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園長の日記

子どもは辛抱づよい

2022/11/06

子どもは大人より辛抱づよい。

子どもといると「あ、そういうことね!」と気づくことが「たくさん」あります。「(ごめんね)そういうことだったのね」と。

たくさんある、ということは、子どもにとっては「気づいてもらえないことだらけ」なんだろうな、とさえ、思います。その「多さ・少なさ」加減は、大人は自分の経験から「たくさんある」と思えますが、経験の少ない子ども本人にしてみれば、なにが多くて何が少ないのかさえも、その基準さえ持ち合わせていない気もします。

だから、子どもはなんて辛抱づよいんだろう、って思う。

それに比べて私はすぐにイラッとしてしまう。

気づいてもらう、ということは「わかりあう」ということ。

いっとくさんは「相互承認」って言ってたな。ヘーゲルもそうだった。

わかってもらえた、と感じると、自分の気持ちが動く。一歩前へ。

だけど、気づいてもらえないと、気持ちはとどまる。

だから、人の気持ちも創発的にできているというのか。

もしも、気づいてもらえていないと、人はその次の気持ちになれない。

だから気づいてもらえてないと、思いはそこに留まってしまうんだろうな。それを気持ちが蟠(わだかま)っていくというのかな。こだわっているように見えるのかな。

そう見えるのは、こっちにおいで、と相手を変えたがっている見方だから。

そうじゃない。相手のことを「気づき合うこと」。気づくことは気を配ることだから、気配り。それをケアといもいう。

共感してもらえること、承認してもらえること、それがお互いに起きること。相互承認のこと。

子どもは辛抱強い。

大人はもっと辛抱強くありたい。子どもたちのために。

6つの「C」を読み返す。

コミュニケーション。

「対話して他者の思い・考えを理解する」

ああ、できてない。

「根拠くなき自信をいだく」

ああ、これかも。

「失敗に怯まず挑戦しつづける」

これなら、できそう。

でも「熟慮した上で」つきか。

よく考えよう。

6つの「C」

2022/11/05

今週を振り返って。ある研修会で。こんな表を玄関に貼ってある園があります。この6つの「C」で始まる言葉を体になじませてみたい。実際にやってみて、それがこれかな?と当てはめてみていく。レベルがあるから、方向性に見当がつきやすい。こんなことが生きていく上で大事、みたいなことを自分で引き寄せていくようになる環境をどう用意しようか。そういう環境とは、状況なので、活動、と考えてみれば、ある目的のある活動に参画していくこと。その過程で「学び」は生まれていくだろう。個人の能力に帰せないプロセスとしての変容。まさに資質・能力としても捉えられる。昨日までの学びを活かした「見方・考え方」を働かせるとすると、こういう理解になるのかな?どうでしょうか?

自主上映会の参加費をめぐって若者論に

2022/11/04

こんな会話が楽しい。「自分が大人と思うなら1000円。子どもと思うなら無料」。なるほどね。今日は保護者の方と映画会の参加料金を話し合っていて、いろんな考え方に触れることができました。11月20日(日)に保育園で映画「夢みる小学校」を上映するのですが、そのフライヤーに、記載が抜けていたことに気づいたのです。会費は1000円で、子連れ歓迎、としていたのですが・・・以下のような議論の展開に・・・

「子どもは無料はいいけど、高校生は子どもなの?」「じゃあ、高校生以下は無料にする?」「でも高校にいってない子もいるよ?」「じゃあ18歳以下無料にしたら」「若者からはあまりお金取らなくていいんじゃない?」「働いていないと無料とかにしてあげたい」「でも若者って何歳まで?」「・・・25歳まで」「どうして?」「なんとなく」「いっそのこと30歳以下無料とか」こんな感じの展開になっていき、私の理想は・・

「私の理想は、応能負担。上映鑑賞料無料。ただ経費30,000円を皆さんの志で支えていただきたい。目安として1000円ですが、100円でも構いません。この映画の鑑賞機会を増やすために、カンパしていただける方は大歓迎です。」ができたらいいな、と。無料でカンパ方式とか、色々ありえます。ただ今回はあまり時間もないので、ある年齢で無料にすることになりそうです。

この検討は、この映画をどういう人たちに見てほしいのか、目的は何かを明確にすることが問われ、その一方で、大人の若者への見方も問われていることになることもわかりました。大事なことを考えるきっかけになりました。

