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園長の日記

ライブクッキングで3キロの椎茸のをペロリ!

2024/10/09

本当にびっくりしました。今日のお昼ご飯のときのことです。幼児組の子どもたち20人が3キロの「しいたけ」をペロリと平らげてしまったのです。一人当たり平均150グラムも食べた計算になります。個人差があるので、もっと食べた子もいます。しかも主食の「カレーうどん」と副菜の「つくねハンバーグ」に加えて、です。

子どもたちの目の前で椎茸のソテーが始まると、キッチンカウンターから匂いがダイニング中に漂います。ふつうは厨房でできた献立は、食べるエリアにある配膳台にもってきて並べるのですが、今日はカレーうどんなどが並ぶお鍋のとなりで、生の椎茸が焼かれていくのを見ながら、出来立ての椎茸を皿に盛ってもらったのです。そのライブ感がさらに食欲をそそります。名付けて「野菜のライブ・クッキング」です。

子どもたちが喜んで食べたもう一つの理由は、先月9月11日に行った「味覚の探究」で、いろんな「きのこ」を食べ比べて、その美味しさを知ったから、ということもあります。満足そうな子どもたちのたべっぷりをみながら、こんな調子で野菜好きの子どもたちになってくれたらいいな、と思いました。

子どもの「その先」を一緒にみつけていく楽しさ

2024/10/08

たくさんある「どんぐり」が、今日は2歳児クラスで活躍していました。

日誌より「今日は、お部屋でドングリコース作りや自由遊びをしました。 どんぐりころころ♪♪♪ ころころ転がすことを繰り返したり、テープをつけて転がしてみたり、斜めにしてみたり色々と生まれてきていた子どもたちの思いつき。」

牛乳パックや、空き箱をつないで、おろがっていくどんぐり。あるいは、大きめの丸い筒を半分に切ったコースを、ころがしてみます。だんだん長くなって、傾斜があるので繋がると一方が高くなっていくのですが、どうやったら高くできるかの工夫が面白いです。そばにあった絵本を積み上げていくことに気づいたり。

先生の配慮はこんな風です。「今日は、廃材を使って大きなコース作りを楽しみました。テープのペタペタ。長く切ったり、貼ったり、並べたり、坂を作ったり」・・・

こんなとき、大人はつい「上手く転がるように、大人が必死になってしまうのですが、上手くいくようにするのではなくて、感じ取ったこと、気付いたことからやってみる声を大事にしていきました。」とあります。

先生が配慮しているのは「支え」や「提案」も、その子の見えている、あるいはみたいと思っている先を一緒に見つけていく感じでしょうか。「・・気づきや遊ぶ姿の中で、どこまで教えるのか、伝えるのか、子どもの見ている世界について見え方が一人一人違う事に面白さが沢山ありました。」先生もそれをみつけていく楽しさを感じている様です。

 

主任が2歳児クラスで「手洗い指導」

2024/10/08

2歳児クラスで主任による「手洗い指導」をしました。10月4日の「保健情報」でもお伝えしましたが、東京都は「マイコプラズマ感染症」が過去最高記録を更新しています。これに限らず、今いろんな感染症があります。咳が続いたり熱が出て受診すると「新型コロナ、アデノ、インフルどれも陰性でした」といった報告を受ける様になりました。保育園は感染症の流行に警戒します。環境を衛生にたもつだけではなく職員も手洗いやうがいなどを励行していますが、子どもたちにも「バイキンをやっつけよう」と、手洗いの大切さを教えます。

🎵しあわせは あるいてこない だからあるいていくんだね〜

2024/10/07

外遊びが気持ちいい季節です。散歩の途中で、満2歳の子が「そのうたすき」と言ったそうだ。そんことぐらいよくあることで、1歳児クラスの今日の日誌に書いてある。好きな歌は、いろいろあっていい。歌を聞くのも歌うのも好きな子が多い。ん?でも、この歌は・・・

<・・・行き帰りの道中も手をつないで歩いていましたが、にこにこさん(2歳児クラス)が道端でかくれんぼすると、同じ場所に行ってみるなど、色んなことに興味を向けています。

