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園長の日記

小学校が授業公開し保幼小の先生が語り合う

2023/06/21

やっと実現しました。千代田区教育委員会主催の保・幼・小合同研修会。それぞれの先生が午後1時から45分の公開授業・保育(公立小学校6学年全部と付属幼稚園3学年)を参観したあと、体育館に集まって、その実践報告をきき、グループ協議に参加し、講演(青山学院大学の福元真由美先生)で学びました。私は初めて参加したのですが、毎年行っていた公立のみの幼小合同研修会から、今年度から保育園(公立だけではなく私立も)も加わったことと、グループ協議の時間を持ったことが新しいそうだ。

研修会のテーマは「幼児期の学びとその学びを生かした小学校の学び」。公開された授業と保育のすべての指導案に「10の姿」との関連が記載されている。私が参観したのは年長の「好きな遊び」(制作・鬼ごっこ)、1年生と2年生が合同の「生活科」(なかよし会~学校たんけん~」。遊びや活動のなかに見られる子どもの姿を10の姿でとらえ、そのつながり具合を協議会で語り合った。私も近隣小学校区のグループに参加し、卒園児がいたのでその子どもたちの姿の成長、変化を伝えました。

生活科のなかよし会は、1,2年生で4~5人のグループをつくり、1年生が学校たんけんで発見したことを言葉で伝え、2年生は用意した学校クイズを出して楽しむもの。会を進めるための「これから始めます。いいですか」など、あらかじめ決まったセリフもあれば、タブレットでの見せ合いが始まると2年生が1年生に「こっち向けて」と普段の口調で話している。いわばオフィシャルな会話(二次的会話)と日常会話がこうやって使い分けられていく。状況に応じて言葉を選んでいる。そのような芽生えは保育園のお集まりやお帰りの会などで、同じような区別は始めっている。協議会ではその様子を説明した。

4年生の算数の時間も参観した。いい授業だった。単元は「少数のしくみ」。「水がポットに1.75ℓ、やかんに2.64ℓ入っています。水はあわせて何ℓありますか。この課題を解決するために自力解決と相互交流をやっていたのですが、ノートに書いたものをタブレットで映し、電子黒板に映し出し、それを自分のブレットでもみながら、発表内容を交流しやすいようになっていた。このようにお互いの考えを共有しやすくなっているのか、と感心した。

このような先生同士の話し合いはありがたい。定期的に積み重ねていきたいものだ。架け橋プランを作るための会合ではないが、これでその前段階に入ったといえるだろう。

グーカラ・グー カラ・チョーカラ!表象が繋がっていく契機をデザインするには?

2023/06/20

「グーカラグーカラ」というジャンケンが流行っています。グーで勝ったら「グーカラグーカラ」と言って、次に「チョーカラ」と言ってチョキを出したりする遊びです。バーを出すならパーカラです。あいこになったら先に「水」というと勝ちです。私も懐かしくてやってみたら、先に水と言われて負け続けました。子ども(年長)の方が、まぁ早い早い。

そのことの意味を考えていました。言葉の獲得にまつわる話として。言葉は文脈に即して獲得しやすいという話と、この遊びにようにグリコやしりとりのように、あるいはナンセンスな言葉遊びのように、それは言葉自体の、意味の文脈からちょっと離れた音そのものが主導する意味の世界で、独立的、あるいは自立的な発展みたいなこともあるということを考えていました。

ところが、さっきスマホにメールのアカウントを追加するために、備忘録を見ながらパスワード(記号でもあり言葉でもある)を打ち込んでいる時、突然、そうか!と閃き、この文章を打っています。その操作をしている時、過去にもこれと似たようなことをしていた、その情景が思い出されたのです。それとは違うでしょうが、その記憶の再現というようなことを子どもが毎日やっているのですが、どんな時にそれが再現されるのかという話です。

ちょっとめんどくさい話なのですが、体験したことがこうして、感覚的な、たとえば映像的な記憶、言い換えると状況的な記憶が丸ごと残っているということ自体が面白いと思います。人間の脳(と身体)というのはよくもいろんなことを蓄積しているものだと不思議な気がします。

その時、そうか!と思ったのは、その記憶が思い出されるのは、つまり自分のなから引き出されてくるのは、当たり前なのかもしれませんが、その状況と似た状況の中に置かれた時だ、ということです。状況の相似や類似が、そにれにまつわるあれこれの情報を引き出してくる感覚をリアルに覚えたからです。勝手に向こうからやってくるのです。

