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園長の日記

ダンスによる「からだとことばの協同」

2022/10/14

ダンサーの青木尚哉さんが作ってくださった「わらべうた」は、ダンスをする人たちが輪になって「鬼さん、鬼さん、なにするの?」というと、その輪の中の一人が即興的に「これするの」と言って、「これ」を身体で表します。それを他のみんなが「真似」をして、もう一度「これするの」と繰り返します。

みんな「鬼さん、鬼さん、なにするの?」

鬼役「これするの!」

みんな「これするの!!」

この掛け合いを続けながら、体を動かし続けます。やってみるとわかるのですが、インプロビゼーションで「これ」を思いつくのは、慣れていないと難しいものです。プロのダンサーのその引き出しの多さには驚きます。この「わらべうたダンス」は、私が「鬼ごっこ」と「ダンス」を橋渡しするものを探していた時、児童文化財に「わらべうた」の可能性を発見したことがきっかけです。それを青木さんに伝えると、創作してくださったのが、このダンスです。

青木さんのダンスを見ていると、その周りの世界の全てがダンスを動かしていく要素になっていることに気づきます。例えば9月23日の秋分の日に、海老原商店で開かれた「コンテンポラリーダンス」では、尺八演奏とのコラボダンスでしたが、尺八の奏でる「音」に、身体が即興的に応答・共鳴・反発・融合・・・などしています。実に美しい。音、音色、リズム、無音の空白・・それらをどう受け取るか、そのイメージの差異を身体の動きに転換していく一瞬、一瞬がダンスになっていることがわかります。

周りの世界は、視覚からも聴覚からも、そして気配としての環境も、さらには身体自身が抱えているイメージや感覚さえも、自身のダンスのパラメントになっているかのようです。身体と環境の間の自在性。そこには豊かな相互交流が活発に行われているので、その様相を目の当たりすると、既存の同じ型のあるダンスが非常に陳腐に見えてきます。青木さんのダンスを、親子運動遊びの会でも、皆さんにご覧いただきます。

この感覚を小さいうちから子どもの身体が会得していくなら、かなり豊かな感覚が身体に宿っていくことでしょう。今日14日も青木さんと芝田いづみさんにきていただいてきました。子どもたちは、楽しみにしています。

先日11日、桜美林大学で演劇を教えている先生からこんな感想をいただきました。「すでにせいがのお子さんたちに蓄積れた身体技法に演劇の刺激で新しいからだが生まれたら最高だなと思います」。この先生も運動会(10月22日)にご招待することにしました。

ケアリングとしての命名過程

2022/10/14

相手はどうしてほしいと、思っているのかな? いったい、どんな名前なら喜んでくれるかな? このまなざしがケアリングなんだと気づいたのは、平成20年ごろ。佐伯胖さんがオリヴィア・ベヴィスらの「ケアリングカリキュラム 看護教育の新しいパラダイム」(医学書院)を紹介していた頃から、つまりノディングスのケアリング理論が話題になっていったように、ずっとこのテーマの周辺を歩いてきたような気がします。

子どもたちがセキセイインコに名前をつけてあげたいという話し合いを見ていて、ちょっと口を挟みたくなったのは、子どもたち自身にも、このケアリングのまなざしをセキセイインコにむけて欲しかったからです。

この「まなざし」とは、関心を寄せる相手に入り込めば入り込むほど、その相手がいろんなことを開示してくれる、その相手から伝わってくるものに気づく、という関係になります。一般に、私たちが何かに興味をもつとか、関心を寄せるとか、知ろうとするとか、いろんな共感の仕方や深さがあると思いますが、もっとも深い接近の仕方があるとしたら、あるいは、本当に相手をリスペクトした接し方があるとしたら、それは相手がどうしたいと願っているのかへの配慮でしょう。佐伯先生は聖杯伝説にまで遡ってそれを説明されてきました。私はドラマ「僕らは奇跡でできている」を授業で使ってきました。

私たちは日常、「きっとこうだろう」という配慮を他人にしているつもりでも、本質は「自分がそうしたい」と閃いたから、ただ相手もそうじゃないかとやっているようなことが多いですね。それすらなくて、相手がどうであろうと、教える内容や学ぶべきことが、これこれだから、ちゃんと聞きなさい、みたいになってしまっている教育がなんと多いことでしょう。これは学びと大きくかけ離れたものであり、本来の学びのあり方を探求する中で見出された考え方が、ケアリングでした。

