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園長の日記

梅ジュース作り

2023/06/27

保育園でよく行われるのが梅ジュース作り。梅のヘタを取り、氷砂糖と混ぜるだけで半月から1ヵ月位で、簡単にジュースができるので、季節感を感じることができる楽しみな活動です。

6月27日、年長が、栄養士と行いました。梅を触り、匂いをかぎ、氷砂糖が手で割れるかどうか、その硬さを確かめたりしながら、2つを瓶に入れて行きます。お泊まり会の頃に飲むことができると思います。それまで何回も瓶を揺らして混ぜたりしながらその変化を楽しむつもりです。

メダカの赤ちゃん誕生

2023/06/26

「メダカの赤ちゃんが産まれたよ」。

こういう情報は子どもが早い。けさ子どもと一緒に観察しました。いただいたメダカの卵が土日の間に孵化していたようです。

元々飼っているメダカの水槽に、土曜日に主任が目の細かなネットで仕切りを作り、食べられないようにしてくれました。

水面を泳ぐ姿、すばしっこい動きは同じですね。

 

 

「これぐらいなら、まあいいか」が要注意

2023/06/24

6月23日は第4回目の睡眠講座でした。参加者は2組。おひと方はご兄弟がいる場合の「ねんねのこつ」の話にもなり、それは結構な知恵が必要なことがわかってきます。一人だけならできることも、二人目になると難しい場面が出てきます。お互いに影響しあうこともあります。

運動と健康はたいていセットなので、そこにタイミングや時刻という、いつ何をやるかという生活リズムが付いて回ります。地球は自転している、どうしても24時間というサイクルと切り離せないんですよね。朝昼晩、それぞれに体内で働いているものが環境と相互作用しているので。朝日をあびて食べて体を動かしてから始まる一日の生活。夕方から眠るまでの光と安心や満足の心理状態との関係。夕食やお風呂、体温の変化。ぜんぶがつながっている。

でも、いろいろあっても、最終的にみつかる習慣はできてしまえばシンプル極まりないことなのですが、それがちょっとずつ、ずれていくのでしたね。睡眠サイクルは地球の自転より3分ぐらい遅れています。「遅れる」ということは、放っておくと朝寝坊しやすいし、夜更かししやすいということ。この毎日のズレは、積み重なると大きい。そこで毎朝、リセットしているんでしたね。

毎回、睡眠睡眠講座をやっていて思うのは「これぐらいはみんなやっているから大丈夫だよね」が、じつば身体(脳ももちろんふくまれますが)に合ってない、ということ。それがどれくらい影響するのかというと、生活習慣病と同じくらいと考えていいんじゃないだろうか。もう少し「はっ!」としてほしいのですが、怪我や虐待とちがって、ヒヤッとしたりハッとしたりしないから、生活リズムからくるダメージの大きさを表す何かが必要かもしれませんね。たとえば睡眠サイクルの乱れを表すハインリッヒの法則のようなもの。

話は脱線しますが、学生たちの居眠り、社会人の電車の中の居眠り、海外の人たちからはどう見えているのだろう? 何かの病気か何かに見えているかも?そんな話もどこかで聞きました。先日ある小学校の授業を参観しましたが、午後1時からでしたが、眠そうな子いますね。4年生でしたけど。でもタブレットやノートなどを使い、前に出てきて説明したりしているので、まだいいのでしょうね。今の大学生にノートをとらせない授業をやってしまうと、午後の時間は難しいかもしれませんね。

ドキドキ・冷や汗・絵本で涼をとる

2023/06/23

私が「せいが文庫」の本棚でバーコード入力していると「何しているの?」とよく聞かれます。「スマホでね、保育園にある絵本のリストを作ってるんだよ」というと、「ふ〜ん」とよく分かんないけど、生返事をくれます。やってみる?というと即「うん!」。まったく便利な時代なりました。絵本についているバーコードにスマホを掲げるだけで、蔵書ができるアプリがあるのです。保護者の方にアプリのダウンロードから使い方まで手取り足取り教えてもらいました。現在250冊ほどを、この2週間ほどの間に、セッセと登録。時々、何してるの?という子どもには手伝ってもらいました。

