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園長の日記

冷えたコップの表面が濡れるのはなぜ?

2023/08/17

撮影した動画をそのまま再現すると、5月で6歳になったMさんは私にこう説明してくれました。

「氷が当たって、(コップが)冷たくなってから、それからこの水をこっちに出してきた」

「そうなんだね。こっちに水がでてきたんだね」「うん」

何の説明かというと、冷えたコップはなぜ水滴がつくのかという理由です。

事務室にある冷蔵庫の上が結露して濡れていました。触ってみたら「あ、冷たい」というので、「どうして濡れたのかなあ」ということになり、私が「じゃあ、実験してみよう」ということになったのです。

二つの同じガラスコップに水を注ぎました。室温に冷めていたポットがあったので、その水を注ぎました。

片方には氷を入れてしばらく見ていたら、そちらはコップの表面に露がつきはじめます。

「白くなってきた」と触ります。そして手が濡れたので「それ何?」と聞くと「水」と答えます。

そこで「じゃあ、どうして水が付いたのかな」と聞くと、冒頭の答えが返ってきました。

コップの中の水が出てきたと考えたようです。

大人でも普段何気なく見ていることについて「どうして?」と改めて聞かれると、チコちゃんではありませんが、どうしてだろうとわからないことだらけでしょう。

子どもも見慣れているはずの現象についても、あえて「なぜ?」「どうして?」と考えさせてみることは大事なことだろうと思います。彼女の説明に対して、私は「そうなんだね、中から出てきたんだね」と受け止めたままで終わりました。次は閉鎖された空間の中にできる結露の現象を探してみたいと思います。

王道は道草に有り

2023/08/16

以下のことと「子どもの人権」を結びつけることができるようになって、保育の基盤がさらに強固になってきたと感じます。以下のこととは、保育でよくある活動と活動のつながり、移動の途中だったりするタイミングのことなのですが、この「道草優先」にも、自分らしさの自己発揮の姿が垣間見られます。保育記録の「振り返り」にこう書いてありました。

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2階のお部屋に水遊びへ出発したけれど、部屋を出るなり、MちゃんHくんは、1階のロッカーのボタンを押してみたくて、ちょっと寄り道。Wちゃんも、探索がしたくて、2階は通り過ぎてそのまま階段登りへ。『水遊び』という活動の中にも、そこに行くまでにたくさんやってみたいことがあって、大人や年上の子どもたちに見守ってもらいながらゆっくり探索をすることができた。大人が、その日の活動(水遊び)の場所までストレートに連れて行ってしまうことは簡単だけれど、子どもたちにとっては、そこに行くまでの「道草」が楽しかったり、そこでさまざまな体験が待っていたりすると思うので、一人ひとりのやりたいことやその子のペースに合わせて過ごすことができるよう、これからも、大人同士でうまく連携をはかって、過ごしていきたい。

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こそうそう、こうでなくっちゃ!保育の王道は道草に有り、とでもいいたくなります。室内ならまだしも、たまには外でも、車や自転車を降りて、散歩してみたくなりますね。たっぷりの道草をしながら。こんなに暑いとそうもいかないし。早く秋来ないなかあ^_^

 

赤ちゃんたちの気遣い

2023/08/16

先生たちが見つけたものを、おすそ分けしてもらえるのが保育記録です。

しかも、保育記録は近年、写真入りになってきたので、その様子を先生たちや保護者のみなさんと共有しやすくなりました。

そして、私も赤ちゃん同士の関係のなかに、いろいろなものを見つけるのが楽しくなります。

みなさんにも紹介しましょう。

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今朝のかわいらしいひとコマです。
ちっち組(0歳児クラス)のLちゃんが寝転んでいると ぐんぐん組(1歳児クラス)のCちゃんがやってきました。

赤ちゃんのお人形を、Lちゃんに触らせてあげているようです。


気が付けば、Wちゃん(ちっち)や Rくん(ぐんぐん)も一緒に、みんなでLちゃんを囲みます。

Lちゃんが Cちゃんの髪の毛に手を伸ばすと… Cちゃんが「さわったー🎵」と嬉しそうな笑顔を向けて教えてくれました。

わざと顔を近付けて、触らせてあげたみたいです。
以前は、コロンと寝転んでじーっとしていた Lちゃんですが、今ではすっかり、こんなにも お友だちの顔を見ようと身体をねじったり、手を伸ばして触ってみようとしたりするようになりました。
そうして色んな反応が返ってきて、ぐんぐんさんたちも Lちゃんとの関わりが嬉しそうです。

