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園長の日記

むかしばなし・なき声・想像力・仲間

2023/06/10

本当は今年度第1回の「園長の絵本タイム」で読んであげたかった絵本「だいくとおにろく」。昨日第4回でやっと登場です。松居直(ただし)さんが日本の昔話を再話した名作です。絵は「ももたろう」「スーホの白い馬」の赤羽末吉。赤羽は松居に採用されて絵本画家になったが、デビュー作は「雪国を描きたい」とのいう希望から生まれたという「かさじぞう」である。その時50歳。先週の台風の話をしながら、昔は大雨になると川の橋が流されたりしていたんだよ、この話も橋が流れて困っていたら鬼が端をかけてくれた話だよ、と言って読み始めました。

昔話をどう工夫して再話にしたのか。「めだまをよこせ〜」の台詞を大袈裟にやりました。そして森の中で聞こえてきた「子守唄」は、本当の子守唄にして唄ってあげます。そして名前をあてられて、消えてしまうエンディングのあっけなさ。そこの余韻をどう読むか。松居・赤羽コンビによる言葉と絵の共演です。

さとうわきこといえば「ばばばあちゃん」シリーズでしょうけれど、こんな絵本もあります。ピヨピヨとなくひよこが出会う動物となきごえを「ごりかえっこ」。可愛いひよこが、カエルの「ゲロゲロ」やぶたの「ぶうぶう」となくので、そこを、ちゃんと間を持たせて強調して読むと、聴いている子どもたちは、なんとも愉快そうな顔をします。その表情が可愛かった。わんわん、と吠えられて逃げ帰るネコの表情もいい。

「おうちで犬飼っている人?」と聞くと、誰も声が上がらず、その代わり「(お友達の)○◯ちゃんが飼ってる」と教えてくれました。犬じゃないけど、金魚や虫を飼っていると話し出すと大賑わいになり、それがみんなのペットなんだね。園長先生がみんなのうちのペットになったら、ちゃんと世話してくれるかなあ? 3冊目は「もしもぼくがよそのうちのいぬだったら」。いぬの「ぼく」の想像の世界の筋立てが、ちょっと難しいんので、ゆっくりと解説しながら読む。内容的には年長以上むきの絵本だけど、間違えてワニに食べられてしまうとか、伝わると3歳でも部分的に楽しい。

最後は、もっと単純に、3回繰り返しのお話の王道「とんとんとん」。年長のNさんが選んでくれました。ドアの窓越しに頭が少し見える「仕掛け絵本」にもなっているチャイルド社のオリジナル配本絵本。最後にケーキを食べるシーンになると「誰の誕生日?」と聞く子も。たくさんのお友達、大家族のように仲間と食べ物や生活を共にすることの喜び。暮らしの原点がこのようなお話の中にあります。こういうのは何歳でも楽しめる。

さなぎの変化

2023/06/09

子どもの「知ってる〜!」の意味について、担任がブログで説明しています。子どもは、あおむしがさなぎになることは「知って」いても、実際に観察をすると、新しい気づきがたくさんあって、知らなかったことだらけであることを体験していきます。その違いを大事にしたいという趣旨の説明です。

これを読んでいて、何かを知ることは、たぶん常に世界の一端を知ることであり、そこから場合によっては「未知」に気づくことになるのでしょう。常に未知に気づくとは限らないでしょう。知ったことから、さらに知らないことを知ろうとすることにつながっていくものは何でしょう?

さなぎの例では、真っ青な緑だった色が、日に日にくすんだ色に「変わった」と気づく子がいます。枝に2本の糸で「くっついている」という子もいます。「糸は口?(から出したのか?)」と聞かれて、私も知らないので、さぁどこから出たんだろうね?と本当に私も不思議だと思います。

また、その子たちが「揺らしたらダメだよ」とか「そっとしとかないと」(年長)などの言葉になっています。大事にしようという気持ちが芽生えているのでしょうか。形も変化しているのですが、それは気づきにくそうなので、写真に撮って日付をつけて掲示するといいかもしれません。

そういう仕掛け、援助があったら子どもが新しいことに「気づくだろうなぁ」という大人の予想が環境を変化させます。そういうつながりを作っていこことが保育の面白いところです。

