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園長の日記

屋上のひまわりが咲きました

2023/07/09

屋上で育てているひまわりが、今年も「大輪」を見せてくれています。

これで「夏が来たあ!」という感じがします。

 

和泉橋から「よく見えますよ」「見ながらきました」と、親子で笑顔になります。

鈴虫が鳴き始めました

2023/07/08

七夕の7月7日。今朝から保育園では鈴虫が鳴いています。保育園で生まれ育った3代目。子どもたちはどう思ったか、聞きそびれてしまったので、よくわかりませんが、大人のほうは感慨深げ。あさ「風情があっていいですね」と、あるお父さん。まぁ、そういうものかも。^_^

美味しかった七夕のカップゼリー

2023/07/07

七夕会は所どころ、入園見学の方と一緒に見ました。子どもは楽しかったことや面白かったことを再現させたがります。それは実際に「もいっかい」とやることになることもあるのですが、たいていは再現遊びになります。

今日は行事食だったので、いつもよりもちょっと凝ったメニューだったのですが、夕方の自由遊びの時間に、今日のおやつのカップゼリーを制作している子がいました。ブルーハワイ色のゼリーには炭酸も入っていて、食べるとプチプチ弾ける清涼感も味わえました。

そんなときに、「子どもはスキルを学びたがっている!」と強く感じます。こういうのを作りたいというイメージがはっきりしているときに、とくにそうなります。どうやったらカップゼリーが作れるか。その4歳児の女の子は、その味や美しさに心奪われているのでしょう、どうしても作りたいという熱意が伝わってきます。実物と同じ透明なカップに、青いゼリーを入れるのですが、過去にソフトクリームでやったことがあるらしく、テーパータオルをクシャクシャにして丸くすると、青色の折り紙で包み、その丸くなったぜリーをカップに押し込みます。

その上に黄色い紙を星形に切って(そこは私が手伝いましたが)セロテープでくっつけました。ほとんど自分でできたのですが、出来栄えに納得しているようで、うれしそういです。ところが実物の写真とくらべて何か違うと気づきました。白いクリームが抜けていたのです。またすぐに星を外して白い紙の上に載せなおしました。お迎えに来た母親にもその制作物をみせ、展示食ケースに入っている実物を親子でみていました。

私は模倣というのは人間の本質的なところに働く何かだと思うのですが、心動かされた世界と出会い、その魅力をもう一度味わいたいから、言い方を変えればもっとよく知りたいから、再現させているように見えます。それを繰り返しながらさらに、そのことが好きになり、その世界へ入り込みながら、またいろいろな差異に気づき、さらにもっと知りたい、できたいとつながっていくのでしょうね。

絵本の語りが夢の世界へ誘う

2023/07/07

今日はうさぎの二人がいかだを浮かべて海水浴に行く話「ピッキーとポッキーのかいすいよく」から始めたのですが、こちらは、途中でいたずらなタコが出てきて、うさぎの二人やもぐらのふうちゃんを放り投げたり、溺れそうになったふうちゃんも助かって、噴水のように水を噴き出したりするので、おかしくて笑いながら楽しんでいました。

2冊目は子どもの「これがいい」というリクエストから「ねずみのよめいり」だったのですが、「これお家にもある」という年長の女の子は「おしまい」と言って終わると、思ったよりお話は「短かった」そうです。この辺りまでは、お話に熱中していたのですが、3冊目ごろになると、だんだん子どもたちも眠くなってしまったようです。

あれ、静かなエンディングだなあと思っていたら、子どもたちはどうも眠くなってしまいました。わらしべ長者の話を聞いているうちに。そういえば、今日は昼間に水遊びをしたりして疲れていたようです。そういうお話しの聞き方(聞いていないけど・・)もまんざら捨てたもんじゃないと思うのは、昔からおじいさんやおばあさんから聞かされてきた素話も、きっと囲炉裏でも囲んでうつらうつらと、意味もよく分からず、ぼんやりと聞いていたこともあっただろうと思うからです。

水遊びにおける表出から表現へ

2023/07/06

水遊びは気持ちを解放させてくれる。その文章表現を見て、ちょっと考えることがありました。当園の夏の「保健だより」にそう書いてあります。今日は屋上やベランダで子どもたちが、バシャバシャと水をかけあってキャーと声をあげて遊んでいる姿を見ると、健康的ないい活動だなあと実感します。

そこで、そうか!と気づきました。水という媒体とのこの「かかわり方」を領域表現で大切にしているプロセスと重ねあわせてみると、気持ちが解放される子どものありようのこと、つまり表現以前のことと思われる中に、表現へとつながっていく何かがあるな、と気づいたのです。