Rくんも、なんだかあやしているような眼差しや仕草で Lちゃんと関わろうとしています。
Lちゃんに触れてみるRくんに、Cちゃんが「やさしく、やさしく。いいこいいこだよ」と これまたやさしく話しかけていました。


Cちゃんが Lちゃんの耳に触れると、Rくんもそっと耳に触れてみます。
「Lちゃんの おみみ、ちっちゃいね〜」「おみみ、ちっちゃーい」とふたりでお話して・・・

自分たちの耳にも触って、大きさを確かめています。かわいいです(笑)
最近は 大きい/小さい とか 多い/少ない の概念やその違いも気が付いたり興味を持ったりするようになってきているようです。

こんどはLちゃんの 手 に触れてみます。

Rくんが、Cちゃんに倣ってLちゃんの手を握ろうとすると、Cちゃんがまた「やさしくっ(触ってね)」と教えてくれます。小さいお母さんのようです😂

それから Cちゃん、Rくんの手と自分の手を合わせて

「Rくんのおてて、大きいでしょ。」

つぎに、Lちゃんの手に触れて、

「Lちゃんのおてて、小さいでしょ。」

Lちゃん、ふたりの顔を交互にきょろきょろと見回し、かと思えば じっと見つめて…CちゃんとRくんとの触れ合いを全身で感じているようでした。

すごいなあと思ったのは、Lちゃんに玩具を差し出した Cちゃんが、Lちゃんと視線を合わせて「いる?…いるっ?」と問いかけていた姿です。

 

一見、なんということもない場面にも思えるのですが、こんな小さなお友だちにも、しっかりと気持ちを聞きとろうとして やりとりしてみるその眼差しに、感動します。

Lちゃんはお返事こそまだしないものの、
“自分があげたいから” “自分がやってみたいから”という気持ちの前に、まず相手の意志を聞いてみようとする姿は、大人も子どもも関係なく、見習いたいところです。どんな小さな赤ちゃんも、しっかりと自分の意志を持っています。それを、こうして 子どもたち自身が身を持って示してくれているような気さえします。

Lちゃんには、一つひとつの言葉以上に、やさしく話しかけてもらったり 一緒にふれあってもらったりした あたたかな感覚が きっと伝わっているのではないかなぁ。。

同じくらいのお友だちとは自分の気持ちをぶつけ合ってケンカすることもあるぐんぐんさんたちですが(その姿もまた大切な育ちです!)、こうやって、小さなお友だちに触れて、そっと大切に やさしく関わろうとする姿を見ていると、それぞれの相手との関係性やふるまいを、自分たちなりに考えているんだろうなぁと感じます。頼もしいお兄さんお姉さんたちです。

人を変えてしまう環境、孤島化する情報

2023/08/15

私の父はラバウル小唄をよく歌っていました。南十字星というのを知ったは、その歌からでした。ガダルカナル海戦やミッドウェー海戦の話もよく聞きました。海軍だったのです。飢えたとき、なんでも食べたといいます。「環境」は人をひどく変えます。戦時という状況は、人を逆らえなくさせてしまいます。非国民や卑怯者と言うレッテルを容赦なく突きつけられるからです。それに抵抗するのは想像を絶する、とんでもなく強靭な意志が必要でしょう。大抵の人は無理だと思います。

漫画「はだしのゲン」を中国語に訳した女性が、テレビに出ていました。その方のお父さんは先の戦争で、無辜の母子を機関銃であやめてしまったと晩年の手紙に悔やみ切れない思いを書き残していたそうです。漫画に出てくる反戦を貫く中岡元の父親の姿と比べてしまったといいます。何がちがったのかと。

