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園長の日記

砂場や池の魅力

2023/10/05

保育ドキュメンテーションでお伝えしているように、今週から外遊びができる気候になり、散歩先でちょっとしたドラマが展開中ですね。乳児は芝生の上でピクニックのような解放感を味わっているようです。

1歳児や2歳児は公園にある砂場での見立て遊びも盛り上がっていますね。

幼児は3階ベランダの木枠に子どもたちが砂を入れて砂場が出来ました。

一方、幼児たちは団地の公園に見つけた池にザリガニがあることを知り、釣るための道具を作って持っていったものの・・・。「釣りは禁止」の現実に直面した子どもたち。さあ、どうする!?

芋掘りと斜面での運動遊び

2023/10/03

カラリとした秋風の中で、芋掘りができてよかった。私が前の園でよく行っていた川崎市の「黒川東農園」まで年長さんとバスで小一時間かけて出かけたのです。広々とした畑には、さつまいもの他に、落花生や柿、栗などのほか、人参やさといもなどの根菜類も育っていて、畑というものを実感してもらうためにも、ここにしています。

(芋掘りの様子は、クラスブログや、ドキュメンテーションをご覧ください)

一人3株ずつ掘りました。畑を管理している方は「ここんところ、ずっと雨が降ってないから、土が硬くて、きっと掘りづらいだろう」とおっしゃっていた通り、3分の1ぐらいまでは軍手をした子どもの自力で掘れるのですが、それ以上深いところは難しい。私たち大人が手伝ってあげながら、掘り出しました。それでも素手では硬いので、農家の方がシャベルで周りの土をゴクっと掘り上げてくださいました。

芋掘りをしていていつも思うのですが、農家の方は大抵、掘りやすいようにと蔓を切って準備してくれます。それなので、子どもたちは、芋は土の中に宝のように埋まっているもので、そういうものだと思い込んでいます。そこで蔓のついたままの畑を観察してから、株をふた株持って帰ってきて、玄関に展示しました。

畑のそば蔓で綱引き遊びをする時もあるのですが、今回は近くの坂のある公園で遊びました。

お弁当を食べた後、その斜面のある山の一角で体を動かして遊びました。落ち葉を投げ合ったり、桜や竹の枯れ木を集めたり、斜面をよじのぼってみたり、おそるおそり、下り坂を歩いてみたり。ただ斜面を走り回るだけでも、体の使い方を覚えていきます。勢い余って転びそうなって踏ん張ったり、小刻みに走った方がバランスが取れることなど、だんだん斜面遊びが面白くなっていくのが見ていてわかります。

事前にソリ遊びができることを知らせてあるので、子どもたちが事前に作って持っていきました。この遊びは、みんな初めて。大学生のアルバイト二人もやったことがないようです。私が見本のつもりでやってみせると、「やる、やる」と始まりました。地面の傾きや滑らかさなどで、滑りやすい場所とそうでない場所を見つけています。慣れてくると、うつ伏せになったり、横向きになったり。色々試してあそでいました。

運動遊びの後半は鬼ごっこやかくれんぼ。鬼決めで足を並べ始めると、「入れて〜」と集まってきます。鬼きめの唱え文句が長いのは、それをみて周りの子どもたちが「僕もやる!」と気づく意味もあるんでしょうね。12時半ぐらいから1時半まで、1時間もこんな場所で遊んでいると、時間が経つのも忘れますね。

子どもが無心に遊んでいる世界

2023/10/01

園だより10月号 「巻頭言」より

20231001 巻頭言10月号(印刷用)

前号(9月号)のこの欄に、遊びを終えて集まりへ気持ちを切り替える年長の姿に成長の姿を感じたと書きましたね。でも本当はその姿よりも、もっと大事なことがあります。子どもがいかに遊びが好きで、その感覚を大人が忘れないようにしたいということです。私が好きなエッセイに次のものがあります。ちょっと長いですが紹介します。

「子どもたちの鬼ごっこにまきこまれてひとときを過ごすとき、笑い合い、かけまわって、面白くてたまらない世界がそこに開けている。おとなになってから、稀にそのような機会に恵まれたとき、自分自身の少年時代に、友だちと日が暮れるまで遊んだ記憶がよみがえる。他のことは消え去って、胸のはずむ思いのその時が大きく浮かび上がる。そのような時を体験したことが、自分に子ども時代が確かにあったことの証しではないかとすら思う。

木々の茂みの中でかくれんぼの鬼になって数をかぞえている間、静まり返った木立は私を孤独にする。だが子どもたちも同じような一抹の不安をもって、同じ時を過ごしているのではないかと思う。やがて小さなさざめきがとところどころに聞こえてくる。かくれんぼのこの自然の余韻の中にいつまでもとどまっていたと子どもたちは願う。だが幼稚園には帰りの時があり、子どももおとなも現実の時間にひきもどされる。子どもは木の枝を手にして、家に持って帰るという。いま過ごした大きく広い世界の記憶を、手元にとどめる記念である。先生はそれを家に持って帰らせる。