なつかしい保育園の友達と再会

2023/06/08

3歳児クラスの途中まで一緒に過ごし、昨年度4歳の一年半の間を海外ですごしたFさんが年長さんで戻ってきました。といっても今週の2日間だけ。最終日の今日は一緒にバス遠足も楽しみました。また海外の幼稚園へ戻ります。つかの間の数日間でしたが、Fさんは仲良しだった友達との再会もできて楽しかったようです。「また来たい」といいながら、嬉しそうに「バイバイ」と帰っていきました。日本にいっとき戻ってきた時に、こうして保育園が実家や親せきの家とおなじような仲間に入っているのがうれしいですね。

あおむしがさなぎに

2023/06/07

ついにあおむしがサナギに。その変化は絵本と紙芝居と歌で知っているけど、やっぱり本物にはかなわない。

この真剣なまなざしたち。うん、こういうのがやっぱりいいな、こんな体験がいいな。

保育団体の月刊誌から

2023/06/06

保育団体に加盟していると、毎月メールが届きます。今日のメールにはこんなのがありました。団体が発行している機関誌をよく読んでほしいという趣旨かもしれません。

・・・・・・・

こんにちは!毎月皆さまの園にお届けしている「保育通信」、
6月号(No.819)からオススメ記事をご紹介したいと思います!(岩)

●無藤隆「架け橋プログラム」をいかに進めるか」
保幼小連携の基本や課題、そして連携の始めの1歩をどこからスタートするかに至るまでのお話を、3ページにぎゅっと詰め込んだ内容となっています。私の地域では残念ながら子どもたちの情報の申し送りだけに留まってしまっていたので、これを参考に連携のあり方を見直したいと思います!

●井桁容子「保育を楽しもう」
子どもたちとの関わりというと、「どんな内容の声掛けをするか」ばかりが気になっていましたが、今回のお話は子どもと先生の会話の「間」について、事例を挙げながらお話されています。会話は単なる情報交換ではなく、会話そのものを楽しむことも大事だよなあ、と思うようになりました。

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この感想は決して「岩」氏だけではないだろうと思いました。

すずむしの「お すそ分け」

2023/06/05

たくさん生まれた「すずむし」のおすすわけ。保護者の皆さんもいかがですか。まだ小さいのですが、時期に大人になって鳴き出すでしょう。カゴをお持ちください、昨年に引き続きお分けします。5月25日には姉妹園の「新宿せいが子ども園」へ持っていきました。先週2日には、近所の保育園に声を掛けたら「ぜひ」というのでお持ちいただき、今日5日は飯田橋にあるこども園へプレゼントしました。

だんだん大きくなっていく虫の成長を子どもはよく観察しています。どこにいるのか、どんな風に動くのか、触覚だけが白くて目立つことや、ときどき噴霧器で湿気をあげないといけないことなどを知っています。この園で産んだ卵が孵った3代目のすずむし。鈴虫が何はじめるのを「待ち遠しく待つ」という子どもたち。こういうのを気長に待つというのは、なかなかない。この園の特徴になるかもしれませんね。

しりとり・図解・ユーモア

2023/06/02

グリコ!が流行っているので、しりとりもきっと好きだろうということで、聞いてみたら大好きでした。そこで「しりとりのだいすきなおうさま」。絵を見ながらクイズのように名前を当てていきながら読みました。大ウケです。この手の絵本は、私は紙芝居のように、また子どもたちと問答しながら、楽しみます。

2冊目は、幅広い年齢で楽しめるように、かこさとし作品から「あさですよ よるですよ」。最近、食事の下拵えのお手伝いで「そらまめ」の皮むきをやっていたので、そら豆くんの家族のお話にしてもいい?と聞くと「いいよ〜」と興味津々。細かい描写のひとつずつを丁寧に確かめるように見ていきました。

絵本は文字がなくても楽しめることがよくわかる絵本。かこさとしさんも私と同じ理系ですが、世界を分解してよくわかるように絵本にするという図鑑的な絵本もたくさんあって、立派なサイエンスになってますよね。

