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園長の日記

何もしないという選択も「あり」

2023/09/08

何もしない。これも立派な選択である。「これにする? あれにする?」って言われたって「どっちでもないんだけどなぁ」ということだってあり得る。

だから、何もしないという場所の保証するし、常にその他と言う選択肢を用意した方が良い。判断保留。何もしない。ぼーっとしておく。あるいは「ほっといておくれ」。これだってオッケーだ。

「いまやりたい」も選択である!

2023/09/07

今日の幼児のブログを読んでいたら、だれも選択だと思っていない出来事のなかに、選択と同じようなことが起きているのかもしれないと気づきました。

コードの不具合で電源が入らなかった電子ピアノが「乾電池で鳴るかも」と気づいた年長のMちゃん。発端は鍵盤ハーモニカをやりはじめたお友達に触発されたからですが、突発的に「やりたい」が盛り上がるのも子どもたちです。やりたいことをやる、ということを人は選択とはいいません。何かと何かから選んだと思わないからです。

でも「今やるか後でやるか、今でしょ!」ということなら選択したということができます。電源が入らないからあきらめていたのに、なんとかならないかと調べてみたら電池を入れる場所をみつけ、そのいきさつを知らずに私はMちゃんを連れてコンビニへ電池を買いに行ったのです。たまたま単三の電池が6本、園になかったのです。

子どものやりたいこをなんとか実現させてあげようとしたに過ぎないのですが、もし友達が鍵盤ハーモニカを弾かなかったら、先生とその子たちがやりたいと思わなかったら、もし私が電池を買いに行かなかったら・・・いくつもの「もし」という物語があり得ました。

なんでも後回しにしてしまう判断もありえました。子どもの「やりたい」に気づかない場合。気づいてもスルーしてしまう場合。どうせ大した差はないさ、と違う結果を予想する場合。いろいろな瞬間に大人の判断が働いています。それがチーム保育として成立するのは、保育に一つのゴールイメージを私たちが共有しているからです。先生たちの間で、子ども主体の保育が面白いと思えるから、できるだけ「今でしょ!」が選択されているようです。

 

選択から参画へ 脇道、戻り道、休憩所

2023/09/06

人生は選択の連続です。何をして働くか、誰と家庭を持つか、子どもを産むか、どの保育園に預けるか。みなさんは必ずこの岐路を選択してきたはずです。今日のご飯は何にするか、パンはどっちにするか、お迎えはどちらがいくか、延長保育は間食か夕食か。子どもたちも今日、電車で十指公園にいくか室内で遊ぶかを選び、幼児は結果的に全員電車で外遊びに出かけることを選びました。そして私は見学者を案内しながら、子どもたちが、何をどうするか、常に選択しながら生活している姿を追いかけていました。

今朝、親の腕からある先生の腕へ渡る時も、赤ちゃんは先生を選んでいます。ある遊具を棚から選び、絵本を手に取り、完成したパズルを棚に戻して新しいパズルセットを選びます。昼食をどのテーブルで誰と一緒に食べるのか、ご飯やおかずをどれくらいよそってもらうのか、おかわりをするかどうか、量はいっぱいかちょっとか。お昼寝をするかしないか、午後からは何をして遊ぶか。子どもが何かをしているとき、それは意識している、していないに関わらず「選ぶ」という行為が働いています。

そこにあるのは自分で決めることです。その決めた結果は自分と周りに影響を与えます。その結果が自分と他者にとっていい場合とそうでない場合があって、そのフィードバックをだんだん予想して決定していくようになっていきます。見通しと判断、実施とその被った結果への振り返り。それが選択という行動の中身、と言えるかもしれません。もしそうなら子どもは結果がすぐに返ってくる判断から、ちょっと先まで考えて下す判断まで、いろいろな選択をおこなっていることになります。最低限言えそうなのは、自分で自発的に決定したことがある影響を与える効力を自覚するので、それが自分がやったことという意味で自分を肯定することになるでしょう。

さらにその結果が自分に返ってきたとき、それに直面した自分が、そうなったのは自分がやったからだ、という自覚が生じる場合があるでしょう。その結果が賞賛されたら「またやろう」「もっとやろう」という再現したい、繰り返したいという意欲になるでしょうし、その積み重ねがアティテュードという態度、心構えが作られていくでしょう。

