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園長の日記

幼児教育のそもそもから

2023/01/14

昨日13日(金)の夜、養成校が開いたリスキリングの研修会で、「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」について検討しました。このいわゆる「10の姿」と私たちが呼んでいるもの。これを幼児教育に携わる者(主に保育者)と、小学校以降の生活や学びに携わる者(主に学校の先生)とが、深く理解して共有したい。具体的な姿を持ち寄って話し合い、理解し合いたい。その機会を作り出したい。そういう動機が働くためにも、それをやることが、子どもの人権を守っていくことにつながるのだということをよく理解したい。そんな気持ちで検討した180分の研修会です。

そもそも幼児教育とは、というところまで遡って考え直しました。幼児教育とは何をすることなのか。何がよい幼児教育なのか。どう考えることが質がよいと言えることなのか。育みたい資質・能力とはどういうことなのか。なぜプロセスの質なのか。それは、どういうことを過程として捉えるのか。かかわるとは、どういうことか。遊びというのはどう働いているのか。その上で主体性とは何か。人権をどう考えるのか。これらのことは世界的にはどう理解されているのか。園生活の中にそれが置いてあるのはなぜか。・・・このような、そもそものことを考えていくことがいかに大事なことなのか。

そうやって丁寧に一つひとつを、手にとって触り、確かめ、味わい、よく咀嚼すること。そういうことをちゃんとやっていく学びがないと、幼児教育が目指していることが、本当には「わかった」にならないんだということが浮かび上がってきます。わかっていないことを理解して、その不足を知りたくてまた学ぶこと。私たち大人の学びが自覚的に進んでいくこと。なるほど、と繋がっていく継続的な学び。私たちの保育が、私たちの探究でもあるような営みになるように、そんな時間になることを目指した研修をやってみました。

 

子どもの人権としての主体性

2023/01/13

幼児教育の根幹に「子どもの人権」があるということをよく考えるようになりました。一つは昨年末からの保育園の問題から。もう一つは小学校への就学を考える時期になってきていることから。そして千代田区の就学前プログラム策定の検討委員としての作業の中でも。また東京に新しく学校をつくるために考えていることの柱になるものとしても。人権は主体性が尊重されることであり、その具体的な姿が、さまざまな「かかわり」の中で共感と自律のダイナミックな動向として現れているという意味でも、幼児教育を捉え直すことにつながっています。

先生たちが描く子どもの姿が多面的になってきているのを感じます。屋上の花壇で遊び込む乳児の姿。花壇の傾斜を滑り台のように遊ぶ自分との「かかわり」、土を握ってはパラパラと投げて笑う面白さ。お友達の楽しそうな雰囲気に気づいて近づいていく姿。あるいは年長さんの御徒町公園へ電車で出かけることになった経緯にみられるグループの目標の会話による修正。公園で偶然であった保護犬がどうして人を怯えるようになったのかの話への子どもの共感。電車の改札を通るための「はじめてのピッ」体験へのワクワク感。

ちょっとした体験の瞬間を捉えては、それぞれの主体性が、自分自身や人や動物やものとの「かかわり」のプロセスそのものの中で、どういうことが起きていそうか、どう世界が広がっているのか、あるいは取り入れているのか、そのあたりのよさや面白さ、遊戯性の濃淡を捉えているくれているように感じます。

 

親子でご覧いただくための写真入りのドキュメンテーションは、クラスや廊下に掲示していますが、ホームページの他のクラスブログも、よろしかったらぜにご覧ください。

鏡開きと「人間性等」

2023/01/12

子どもの体験というものを「かかわり」の変化、と捉えるとどんな体験であっても、その体験そのものが、よーく考えればプロセスに他ならないことがわかります。かかわりそのものが変化するのです。というよりも、変化しない「かかわり」はないといった方がいいのかもしれません。常に変化しないものは、この世にはないわけだから、そのことを本気でそう思いましょう、というのが実は幼児教育の前提になっている「体験観」なのかもしれません。変化というと、石など物質は変化しないじゃないか、と思うかもしれませんが、物的には動かないように見えても、微細に見れば物理学的に見れば動いているし、時間的にみれば劣化したり摩耗したり風化したりします。そういう物的現象とは別に、ものの「かたち」が、私たち生きのもに、届いてくる像、イメージ、内面に引き起こされる表象といったものが「かかわり」の要素だと考えれば、それはものによって、あるいはこちらのコンディションによって変化します。かかわりは常に変動し、揺れ動き、相互に作用しあっている関係の中にあります。