このような考え方に馴染んでくると、相手が人や動物に限らず、植物や物、あるいは「事柄」や、イメージや概念にまで広がっていきます。変な例えかもしれませんが、野菜や果物たちは、本当はそんなふうに成長したくなかったのに、消費者の好みに合わされて、あんなテカテカで甘すぎる「高級商品」にさせられてしまって可哀想。もっと野菜らしく育ってほしい。・・・そんなふうに思えてきます。そういう共感的知性(佐伯胖)を持った大人が増えないと、ケアリングによる教育や医療や農業にはならないだろうな、と思うからです。

それは自分に対してもそう。本当は何をどうしたいと思って生きているのかを探求したい。それが本来的な意味で、子どもと対等な地平に立つことになるでしょう。大人と子どもの差なんて、たかだか20年や30年の年齢差ですからね。先ほどの本を引っ張り出して開いてみたら、こんな言葉に私は線を引いていました。「学習とは、はるか将来のことも含めた『私が真の私に出会う』過程なのである」(グリーネ「教育の展望」)。ちっとも進歩できていない私です。子どもたちが考え始めたセキセイインコの名前ですが、当のセキセイインコが喜んでくれますように。そして、その名前の探求過程そのものが、子どもたちの幸せな生き方を探求する人生の大切な一部となりますように。

セキセイインコとの出会い

2022/10/12

セキセイインコにオヤツをあげると、上手に啄みます。子どもがそうすると「かわいい〜」と、もう夢中です。

何かをやってあげて、それを喜んでくれると、やってあげた方はまた嬉しい。そのやりとりを見ていて、子どもはケアされたがっているだけではなくて、ケアをしたがっていということがよくわかります。

今日12日は「お手伝い保育」を楽しみにしている年長さんたちですが、3階の観察ゾーンに生き物のお世話ができる場が増えました。

知らない生き物と出会うたびに、それをじっと、よく見ようとします。と同時に触りたがります。子どもにとって対象を理解するということは、頭でわかるのではなく、感覚で取り込もうとします。なので「触ってみたい!」「だっこしてみたい!」と言っていました。

初めてものへの接し方、近づき方も色々です。エルサになっている子は、魔法の杖を鳥籠の上をクルクルと回してみて様子を見ようとします。インコが怖がることを教えてあげますが面白いから続けてしまいます。インコは新しい場所で緊張しているでしょうし、ストレスもあるので、大人はそんなケアを優先します。動物が「嫌がっているよ」、「怖がっているよ」は、伝えてあげます。子ども同士のトラブル場面とも似ています。

そのあと、段々といろんな興味が湧いてくるようで、子どもたちは何を食べるんだろう?水飲むかな?(毛繕いをみて)痒いのかな?このおもちゃで遊ぶかな?・・と「?」がいっぱいになります。

大人はつい、どうしたらいいのかを知っているので、いろんなことを先回りしがちなのですが、こんな時にも、動物にとって過剰なストレスになったり、けがをしたりしない限り、子どものペースで出会わせてあげたい、と思います。

子どもの姿をアート作品としてみる

2022/10/11

今日は見学に来られた大学の先生と、子どもの動きをアートとして観てみました。その先生と一緒に保育室を見てまわりながら、気づきました。子どもの姿や行動を「アート作品」のように鑑賞することができることに。ただ、その作品はその瞬間に生起して消えてしまうものなので、この場(言葉を連ねて写真や動画を添えるメディア空間)に再現させることはできません。ただ、私に印象として残っている記憶を頼りに、言葉でリプレゼンテーションしてみます。

少し静かなところで話をしたくなって、3階のパズルゾーンのところから、吸音効果の高い運動ゾーンに移動して、見学者の方と「演劇」について話していた時です。3歳児クラスのKSくんがネットにぶら下がって遊び始めました。時刻は朝9時35分。遊びを終えて2階で朝のお集まりに移るタイミングの時でした。私がいるので、ネットに登り始めたのですが、もし私が「今はそれをやる時間じゃないよ」みたいなことを言う先生だったら、きっとネットに登り始めることはないかもしれません。でも私がそんなことを言う人ではないことを彼は知っているので、ネットに寝そべって、私たちの演劇論に耳を傾けています。

