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園長の日記

脳科学を子育てに応用してみると・・・

2023/01/04

正月三が日も昨日で終わり。多くの方は今日から仕事始めですね。子どもたちは保育園へ、親御さんは職場へ、大家族生活の再開です。休日はともかく、平日はこの保育園生活の方が、いろんな意味でバランスが取れて安定することでしょう。子どもは子どもたちの中で、大人もやりがいのある仕事の中で、それぞれの生活の充実が図られていきやすいからです。この年末年始で出合った考え方で、子育てに応用できそうなものがありましたので紹介します。

脳科学が進歩して、私たちの意識や行動がどのように働いているかがわかってきたことから、心理学で「再評価」と呼ばれているものがあるそうです。小児神経科医師でバーバード大学医学部助教授の内田舞さんが紹介していました。その私なりの応用です。

子どもがやってほしくないことをやった時、「どうして私のいうことを聞かないの?」というイライラを解消できるかもしれません。大人側(自分軸)からの見方をちょっと変えて、子どもがやろうとした「こと」や、やってほしい「こと」に着目する課題軸(相手軸)で捉え直してみる。そうすると例えば、遊んで散らかしたおもちゃを片付けなさい、という場面や、先に準備をしなさいという行動切り替えの場面。そんな時に、どうしてパパやママのいうことを聞かない、の方ではなく、どうやったら片付けられるか、どうやったら次の行動へ意識が向くか、という方法を一緒に考えよう、というものです。

ここで思いもよらない発見が始まることがよくあります。子どもは親が自分のことをわかってくれている、気持ちや考えを聞いてくれると感じると安心して、それを出しやすくなります。この子どもが安心感を感じる地点まで、心理的な関係が戻ると、ミラクルな気づきがきっと起きます。(と私の経験から、5割ぐらいかな?)

例えば「ママに先に見て欲しかった」「自分でやってみたかった」「それが嫌だった」とか、何かしらの「そこだったんだ!」が見えてくることが多いのです。確かにそうかもしれません。しかも、大抵は大人側にとっても、その状況を抜きに考えれば、嬉しいこと、良いことだったりすることが多いものかもしれません。でも、その状況ではやっぱり無理!なことが多いのですがね。

それでも、その「気づき」があるのと、ないのとでは、親子の心理的なつながりと安定感は違ってくるのではないでしょうか。つまずきの石は、私たちの生物学的な脳の仕組みにあって、それを知らないうちは、自分のせいじゃないと思うといいのかもしれません。

イライラするのは感情を司る扁桃体と、そこからダイレクトに心拍や呼吸に影響を与える脳幹、そのことで生まれる行動は抑えようがないように出来上がっているからだそうです。怖かったら逃げる、不安だったら避ける、嫌だったら攻撃する・・そういう仕組みのことでしょう。それでうまくいかないことが人間関係なので、そこを制御するのが大脳皮質の働きなんだと。考えてみる、振り返ってみることで、感情と行動の間の適切なコントロールが、我慢してではなく、納得してできるようになっていくのだそうです。考え方次第で子育てもハッピーになるというわけですね。

 

ぼんやりと徒然なお正月の時間

2023/01/02

子どもがそばにいる家族と、私のように乳幼少期の子どもがそばにはいない者と、あるいは親戚や友人が集まってワイワイ過ごしているのとでは、正月の過ごし方も時間の流れ方も全く異なるものでしょう。どんな形であっても、それぞれが自分で過ごしたいように過ごせているなら、それに越したことはないし、またそうではなくても、ひと時の「お正月」という、子どもが好きそうな時間だけに、そちらに譲ってあげているという気分の方もいらっしゃるでしょう。

身近なところに郵便局にお勤めの方がいらして、昨日の元旦は配達で大忙しの日。せっかく正月返上で届けてくださる方に申し訳ないので、よる保育園に一度出かけて年賀状を確認しました。お年賀、ありがとうございます。今日は郵便配達の方にはゆっくりと休んでいただき、本当に一年の中で何もしない、と決めた今日は、キャンベルの神話の世界に没頭させてもらいました。徒然なるままの時間をぼんやりと夢でも見るかのように・・

・・・この神話の世界は、まるで大人のお伽噺のようであり、また真面目にも、全ての現代人にとっての精神の人生案内のようでした。人間はどこからきてどのように生き、どのように帰っていくのかの物語です。そして個人も世界のありようの偉大さに気付かされてくれるという意味で、本当に大きな示唆をもたらしてくれます。ここでその反復は避けます。ちょうどテレビで「詩は感じてなんぼ、音楽は聴いてなんぼ、おせちだって食べてなんぼやろ」って、関西の料理人が言っていて、生きる喜びを言葉で説明しようとして台無しにしちゃうのと同じ。キャンベルも「神話は真実の一歩手前を伝えている」みたいなことを言っています。