創発から見える認知の変化

2022/11/03

昨日ご紹介した満2歳を過ぎている二人の子ども(1歳児クラス)の会話は(写真)、その子にとって相手がいないと創発しない体験です。保育の焦点はこちらの環境論にあります。遊びにおける虚構場面が発達の再近接の領域であるといえる、そんな見立てをしたくなる「ごっこ遊び」ですが、どんな「地」を持ってきてみるかで、「図」は変わります。多様なレパートリーを語り合う談話が、当園の職員の特徴です。そのメガネは学ばないと見えません。そこは研修です。ただ見合っても視点は生まれません。

最近、面白いアナロジーに気づいて、色々と考えているのですが、それはあの「3つの資質・能力」のことです。あの三要素に分かれていることは、あの使い方を間違えると、また従来通りのことになってしまわないか、ということです。三つがつながって作用しあって働く体験としての「コト」が大事。また「学び」の姿を3つの視点から分析的にみることが出来ますよ、ということであって、それぞれの概念は、それ単独で常識的な意味でバラバラに解釈しない方がいいんじゃないか、という話です。評価が難しいからといって、それぞれがバラバラなんでことありえないわけで。

というのは、相馬先生にご紹介いただきた本「私たちはどう学んでいるかー創発から見える認知の変化」(鈴木宏昭・ちくまプリマー新書)を読んで、私たちに染み込んでいる知識、とか能力とか、身につける、といった言葉を見直してみることで、面白いことが仮説的に見えるからです。

この本の趣旨を私なりにまとめると、発達や学びは、その本質は身体的な「コト」であり、実践の中で創発している事象でもある。だから表象や記号に置き換わったもの(例えば文字や図で書かれた教科書)だけで、進める理解や知識は、当然ながら本来のコトではなくなるから変容しにくい。佐伯胖さんの「学びの構造」や「わかるということの意味」などに親しんできた私としては、この学びの環境との創発論は、とても面白いものでした。

「育みたい資質・能力」はあくまでも一体的に育むものであり、環境との創発という体験としての事態=「コト」を通して変容の姿として3つの側面から分析的に捉えることが出来ますよ、ということはないでしょうか。体験は生き生きと、全身と五感がかかわって実感が湧く働き、つまり情動も認知も動員されたものです。そこから人間ならではの、意味やよさを求める判断や思考が動き出すことで、本当の学びにつながっていく。そこに循環が生まれる。

こんな理解に一貫した理路を与えてくれているように感じたのでした。ただ飛躍するかもしれませんが、これは総合的な学習や、合科的な学び、あるいは体験学習や生活科、そうした「なすことによって学ぶ系」の理論とも整合性があるような気がします。特に、遠隔項がプロジェクト的学びの目的にあたり、その達成に向けた活動が、近接項の習得となって透明になっていく(身についていく)ことに似ていると思いました。

従来の言い方を借りると「なぜ学校で学ぶ知識が実生活に生きて働きにくいのか(昔は、なぜ転移しないのか、という言い方で問われていた問題)」に近いものへの回答の一つが、ここにあるように思えます。昔、波多野誼余夫さんに学力の転移問題のレクチャーを受けたことを思い出しました。

子ども同士の姿

2022/11/02

うちの保育園や姉妹園の保育エピソードは、大抵が「子ども同士」の姿です。

自分(保育者)と子どもの関係を間主観的に描写したものは意外と少ないのが特徴と言えます。

ですから園のブログでも、そんな様子がよく拾われて描かれています。

このことの意味は深くて大事なことを保育界へ提示していると思うのですが、それはまた別の機会にするとして、昨日のブログには、1歳児クラスのぐんぐん組の子どもたちが、朝の会を開いている様子が報告されています。

ちょっとだけ、その覗いてみると・・・

・・・・以下はクラスブログから・・・・・

・・・朝の会ごっこでウクレレやギターの真似っこをするのが好きなぐんぐんさんが多いので、この日は段ボールにお絵描きをしたあと、ウクレレ(ギター?)の形に切ってあげました。
そうしたら、さっそく朝の会が始まりました。

「せーんせいおっはよっ♪みーなさんおっはよっ♪…」「先生おはようございますっみなさんおはようございますっイェイイェーイ!」「今日のぐんぐんさんのお休みは、ひとりですっ」
そして、お友だち同士で「なんのお歌がいい?」とリクエストを聞いています。ごっこ遊びの中からもいろんなやりとりが生まれます。

ちっち組のSくんもその歌声を聞いて身体を揺らしながら「朝のうた」をきいていました♫

 

