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園長の日記

栄養士を目指す学生が保育体験に

2023/03/10

千代田区にきて4年、区内の大学との連携を進めているのですが、コロナで思うように進まなかったのが実習や交流です。やっとその一環として栄養士を目指している学生さんが保育園のボランティア体験に来ました。8日と10日の二日、それぞれ2名ずつです。保育園の調理業務、食事の提供の実際などを説明し、見学してもらいました。ほとんどの保育園は自分の園の中に調理室を持っているのですが、例外的に外部で作った「弁当」を持ち込む園があります。当園も園の中に厨房があって、直接雇用した栄養士3名(うち1名は非常勤)が、午前のおやつ、昼食、午後のおやつ、延長保育があるときは夕食(あるいは夕方のおやつ)を提供しています。

私は保育園の中に調理室があり、子どもも保育士も一緒に「食を営む生活」が展開されることが大事だと思っています。たとえば、園生活の中で料理をつくるプロセスを子どもたちが見て、色々なことに気づき、その活動の一部(下ごしらえを手伝ったり、お米を研いだり)を共有できること。そこで働く栄養士さんや調理員さんたちと一緒に食事をすること(コロナ感染対策時はできないのですが)。保育士だけではなく栄養士も喫食状況を把握して次の献立に活かすこと。子どもも知っている先生が作ってくれている料理であるという、日常的な会話や心の交流があること。子どもが簡単な料理をするときに、その指導をしてもらえること。プランターで育った野菜を収穫したらすぐに調理に生かしてもらえること。そうしたことが実現しやすいからです。

管理栄養士が各園の子どもの実態を把握しないで自治体単位の統一献立で給食を提供することは、今述べたようなことがやりにくいだろうと想像しています。離乳食ひとつ考えも、月齢はあくまでも目安であって、離乳の進み具合、咀嚼や嚥下の状態、家庭で食べたことのある食材の種類、食事の時間と生活リズムや体調から生まれる食欲などが違います。これは保育と同じで、一人ひとり家庭での過ごし方を含めた生活の連続性、24時間のサイクルのつながり具合を大切にします。

食べ具合を見ながら、どんなメニューや食材、調理法なら食が進むだろうかと考えながら、毎月の献立を見直しています。そうやってできた料理も、その日の個々のコンディションによって、子どもの喫食の様子は違います。そこで配膳は子ども一人ひとりに応じて、その都度の適量が変わってきます。まずは子どもの方からこれぐらいでいい、という考えを言えるようにしてあげて、それに応じて盛り付けてあげます。その日々の変化から大人は子ども理解が深まります。

また今日の学生ボランティアには、当園の栄養士がそうしているように、保育にも入ってもらい、子どもと一緒に遊んでもらいました。子どもと直に触れ合って、子どものことを知って、その子どもたちの食べるものを良くしたい、美味しいといって食べてもらいたい、そういう気持ちから食事を提供していく動機が育っていくと思うからです。

 

保育実習生を受け入れながら

2023/03/09

保育園や幼稚園、こども園などでは、「先生」が働いています。保育士や幼稚園教諭です。それぞれの専門性を養成している「学校」があって、私たちは一般にそれを養成校、といいます。当園のようは保育園で働くには保育士の国家資格を取得する必要があるのですが、その保育士養成課程(カリキュラム)の中には、養成校で学ぶだけではなく、保育現場に行って実際に保育を体験する「実習」も含まれていて、それが養成課程の核になるといわれているほど、大切なものです。したがって、実習を受け入れる保育現場は、学生の養成課程の一部を担っているので、私は養成校でなにをどう教えているのかをできるだけ知ろうとして、大学や短大、専門学校の先生方との交流を続けてきました。

日本保育学会でも続けて実践提案をしてきた時期があったのですが、保育現場が妖精の一翼を担っているという意識と仕組みがどこまで進展してきているのか?と不安になります。というのも学生が実習に行って、かえって保育者になる意欲を失った、という話が養成校の先生から聞こえてくるからです。実際のところ園長会や養成校がもっと組織と組織とのつながりを持って、保育の質についてまず最低限の合意を取りながら、その上で保育者の質につなげてもらいたい。

