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園長の日記

サンタクロースをめぐる考察

2022/12/24

信頼している方の感想や意見というものは、本当にハッとさせれます。実に恥ずかしい思いを感じながら、自らの考えの浅さというものを感じてしまいます。さて、どうするか? 以下は昨晩からの、私なりの考察です。

信頼している専門家の方の意見とは、次のものです。大事なことなので、この感想はたくさんの人が共有した方がいいでしょう。

「大人がいたいけない子どもをよってたかって騙す日が無事に終わりましたか? 日本いや世界の道徳はどうなっているのだ。嘆かわしい限り。ちなみに、この風習が広まったのは19世紀あたりだと物の本にあるが(それ以前はローカルなもの)、さらに全世界に広げたのはネズミがボスの連中だという。新自由主義の陰謀だね。」
なんのことかは、わかりますよね。クリスマスのサンタのプレゼントのことです。そうか、ちゃんと考えよう、と思ったわけです。そこで、ポイントを絞るとサンタクロースがプレゼントを渡すという話そのものは多めにみていいのでしょう。
問題はそれを「昔話」か何かにしておけばいいものを、大の「大人が子どもをよってたかって騙す日」になってしまっているあり方、現実の風習の方でしょう。当園のクリスマスの行事の持ち方もそうですね。それはどうなの?ということのようです。

サンタの話そのものは、まあ多めにみていいんだろうと判断したのは、たとえばノーベルト・ランダの絵本「ねずみのフィリップ ぼくがサンタクロースだったらね」を訳しているのが小澤俊夫さんなので、サンタクロースの話そのものが、児童文化財として、ふさわしくないということではないのでしょう。

この絵本を読んだ方の感想を紹介すると、「クリスマスの本は、沢山ありますが、子どもたちがプレゼントを届けてくれるサンタクロースを心待ちにするようなストーリーが多い中で、この本は、逆の立場...もし、自分がサンタクロースだったらという発想の転換が素敵です。そうか!自分がサンタクロースだったらその立場も本当にわくわくするものだと気付かせてくれました!」と書かれています。

ですから、問われているのは、主としてそこではないのでしょう。商業主義的なことが本来の文化や伝承などを捻じ曲げてしまうというのはよくある話で、ハロウィーンやらバレンタインデーやらは、それがわかりやすいのかもしれません。

でも、子どもにサンタクロースって本当にいるの?(と聞かれることは実はあまりないのですが、いると信じさせているからでしょう)と、もし子どもに聞かれたら、みなさんはどう返事しますか。それを学生に調査したものがありました。C短期大学保育学科1年生110人(男性14女性96人 18歳〜23歳)によると、「いるよ」などと実在肯定する学生は5歳相手なら6割、12歳相手なら4割いました。結構な数の大人が「嘘をつく」ことを許容していることになります。

https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202937272832

面白いのは、調査の学生も歳をとればサンタの実在は信じなくなるのですが、信じなくなっていった年齢と子どもに期待する年齢が同じぐらいだったことです。その調査は「自らのサンタクロース体験と重ね合わせるように、自分と同様か、それ以上の道筋を子どもにも味わせたいと考えている」と分析しています。この学生の感覚は、わかる気がします。せっかく信じている「夢」を壊したくないと思うのです。私もそう思ってしまいます。

さて、ここから私たちの知恵が発揮されなければならない話になってくるのでしょう。過剰にその夢を膨らませてしまうことや、プレゼントの日にしてしまうことは趣旨が違ってくるでしょうし。また親御さんがせっかくサンタの用意をしているのに、保育園がその試みに水を差すわけにもいきません。社会全体でそっと、落ち着いていくようなことを考えてみることがいいのでしょうか。さて、みなさんは、どうしたらいいと思いますか。

当園は毎年、新しい遊具を追加購入するタイミングなので、サンタクロースに持ってきてもらい、また親子で楽しんでもらえる手作り遊具をプレゼントしてきたわけですが、子どもにそれが届くための条件を求めることは一切ありませんでした。さてこのテーマ、視野を広げて認識を深めておきたいトピックスです。

 