そんな時「これ面白いよ」と「これ好き」とか、教えてくれます。たいてい、そこで「読んで」と頼まれることになるのですが、そうか、この子はこれが好きなんだ、とわかって楽しいのです。というわけで、今日の絵本タイムは「子どもたち推し」の4冊。

まずは『えんそくごいっしょに』。泥棒たちが、それとは知らない刑事たちから、一緒に遊ぼうと誘われて、泥棒たちが冷や汗をかきながら付き合わされるというお話なのですが、あの遊びがまた、刑事が得意な「かくれんぼ」や「鬼ごっこ」という設定が面白いのです。すぐに見つかるし、捕まるのです。ドキドキ感が楽しみ、蒸し暑い夏に冷や汗をかきたい時にオススメ?。

こちらは子どもが「それ、怖いよ」と教えてくれた一冊。

屋上の野菜が毎日のように採れています。新鮮なうちに野菜は食べようね。でないと、野菜たちがこんなになったらかわいそう。カボチャの頭の裏側が黒くなっている場面が出てくるのですが、そういうのを見たことあるかなあ?と思って聞いてみたら、何人かから「腐ってるんだよ、それ」「黒いのはカビ」と知ってましたね。お話のラストは、実際にそうしてみるといいんですよね。食べられなくなっても、土に戻るとまた芽が出てくるということを体験してみる。

(最近はそれができないように品種改良された種が増えているので、その比較をやってみるのも面白い)

3冊目の「どろだんご」は、ビー玉のようにピカピカで固いどろだんごをどうやって作るか、子どもたちの「どろんご魂」に火をつけるために役立つ一冊。この本を薦めてくれた男子も、改めて「そうだったのか」という顔つき。こちらも泥水遊びで冷んやり感も。

最後はご存じ「かぐやひめ」。なんとなく知ってる!という子が多いのですが、5人の求婚を退けていくあたりの冒険譚は子どもは飽きるのですが、月に戻っていくときのお別れの場面は見入っていました。七夕がもうすぐですが、月にまつわるお話ではこちらも欠かせない一つでしょうね。

絵本は読んであげると「知ってる〜」と言っていた子たちが、また改めて手にしてめくっていたりする姿も。面白いですね。

綱引きで「人数を揃えてみよう」

2023/06/23

(ジェスチャーを交えて)こっちとこっちの人数を同じにしようーーー。梅雨の時期は室内での運動を工夫します。3階の運動ゾーンで、久しぶりに綱引きで遊びました。危なくないように綱を輪にして、左右に分かれて引っ張り合うのですが、綱引きやりたい!というから「よし」と、準備が終わると子どもたちはすぐに引っ張り始めます。子どもは大体、そういうものです。

真ん中を私が持ってその要素を見ていると、四方向ぐらいに出鱈目に引き合っています。それだけで楽しそうです。とにかく「綱引きのようなこと」をやりたいのです。ただ力一杯弾きたい! そこで適当に分かれて、よーい、どんで始まると、なかなか勝負がつきません。そこで私が口で「ピッピー、そこまで」と止めて「今の勝負、引き分け」。

でも、もっと面白くするには力が釣り合う方がいいということに気づかせたい。そこで、いったん、綱から手を離させて、左右に別れさせました。その時、算数の始まりが起きました。左右のグループの人数を同じにしようか、と提案したのです。すると、引っ張る面白さから勝負への意識が強まったのか、負けた方のチームの男の子が泣き出します。「あっちが多かった」と、負けた理由は数が違ったからだと、文句をいう子どもが出てきました。

そこで、ちゃんと数を揃えることが始まりました。「こっちは何人いる?」というと、いち、にい、さん・・と数え始めます。「ろく」。じゃあ、こっちは?いち、にい、さん・・・・「なな」。「6人と7人か、こっちが一人足りないね。どうする?」。すると年長のMちゃんが「Yくん入って!」というと、ネットにのぼって「見ていたい」というYくんは「いや」。7人の方の一人が、こっち行く、と反対へ移動したのです。それで同じになると思ったのでしょう。また数え直してみると、7人と6人で「今度はこっちが一人足りないね」となります。

