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園長の日記

オムニバスドラマのワンシーンからの想像

2023/09/21

保育の1日を振り返ることは、子どもたち一人ひとりのその時の姿や表情を思い出すことになるのですが、その振り返りは、まるで終わりのない連続ドラマを毎日、一話ごとに短い「ダイジェスト版」を作っているように感じる時があります。しかも、その今日のダイジェストは保育者によって異なっていて、クローズアップされるエピソードも、保育者が出会ったものから選ばれるで、内容は違ってきます。

それぞれが主人公のオムニバスドラマになっているはずの生活全体について、実は全てを把握している人など存在しません。それでも物語の「あらすじ」は、当たらずとも遠からず、だいたい成立しているように感じるのも、面白いものです。そこはさすが担任、いつも一緒に生活している彼ら彼女らが残す毎日の日誌やドキュメンテーションを読み解きあっていく中で、それぞれの子どもの成長の物語が見えてくるのです。

例えば、3歳の担任が先週、模造紙に写真を拡大して廊下に掲示していました。それには小さなダンゴムシが写っているのですが、その大きさがクイズになっている保護者向けの掲示でした。

答えの写真には十円玉が添えられていて、いかにそのダンゴムシが小さいか?が、その掲示で伝えたかったことのようです。

そこまで驚く担任の心理が最初、私は正直言ってピンと来なかったのですが、そんな小さなダンゴムシを公園で見つけてしまうことに、先生は感激したのだそうです。そこを私たちが共感できるかどうかも、それまでの子どもの変化を具にそばで見届けてきたから気づく子どもの姿なのでしょう。

あるいはこんなこともあります。3歳の子どもたちが仲良く集まって絵本を見ているのですが、実はお友達がやっているお絵描きをそばで待っている光景だったのです。そこに新しい仲間意識の誕生を感じ、一連の写真入りコメントが数日間並んでいます。とびとびに拾い上げられていた同様の姿を並べてみて、なるほどと気づく協同性の動向です。

あるいは、数日前に数人が製作遊びに没頭しているな、と思っていたら、明日22日に「こども縁日」を開くそうで、そのために密かに準備に勤しんでいた子どもたちだったことを今日、記録を読んで知りました。

屋上に置いていたみかんの木に、また八匹のアゲハの幼虫がいたのですが、年中のMくんが「どうして鳥のフンみたいなの?」というので、「鳥もフンだと思ったら、食べようと思わないでしょ。食べられないように、こんななんだって」と説明したのですが、<そっか、といいこと聞いた>というような顔をしてくれたので、ホッとしました。それがこれから、またあの青虫になるなると思うと、私も説明しておきながら不思議なもんだなあ、と思います。

その奥には、ベランダに設けた砂場があります。夏は暑すぎて遊べなかったので、また砂を入れて遊べるようにしていくのですが、ザルを持ち出して遊びたいような様子だったので、バケツに入っていた水槽用の砂利砂で少しだけ遊びました。

スコップで救い出して容器に入れたり、手で掴んでアイスを作り始めたり、小一時間遊びましたが、そにいたメンバーの意味については、その前後にまた別の物語があったりすることを、これまた後で私は教えてもらうことになるのです。

 

子どもの人権と尊厳への保育者の感覚

2023/09/20

「今日は・・・などに限らず、探索に行ってみたい場所やお昼のタイミング・・・など、それぞれの子が自分自身で生活を作っているような雰囲気が感じられる一日だった。その姿の読み取りや、やりとりを、丁寧にたっぷりしていく中で、子どもたちも安心して、自分の生活を作っていくことができていると思うので、大人自身も気持ちに余裕を持って、ゆったりと過ごしていきたい。」

私はこの担任の保育の振り返りの記録のなかに、とても大切な人権感覚を感じます。大人が気持ちに余裕をもって、ゆったりと過ごすことで、「子どもの姿の読み取りや、やりとりを、丁寧にたっぷりしていく」ことができ、それが子どもの主体的な活動を生み出していくことにつながるというのです。

保育界は昨年秋からこの1年ほど、子どもの権利や子どもの尊厳というものを、根底から見直すということが続いているように感じます。きっかけは、昨年秋からのマスコミを賑わせた「不適切保育」への対応と、この春から「こども基本法」の施行に伴う議論が増えたことです。保護者のみなさんにとって、保育の実際としては、表立って目出つ変化は感じないかもしれませんが、私にとっては、かなり勇気づけられていることや、さらにもっと深めたいと思うことがあります。

