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園長の日記

先進的な事例から保育を学ぶ

2022/09/06

昨日から始まって、今日6日(火)で二日目となる研修会「保育環境セミナー」で、藤森平司代表の基調講演と二園の実践発表を聞くことができました。研修会は保育環境研究所(藤森代表)が主催しているもので、今回で56回目。新宿・高田馬場のセミナー会場に約100名、オンラインでの参加者が約300名に上りました。保育について自主的に学び合う研修会に、全国各地から、これだけの参加があるのは珍しく、保育団体や自治体が主催する数ある研修会よりも活気があり、実践のレベルも高いものです。

今日の基調講演のポイントは「子ども同士」「子どもの共同性」をいかに育くむか。<見守る>ことの意味を解説した保育雑誌の特集号の説明(イラストと解説文)を題材にしながら、私たちが追究すべき保育との違いが明瞭になるものでした。雑誌で説明されている保育者の働きかけは、相手が「複数の子どもたち」に変わっただけで、一人の子どもに直接保育者が働きかけるものと、何ら変わらないものです。しかし、私たちの<藤森メソッド>は、その働きかけそのものを、子どもたちの中から生み出すものなのです。

その事例に近いものが、今日のわらすのブログで「お片付け」のシーンとして報告されているものに近いと言っていいでしょう。セミナーで報告された事例は、遊びの停滞を克服していく動きが、子ども同士の関わりの中から生まれていく様子を、年度末に開く「成長展」で展示したものでした。乳児の遊びのつながり、2歳児クラスでの積み木遊びの展開、幼児での協働的な製作活動など、どれも子ども集団そのものが、知恵を出し合ったり、助け合ったり、協力しあったりしながら、生活と遊びを豊かにしていく関係性の育ちを確認できるものでした。

そのためのポイントをまとめたものも、提示され、既存の保育団体や学会からは出てこない保育事例と分析になっていました。OECDが世界の代表的な保育として紹介している5つの保育カリキュラムがあるのですが、それにもまだない、共同性を育む見守るアプローチの提案になっています。

 

実践報告は、熊本から「ステム保育」の充実した環境と実践の事例が、また長野からは「絵本をめぐる多様な活動」が報告され、いずれも海外で提案しても絶賛されそうな内容です。私たちは、このような保育事例を参考にしながら、保育を高めていける仲間を持っていることに感謝です。保育を学び合うことの楽しさを実感できる研究会です。

「こどもかいぎ」という名前の学校ができたらいいな

2022/09/05

このような光景はとても久しぶりです。楽しい。嬉しい。子どもたちもきっとそう思っているはず。こんな時間が子ども目線から見たら、キラキラした夏の思い出になるだろうな・・そうに違いありません。

そう思ったのは、映画「こどもかいぎ」で、お休みの間に出かけて楽しかった場所は? と聞かれて、その子は滔々と長い話を語るのですが、お友だちに「そこ、どこ?」と聞かれて「スーパーマーケット」と答えるシーンがあるのですが、それを思い出したからです。同じシーンのことを、姉妹園の園長も9月の園だよりに書いていました。大人にとっては、もはやなんでもない場所や遊びが、子どもにとっては宝箱のようになっているということが、よくあることだからです。子どもの「思い出あるある」です。

というようなことを思いながら、屋上の水遊びの様子を写真に撮りながら、暑すぎる夏もコロナの第七波も、大人目線だけで、あれはいい、これはダメと決めつけるのも良くないんだろうな、ちゃんと子どもに「聞かなくては」と思うのでした。

 

保育の探求は、子どもと一緒にやろう、子どもと一緒に「どうやっていったらいいんだろうね」と考えながら生きていこう。そこに大人が忘れたり気づかない宝物が見るかるんだろう。そう思います。そして、さらに、そういう保育園や学校の名前を「こどもかいぎ」という名称にしたらいい。そんな学校ができたらいいのにな、とさえ思うのでした。

 