そんなことを繰り返してアイデアに行き詰まると、年長のMさんが1分の砂時計係になっているKくんに「時計をひっくり返したら、すぐこっちだよ」となって、やっと成立。綱引き再開です。白熱した勝負が3回行われました。

養成校の学生が見学に来て

2023/06/22

今日は二つの養成校(専門学校)から学生が見学と保育体験に来ました。学生といっても昨年まで高校生だった1年生もいれば、子どもが4人いるという40代の方も。それぞれ「保育士」を目指して就職先を探しています。最近の傾向として大規模な保育園は避けたい、小規模の方がいいという傾向が見られます。どこがいい保育園かわからない、就職してみないとわからない、だから派遣が選択肢になる人もいます。養成校には卒業生から就職先の情報が入るので、その情報が最も確実なのかもしれません。

ある大手株式会社は保育士を何千人(あるところは4000人だそうです)も抱えているので、一年中、大量の採用と退職が繰り返されているそうです。毎年ある程度の採用者を確保していく必要があるので、内定を出すタイミングが早い。この6月にも来年度の採用者が決まっていく場合もあります。当園のような小さな法人も、今ごろから来年度の採用数を決定していかないと間に合わない時代になっています。保育団体が主催する就職フェアもこの時期。昔は青田買いという言葉がありましたが、あまり聞かなくなりました。4月採用にこだわらないし、どの時期が早い遅いがわからなくなってきた、ということもあるからでしょう。

毎日ように派遣や紹介の会社から電話が入ります。養成校も生き残りをかけて学生の確保と養成と就職に必死です。人口減社会に入ってきた日本。働き手が色々なところで足りなくなると聞きます。保育園もそうなるかもしれません。その前兆はすでに見えています。このテーマが別々に見える事柄がつながって見えてくるのも時間の問題のように感じます。別々の島だったものが、水がひくと山脈だったことに気づくように。

小学校が授業公開し保幼小の先生が語り合う

2023/06/21

やっと実現しました。千代田区教育委員会主催の保・幼・小合同研修会。それぞれの先生が午後1時から45分の公開授業・保育(公立小学校6学年全部と付属幼稚園3学年)を参観したあと、体育館に集まって、その実践報告をきき、グループ協議に参加し、講演(青山学院大学の福元真由美先生)で学びました。私は初めて参加したのですが、毎年行っていた公立のみの幼小合同研修会から、今年度から保育園(公立だけではなく私立も)も加わったことと、グループ協議の時間を持ったことが新しいそうだ。

研修会のテーマは「幼児期の学びとその学びを生かした小学校の学び」。公開された授業と保育のすべての指導案に「10の姿」との関連が記載されている。私が参観したのは年長の「好きな遊び」(制作・鬼ごっこ)、1年生と2年生が合同の「生活科」(なかよし会~学校たんけん~」。遊びや活動のなかに見られる子どもの姿を10の姿でとらえ、そのつながり具合を協議会で語り合った。私も近隣小学校区のグループに参加し、卒園児がいたのでその子どもたちの姿の成長、変化を伝えました。

生活科のなかよし会は、1,2年生で4~5人のグループをつくり、1年生が学校たんけんで発見したことを言葉で伝え、2年生は用意した学校クイズを出して楽しむもの。会を進めるための「これから始めます。いいですか」など、あらかじめ決まったセリフもあれば、タブレットでの見せ合いが始まると2年生が1年生に「こっち向けて」と普段の口調で話している。いわばオフィシャルな会話(二次的会話)と日常会話がこうやって使い分けられていく。状況に応じて言葉を選んでいる。そのような芽生えは保育園のお集まりやお帰りの会などで、同じような区別は始めっている。協議会ではその様子を説明した。

4年生の算数の時間も参観した。いい授業だった。単元は「少数のしくみ」。「水がポットに1.75ℓ、やかんに2.64ℓ入っています。水はあわせて何ℓありますか。この課題を解決するために自力解決と相互交流をやっていたのですが、ノートに書いたものをタブレットで映し、電子黒板に映し出し、それを自分のブレットでもみながら、発表内容を交流しやすいようになっていた。このようにお互いの考えを共有しやすくなっているのか、と感心した。

このような先生同士の話し合いはありがたい。定期的に積み重ねていきたいものだ。架け橋プランを作るための会合ではないが、これでその前段階に入ったといえるだろう。

グーカラ・グー カラ・チョーカラ!表象が繋がっていく契機をデザインするには?