ここで紹介した担任の振り返りもその一つです。勇気づけられることであり、もっと深めていきたいことです。

昨日19日は、は朝から区内の保育園からの見学を受け、午後からは保育者養成大学の先生がいらっしゃいました。目の前でおきている子どもたちの姿を読み取りながら、目指すべき保育のあり方を語り合うことになりました。それは子どもと環境の関係であり、子どもと保育者の関係だったりするのですが、そこで「起きていること」をどう理解するのか、そこには見る方の人権感覚が反映され、その子どもの尊厳を感じ取るかどうかによって、そこに大きな差異が生まれるように感じたのでした。

これはななかな、うまく説明できにくいもので、どう表現したらいいものか。抽象的な言い方になってしまうのですが、その違いは、保育者が「子どもがどのように変化していくのか」を見極めていこうとする「まなざし」の違いとして表れているとはいえそうです。その姿とは、環境との関係のなかで「引き起こされている」と表現したい事態なのですが、それがそうなるようにするには、担任の冒頭のような表現のなかに見出されると思うのです。

 

 

食べているお米に近づく過程

2023/09/16

栽培や飼育という活動は、食育や自然との関わり・生命尊重のテーマとして、生活の中に位置づいています。以下の記録は、5月から始まった長い活動が、一つの節目にきたことを取り上げています。12日月曜日に年長さん9人がやった稲刈りの様子です。収穫が終わると、これから白米に至るまでのプロセスを丹念に体験していく活動が始まります。

・・・・・・・・・・・

5月末にそれぞれのバケツに植えた稲🌾

 

 

・・・😳

こんなに大きくなりました..!

野菜と一緒に毎日水をたっぷりあげ、月曜日、ついに!稲刈りをしました。

たくさんの葉っぱの中にある 稲 を探し出し、根本からハサミで切る作業は難しくもありましたが、神宮司先生に説明してもらうとすぐにコツをつかみ、器用に収穫していました。

 

今日は、この稲が食べられるようになるまで(みんなのご飯になるまで)の過程を、みんなで観察しながら共有しました。

(少し見えづらくてすみません.. )

「どの順番でお米になると思う〜?」と子どもたちに言ってみると、

じっくり観察しはじめました。

Yちゃんが少しずつ稲からお米に近づいている過程を発見し、みんなに伝えると、「ほんとだ〜〜!」とみんなも近くで見ながら発見!

稲刈り→乾燥→脱穀→もみすり→玄米→白米になって、みんなの食べているご飯になっているという過程を、実際に育て、収穫して体験しながら学んだ時間でした。

14日の「そうそう、そこそこ」子ども理解の背景

2023/09/15

14日は実習指導に大学から懇意にしてくださっている先生がいらして、主任と一緒に「保育者は気づいたこと、見えた姿を積極的に出すことが大事」とということを、語り合いました。

実習生は9月4日から主に幼児と一緒に過ごしてきました。その姿から制作遊びと運動遊びの展開案を考えてやってみました。子どもの姿ベースの展開です。また保育日誌やドキュメンテーションは、デジタル化が進み、当園の実習日誌もこの大学とは紙がなくなっています。ですから実習生にもドキュメンテーションの作成を体験してもらっています。今後は実習日誌もネットでのやりとりに移行する予定です。

それらを読んでいると、私が実際に保育で目撃しているものよりも、担任が着目していることの方が発達の経過を踏まえたものなので、着眼点や見え方が「そうだったのか」と思うことが多いのです。

例えば、大学の先生と実習生、そして主任と私の4人で語り合っているときも、園児3人が私たちのいる事務室にやってきて何やら頼み事を言って帰っていきました。

主任は、その瞬間の姿を見て、その3人の組み合わせの中に、それぞれの思いと経過の物語があることを説明してくれました。そこには親御さんも含めた思いが詰まっている姿だったのです。そこには、一緒に遊びたいという思いを相手に伝えることがなかなかできないでいたのですが、その思いを上手に受け止めていく子どもたちの思いやりの物語があったのです。

そのような子ども理解の、よく言われる背景の理解といったことは、大人の世界でもあるし、当事者や関係者でなければクローズアップされることのないものです。またその内容や経緯は公になっていく性格のものでもありません。しかしその共有こそが、子どもの人権を大切にしていくためには欠かせないものだったりします。