「こどもかいぎ」を子どもサロンに

2022/09/04

今日は夜8時から1時間、映画「こどもかいぎ」の監督、豪田トモさん、そして映画の中でファシリテーターの役で登場した保育士のカッキー先生と3人で、映画にまつわる話をオンラインでしました。シネスイッチ銀座での上映は終わりましたが、全国での上映も8月でほぼ終わり、これからは「自主上映会」へと移っていきます。今日の3人での懇親会的な雰囲気での話し合いで、私は「こどもかいぎ」の魅力といろいろな可能性について、「こどもかいぎは、子どものサロンである」ということを述べました。

私たち大人は家庭でも仕事場でもなく、自分の思いを伝えたり、他人の考えを聞いたりする「場」を、意図的に作り出すことをしています。その「場」は、あるときは懇親会だったり、お茶会だったり、女子会だったり、同窓会だったり、哲学サロンだったり、研究会だったり、結社だったり、集会だったり、居酒屋だったり、・・・と、集まるメンバーや目的に応じて、様々です。しかし共通するのは、日常の生活の中では見出せない<語りのコンテキスト(文脈)>が創成する場である、ということです。

この人間の欲求は、相当に根強いものではないでしょうか。なぜ、こんなにも多くの種類の語り場があるのでしょうか。それを想像するだけでも、人間にはそういう語り場がなくては人間になれないほどの、何か本質的なものを示唆しているとしか思えません。その欲求を「こどもかいぎ」の中に見出した、という話をしました。それは大人にとっての語り場サロンのような場所、昔のカフェがそういう語り場だったような、そういう「サロンの空間が、子どもにも必要な環境なんだろう」ということに気づいたからです。

そして、このサロンでの自由な語り場が、小学校でも中学校でも高校でも、大学でも職場でも必要なのです。その子ども同士のつながりを、幼小連携の柱の一つにしたらどうだろう、と考えています。このアイデアを千代田区に提案して、子どもの意見を聞きながら、架け橋プランの中に位置づけられないか、実践してみたいものです。今日は懐かしくも楽しい夕べの時間を過ごすことができました。

 

コンテンポラリーダンス「ZER○」の青木尚哉さん

2022/09/03

10月22日(土)の「親子運動遊びの会」(運動会)は、昨年、一昨年と同じように、コンテンポラリーダンサー青木尚哉さんとのコラボレーションで実施します。青木さんは「ZER〇」(ゼロ)という名前のダンスグループを創って活躍されている方です。身体と表現の関係から運動を捉え直していことで、子どもの発達にとって本当に必要な運動や環境とはどういうことかを探究していく活動になっています。今年は7月下旬から月2回ほどのペースで園に来てくださり、子どもとダンスを通じた体験を積み重ねています。運動会では、親子でその醍醐味を味わえたらと思っています。「ZER〇」のダンサーで、青木さんと一緒に園に来てくださっている芝田いづみさんも、丸3年のお付き合いです。子どもたちはお二人が大好きです。「大きくなったらダンサーになりたいです」という子どもたちが、出てこないかなあ、と思ったり。連絡アプリでお伝えした、お二人の自己紹介の動画、ぜひご覧ください。

 

 

これからの教育に必要な3つの特徴

2022/09/02

私たち保育者が日頃考えていることは、子どものことご家族のこともそうですが、私たちを取り巻く人間関係、規制やルール、自然や教育のことなど社会全体のシステムも同時に考えながら仕事をしています。目に映るものや見えている景色にとどまらず、そのような「目に見えない社会の仕組み」から、私たちは精神的にも身体的にも大きな影響を受けているからです。その目に見えない仕組みの中で、私たちに大きな影響を与え続けているものが「教育制度」です。

今日2日(金)は、その社会システム「教育制度」の中でも、これから必要になる教育について考える機会がありました。まだできていないけれども、これから必要になる教育とは、どんなものなのでしょうか? それは保育者がこれまで受けてきた教育、あるいは、いま受けている教育(ちょうど大学から保育実習生が今、園に来ていますが)と、何が異なるのしょうか?