そんな風に関係やかかわりとして保育を見ると、ものがアフォードしてくるものを、発達によって受け取る子どもにとっての意味の違ってくるだろうし、そこに偶然に起きる出来事にも縁を感じてしまうし、そこに立ち会っている瞬間の空間に厳かさや神秘性を感じてもおかしくありません。もし昨日の鏡開きの後日談があるとするなら、現代あるいは未来における神聖さを探すとするなら、まさに人間性が発揮されている場所になら、どこにでもあるはずなのです。神社やお地蔵さんということではなく、私たち自身の中に、子どもたち自身の中に、あるいはその存在を含めた精神的空間のなかに、それを見出して豊かにしていく営みが保育であるべきなのでしょう、原理的には。仏壇に手を合わせる姿がなくなっても、私たちは人間そのものを見つめるまなざしの中に、それを見出していくことにしましょう。資質・能力には「人間性等」があることを忘れないようにしながら。

 

鏡開きをめぐって

2023/01/11

割ったり、切ったりというと、神様によくないから、神様がここからお戻りになるように開くというんですよ。・・・こんな言葉遣いの配慮や、縁起をかつぐことにこだわることは、とても根強いものが残っています。二人をお祝いするときに2分されないように「3」や「5」の奇数にするとか、今なら受験シーズンなので、滑るや落ちるは使えない雰囲気さえあるでしょう。喪中は年賀状も出さないし、おめでとうとは言わない、祭事だった相撲をみれば悉く所作に意味を持たせていることもわかります。鏡開きをしました。さて、何を大事にすることが幼児教育に相応しいのでしょうか?

一つの考え方として、ずっと伝統的に守られていることには、きっと大事なことがあるんじゃないか?そういう発想が一つ。でも人権感覚や宗教観も変わってきている中で、どこまで何を大事にしたらいいのでしょう。また、地域社会や家庭の風習や習慣の中で、失われているからこそ保育園が担った方がいいという考え方と、サンタクロースの話ではありませんが、いつからか変形されていった経緯の要因への評価みたいなものも検討範囲に入ってきます。それも直感的なよさの判断が働いていくものかもしれませんが。

細部にこだわると、ああでもない、こうでもないとなるのが、私の経験であります。お餅つきを保育園でやるとすると、人手が足りずに親や地域の方と一緒に行うことになるのですが、そのとき昔は「船頭さん多くて船が進まない」ということがおきがちでした。餅米の蒸し具合、火入の加減、臼と杵で腰でこねる作法など、いろんな伝統的な知恵があって、だんだん、そうしたこだわりも減ってきた気がします。まあ元気よく、どっこいしょ、と楽しめばいいのでしょうから、と。

お供えした時、柔らかかったのに固くなっているだとか、ヒビが入った、割れた、中は柔らかいとか、青カビとか、さらに遡ってお米からお餅になる変化などに注目させることだってできるし、冒頭で触れたように言葉のことや、人間関係のこと、つくとか叩くとか運動面も色々あります。でも鏡割りでそうした分析的な五領域の話に還元しても、あえてやる意味としては何かピンときません。

私の中学の時の国語の先生が(私が12歳の時ですから半世紀前のことですが)「最近は仏壇が減ってきているらしい。朝夕に親が手を合わせている後ろ姿を子どもが見ることは減った」みたいなことを言っていたことを、なぜかよく覚えています。日本の住宅から畳が消えていったことに合わせて、神の居場所も減っていったというのです。朝夕のそうした時間と空間の喪失。