「しあわせは~あるいてこない♪だからあるいてゆくんだね~♪」

と大人が歌いながら元気よく歩いていたら、ケラケラ笑いながら一緒にまねっこして行進!Wちゃんは「このうたすき」と教えてくれました^^ 体力もついてきて、歩く距離もどんどんのびていますね。・・・>

ちょっとまってね。先生たちは、まだ・・・代でしょ。この歌は水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」。私が小学生の頃に歌っていた記憶があるので、いま調べたら1968年の曲です。先生たち、よく知っているなあ、と変なところに感心しつつ、でも確かにこの曲は散歩にもってこいかもしれない。ジブリもいいけど、これも元気、出そう。

「人生はワン・ツー・パンチ、汗かき べそかき 歩こうよ あなたのつけた 足あとにゃ きれいな花がさくでしょう」

日誌の写真には載ってないけど「・・・と大人が歌いながら元気よく歩いていた」とある。きっとその姿が面白かったんだろうなあ。みてみたかった。先生が元気ハツラツ、じゃなくっちゃね。こんど、親御さんも一緒にみんなで運動会で一緒に歩いてみたくなった。

 

赤ちゃんたちは研究者

2024/10/05

今週のクラス別ドキュメンテーションを見直してみたら、外遊びがふえて春にやった同じ活動が復活しているのですが、前よりも変わっていることがあります。ダンゴムシをまた部屋で飼い始めた男の子たちは、以前の学びを活かしてすぐにおうちが完成しました。弱っているダンゴムシと元気なダンゴムシがいるそうで、その見分けがつくというのも大したものですが、土がない!と本当に泣きそうな顔で心配しています。

子どもの姿の目の付け所が変わってきた先生もいます。今年は子どもの「探究」する姿に着目しているからでしょう、子どものいろんな「気づき」に気づこうとしています。たとえば10月2日の個人別の日誌。

「Kちゃん(10ヶ月)は、日の光が差し込んでいるところまで探索にいくと、立ち止まって床を叩いていた。保育者も同じように手を当ててみると、他の場所よりあったかいことに気づく。温度の違いに気づいたのか、色の違いに気づいたのか、Kちゃんはどんなことに気づいて立ち止まったのか。子どもたちの気づきや発見に保育者もよく気がつき、感じていることを一緒に味わっていきたい。」

Nちゃん(13ヶ月)は背の高さにあったコンビカーを選んで探索を楽しんでいました。鏡のところまで行くと、ぶつかってしまい、どうしたら進めるのかな?と試行錯誤していました。

「コンビカーで鏡のところまで行くとぶつかって動かなくなってしまう。前に進めてみたり動かしてみたり、どうしたらいいのだろうと試行錯誤しながらやってみる中で、バックしたらいいのかもしれないということに気づき、バックして動かしていた。自分で試行錯誤するなかで、ものの性質について学んでいくため、物事にじっくりと関わる機会や時間を大切にしていきたい。」

昨日は朝急に雨がふったので室内散策に切り替えた時、「音」をテーマに、いろん部屋に楽器をずらりと出して置いて、好きなように関わらせてあげていました。

「園内探索の中で、楽器に親しむことができるように、探索先に様々な楽器を用意してみる。気になって手に取ってみて、触れてみたり、振ってみたりする中で、音が鳴り、その面白さを感じて、触れてみることを繰り返す姿があった。 3階ではお兄さんやお姉さんがハンドベルの演奏をしていて、その姿を見て同じように手にとって振ってみたり、触れると音が鳴ることに気がつき、様々なベルを鳴らしてみる姿があった。 探索先にさまざまな仕掛けを用意したりしながら、子どもの触れてみたい•関わってみたい気持ちを引き出していきたい。」

赤ちゃんたちが「まるで研究者のように」見えていたそうです。いや、先生たちも子どもたちに負けない研究者のようですよ。

そこのところを大事に想像する難しさ

2024/10/04

子どもは気持ちや思いや考えを、言葉にしても表現にしても、まだ外に出すことが難しいので、何をどう感じたり思ったりしているのか、周りの大人がよくわからなくなることがあります。いやなの? 不安なの? ちょっとこわいね? 迷うよね?・・・というのは感じ取れる子もありますが、どういうふうに、なぜそうなのか、あるいはどうしたいのかなどが、本人と一緒にこちらもわからないで思案するという感じです。