そんなうとうととした中で、いろんなことが思い浮かんでは消え、思い浮かんでは消え・・・保育における物語性とか、人生のPDCAはこれだとか、マイノリティの声をどう聞くかとか。

そして神話を読むことになった発端となった「現代の通過儀礼は何か」ということについては、こんな見方も一つかも、と思ったりもしています。熱狂するスポーツ観戦(駅伝も)や野外ライブ、コミケやEスポーツなど各種イベントとメディア(SNSを含む)が相乗効果をもたらしながら、しかも各方面へ分散されて機能しているように、見えなくもありません。アキバに保育園があるので、アイドルの衣装が本当に偶像のようであり、若者のそれぞれのプチ英雄がメディアの中でそれぞれの仮面をつけて踊っているとでも言っていいのしょうか? 紅白も格闘技も。

ただ運命のような大きな物語にはあまり気づかれることなく? あるいは「天球の音楽」は聞きそびれたまま? いいえ、ちゃんと聴いている人には届いているのでしょう。ただ、それを分かち合うことが難しくなっているところに、広い意味での教育の役割があるのかもしれません。この本の二人の対話が見事にそのモデルを示して誘っているように、です。

新しい1年を迎える祈り

2023/01/01

新しい年を迎えて、それを寿ぐのは、次のような意味があるように感じます。今日は、そのことをお互いに確認し合う日。2023年の始まりの日。私にとっての年の初めは、こんな気分でありたいと感じます。キャンベルの「神話の力」を読みながら・・・

・・よくぞ捨て去って、またこの地点に戻ってこられましたね、そしてまた飛び立つのですね、この地点から。それはそれは、ありがたき事ですね、謹んであなたの帰還と旅たちを祝しましょう、おめでとう。

別に、こんな大袈裟なことをやっているつもりはないのですが、このようなことが人間の精神が持っている原型(アーキタイプ)らしいのです。捨て去ったものとは、生まれ変わった結果、そこに残されたもので、へびが脱皮した皮のようなものです。その隠喩が表すものは、肉体における新陳代謝の遺物のように、精神にもその抜け殻があったり、あるいは魂が彷徨った小道などがあることでしょう。

誰でもそのようなものを抱え込んだり、残したりしているので、それを感謝を持って返納しにそこへ参じて、また頭をもたげて歩み出そうと決意するような一日。それが人生の節目節目にやってくる祭礼なのでしょう。今日は最も多くの人々が朝早くから、あるいはたった今でも、その最中の方もいらっしゃることでしょう。場所は、どこでもいいのでしょう、神社ではなくても、朝日の風景でも、ビル影から昇る上弦の月を眺めた瞬間であっても。そのような象徴に溢れた場所であれば。

この人生におけるサイクルは、あるいは歳がめぐる循環は、人間が宇宙や自然の円環の中で生きていることを表しているように感じます。子どもが大人になっていく過程に、そのような物語を伝えてくれる愛に満ちた人と出会えることを祈りたいと思います。

 

身をもって実感したVUCAだったこの1年

2022/12/31

令和4年は皆さんにとってどんな1年だったでしょうか? 子どものこと、家族のこと、仕事のこと、社会のこと、いろんなことの中で、生活の節目になるような大きな出来事もあったことでしょうね。私は家族の中で大きな出来事がありました。仕事と並行して新しい活動も始めました。社会はその変化を対処することが複雑で困難なるばかりで、時代は大きな変化の只中にあります。近年、次々と新しいタイプの学校創設がニュースになり、それが求められている原因や背景を考えることが増えました。そこにも市民意識の変化を感じます。

その中で保育園での生活を振り返ると、はやりコロナ禍の影響はズシーンと、とボディブローのように色々なダメージを与えたことを恨みます。2月からのコロナ第6波の中で新年度から始めた「医療的ケア」が夏の7波によって突然に集結してしまったことや、一見すると淡々と進んでいるように見えながら、職員の肉体的、精神的な疲労感の蓄積は相当のものがありました。それが、数ある要因の一つとして、年末の保育園の問題として噴き出てきたようにも感じるのは、それほど的外れとも思えません。