それにはいくつかの特徴がある気がするのですが、一つは、教育や学習で身につける<中身の変化>です。時代の変化が早いとき、個人が身につけて活用できる知識や技術(技能)=いわゆるスキルは、常に新しいものに置き換えていくことが必要になります。スキルのアップデートは社会人ほど不可欠な時代になりました。たとえば私はネット社会に必要なIT技術を学び直しています。しかも、そのスキルは、他者との協働の中で使う比重が増えました。一人でできることなんて、たかが知れいているからです。ほとんどの仕事がチームです。

専門性にコミュニケーション力、発信力、共感力、ファシリテート力などが不可欠になってきたのです。教師も知識や技術(技能)を教えるティーチングよりも、学習者が意欲的に学べるように導くコーチングのほうが重要になります。またコンテンツを直接教えるよりも、どうしたらそのコンテンツにたどり着けて自分で自分のものにしていくか、その学び方を教えることの方が大切になります。これが変化していく<中身>の話です。

もう一つの特徴は、必要とされる知識や学び方それ自体を支える価値判断のスキルです。何が本当に必要なスキルなのか、なぜそのスキルが大事なのか、その理念や目的、個人の考えや思想、生き方、幸福感などは、今後ますます多様で複雑になっていくでしょう。<中身>の方で共同性が重視されるとき、協働する相手の価値を認め、大切にし合いながら、しかも、共通の価値=コモンを創造していく活動を創り出していくことになります。

すると、理念や目的、個人の考え方や生き方、幸福感などが個人や地域や国などによって異なってくることを前提にしながら、地球環境という限られた資源を持続可能に保っていくためのコモンのあり方を見つけ出しながら、目の前の経済社会の動的平衡の中でバランスをとりながら現状も維持して、ソフトランディング(あるいはソフトランチャー)していくことの両立を図らなければなりません。「この農薬散布は良くないけど、すぐにやめるわけにはいかない」といったジレンマの中での、よりよいものへの粘り強いシフトが必要なのです。

その時、たぶんこれまで以上に重視されるようになるのは「対話力」です。こどもかいぎ、のようなことがとても大切なことになっていくのです。しかも、その中で自分づくりが営まれるのです。自己と他者という永遠の哲学的テーマも、新しい時代にふさわしい形で、再認識されることになるでしょう。すでに、その兆候が見えていますけれども・・。

新しい時代に必要な教育のあり方とは、このような中身、方法、より良い価値へのビジョンの3つの側面を具体化するものでなければなりません。保育者にとってもそれが必要で、それはこんなものだということを、今日は確認したのでした。

 

押麦の入った食事

2022/09/01

「園長先生、今日の鯖の味噌煮、どうしても食べて欲しかったんですけど、見事、完食でしたよ」。

にこにこと笑顔の調理の先生。作っている方は、残食がないと、ほんとに嬉しいものです。ご家庭でもそうでしょうね。愛情込めて作ったごはんが「おいしい」と言って食べてくれたら、嬉しくて疲れも吹っ飛びますよね。調理さんもそうなんだよなあ、って改めて思いました。今日のような鯖の味噌煮とか、おうちではどれくらい食べたりしているのでしょうか。子どもたちは、お代わりを競うように欲しがっていたので、私も嬉しくなったのでした。

今日から9月。献立も新しい月に変わりました。「給食」は制度用語なので、普段は「食事の時間だよ」とか「ご飯美味しいね」などと、給食という言葉を生活の中ではあまり使いません。ですから、献立表も午前のおやつ、昼食、午後のおやつ、といった表現にしています。給食というものが表していた内容は、それが始まった時代には、食を給うという意味が自然だったのでしょうが、現代はそのような時代ではありません。私が関わった厚生労働省の審議会の報告も「食事の提供ガイドライン」であり、「給食」ではありませんでした。

