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園長の日記

焦点化が起きることをめぐって

2023/03/05

そうか「焦点化」がキーワードだったんだ! 少し前に改めてそのことを考え始めました。何かにフォーカスを当てること。ある地点に着眼点を当てること。注意を向けることと同じだろうか? 人の意識は何かに注意のカーソルを当てることで、世界のありようが立ち上がってくる。その前の段階は朦朧としているということ?不明瞭で不確かで何がなんだか分からないという状態? そのような状態のままだとどうなるのだろうか? きっとそのようなまま、ということはなくて、世界は動き、変化するので、きっと向こうから、外側から何かがやってくるのだろう。子どもにとって、その何かが迫ってくる感覚は、わけのわからないものだから「不安」になってしまうのだ。そう考えていいんだと、教わりました。

その不安な状態の中から、子どもはそれなら知っている!というわかるもの、わかりやすいものが見つかると、それを手がかりに(心がかりに!?)して、それを引き寄せようとするらしい。きっとそれが主体側から「かかわり」というものが形になる最初のアクションなんだろう。それが焦点化だった。そう言っていいものだったという。

そうか、私は言葉と意識が常に一致していないという不一致感があることが当たり前だと思って生きてきました。それは当たり前のことだったのかもしれません。生のいきさつを、とりあえず受精から考えても、個体が誕生するまでの成長は能動的とも受動的とも、分けることは難しいので、きっとこの「焦点を何かに当てる」という最初のことも、環境との相互作用として発現したものとしか言いようがない、ということが真相なのでしょう。真相、というか、私が今持っている概念でパズルのように辻褄合う意味を生み出す言葉の配列としてはそうなる、ということです。

きっと、現代の発達論は、私たちが思い込んでいる概念そのものの変更を要請されながら、生命の動向を捉えようとしているのだ、ということはわかる気がします。それにしても、事実として起きていることを、既存の言葉で説明し尽くすことが出来にくいほど、明白な事実を語ることが難しいのかもしれません。しかし、だからこそ、哲学が大切な時代になっていることも、世界を表現する表象体系のありようを検討し直すことも欠かせないのだろうと、ぼんやりと察知できます。本当に「ぼんやりと」なので、困ったものです。(ぼんやりだから、本当には困ってないんだろうな)

ひなまつり

2023/03/03

♪ お内裏様とお雛様、二人並んですまし顔・・今日は楽しいひな祭り〜

2月中旬ぐらいからずっと歌っているひな祭りの歌『うれしいひなまつり』ですが、男女がくっきりと分かれているものを扱うとき、LGBTQも考えながら、どこに配慮が隠れているのか、歌詞も吟味しながらという時代になりました。お嫁に行くとか、三人官女とかジェンダー的役割分担がそこにはあるのですが、それでも歌わないと、知らないということになってしまいかねないので歌います。

ひな壇を飾ると、そこに込められた親の子どもへの健やかな成長への願いが詰まっていることがわかります。紅白のまんじゅうの意味や、菱餅の3色の意味、ひなあられの4色が季節を表していることなど、子どもたちに説明します。

子どもから大人への成長は、変化です。その変化は生物学的なものと社会心理学的なものと、一旦分けて捉えられてきましたが、現代の発達科学はそうは考えていないようです。お互いに影響しあって変化していくものとなっています。それは調べれば調べるほど、複雑な仕組みになっているようで、それを理解するのも一苦労です。子どもの発達について、だいたいこういうことに配慮しながらやっていきましょうということがあって、その最低限のところは、強調していくことになります。

 

なが〜い、もの。新奇なもの好き。

2023/03/02

1センチ四方ぐらいの小さいパズルのコマを、一列に長く繋いで遊んでいます。パチパチと繋いでいろんな形のものを作ることを楽しんでいるのですが、こうやって、ただひたすら長くすることが面白いという時があります。

こういう新奇性への興味は、子どもに強く感じるときがあります。大人になると何かと常識的なもの、ある種の枠のようなものが強くなってしまうのですが、子どもは時々、思いもよらぬものを作り上げたりします。人が驚くようなもの。

ある種のはみ出したがるような傾向。奇抜で「かぶく」(歌舞伎の元になった)ような要素。カイヨワの分類なら眩暈に近いもの。・・・?どんな意味があると言えるのでしょうか?