14日の「そうそう、そこそこ」子どもなりの世界の広げ方

2023/09/14

14日の「そうそう、そこそこ」は子ども理解のバリエーションです。1歳の子どもなりに自分の世界を広げていく様を取り上げています。

というか、よくもそこに着目できているなあ、すごいなあ、ということなんですけども。

エピソードは2つ、二人あったのですが、どちらも子ども同士の間に起きている発達の最近接領域のことといってもいいでしょう。二人とも1歳児クラス。担任は「ちょっと上」とか、「チャレンジ」という言い方で、子どもがそ〜っと踏み込んでいく自分の世界を捉え、保護者の皆さんに伝えようとしてくれています。

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<エピソード1>

ヨーグルトのおやつが出た日、Sくん、自分でフタをあけることにチャレンジしています。

配膳をしてくれた先生が、”ここからはできるかな?”と、ヨーグルトのフタを最初のちょっとだけを開けると、フタつきのまま渡していました。 全部開けてから子どもたちに配膳するほうが、失敗することも少ないし、すぐ食べられるけれど… そろそろ自分で開けることができるようになってきているかな?と、あえてつけたまま渡してくれています。 大人がさらにちょこっと手伝って、『ここを持ってめくるんだよ』と示すと、Sくんも真似をして、見事自分で開けることができました。

ほんの小さなことにも思えるのですが、昼食のバナナやオレンジでも同じようなことがあります。 最初は皮ごと食べようとしてしまったり、皮をむかずに中身をなんとかかじろうとしたりしますが、徐々に「皮をむこうとする」仕草が出てきて、手先がうまく使えるようになってくると自分でむいて食べるようになります。

そうした様々な発達のステップがあるので、私たちはそのステップに合わせて、大人がむいてあげたり、子どもが自分でやりやすいように途中までむいてあげたり、自分でむけるようになってきたらそのまま渡したり…と それぞれの子に合った関わりをしていきます。ついこの間までバナナの皮ごと食べようとしていた子が、皮をむいてみようとしているのを見て、嬉しくなったりもします。

『発達のステップに合った関わり』というのがまた面白いところだと思うのですが、その子にとって簡単にできすぎてしまうことは、「発達に合っている」とは言えないように感じます。「発達」には、いつでも少し、「チャレンジ」という要素が必要なのかもしれません。 自分ができることの少し上、をトライする中で、子どもたちは少しずつ少しずつ成長を重ねています。

時には、ちょっと道草したり、あと戻りしてみたり…ももちろんあるかと思いますが^^(きっと、そのくらいの『あそび』も大切な時間なのですね。)ヨーグルトのフタも、ぐんぐんさんたちにはちょっとしたチャレンジでした。でも、Sくんが ちょっと頑張って自分で開けてみたり、うまく開けられた子が、「できない〜」というお友だちのをさりげなく開けてあげたりする姿もあって、子どもたちの発達や成長を引き出していく要素は、色んなところに色んな形で起こりうるのだなぁということを実感します。

子どもたちの力や、いま伸びようとしている姿を存分に引き出していくには、それぞれの子どものことをよく理解していないといけないのだと感じます。私たちも、子どもたちと一緒に挑戦したり試行錯誤したり…を繰り返しながら、一人ひとりの子どもの姿をじっくりと捉えていきたいと思います。

<エピソード2>

ところで、子どもたちがそうやって”一歩踏み出す”ための環境や関わりは、遊びの中にもたくさんあります。 お友だちの運動遊びをずっと隣の部屋から眺めていたIくん。一緒にやる?と聞いても『ううん』と首を振りますが、眺めているのは楽しそうです。楽しげな友だちの姿につられて、Iくんも時々にこっとしながら見ています。 そこからしばらくお友だちの姿を眺めるうち、だんだん近くへやってきて… Cちゃんにツン♩そのあとは、お友だちが遊んでいるマットをめくってみたり、こちょっとくすぐってみたり。

ほかのお友だちと一緒になってマットの上に寝転んで遊んでいたわけではないけれど、お友だちの遊びの楽しさをしっかりと一緒に感じながら同じ世界を楽しむ姿に、『こんな参加の仕方も良いなぁ』と小さな感動を覚えました。