一方で子どものことがやはり心配です。自殺、虐待、貧困、いじめ、障がい、精神的な病い、ヤングケアラー、ケアリーバーなどについての解決への道筋は依然として見えにくく、家庭と同時に生活の場でもある児童福祉施設や学校などの子どもが集う場のあり方というものが、新しい視点で検証されているように感じた年でした。

この傾向は続いてしまうのでしょうか。もし、その動きが波の比喩で例えていいものなら、きっとその振幅は大きくなることはあっても、収束することはないのかもしれません。それは鎮めなければなりません。あるいはアハ体験の映像のように、気づかないうちに「こんなに変化していた」と後でわかるようなものになっている可能性もあります。1年の中でも3ヶ月先や半年先を正確に見通したものは誰もいなかったように。ウイルス感染症、プーチンの戦争、安倍首相の暗殺、物価高騰、急激な円安・・・本当にVUCAの時代にいるのだと思う1年でした。

 

神話の力

2022/12/30

この年末年始は、現代の結婚式や成人式が、それよりも遥かに長くあった人類の「伝統的社会の通過儀礼」から、どこれくらい離れてしまっているのか、個人の自由を支援することが教育で可能なことなのか、そんなことを「千の顔をもつ英雄」のジョーゼフ・キャンベルの「神話の力」から学び直すことにしました。この本は、ジャーナリストのビル・モイヤーズのインタビューからなっているもので、随分前にテレビ放送で見たのですが、その時の衝撃と面白さを思い出し、改めて本で読み直すことにしたのです。

きっかけは、ある人の言葉からです。「理解すると言うことは、思い出したと言いかえることができるかもと感じています」。そうだった、私たちの精神の奥底に、無意識や集団的意識を発見した経緯の中には、あの豊穣な神話的世界を、私たちの先祖は生きてきた歴史があったんだった、と。

神話と聞くと「3歳児神話」のように「誤った信念」という意味で使われることが多いかもしれません。しかしキャンベルの話を聞くと(これは対談なので)、それが全くそんなことはないことがよくわかります。いかに現代社会が、神話が伝えるようなあり方に比べて、人間の社会と精神の関係が、薄っぺらいものなってしまっているのかに気づかされます。また多くの今の現実がそうなっている、ということからの普遍性探求では足りないアプローチを、キャンベル流の「神話学の見方・考え方」から学ぶこともできます。ちょっとだけ、現代人の思考とキャンベルの思考の違いがよく表れている箇所の一端を紹介します。まえがき29ページから。

彼がやってきた探究について、自身がこう語っています。

「世界の神話に共通した要素を発見し、人間心理の奥底には絶えず中心に近づきたい、つまり、深い原理に近づきたいという要求があることを指摘することだ」。

モイヤーズがたずねます。「人生の意味の探究が必要だということですね」と。するとキャンベルが答えます。

「そうじゃない。生きているという経験を求めることだ」

また人生の苦悩について語る箇所では、「あらゆる苦しみや悩みの隠れた原因は、生命の有限性であり、それが人生の最も基礎的な条件なのだ。もし人生を正しく受け入れようと思うなら、その事実を否定することはできない」と述べた上で、私たちの信仰や信念の中に、神話が語るエネルギーが生きているのだという。そしてそのエネルギーを儀式が呼び覚ます。・・・

この本の要約を試みることなど不可能なのですが、私の拙い散文的な要約表現で我慢してもらえるなら、神話に触れることは、どういうことかというと、そこで語れている内容を、私たちが慣れ親しんでいる現代的な、いわば冷めた観点から、頭で理解することいったことではなく、まるで、美しい絵や音楽に心動かされるように、私たちが生き直す、とでも言っていいような経験になっていくことなのです。

ああ、こういう体験の一つが、イニシエーションになっていくようなものとして儀式があるのだ、ということに納得できるのです。そして気づきます。なんと現代の式典が形式的でつまらないか。卒業や卒園の儀式はどうあるべきか。もし子どもが大人になっていく過程に必要な、ある種類の生命エネルギーの再生がモチーフでありたいのなら、一体、何を祝って歌い踊ることなのか。

 

 

最近の私の探究テーマ

2022/12/29

最近、もっと深く考えないといけないな、と思っている分野があります。それは次のような事柄なのですが、とてもよく聞くようになったので、否応なく考えることが増えました。それは要約するとこんな感じです。