この数年、コロナ禍の影響で実習の受け入れが中止になったり延期になったりして、養成校は大変でした。学生も然るべきタイミングで実習ができなかったり、本人も体調を崩したり、受け入れる園の方も外部からの出入りがあるとヒヤヒヤだったり、この3年間、本来の養成課程とは違う綱渡りのようなことをやってきた気がします。昨年秋から話題になった保育園の職員による体罰問題なども、養成課程への影響というところまでは、あまり話題にならなかった気もします。

ちょうど3月6日から、大学の実習生3年生が一人きているのですが、当園は2回目の実習Ⅱになります。幼児クラスに連続して入り、今日9日に「責任実習」を終えました。この責任実習という概念や位置付けも見直さないといけないと思ってきた課題の一つです。色々なことが実習を巡って課題が多いと思うのですが、あまり自治体関係者の方は課題の内容をご存知なく、話題にすらのぼらない時期もあったのですが、最近はどうなってきているのかな、と思います。

 

 

シンガポールの学生たちが来日

2023/03/08

都内のある大学がシンガポールの養成校の学生を招き、日本の保育を案内しました。約1週間の日程の中で今日8日、シンガポールとの交流がある藤森平司(省我会理事長)が、その大学で学生向けに2時間半の講演をしました。テーマは日本の保育の特徴、中でもに非認知能力と言われるようになった背景、こども同士の関わりから育つ自立心と協同性について、新宿せいがこども園の実際の保育の動画を使って語りました。

シンガポールといえば、世界の学力調査で上位になる「教育先進国」のイメージがあります。講演の後半のグループ・ディスカッションや、その後のグループ発表などを聞いていると、日本の大学生との差を感じます。それは自分の意見をはっきりと話すことです。質問もすぐに手があがります。その内容も率直です。たとえば「子どもの自主性を大切にすることはよくわかったが、保育者はそれをウォッチ・アンド・ウェイトとしていたら、親から何もやっていない、お金を払っているのに何もしないのか、と言われませんか」といったことを聞いてきます。

講演のテーマが保育者のペタゴジーに焦点を当てた切り口になっていないので、質問内容がそうなるのかもしれず、それはよくあることなので、それほど意外ではなかったのですが、やはり、なんでもはっきり疑問点を口にして問う、ということは大事なことだと思えます。控室で大学の先生ともその話題になりました。大学にもよるのでしょうが、概ねそういう意見は多い気がします。自分の考えや意見を伝え、相手の話を聞いて再構築していくような対話のスタイル、日本の学びの中にそのスタイルをもう少し取り入れていいだろうと思います。

体を動かしたくなる音楽

2023/03/07

色との出会い方を工夫するのと同じように、音との出会い方もいろんな工夫がありえるでしょう。写真はウクレレのポロロンという部屋全体を包み込むような、やわらない伴奏に合わせて、列を作って「歩行」を楽しんでいます。他にも6日(月)の0歳児クラス(ちっち組)の日誌にこんな記述がありました。

 

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(子どもの様子)音楽が流れて大人が歌ったり手遊びをしたりすると、一緒にズンズンと体を揺らして参加していました。バスに乗って♪が好きなようで、O先生の上に自ら座り、ブーンと曲がったりキキー!っと停まったりすると大はしゃぎしていたふたり。Rちゃんは自分で右や左にブーンと曲がるマネをして一緒にお歌を楽しみました。

(評価・反省)自分で遊びも覚えており、歌に合わせてやってもらっていたことを自分でもやってみるようになっている。たくさんのふれあい遊びや手遊びなどを通して、楽しい気持ちの体験を重ねていきたい。

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これを読んで、私のコメントは、こうなりました。「二人はバスに乗った経験があるのかないのか、なくても楽しい要素があり、音楽に合わせて体を動かすということが動物には見られない人間性の一部なんでしょうね。しかもお友達と先生と一緒になって。ぜひ、たくさんのふれあい遊びや手遊びをしてあげてください。」

保育園ならどこにでもありそうなものですが、この曲は「♪バスに乗って揺られてる、ゴーゴー」という繰り返しの後、止まったり、カーブを曲がったりするのですが、それが急停車だったり急カーブだったりすることが面白さを増すので、それをやってもらいたくて期待して「もっとやって〜」となります。

ここにも、面白さから、それをもっとこうしたいという、何かの深まりへの変化があったはずなのですが、要素が複雑です。音楽(リズム、音色、メロディ)に見立て遊びの要素も加わり、身体接触、運動感覚も重なってきて、そりゃ面白いよね、の状態でしょう。だからこそ、担任は「たくさんの〜楽しい気持ちの体験を重ねていきたい」と思ったのでしょう。