確かに保健的な養護的な側面と、なぐりがきをしたり、新聞紙をちぎっては投げあげたり、かえ歌をある種デララメに歌って、繰り返し口ずさんだりしている教育的な保育内容的な姿との重なり合いです。

それは感覚的、感性的にうちから出てくるエネルギーがあって、それが表出されているのですが、それが一旦十分に楽しまれた後で、さあ、水ってこんな感触があって面白いね、と改めて向かい合っていきたいと思います。

水というのは固定されにくいので、ジョウロや色水遊びのように別の何か容器のようなものを介するか、雨や川や海のように自然にあるものを利用するか、あるいはコップや水筒や食事などの「飲む」という、もっと生活に密着したものもあるかもしれませんが、いずれにしてもを水を表現の媒体にはしにくいのですが、身体的なかかわり方の対象としての水を考えることは大事です。浮く、沈む、泳ぐという身体的な体験も領域健康としても、これから始まるわけですが。

それを造形や音楽や劇やダンスとは同じように扱えませんが、身体的な水遊びではしゃぐ姿を見ていると、領域環境では何か対象化されすぎているようにも思えてきます。色水遊びや絵本の楽しみ、水族館で見た生き物たちの水中での動きなどがつながっていくときに、子どもが自分の身体と水との間に何かしらのコミュニケーションがもっと起きていでしょうし、実際にすでに対話が繰り返されているだろうからです。

 

しながわ水族館で生き物の迫力を楽しむ

2023/07/05

身近な場所に川や海がない都市型の保育園では、川や海で遊ぶことがないので、水族館で魚や亀やイルカを見にいきます。というのは嘘で、目の前には神田川が流れ、ちょっと行けば東京港があるのですが、川や海の生き物たちと接することがないという意味です。でも、そう考えると大抵の都市はそうなってしまうでしょう。水族館という場所が設けられているというのは、冷静に考えると素晴らしいことだと思います。

開園以来、毎年出かけているのは「しながわ水族館」です。年長さんは昨年に続き2回目。年中さんは初めてです。この水族館はイルカのショーが見られることで有名なのですが、川魚やクマノミ、熱帯魚など豊富な魚の他に、カモ、カメ、ペンギン、アザラシ、アシカ、サメなどもみることができて、何度行っても飽きない水族館です。特に水槽を地下からみることができるトンネル型の観覧ルートが設けてあり、迫力のある泳ぎを直近に楽しむことができます。

以下に、写真で見てきたところをご紹介します。

◆一方向へ回遊するイワシの群れ

◾️アカダイは、ゆうゆうと漂っていました

◾️トンネル水槽

◾️いろんなクラゲのかたち

◾️オコゼの一種

◾️熱帯魚

◾️珊瑚礁と熱帯魚

◾️アシカが目の前を伸び伸びと泳ぐ

◾️イルカの大きさに見入る子どもたち

◾️皇帝ペンギン

◾️アザラシのショー

◾️ジャンプしてボールをツン

 

 

色々なことの「いつ頃から、どのように?」

2023/07/03

伝統的な行事と言っても、それには必ず歴史的な起源があるはずです。日本に根付いているものが、いつ頃どのようにできて、またどう変わってきたのか。はっきりしているものから不確かなものまで色々です。七夕はどうなのでしょう。なぜ「たなばた」というのか、についても諸説あるようです。その話はまたの機会にするとして。

さて、保育園にも笹に願いごとを書いた短冊が飾られています。昭和や大正のころの願い事は、機織りや習字が上手になりますように、といった生活上切実なものだったのでしょうが、今ではそういう願いとはいささか違いますね。

保育の活動としては、七夕飾りの製作や装飾を楽しんでいます。飾りは折り紙などを使って、色々な形になるのが面白いですね。四角い紙が、切れ目の入れ方はひねり方、糊でくっつける場所の違い、輪にしてつなげてみたり、「色とりどり」になっていく、できている中に「わあ、きれい」「こんなになったよ」が色々できて、そこには確かに「いいね」「きれいだね」ができていきます。

そういう美への感性が育つのは、どんな時なのだろう。ということを改めて考えてみると、考えれば考えるほど、結構、謎めいてきて大人にとっても面白いテーマです。確かに「それいいね」はあるので、それをを作っていくことが楽しいのですが、子どもにもその差がわかるとすると、いつ頃どのように芽生えてきて、どのどうに育っていくのでしょう。