反対にダメだったら「あっちにしておけばよかった」という判断の修正が起こり、望ましい選択ができる方向へ自分を制御していく力になるでしょう。しかし選択肢が限られていると「やらなければよかった」に近くなり、肯定的な別の行動に気づく機会が生まれにくくなるでしょう。もしさらにマイナスの行き詰まりが続くと、諦めや無気力、無関心、自暴自棄、どうせダメだろうという自信のなさ、ひにくれた態度などが形成されてしまいます。

そう考えると、選択肢を枝分かれした道や迷路に喩えると、行き止まりになっても、戻ってこれることが大事。脇道から本線に戻れるルートがあることが大事でしょう。そこに試行錯誤が生まれ、できた時に自信が生まれ、自分が選んだ行為で他者が喜んだり嬉しそうにしていると、自分のおかげという効力感を感じてさらにそうしてあげたいという循環が生じるのではないでしょうか。

何をすればいいのかが決まっていることを率先してやる姿は自発的、自主的な、と言っていいでしょう。しかし、その動機が自分の選択から、自分の自己決定から始まることが欠かせない気がします。同じような行動に見えても、そこに至る過程に大事な宝物がいっぱい詰まっているのです。そのことが相互にぶつかり合って合意形成を作り上げていくこと、一緒に協力して何かを成し遂げようとしていく時に、さらに新しい自分づくりのプロセスが生じます。社会性、関係性の中での自分を作り上げていく過程がそこにはあります。選択から参画へ、という意思決定の高度化が予想されます。

保育環境セミナーで、子ども主体の保育を考える

2023/09/05

今日は保育環境研究所ギビングツリー(GT)が主催している研修会「保育環境セミナー」でした。高田馬場に全国から約180人が集い、オンラインを合わせると300人以上が参加しました。これは年3回のシリーズで開いているもので、今年の統一テーマは「人的環境」です。そのサブテーマは前回7月11日が「子ども同士の関わり・異年齢」でしたが、それに次ぐ2回目の今回は「子ども主体」でした。次回9月は「チーム保育」になります。この研修会は初日の午前中と3日目は園の見学です。中日の今日は講義や実践発表、質疑応答があります。

今回のサブテーマ「子ども主体」は、子どもを主人公にした保育のあり方を考えようというものです。「随分と前から大事にされてきたはずなのに、まだ保育で十分に実現されていない言葉の一つかもしれません」。そんな話から藤森平司代表の講義は始まりました。確かに「子ども主体の保育」はよく使われる言葉ですが、その保育の実際となると色々あります。

今回の研修会では、まず「子どもが主体になる保育」は、こういうことになるのではないかという保育事例をかなり多く確認することができました。要領や指針をはじめ、子どもの権利条約や、こども基本法、OECDの報告書、関連する研究結果などから、主体性やエイジェンシーなどが、どう使われているのかを整理し、その上で保育実践を検討する機会になりました。キーワードとして自己決定、選択、参加・参画、見通し、振り返り、話し合い、遊びといった側面から保育の特徴を抽出するという内容になりました。

午後からは当園からも担任二人がパワポで子どもの姿を映し出して実践を30分報告しました。乳児では3つの関わりの視点から。満2歳4ヶ月の子が8ヶ月の赤ちゃんに遊具を差し出して「いる?」とか「こっち?」とか、「相手がどうしたいのかを子どもが子どもに聞く姿」や「お友達がやってあげたいと思っていることを察してさせてあげる姿」などです。これらを「子ども同士がお互いの主体性を尊重し合っている」と捉えることができるだろう、というものです。

幼児では、子どもたちが何をして遊ぶかを1日に2〜4回ほど話し合う機会があること、複数出される「やりたいこと」が話し合いの中で相互に確認され、同じ時間にやりたいことが重なってできない時は場所を変えたり、やる順番を変えたりと工夫する姿が見られます。半年近くたち最近では月曜から金曜まで1週間でどの日に何をするか大まかな週案を決めるようになってきていることなど、子どもと大人が話し合って生活を作っていく様子を報告しました。