現実の社会生活の場で子どもは生きているのだが、子どもが無心になって遊ぶとき、そのただなかに子どもの世界が開かれる。それは人間の精神の芽生える土壌といってもいいのではないかと私は考える。土壌がつくられなければ、葉も花も開かない。人間の発達は、現実をうまく処理する知能や問題だけのことではない。人が、自分自身として生き、また他人とともに生きる精神の豊かさがなかったなら、人間として貧しい人生になるだろう。子どもが無心に遊ぶとき、広く大きな宇宙に心が開かれている。おとなはこの子どもの世界にふれることによって、うるおいを与えられ、貧しく狭くなりかけている自らの心をひろげられる」(津守真『子どもの世界をどうみるか 行為とその意味』NHKブックス 1987年「子どもの遊びは精神の芽生える土壌」より)。

私は子どもと一緒に遊ぶとき、子どもの生きている「奥行きのある世界」に実際に入り込み、果てしなくいつまでも続く世界の中でお互いに心を通わせあっているという実感を覚えることがあります。他から切り離された遊びの時空が確かにあるのです。それをみなさん、思い出しましょう。まずは子どもは、そこの住人であることを。そして今月の保育参加や親子運動遊びの会で、その感じにぜひ触れてみましょう。

身体感覚の新しさを楽しむ(発見する)

2023/09/29

子どもは新しいことが好きです。心地いい感覚を見つけると、それをまたやろうとします。それはいろんな分野というか、世界にあるわけですが、今日は子どもたちが「自分の体を動かす」という中に、新しく「ここちよい」と感じるものを、たくさん見つけたようです。今日はダンサーの青木尚哉さんと芝田和(いづみ)さんがいらして、午前中、全てのクラスで運動遊びを楽しみました。

自分の指先や足先を意識して動かすこと。それを遊びにすること。たとえば「グーパー体操」と呼んでいる遊びは、立っても座っても、足を閉じていればグー、ひらけばパーです、それを太鼓やギターのリズミカルな伴奏で、グー、パー、グー、パーと、ゆっくりからだんだん早くやっていき、最後はぶるぶるぶる〜と震わせます。

それをやっている間、意識はその動きに集中しています。繰り返していくと、体がそれを覚え、慣れ、面白さが薄れていくのですが、「もっとグー」とか「もっとパー」などという言葉から、子どもたちは、その「もっと」を面白がって、やります。

そのグーとパーを「顔」でもやります。グーの顔とパーの顔。大人だったら、やってと言われてもやらないでしょうが、子どもたちは「そんなものはない」などと思わず、楽しくやります。そして「もっとグー」とか「もっとパー」の顔をします。

その動きから生じる「新しい感覚」の発見を楽しむこと。そこには未知の世界に繋がっているよ「ほら、そこ!」というように、ある種の勢いに任せて、その世界へ快感と共に飛び込んでいく感覚。やると楽しいので、面白いのでその世界を開いていく感じです。

ほかにも「マネキンとデザイナー」と名付けた遊びは、デザイナー役がマネキン役の手や足や胴や頭を、ていねいにゆっくりと動かしていきます。4秒ぐらいで「いち、にい、さん・・・じゅう」と10カウント数えながら、10回、いろいろなところを動かします。2歳児クラスの子たちは、それを動かして形が変わること自体が新鮮で、色々やりたがります。でも4秒に一回などのタイミングは、まだ守れません。どんどん動かしていく子が出てきます。

でも自分がマネキンになったつもりで、自分で自分の体を留まらせながら、手や胴体を動かしては、おかしくなって笑ったりしています。そのうち、大人の股や腕と地面の間に「トンネル」を見つけて、くぐったり、滑り込んだり、体を狭い空間に擦り付けてルツン!と飛び出るような(まるで魚が握られた両手から滑り出る時のように)動きを楽しむ子もいます。

新しい身体感覚の発見を楽しんでいるように見えます。その面白さや楽しさに誘われて、新しい体の動かし方を探求しているかのようです。子どもがそういう自分自身の体のかかわり方を無意識のうちに開いていく。幼児後半になると、自分の体への関わり方へに気づき。あるいは、体を動かすことが「体と環境とのかかわり方を広げていくこと」という言い方ができることに納得できます。

そういえば余談ですが、数年前、5領域に代わって、3つのかかわりの視点で0歳児の姿を捉えよう、という風に変わった時、身近な人や、身近なものとは「かかわる」という表現に違和感を持つことはなかったのですが、「健やかに伸び伸びと育つ」というところが、自分自身への関わりという意味を持つことがよくわからないでいたことを思い出しました。

