(写真はぐんぐん組=1歳児クラスの子=満2歳の子が、幼児のごっこゾーンを訪問したときの自由遊び)
人は何かの意味を食べて生きているんだな、と思うことが確かにあります。人と話していて「おち」を期待して「で、どうしたの?」と聞きたくなることってありますよね。それは現代人がウケ狙いの会話に慣れすぎているかもしれません。面白い話をする人ってみんな好きだし、ジョークやユーモアは人間関係の必須アイテムになっていますから。みんなエンタメが大好きですから。
人類はエンタメ好きだとしたら、生存に直結もする男女の話や食べ物の話になるのは当たり前で、その中に伝えなくちゃ!と意味があるものは、物語にしたほうが覚えやすくて伝わりやすいのでしょう。昔々〜こうだったんだよと。ホメーロスだってそうやったんだろうということでしょう。物語は記憶方法、伝達方法でもあるでしょうね。
昨日の成長展は子どもの育ちのプロセスを展示したかったのですが、子どもの育ちにそこに大きなストーリーを見出したかったわけではないのですが、エピソードはたくさん詰まってます。そこに小さな物語を見出すことは可能です。植物や動物の成長に、それぞれ物語を見出す語りはあまり聞きません。台風によく耐えたな、この稲は、のようなことはあり得ますが。そう考えると、人間の育ちには物語性が色濃く着色しやすいのは、表象の中を生きているからなのでしょうか。
明日から実習生がくるのですが、コロナで遅れて挽回のタイミング。実習日誌はエピソードを重視するようになって、そこを考察させる様式に変わってきています。保育に<物語の落とし穴>があるのかないのか知りませんが、わかりにいい話は要注意。学生が気にある場面がパターン化しているのも、どう保育を考えているのかこちらが気になります。
それよりも、面白いのは「そういうことだったんだ」という気づき。あるいは子ども同士が見せてくれる姿から見えてくるもの。伝わってくるもの。その動き。それを読み取ったり、その成り行きを想像したりすることが楽しい。そこにこちらも「じゃあ、こうしてみるかな」という、将棋のような指し手の暗黙の会話に似たようなものがあります。今の子どもの姿とその先行きの想像との間にあるもの。先生たちの書くブログを読んでいると、そのあたりを「どうなるかな」と期待して動いていることがわかります。
子どもの育ちのプロセスや軌跡を物語ることはあっても、何かショートストーリーになってもいいのですが、それは読み手にお任せしたい。アルバムに相当する記録は作るけど、その意味の連鎖の解読は、それぞれに関わっている主体に任せたい。それを話して聞かせてもらうほうが楽しい。本人も後でそれを見てどう思うか。それを束ねれば物語と読んでもいいけれども。あえてそうは呼びたくない。後になって、その時代の風潮のようなものだったことに漂白されなたくないから。