アゲハにとってのみかんの葉っぱ

2023/03/01

私たちが一生の間に身につけた「資質・能力」は、子孫に受け継がれることはありません。親がダンスや英語が上手くなっても子どもはゼロから始めるしかありません。個人が経験から獲得した「形質」が、子どもに遺伝することはありません。アゲハが柑橘系の葉っぱを食べるようになったのは、長い「進化」の過程で得たものであり、個体が訓練や鍛錬でそうなったわけでありません。それと同じ自然原理が人間にも働いているわけですが、たかだか人の個人の一生の間に学んで身につくものが、どれほどのものかと考えれば、大したことをやっているようには思えなくなります。それでも人間の作り出したものの影響はとても大きいので、その人間が作り出した環境をどうするかを考えてよりよくしていく(たぶんより大胆に変えていく)ことが必要になりました。

せっかくアゲハの話をしているので、そちらの話を先にしておきますが、進化のほとんどは結果論ですから、たまたま変異した個体がその環境にあったからその世代が生き残り、次の世代を残すことができた、ということの偶然の積み重ねでしかありません。昔話風にいうと、昔々、ある植物が美味しい葉っぱをもつようになった頃、その葉っぱを食べる青虫(芋虫)がやってきてむしゃむしゃ食べました。葉っぱを食べられて困っていたその植物は、その子孫の中に、アルカロイドという毒を葉っぱを持つ子どもが生まれました。葉っぱはまずいし、食べると気持ちが悪くなるので、青虫に食べられずに済みました。

ところが今度は、青虫の子孫の方に、その毒を解毒できるものが現れました。突然変異でたまたまです。キャベツの中のカラシ油の仲間のアルカロイドを分解できる青虫が、モンシロチョウです。アゲハはみかんやゆずなどの柑橘系の毒を分解できるのです。でもニンジンやパセリの葉のアルカロイドは分解できませんから食べません。ところが面白いことに、キアゲハは解毒できるから、ニンジンやパセリの葉っぱを食べるんです。こうやって、食うか食われるかの生存競争の中で、バランスをとっているのが自然の生態系ということになります。

ところで、私はあまりお酒が飲めません。人はアルコールを飲むと、アセトアルデヒドという物質ができて気持ち悪くなるのですが、それを分解する酵素を持っている人と持っていない人いるのです。お酒を飲んだ翌朝のおしっこに特有の匂いがあるのをお気づきでしょうか。あれがアセトアルデヒドです。お酒に強い人というのはその分解酵素を持っている人です。私は少ないのでしょう、お酒はあまり飲めません。お酒を飲む練習しても強くなったりしません。

そこでやっと本題ですが、人間が作り出した文化や文明の影響がとても大きいので、それに適応して生きていくために教育が必要になりました。親がいろんな知識やスキルを持っても、子どもに受け継がせることはできないのです。他者と支え合って生きていくために、より良い社会を作り出していくための力の基礎。保育はこれを育もうということなのです。

 

環境の違い(ゆらぎ)から生じる発達の差

2023/02/28

(園だより3月号 巻頭言より)

みかんの木を玄関用意することにしました。開園してまる4年間、毎年のようにアゲハが飛んできてみかんの葉っぱに卵を産んでくれるからです。ただ、そのみかんの木の葉っぱが丸裸になってしまい、みかんの木そのものが枯れてしまいそうなので、新しく植えることにしたのです。

ところで、なぜアゲハがみかんの木を見つけることができるのでしょうか。そんなことを考え出すと、なんでも不思議に思えてくるものです。ある種の蛾の仲間は、止まった場所によってその体を葉の色や花の色に変えてしまいます。保育園でもそれを観察してことがあります。摂取する葉のタンニンの微妙な量の差でそうなるそうです。昆虫がこんな「能力」を持っているように見えるのは、昆虫のその「個体」に全てが備わっているというよりも、植物を含めた周りの環境との関係からその「能力」が発現された、と見ることもできます。