ふたりで何の歌を歌ってるのかな〜と思ったら・・・
「まぁるいみどりの山手線っ まんなかとおるは中央線っ…アキバのヨドバシカッメッラッ♪」

さすが、秋葉原!ご当地ソングですね〜。(笑)

子どもたちが真ん中の生活に

2022/11/01

「園だより」11月号 巻頭言より

上半期を振り返っていただいた保護者アンケート、ご協力ありがとうございました。回答は、ほぼそのまま一覧表にして、フィードバックさせていただきました。どんなところをもっとよくしていくといいのか、たくさんの気づきをいただきました。11月からの保育に活かしていきたいと思います。

さて、子どもたちは面白いことが好きです。上手にできるようになりたい、ということもありますが、まずはいろんなことをやりたいのです。やりたいことの中には、成長につながる体験が詰まっているようです。また誰かのために、見せたり教えたりすることも好きです。大きくなると楽しいことを計画することも大好きです。

そこで、今年の「お楽しみ会」は、これまでの劇や歌だけではなく、いろんな子どもの「表現」を探究できるものにしてあげることにしました。それは、先生たちの、こんな話し合いからです。

 

「ひとくちに『表現』と言っても、人前で演じることが好きな子もいれば、モノづくりや製作が好きな子もいれば、歌やダンスが好きな子もいるよね…」

「今までとは少し形を変えて、劇や歌に限らず、もっと幅を持たせてそれぞれの子どもが得意なこと・好きなことを生かしていけるような形にできないか」

「子どもたちが、お父さんお母さんに向けて、『おたのしみ』を考えて、その日に向けて子どもたち自身も「楽しみ」ながら準備を進めていく」

「イメージは、子どもたちが作る『文化祭』のような感じ」。

「どんなことをやるかは、今後、子どもたちの中からどんなアイデアや話し合いがうまれてくるかで決めていきたい」

・・・というわけで、私たちにとっても、これからの「おたのしみ」です。子ども自身が持っているものを、「そのまま」でありながら、「さらに」でもあるような体験が生まれたら楽しそうです。そんなことが起きるような、子どもの願いが叶えられていくような、そんな日々を過ごしていきたいと思います。

私たちの合言葉は「子ども真ん中の生活」です。今後の保育の中でいろいろなアイデアや活動が生まれてくることを一緒に見守っていただけたらと思います。

沈黙の中の声を聞くこと

2022/10/29

「お友達の考えていることは(お友達が)話してなくても(心の)声が聞こえるからわかる」。上半期の保護者アンケートを読んでいてびっくりしました。年長さんになると、こんなことを言うようになるんだと。これを書いてくださったお母さんと、届いた数日後にその子の成長について喜び合いました。

こんな子どもの姿もあります。

<・・・印象的だったのは、その活動は誰の発案だったのかを子どもがしっかり覚えていること。「これは〇〇くんがやりたいって言ってた事だから、ほんとうにできてよかった」「これを決めるとき、〇〇ちゃんはやりたくないって言って、なかなか決まらなくて大変だったんだよ」など、息子の話から話し合いの様子を垣間見ています。その姿から、自分の希望を伝える力だけでなく、お友達の意見に傾聴する姿勢も育っていると実感しています。>

語り出すのは、その子どもによって、いろんなタイミングあります。映画「こどもかいぎ」にも、子どもが語り出すまでの過程を描いたシーンが登場します。

さらに、もっと大事にしたいのは、子どもの沈黙の方です。子どもは声に出さなくても、いろんなことに気づいていて、黙って感じとっているということです。ことば以前のことば。行動に現れる前の内面の心の動き。沈黙の中の豊かな声。そっちのことです。発することばではなく、その子が向かっている世界に私たちが教えてもらいにいくこと。その子どもの声に耳を傾けあってほしい。そうあってほしいという親御さんの声も聞こえてきます。私たち大人はそういう柔らかい姿勢をもっと学ぶ必要があるのでしょう。

自覚的学びへの移行について

2022/10/29

今日はずっと「自覚的学び」への漸進的移行の保育事例を探して過ごしました。そして気づきました。これだと。そしてもう一つの疑問も解消しました。無藤先生の指南のおかげです。それを説明します。

昨日27日午後、交流している他園の先生たちとSTEM保育の勉強会をズームで開き、こんな試みはどうだろうと事例を出し合ったのです。主に光や色、鏡、匂いなど「面白さや不思議さ」から試行錯誤する様子がたくさん報告されました。