とくに最初のうちは、パッと見ただけでは、「一緒に遊んでいる」ようには見えなかったかもしれないけれど、その時の Iくんの表情や姿を見ていると、たしかに、お友だちと同じ面白さを感じ同じ世界を一緒に楽しんでいるように見えました。

こんな風に、それぞれの子のタイミングや楽しみ方、味わい方があって、一人ひとりの世界の広げ方があります。それをいかに一緒に感じとり、支えていけるかが、「発達」や「成長」にとっても、大切なことなのかなぁと感じています。

・・・・・・・・ここまで・・・・・・

このように、本当に何気ないシーンなんですけれど、これまでの積み重ねから育っていきつつある姿を切り取ってくれていて、私は嬉しくなるのでした。

13日の「そうそう、そこそこ!」保育者によって子どもを誘う世界に差

2023/09/13

保育を語るとき、ある種のキーワードから半ば自動的に繰り出されてくる概念のつらなりのようなものがあります。それを道標のように使って語られることに、ときどき生理的な抵抗を感じてしまうことがあります。手垢がついてしまった語り口の陳腐さとでもいうのでしょうか。それを力説されるほど「それだけじゃないだろうに」と思うこともあります。反対に、一見凡庸なように見えて、実はとても大事なところ語っているように感じて「そうそう、そこそこ。そういうところかもしれない」と思うこともあります。

今週は12日火曜日に松本市に出張していたので、その頃から今日15日までの間に、クラスドキュメントとホームページブログに記載されている中から私が感じた「そうそう、そこそこ」プレイバック!です。日記は13日の日付から3日間シリーズです。

今日は13日の2歳児クラスで起きた「アゲハ見つけた」の中の、「そうそう、そこそこ」です。

このクラスブログ(保護者だけがパスワードで見ることができるクラス日誌)は、他の園の子どもたちと偶然に起きた交流場面を取り上げたものです。男性の担任が、散歩先の公園でアゲハチョウをとってあげた時、園児と他園の子らの反応の違いに気づいたそうです。

・・・・・・・・・・・・・以下は13日のクラスブログからです・・・・・・・・・・・

今日の佐久間公園でのひとコマ。

T(担任)専用虫捕り網でアゲハチョウを捕まえました。

にこにこさん達(2歳児クラス)はもちろん興味津々で、

触ってみたり観察してみたり、とても楽しそうでした。

しかしそれ以上に興味を示し大興奮だったのは、近くにいた他園の子達でした。

憶測ではありますが、僕が虫好きなことや、園でも生き物を飼育している事もあって、

以前より虫と触れ合ったり探したりする機会が多くあったにこにこさん。

この他園の子達は今まであまり虫と触れ合う機会が少なかったのかも。

都心という環境下では、虫は積極的に見つけに行かないとなかなか触れ合う機会がありません。

虫が苦手な先生もいます。

なのでそのような場合、都心で子ども達だけでたくさん虫と出会うのは難しいかな、と思います。

 

誤解なく伝えたいのは、その他園の保育がどうとかではなく、

子ども達が経験していく事柄は、関わっている大人の得意分野や趣味嗜好も大きく関係してくるのかな、と。

ですので、きっと僕が虫好きでなかったり、園で生き物を飼っていなかったりしたら、

子ども達もまた違った反応だったのかもしれません。

 

保育園の子ども達が関わるのは保育士だけではないです。

きっとお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんも、

僕らには無い、何か得意な事や面白い趣味、明るい分野などあると思います。

何かの機会にぜひ、子ども達にいろいろ見せたり聞かせたりしてあげて欲しいなと思っています。

それが子ども達の新しい興味や発見に繋がっていくと思いますので^^

・・・・・・・・・・・・・ここまで・・・・・・・・・

その同じ日に、ちょうど12日の夕刻ですが、私の講演が終わった後の懇親会で、長野県のある保育団体の前会長さんと雑談になり、その方が佐伯胖さんのドーナツ理論の話を始めました。これは、大変大雑把にいうと、子ども(I)を保育者(You)が世界(There)へ誘う役割を持つという話なのですが、わあ、懐かしいと思いながら、そうか、ここは長野県だったと思い至りました。

確かに、子どもの主体性と大人の主体性が生み出すことは、時に、子どもが誘われる世界は大人の主体性がイニシアティブを発揮することがありますが、それに留意するなら、担任もそれに気づいて、保護者に「何かの機会にぜひ、子ども達にいろいろ見せたり聞かせたりしてあげて欲しい」と語っています。