子どもは、それと似たことをしょっちゅうやっているのではないか。模倣やごっこ遊びや子ども同士の会話の中で、体験の再現と再構築を繰り返しながら、体験したことを自分なりの文脈の中に位置づけなおし、つまり意味づけながら、広がりと深さを獲得しているのではないか。

まるで子どもの方が「だったらこうもアリだよね」と言葉で言うわけではないのですが、現状以上の何かに進んでいく。自発的に動かしていくようなこと。遊びがはみ出ることや多頭性という特徴を持つのは、子どもが自分の文脈を再現して遊ぶことで、新たに足りないものや空白部分のようなものに無意識に気づき、そこにダアーっと目掛けていくような動きやエネルギーを感じます。そういうことをしているのかもしれない。

そういう風にでも考えないと、あれだけ自発的に活動していくエネルギッシュな姿には、大人が教えて身につくものを遥に超えていくような、あるいは自分達でやりたいんだ、という、場合によっては反抗的とも思えるほど、あるいはルールを破ってでも面白いからやりたいんだという欲求の強さを感じます。いったい、この生命力は、どんな仕掛けから生まれてくるんだろう。思わず遊びたくなる、というその「思わず」の仕掛けのところ。

生まれてすぐの、少ないはずの経験からこんなに爆発的とも言えるほど、どうやって色々なことを取り入れていってしまうのか?赤ちゃんが1歳半ぐらいまでに徐々に大きくなっていくのは、まだ「徐々に」という感じなのですが、それから数年の間に、6歳ぐらいまでの数年間に「もう大人と同じだよね」というぐらいに立派になる感じがします。大抵のことはできますし、話も通じます。たとえば言葉なら5000語ぐらいは獲得しているというのですから、すごいスピードです。幼児期後半ぐらいになると一日10〜15語ぐらいは覚えていくという計算になるそうなので、とても大人は真似できませんよね。

そんなことを考えていたものですから、子どもたちが毎日飽くなく遊び続けながらやっていることについて、私が「そうか、このタイミングの連続がプロセスなのかも!」と思ったのです。体験で得た表象がつながり合って、つまり表象=リレゼンテーションの原義、改めて目の前にあらわにするという再現性が働くタイミングのことです。どんな時に再現されるのか。それは状況が似ている時。そして物や空間などの環境が働きかけてくるとき(アフォーダンス的な)。

それは現実の生活空間でも絵本の世界でも同じ。そこに類似や相似があれば、人間は易々とそこに飛躍できるということ。そう考えると、子ども自身の文脈の多様性を考えた環境は、想像の世界も入ってくることになるのでしょう。仮想の世界と言ってもいいのでしょうけど、子どもたちは、自分の中に、どんな表象の広がりと深さを身体と環境のかかわりとしての「知」として作っていっているでしょう。身体知と環境知というそうです。

それぞれの人がどうやっているのか見えませんが、大人もやっているなあ、と思います。それは「チョーカラ」であいこになって、子どものいう「水」の速さに感心したり、忘れたパスワードを思い出せない時などに私の身体知の衰えは棚に上げて、環境のせいにしながらですけど。それに比べて子どもは、なんとしなやかなんでしょう。たくましいと思います。

野菜の栽培と収穫

2023/06/19

食べ物を手に入れて食べる、ことは人間のもっとも基本となる営みだろう。園生活で簡単にできるのは野菜。自分たちが食べているも野菜は、こんなふうに育てて食べられるようになるんだろいう当たり前の事実を体験することから。穀物は稲をバケツに田植えして育てています。その収穫は秋。でもタンパク質は簡単ではない。屋上で鶏でも飼えたらいいが、なかなかそうもいかない。潮干狩りや魚釣りもやってみたい。というわけで、今日も野菜の収穫に歓声があがっていました。いかは幼児の今日のブロブから。

・・・・・・・・・・・

屋上の扉をあけると、一目散に野菜の元へ走っていく子どもたち。今日はどんな野菜ができているのかな〜

「あった〜!!」と今日も嬉しそうな声が!

今日は初のナスが出来ていました〜🍆 おおきいっ!

きゅうりや大葉もたくさ〜ん収穫!

 

大葉は毎度、1階や2階、事務所の職員へお裾分けに〜!