最後は、今日でお別れのお友達もいたので「げんきでなあ〜」と楽しく言いたくて、これにしました。

「かなしいはなしです」のユーモラスな感じがわかると、もう年長さんだなあ。ここにも10の姿があるんだけどなあ。面白い話です。

子どもが作るバリケード

2023/06/02

昨日からの続き。6月1日木曜日の午前のことですが、室内の窓際に3人の3歳児男女がせっせと椅子を、バリケードのように(と形容するのは、私の勝手な解釈ですが)並べ、そこに椅子の扉を置いて、出入りできる空間を作っていました。その中で外を眺めたり、絵本を読んだり、お絵かきをしたがったりしています。主任とその遊びをずっと見ていました。これはどんな意味があるんだろう? そんなことを考えていました。そこに出来上がっていく空間の意味を。
・・・基地づくりだとか寛ぎ空間だとか、お家ごっこだとか、プライベート空間だとか、まあ、色々な言葉と概念が私の頭の中にはびこっていて、自分でも「なんて陳腐なことしか思いつかないんだろう」と思いながら、その子どもたちの表情を眺めていました。いずれにしても、安心できる快適な空間を求めているのだろうという。でも、どうもピッタリする意味が思い浮かびません。
そんなときに、子どものトラブルについて書いた巻頭言について「子ども遊びとはまずははみ出すことからですからね」というコメントをいただき、遊びと自由の関係、協同生と自由の関係が「いわば遊びの高度化である」という言葉で、ミッシング・リンクが繋がる思いをしたのです。私にとってはこういうことでした。
遊びに自由という言葉を頭につけて、わざわざ「自由遊び」と呼ぶことを、<屋上屋を架すようなことを言わないといけないのは、本来の遊びになっていないことへの留意だろう>と考えていたのですが、それは「遊び」に加担しすぎた解釈だと気づきました。自由の方にアクセントをおいてもいいのだと、気づいたのです。生きることだったのです。大事なのは自由に生きるということ。
子どもがそうしたがるのは、観念的に自由を求めているのでも、大人が考えるような概念としての自由を思い描いているのでも、もちろんありません。ただ、大人であろうと子どもであろうと、「生きる」というのは、そういう衝動に突き動かされているからであって、そのいのちの大きな傾向、動きというものの流れは、本人にしてみると切実なものなのだと思います。
それが時には周りへの抵抗、反抗だったり、大人だったら転職や起業、あるいは社会運動だったり、場合によっては犯罪にもなり、芸術家なら自身の内的真実をかけた戦い、表現への飽くなき探究(もちろん現実的に生計を立てるという切実な問題もあるのですが、それも飲み込みながら、妥協しながらでも美と表現を求めるように)になっているのだと思います。
それは、いずれも切実な「生きる」という姿なのでしょう。大人が小説や映画や伝記を通じて、それを感じるとき、自身のそれと感応しあっており、子どもは遊びの中にその芽生えを見せてくれているのかもしれない、と。
そして、子どもの作るバリケードのように囲われた空間(を撮った写真はないのですが)は、生きる姿の象徴のように見えてきたのでした。(こうやって振り返ると、当たり前の話に戻ってきたがして、なんだか恥ずかしい限りな、話になってしまいました・・)

大人は子どものトラブルをどう受け止めるか、の続き

2023/06/01

園だより6月号「巻頭言」より

子どもは「はみ出し」ながら育ちます。このことも付け加えておかなくちゃ、と昨日の「園長の日記」に書いたことの続きです。そのはみ出し具合を、できるだけ「ひろ〜く」とってあげたい。そういう話です。なぜ「広いか」というと、子どもは自然だから、と言うことなのですが。

大人が思う通りに育ってほしいというより、子どもはそれを飛び越え、予想外のことをやりながら、生きているのだと思います。それを「困ったこと」とか「例外」とか「普通じゃない」というように捉えたくありません。子どもを大人の狭い枠組みの中に押し込めたくはないのです。そうではなく、子どもは(つまり人間は)、そういうことが「自然」なんだと思えるといいのかもしれません。

子どもは自然そのものだという話は、私たち幼児教育に関わるものは、よく聞きます。自然というのは思う通りにならない、という性格を持っています。人間は自然を相手に都合のいいように変えて、都市や文明を築いてきたが、時々、自然災害や天変地異などが自然の怖さを思い出させる、というよくある話。それとはまた別に、人間の外側に自然を見るのではなくて、私たち人間が自然の一部であって、大きな自然の営みの中にあるという認識を忘れないでいよう、そういう話が一方にありますよね。子どもはその「うちなる自然」を思い出してくれるということです。

その話で私が思い出すのは、養老孟司さんの「子どもは自然に属する」という話です。どこかで聞いたことがある方も多いでしょう。大人は都会では道に段差があったり障害物があると、つまずいて怒ったりします。ちょっと不便なことや都合が悪い不合理なことがあると文句を言いたくなる、そんな気分を持っています。私たち大人が都合のいい「人工」世界にいるからでしょう。

でも山の中に入って、凸凹しているからといって、それに文句を言う人はいないでしょ。子どもが凸凹していて、大人が思うど通りにやらないからといってイライラしてしまうのは、山に入って歩きにくいと文句を言っているのと同じですよ、というそう言う話でした。