これと似たようはことが人間にもたくさんあります。種類は違いますが、大人の顔を真似する新生児模倣とか、周りの子どもの喜びや恐れなどの感情が感染することとか、相手に同情したり公平感を求めたりすることも、子どもの周りに愛情豊かな人がいることや、心を通わせてきた子ども同士の関係があるからこそ、その場に現れた「能力」なのかもしれません。そうした人的な環境がなければ、そうした表情や、感情や行動は生じないでしょう。そうした具体例が、保育園生活を描いている日々のブログの中に、担任が丁寧に拾い上げて詳しく描写しています。

それらの子どもの姿が、一過性のものに終わらずに、しっかりと一人ひとりの育ちとなっていくために、毎日の地味な繰り返しこそが大事なのでしょう。ことさら大人の気を引くプロジェクトやら活動やら豪華な施設や設備が必要だとは思えません。あまり気にもされないような、それでも子ども本人にとっては、新鮮な刺激を受け、その中から興味をくすぐられ、対象に積極的にかかわろうとして、その世界との関係を深めていこうとしています。

保育園は私たち発達科学の知見を重視します。小さいうちに、子ども同士のかかわりの中での経験の差が、その後の発達の差となってしまうものがあるかもしれないという意識を持って保育をしています。その大まかなイメージとして、ウォディントンが提唱したキャナリゼーション(運河化)を思い出すと、ちょっとドキッとします。彼は、発生を運河の坂道を転げ落ちる球になぞらえました。京都大学の明和政子さんも『ヒトの発達の謎を解くー胎児期から人類の未来まで』(ちくま新書)の中で、この図を使って説明していました。

様々な遺伝子によって下からひっぱられた道は決して平らではなく、山あり谷ありです。安定した場所なら多少の外的擾乱やゲノムの変化が加わっても経路は乱れません。しかし分水嶺に達した時は、わずかな揺らぎが大きく進路を変えます。例えば遺伝子が3%変わったからといって表現型が常に3%変わるわけではありません。しかしゼロの時もあれば50%の時もあるわけです。

その分水嶺にあたるものが、何なのか? その時期に大切にしたいもの、特に敏感期や臨界期というものを、私たちは学びながら保育に生かしていきたいと考えています。

保育の何に「物語」が必要なのか?

2023/02/26

(写真はぐんぐん組=1歳児クラスの子=満2歳の子が、幼児のごっこゾーンを訪問したときの自由遊び)

人は何かの意味を食べて生きているんだな、と思うことが確かにあります。人と話していて「おち」を期待して「で、どうしたの?」と聞きたくなることってありますよね。それは現代人がウケ狙いの会話に慣れすぎているかもしれません。面白い話をする人ってみんな好きだし、ジョークやユーモアは人間関係の必須アイテムになっていますから。みんなエンタメが大好きですから。

人類はエンタメ好きだとしたら、生存に直結もする男女の話や食べ物の話になるのは当たり前で、その中に伝えなくちゃ!と意味があるものは、物語にしたほうが覚えやすくて伝わりやすいのでしょう。昔々〜こうだったんだよと。ホメーロスだってそうやったんだろうということでしょう。物語は記憶方法、伝達方法でもあるでしょうね。

昨日の成長展は子どもの育ちのプロセスを展示したかったのですが、子どもの育ちにそこに大きなストーリーを見出したかったわけではないのですが、エピソードはたくさん詰まってます。そこに小さな物語を見出すことは可能です。植物や動物の成長に、それぞれ物語を見出す語りはあまり聞きません。台風によく耐えたな、この稲は、のようなことはあり得ますが。そう考えると、人間の育ちには物語性が色濃く着色しやすいのは、表象の中を生きているからなのでしょうか。