その中で「幼児はわかりやすいが、乳児の場合はどうなるのか」が疑問になりました。過去の経験との認識のずれのようなものが「あれ!」という気づきや疑問を生み、どうして?と追究するのでしょう。しかし乳児から幼児前期ごろまでは、自分が「わからないことが分かっていない」ので、外界への問いかけが生まれません。

私はこんな例を出しました。拾ってきた石を洗っていたら、軽石が何個かバケツに浮いているのですが、その3歳児は不思議に思わないという例です。先行する経験の累積的記憶がないと矛盾なり新奇性なりの面白さを感じる認識を持てないのでしょう。これがだんだんと認識的に発達していくと「自分がわかっていないことに気づき、その分からなさに向けて理解を進める営み」としての自覚的学びが始まるというわけです。

例えばその勉強会で報告された事例は「白い花に色水を吸わせると、色がつくのとつかないのがあって不思議がっていた」「浮く沈むの実験に夢中になっていた子は、ちょっと時間があると自分から、これはどうなるだろうと、水槽に水を汲み、芋掘りで取ってきたさつまいもを入れて確かめている」。こういう姿は幼児後半です。

さて、もう一つの「納得的気づき」は、小学生の「自覚的学び」になっていない学びの例です。101日に南アルプス市の「南アルプス子どもの村小中学校」を訪問した時、堀真一郎さんが、こんな小学生にしてはいけない、という例を話されました。こんな算数の問題がわからないという子です。

「旦那さんは1980年生まれ、奥さんは1982年生まれ。二人の年齢の差はいくつでしょう」という問題。その子は「年齢の差を出す出し方は教えてもらっていないからわからない。教えて」と言ったので、堀先生が「そのわからないことを考えるのが、この学校だよ」と答えたら、「ケチ」と言われたそうです。

私はこのような学び方が、勉強に向かっているから「自覚的学び」のようでありながら、本質的な学びではないと考えてしまっていました。そうではなく、これは自覚的な学びになっていないことになります。なぜなら「自分で分かっていないことに気づいていない」からです。

能動的注意が自分の「わからなさ」に焦点化されていないから、と言っていいのでしょうか。理由や論理性のない理解が、ただ正解を解く方法の暗記になってしまっている学習が多くないか、それが学びを面白いものに感じることができず、成績も不振になって学校へ行く動機を見失う、そんなことも不登校の要因の一つなっている可能性は、やはりあるでしょう。

学びからの逃走としての不登校が希求する学びとは

2022/10/27

自覚的な学びと無自覚な学びという時の「学び」は、学びの本質とは違うんじゃないか、そう思うことがあります。自覚してやっている学びにもいくつか種類があって、本質的な学びになっているものと、そうでないものがあると感じます。また、それと同じように無自覚な学びといわれる遊びにも、本質的な学びとそうでないものがありそうです。

遊びの中の学びを無自覚と呼び、学校の勉強を自覚的な学びと呼び分けてしまうと、何か表層的で、本質的な問いが埋もれてしまうのではないか、そんな懸念も伴うのですが的外れでしょうか。その問いかけが不登校にも現れている気がします。学校という自覚的な学びからの無自覚の逃走(さらにいうと、逃走という形での警鐘あるいは警告)、そんな側面もあるでしょう。また一方で、保育園にも、やらさていることは無自覚でも、本当の自由遊びでないことから不満を募らせてイライラを何かにぶつける園児もいるでしょう。

歴史的にみても学校制度ができてちょうど100年経ったころ、つまり近代の学校制度の目的が機能しなくなったポスト近代に差し掛かる1980年代、一斉画一的教育の「無効宣言」のように不登校(当初は登校拒否といい、病気扱いする風潮さえあった)という現象が社会問題化されました。その当時、すでに「母を亡くした日本人」「父を亡くした日本人」を語っていた渡辺寛さんは「不登校という言葉で語られ、国がその数をカウントするとき、すでにことの本質からずれてしまっている」と嘆いておられたのを思いだします。かけがえのない命。何度もそのことを繰り返されていました。数の増減で事の軽重を感じるのはおかしい。ずっと前から「学びからの逃走」(佐藤学)は起きてきたのです。でも同じ言説がずっと繰り返されている気がします。

本人にとって本質的な学びの状況になっているかどうかが、極めて個別具体的に問われているのであって、数値が多くても少なくても、本質的な学びから疎外されている子どもたちにとって必要なものは、いま流行の言葉で言えば、個別最適な学びと協働的な学び、それを両立させる社会への参画の道筋です。より良い社会への希望を繋ぐための「学びに向かう力」です。これはアクティブラーニングを言い換えたものなので、心がアクティブになるためには、学びの場を既存の学校の「かたち」のままのマイナーチェンジでは、時代に立ち向かうことできなくなってきているのでしょう。既存のパブリックスクールが社会の変革の先頭を走ることができなくなってしまったのです。