園長の立場からすると、いろんな「とんがったもの」を持っている職員と保育をしたいということになってくるかもしれません。とんがったものとは、その人が好きな世界があって、そこにちょっとでも食い入るものを持ち、どんどんその世界を探求していっている人。それを面白がって子どもに見せてあげようとするような資質のこと、とでも、いっていいでしょうか。

ドキュメンテーションが伝えてくれること。先生たちに心から感謝。

2023/09/12

すこいです。このドキュメンテーション。何がすごいか? 子どもの躍動感と先生たちのその姿を目撃した先生たちの「伝えたい」という気持ちの一体感。こんなすごい子どもたちと先生たちがいる保育園であることの、心の底から誇りに思います。先生方、本当にありがとう。ここに保育の幸せがあると思う。

 

受動的な気づきから自覚的な気づきへ

2023/09/11

こういうことが、STEAMの基本なんだろうな、と思います。あれ、色が変わっていく、面白いな、という感じだったらしい。4歳児クラスの男の子。10月で5歳になる。こういうところに注意が向くようになってきたんですね。

私たちが「もの」の世界の法則(物理や化学や地学など)を理解していく学びは、本人がその世界が面白い!と感じながら、その世界に入り込んでいけるといいな、と思います。

いろんな刺激を受動的に受け止めていた乳児のころ。水や色で遊んできた体験のなかから、彼なりに、慣れ(馴れ)親しんできたとこ(現象)とは違うこと(新奇性)に気づいた(発見)したようです。それまでのこととは違う、新しいと感じることと同じような体験を重ねることで、ある種の規則(法則)を気づくのかもしれません。

以下は、9日の先生のブログです。8日の出来事です。

・・・

絵の具遊びでスポイトを使っているうちに、だんだん水分が増えて「色水」になってきたので、そのまま水道台へお引越し。色水遊びになりました。

色水に、水道水が足されていくと、だんだん透明になっていく様子に気が付いた らんらん組のRくん。


「色がなくなった!」と、実験を繰り返していました。

(蛇口の下のカップの、水の色の変化に注目!)

 

真剣なまなざしです。

にこにこ組のAくんは、さまざまな色を作って、きれいに並べていました。

 


Rくんが、「これ、凍らせてみたい」とのことで、遊び終わったあと、冷凍庫へ。週明け、どんなふうに固まっているでしょう…!?カラフルな氷ができるかな?と大人もちょっと楽しみです。

大人が模造紙にクレヨンで絵を描くと、その上を絵の具で塗ってみる すいすい組(5歳クラス)のYちゃん。

「あれ?!塗れない〜!」と、クレヨンが絵の具をはじくことを不思議そうに発見していました。


Rくんも、同じように試してみます。

遊びの中でさまざまなことを発見し、不思議がり、試し、繰り返してみる子どもたちです。その子なりの世界の広がり方が面白いです。

保育園の新たな可能性としての「にちよう開放」

2023/09/10

こども基本法ができて、新しい政策が次々と打ち出されてきました。その1つに、それはこれまで無理だと思われていた保育所の多機能化です。保育所が新しい子育て支援、社会的養育、母子保健、発達支援制度を取り込んだインクルーシブな取り組み。

今日は「日曜開放」だったのですが、これが「点」のような取り組みだと思わず、大きな可能性につながる第一歩をやっているような気がしてきました。まだ未知数ですが、私の直感は大抵当たります。楽しみになってきました。

選択力も発達していきそうだ

2023/09/09

大人になることは物事への適切な判断や決定が下せるようになることだとも言えるだろう。それが発達するのだとしたら、大人もずっと「こども」なのかも知れません。(という「こども基本法の話ではなくて)選択することもある種のスキルであるなら、拙い段階から洗練されていくレベルまであるかも知れません。もちろん何かをさっさと選べることがいいのではありません。イヤイヤ期の子どもを見ていると、大人がどの選択肢を示してもうまくいかないという光景がよくあります。

今週5日のセミナーで、子どもは小さいうちから選ぶということをやっていくと、色々考えた上で自分で決めることができるようになるのではないか、ということが話題になりました。ランドセルのメーカーが子どもに調査をしたそうです。その色に決めたのはどうしてか?すると多くの子どもが本当に自分の好きな色で選んだのではなく、親がそれを望んでいたから、と答えたというのです。確かに最近のランドセル選びは「祖父母からのプレゼント」になっていることが多いそうで、子どもなりの配慮、忖度、遠慮という気遣い?が働いているのでしょう。それも納得してぎれば立派な選択なんでしょう。気に入らない色だったのに、我慢してそれにした、ということでなければいいのですが。