私は自分の父親に、どうして戦争に行ったのかと聞いたことありません。そんなことは思いつきもしませんでした。徴兵令状を拒むなどと言う選択肢はありえない状況だったことが大前提になっているからです。戦争に行った父もその話を聞いている子どもの私も。過去の歴史についてと果てしない解釈論争に巻き込まれると、繰り返さないために必要な未来に向けた思考へのエネルギーと時間を奪われかねません。ただその論争は今も国際政治の力学として働き続けているわけですが。

毎年同じように繰り返されるニュースも、アハ体験の動画のように、少しずつ「環境」が変化しているのかもしれません。あるとき、びっくりするような変化に気づくように。現在進行形の異常気象と少子化のように。そして、ソーシャルメディアを覗くと「それ本当だったら大変なことだ」と思うような内容がてんこ盛りの状態なのですが、ほとんどが素通りされているように見えます。

発信する側も、受け取る側も、多様な意見や表現がおおらかに、冷静に語られる議論生成の環境の重要性にもっと気づいた方がよさそう。コミニュケーションの好みも多様化していますが、どうも没交渉的に棲み分けられていて、生産的な交じり合いが起きていないような気がしますが。

思考や心情の過程にブラックボックスができる気持ち悪さ

2023/08/13

ご先祖様に、手を合わせながら、こんなことを考えてしまいました。

どんな仕掛けでそうなるのか、もはやわからない物だらけなので、こんな話をしても「何を今さら」と言われかねないのですが、でもできるだけ私は自分が自分で考えて結論を出したという「理路」だけは、できるだけはっきりさせておきたいと思っています。でないと、自分が言ったことに責任を持てないからです。と言ったところで大した責任は持っていないんですけどね。

何のことかというと、生成AIのことです。よく使いこなしている人は、これから言うことは、「卒業」しているのかもしれませんが、私はまだちゃんと入門もしていないので、こんなことを考えてしまします。私は自分ができるだけ自由でありたいと思っているのですが、自分で考えていることくらい、自分で意識してやっていると思いたい、と言うのも、そう思えないと自分が自由である気がしないからです。特にアートと保育の関係、子ども理解と保育者の関係などで。

生成AIが辞書や辞典だったらいいのですが、なぜそういう表現になったのかのプロセスが「見えない」場合や、表現自体をうむプロセスそのものに、価値がある創造的行為があるときは、あれを遠ざけるのではないか、というか使いたくないというか、使えないだろうと思うのです。

例えば、詩や俳句、和歌など特に個人の心情を表すものは、その生み出されていく過程がたまらなく楽しいからです。どんな言葉や表現にしようかと呻吟しているあの時間。そしてこれはどうか!と内から「湧き起こってくる言葉」のあの過程。そこに他者が割り込んでくることは考えられない。と言うか、そうなったらもう自分のものじゃない、という感覚があります。

たとえば男女の問答である和歌や返歌の間に生成AIが入ってくるなんて言う事は考えられない。あくまでも例えですけれど。

なぜなら、別に正解があるわけでも、評価されることを前提にその眼差しに合わせるわけでもないから、自分と世界の関係を表す唯一の、生きている時間がそこにあるわけです。

私が生成AIを自分の分身と思えるのなら、辛うじて共作者として認めてあげてもいいが、それはもはや私の表現ではないでしょう。あるいは優秀な助手というか、出しゃばらないアシスタントぐらいの感じでいてくれるのなら、許せるのかもしれません。作品自体を問題にするなら、それは結構です。坂本龍一らしいこんな曲を作れと指示して出てくる曲もあるでしょう。ピカソのこれこれとか、まあありうる話なのかもしれません。

それと同じように子どもの姿のデータから、環境の再構成案も出てくるようにのでしょう。そうなったら保育士の役割はどうなるのか。そこで思うのは先ほどの「自分と世界との唯一無二の関係を生きる」ことの意味です。子どもと保育者が暗黙にも公然にも交わす気持ちの、それぞれの「かけがえのなさ」を、保育の中でどう価値づけしておくか。それはどんな他者にも置き換えることのできない保育のプロセスの質だと、言い切れるようにしておくことは可能かどうか。