 

幼児の登園は9時までに(4月から変更へ)

2023/03/06

4月から3歳児以上の幼児は「朝9時までの登園」へ、0〜2歳児は「朝9時15分までの登園」へ変更します。現在は朝9時半までの登園をお願いしていますが、午前中の保育活動を充実させたいので、登園時刻を早めます。当園は園庭がないので、佐久間公園や和泉公園まで移動する必要もあり、その移動時間ももったいなく、できるだけ遊ぶ時間を増やしてあげたいので、ご協力のほど、よろしくお願いします。(以上、コドモンと同じ内容です)

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スターティング・ストロング。人生の始まりこそ力強く――。

これは経済協力開発機構(OECD)が世界に発信した有名なキャッチフレーズです。「乳幼児期は生涯学習の第一歩であり、教育、社会、家庭におけるウェルビーイング促進の鍵を握る」。赤ちゃんの頃から幼児期までが、人の幸せの基礎になっているというのです。OECDが発行した報告書の名前にもなっています。

その報告書の解説には「すべての子どもへの質の高い幼児教育・保育をめざして、20年以上にわたって進められてきたOECD国際調査のスタートを飾る記念碑的報告書」と銘打たれています。それだけ、乳幼児の保育の質が人生を左右するほど大事だというわけです。

乳幼児期の保育の質を良くするためには、保育園生活の1日の流れをもっと良くしたい思います。先日、主任と話をしていて、同じキャッチフレーズを、こう訳したいと思いつきました。それは「1日の始まりこそ力強く」です。朝起きてからお昼までの時間は、1日の生活の中でとても大切な時間帯です。特に朝食を食べ終わって、朝9時ぐらいから昼食の頃までを、1日の中でのゴールデンタイムと言っていいでしょう。その時間を有効に使いたいと思っています。

晴れた日は9時半ごろには外で遊んでいたいと思います。8時半や9時までに出勤しなければならない方が多いので登園は8時半ごろが多いのですが、自営業の方や育児休業中の方は9時ごろに登園されており、9時半ギリギリの方はほとんどいない状況です。他の保育園も大抵は幼児は9時までの登園になっています。小学生になると自分で歩いて8時ごろには登校していないといけないので、年中、年長になるとそれも視野に入れた生活リズムづくりをご検討ください。

睡眠サイクルを含めて1時間の前倒しのリズムを作るには半年ぐらいかかります。朝の排便のタイミングや前日の就寝時刻と連動するからです。健康な生活リズムづくりのために午前中に活動的な時間を作りましょう。

焦点化が起きることをめぐって

2023/03/05

そうか「焦点化」がキーワードだったんだ! 少し前に改めてそのことを考え始めました。何かにフォーカスを当てること。ある地点に着眼点を当てること。注意を向けることと同じだろうか? 人の意識は何かに注意のカーソルを当てることで、世界のありようが立ち上がってくる。その前の段階は朦朧としているということ?不明瞭で不確かで何がなんだか分からないという状態? そのような状態のままだとどうなるのだろうか? きっとそのようなまま、ということはなくて、世界は動き、変化するので、きっと向こうから、外側から何かがやってくるのだろう。子どもにとって、その何かが迫ってくる感覚は、わけのわからないものだから「不安」になってしまうのだ。そう考えていいんだと、教わりました。

その不安な状態の中から、子どもはそれなら知っている!というわかるもの、わかりやすいものが見つかると、それを手がかりに(心がかりに!?)して、それを引き寄せようとするらしい。きっとそれが主体側から「かかわり」というものが形になる最初のアクションなんだろう。それが焦点化だった。そう言っていいものだったという。

そうか、私は言葉と意識が常に一致していないという不一致感があることが当たり前だと思って生きてきました。それは当たり前のことだったのかもしれません。生のいきさつを、とりあえず受精から考えても、個体が誕生するまでの成長は能動的とも受動的とも、分けることは難しいので、きっとこの「焦点を何かに当てる」という最初のことも、環境との相互作用として発現したものとしか言いようがない、ということが真相なのでしょう。真相、というか、私が今持っている概念でパズルのように辻褄合う意味を生み出す言葉の配列としてはそうなる、ということです。