「最上位の目的」を明確にすれば、その実現のための「適切な手段」が見つかることが多い。学校教育では、最上位の目的に合意できていないから、手段が目的化されてしまうようなことが起きている、そこを改善しなければならない。また、その教育哲学からは、人生の目的を「自分が生きたいように自由に生きること」とするなら、依存を含めた個人の「自立・自律」が上位目的となってくるだろう。だから「個別最適な学び」や「主体的・対話的な深い学び」のこととも親和的である。一方で社会に目を向ければ、それぞれが自由に生きたいのだから、それはお互いに認め合う関係として「持続可能性」と「格差のない共生社会」の実現が、上位の目的になるだろう。そして先の「自由の相互承認」が大切になり、手段としての民主主義を身につけておく必要がある。

こういった論旨で語られていることが目につくようになってきた気がします。これらの議論は整合性のある、わかりやすいものだと思います。それだけに、説得力があり、色々なことが包摂されているように思えます。だからこそ、異論を聞いてみたいし、反論もあるだろう。最近の私の探究のテーマです。

デンマークのフォルケホイスコーレ

2022/12/28

デンマークの国民は幸せ。OECDの調査で有名になったこのイメージ。どうしてそうなんだろう? そうずっと思っていたら今日28日、早稲田大学文学学術院教授の山西優二先生から、デンマークの国民学校「フォルケホイスコーレ」の話を伺い、もしかすると、こういうことも関係あるかもしれないと、思いました。とても面白いです。学校教育を終えた国民の9割以上が体験するのだそうです。詳しくは、以下のホームページからどうぞ。

フォルケホイスコーレとは

学校や学びを考えるときに、日本だけでなく、世界にも目を向けたり、また過去の歴史や将来の学校のあり方を想像することも、とても大事なことだと思います。私たちは目の前のこと、また自分が受けた教育の体験に強く縛られているので、それをどこかで一旦、柔らかくして、自分と世界を見つめる機会を作ることは有意義だと思えます。そんなことを、来たる1月15日のに私たち「東京に新しい学校をつく会」が主催するイベント「みんなで考える“新しい学校”vol 1」で、語ってもらうことになりました。

20230115 新しい学校VOL1

山西さんは、自分と世界を見つめる機会として、「15歳のギャップ・イヤー」をすすめます。高校から大学へ進学するときのそれでは、ちょっと遅い。中高がつながることで、高校3年間がもったいない。あの時期は大学の方に近づけてあげて、中学が終わったら、一旦、人生の探究の機会を作るために、国内でも世界で旅に出たり、知らない世界に触れて、出会って体験してみる方がいいんですよ、とおっしゃいます。ご自身がそうされた体験もとても面白くて、聞き入ってしまいました。

「人生のどんな場面においても、自分を見つけ出すために人々が向かう場所がフォルケホイスコーレなのです。」

この考え方は、これからの学校の在り方の参考にしたいと思っています。

「保育士礼賛」藤原辰史さん

2022/12/27

日経新聞に「保育士礼賛」というタイトルで、歴史学者の藤原辰史さんが、次のような文章を寄せていました。まったく同感です。嬉しくて涙が出そうです。ですから、多くの方に読んでもらいたいので、内容を紹介させてもらいます。このような眼差しを、たまには、でもいいので保育園に向けていただきたい。

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ここ5年くらい、保育士との交流が増えた。講演会に招かれたり、保育園に伺って悩みに耳を傾けたり、驚くほど美味(おい)しい給食やおやつをいただいたり、子どもたちと遊んだりしている。

「給食の歴史」を執筆中に保育園の栄養士にインタビューしたり、「分解の哲学」という哲学書で、未就学児の教育施設を創設し積み木を開発したフレーベルを論じたりしたこともあり、「保育」は私の研究の中でも欠かせないテーマである。カントやドゥルーズを読むのと同じように、私は保育士の言葉と表情を読み、自分の思考を鍛えてきた。

先日、京都山科にある西野山保育園を訪れた。私の研究のためだ。やはり保育士の仕事は難しい。「保育なんて誰でもできる」という人もいるらしいが、片腹痛い。そんな人にはぜひ保育園を訪れ、エプロンを着て保育の仕事を体験してほしい。

園庭の子どもたちは思い思いに遊んでいる。不確実な動きに目が回りそうだ。数十人の子どもをわずか2人の先生がカバーする。サッカーで言うならば「ゾーンディフェンス」か。いや、そんな甘っちょろいものではない。味方ディフェンスの数は相手チームのフォワードの数に比べて圧倒的に少ないのだ。