そこには子どもからの工夫やアイデア、達成するまでに必要なプロセスなどを思いつく姿もあります。例えば「新幹線で大阪へ行きたい」といいだし、どうしたらいいか話し合っていく中で「実現するにはみんなで電車に乗れるようにならないと」と、電車で公園にいく活動が始まったことが取り上げられました。

子ども主体の保育は、保育者が「子どもに尋ねる保育」になっていきます。相手がどうしたいのか、どう思っているのか、どう考えているのかを知ろうとすること。それは大人がそうしていることを子どもも真似て、取り入れていくのでしょう。人的環境としての大人の役割なのでしょう。保育者も子どもを見て想像して理解する、ということにとどまらず、実際にどうしたいのか聞く、たずねる、確かめる、どうなのか丁寧に寄り添うという姿勢になっていきます。

また子どもに選択できるように、色々と用意する、ということにもなります。先生が決めて用意したことを、子どもが意欲的にするなら自主的な行動と言えるでしょう。そこから一歩進めて「参画する」となると、まだ決まっていない活動内容そのものを作るプロセスにコミットすること、意見なり思いがそこに反映されることが子どもに見え、手応えがあること。自分の意思決定が何かに影響を与え、自分がそこに参加している一員であるように感じること。そういう意味での意思決定や選択、相互尊重などが含まれてくるような生活づくりです。このような積み重ねが、あの「主体的、対話的で、深い学び」になっていくように感じます。

 

ごっこ遊びは日常から「隔離」されていなければならない?

2023/09/04

独り言。

なぜ人は踊り、演劇を楽しむのか?

日曜日、ホイジンガとカイヨワの文庫本をバックに入れて、山中湖までのバスの中で開いて思い巡らした。帰りのバスには三島の文庫本も一冊加わった。そして遊びが日常生活と隔離されていることの大切さに思い至った時、だからわざわざ劇場空間を人は作り、遊びが安易に日常の感覚と混ざり合わないようにしたのか、と気づく。その空間は幼児教育施設でも、最も大切な空間のありようではないのか? そうなら「(自由)遊び」が守られるような場であることを、もっと鮮明に表す言葉にした方がいいだろう。預かり保育? とんでもない。こどもまんなか、というなら、そうした命名を廃止するべきだろう。フレーベルもキンダーガルテンと名付けた時にそう考えただろう。〜保育などという、大人を主語とした用語を思考実験として一旦廃止してみたい。指針要領がこどもを主語に書いてある姿のように。

月曜日。「遊びも堕落する」。カイヨワの説明である。ミミクリである演劇、つまりごっこ遊びの姿を見に行った。なるほどと思う。「何?なんのよう?勝手に入ってこないで」と私は叱られた。そこにはお母さんとお姉さんがいた。私はその演劇世界に勝手に闖入してはいけなのだ、と良くわかった。ここには見えない幕が上がったり下りたりしている。だから見守るということが必要な、意味文脈もある。

そして、やはりその中で何が起きているのか、目を凝らしたくなる。

子どもも大人も「うそっこ」好き

2023/09/03

子どもは当然のごとく「うそっこ」が好きなのです。嘘っこ、というくらいですから、本当に対する嘘、なのですが、それは子どもたちにとって空気のように遊びの中で展開されています。何かしらの「本当」について、それを虚構として再現しています。だから「うそっこ」と自覚しています。その「つもり」なのです。

その再現性は、本当らしくすることを目指しているわけではありません。芸術で言えば、自然主義的リアリズムを求めて試行錯誤しているのではありません。私に言わせると、まるで劇画的であり、時にバロック的だったりします。ままごと遊びや電車遊びなど、そのらしさにハマって没頭してる時もあれば、そこから気まぐれに展開していくことを面白がっている時もあります。つまり再現されている生活や出来事そのままであるというよりも、アレンジが加わり、やっている本人が面白いと思う何かに従って展開しています。

例えば、ただのおいしい料理ではなく、手元にそれらしいものがないなら、それは構わずびっくりするような食材が入り込んだり、風邪をひいて手術をしたら死んでしまって、でも「大丈夫!お薬があるから」と、特効薬で生き返ったりします。時間と空間を自由に行き来する能舞台のように思えなくもありません。

「うそっこ」が、好きなのは大人も同じです。ギリシャ時代からわざわざ劇場を作ってきました。人間に普遍的なテーマは時代を超えて、昔からあった物語を、表現の形式を変えながら現在まで受け継がれてきています。