私たちが、どんな話をしていたのかというと、「子どもが、こうやってネットで揺れている動きは、これもダンスと言えるかもしれませんよね。地面の上で踊る姿を見て、それをダンスと思うことは難しくない。でも、こうやってネットの上で揺れている姿は、ダンスじゃないのか? ダンスは自分の身体と周囲の環境との対話のようなものなので、例えばこの子は今、なぜネットに登り始めたのかを考えると、ネットという物的、空間的な環境がもつアフォーダンスが、その子にぶら下がることを引き寄せたという要素もあるでしょうね。

あれ、私の方へ寄ってきました。・・・(子どもと会話を交わす)・・・こんなふうに私がお客さんと話をしているという状況が、彼の興味を引き出したとも言えるから、彼の身体と環境と意識とが、一つの動きを生み出したわけですよね、例えば、いま起きたことを、何かのコンセプトで切り取ってフレームにはめて作品らしく見せることができてしまう。それを演劇にすることも可能かもしれない」・・といったことを話していました。

先週のことですが、入園先を探すために来られた見学者に、YSくんがネット遊びを見せてくたときがあります。その時のネットへの登り方がアクロバティックで、「こんな登り方があるんだ!」とびっくりしました。彼らなりに、登上ルートを開拓しているのです。これもわかりやすい技、アートです。うちの子どもたちは、身体がネットにとても馴染んでいます。難なくネットを自分のものにしているスパイダーだちです。そう思うと、技の洗練というものがアートの美の探求に近いのかもしれません。作品がどうこういうよりも、それを生み出す子どもの身体そのものがアーティスティックになることが大事なのかもしれません。それを突き詰めると、これからの時代を捉えるために、一つの方向として「人間は生まれながらのサイボーグである」(アンディ・クラーク)のようなテーマになっても面白いですね。

例えば、この冒頭の写真に「子どもはサイボーグである」と言う題名を付けることもできるでしょう。その説明はこうです。「人間は生物と非生物の間にまたがる認知体である。服を着て、靴を履き、帽子を被る。すでに人間は自然と人工のハイブリッド体と言ってもよい。子どもがネットに登り座りぶら下がるとき、運動をしているのではない。手足はネットと融合していくサイボーグとなり、子どもはアート(技)と共生し始めているのである」といった具合。

こちらは子どもの作品「ブドウ」です。こちらの話はわかりやすい。

でも、このように技(アート)の結果として制作物が作品になったものを通じて、私たちは、身体の機能の発達に目を向けがちなのかもしれません。またダンスや演劇も、身体がもの語る何か、メッセージに目が向きがちかもしれません。

そうではなくて、身体が持つ自然と非自然の重なり具合、その接面で動くものをアーティフィシャル(技能)と定義していたことを思い出したいのです。美術としてのアートではありません。藤森先生は「STEAMの中にARTが入るのはおかしい。アートは他のもの全部に必要なんだから」と喝破されているのです。科学にも技術にも工学にも数学にも、アートは含まれているからです。

なんでも遊び、運動などの粗雑な用語で括ってしまうのではなくて、どんな「視座」を持ち込むと、広がりや深さやコアな何かに気づけるのか、科学者やアーティストと協働すると、ものの見方・考え方が揺さぶられて面白いのです。

私たちはどこにつながっている(所属している)の?

2022/10/10

自分についてのいろんな<理由>を考え始めると、それは、すぐに「テツガク」になります。テツガクが好きでも嫌いでも、何のために?や、どこから来たの?や、自分はいったい何の一部なの?とか考えだすと、きっと答えのない永遠の謎に引き込まれてしまいそうです。でも、それを考えることが、明るい未来につながっていくとしたら? あるいは、それを考えることが、過去と未来をつなぐ何かになるとしたら、誰だって考え始めたくなるのでは、ないでしょうか。子どもの未来を考えることを仕事としている人なら、なおさら、かもしれません。