明日から実習生がくるのですが、コロナで遅れて挽回のタイミング。実習日誌はエピソードを重視するようになって、そこを考察させる様式に変わってきています。保育に<物語の落とし穴>があるのかないのか知りませんが、わかりにいい話は要注意。学生が気にある場面がパターン化しているのも、どう保育を考えているのかこちらが気になります。

それよりも、面白いのは「そういうことだったんだ」という気づき。あるいは子ども同士が見せてくれる姿から見えてくるもの。伝わってくるもの。その動き。それを読み取ったり、その成り行きを想像したりすることが楽しい。そこにこちらも「じゃあ、こうしてみるかな」という、将棋のような指し手の暗黙の会話に似たようなものがあります。今の子どもの姿とその先行きの想像との間にあるもの。先生たちの書くブログを読んでいると、そのあたりを「どうなるかな」と期待して動いていることがわかります。

子どもの育ちのプロセスや軌跡を物語ることはあっても、何かショートストーリーになってもいいのですが、それは読み手にお任せしたい。アルバムに相当する記録は作るけど、その意味の連鎖の解読は、それぞれに関わっている主体に任せたい。それを話して聞かせてもらうほうが楽しい。本人も後でそれを見てどう思うか。それを束ねれば物語と読んでもいいけれども。あえてそうは呼びたくない。後になって、その時代の風潮のようなものだったことに漂白されなたくないから。

成長展 子どもの育ちを作品にする工夫

2023/02/25

今日25日、第4回成長展(令和4年度)を開催しました。保育園の中を展示会場にして、1年間の「子どもの育ち」を展示したものです。育ちを展示するって?どういうこと?・・きっとそう思われると思います。でも、今日見ていただいた方には、その意味がおわかりいただけたのではないでしょうか。

子どもが描いたり作ったりしたものを「作品」として展示するのはよくあると思いますが、当園の展示は、子どもが描いたり作ったり遊んだりした結果や過程の変化を展示するのです。

成長のアルバムは、0歳児クラスだけですが、写真を使ったドキュメンテーションになっています。

展示の見せ方は教育の五領域です。健康、人間関係、環境、言葉、表現の五領域です。1年間の中であらかじめ同じ活動を数回実施して、その変化をたどります。するとその変化の中に育ちが見えてくるのです。

例えば「言葉」では、シルエット表現という手法を使います。人間、家、自動車、犬などの影絵(シルエット)を白画用紙の上で動かしてお話をしてもらいます。

例えば3歳児(わいわい組)のある子どもは、7月は犬や家の向きがバラバラで「(右下のは)ぼくたちのおうちで(右上のは)ワンちゃんのおうち。これはわんちゃんで、これもわんちゃんで、これはばすで、ぼくとぱぱとままがかえってきた」という話。

それが3回目の11月になるとシルエットは天地がはっきりして地面らしきものが意識されているのか横に並び「みんなでぼうけんにいって、おうちにかえって またおそとにいって わんちゃんたちがついてきて それでおおさかにいった」と変化します。1歳児クラスから年長まで年齢ごとにその変化は大きく、言葉遣いの発達もよくわかります。

このような一人ずつの変化を、同じテーマで並べると、今度は個性が際立ちます。一人ずつのその子らしさが一眼でわかるようになるのです。

名前を伏せてクイズにしてあるので、親御さんは、うちの子はどれかしら?と探して当てていくのですが、単語や言葉遣い、言いそうな話題などから、たいてい当ててしまいます。「わんちゃんとか言わないで犬(笑)きっとこれだ!」というように。このお父さんは一回で正解でした。

シルエットの他に、「自由画」も名前を当ててもらうクイズにします。何を描くかで、その子らしさが現れます。

そのほか、人物画とぬりえも年に3回4か月ごとに描いて、その変化を展示します。人物画はその子どもの家族やお友達、先生との関係が現れます。私も「えんちょうライオン」と呼ばれているので、その名前で登場しています。