ふと気づくと、隣の保育士はすっくと立ってある方向へと歩いていく。私は全く気づかなかったが、今にも泣きそうな子どもがその場に駆けてきた。保育士は寄り添って話を聞き、解決の糸口を探った。ミッドフィルダーの鋭いパスの先にフォワードが走りこんでくるようだ。その子をケアし終わるや否や、園庭のかたち、子どもの大きさや性格などを私に解説する。起こりそうな事故を未然に防いでいるのだが、その様子を微塵(みじん)も園児に見せない。園児が自由に失敗できるように、過剰な介入も回避する。

乳児の部屋の仕事もプロフェッショナルとしか言いようがない。手、足、目、耳は、それぞれ別の子どもたちに向けられている。ぐずる子どもをあやしながら、隣の子どものご飯をチェックし、訪れた私に笑顔で挨拶をする。保育士たちの身体はどうなっているのか。手に目があり、足に耳があるのか。全身の感覚が研ぎ澄まされている。

保育士たちのハスキーボイスは美しく、遠くまで響き聞きやすいが、威圧感がまるでない。調理室も忙しさを感じさせず、テキパキとなれた手つきで料理をし、様子を見にきた園児たちの鼻腔(びくう)をくすぐっている。絵や写真の添付された手書きの日誌は芸術品だ。給食室や部屋に貼られていて、保護者たちがその日の子どもたちの様子を温かい気持ちで知ることができる。

子どもの教育やケアに予算を出し渋るこの国では、園児の数に対し保育士の数はかなり少ないし、評価が著しく低い。西野山保育園の保育士の口から、ロボットで保育仕事が代替できると勘違いしている開発者たちのことを聞いた。いったい保育士の仕事をなんだと思っているのだろう。保育士たちは能力を向上するために夜も勉強会を重ねる。休日の一部を使って集会を開き、歌って踊って演奏して自分たちを高め合う。保育士のハスキーな歌声を聞いていると胸が熱くなる。あれほどの高度な仕事を支えているのは、保育士たちのあくなき探究心と誇りにほかならない。それに私たちが甘える時代はいい加減に終わりにしたい。

 

保育園の「構造的な質」について

2022/12/26

年内最後の週、と言ってもあと3日。今月は保育園のことが毎日のように報道されて、なんだか肩みの狭い思いを感じる年末になってしまいました。このテーマは法律違反の犯罪レベルから保育の不適切な対応まで、問題をちゃんと整理して対策が講じられるべきでしょう。行政からは「通報制度」が確立されているか、また職員のメンタルヘルスへのケア体制がとられているかという調査が来たので、確立していると答えました。また職員の休憩やノンコンタクトタイムの実施状況などの視察も受けました。さて、これからどんな保育園へ支援制度ができてくるのか、期待しています。

これらの問題をもう少し大局的に眺めてみると、長い間放置されてきた制度の歪みが吹き出しているようにも感じます。乳幼児の保育が長時間になっても、それに見合った保育士の配置基準は何も変わっていません。すぐにでも改善してほしいのは、最低基準では保育ができないので、実際に多く配置している職員分の補助金を正規職員換算で出してほしいことです。それを上回っている保育士を配置する園に対しては、それに見合った運営費を出してもらいたいものです。細かい話かもしれませんが、運営費(補助金)の計算は、小数点以下が四捨五入です。小学校の30人学級の基準は切り上げです。この差はとても大きいのです。

保育園では4歳5歳は合わせて30対1です。幼児30人を一人の保育者(教諭・保育士・保育教諭)でみます。ですから、もし4歳児クラス15人、5歳児クラスが15人いても、それぞれ一人をつけますよね。でも補助金は、2クラス合わせて30対1で計算、しかも、小数点以下を四捨五入ですから、ピッタリ一人分しか来ません。二人いる先生に対して運営費は一人分しか来ないのです。

(当園の場合は、4歳10人、5歳10人に一人ずつ担任がいますよね。でも合わせて20人なのに、最低基準は合わせて30対1ですから、運営費は07人分しか来ないのです。)

さらに、もう一人増えた場合を小学校と比較してみましょうか。すると、その格差がもっとはっきりします。

4歳と5歳を合わせて31人ですから 、これを30で割ると「1.0333・・」となりますね。保育園の場合、補助金はほぼ1人分しか来ません。私たち保育園は、4〜5歳が30対1です、と言うと「ああ、小学校1年生の30人学級と同じですね」と言われることがあります。とんでもありません。学校の場合はいわば「切り上げ」ですから、31人になったら15人のクラスと16人のクラスの2クラス、つまり教諭は2人になります。そして、公立ならその職員2人は公務員ですから、そのような運営費の計算などしなくても済むのです。そもそも経費(人件費)の出どころが違うからです。

こういうのが些細なこと、トリビアなことと言えるでしょうか? 保育園では人件費が経常支出の8割近くになります。公立はそのような計算そのものがありません。もし計算したら、ほとんどが人件費でしょう。公設民営にした流れを作った要因は、自治体の経費削減でしたから、民間に任せた方が、保育運営費が安く済むからです。根本的な国と自治体の姿勢が生み出している構造の質にもっと目を向けてもらいたいものです。

「これ、あげる」・・どうして?