きっと、現代の発達論は、私たちが思い込んでいる概念そのものの変更を要請されながら、生命の動向を捉えようとしているのだ、ということはわかる気がします。それにしても、事実として起きていることを、既存の言葉で説明し尽くすことが出来にくいほど、明白な事実を語ることが難しいのかもしれません。しかし、だからこそ、哲学が大切な時代になっていることも、世界を表現する表象体系のありようを検討し直すことも欠かせないのだろうと、ぼんやりと察知できます。本当に「ぼんやりと」なので、困ったものです。(ぼんやりだから、本当には困ってないんだろうな)

ひなまつり

2023/03/03

♪ お内裏様とお雛様、二人並んですまし顔・・今日は楽しいひな祭り〜

2月中旬ぐらいからずっと歌っているひな祭りの歌『うれしいひなまつり』ですが、男女がくっきりと分かれているものを扱うとき、LGBTQも考えながら、どこに配慮が隠れているのか、歌詞も吟味しながらという時代になりました。お嫁に行くとか、三人官女とかジェンダー的役割分担がそこにはあるのですが、それでも歌わないと、知らないということになってしまいかねないので歌います。

ひな壇を飾ると、そこに込められた親の子どもへの健やかな成長への願いが詰まっていることがわかります。紅白のまんじゅうの意味や、菱餅の3色の意味、ひなあられの4色が季節を表していることなど、子どもたちに説明します。

子どもから大人への成長は、変化です。その変化は生物学的なものと社会心理学的なものと、一旦分けて捉えられてきましたが、現代の発達科学はそうは考えていないようです。お互いに影響しあって変化していくものとなっています。それは調べれば調べるほど、複雑な仕組みになっているようで、それを理解するのも一苦労です。子どもの発達について、だいたいこういうことに配慮しながらやっていきましょうということがあって、その最低限のところは、強調していくことになります。

 

なが〜い、もの。新奇なもの好き。

2023/03/02

1センチ四方ぐらいの小さいパズルのコマを、一列に長く繋いで遊んでいます。パチパチと繋いでいろんな形のものを作ることを楽しんでいるのですが、こうやって、ただひたすら長くすることが面白いという時があります。

こういう新奇性への興味は、子どもに強く感じるときがあります。大人になると何かと常識的なもの、ある種の枠のようなものが強くなってしまうのですが、子どもは時々、思いもよらぬものを作り上げたりします。人が驚くようなもの。

ある種のはみ出したがるような傾向。奇抜で「かぶく」(歌舞伎の元になった)ような要素。カイヨワの分類なら眩暈に近いもの。・・・?どんな意味があると言えるのでしょうか?

アゲハにとってのみかんの葉っぱ

2023/03/01

私たちが一生の間に身につけた「資質・能力」は、子孫に受け継がれることはありません。親がダンスや英語が上手くなっても子どもはゼロから始めるしかありません。個人が経験から獲得した「形質」が、子どもに遺伝することはありません。アゲハが柑橘系の葉っぱを食べるようになったのは、長い「進化」の過程で得たものであり、個体が訓練や鍛錬でそうなったわけでありません。それと同じ自然原理が人間にも働いているわけですが、たかだか人の個人の一生の間に学んで身につくものが、どれほどのものかと考えれば、大したことをやっているようには思えなくなります。それでも人間の作り出したものの影響はとても大きいので、その人間が作り出した環境をどうするかを考えてよりよくしていく(たぶんより大胆に変えていく)ことが必要になりました。

せっかくアゲハの話をしているので、そちらの話を先にしておきますが、進化のほとんどは結果論ですから、たまたま変異した個体がその環境にあったからその世代が生き残り、次の世代を残すことができた、ということの偶然の積み重ねでしかありません。昔話風にいうと、昔々、ある植物が美味しい葉っぱをもつようになった頃、その葉っぱを食べる青虫(芋虫)がやってきてむしゃむしゃ食べました。葉っぱを食べられて困っていたその植物は、その子孫の中に、アルカロイドという毒を葉っぱを持つ子どもが生まれました。葉っぱはまずいし、食べると気持ちが悪くなるので、青虫に食べられずに済みました。