ぬりえは、「まる・さんかく・しかく」に対する塗り方、りんごとバナナへの色づかい、子ども二人(男の子と女の子らしいイラストは、今後変える予定)への描き方の違いが現れます。1年間の中での変化というよりも、5年間の変化をみると、それぞれの変化を辿ることができます。

この領域「表現」のように描かれたもの、領域「言葉」のように語ったりしたものの他に、領域「環境」では、好きな遊びや好きなおもちゃ、好きな公園などをクイズにしました。

また「人間関係」では友達の広がりを、親御さんに同じクラスの子どもの名前を当ててもらうことで知ってもらいました。

その他、健康は身長、体重、手形、足形を当ててもらいます。身長は1年間で何センチ伸びたか。体重は何キロ大きくなったか、を当ててもらうのです。

重さをペットボトルを持って実感してもらいました。「2キロってこんなにあるんだ!」

子どものトータルな育ちは、先生からのメッセージとして描いています。これも誰のことか、当ててもらうクイズです。

ちなみに、毎月の誕生日会は、子どもがとくに好きな料理にしました。

その誕生日会メニューや、季節の行事食も、その時の様子を写真にまとめたものを展示しました。

また、昨年の秋から給食の調味料(砂糖・塩・味噌・醤油・こんぶ・鰹節など)は全て自然栽培か良質なオーガニックに替えました。その実物を展示しました。

給食で出したメニューの中で、人気のレシピも提供しています。

ぜひご利用ください。

子どもに最も大切な「睡眠」をプレゼントをしよう

2023/02/24

最近、急激に変わった環境(夜も電気がついて明るく、テレビやスマホで、寝る直前まで光を浴び続けている生活など)に、私たちの睡眠サイクルの異変を含む生活リズムに変調をきたし、子どもたちの心身に大きな影響を与えているようです。オキシトシン、セレトニン、メラトニンなどホルモンの産生バランスも崩れて、午前中に元気よく遊びに入れない状態になりやすくなります。遊び込めないですぐに空きてしまう、理由もなく機嫌が悪い、ちょっとしたことでイライラしてしまう、午前中にぼーっとしてやる気が出ない、夜ふかしになってしまう。そうした傾向は、生まれた後の経験の結果かもしれません。そうした傾向は、毎日の生活習慣を変えることで、軽減される結果が明らかになっていることなので、私たちはそこを警戒しています。

そんな話はどこかで聞いたことはある、でも現実はそうも行かないから、あまり大したことはないだろう、という大人の意識が、子どもたちの心身に悪影響を与えているかもしれません。「その危機感の希薄さがとても気になります」というのが、当園の園医さん「瀬川小児神経学クリニック」の院長、星野恭子先生です。

http://www.hayaoki.jp/index.cfm

星野先生は「子どもの早起きをすすめる会」の代表でもあります。日本人の睡眠の質の悪さは有名だそうで、国際比較でもそうなっているようなのですが、それが子どもの生活リズムにも影響しているといいます。これは結構、由々しき事態かもしれないのです。小児神経学の世界では、睡眠と発達(障がい)の関係を詳しく調べています。しかしいくら政府(文部科学省)が「早寝早起き朝ごはん」運動を通じて、睡眠の質の大切さを訴え続けていても、夜遅くまでの塾通いや子どもの睡眠不足が大幅に改善されているようには見えません。それよりも、寝る時間を削ってでも勉強したほうがいいという考えが強くて、多くの大人は子どもが夜10時以降も起きている状態が脳に良くないことに、あまりピンと来ていないように、私には見えます。

保育園にいるときに、その誤った考え方を修正しませんか。早寝早起きをしたほうが、統計的には学力もいいという相関があるようです。睡眠の質は、学校の勉強や自分の探究心、粘り強さなどに影響するのですから、そうだろうと思います。自覚的に学びに向かう意欲や、内発的なエネルギーが出やすい状態になるのですから、その意欲的なコンディションづくりと習慣を小さいうちに作ってあげましょう。