室町時代にできた能は、今も根強い人気がありますが、それらを例えば三島由紀夫は「そのまま現代に生かすためにシチュエーションのほうを現代化」(「近代能楽集)あとがき)して、8つの曲を創作しています。ドナルド・キーンによると昭和27年に上演された三島の「卒塔婆小町」(世阿弥が原作)は、三島の他の作品と深い関係がある「美と愛と死」がテーマであり、成功を収めたそうです。

実はその戯曲が、9月1から今日3日まで「山中湖国際演劇祭」として、ダンスと演劇で表現されました。場所は富士山を借景に設られた山中湖交流プラザの屋外劇場です。現代の夢幻を舞ったのは、クラシックバレエのトップダンサー、中村祥子と池本祥真の両氏。俳優として演劇キャストの宮川雅彦氏も熱演しました。そして、この演出と振り付けが、青木尚哉さんです。普遍的なテーマが時代を超えて、表現形式は変わっても、私たちに感動をもたらし続けているのです。

さて、こんなことを思いました。三島が数百もある謡曲を渉猟し、その中から「現代化に適するもの」は、結果的に8つしかなかったことになります。それと比較してもしょうがないのですが、子どもの「うそっこ」は、どのように子どもに選ばれているのでしょうか?

絵本などの物語の登場人物、戦いごっこ、怪獣、食事をめぐるあれこれ、乗り物、お店屋さん、買い物、お医者さん・・生活に身近なもので面白いと思うものが選ばれているわけですが、そこにどんな意味があるのか勉強中です。いろいろなことが培われていく経験になっているのは間違いないのですが。

劇遊びやごっこ遊びを発展させていく時に、子どもの即興性を大事にしたいと感じます。子どもたちの「うそっこ」の面白がり方を、じっくり鑑賞してみたくなりました。

子どもが自分を発揮できるコミュニティーへ

2023/09/02

人と人がコミュニケーションを取るときに「食事」と言うものは欠かせない環境だと思います。仲良くなりたいとき、お茶でもどう?とか、ご飯でも一緒に食べましょうか?とか、飲食は、コミュニケーションの大事なツールと言って良いでしょう。同じ釜の飯を食うという言葉だってあります。国が大事なお客様さんを招いたら、晩餐会は欠かせません。

昨日1日の夕方、保育園の屋上で、保護者コミュニティー「しずくの会」がパーティーを開いて下さいました。家族ぐるみの保護者晩餐会です。食事が済んだ子どもたちは、保育室で保護者の見守りの中、遊びました。保育園だからこそできる夕食会です。

昼間働いていて、忙しい保護者の皆さんは、お互いのことを案外知る機会がありません。同じクラスでありながら、親睦を深める機会というのが少ないのです。夕方の保育が終わった職員も数名参加して一緒に語り合いました。私も数人の保護者の方と、その子供の最近のエピソードを交えて、お互いの思いを楽しく共有しました。

そういう話をしていると、家庭での子どもの姿と保育園での子どもの姿の違いと言う話題になるときがあります。保育園で〇〇ちゃんがこうですよ、と言った話をすると、家ではそんな姿はありません、とびっくりされる時もあります。それはそうなんです。保育園と家庭では環境が違いますから。矛盾しているように見えたとしても、それぞれの姿はその子らしさを表しているはず。

私たちは、人はどんな環境に置かれていても同じような振る舞いをするはずと思い込んでいます。でも事実はそうではありません。文脈から独立した、客観的で、不動の個人と言うものはないと思ったほうがいいと思います。

ある著名な哲学者は、それを「分けられない」という意味の個人=インディビジュアル(individual)に対してinをとって「分けられる」を意味するようにディビジュアル(dividual)と名付けたそうです。それを平野啓一郎さんは「分人」という日本語訳を提案しています。私は面白いなぁと思います。

保育園が遊び込める空間になっているから、そこにあるものや、人に出会うとその世界に引き込まれ遊び始めるのでしょう。愛情と安心に溢れた親の下から離れて担任に身を委ねる時、親は一抹の寂しさを感じるものでしょう。