みんなが毎日欠かさず水やりをしてくれるおかげで、すくすく育ち 毎日のように野菜が収穫されています!

今日は調理さんがきゅうりの塩漬けにしてくれました🥒

自分たちでつくったきゅうりは何倍も美味しい🎶

みんなたくさんおかわりをしていました〜!

 

明日も楽しみです🎶

この1週間から・・保育の全体像と意味をとらえるとは?

2023/06/17

この「園長の日記」は、あくまでも私からみえたもの、私が考えたことを書き連ねているわけですが、園全体の描写ではありません。園で定めた「正式な記録」は、ほかに園日誌やクラス日誌、保健日誌、給食日誌などがあり、個別やクラスの連絡記録も毎日、保護者のみなさんとやりとりしています。それらは事実でありながら「部分」でしかなく、それらを寄せ集めて、はじめて「全体」に近くなります。それでも決して<保育の全体>というものを描き切ることにはなっておらず、多分それは原理的に不可能でしょう。

しかし、だからと言って、それを放棄するつもりはなく、何を目指しているのかというと、それを積み重ねてることで、なにかしらの実相に近いものがみえてくるのではないか、それを分かち合うことで、新しい次の一歩の踏み出し方がもっとよくなるのではないか、と思うのです。

今週を振り返ってみましょう。初めて行ったことだけでも、日曜日には乳児室を開放して午前中親子で過ごしてもらいました(当日の園長の日記をご覧ください)。月曜日は某大学で夕方、うちの職員と3人で絵本やわらべうたの実践を紹介して授業をしました。火曜日は千代田保健所から調理室の抜き打ち検査があり、衛生管理はいつ誰が来ようと自信あったのですが、その通り「除去食もきめ細かく対応しておられますね」と褒められました。本当は調理の先生たちと一緒に、ほっと胸をなせ下ろしました。食中毒の季節だから用心するに越したことはありません。

その日は保護者の方から夕方、大きな尺取虫をいただき、翌日に子どもにどう見せるか検討しました。すると水曜日の朝のお集まりに、なぜか主任が全身緑色のタイツを着て青虫になっていました。尺取虫が現れて触発されたようです。私は慣れているので平気だったのですが、私が案内していた入園見学者がちょっとびっくりしていたそうで、それに気づいた別の担任が「うちの保育園はあれで動じないくらいの方に入園してもらったほうがいいですね」といい、園長の心配をよそに、意識は私の遥か上空にあることを確認しました。

この時期は「蚊」対策も始まります。東京都が午後に研修会を開きました。日本は亜熱帯になってきて、蚊を媒介する伝染病の患者が見受けられるようになってきたから注意してください、という内容でした。ここにも温暖化の影響です。屋上の野菜も育ち、毎日のように「大葉」を摘んでは調理さんや私のところへ持ってきます。

木曜日は3〜5歳が梅雨の合間を縫って地下鉄で十思公園へ出かけました。今年度初めての試みです。楽しかったあ、と帰ってきた子どもたちは「また行きたい」と言っています。朝は毎月の避難訓練もあり、地震から火災が発生、園内放送をよく聞いて指定の場所へ避難します。合言葉の「おかしも」もすっかり定着しています。午前中に協力している活動のイベントのフライヤーを近くの公設機関へ届け、午後は姉妹園で会議に出席。夕方戻ってきて、保護者の方々と一緒に7月の納涼会の内容について打ち合わせでした。

そして16日金曜日は歯科検診。年2回ありますが、虫歯や咬合具合などを診てもらうのは大事な診察です。秋には歯科医に講演をしてもらうつもりです。検診結果は必要な方へお知らせしました。また午前中は昨日につづき、幼児は選択で十思公園へ出かけています。乳児は小川町や和泉公園へ出かけ、花を摘んだり虫を探したり、かけっこを楽しんだり。

夕方には私の絵本の読み聞かせをしましたが、いろいろな子どもの様子がわかり、また成長を感じて楽しいひと時でした。こんな具合に起きたことを並べるだけでも色々ですが、いずれにしても何をみうしたくないかというと次のことです。

私たちは、子どもに望んでいることがあって、それは乳幼児にふさわしい経験を通して、生涯にわたる人格形成の基礎が培われるように、また小学校以降の生活や学びにいかされていくように、なってほしいと思っています。しかも子ども本人が望んでいること、満たしたがっていることがあるなら、それを環境をとおして実現できるようにしてあげたい。しかも、同時にその環境が教材のような効果を発揮して、子どもが自分の育ちとして取り入れていくような、そんな幼児教育になるようにしたいのです。