今の私たちの脳や身体は、何百万年ものあいだ、変化する環境に結果的に適応したものが生き残った結果です。長い時間をかけて変化してきた私たち人類の心身。10万年ぐらいの長さでも、寒い地域から暑い地域まで地球環境の違いに応じて、その自然環境に応じた皮膚がこれほど変化したのですから、チンパンジーとの共通先祖から約800万年の長い時間をかけて変異して環境に適応した私たちの特徴は、それだけの根深いものなのでしょう。確かに大きく生活環境が変わっても、私たちの身体は、その影響を大きく受けるものと、さほど受けないものがあるでしょう。

しかし、大きく影響を受けた結果の一つが、睡眠サイクルだと精神科医の専門家たちがいいます。夜も電気で明るいという生活は、つい最近のことなので、脳や身体はそれに慣れていないようです。テレビやスマホやタブレットから出ている人工的な光は、それまで人間が経験したことのないもので、長時間の利用や寝る直前までの視聴が、光への依存と覚醒を促し、睡眠サイクルを歪めています。日没と共に「夜は真っ暗」だった何百万年もの時間。その悠久の時間をかけて進化してきた(環境の適応してきた)私たちの身体と脳。それが急激に変わった生活環境の影響で、身体が異変のアラームを発しているというのです。

その危機感から、当園は開園した令和元年秋から、「睡眠講座」を開いてきました。今日は今年度20回目のズーム講座で、お二人のご家族が参加してくださいました。そして「瀬川小児神経学クリニック」にお勤めの睡眠衛生指導担当の永持伸子先生から「ぐっすりねんねのコツ」をたくさんお伝えしました。

「睡眠は借金や負債は溜まるのに、貯金(寝貯め)はできない!」「オキシトシンが出やすい、ダラダラした時間を5分でもいいから寝る前にもとう」「子どもは疲れて寝るのではなく安心と満足から寝る」「昼寝を含めて11時間になればいいというのは大きな間違い」「昼寝をするから夜寝ないということはない。昼寝をしても夜は寝る、役割が違うからです」「8時半には布団に入って朝7時にはカーテンを開けよう」「帰宅から就寝までの逆算マネジメントを」「晩御飯を凝りすぎない。軽く済ませて大丈夫」など。

子どもが9時までに寝てくれる生活づくりは実現可能です。保育園の保護者の多くの方が、それを手にしています。大人は子どもが寝た後に自分の時間を持てます。これも大きなことです。夕方6時までにお迎えができれば2時間あれば、十分に睡眠にまで誘うことができます。それはヨーロッパの睡眠先進国がやっていることです。日本だけができない理由はないのです。それを信じてやってみましょう。子どもは健康になり、貴重な午前中のゴールデンタイムが毎日、充実する1日を子どもにプレゼントしましょう。怪我も少なくなり、充実した時間になります。自分からいろんなことができるようにイキイキとした活動的な振る舞いに変わっていきます。親が乳幼児期の子どもにやってあげることの中で、これほど大事なことはないと、私は思っています。

これからのスクールとは

2023/02/23

次のちっち組(0歳児クラス)のクラスブログは、すべての人に読んでもらいたいと思います。この姿の中に、人の学びの原型があるような気がしてなりません。ここは保育園ですから、乳児もいて、その子たちに年中さん(4歳児クラス)のらんらん組の子どももたちが、絵本や図鑑や紙芝居をよんであげているのです。保育園やこども園ならではの「幼児教育」だと思います。幼稚園ではできないことなのですが、この形が学校へ広がるといいのに、と思います。これから小学校を作るときは、就学園施設はこども園にしてほしいものです。

・・以下は、ちっち組の2月22日のグログ(個人名はイニシャルに変更)わらす組とは3.4.5歳児クラス。

最近、わらす組の子どもたちが遊びにくるたび、絵本や図鑑を読んでもらう姿が多いちっちさんです。
「読む〜?」と誘ってもらったり、『読んで』と持っていったりして、すっかり慣れた様子で、お兄さんやお姉さんの膝の上に よっこいしょ、と腰をおろします。