2022/12/25

「先生、これあげる」と言って、自分で折った折り紙などを、私に上げようとする時があります。私はその意図がわからないときに「どうして?」って聞くことがあるのですが、はっきりしないことがあります。人に何かをあげる、ということを子どもは気軽にやる時があります。どうして、子どもは「これ、あげる」ということをし出すのでしょう? 何かをあげると「ありがとう」って言われることが多いので、嬉しい、という体験をしているからなのでしょうか。

1歳前後の三項関係が成立していく頃から、自分と人との間に物が入って「はい(どうぞ)」「ありがとう」といったやりとりを楽しむことが増えていきますが、その後、かなり経った3歳4歳ぐらいの子どものことなので、それとは別にどんな意味があるのだろうと考えてみるときがあります。別に気に留めるほどのこともないのかもしれませんが。

保育でよく語れるのは「やってもらった嬉しい経験から他人にもやってあげるようになる」といった言い方をよく耳にします。本当にそうなのでしょうか? そうはなっていない現実もある時に、何がその差を産んでいるのでしょうか。大人になると、他人に何かをあげる、プレゼントをするということは、そう簡単にはできなくなります。必ず、どうしてか、という意味を伴わないと、気軽にものをあげたり、もらったりすることはできません。誕生会やクリスマスイベント、お年玉のように、こういう時ならそれを気しないでやっていいという状況を作り上げてきたというように解釈できます。

その民俗学的な考察はとても面白いのですが、それはともかく、子どもの「これ、あげる」の行動にあるものは、ものを介した人との関わりの一つに違いありません。それが「交換」になっていく様相のなかに、協同性の方から自立心に影響を与えている要素を見出すこともできそうだと思えます。

考えてみれば、伝統的社会の獲物や採集物の分け方(採ってきたきた者の手柄にしない知恵など)、貨幣的なものの成立の条件、経済での商品と市場の関係、マーケットの公平性や政治の贈収賄事件など、至る所に人や権力とのかかわりの中に、「物」の介在したバリエーションが見出されます。

国家の成立と現代社会のグローバリゼーションまで、文化文明を「贈与や交換」で語ることができるからです。その中には必ず道徳やモラル、タブー、汚れたものを生贄にして純化を果たす動向などがあって、その起源としての人間性の中に、その生得的な性質も探られています。

その中から、主に保育にとどいてくる知見は、なぜ人は協力するのか、とか、なぜ教えあったり、分かち合ったりするのか、ということを調べているものがいろいろあります。交換することで私たちの経済が成り立っているように、人類史にも黒曜石だったり、塩だったり、貝殻だったり、ゴールドだったりが今の「お金」と同じ役割を果たした人類の歴史があるそうで、私の関心は子どもの利他性の発達との関係になったりします。

話はまたサンタクロースからもらうプレゼントのことにもどってしまうのですが、こんなに物質的に豊かになった現代社会の中では、聖ニコラウスの時代とは違う意味を見出しておく必要があるでしょう。まず、子どもが喜んでいるのは、それが欲しかったものだからです。日頃から叶えたかった願いをサンタが叶えてくれた、という喜びを子どもは嬉しがっているのでしょう。だとしたら、「はい、これあげる」と意味もなく差し出される折り紙をもらうときに、どうしてくれるの?という反応をすることで、なんでもあげれば喜んでもらえるとは限らない、ということを体験していくことにもなるのでしょう。そういう心情の機微はもっといろいろあるでしょう。

もう一つは、祝祭と園行事の関係です。社会自体が伝統的な文化を失っていっているように見える中で、子どもに体験させたいことはどういうことなのか、その再吟味です。そこに作用していることを、丁寧に取り出してみて初めて気づくことがあるので、その取り出し方も研究してみる必要がありそうです。人が「気づく」ことからしか、物事が見出せないとしたら、その気づきを生むような作業とはどんな営みなのか、ということです。質的研究の手法にヒントがありそうです。

 

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