さて、その食事ですが今日の主食のご飯には、押麦が入っています。押麦は大麦を少し潰して水を吸いやすくしたものです。お米と同じように、炊いて食べるとこができます。食物繊維や鉄分の補給にもなるので時々ご飯に入れます。

最近では同じように麦の仲間である燕麦(オートミール)の方が、身近かもしれませんね。薄いパフ状になっているシリアル食品なので、牛乳をかけるなど加熱しなくても柔らかくなるから調理しやすいからでしょう。

ご飯に五穀などの雑穀を混ぜると、ミネラルや食物繊維が摂取できるので、腸内細菌の改善にも役立つのですが、子どもたちの食べ具合を見ながら、保育園の食事の中にも取り入れていくかもしれません。

心身をお互いにケアしあって、楽しく

2022/08/31

園だより9月号(巻頭言)より

この9月で今年度も半年が過ぎることになりますが、1年間の流れがコロナによって、どうしても分断されてしまいがちです。感染の波がくるたびに、数ヶ月単位の生活の流れが乱されて、その度にゴールデンウィーク明けぐらいの状態に戻ってしまうという感覚があります。7月下旬からの登園自粛で夏らしい活動がどれくらいできたか?といったことを振り返ると、保育園なのに学校のような(幼稚園のような)夏休みがあったような感じです。9月から、さあ二学期が始まります、というような感覚に近いかもしれません。

でもGWや夏休みと異なるのは、子どもも私たち大人も健康状態の異変を抱えている場合がある、ということです。身体的にも精神的にもダメージを受けてしまった家族があるということを、心にとめて静かに配慮し合いたいと思います。はっきりとはわからないけれども、なんだか体調がすぐれない、そんなことが起きているんだということを忘れないで、いつもと同じように目立たない気遣い、心遣いで、ケアし合いたいと思います。

 今月は延期になった「納涼会」があります。ちょっと遅い納涼会になりましたが、ここで楽しい夏の思い出作りにしましょう。また、これからの季節はだんだん、涼しくなって体を動かすことが楽しい時期、運動の秋、食欲の秋、アートの秋など居心地のいい時期がやってきます。ダンサーの青木さんたちも来園も増えてきて、身体表現の面白さも味わいます。来月10月22日(土)の「親子運動遊びの会」で、ご家族みんなで、体を動かして楽しみましょう。

 味覚の秋、といえば果物も美味しい季節になります。今年度は調理の先生たちも新しいメンバーになって、食事の内容や工夫していることを、もう少し情報発信していくようにしたいと思います。9月の献立表から、新しいミニコラムが加わりましたので、ぜひご覧ください。また「アーツちよだ3331」が旧校舎修理のため今年度末で休館になるので、今のうちにもう少し交流しておきたいと考えています。

 ところで、9月は防災対策を点検する月でもあります。大規模な地震が発生したらどうしたらいいのか。その時のことを想定して「こうなったら、こうしよう」の練習をしましょう。いざとなったら慌てずに済むように、準備をしておきましょう。連絡アプリを使って、アンケート形式の自己チェックをしていただきます。千代田区は基本的にはこんなことが大事なポイントだったということを確認しあって、身の安全を確保していきましょう。

つぶやきから伝わってくる強い気持ち

2022/08/30

自分なりにやった判断とその結果が他人に認めてもらえないとき、二つの選択肢の前で人は戸惑います。それまで自分はそのように生きてきたし、それでとやかく言われたことはないから、これまで通りAのやり方を続けよう。これが選択肢A。

もう一つの選択肢Bは、それまで自分がやってきたことではうまくいかないからこそ、その他人が認めてくれないのだと素直に自分自身のあり方を省察してみることです。するとそれまでとは違った気づきが生まれ、歩んでいく視野が見つかるかもしれません。

なんでも認め合う関係というのは、なんでも許し合う関係でもあるかもしれませんが、それだけでは信頼し合う関係には、育っていかないのではないでしょうか。人間性の開発とは、人間関係の発達でもあるからです。