しかし、それは担任に対する信頼感もあるでしょうが、それ以上に保育園で味わっている世界の面白さが思い出され、未知のものが既知のものに変わっていく体験の魅惑に誘われているのかもしれません。あるいは好奇心や探究心が旺盛な子どもが保育園での遊びを希求し、そこに誘ってくれるアイコンのような意味を保育者が発信しているのかもしれません。

親や家庭には、園や先生では、決して及ぶことのできない親密な愛情の世界があり、保育園には家庭にはない仲間や遊びの面白い世界があるのでしょう。家庭でも保育園でも、その子どもにとって輝いて見える世界に差は無いのです。子どもという「分人」が、それぞれの世界から光を浴び、自分を発揮し、輝いているのでしょう。

 

子どもの成長を感じるとき

2023/09/01

園だより9月号「巻頭言」より

今朝、ある遊びを私に提案しにきた子どもたち。それがまた丁寧に真面目な顔をしているからおかしい。「ねえ、園長ライオン。運動遊びをしたい」。それが朝の9時35分だったから、もう朝のお集まりの時間だ。その様子を見ていた主任が「40分まで」、とロスタイムをくれた。そこで、私は「あと5分しか遊べないよ」というと「うん、大丈夫!」という。「え〜、ほんとかなあ。遊び出したら、もっとやる!とか言って、ちっともやめないんじゃないの」といってみた。ちょっと考えている風に見えた。私は運動ゾーンの壁の時計を指差して「今、時計の長い針が6と7の間でしょ。これが8になったら、おしまいなんだよ」と説明したら、すぐに例の遊びが始まった。ルールはみんな熟知している。

そして、あっという間に時間がきた。するとどうだろう。何も言わないのに、NちゃんやYちゃんはネットが降りて、さっさと靴下と上履きを履き、お集まりを行う二階へ向かって移動していくではないか。ほう。感心した。そういえば、今年の春、年長のクラスに進級したこの子たちは「切り替え名人になりたい」という目標を語っていたことを思い出した。それがこうやって自分達の姿になっているではないか。きっと本人たちは、そんなことを言っていたことは忘れているかもしれないが。

朝のお集まりでは、グループに分かれて座る。出席は名前を一人ひとり呼んだりはしないで、司会の当番の子どもが「赤グループさん、お休みは何人ですか?」と、など聞くと、「誰々ちゃんがお休みです」などと答えてくれる。こうして誰がどうしてお休みなのか、分かり合ってから一日が始まる。お集まりの大事な役割になっている。その相互理解がとてもスムーズになっている。

ホワイトボードに、3歳、4歳、5歳のお休みの数が、1、2、1などと書き込まれる。「ということは、今日は全部で何人のお休み?」「4人」などという会話がなされる。これは足し算。さらに幼児は3クラス合計で26人なので「すると今日は」「22人」という声が返ってくる。こちらは引き算。ゲームやクイズのような感覚で毎日繰り返される。

その後はどこで何をして遊ぶかを、子どもたちの司会進行できまっていく。年度の初めなら3つだったゾーンが、先日は「じゃあ、先生の代わりをしておくから」と4つのゾーンを開こうと決まっていた。だんだん、先生の役割がいらなくなってきた。

自分達で自分達のことを決めていく。そこには言葉はまだ拙くても、子どもなりの考えや工夫や協力が見られる。担任はそうした様子を動画とパワポにまとめて来週、ある研修会で発表することになった。その原稿を読んでいて、子どもの成長を感じて嬉しくなる。

8月の「研修」を振り返って

2023/08/31

子どもが出しているサインをどう「気づき」、どう「理解するか」。サインにどういう意味があるかが分かると、それへの対応や働きかけがより適切なものになるでしょう。サインに気づかなければ、スルーしてしまうし、気づいても、その意味がわからないと、対応や働きかけは不適切なものになるかもしれません。そして子どもは、その対応によってまた気持ちや姿が変化します。

研修は、ある動画をみて、子どものサインと介助している職員の働きかけ、そしてその結果の子どもの気持ちの変化を読み取る練習でした。サイン、対応、変化。この3つを言葉で記述します。その記述は左側にサインと対応の事実だけを書きます。右側には子どもの内面の変化についての推論を書きます。