2023/06/20

「グーカラグーカラ」というジャンケンが流行っています。グーで勝ったら「グーカラグーカラ」と言って、次に「チョーカラ」と言ってチョキを出したりする遊びです。バーを出すならパーカラです。あいこになったら先に「水」というと勝ちです。私も懐かしくてやってみたら、先に水と言われて負け続けました。子ども(年長)の方が、まぁ早い早い。

そのことの意味を考えていました。言葉の獲得にまつわる話として。言葉は文脈に即して獲得しやすいという話と、この遊びにようにグリコやしりとりのように、あるいはナンセンスな言葉遊びのように、それは言葉自体の、意味の文脈からちょっと離れた音そのものが主導する意味の世界で、独立的、あるいは自立的な発展みたいなこともあるということを考えていました。

ところが、さっきスマホにメールのアカウントを追加するために、備忘録を見ながらパスワード(記号でもあり言葉でもある)を打ち込んでいる時、突然、そうか!と閃き、この文章を打っています。その操作をしている時、過去にもこれと似たようなことをしていた、その情景が思い出されたのです。それとは違うでしょうが、その記憶の再現というようなことを子どもが毎日やっているのですが、どんな時にそれが再現されるのかという話です。

ちょっとめんどくさい話なのですが、体験したことがこうして、感覚的な、たとえば映像的な記憶、言い換えると状況的な記憶が丸ごと残っているということ自体が面白いと思います。人間の脳(と身体)というのはよくもいろんなことを蓄積しているものだと不思議な気がします。

その時、そうか!と思ったのは、その記憶が思い出されるのは、つまり自分のなから引き出されてくるのは、当たり前なのかもしれませんが、その状況と似た状況の中に置かれた時だ、ということです。状況の相似や類似が、そにれにまつわるあれこれの情報を引き出してくる感覚をリアルに覚えたからです。勝手に向こうからやってくるのです。

子どもは、それと似たことをしょっちゅうやっているのではないか。模倣やごっこ遊びや子ども同士の会話の中で、体験の再現と再構築を繰り返しながら、体験したことを自分なりの文脈の中に位置づけなおし、つまり意味づけながら、広がりと深さを獲得しているのではないか。

まるで子どもの方が「だったらこうもアリだよね」と言葉で言うわけではないのですが、現状以上の何かに進んでいく。自発的に動かしていくようなこと。遊びがはみ出ることや多頭性という特徴を持つのは、子どもが自分の文脈を再現して遊ぶことで、新たに足りないものや空白部分のようなものに無意識に気づき、そこにダアーっと目掛けていくような動きやエネルギーを感じます。そういうことをしているのかもしれない。

そういう風にでも考えないと、あれだけ自発的に活動していくエネルギッシュな姿には、大人が教えて身につくものを遥に超えていくような、あるいは自分達でやりたいんだ、という、場合によっては反抗的とも思えるほど、あるいはルールを破ってでも面白いからやりたいんだという欲求の強さを感じます。いったい、この生命力は、どんな仕掛けから生まれてくるんだろう。思わず遊びたくなる、というその「思わず」の仕掛けのところ。

生まれてすぐの、少ないはずの経験からこんなに爆発的とも言えるほど、どうやって色々なことを取り入れていってしまうのか?赤ちゃんが1歳半ぐらいまでに徐々に大きくなっていくのは、まだ「徐々に」という感じなのですが、それから数年の間に、6歳ぐらいまでの数年間に「もう大人と同じだよね」というぐらいに立派になる感じがします。大抵のことはできますし、話も通じます。たとえば言葉なら5000語ぐらいは獲得しているというのですから、すごいスピードです。幼児期後半ぐらいになると一日10〜15語ぐらいは覚えていくという計算になるそうなので、とても大人は真似できませんよね。