ところが今度は、青虫の子孫の方に、その毒を解毒できるものが現れました。突然変異でたまたまです。キャベツの中のカラシ油の仲間のアルカロイドを分解できる青虫が、モンシロチョウです。アゲハはみかんやゆずなどの柑橘系の毒を分解できるのです。でもニンジンやパセリの葉のアルカロイドは分解できませんから食べません。ところが面白いことに、キアゲハは解毒できるから、ニンジンやパセリの葉っぱを食べるんです。こうやって、食うか食われるかの生存競争の中で、バランスをとっているのが自然の生態系ということになります。

ところで、私はあまりお酒が飲めません。人はアルコールを飲むと、アセトアルデヒドという物質ができて気持ち悪くなるのですが、それを分解する酵素を持っている人と持っていない人いるのです。お酒を飲んだ翌朝のおしっこに特有の匂いがあるのをお気づきでしょうか。あれがアセトアルデヒドです。お酒に強い人というのはその分解酵素を持っている人です。私は少ないのでしょう、お酒はあまり飲めません。お酒を飲む練習しても強くなったりしません。

そこでやっと本題ですが、人間が作り出した文化や文明の影響がとても大きいので、それに適応して生きていくために教育が必要になりました。親がいろんな知識やスキルを持っても、子どもに受け継がせることはできないのです。他者と支え合って生きていくために、より良い社会を作り出していくための力の基礎。保育はこれを育もうということなのです。

 

環境の違い(ゆらぎ)から生じる発達の差

2023/02/28

(園だより3月号 巻頭言より)

みかんの木を玄関用意することにしました。開園してまる4年間、毎年のようにアゲハが飛んできてみかんの葉っぱに卵を産んでくれるからです。ただ、そのみかんの木の葉っぱが丸裸になってしまい、みかんの木そのものが枯れてしまいそうなので、新しく植えることにしたのです。

ところで、なぜアゲハがみかんの木を見つけることができるのでしょうか。そんなことを考え出すと、なんでも不思議に思えてくるものです。ある種の蛾の仲間は、止まった場所によってその体を葉の色や花の色に変えてしまいます。保育園でもそれを観察してことがあります。摂取する葉のタンニンの微妙な量の差でそうなるそうです。昆虫がこんな「能力」を持っているように見えるのは、昆虫のその「個体」に全てが備わっているというよりも、植物を含めた周りの環境との関係からその「能力」が発現された、と見ることもできます。

これと似たようはことが人間にもたくさんあります。種類は違いますが、大人の顔を真似する新生児模倣とか、周りの子どもの喜びや恐れなどの感情が感染することとか、相手に同情したり公平感を求めたりすることも、子どもの周りに愛情豊かな人がいることや、心を通わせてきた子ども同士の関係があるからこそ、その場に現れた「能力」なのかもしれません。そうした人的な環境がなければ、そうした表情や、感情や行動は生じないでしょう。そうした具体例が、保育園生活を描いている日々のブログの中に、担任が丁寧に拾い上げて詳しく描写しています。

それらの子どもの姿が、一過性のものに終わらずに、しっかりと一人ひとりの育ちとなっていくために、毎日の地味な繰り返しこそが大事なのでしょう。ことさら大人の気を引くプロジェクトやら活動やら豪華な施設や設備が必要だとは思えません。あまり気にもされないような、それでも子ども本人にとっては、新鮮な刺激を受け、その中から興味をくすぐられ、対象に積極的にかかわろうとして、その世界との関係を深めていこうとしています。

保育園は私たち発達科学の知見を重視します。小さいうちに、子ども同士のかかわりの中での経験の差が、その後の発達の差となってしまうものがあるかもしれないという意識を持って保育をしています。その大まかなイメージとして、ウォディントンが提唱したキャナリゼーション(運河化)を思い出すと、ちょっとドキッとします。彼は、発生を運河の坂道を転げ落ちる球になぞらえました。京都大学の明和政子さんも『ヒトの発達の謎を解くー胎児期から人類の未来まで』(ちくま新書)の中で、この図を使って説明していました。

様々な遺伝子によって下からひっぱられた道は決して平らではなく、山あり谷ありです。安定した場所なら多少の外的擾乱やゲノムの変化が加わっても経路は乱れません。しかし分水嶺に達した時は、わずかな揺らぎが大きく進路を変えます。例えば遺伝子が3%変わったからといって表現型が常に3%変わるわけではありません。しかしゼロの時もあれば50%の時もあるわけです。

その分水嶺にあたるものが、何なのか? その時期に大切にしたいもの、特に敏感期や臨界期というものを、私たちは学びながら保育に生かしていきたいと考えています。

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