その事例を複数の参加者で話し合いました。同じ出来事を記録した動画なのに、見る人で記述内容がまったく変わります。子どもが重度の障がいを持っている方だったので、サインも変化も読み取ることが難しい、という要素もありましたが、保育にもかなり重なるものがありました。子ども理解と環境の再構成を成り立たせる基本スキルに当たります。

この研修会は、東京都の第三者評価者向けの「フォローアップ研修」です。30、31日の二日間にわたるものでした。こういうトレーニングは保育者にも必要でしょう。専門的知識をもつことが「気づき」にも「理解」にも「対応や働きかけ」に不可欠だからです。ただ、保育はサインも対応も広く深いとはいえ、保育者のスキルアップが収斂していく方向性の一つと言えるでしょう。

 

ダンスで多様な体の動きを楽しむ

2023/08/30

保育の質を高めるためのアプローチの一つに、外部の専門家との協働があります。近所の海老原商店はアーティストの活動拠点になっていますが、そこで出会ったコンテンポラリーダンスの第一人者、青木尚哉さんのおかげで、保育にダンスを通じた活動が増えました。子どもは基本的に、体を動かすことが好きです。子どもたちが「十分に体を動かす楽しさを気持ちよさを体験し、自ら体を動かそうとする意欲が育つように」(要領・指針の「内容の取り扱い」)してあげたいと思います。

今年も7月から青木さんのダンスグループZERO(ゼロ)のメンバーが、来てくださり、全てのクラスで「多様な動きを経験する中で、体の動きを調整するようにすること」(同上)に広がりをもたらしてくれています。何よりも、私が感じるのは、プロの体の動かし方、なめらかな美しい身のこなしは、子どもたちにも伝わっていく気がします。今日は身体的なふれあいと併せて、赤ちゃんと見つめあったり、心のふれあいも楽しみました。今日のドキュメンテーションを、以下に紹介しましょう。

ちっち組(0歳児クラス)。二人のダンサー「いづみさんとももかさんの温かな関わりに心を許した様子の子どもたち。タッチしたり、どうぞをしてあげたり、ぎゅっと手を握り返したり…触れ合いを通して、心を通わせていました。」

ぐんぐん組(1歳児クラス)。「いづみさん達のダンスは決まった形や表現があるのではなく、子ども達が音楽と触れ合い、お友達や大人との関わりの中で自然と身体から溢れ出てくる表現を周りにいる人と共感しながら・・体を動かすことの楽しさを感じていけたらと思います」。

2歳児クラスのにこにこ組。「今日はいづみ先生とももか先生が来て下さり、ダンス表現遊びを楽しみました。 グーパー体操、ペンギン歩き、トンネル遊び、飛行機、お馬さん、走って抱っこ、ゴロゴロ遊びと、いろいろなメニューを楽しみました。少し緊張気味の子も、その様子を一緒に見たりしながら参加することができました。」

3歳児クラスのわいわい組の日誌には「Sくんは朝登園すると「ダンスやだ」と言っていたが、「やらなくてもいいよ、一緒にみてよう」と誘うと前向きにダンスに向かっていた。Rくん・Sさん・Lくんは「やりたくない」と初めは階段の所で見ており、その後はお部屋の中で見ている、端の方で参加してみる、と少しずつ近くで参加していた。Yくんは初めてのダンスだったが、前でやることを希望する等、積極的に参加しており、「合体トンネル」という新しい遊びを生み出した」とあります。

4歳らんらん組・5歳すいすい組の日誌。「今日は、いずみさん、ももかさんがきてくれて、らん・すいさんでダンスを楽しむ。気持ちが高揚していたのでダンスが始まる前は、わらすみんなでイス取りゲームを楽しむ。イスの取り合いでらんすいさんたちが、ヒートアップする場面もあったがリズムに合わせて存分に身体を動かせていた。ダンスでは、二人にリクエストする、らんすいさんが「マネキンやりたいー!トンネルやりたいー!」とやれる喜びを感じていた。」

子どもたちの運動はできるだけ毎日、全身的で、偏りのないバランスのとれた動きを大切にしています。ダンサーの方々との運動は、音楽やリズムも心地よく、頭から足先まで、美的なセンスも配慮した動きになっているのが子供たちにとっても魅力的なようです。

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