ふと、そのような気配を感じる空間というものを、園環境の中で作り出すといった発想に近いものは、茶室だったり絵本ゾーンだったりするかもしれませんが、ちょっと違います。人が何を精神の拠り所として生活しているか、そのためにふさわしい空間がどこにあるのか、そう考えると高層マンションからは消えてしまっても、ちょっとした街角に神社やお地蔵さんが、そうした空間を守っているようにも感じます。

「なんかいい感じ」にできていく

2023/01/10

最近、幼児特に年長さんが段ボールをよく使うので足りなくなります。「大きな箱」の特性からの遊びです。中に入ってみる、乗り物に見立てる、積み上げてみる、中には乗って潰すなど。何を目指しているのか、どこに向かっていくのかとみていると、それぞれに作りたいものがある時と、そんなに明確なものをイメージしていないときがあって、それでも試行錯誤しながらやっていく推進力に驚くばかり。どこで飽きてしまうのか、続く遊びはどんなことか、そういう要素を見つけたいと思いながら見守っています。

自ら手を加えて変わっていくことの手応えや面白さなのでしょうか、手を加えて変わる結果からもっとこうしようと続けていこうとする。その作用のようなものはなんだろう?と感じる時があります。カイヨワの遊びの4つの分類に重なる要素(模倣)もあるのですが、幼児には村井実さんの善さの4要素の核に美があると思ってみてみると、なんかいい感じになってきた、というよさの感覚から、それをよりもっと、と続けさせているように見えなくもありません。

そうしたこだわりは、箱にテープを貼る場所、箱を載せる向きなどの瞬間瞬間に働いているのかもしれない、なんてことも感じたりしながら。というのも「やって〜」と頼まれたから手伝うと「ちがう!こっち」と理由がよくわかない「指導」をもらうこともよくあるものですから、「失礼しました」と。探究の原動力は、好奇心のようなことを発動させているその奥だか手前だかに、いいね!と感じるものが動いているのかもしれません。それを感じることができるのも、子どもの側にいる役得かもしれません。

 

チュンちゃん 子どもの手に乗る

2023/01/09

年末年始を職員の自宅で過ごしたセキセイインコのチュンちゃんが、保育園に戻ってきました。いつの間にか、手に乗るようになったチュンちゃん、子どもも鳥も、その間に「信頼関係」成立です。動物が人に懐くというのは、警戒心が解かれていくことでしょうから、そこには学習があるのでしょうが、きっとそこには生まれながらの傾向と、これまでの経験からのものとがあるんでしょう。それまでの経験の中には、園児たちの大事にしてあげようという優しいケアも含まれると思います。何らかの形で鳥にもそれが伝わっているのでしょう。そう思うと、金魚やカメとの間にはなかった、気持ちの通い合いのようなものを感じやすいと言えるのでしょうか。インコは警戒と信頼の差を見せてくれる性質を持っているから、人気があるのかもしれません。人は自分に懐いてくれることを嬉しいと思うものですものね。そこに愛情の通路ができるからでしょうか。

春の七草をお粥にして

2023/01/07

せり、なずな、ごぎょう、はこべら、おとけのざ、すずな、すずしろ これぞななくさ。

語呂合わせで覚えているものが、結構あります。

言葉の豊かさ、というものを保育士ならその専門性として考えざるを得ないのですが、あるだじゃれが大好きな方は、言葉遣いの名人でもあり、「ああ、そんなふうに説明できるのか」と、簡潔にしてポン、と私の方に意味が飛び込んでくるような語り方をします。あのね、それはね、昔日本人はね、と、まるでボールがゆっくりと投げられて、見ていたらヒューッと戻ってきて、私の手の中にあるといった感触があって心地よいものです。