私の園長日誌の役割の一つは、そのいきさつを具体的な場面でお伝えすること。さきほどのいろいろな記録を読みながら、とくにクラスブログで取り上げているエピソードに(担任が取り上げるだけの意味があるからこそ取り上げているわけですが)意味を見出していこうと思っています。

また、あまり注目されないようなことの中にも、それはあるかもしれず、意味をなす背景を探したり、一見関係なさそうなことも、保育の意味での生態学的な役割を果たしていることも十分に考えられるので、そういうことまで視野に入れたいなあ、と思っています。あまり広がると拡散してぼやけてしまうかもしれませんが。そういうわけで原理的な見方を学び、その観点から保育を見ていくことが有効だろうと考えています。

でもそこが難しい。その意味を理解するために、できるだけ保育の原理的なことに立ち返り、どうしてそこにそんな意味付けができるのかをできるだけ確かめたいつもりです。それを勉強することは時間が要ります。でもそれが私には楽しい。新しい意味に気づくと同時に、子どもが関わる環境が新しい構成へと刷新されてゆき、保育が深まっていくように思えるからです。

ともだち・親密さ・愛情

2023/06/16

「今日は何読むの?」と午後のおやつが終わると事務室に年中のTMくんがやってきました。「新しい絵本、これまだ読んでないから、これにしようかな。ともだちや」。私がそういうと、彼は待ちきれなさそうにニコッとして2階へ戻って行きました。3〜5歳が一緒なので絵本選びと楽しみ方に工夫がいります。最初に、どの年齢にも理解しやすそうな「くまのコールテンくん」から。デパートという言葉が分かりませんでした。そうか。この絵本、今一緒に働いている20代の保育士が小さい頃大好きだったそうです。この絵本や「どうぞのいす」などが好きだったという人は、保育者に向いている気がします。

内田麟太郎のこのシリーズも、楽しい。今回はお友達がテーマのものを選びました。1時間100円、2時間200円という売り文句が最後はただになるのですが、さてどこまで通じたか?

たまごやき、となっているけれども、おはなしの中では目玉焼きです。というものめだまやきの「黄身」がおしゃべりだからね。最初のけらいが何人も挨拶にくるところは、人形劇かペープサートにしてみよう。そう思いながら端折って劇画風に展開しました。「あ、うん」と私が読むと、子どもたちは真似して、一斉に「あ、うん」というようになって、楽しかった。きっとお家でも、「あ、うん」はやりたがりますよ。

時間になったけど、もう一冊読んであげたかったのがこれ。最後まで食い入るように見入っていました。絵の表情だけで子どもに気持ちが伝わっていく絵本。子どもたちはこんな絵本が大好きです。

納涼会について保護者の方も交えて打ち合わせ

2023/06/15

梅雨明けの7月29日に予定している納涼会について、保護者の方を交えての第1回ミーティングを夕方開きました。これまでの試みをさらに充実させていくべく、みなさんと一緒に作り上げようというものです。昨年までとの違いは、新型コロナ感染症の位置付けが変わって、それをあまり気にしないでできそうだということ。昨年の内容、その時に出ていたアイデア、今年こそはこうしたいという思いを分かち合いました。その様子はライブでズーム配信もしました。このミーティングで全て決めるのではなく、みなさんにアンケートも取ったり、保育園からの提案も含めて、報告させていただきます。

チェーンリングで遊ぶ赤ちゃん

2023/06/14

 

4月に入園した赤ちゃん(12ヶ月)が、座って小さな穴の空いたボックスに、チェーンリングを入れて遊んでいます。その様子を担任が克明にブログで描いています。

<・・・チェーンリングのはじっこの方をそっとつまんだり(手指の使い方)、チェーンが揺れすぎないようにそっと持ち上げたり(力加減)、チェーンリングの端が穴の中にうまく入っていくように持ち上げたり(距離感などの感覚)…少し思い浮かべるだけでも色んな要素が必要になってくる遊びだと思います。・・・>