そんなことを考えていたものですから、子どもたちが毎日飽くなく遊び続けながらやっていることについて、私が「そうか、このタイミングの連続がプロセスなのかも!」と思ったのです。体験で得た表象がつながり合って、つまり表象=リレゼンテーションの原義、改めて目の前にあらわにするという再現性が働くタイミングのことです。どんな時に再現されるのか。それは状況が似ている時。そして物や空間などの環境が働きかけてくるとき(アフォーダンス的な)。

それは現実の生活空間でも絵本の世界でも同じ。そこに類似や相似があれば、人間は易々とそこに飛躍できるということ。そう考えると、子ども自身の文脈の多様性を考えた環境は、想像の世界も入ってくることになるのでしょう。仮想の世界と言ってもいいのでしょうけど、子どもたちは、自分の中に、どんな表象の広がりと深さを身体と環境のかかわりとしての「知」として作っていっているでしょう。身体知と環境知というそうです。

それぞれの人がどうやっているのか見えませんが、大人もやっているなあ、と思います。それは「チョーカラ」であいこになって、子どものいう「水」の速さに感心したり、忘れたパスワードを思い出せない時などに私の身体知の衰えは棚に上げて、環境のせいにしながらですけど。それに比べて子どもは、なんとしなやかなんでしょう。たくましいと思います。

野菜の栽培と収穫

2023/06/19

食べ物を手に入れて食べる、ことは人間のもっとも基本となる営みだろう。園生活で簡単にできるのは野菜。自分たちが食べているも野菜は、こんなふうに育てて食べられるようになるんだろいう当たり前の事実を体験することから。穀物は稲をバケツに田植えして育てています。その収穫は秋。でもタンパク質は簡単ではない。屋上で鶏でも飼えたらいいが、なかなかそうもいかない。潮干狩りや魚釣りもやってみたい。というわけで、今日も野菜の収穫に歓声があがっていました。いかは幼児の今日のブロブから。

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屋上の扉をあけると、一目散に野菜の元へ走っていく子どもたち。今日はどんな野菜ができているのかな〜

「あった〜!!」と今日も嬉しそうな声が!

今日は初のナスが出来ていました〜🍆 おおきいっ!

きゅうりや大葉もたくさ〜ん収穫!

 

大葉は毎度、1階や2階、事務所の職員へお裾分けに〜!

みんなが毎日欠かさず水やりをしてくれるおかげで、すくすく育ち 毎日のように野菜が収穫されています!

今日は調理さんがきゅうりの塩漬けにしてくれました🥒

自分たちでつくったきゅうりは何倍も美味しい🎶

みんなたくさんおかわりをしていました〜!

 

明日も楽しみです🎶

この1週間から・・保育の全体像と意味をとらえるとは?

2023/06/17

この「園長の日記」は、あくまでも私からみえたもの、私が考えたことを書き連ねているわけですが、園全体の描写ではありません。園で定めた「正式な記録」は、ほかに園日誌やクラス日誌、保健日誌、給食日誌などがあり、個別やクラスの連絡記録も毎日、保護者のみなさんとやりとりしています。それらは事実でありながら「部分」でしかなく、それらを寄せ集めて、はじめて「全体」に近くなります。それでも決して<保育の全体>というものを描き切ることにはなっておらず、多分それは原理的に不可能でしょう。

しかし、だからと言って、それを放棄するつもりはなく、何を目指しているのかというと、それを積み重ねてることで、なにかしらの実相に近いものがみえてくるのではないか、それを分かち合うことで、新しい次の一歩の踏み出し方がもっとよくなるのではないか、と思うのです。

今週を振り返ってみましょう。初めて行ったことだけでも、日曜日には乳児室を開放して午前中親子で過ごしてもらいました(当日の園長の日記をご覧ください)。月曜日は某大学で夕方、うちの職員と3人で絵本やわらべうたの実践を紹介して授業をしました。火曜日は千代田保健所から調理室の抜き打ち検査があり、衛生管理はいつ誰が来ようと自信あったのですが、その通り「除去食もきめ細かく対応しておられますね」と褒められました。本当は調理の先生たちと一緒に、ほっと胸をなせ下ろしました。食中毒の季節だから用心するに越したことはありません。