では、改めて本質的な学びとは何だろう?自覚的だろうと無自覚だろうと、勉強だろうと遊びだろうと、そこが問われているのに違いないのです。たとえば、一つの切り口ですが、私は人間が社会脳の生物だとしたら、デファクトスタンダードとなっているその脳にフィットするような環境を用意すること。人間の脳と身体は環境との間に創発的(エマージェント)な形で学び誘発するわけですから、そんな学びが成立する学校(それはもはやスクールではなく、ラウンジやフォーラムやワークステーションだったりしないとなりません)に変える必要があるのでしょう。

不登校の話題で登場するテーマに心に還元するな、というものがあります。そもそも人の精神は環境=社会と創発的に発達しているので、人と人の間の精神機能が個人内の精神機能に反映されていると考える必要があって(ヴィゴツキー)、だからこそ、精神と自我は社会とセットで考える社会心理学が教育には必要とされてきました。工藤勇一さんがずっと主張されてきた「心の教育で解決できない」というのは、このような意味に近いはずです。

本質的な学びの原型は、乳児が教えてくれます。今日の0歳児クラスのブログには、今日も描かれているし、子ども同士の関係の中での模倣(じっと見つめて自分でやってみる)ことから「まねぶ」し「まなぶ」になっている姿をじっくりと観察できます。この真似て学ぶというプロセスが本質的な学びの本来であって、学校教育の場にそれを創り出す必要があるのでしょう。だとしたら、児童、生徒、学生に本気で真似したい、学びたいと思わせるものをいかに用意したらいいのだろう。

先日の「親子運動遊びの会」をご覧いただいた大学生から、とても嬉しい感想をいただきました。

ちょと長くなってしまいましたが、紹介します。

「自由で好奇心のままにはしゃぐ子供たちがとても輝いていて、素敵な空間だなと心から感じました。ワークの間も、楽器に関心を持つ子もいればとにかく走り回っている子もいましたが、それはそれで心惹かれるものがそちらに向いているのだなと思いました。決して「自由」を履き違えている訳ではなく、優しく温かい自由な空間が素敵でした。私はよくある普通の運動会を経験してきました。当時運動会に対して嫌な気持ちはありませんでしたが、もし自分がこのような運動会であったり保育園での日々を過ごしていたらあらゆる物の考え方が最初から違っただろうという気がしました。それは具体的にどのようなことだろうと考えると、「自ら物事に関心を持ち、好奇心を持って歩み進める力」かなと思いました。それも自ら積極的に探しに行くのではなく、自然と関心が向き、興味を持って主体的に取り組める力なのかなと感じました。これは確実にその人の人生を豊かにする力になると思いますし、得ようと思って得られる力ではないと思います。今回見学できてとても学びになりました。ありがとうございました。」

学びのエマージェントな動向を感じ取っていただいています。嬉しいですね。

1+1=田 協同的で創発する学び

2022/10/26

「あれ、うちの子だったんですね」と、お母さんが今朝、話してくれました。家で本人が「1+1=」のクイズの答えは「田じゃなくて王なんだよ」と言っていたというのです。私の勘違いによる「ツッコミ」によって、代表的なクイズの内容を変えてしまったみたい。それでも別にいいのかもしれませんが、あのクイズはいかにも代表的なものなので、その答えは、やはり一般的には「田」であることを知っておいてもらったほうがいいでしょう。「田じゃなくて、王だよ」と、主張し続けてもらっても困るかな、ことのままにしておくのは良くないかな、という気分になったのでした。

ここで書いて説明するのは、ちょっとややこしいのですが、最初からご存知の方が多いと思います。「イチたすイチは?」の「は」は、数式の「=」のところなので、ちょうど田の上と下の横棒になります。つまり漢数字の「一」で書くのか、算数字の「1」で書くのかの違いです。あとは等号の記号も使うか使わないか、なんですよね。

そんな話をお母さんと談笑したのでした。この学び直しは彼にとっても私にとっても、協同的学びですね。彼が家に帰ってから、クイズの話をしているから、お母さん経由で、「田が正解」ということにたどり着いたからです。伝えあった結果から、新たな気づきが「創発」した、といえる展開に、今朝はとても楽しい気持ちでスタートしたのでした。

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