思いなどの内容にしても、表しにくい仕組みにしても、その理由がわかると、そういうことだったんだね、ということになるのですが、その「わからなさ」と「そうだったんだね」の間の中間は、狭いのか広いのか、精神は性質なのに、そういう空間化して量にしてしまう私たちの誤解なのか、いずれにしてもそういう世界があるんだろうと思います。

思い通りにいかないで癇癪を起こすという見立てが的を得ているときもあるでしょうが、それはまだわかりやすい方の部類で、なんで?と、よくわからないこともしょっちゅうあります。私たち大人は(というか子どもそうですが)、その中間部分をなかったことにしがちかもしれません。大人によっては、なにかそれを表わしてくれない方が悪いみたいな空気感を醸し出してしまうときもある気がします。そういえば、子どもはそういう雰囲気はまず出しませんね。

 

それに輪をかけて、もちろん人によりますが、それを焦ったく感じたり、子どもの方へ「しょうがいないなあ」という気持ちをなげかえしてしまっていることもありそうです。私もしてしまうことがあります。そういう気持ちで投げ返され方は子どもの方は、また「ちっとも、わかってくれない!」という気になって泣きそうな気持ちになったり、イライラしたり、「もう、しらない!」とプンプンしたりします。場合によっては怒って、癇癪をおこすことだってありますよね。大人もいつでも仏様みたいに対応できるものでもない、というのが現実でしょう。

気持ちが落ち着くのと、気持ちの整理がつくのは違うのでしょう。この中間地帯にいる感じは、誰からに共感的に掬い取ってもらう中で、情動が突き上げてくる感じがおさまりながら、聞こえてくる言葉が幸運にも、自分の気持ちや思いの一部分を触ってくれたような気がして嬉しなるかもしれません。そこから自分の一歩が踏み出されていけば、素敵なことなのでしょう。なにか止まっていたところから世界方への光がさすような、そんな気持ちが表情にちらりと現れて、なにかが動き出す感じ。それなら・・と気持ちが動き出していきます。

私たちはそんなとき、「疲れていたし」「今日は体調もイマイチだったし」とか、コンディションの要因を語り合って中間部分をそっとしておくことにします。そういう光景をみると経緯をよく知っている担任のおおらかさに本当に感心します。そこは本人しか関与できない大事な人権の領域なのかもしれませんから、それを大事にしてあげているのでしょう。

「子どもといると励まされる気がしてくるんだよね」

2024/10/03

子どもと共にいると励まされる気がしてくるんだよね。私の友人がそういいました。私もそう思います。

その話の影響で、今日はちょっと変なことを書きます。世間ではいろいろなことが起きていますが、それでも、私たちはもはや狩猟生活者ではありませんから、いまのところ日々の食べ物に苦労する事はとりあえず無いのですが、今日、年長さんは魚釣りにでかけたのですが、さっぱり釣れず、戻ってきました。最初から疑似体験や遊びとして計画されている活動ですから、たとえ獲物が取れなかったとしても、切迫感はありません。それなりに子どもたちの落胆はあるのですが、魚がつれなかったとしても、生死にかかわるようなことでないので、死に物狂いなるようなことでもありません。

衣食住に事欠かない平和な社会生活の中にあっても、子どもの飽くことのない熱量に圧倒されっぱなしです。子どもの好奇心の旺盛なことと言ったら、まるでスポーツのハードトレーニングをやっているくらいエネルギーを費やしています。とにかくエネルギッシュで飽くなき探究心に満ちています。それは乳児も幼児も同じです。

次から次へと何かを見つけてきてはやりたがり、その都度、ああでもない、こうでもないと試し、その最中をじゃまされると怒り出し、やった〜できた!と自画自賛しては「ほら、みて」と認めてもらうことも忘れず、外へ行こうと室内であろうと、自分でなんでもやろうとして挑戦し続けるような姿の連続です。もちろんお腹がすけば、お昼ご飯をもりもりとたべて、疲れてうとうとしたり、お昼寝をしたりします。