ちょうど10日前に映画「夢みる小学校」を観て、翌日に実際にその小中学校へ行ってから、そのような子どもたちの暮らしの場を作り出すことは、大人の責任だと強く感じるようになっています。この感覚は、私の中に眠っていた何かを呼び覚まし、自分が自分であることの<理由>とつながっている安心感さえ感じます。そうすることが、大事だとか重要だということでもあるのですが、それよりも、自然と調和しているように感じるのです。今日は映画「ベルファスト」をみて、なんだか、それがもっと強くなってしまいました。

どんなものに、それを感じるのかというと、辻信一さんの話の中にあった「ハチドリのひとしすく」や、自然栽培のレジェンド高橋博さんが育てている大根にそれを感じます。あるいは絵本「ぐりとぐら」が誕生するきっかけとなった、ホットケーキ作りのエピソードや、中川李枝子さんが保育士として過ごした「みどり保育園」の子どもたちのエピソードにも同じものを感じます。彼ら彼女らがやっていることは、それを続けていることと同じ<理由>です。それらは、いずれも大いなる自然の連鎖や営みとシンクロしているという安心感を感じるのです。

さらにいうと、それは本来、私たちがいた場所への回帰なのかもしれません。私たちが所属しているもの。私たちがいた場所。本来そこからきて、そこへ帰る場所。私は千代田せいが保育園とその家族で作る空間を、子どもたちの幼少期の居場所として、そんな場所にしてあげたいと願っているのです。私たちが所属する世界が未来につながっていく場所でありますように。

未来の学校は、こんな学びの空間に変わる(文科省報告書)

2022/10/09

教室と連動する空間を積極的に活用しよう。

「未来の学校」は、「学校施設全体を学びの場にしよう」という報告書を今年3月、文部科学省がまとめました。学校施設の在り方に関する調査研究協力者会議の最終報告書は、タイトルが「School for the Future 『未来思考』で実空間の価値を捉え直し、学校施設全体で学びの場として創造する」となっていて、イメージ図がたくさん載っていますので、ぜひご覧ください。

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shisetu/044/toushin/1414523_00004.htm

ちょうど今日8日のブログで、子どもたちが階段を電車の座席に見立てて遊んでいる様子が報告されていました。この遊びが無自覚であっても「学び」と言えるのなら、生活空間と連動する空間を上手に活用した「未来の学校」を先取りしたものと言えるのかもしれません。

そもそも当園の生活空間は、あくまでも生活の場(正確には、乳幼児のウェルフェアとエデュケアを増進するために、最もふさわしい生活の場)であり、学校や教室の空間をモデルにしていません。赤ちゃんから年長さんまで、どのフロアであっても、遊びと探求と対話のゾーン、食事のゾーン、お昼寝・休息のゾーンというように、主だった活動がしやすいエリアが空間的に配置されています。遊びと探究と対話のゾーンには、さらにいくつもの遊びのリソースが分散配置されているので、探究するテーマや活動内容によって、子どもが選び分けています。

この遊びと探究のスタイルが、小学校以降の生活と学びへとスライトしていくことが、当園から見た時の「架け橋」であり、個別最適な学びと協働的学びの発展へとつながっていくことになります。小学校以降の学校も、このような学びの場へと変わって欲しいものです。

夢みる保育園〜こんなツールがあるといいのになあ〜

2022/10/08

今日7日のちっち組(0歳児クラス)のブログには、大きく二つのことが書かれていて、一つは遊具を使った遊び(コロコロと坂道を転がるもの)の中の気づきと学び、もう一つが友だちの遊び(ハメ絵パズル)の模倣による学びです。

前者は同じ遊具でも、数週間という期間の発達の変化によって遊び方が変わってきたことに気づいた先生が、それを子どもの成長と捉えた描写になっていて、後者は数分間でしょうか、ちょっと前に遊んでいた友だちの姿をじっとみていた子が真似して始めたという姿を捉えています。

どちらも先生が「よく見えている」(見ている、ではない)からこそ捉えられる姿の変化です。前の姿や状況と、現在の姿との違いを捉えることができなければ、その時間の差で生まれた姿の差に気づくことはできないからです。その差は専門性の差という面もありますが、前の姿を知らなければ、わかりようのない事実の認識の差です。知っていたか、知らなかったか。