先ほど主任が「ある活動で、幼児がサンダルで山登りをしているところがあるんですよ」と教えてくれました。過保護にしないという趣旨の話ですが、もう一つ、自然の一部である子どもは自然の中なら裸足でいたがるもの、という話にも聞こえてきます。子どもは自然でいることを求めていて、その振る舞いの延長に、「人工的な」人間社会が求める決まりにうまく適応できないことが起きているだけ、という見方もなりたちます。ちょっと理屈っぽい話になってしまいましたが、子どものトラブルを有る意味で自然現象だから仕方ない、そんな大らかな受け止め方も必要な気がするのです。

大人は子どものトラブルをどう受け止めるか

2023/05/30

私たちが立ち帰るものに保育原理があります。そこに書いてあることは、長い年月をかけて先人たちが作り上げてきた教育や保育や育児の要諦が、簡潔に記載されています。大事な原理、原則のようなもの、あるいは保育の道標のようなものになります。こういうことが起きていて、どうしたらいいのだろうか、どう考えたらいいのだろうか、という時、私はまず、「保育は養護と教育が一体的に行われている営みである」という保育所保育の特性に立ち帰ることにしています。

養護は生命の保持と情緒の安定ですが、そのためにはさまざまな欲求が満たされていく必要があって、とりわけ社会的な欲求、つまり人と人の関わりの中で見えてくる欲求、社会的な欲求が十分に満たされていないと、とかく不安定になりがちです。どんな関わりの欲求なのだろうか。それはケースバイケースです。

それはある時は愛情かもしれないし、私をみて「これ作ったの、みて」と認めてもらいたいという承認の欲求かもしれません。あるいは自分でやりたい、思う通りにしたい!という自在感のようなものだったり、何かを成し遂げた時の達成感のようなものの時もあるでしょう。また、お友達という仲間の一員になりたいという仲間意識、所属感のようなものも、あるかもしれない。

規範意識が育ってきたからこ生まれる葛藤もあります。自分はきまりやルールを守っているのに、そうじゃない姿を目にすると「違う」と言いたくなる気持ち。そうすることになっているという事を守れないお友達への注意をめぐって、手が出てしまうこともあります。公平感や正義感からくる「守らないのは悪いこと」という意識から、強い働きかけが生まれてきます。指摘されて「あ、そうだった」と、行動が変わればいいのですが、そう簡単にはいかないものです。それができるようになるまでに、ある程度の時間がかかります。

とにかく、いろいろな「思い」の伝え合いの中で、それが子ども同士の中でぶつかり合ったり、受け損ねたりし、誤解しあったりすること、やりとりしている間に、こんがらがってしまってうことも起きます。子どもたちは、幾つもの「こうしたい、ああしたい」が絡み合って、それぞれの主張がぶつかってしまう時もあります。さらに感情的になって、気持ちを抑えきれず、手が出てしまうこともあったりします。

子どもは「やり方が違うよ、こうだよ」と優しく教えることができず「違うよ、ダメだよ」という強い言い方になることもしばしば。それを無視したり応えたりしないと、伝えた方が「制裁」への向かうことがあります。先生に言いつけにくる、といこともあります。守ってほしいルールは子どもがやることなので単純明快な方がよくて、人を叩いたり(バンしたり)、蹴ったり(キックしたり)、噛み付いたり(ガブしたり)はダメだよ、ということは、大体小さい時から理解していきます。それでも、相手がそうしてくると、つい自分も「応戦してしまう」ということだったあります。

このような我慢できる力や、感情をコントロールする自制心などは、持って生まれた特性や経験の積み重ねの度合い、他の欲求が満たされているか(睡眠不足とか運動不足、お腹が空いているか)など、生理的な欲求も含めて、どうなっているかという個別の影響なども相まって、いろいろなことが影響します。

先生や親の話も理解して、わかっているのですが、実際にその場面になるとまだできないということもあります。私たちは、起きた事柄の経緯から、それぞれの子どもの「こんなつもりだった」という思いを丁寧に受け止めていくこと(言葉で表現できないことも多いくて、察していくしかないことも多いのですが)を大切にしながら、伝わっていないときは、仲介して「こういうつもりだったんだって」と代弁したり、橋渡しをしたり、しています。どっちが正しかったか、ということはあまり優先しません。そもそも、白黒つけることが目的でもなく、それぞれの折り合いの付け方、気持ちの寄せ合い方、許し方、仲直りへの気持ちの整理の仕方などを、体験的に学んでいく、貴重な体験の積み重ねだと思っています。

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