そういう姿がうまれている仕組みのようなことや、どうしてそうなっていくのかといった意味を理解しようとすると、とてもミクロな営みを大きな流れの中でとらえていくような努力が必要になります。それを解明するのは専門家でも相当に難しいことのようです。

たとえば、保育園生活の1日の中に入っていることを全て取り出すことができるとしたら、その数は宇宙の星の数より多いのかもしれません。まさか!と思われるかもしれませんが、本当にそういういことかもしれません。もしそうなら、とてもそんなことは、できっこないので、とりあえず、共通理解ができる、ある常識的というか、理解し合える程度のコミュニケーションのスタイルに落ち着かせておくことが必要になります。

そうせざるを得ないのは、たぶん人間が切り結んでいる私たちの世界の捉え方が、ある枠組を通して理解しているからで、捉えきれていない世界が膨大であるかもしれないことと関係するでしょう。また一方で私たちの表象や記号は現実とずれているので、否応なく増殖していくという現象となって現れているからでしょう。

赤ちゃんの首が座った、寝返りを打った、初めて歩いた、そんなことも、1つずつの中にさえ、銀河系の星の数ほどの様々なことを取り出すことができるでしょう。そんなことをしても、私たちの普通の生活にとっては、あまり意味をなさないでしょうから、私たちの長い進化のなかで生じた必要に応じて、作られてきたスタイルを基本にしながら、物事が成り立っていると思えばいいのでしょう。

ですから、私たち散文的な出来事を語りながら、ときどきその細部に分け入って、驚いたり、不思議だったりしながら子どもと共にいる面白さを楽しみたいと思います。

「ねこのお医者さん」にみる2歳児の言葉の理解

2024/10/02

子どもたちが環境の方から自らに取り入れていくものはたくさんありますが、ことばはその最たるものかもしれません。昨年ベストセラーになった今井むつみさんと秋田喜美さんとの共著『言葉の本質』を読んだら、保育園で散々やっているCDS(チャイルド・ダイレクテッド・スピーチ)やらオノマトペやらがいかに大事なことかと再認識する機会ともなり、また赤ちゃんたちにとっての周りの人の「声」や身体的な体験(専門的には「身体的接地」ということなのですが)のありようを振り返る機会にもなっています。

先週のお誕生会で、また数年前の3歳児のお楽しみ会で親しんだ「ねこのお医者さん」を、夕方4時ごろ満2歳半の子どもがお医者さん役になって、担任と楽しんでいました。歌に出てくる患者さんは、その場のアドリブで先生がいろいろ演じます。

まぁ、なんでもいいので、先生がお熱が出て体温を測ってもらったり、咳が出たからと咳止めをもらったり、隣にいたRちゃんが鼻水が出ているからそばのティッシュをもってきてもらったりと、2歳のお医者さんが、できそうなことをお願いしながら、いろんな病気を治してもらっていました。

その都度、言葉が通じて、何か行動ができてしまうというのは、一見あたりまえのことのようですが、この本を読んだ後だと、それがいかに凄いことなのかということがわかるのです。

そこで気づいたのですが、あれは何と「もの」の名前をどんどん覚えていく年齢なのですが、「もの」や「動作」から「名詞」や「動詞」を覚えていく方向と同時に、名詞や動詞から、それを理解して見立てることもできてしまう姿をみていると、本に出てくる「言語の本質」のアブダクション推論の「洞察」の具体的な実例を確認しているかのような感覚を覚えました。この本の面白さは「オノマトペ言語起源説」という提案になっていることですが、著者はあくまでも「それも仮説です」と断ってあります。このテーマは永遠の近似値さがしなのでしょうけれど。

とにかく、人間は不思議なことですが、人間の知性がとらえる範囲を超えたところに、世界に組み込まれている生命の仕組みは働いているように思えるので(別に神秘的なことをいいたいのではないのですが)、知覚と行為のその間をいくら細かく分析してみても、子どもの成長という事実は、そうした理屈を超えているように感じてしまいます。