五七調の調べに乗せると、なぜか覚えやすいのは、そういう文化に慣れてきたからなのでしょうが、子どもたちにもそういう言葉の環境を用意してあげているかというと、どうでしょうか? 日本の言葉の調子というものを、子どもが気づき面白がる時期があって、先日もやたらと「いちじゅうひゃくせんまん」と呟いていたので、何?と聞くと、それきた!とばかりに、その子が「クーイズ、クイズ」と始めたので、気前よく私が「な〜んのクイズ?」とやると、「一番大きな数はな〜んだ?」というので、さっきからぶつぶつ言っていたから答えはわかっていたんだけど、あえて「じゃあね、100億!」とでまかせに答えてあげたら、「ブッブー、むりょうたいすう」でしたあ〜。

園生活には落語のじゅげむが流行ったり、出会い頭に必ず「やろう!」と誘われてアルプス一万尺をやらされたりすることがあります。早口言葉とか回文、かるた遊びで俳句と出会ったりもします。これぞ七草のように、こうでもしないと覚えられるものじゃないというものがたくさんあって、何度も口にしているうちに、忘れられないものになります。ちはやぶる〜も、遊んでいるうちに覚えてしまったということであって、和歌や短歌を忘れないのは、よくよく考えると面白い脳の記憶方法になっているのかもしれません。

ちなみに、秋の七草は「萩すすき、桔梗かるかや、女郎花、ふじばかま葛、秋の七草」です。

せっせ、せっとと・・

2023/01/06

子どもがせっせ、せっせと何かやっていると感じるとき、そこにささやかな幸せを感じます。昨日5日(木)はお昼ごはんを屋上で食べることになって、トレイに乗せた昼食をこぼさないようにそ〜っと運んでいました。年末からよく晴れて気持ちがいい日が続いています。風もなく明るい日差しが降り注ぐ屋外で食べるごはんが特別なのを知っているようです。ぼくもわたしもと、ぞくぞくと屋上へ集まってきます。やりたい子だけがそうしているのですが、そのきっかけは今月28日(土)に行う予定のお楽しみ会(パート2幼児編)に向けての話し合いから偶然そうなったものです。

「お父さんやお母さんに楽しんでもらうために、何をしようか」

この問いかけかけから、いくつかの活動が生まれています。その一つが「クッキングをして食べてもらう」というのが生まれました。何を作るかの候補が決まり、どこで食べてもらうかを考えていたら、「屋上がいい」という案が出て、いつも二階で食べているダイニングのテーブルを屋上へ運ぶことができるかどうかを検討することになり、それを運んで並べてみたら、「うん、これでいいね」となって、そこから「すぐやってみたい」が始まって・・・せっせ、せっせとが始まりました。

テーブルを拭くタオルや手洗い用のハンドペーパー、必要と気づいたものを「あたし、とってくる!」と、われ先に動き出す子どもたちのはつらつとした顔つきがいい。お代わりにいかなくてもいいように「いっぱいもらっておくの」と、いつもより多めによそってもらったご飯が、日に照らされて輝いていました。

初詣

2023/01/05

1月4日の保育はじめは、初詣でした。保育園から柳原通りに沿って200メートルぐらい、毎日のように遊ばせてもらっている柳森神社へお散歩です。2回お辞儀(二拝)をして、2回パンパンと拍手をして(二拍手)、お願いをしましょう、済んだらもう一度、お辞儀(一拝)をしましょうね・・「〜ね、ディズニーランドに連れてってもらうの」だそうです。

この神社は、室町時代に、太田道灌が江戸城の鬼門除けとして建てたと言われている有名な神社(方除いなり)です。江戸城から見て、ちょうど東北の方向になります。入り口に大きな狸の石像「おたぬき様」があり、「たぬき」なので、他を抜く、他のものに競り勝つということから、勝負事や立身出世、金運向上にご利益があると信奉されています。ですから朝夕にはスーツ姿のビジネスマンらしい人たちが、商売繁盛の祈願と感謝に訪れる方も多い場所となっています。