どんぐりの譲り合い「わあ、浮いた!色が変わった!」

2023/09/27

以下は4歳児担任の振り返りです。

<今日は、和泉公園で子どもたち自らやりたいことがたくさん出来た日だった。昨日からお散歩バックをつくり、「これでいっぱいドングリ拾うんだー」と意気込んでる、Yちゃん、Rちゃんの姿があった。着くと「あそこにたくさんのドングリが落ちてるんだよねー」と二人で会話し、楽しくドングリ拾いをしていると、他園の子どもたちが集団できたが、その周辺には、ほとんどドングリが残ってなかった。二人が、「私たちがたくさん拾いすぎて、あの子一個しかもっていなかった、、、かわいそう」と具体的なその子の状況、それを客観視してかわいそうと思ったことに、思いやりの心がしっかりと育っているなと感じた瞬間だった。その後は、保育者に「先生、私たちたくさん拾いすぎたから、あの子たちにあげてきていい?」と確認して、様子を伺いながら、二人で言いにいこうと作戦会議を開き、自分たちのタイミングのいい所で関わりを持ち、ドングリをお裾分けしているところにとても成長を感じた。EQの観点からしても、感情の理解、感情の調整がしっかりと見とれたエピソードではないかと思う。>

 

子どもたちにとっての、どんぐり。やっぱり宝物のように魅力的なものなんですね。その後、園に戻ると、中に虫がいるのと、いないのでは水に入れるとどうなるのか?、色が変わってきた!とか実験していました。

保育界に来ているDXの可能性

2023/09/26

「・・・というように、子どもの見ている世界を大事にしている」「・・・など、子どもの体験している意図や意味を伝えようとしている記述になっている」。これは先生たちが毎日残している記録への主任のコメントです。そいういう保育の記録がデジタル化されて、クラウドでの共有が進んでいます。

たとえば今日は、小松川公園での遊んでいる45歳児の様子や、お煎餅を買いに出かけた3歳児、久々の和泉公園で体を動かす2歳児、神田消防署へのお散歩を楽しんでいる1歳児と0歳児、それらの様子を写真とコメントが連絡アプリにあがっています。

保護者の皆さんは、可視化されている子どもの姿が手に取るようにわかると思います。それは職員間でも同じです。別のクラスでの活動を毎日共有できるので、同じ時間に他のクラスでは、こんなことをしていたんだな、ということが分かり合えます。

またそれぞれの記録について、どんな意味があるのかとか、保育の振り返りの話し合いの記録になっています。その話し合いもデジタルツールを用いているので、タイムリーに伝え合うことができます。自分の記録に他者の視点が重なり合って、子どもの姿の見え方が多面的になっていきます。その結果が明日の保育への、ひらめきにつながっていきます。

一方で、定期的に話し合うことも大事です。そのためにも普段の時間的に区切らない、いわば「日常的なカンファレンス」が、特定の時間を設けた時の話し合いにおいて、その密度を増していくことになります。「このことは、もっと先まで届きそうだね」と今日は主任と話し合いました。このような仕組みは今後、保育園や幼稚園にどんどん増えていくことでしょう。そうなると、普段から交流している園との間に、園単位を超えてつながりあうことも可能になります。それは新しい形の公開保育や合同カンファレンスと同じようなことになってくるかもしれません。

また、さらに小学校の先生にも参加してもらえば、保育を見てもらう機会にもなり、いろいろな連携や協議にも役立つでしょう。今日、主任とは「保育におけるDXはすぐそこまで来ているね」との感触で一致しました。もちろん、話し合う内容の方が大事ですけどね。

不安・勧善懲悪・好みの違い

2023/09/24

ちょっと古い絵本だからどうかな?と思ったけど、予想以上に子どもはシーンと話に引き込まれ、深い沈黙が続いた。しみずみちを作・山本まつ子絵『はじめてのおるるばん』。22日金曜日夕方の園長の絵本タイムのことです。

出版は1972年で、当時、岩崎書店が「母と子の絵本シリーズ」と題している絵本30冊のうちの冒頭に置いた1冊。「身近なドラマ、新しいファンタジー」と銘打っているシリーズの代表作のような扱いになっている。この絵本は3歳のみほちゃんが、一人でおるすばんするお話だが、読む前に「おるすばん、したことある?」と聞くと、6人ぐらいから手があがった。

ウェキペディアには、この絵本についてこう書いてあった。「別視点からは、日本の高度成長期に伴い構造的に変化した社会背景(核家族化、生活共同体の崩壊等)が作品を通して感じ取られ、絵本においてエポックを画した作品である」と。こども家庭庁ができ、こども基本法のもとに「こどもまんなか社会」を再構築しようとしている今、この視点から絵本を見ておくことは大事な気がします。