そして保育士としての専門性は、その着眼点にあります。どの視点で子どもの姿を捉えているかという、視座としての専門性と言っていいのかもしれません。子ども理解の話では、よく生活背景とか、個性や発達のこと、経験のプロセスなどなどが言われます。

【『保育原理』(中央法規)より】

しかし、意外と見えにくいのが、子どもと環境との関係の中で、複雑な子ども同士の関わりかもしれません。集団の中でどんな友だち関係かといった、幼児の場合の関係論が多い気がします。でも、私たちの研究グループは、赤ちゃんにはそばに赤ちゃんがいてほしいと、訴えてきたのです。映画「こどもかいぎ」でも、豪田監督に、子ども同士がこんなところで、こんな話をしているのか、と思ってもらえるようなシーンをたくさん拾ってもらいました。実にありがたい事例が集まりました。映画では、赤ちゃん同士の場面も、ちょっとだけ登場します。

こんな事例を見ていると、今日のブログの最初の差の方、その変化の軌跡を、事実として可視化するものが欲しいと思ってしまいます。いまさら、紙と筆記用具という古代からのレコード記述ではなく、その子自身のテーマやトピックスの展開に沿って、記録が取り出せるようなツールを誰か開発してくれないかしらん。恣意的な解釈が入る前の子どもの姿の記録として。できたらいいなという意味での私の「夢みる保育園」です。

こんなことを考えたのは、きっかけがあって、昨日7日から、藤森平司理事長(新宿せいが子ども園園長)が企画した「リスキリング研修会」が日本児童教育専門学校(高田馬場)が開講したからです。その第一回目の講座を聞いていると、やはり子どもは「子どもたち」という人間関係の中での経験こそが、発達には決定的なような気がしなりません。

保育のエピソードは、子どもと大人との関係が軸となって語られる「間主観的」想起が比較的、多いのですが、実は子ども同士の関係の中での経験が成長には大きな影響を与えています。保育の質の語りや、環境を通した保育の事例が、どうしても一旦、「保育者の質」を経由してしまう。子どもの発達経験に大きく影響しているのは、子ども集団の中での自発的相互作用の方ではないか、その研究が手薄じゃないか、ということを、今回の新しい試みであるリスキリング研修で確認できます。

しあわせのホットケーキ

2022/10/07

食べ物には「おいしい」のがいいけど、「しあわせ〜」と言いたくなるものがあります。それは「ホットケーキ」でした。今日7日(金)はそれを作りました。芋掘り遠足が雨で中止になったので、急きょ、子どもたちの提案で決まりました。

2階にある子ども用キッチンから、いい匂いがぷ〜ん。「ああ、いいなあ、ホットケーキの匂いがする〜」と言って、子どもたちが集まってきます。

材料に必要なものは、なんだっけ?と子どもたちが出し合い、TくんとSくんがレシピに材料を書いてくれました。

最初に「バター」って言った子がいて、そうか、ホットケーキというとバターか、確かに上に乗っかっているし、と思い当たります。

さらにホットケーキは厚さが大事だそうで、「うすいとパンケーキで、もっとうすいとクレープ」という子も。

作ったのは年長さんですが、集まってきた子どもたちにもお裾分け。しあわせそうな笑顔がまるでホットケーキみたいでした。

令和5年度の入園申請の期間が公表

2022/10/06

◆これからがピークになる保育園見学

平成5年度の入園申請の期間がホームページで公表されました。

https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kosodate/hoikuen/enjiboshu/uketsukekikankohyo.html

保育園を見学する方は毎月コンスタントに数組いらっしゃるのですが、さらに今月は毎日のように入園先を探しているご夫婦に、保育園の案内をすることが増えました。もうすぐ来年度の入園案内が千代田区から届きます。入園の申し込みは11月24日から始まります。第一次の申し込み締め切りは12月23日なので、この時期が年間で見学が最も多いピークなのです。当園は中まで入っていただき、子どもや先生の様子をじっくりと見ていただきます。

◆大事なことは3つのこと

今日6日も朝2組のご家庭をご案内しました。当園が大事にしていることは、皆さんすでにご存知の通り「一人ひとり違うこと」「その子にあった体験ができるようにいろんなことが選べること」「子ども同士の関係の中で育つものを大切にしていること」の3つのことです。それが子どもの姿として「自分らしく 意欲的に 思いやりのある子ども」という保育目標になっています。