この選択肢AかBかを選べと言われたら、私は迷わずにBを選びます。もし、仮にBの否定(結果的に提案でもあるもの)が自分に合わないと最初からわかっていたとしても、自分の中から出てくる現状維持への惰性に従ってしまうことが、自分で考える道を閉ざすからです。異論があること、他の見方や考え方がより良いものであることを発見できる可能性があるなら、私は選択肢Bを選びます。その思考の結果、やはり最初にやってきたことで良いと判断するなら、それでも結構。同じ結果であっても、その生き方は水と油ほど違うと思います。いったん自分の中を通したものと、最初から拒否したものとでは、結果に対する自分で納得する責任感が違うからです。

今日30日(火)、昨日と今日とでは、子どもたちが違います。昨日がそうだったから、今日もそうなるだろうと考えるかもしれませんが、月曜日と火曜日とでは、子どもの何かが違います。昨日も捕まえたトンボを、今日も捕まえて帰ってきた子どもたちですが、「エンチョーセンセーイっ!」と大きな声で呼ばれて、「お帰りなさい。どうしたの」と玄関へ出ていくと、虫かごにトンボが三匹、逃げだそとうとして、羽をバタバタと音を立てています。かなり大きな音です。

「よく見せて」というと、私の目の前にカゴを突き出して、見せてくれます。三匹のトンボは、それぞれ捕まえた子どもがちがっていて、Sくんが「これはHちゃん、これはRくん」と教えてくれます。するとHちゃんが「私ももちたい!」と、Sくんからカゴを無理やり取り上げようとして、力づくの取り合いになります。

すると、それをみていたRくんは、「逃してあげないとしんじゃうよ」と小さい声でポツリ。彼もカゴを持ちたいのかな?と私は思いましたが、SくんとHちゃんの取り合いが終わっても、トンボのそばに行かないので、本当に逃してあげたいと思っていたようです。そして二人には何度もそう言ってきて、それでも無視され、やらないことがわかっているから、もう諦めている、そんな顔でした。

4〜5歳の、こんな小さいうちから、友達の力関係もわかっている中での、トンボのことを気にかけているRくんの様子に、私は気持ちが動かされませす。このような瞬間は、誰の記憶にも残らないだろうなあ、と思いながら、Rくんの「トンボ、逃してあげないと」という言葉の繰り返しに、「そうだね」と、深く頷いてあげたのでした。わかってほしいという強い気持ちが、呟きにしかならないこともあるんですね。

「保育の過程」の2つの語り口

2022/08/29

当園の保育の特徴は、子どもの発達をとらえる「視点の広さ」にあるかもしれません。子どもの姿を多様な視点でとらえることは、保育の質を語るときに欠かせないものです。同じ子どもであっても、どんな視点でとらえるかによって、姿は異なってくるからです。その子ども理解を保育の起点(スタート)とし、そこから「こうあってほしい」という保育者の願いが保育計画や、次の保育の展開の機動力になっていくというのは事実だし、その流れを「保育の過程」と考えることが、今の保育の定説になっています。

しかし、その起点が動かない、保育が展開しない、という事実が多いのも現実であることを考えると、保育者の理解度、願いやねらい設定といった、保育者側のことで、子どもの体験が制限されてしまうとしたら、そこを乗り越えるためにも、子どもに任せる、子どもの思いや考えを「聞く」、そして子どもに生活プランの推進のチャンスを保証する、そういう範囲を増やすことが大事になっていると思えます。

今日29日(月)から保育実習生が一人きています。同じ子どもたちについて、私の見え方と実習生の見え方は違います。それはきっと、誰でも「そうだろうなあ」と認めてくださることでしょう。同じように私の見え方と保護者の見え方も違います。子どもと先生という関係と、親子関係とでは、違って見えて当たり前でしょう。園と家庭では、実際に行動パターンが異なるでしょう。人によって見え方が違えば、保育の起点や展開も変わるでしょう。