<・・・少しずつ、そうした手先の遊びが楽しくなってきて、様々な感覚を遊びの中でたくさん体験しながら 研ぎ澄ましている頃なのでしょうか。・・・>

<このチェーンリングの長さも、ボックスに開けてある穴のサイズも、難しすぎず、簡単すぎず、きっと、絶妙にちょうど良いのだろうなぁと思って見ていました。・・・>

・・・・・・

微細運動と一口に言っても、摘んだり、指を広げて物を落としたり、穴に入るように手の動きを調整したり、何気ない遊びでも、色々なことを身につけていきます。それは私たちが幼児教育の中で「資質・能力」と呼んでいる見方を使って説明できます。このような理解を私たちは求められています。

確かに、この遊びの中で赤ちゃんたちは多くのことに気づき、できることがたくさんあり(知識・技能)、じゃあこうしたらどうなるだろうよいう(思考・判断)があり、意図して行っている行動としての(表現)もそこにもみられます。表現というものを、自分の行動の結果をモニターしながら修正してやっていると捉えれば、それは振り返りであり、意図的な表現と言えるわけでしょうから。

担任が描いているように、赤ちゃんがちは楽しい、面白いという感情に溢れていて、何度も繰り返している意欲的な姿がそこにはあり、繰り返しの中でうまくいく結果にであうとそれを喜び、さらに繰り返しています。心情や意欲や態度が育まれていく循環過程をそこにみることができます。

これらのことが一体となって資質・能力が育っているわけですが、それはチェーンリングをボックスるに入れる遊びという体験によって、その物との関わり方や意味に気づき、子どもにとっては微細運動と名付けられた活動の中で使われているさまざまな力が使われて育っていくことになります。環境を通した保育によって、楽しい遊びの中で身につけることが望まれている内容を取り入れていと言えるでしょう。

 

この写真に尺取虫がいます。どこでしょう?

2023/06/13

昆虫図鑑によると、いわゆる尺取虫は、蛾の幼虫です。生息する木の枝や葉に擬態するので、どこにいるのか見つけるのが難しいのが、シャクガ科エダシャク亜科の幼虫のようです。

この写真のなかにも、その尺取虫がいるのですが、わかりますか? お花屋さんをやっている保護者の方が夕方もってきてくださいました。お迎えの保護者の方や先生にみてもらいましたが、だれもわかりませんでした。

都会と田舎とどっちが自然に近いのか?

2023/06/12

蛹から蝶になる姿を捉えたくて、いろいろ準備していたら失敗してしまいました。さなぎが折れてしまったのです。これを準備してくれていた先生に申し訳なくて、そのことを報告したら「都会だと敏感になりますよね。。。保育園は子どもの世界でもありますので、それよりもこの活動をきっかけに、青虫の駆除に困っているという先輩と知り合いになり、駆除しないでとっておいてほしいとお願いしました」というのでほっとしました。

そこで思うのですが、たしかに、たかがアゲハの幼虫で、こんなにショックをうけるというのも、滑稽な話なのかもしれません。「田舎に行けば、いっぱいいますから、逆に駆除の対象です。都会の子どもたちは、そういう意味では可哀想ですね」という話を聞くと、なおさらです。

でも、一方で、はらぺこあおむしが害虫になる程たくさんいる環境は、作物にとっては害虫になります。すると、それほど珍しくもない、どこにでもいるような場所では、アゲハになっていく過程の面白さをどのように体験しているのでしょうか? もしあまり見向きもされないとしたら、「自然との関わり・生命尊重」のねらいにあるような「生命の不思議さや尊さに気づき、身近な動植物への接し方を考え、命あるものとしていたわり、大切にする気持ちをもってかかわるようになる」などの姿が育つのでしょうか?

要するに幼児教育にふさわしい環境として、子どもが関われるようになっているかどうか、ですから、ふんだんにあればそうしやすいということです。子どもが見てさわり、心動かされたり感動する体験があるかどうか、それがなければ身近な自然があっても、子どもにはないに等しいということでしょう。

保育園を「にちよう開放」しました

2023/06/11

6月11日(日)の午前中、保育園を開放して、0歳1歳児クラスの親子が過ごしました。9家庭が参加されました。保護者の皆さんが主催したもので、保育園は園をお貸ししただけです。朝9時からお昼過ぎまで、保育園は特に何かやるわけでもなく、ただ普段の保育室を親子で自由に使っていただいただけです。

それでも、子どもが普段生活している場所なので、おもちゃや絵本などもいつも遊んでいる慣れたもの、慣れた場所なので、「子どもたちがわかっていて過ごしやすかった」と好評でした。また定期的にやりたいですね。

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