あと数個なっていたピーマンを屋上から収穫してきて、みんなに匂いを嗅いでもらう。さくらともこ作・中村景児絵の「グリーンマントのピーマンマン」。ジェンダーによる差別には敏感なつもりなのですが、こういう話は男の子の反応がいい。バイキンをやっつける格闘シーンには、笑いが溢れた。この手のお話は、ウルトラマンやアンパンマンのように子どもたちにウケがいいのですが、我らが正義の味方が悪を懲らしめる、という、いささか「子どもだからって、こんな単純でいいのか?」と思わないではない。たぶん、子どもなりにすでに「嘘っこの世界」として割り切れる力が働いているのでしょう。

3冊目はマリー・ホール・エッツ。といえば「わたしとあそんで」が有名だと思うけど、『モーモーまきばのおきゃくさま』というのもある。他人に喜んでもらいたくてやったけど、相手は気に入ってくれなかった。そういう経験は子どもにもあるはず。誰でも大事にしていることや好みは違う。保育園の保育目標は「自分らしく、意欲的で、思いやりのある子ども」だけど、「自分らしく」は、みんな違っていい、ということ。それを確かめ合うことも大事だろう。

この絵本を読み終わった時、キョトンとして「ぜんぜん、面白くない」と不満げだった男の子もいました。「そうか、ごめんね」と私。お話が期待していたことと違ったね。それも子どもなりのダイバーシティ。いいと言われている絵本がみんなにとっていいとは、もちろん限らないからね。

 

私は前の園で映画「こどもかいぎ」を撮影してもらった時に、状況を変えることで引き出されてくる「思っていることや考えていること」が変わるという経験をたくさん見出しました。それは当の子どもたちもそうで、いつも一緒に遊んでいるのに「こんなに考えが違うとは思わなかった」といった趣旨のことを言った子がいたのです。それを思い出しました。

最後は、これ。ハッチンスの『せかい一わるいかいじゅう」。弟くんが生まれて周りの大人の注目が集まることに、お姉ちゃんとしてはさびしい。一番を競うのも、注目を浴びたいのも、親の愛情を獲得するのも、子どもには競争になってしまう時もあるんですよね。

1歳4カ月の「意見表明」viewsとfeelings

2023/09/22

赤ちゃんの気持ちがよくわからないことがあります。今日もある子が私を見つけて「ペコリ」と可愛く挨拶して、トコトコと私の方へやってきました。0歳児クラスの1歳4カ月になる男の子です。あっち、というように指をさして、色々と教えてくれるのですが、時々、「え、それどういうこと?」「あっち?あ、そうじゃなくて、こっちか。ん?・・そうじゃないのね。まあ、いいか。よくわかんかなったけど」という感じで、その子の意向、きっとこういうことかなあ、ということに、ついていってあげるようにしているのです。

今日は玄関のところまで何度か歩いていって、外の景色を眺めては、指差して、何か言っています。その度に、私は「ブッブー、自動車だね、ぶ〜んって、早いねえ」などと返してあげるのですが、どうもそういう特定のことじゃなくて、何かしら「あっちの方らしい何か」のようなことを伝えたがっているようにも受け取れます。「ほら、あったじゃない、あれのことだよ」という感じ。外に連れてって!の時は、抱っこ!とせがんで、抱っこされたら「あっち」と外を指差してくれていたので、わかりやすいのですが、今日のはそうではありません。別に外へ連れてって、とかではないようです。

赤ちゃんのこういう感覚というか、頭の中に思い描いているview(ヴュー)、景色や風景のようなものを、身近な人とわかち合いたいというのも立派な意見表明なんでしょうね。それを受け止めて繰り返しているうちに、私にも彼にも、そして関わり方にも、何か心地よい方法が見つかっていくかもしれません。このように、はっきりしないことが、保育に時々起きるのですが、ああかなあ、こうかなあと、子どもたちとやりとりしていることは、それもコミュニケーションとして楽しんでいくようにしています。

子どもなりに、私やその場所に出会うことで、何かを思いついて、それをなんとなくやりたくなった、という感じの指差しなのかもしれません。何か思いついた!瞬間のようにも見えます。それをどうやったら実現できるのかは、まだわからないけど、思わず周りにそのfeeling(フィーリング)を表明してみる。面白くなりそうな予感を感じている感じ。そして周りがそれに反応してくれるから、本人もその気になっていくけど、また別のイメージが喚起されて他のことに置き換わっていってしまう時もあるみたい。うつろいゆく「あれこれ」の中から、また、「そうそう、そうだった!」と思い出しては伝えたくなる好きなものが、少しはっきりしてきて、それを自分に引き寄せようとしていく。それがそのうち「ねえ、見てよ」だったり「あれ、あれ」だったりしていくのかもしれません。

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