今日、こんなことがありました。朝、3階で久しぶりに「園長ライオン」をやりました。これまで何度も同じ遊びを積み重ねてきた子どもたちですが、やってみると子どもの成長を感じます。2年前と今、1年前と今では、この同じ遊びであっても「面白がり方」が、落ち着いているとでもいうのでしょうか、慣れている遊びの習熟度を感じます。弾むような興奮ではなく、気持ちが「熟成している高揚感」とでも言っていいかもしれません。ワクワク、ドキドキが楽しいという部分はあるのですが、それぞれに余裕があるのです。そんな違いはきっと私にか感じない「子ども理解」であり保育の「起点」です。

でも、今日はその子たちがその後、「和泉公園」に出かけて、トンボを捕まえてきました。もう自然界は秋です。そのプランは、主任や担任の「子ども理解」から始まったものですが、鍵になったのは、子どもがどうしたいのかを「聞いた」からです。トンボについて関心を持っていた子どもたちがいたことをキャッチし、さらにトンボを探して捕まえたい、という子どもの願いやプランを優先して、それを叶えてあげたい、と先生たちが工夫したからです。

保育者を主語にした保育の語り、そして子どもが主体となる生活づくりの語り。同じ出来事の連なりを、どちらで語るか、あるいは両方を共に語り比べることで、「新しい気づき」が生まれるのか、そんなことを試してみたいと考えています。

より安心で安全な食材を求めて

2022/08/28

私たちが食べたり飲んだりしているものが、体にいいか悪いかを判断するのは、誰なんだろう? そんなことを考えたこと、ありませんか? 賞味期限が1日過ぎてしまった食品、傷んできた冷蔵庫の野菜、一旦溶けてまた固まったアイスクリーム、割ったら弾力性のない生卵・・・食べたり捨てたりするのは、人によって異なるかもしれませんが、これらはまだ判断がつきやすい方です。分からないのは、一見新鮮そうに見えながら、実は農薬がたっぷりかかった野菜や果物。有機栽培と書いてあるけど、実際は遺伝子組み換え作物の有機肥料がたっぷり使われたもの。食べたら美味しいけど、化学調味料がふんだんに使われている料理。さあ、どうでしょう? これらはどうやって判断したらわかるでしょうか?

こんなことを考えてしまうことが、最近増えました。安心・安全な食材について調べているからです。そしてこう思うようになってきました。自然界に住んでいる動物が、自分で食べるものを間違えてしまうようなことはきっとなかっただろう。動物が、これは食べていいものなのか、食べてはいけないものなのか、本能で区別ができなかったら、きっと絶滅しているだろうと。たとえば地面に生えている自生の草を食べている、アメリカのある牧草地で飼われている肉牛たちは、自分達が排泄した糞のために、青々と茂った草は食べないそうです。青すぎる草には、硝酸性窒素が多く含まれていて、体に良くないことを牛は知っているのだそうです。

人間の身体や感覚は、動物ように自然界の「中にいる」のではなく、自然界から「分離された」ものになってしまっています。ですから、自然ではないものを人工的に作り出した環境が、巡りめぐって、人間自身にとっても都合が悪いことになっています。そして、その判断が自分の感覚ではできなくなってしまいました。摂取していいのかどうなのかを、他人に聞かないと分からないようは世界に、私たちは生きています。そして忘れてはならないことは、ものによっては微量であっても、人体に深刻な悪影響を与えてしまうものもあれば、微量では影響がないかもしれないけれども、たとえば腸内環境の悪化のように、長く取り続けると体内でよくない環境を作り出してしまっているかもしれない、ということです。

(この写真は朝日新聞デジタル 2019年7月12日付配信記事より)

自然から切り離されてしまった私たちの身体と感覚。人工的に作られたものが身の回りに氾濫して、自分では制御できないような環境になってしまいました。食べ物が安心して食べられるように、身近なところから変えていこう、そのための勉強を始めました。手始めに、この分野の第一人者の方々の研修に参加して、基本的なこと、最新の情報を学び始めました。知識をアップデートして、保育園の食に反映させていくつもりです。

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