子ども集団は、まるで多様な水生動物が共存している川の中ようでした。

胸がいっぱいになる卒園式でした

2025/03/16

卒園式が、終わりました。証書授与のときに、担任が一人ずつにメッセージを読み上げました。内容は事前に読んでいたとはいえ、担任が必死で言葉を詰まらせないようにしていることが伝わってきて、私の方も冷静さを保ちながら、保育証書を読み上げることになりました。姉妹園とは異なり、子どもたちの気持ちや親御さんたちの表情がみえるので、どうしても涙腺が緩みます。

毎年のことですが、私の拙い挨拶で伝え切れなかったことを、藤森理事長に分かりやすく話を補ってもらいました。千代田小学校の須藤俊之校長先生からも、温かいお祝いのことばをいただきました。子どもたちに人気のダンサーの芝田いづみさん、シェフの江口颯良さんもきてくださいました。青木尚哉さんからのビデオメッセージには、子どもたちから笑い声が漏れて、すこし緊張がほぐれたようです。

子どもたちからの呼びかけと歌(「夢をかなえてドラえもん」と「イノチノマーチ」)は、一生懸命、綺麗に歌おうとしていました。子どもたちの卒園制作は、子どもたちで色を塗ったギター。保護者からは、カホンを頂戴しました。それらを使って職員からの贈る歌はザ・クロマニョンズの「不器用」を歌いました。担任がミュージシャンなので、式は音楽性が豊かでした。

保護者の方からのお祝いの言葉は、とてもありがたく感動しました。ありがとうございました。卒園式は、子どもが主役なのですが、卒園を讃えるために大人が気持ちを込めます。その気持ちが本物なので感動します。はやりこういう機会がないと、こんなことは起きません。ありがたいものです。

記念の写真撮影などのあと、保護者のみなさんが卒園を祝う会を開いてくださいました。たくさん準備してくださり、心のこもったプレゼントと上映にもお礼申し上げます。本当に、ありがとうございました。

 

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