その日は保護者の方から夕方、大きな尺取虫をいただき、翌日に子どもにどう見せるか検討しました。すると水曜日の朝のお集まりに、なぜか主任が全身緑色のタイツを着て青虫になっていました。尺取虫が現れて触発されたようです。私は慣れているので平気だったのですが、私が案内していた入園見学者がちょっとびっくりしていたそうで、それに気づいた別の担任が「うちの保育園はあれで動じないくらいの方に入園してもらったほうがいいですね」といい、園長の心配をよそに、意識は私の遥か上空にあることを確認しました。

この時期は「蚊」対策も始まります。東京都が午後に研修会を開きました。日本は亜熱帯になってきて、蚊を媒介する伝染病の患者が見受けられるようになってきたから注意してください、という内容でした。ここにも温暖化の影響です。屋上の野菜も育ち、毎日のように「大葉」を摘んでは調理さんや私のところへ持ってきます。

木曜日は3〜5歳が梅雨の合間を縫って地下鉄で十思公園へ出かけました。今年度初めての試みです。楽しかったあ、と帰ってきた子どもたちは「また行きたい」と言っています。朝は毎月の避難訓練もあり、地震から火災が発生、園内放送をよく聞いて指定の場所へ避難します。合言葉の「おかしも」もすっかり定着しています。午前中に協力している活動のイベントのフライヤーを近くの公設機関へ届け、午後は姉妹園で会議に出席。夕方戻ってきて、保護者の方々と一緒に7月の納涼会の内容について打ち合わせでした。

そして16日金曜日は歯科検診。年2回ありますが、虫歯や咬合具合などを診てもらうのは大事な診察です。秋には歯科医に講演をしてもらうつもりです。検診結果は必要な方へお知らせしました。また午前中は昨日につづき、幼児は選択で十思公園へ出かけています。乳児は小川町や和泉公園へ出かけ、花を摘んだり虫を探したり、かけっこを楽しんだり。

夕方には私の絵本の読み聞かせをしましたが、いろいろな子どもの様子がわかり、また成長を感じて楽しいひと時でした。こんな具合に起きたことを並べるだけでも色々ですが、いずれにしても何をみうしたくないかというと次のことです。

私たちは、子どもに望んでいることがあって、それは乳幼児にふさわしい経験を通して、生涯にわたる人格形成の基礎が培われるように、また小学校以降の生活や学びにいかされていくように、なってほしいと思っています。しかも子ども本人が望んでいること、満たしたがっていることがあるなら、それを環境をとおして実現できるようにしてあげたい。しかも、同時にその環境が教材のような効果を発揮して、子どもが自分の育ちとして取り入れていくような、そんな幼児教育になるようにしたいのです。

私の園長日誌の役割の一つは、そのいきさつを具体的な場面でお伝えすること。さきほどのいろいろな記録を読みながら、とくにクラスブログで取り上げているエピソードに(担任が取り上げるだけの意味があるからこそ取り上げているわけですが)意味を見出していこうと思っています。

また、あまり注目されないようなことの中にも、それはあるかもしれず、意味をなす背景を探したり、一見関係なさそうなことも、保育の意味での生態学的な役割を果たしていることも十分に考えられるので、そういうことまで視野に入れたいなあ、と思っています。あまり広がると拡散してぼやけてしまうかもしれませんが。そういうわけで原理的な見方を学び、その観点から保育を見ていくことが有効だろうと考えています。

でもそこが難しい。その意味を理解するために、できるだけ保育の原理的なことに立ち返り、どうしてそこにそんな意味付けができるのかをできるだけ確かめたいつもりです。それを勉強することは時間が要ります。でもそれが私には楽しい。新しい意味に気づくと同時に、子どもが関わる環境が新しい構成へと刷新されてゆき、保育が深まっていくように思えるからです。

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