私は可能だと思います。だから生成AIがどんなに保育に入ってきても、内面の気持ちや心情は置き換えることができないのですから、そこを大切に守るためにサポートする道具になってくれたらと思います。でも、ある種の効率性が待ってくれないで割り込んでくる可能性はあります。出しゃばらないアシスタントでいてくれるかどうか。それに負けない人間性や内面が問われるのかもしれません。つまり、心。

 

戦争を回避する戦略へ

2023/08/12

私は長崎で生まれ育ったので小学校は8月9日は登校日でした。ウランと併せてプルトニウムのことも調べたことがあります。毎年8月15日が近くなると第二次世界大戦のことが話題になります。アフリカのウラン鉱をドイツも入手していたことを知ったアメリカがマンハッタン計画を急ぐことになるわけですが、その裏舞台の一面、ウランの採掘会社が残した膨大な記録に基づくドキュメンタリーを興味深くみました。78年経っても、まだ知られていなかったことが出てきます。

こういうのを見ると、戦争は台風が発生する仕組みに似ていると思います。発生しやすい条件があるのです。一旦発生してしまったら、その台風の目に向かって、あらゆるものが吸い込まれていきます。ウランの採掘会社のアメリカへの売り込みも「まさか原爆に」となるとは思っていなかったようです。とにかく、始まらないようにしなければなりません。

人類の進化の過程のどこかで、協力してやっていくことを覚えたのに、こうも「戦争」がやまないのは矛盾にみえます。主要因はやはり人間性よりも「仕組み」や「環境」のほうでしょうか。たとえばナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスについて、その秘書は「彼は普通の人だった」と言う証言をしています(映画もありますが)。戦争の構造や特性があり、再現させない方法があるはずなのです。

また失敗の科学からみると戦争が起きるととを「失敗」とは捉えてないように見えます。戦争を起こさないことを成功とするなら、その成立要因を少なくしていくこと、無効化していくための戦略とPDCAが弱いかもしれません。資源も経済的な格差も要因です。EUはその反省から生まれたのですが、日本はせめて東アジアに信頼されるエリアを作り出す役割があっただろうに、とジャック・アタリは悔やんでいます。

現実は抑止論を軸としたもの。攻めてくるやつがいる限り守る必要がある。力が均衡するから抑制されるという意外と単純な構造です。でも相手のいることですから、一国の話では無理です。これを相手の利害動機を相互に第3項へ止揚させる仕組みができないだろうか。それは壮大な国益の無駄だと悟る仕組みが。国連の力を構造的にもっと強化するべきなのでしょうが、それも至難の業でしょう。そこに繋がる具体的な戦略がもっと提案されてもいいだろうけれど。

山と人生

2023/08/11

山のことを考えていたら、なんとなく「人生の目的」について書きたいなってしまった。なんて野暮なことを。どこにそんな親和性があるのか知らないが、どうも山の彼方ではないが、その山の向かうとか、山河とか人生を投影させたくなるものが山なんでしょう。

誰もそんなことを考えるのが「山の日」でもなんでもないのでしょうが、考えさせておいて、眺めてみても登ってみても答えなんかないことを、思わせぶりにそれとなく気にさせているのが「山」というのもなんでしょう。いつ頃からだろう。そんなことで悩むようになったのは。悩むことと、考えることは違うのに、そこも混同させてしまうあたりに、山のもつ悩ましい変幻性が潜むのですね。

人生に所与の目的なんてなりありません。そうはっきりわかってから、本当に自由に生きようと思えるようになるわけですが、意味もないとまではいいませんが、ただそれも突き詰めれば虚構だと心得ておいた方がいいでしょう。だからこそ愛や探究が人生を超えた意味を創造する逆説的な面白さが展開されているでしょう。それにしても、なんとややこしい人生でしょう。時々はまんざらでもないとは思いますがね。

でも宇宙は完全な無でもよかったものを、なぜか存在してしまった。そこに意図や目的がありようがない。不思議でしょうがないが、そこに過剰な意味を押し付け合うのだけは、ごめん被りたいものです。存在してしまった者同士、せめてお互いに傷つけあったりすることなく、助けあってやっていきたいものです。