指を指したり、「こぉーわっ?(“これは?”と言っているように聞こえます)」と聞いたりするたび、「はしごしょうぼうしゃ」とか「すいなんきゅうじょしゃ」とか、お兄さんお姉さんが読んでくれます。

乗り物が大好きで、乗り物図鑑を眺めることが多いSくんやYくん。そして、今、発音を真似たり何かを伝えようとしてみたり、言葉を楽しみながら獲得している真っ最中。見たものを、言葉と結びつけながら眺めるその時間が楽しいようで、いつも長いこと夢中になって、わらすの子どもたちと一緒に図鑑を眺めています。

 

わらす組(3〜5歳児クラス)の子どもたちも、その子が好きな本をよく知っていて、選んできてくれます。

図鑑が人気です。

 

↓らんらん組(4歳児クラス)のHちゃんが、ちっちぐんぐん(0〜1歳児)の子どもたちに紙芝居を読んでくれた日もありました。ときどきカタカナが出てくると「これ何て読むの?」と尋ねながら、一生懸命読んでくれていました。

・・・・・・・ブログはここまで。

これとは、直接関係がないのですが、これからの学校は、個々の学びにふさわしい方法でライブラリー、ラボラトリー、ミュージアムなどと手軽にアクセスでき(あるいは融合し)、学校の役割はその子どもの「学びのコントロール」の指導にも比重をおきながら、先生自身の学びが同時に起きていくようなものをイメージしていきたい。

大学を除けば(いや大学もだろうけど)、残念ながら、最先端のコンテンツは地域や会社(特に大企業か?)などの民間に集中していく流れは避けられない(国家を飲み込みそうな勢いだ)ので、それを公教育の一環として認めて多様化させ、それをコントロール?しながら、そこに集ういろんな人がそれぞれのイシューに取り組んでいる問題解決過程に参画しているプロセスをスクール化したい。学んだ学力をそこでツール化する場。子どもが学校に登校する意義は、身体性を伴う集団の中でのコラボレーション、コミュニケーションあるいはディスコースを活性化させた中での、真のリテラシーと自分づくりと世界づくり(市民性や進路開拓)あたりを目指す。

 

誕生会「♪橋を渡ろう〜がらがらどん」

2023/02/22

多くの子どもが笑顔と活気に満ち溢れ、もっとやりたいと興奮して列をなしている。大人なら大好きなアーティストの公演に押しかけたり、一昔前の新製品売り出しで列を作っている光景に似ているかもしれない。

今日は誕生会で先生が出し物をしたのですが、子どもからのリクエストで「三びきのやぎのがらがらどん」でした。そのやぎをやりたくて殺到しているのです。

この興奮した面白さは、人気のお話のよさでもあり、先生たちの演出によるものでしょう。トロルは鬼のような格好をして、ヤギもわざと大袈裟に立ち回り、こっぱみじんになっていくトロルの負けっぷり(かつらも飛んでいく)が、おおきなやぎのがらがらどんの圧倒的な強さを強調していました。

そして、がらがらどんのギターの伴奏に合わせて、子どもたちが我も我もと、やぎになって橋を渡っていきます。34歳ぐらいの子たちは、たぶん無我夢中に似た心理状態で、その世界に熱中しています。何度も橋を渡っていますが、覚えた歌を自然と歌い出します。6歳の年長さんたちは、先生の熱演を熱演として理解して面白がっていて、その接し方、鑑賞の仕方に育ちの差も感じます。

そして最も私が注目したのは、そうした世界にほとんど興味を示さずに、別の遊びに集中している子どもがそばにいることです。その子たちであることが、また自然なのです。もともと、何かを一緒にさせようとする働きかけがが少ないので、大人があえて「それでいいよ」と肯定のサインを出さずともそうしているわけですが、その場や時間の過ごし方に大きな差があってもいい状態が、なおさら心地よい自由さを感じます。

面白いと思うものは、多様なのです。

 

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