ちなみにこの神社は江戸三森(この柳森神社と椙森神社と烏森神社)の一つで、観光名所にもなっています。京都の伏見稲荷大社を勧請して創建されたので、主祭神は倉稲魂大神(くらいなたまのおおかみ)です。いなたま、と言えば稲の神様です。古事記では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、日本書紀ではでは倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記されているそうです。

【宇迦乃御魂命】

いなたま、だから稲の神様といいましたが、もともと食べ物を「うか」とか「うけ」と呼んでいたらしいく、農耕文化に根ざした神様は、キャンベルによると世界の多くの神話は女神です。日本も「うかのみたま」は、大地から命をうむ女神でした。写真は滋賀県守山市の小津神社が所蔵する「木造宇迦乃御魂命坐像」(重要文化財・平安時代)です。

また白川静によると、神という字の「申」は稲妻の形です。稲光は天にある神の威光のあらわれと考えられたので、金文では「申」をカミの意味に用いていたそうです。ですから神の元の字は「申」でした。ピカリと稲光が天から差してきたとき、それは神様のお告げと感じたのでしょう。そこから神を祀るときに使う祭卓の形である「示」を合わせて「神」の字となったと考えられています。注連縄(しめなわ)や紙垂(しで)も稲光のイメージから来ているのでしょう。

二つの根本問題について

2023/01/04

さあ、仕事が始まりました。体と精神がいつもの生活に戻っていきます。そして、こうして1日を振り返るたびに、二つの世界の往還の周期の中を歩んでいるという感覚が鮮明になります。もっとあの「精神世界」の中で魂の認識を深めたかったのに、とりあえず、それはもう棚上げして「現実の世界」でやらないといけないことをやるしかないという、山から降りてくる感覚。そしてきっとこの「現実の世界」に没頭していくと、またより大きな自由を感じる精神世界へ戻り、思索を深めたいという衝動に駆られて山を登っていくに違いないのです。

この行ったり来たりのリズムは、明かに精神世界から現実世界へとエネルギーをもたらしており、両方の世界のバランスが崩れると、よくありません。現実の世界はいくら体験や学問を深めていっても、それだけでは解明できないと感じる事実の前で、それ以上の思索方法が見つかりません。感覚的な認識では把握できないような世界です。たとえば宇宙や素粒子の観測データが示すような科学的な仮説(ダークマター、ビッグバンなど)です。脳科学にしても、そういうものだと、受け入れるしかなく、体験からくるものとは違うので自己の納得レベルは浅いものにしかなりません。

一方で、生身の欲求を制御して意志する力を感じる時、あるいは体験から直感的に納得するものは、そこに自由な精神を感じます。しかも、私にとって、その自明性は論理的認識の向こう側からやってくる感じのものです。例えばピタゴラスの定理の証明なら、辺の比率が3:4:5の直角三角形を使って、短い方の2つの辺の二乗の和(9+16)が、最長の辺の二乗(25)に等しいということを、正方形が並んだ方眼紙による展開図を書いてみれば、直感的に照明など入らずに、自明のこととして納得できます。この「明らかさ」と同じ「確かさ」を、自己の体験として求めているのです。数学的証明の確かさです。

ところが数学と違って、生物、とくにその存在が謎である人間について、しかもそのより良いあり方といった事柄については、どういうことがそうなのかを解明していくことは、極めて複雑で困難極まりないものだということがわかります。人間や人生の謎について、自然科学と人文科学、社会科学が総がかりで取り組んでいるわけですが、科学的エビデンスの積み重ねが明らかにしてくれている説明は、それを読んで理解することさえ、難しいことが多いので、それの要約や解説に頼るしかないというもどかしさと不自由さを抱えています。

それでも保育や教育は「現実の世界」として、一時も待ってはくれず、その歩みを止めるわけにはいきません。そしてまた同時に、生きる力の源泉に立ち返りたいという強い衝動があるのは。「現実の世界」に生かすことに中に、その意義を見出したいし、そこに自由を感じたいからなのでしょう、きっと。

 

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