子ども集団の多様性を就学後へのつなぐには

2023/08/10

研修会で考えたことの続きです。就学前と就学後では「子ども文化」がどう変容するのだろう? この夏休みになると卒園児がボランティアに来ています。今週も数人が活動しています。子どもへのかかわりがとても上手です。それこそ見守り上手、援助上手といっていいでしょう。

それと併せて、月曜のGTサミットで語られた、卒園児の保護者である渡邊さんの話も思い出します。「小学校入りたての頃は学校の先生がたは、色々な意見を言うので面倒な子たちだと思っていたみたいですが(笑)、少し経つと言わなくても自分たちで考えてやっていく子どもたちだと見方が変わっていくんです」。

ギビングツリーのメンバーはデュディス・リッチ・ハリスの考えも学んできました。彼女がいう意味で、私たちは子ども集団は、子どもの社会化の主たる要因だと考えているのですが、そこを大事にしたときに、卒園後に学校に適応できる場合と、そうでない場合があるのはどうしてでしょうか。子ども文化の多様性が失われてきている可能性はないでしょうか?というのも、次のようなことが考えられないかと思うからです。

子どもが主役というときに(こども家庭庁は、それを「こども真ん中社会」と呼んでいますが)、就学前と就学後にはある種の多様性の幅が変わってしまうのかもしれません。園生活は子ども集団の中で、誰もが主役になれるような価値の多様性、優劣の多様性が異年齢生活のなかにはあるような気がします。

子どもは、だれもがその関係を嗅ぎ分けて、その関係のなかで自分らしさを発揮できること、見つけること、選ぶことができるようにしています。興味や関心が赴く先や、安心していられる居場所がそれぞれに選べるのからです。いわば生活空間がオープンであり、安心できたり、物事を探求したりできる空間と友達関係が開かれている、という言い方ができることかもしれません。

それに対して、学年やクラス、学習内容や学習方法の枠組や方向性がある程度はっきりしている学校の空間のなかでは、子どもによってはそこに馴染めにくい要素があるのかもしれません。その要素の一つは子ども集団のなかに、その子の主体性を発揮できる関係の多様性があるか、といった視点で見ることができるかもしれません。たしかに勉強を中心に秩序づけられている生活に比べて、もしかすると人間関係や子ども文化といったことが、狭くなるのかもしれません。

園生活には子どもの間だけで通じ合う表現や自慢の遊び方があったり、誰にも負けないゲーム、今度こそ食事の配膳で自分が一番に並ぼうと思えばそうできる見通し、悪ふざけができる空間、一人でぼんやりと外を眺めていられる場所、多少羽目を外しても許される空気、甘えを肯定的に受け入れてもらえる先生の存在。そうした子どもなりの戦略や子どもたちがつくり出す習慣や隠し事なども、許容されているという面があるのでしょう。

園児たちは自分と同じくらいか、ちょっと歳がうえで自分にはできなそうな、でも魅力的と思えるものをどんどん模倣して自分のものにしていきます。その影響力は大きく、親も先生も教えていないし身の覚えのないことも、子どもがやっていることから学んでいることが結構あります。たとえば昨日の1歳児クラスのブログには2歳児クラスで遊んでいる3人の様子が描かれていますね。3歳のお兄さんがマグネットでつながる電車をつなぎかたを見せてあげているのをみて、別の1歳児もレール遊びに加わっていく様子が描かれています。

また幼児のブログにはこんなことが書かれています。

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今朝のちょっとほっこりしたエピソードです。
わいわい組(3歳児)のKくんが、『おしりたんてい』の本を読んでよ〜と大人のところに持ってきたのですが、そのタイミングに、ほかのことで手が離せなかったので、「ちょっと待っててね。。」と言うと…
そばにいた らんらん組(4歳児)のMくんが「ぼくが読んであげようか?」と、頼もしいひとこと。
Kくんも、「うん」と嬉しそうです。

その後のやりとり・・・

Mくん「でも、あんまり読めないかもしれないな〜。」

Kくん「じゃあ、読めるとこだけで大丈夫だよ。」

そうして、仲良く本を読み始めたのでした。

ふたりの、お互いを思いやる かわいらしい会話にほっこりした朝でした。

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こういうことは小学校でももう少し「あり」だと思うのです。学童では実際にあるでしょう。子ども集団のもつ力ということを考えてしまいます。