研修会では、どっちを選ぼうがあまり影響のないようなことも、小さいうちから選ぶようにしている事例が色々紹介されました。ジャム付きのパンをあまり食べないことがあって、ジャム付きとただのパンのどっち?と変えたら1歳児が躊躇なく選んでいく様子の動画がありました。面白いことに、どっちもジャム付きなのに「こっちのジャム付きにする、こっちのにする」と聞くと、子どもは選ぶんですね。「選ぶ」という行為を好むようなのです。やっていること、手に入れることは同じものなのに。シーナ・アイエンガーの本『選択の科学』にも、その事例が出ています。自分で決めた、選んだということ自体が重要だと。そして自分で決めるということは生得的なことじゃないか、と。

あるいは何かを「決める」というとき、大抵はそう白黒はっきりしたものではなく、積極的な肯定から消極的妥協まで、その幅は色々ありそうです。選ぶための情報が足りない、選択肢がない、我慢できない、恋に落ちた・・・まあ、色々です。でもその選択がずっと後々まで影響を与える場合もあります。昔、文部省時代ですが、キャリア教育や職業選択に関して「中学の時に将来なりたい職業が何回か変わるくらいでないと、それを調べたり学んだりしたことにならないでしょう」と担当課長Tさんから聞いたことを思い出しました。今はAIの時代。もっと違う<選択力>が必要かも知れません。科学としてその概要を知っておくといいと思うのですが。

しかも主体性の文化差ということも絡みそうです。選ぶのが「私」なのか、それとも「他者」や「集団」なのか。アイエンガーさんは、その本の中で、京都で砂糖入りのお茶を頼んだら丁寧に断られたというエピソードを披露しています。諦めてコーヒーを頼んだそうですが。自由な選択が許される幅が国や文化で違います。

それがアジア的と言っていいのかどうかわかりませんが、「他の人がしているかそうする」というのはジョークのネタにもなっているくらいですから個人主義の文化に比べると、個の弱い「あいまいな日本人」だったりするのでしょう。昨日の夜、ニューヨークなど海外で長く働いている方と夕食が一緒だったのですが、この「個人の押し出し具合の差」の話になりました。文化や背景との調和や、周りの空気を重んじて、自分の判断や意見や言わない、あっても一歩引くという感じが明らかにマイナスになるケースを色々教えてくれました。親や周りに合わせる選択や適応は、幼児後半あたりには影響を受けている気もします。

文化の差だとしたら、それ自体はいい悪いの話ではなく、そう自覚して対応していくとになりますが、子どもが小さい頃から「じゃあ、どうしようか?」と一緒に選択場面を考えてあげたり、一旦自分で「どう思う?」「いる?いらない?」とか、相手に聞いてから「やってあげる」ことや、子ども自身が「考える」プロセスを大切にしてあげるのは大事な気がします。それも子どもは頭だけで考えないでしょうから、手も体を動きながら、やってみながら後戻ったり、そうじゃないと気付いたりしながら。

子どもが選択するように見える時、昨日の日記にも付け加えましたが、選べない、選びたくない、あるいはどうしようと困ると言ったことが往々にしてあります。また、選択場面に見えないような、何か新しい世界へ一歩足を踏み入れていくときのように、どうしようかなあ、とちょっと逡巡して決めかねているような状態から、ちょっとやってみようと始めるとき、ある種の試行錯誤が起きているのですが、私が尊敬する先生が、それをこんなふうに表現してくださいました。

「何かを選んでいるように見えるとき、どういう意味で選択なのか。しばしば根拠がなんとなくで、選択肢もなんとなくで、衝動とも見えて、そのやってみて後から考えるというのが試行錯誤なのではないでしょうか。いいこと思いついた、というのは、具体的にこれからするアイディアが浮かんだわけですが、それもおそらくぼんやり何か面白くできないかなと思いつつ、試すことをイメージとして思いつく。で、やってみる。」

主体性や選択などの「ビッグワード」で語ることで終わらせず、このような場面をつぶさに拾いながら、子どもの姿から実際にどんな経験が起きているのか、そこの意味を探るようにしたいと思いました。

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