赤ちゃんの探究の姿がこんなところに見られました(東京すくわく)

2024/10/01

これは今日の「ちっち」の日誌です。

「和泉公園では開放的な空間に、思わず芝生の上走り出す子どもたちの姿があった。広々とした開放的な戸外の空気に触れて、その環境により、子どもたちの「動きたい」という意欲が引き出されている。たっぷり探索しているうちに、様々な落ち葉を見つけ、触れてみたり、よく乾いた落ち葉では、そのパリパリとした音が面白いようで、ちぎってみることに意欲的な姿もあった。様々な種類の落ち葉、そして湿ったものや乾いたものなど、その質感やちぎる感覚が異なるので、様々な質感の落ち葉に触れながら、その違いを肌で感じたり、興味をもって関わってみたいという意欲を引き出していきたい。 Nちゃんはマンホールの窪みを発見し、手で窪みに触れる中をほじってみると、土が手につくということを発見していた。じっくりと関心をもったことに関わっていけるように、引き続き、連携して見守っていきたい。」

先生は赤ちゃんが「探究」していく方向性をよく感じ取っています。それはこの部分です。

「様々な種類の落ち葉、そして湿ったものや乾いたものなど、その質感やちぎる感覚が異なるので、様々な質感の落ち葉に触れながら、その違いを肌で感じたり、興味をもって関わってみたいという意欲を引き出していきたい。」

この赤ちゃん自身が「その違いを肌で感じたり」そして、質感や感覚の違いからくることも手伝って「興味をもって関わってみたいという意欲」を引き出していきたい。そう、そう。そこそこ、と思って読みました。

 

 

探究に必要な面白さのうまれるところ 

2024/10/01

(園だより10月号 巻頭言より)

お店屋さんや野球ごっこなど、造形的なごっこ遊びをみていると、子どもが環境を変化させているので、飽きることなく続く物語のようでもあります。次々と新しい面白さを探求しているかのように、遊びが展開しています。面白さという坂道があって、そこを遊びが転がっているかのよう。しかもその坂道も自分たちで作っているように見えます。もちろん3歳ならそれなりの、5歳ならそれなりの、なだらかだったり急峻だったり、でこぼこだったりするのですが、その兼ね合いが異なっているからこそ、遊びにも助走があったりピークがあったり、終息があったりします。

乳児の場合は「もっかい!」と1回じゃなく何度も言われます。何度も同じことを繰り返しやってみます。でもきっと、それは同じじゃないのでしょう。毎回やるたびに、なにか違う体験になっているからこそ「もっかい!」というのでしょうし、逆に同じ繰り返しに飽きたら、もう言わなくなるのでしょう。とすると「面白い!」と「もう飽きた!」の間に、体験は生じるでしょうか。面白そう!と思うということは、また自分の中にまだ十分に取り込まれていない未知の部分があるということでしょうし、もう十分取り込んだから、お腹いっぱいです!もうたくさん!ということなのでしょうか。

その時はそうかもしれませんが、またしばらくして同じことをすると、以前の「面白そう!」とやったときの記憶は薄れ、すでに分かっていることやできることがあって、一見同じことに見えることでも、新しく気づくことがあれば、「もっかい!」となるのでしょう。その違いは本人と環境の間の違いが「新しい面白さ」として立ち上がっているようなことだとすると、本人が変わった部分がそうさせていたり、同じように見える環境であっても、子どもの手が加わったことで、実は環境が変化しているからくる面白さなのかもしれません。

幼児になると、ごっこの道具を子どもが作り出しながらの遊びの場合は、そこに作り出す面白さも加わっていて、簡単にできるもから、かなり手の込んだものまでいろいろあります。そこに登場したものの数々も、十分に何かを取り入れてしまった後は、子どもたちは「もいいい」と片づけてしまいます。それをみると、宝物のように大事に作ったものも十分に遊びに使われてしまうと、まるで脱皮する動物の抜け殻をみるかのよう。子どもたちは目に見えないものを子どもたちは、身につけて次の世界へ進んでいます。

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