 

新しい共同保育の形を模索

2023/08/09

昨日までの研修会で、次のようなテーマが話題になりました。当園の保護者の方はよくご存じだと思いますが、入園案内のときに保育園は社会的親の役割があるという話をさせてもらっていますよね。近年の人類学によると「人類の子育ては村で担い合っていた」という、あの話です。いまでいう核家族が空間的に離れた場所で独立して子育てはしてこなかった、せめて大家族、ほとんどは家族が集まって村単位で子どもを育て合っていた」という、例の話です。保育園は現代版の子育ての共同体ですね、というあの話です。もっと知りたいという方には、ジャレド・ダイヤモンドの「昨日までの世界」の一節をコピーしてみてもらったり、山極寿一さんと探検家、関野吉晴さんの対談の動画を見てもらったりしてきました。

ダイヤモンドはその本のなかで「アロペアレンティング」といい、山極さんは「共同保育」と言っていますが、生物学的親だけで子育てを担うということをホモ・サピエンスはしてこなかったといいます。またある研究者は「一人の子どもがよく育つには村中の人が必要」という、ことわざがアフリカにあるという話を紹介していました。私たちは核家族で子育てをするのが当たまえと思っているところがあります。そう思うのはこの時代の中に生きているからで、長い歴史の尺度に照らし合わせると、変わった子育てをしているのは今の方なのかもしれないと思うことがよくあります。

どんなときにそう思うかというと、保育園が共同保育の場だからこそ、子ども同士の関係に子どもの育ちを見出すときや、私たちの身体の特徴と環境のずれを感じるときです。産前産後のオキシトシンの変化に伴う夫婦間の感情変化や、ワンオペと子育ての孤立感や負担感の関係、増加に歯止めのかからない児童虐待の問題、食事から睡眠まで一日の生活リズムの中での母親の役割など、それらの話題に触れるたびに、共同保育をとりもどしたくなるのです。

最近では就学後の学びを支え合うネットワークも、それに似た新しい言葉が必要だろうと感じます。いわば「共同教育」というようなものです。でも言葉を変えたい。学校、学童、塾、社会教育などが有機的につながるフィールドとしての「新しい村」のようなものとセットで。もちろんAIや仮想空間なども含めて。今後の新しい学校とは、きっとそういうものに変わっていくでしょう。行政の縦割りももっと大胆につながらないと、個々の仕組みがもたらす作用線が分断あるいは断片化されているように感じます。めざず方向性はみえています。子どものいる場を起点に、その場にすでにある仕組みをつなぎ重ね合わせてみたい。もちろん課題となる壁もとてつもなく硬く厚いけれども。

卒園児の親が保育の質を語る(GTサミット)

2023/08/08

保育の質と環境の関係について、実践探求を深めている保育環境研究所ギビングツリー(代表=藤森平司・新宿せいが子ども園園長、略称GT)は、8月7日8日の二日間にわたり 園長らが集うGTサミットを新宿・高田馬場で開きました。約60名が久しぶりに会場に集い、約30人がオンラインで交流を深めました。初日は「保育園を考える親の会」代表の渡邊寛子さんから「見守る保育で育った子どもたちのその後」について話をしていただきました。

渡邊さんは、3人のお子さんが新宿せいが子ども園育ち。こども家庭庁の会議のメンバーでもあり、某市の保育園民間移管の選定委員をされています。自分の子どもたちがどう育ったか、卒園後の小学校以降の様子や、多くの保育園を視察した経験をもとに、保育の実例を踏まえながら保育の質について語ってくださいました。

GTは全国に多くのメンバーがいて、各地域で公開保育や勉強会、養成校との連携活動などをしてきました。二日目は全国各地の先生たちから、それぞれの園や地域でおこなっている活動報告です。鹿児島、富山・石川、長崎、東京からの報告のほか、藤森メソッドあるいや見守るアプローチなどの名称で中国、シンガポールなどから注目されている様子、視察交流も報告されました。

台風の影響で九州からの参加が影響を受けましたが、実際に会って話し合うことで、真摯に取り組んでいる各地の熱気を感じることができるものになりました。

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