私の世代は橋本治を読んだり、一つ上の(つまり10年上の)世代は吉本隆明の「言美」だったりしますが、どうして「美しい」がわかるのか、や何かにとっての美とはなにか、ということも、「いつ頃どのように」の経緯がありそうです。孔雀の羽が美しいのを、雌の孔雀がそう思うのなら、動物にも「それがある」ということなのでしょうから、さて、それは人間の「それ」と同じなのかしらん?などと考え出すと、果てしない美の冒険となっていくのでしょう。

保育の実例集を作ってみたい

2023/07/01

「園だより」7月号「巻頭言」より

最近のSNSで汐見稔幸先生のエッセイが紹介されていました。そうか、こういうことが背景になると考えるといいのかも、と思ったのでご紹介します。雑誌『エデュカーレ』2019年9月号に掲載されてもので、タイトルは<古い型の保育からななかな抜けられないわけ〜「子どもを主体にする」とは言えない保育があちこちで>です。

・・・・新しい指針・要領・教育保育要領に変わって1年半。新しい3文書の考え方には、なるほどというものがたくさんあります。しかし、実際に保育をみて見ると、たとえば「子どもを主体(主人公)にする」がとても言えない保育がまだあちこちで見られます。昔からのやり方が変わらないのです。どうしてでしょうか。

いろいろ理由はあると思いますが、最も大事なことは、そもそも保育とか教育、育児等の実践は、理屈でやっている部分が少ないから、ということです。ある場面に直面したとき、「〇〇ちゃん、ダメよ、そんなことしたら壊れるよ」と言うか、「〇〇ちゃん、それどうしてもやってみたい?」とまず聞いてみるか、等の判断の多くは、実は無意識にやっています。

無意識ですが、でもその判断に根拠はあります。その根拠はどこで得たかというと、その保育者の幼いころからの育てられ方、受けた教育等の基本パターンを体は覚えていて、同じような場面で、そのパターンを適用するのです。ほとんど無意識のうちに、です。

保育や教育全体の営みにおいて、新しいやり方がなかなか広まらないのは、そうしたやり方で育てられた記憶がないからです。そして、それが今はダメだ、古い、と言われると、まるで自分が過去が否定されたようになりますから、自分を肯定したい人間という動物は、それに簡単に乗ろうとしないのです。

だから今は、原点に戻って自分たちのやり方の特徴を自覚することがまず大事なのです。そこから徐々に、です。

・・・どうでしょうか。身に覚えのある話ではないでしょうか。私には身に覚えが大いにあります。頭でこうしたらいいんだと分かっているつもりでも、体と口は勝手に動いてしまうという感覚。そうか、自分が受けてきた体験でそのパターンが染み付いてしまっている感覚。これを変えるには、そうしていない人のモデルをそばで感じること。別のパターンを意識的に取り入れようとするといいのでしょう。そのためのこんな標語はどうでしょう? こちらもSNSで教えてもらいました。こちらは無藤隆先生の作です。

「人の言うことを聞ける子どもを育てよう」から「子どもの言うことを聞ける大人を育てよう」へ。これも実例集を作ってみたいものです。

落語の絵本「じごくのそうべい」ほか

2023/06/30

いやあ、今日も面白かった。恒例となってきた「園長の絵本劇場」。今日の絵本は5歳児から渡された「じごくのそうべい」ほか2冊。いずれも子どものリクエストで決まりました。3歳児からは「ねこガム」4歳児からは「コッコさんのお店」。3歳、5歳、4歳の順にやりました。

ご存じ「じごくのそうべい」は落語が元ネタですから、面白くないわけがない。軽業師のそうべえは、綱渡りに失敗して落下、地獄に落ちてしまいます。火の車で三途の川にたどり着くと、山伏のふっかい、歯ぬき師のしかい、医者のちくあんと一緒に、えんま様に地獄行きを言い渡されたて、さあ大変。昔話風の奇想天外な話の展開に子どもたちは引き込まれていきました。迫力満点の絵は田島征彦。第1回絵本にっぽん賞受賞の絵本です。

私は落語家になったつもりで、テンポ良く「とざい、とうざい。かるわざしのそうべえ、一世一代のかるわざでござあい」と、臨場感あふれる、わかりやすい解説付きで話を進めていきました。

この手の本は、子どもによってハマると、その場面を何度も味わいたくて「また読んで!」となりがちなお話ですね。リクエストした子は、にこにこしながら笑っていました。

ねこガムは、ふうせんガムの風船が猫になって反対に吸い込まれそうになっていく、子どもが思いつきそうな瞬間芸的なナンセンスファンタジーで楽しい。この愉快さを子ども共有するのは、ちょっとした共犯関係ができていくみたいな面白さを感じます。落語にしても、この手の話にしても、絵本は堂々と日常からの逸脱を許してもらえるという意味で、精神衛生上も「ええもんですなあ」・・・。

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