◆上半期の保護者アンケート

急に11月中旬の寒さになった今日、やっと9月が終わって、まだ「保護者アンケート」で上半期を振り返ろうというときなのに、一気に冬の気候になってしまいました。この数年は季節の変化とコロナ禍は切っても切れない関係にあるので、保育園で働いていると複雑な心境になってしまいます。第8波はいつ来るのか、寒さと共に早まるのか、ついそんなことが頭をよぎります。保護者アンケートでは、今年前半の保育や行事について、ご意見ご感想をお寄せください。

◆「Sちゃん、かえって来てほしい」

引っ越しで退園したSさんのことを、お友達が寂しがっています。昨日の朝のことですが、同じクラスだったHさんが私のところへきて「Sちゃん、かえって来てほしい」と寂しそうに訴えます。開園当初から一緒に過ごした3年半の暮らしの中で、いろんな思い出が甦ります。Sさんが転園した新しい保育園は、私がよく知っている保育園。ネットで交流できないか、相談してみたいと思います。別れの後には新しい出会いが待っています。お互いの友達がつながり合うチャンスになるかもしれません。

 

表象としてのコンテンポラリーダンスの魅力

2022/10/05

「今日は青木さんがくる!ダンスができる!」

そういうふうに「嬉しがる子どもたち」の姿に接すると、こちらの方が嬉しくなります。コンテンポラリー・ダンスにしていて、よかった、と思います。決まった振り付け通りに踊るダンスではなく、自分のイメージ(表象)を身体表現にするダンスです。ですから同じ形にはなりません。その子らしいダンスです。しかも、これがダンス? と思うほど、その表現は幅広いものです。じゃれ遊び、わらべうた遊びのようなダンスでもあり、私はこれこそがダルクローズが思い描いたリトミックの再生ではないかと思っています。

ジャンケンの「ぐー」をしてみてください。そう言われたら、大抵の人は手で「ぐー」を作るでしょう。では「顔でグーをしてください」と言われたら、どうしますか? 子どもたちは、難なく顔でグーを表します。では全身だったら? こんなふうに表象と表現を結びつける想像力を楽しむダンスなのです。走ったり、跳んだり、転がったり、急に動いたり止まったり。頭から足先までの身体の部位を意識して動かしたり、動くところと動かないところを意識したり、自分の格好がどうなっているのかを想像したり、常に頭の中も動かしています。

保育所保育指針や幼稚園教育要領には、教育の領域「健康」の心情のねらいとして「自分から体を動かすことを楽しむ」、意欲のねらいとして「自分の体を十分に動かし、様々な動きをしようとする」とあります。これを具体化したものの一つが、ダンスです。0歳の赤ちゃんから6歳の年長まで、同じ考え方です。また教育の領域「表現」では、心情として「身体の諸感覚の経験を豊かにし、様々な感覚を味わう」が、意欲として「感じたことや考えたことなどを自分なりに表現しようとする」が、ねらいになっており、ダンスにはそれも含まれます。

ダンスですから、健康や表現がまず、教育のねらいとしてふさわしい活動になるのは、想像しやすいでしょう。ところが、実際に楽しんでいるダンスを見てみるなら、さらに人間関係や、環境でもそのねらいを具体化したものになっていることがわかります。人間関係の「身近な人と関わる心地よさを感じる」「周囲の子ども等への興味や関心が高まり、関わりをもとうとする」も当てはまります。また環境の「身近な環境に親しみ、触れ合う中で、様々なものに興味や関心をもつ」「様々なものに関わる中で、発見を楽しんだり、考えたりしようとする」さえも該当するから、面白いのです。

総合的な保育、というキーワードがあります。これは一つの活動が色々な要素を取り込んで総合的な活動になるように、という意味ではありません。子どもの体験はいろんな場面で起きており、一見、バラバラに起きる体験が、実はつながりを持った発達の経験になっていくという意味での「総合的」なのです。しかし、このコンテンポラリーダンスを、五領域の視座から分析してみると、とても豊かな経験になっていることがおわかりいただけると思います。

さらに実は、言葉の領域からも「非言語的コミュニケーション」や「身体の声」という活動になっていることも、添えておきたいと思います。

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