やってきたサンタクロース

2022/12/23

「朝こなかったね」「寝坊して遅れてるんじゃない」「あ、わかった。プレゼントを持ってくるのを忘れて、取りに帰ってるんだ!」・・お昼ご飯を食べているときに、年長の女子3人が、今日もサンタクロースが来ないかもしれないと、心配して話していた。・・しかし楽観的な見通しで合意された。理由も本人たちの経験からの類推であり、これが、もっとも納得できる理由であるらしい。(今日の日記は、歯切れよく「である調」になります)

どうしてこないのか、と私にも聞かれたので「サンタさんだって忙しいんだよ、いっぱいこどものお家を回るんだから。トナカイだって走り疲れて、ちょっと休憩、ってことだってあるかもしれないし。みんなもお散歩でいっぱい歩いたから、疲れたら休んでたじゃない、ね。大丈夫、きっときてくれるよ、お手紙にもそう書いてあったじゃない」などと、話してみた。「そうだ、遠くから来るんだから、休んでるんだ。そうそう。」・・私はそれ以上、何も付け加えなかった。

そうやって午後2時。今朝「エルマー読んでね」と頼まれて「いいよ、おやつの前にしよう」と約束していた時間に、階段を客席にして、「エルマーと16ぴきのりゅう」の続きを読んであげる。子どもたちは、開園以来、ずっとこの話が好きで受け継がれている。

3時のおやつが済む頃に、サンタは来ることになっている。そして、なぜが先生がわざとらしくサンタクロースの歌を歌っていると(わざとらしくならないのが、子ども相手だからだが)、鈴の音が聞こえてきて(園内放送の天井のスピーカーから)、「あれ、なんか聞こえる!」という子どもの声で、みんなが気づく。サンタだ!

階段から本物のサンタが姿を表すと、10人ぐらいの子どもたちは駆け寄る。のそのそと歩くサンタは他の子供たちも固唾を飲んで見つめてるダイニングで、立ち止まる。先生がジェスチャーだけのサンタから、あっといまに饒舌な言葉を聞き取り(まるでテレパシーのように)「ねえ、みんなにプレゼントがあるんだって」というと、飛び跳ねて喜ぶ。本当に嬉しい時は、大人も立ち上がり、子どもは飛び跳ねるものなのだ、ということがはっきりとわかる。

「みんなに見せるから席についてくれるかな」という先生の言葉がまるで魔法のように、めずらしく効果がある。すごい。さっと席に戻る。なんだ、この聞き分けの良さは・・

「ほら見て、これは、紙芝居じゃない・・・」と子どもたちへのの意識はそこへ吸い取られ、静かな興奮に包まれている。サンタからのプレゼント。本当だった・・・そんな真剣な顔。(去年も経験しているはずだが、そんなものか)。

一番驚いたのは、サンタさんへ何かお礼をしなくちゃね、となって「歌を歌ってあげよう」ということになり、その歌声の気持ちの入りようは、本物だった。心がこもる歌声というのは、こういうことだったんだと納得する。お見事。サンタも喜んだことでしょうね。(先生たちもこんな姿を見ると、嬉しくなるのです。なお乳児の様子は、クラスブログをお読みください)

・・・・

さて、一体、クリスマスというイベントは、キリスト教の本来の趣旨から随分と離れたところに来てしまっているのですが、私は日本の一般的な社会の常識的な世界とそう違わないから構わないと考えています。(なぜか、ここからはデスマス調に戻ります)。

これが遊び、ということではないのですが、楽しい体験の中で世界を肯定的・積極的に取り入れ、随分と真剣に向き合いながら、仲間や文化の営みに参加していくこととして、成長や学びの芽生えをいくつも発見できるからです。

そこには隠されている知識が伝わっているはずで、つまりサンタクロースという存在がもつ、言葉にはならない暗黙の知の世界に耳を傾けようとする姿勢(本来のミメーシス)が息づいていると思えるからです。一方で、レインがサンタが両親だったことに気づいてトラウマになったという逸話も気になって調べたいと思ったりもしていますが。

サンタからの手紙

2022/12/22

「サンタさんはあしただよね」「ちがうよ、にじゅうよんだよ」「でも、せんせいは、あしたって言ってた」。

こんな会話が聞こえます。クリスマスイブは24日でも、保育園には明日23日に来てもらうことになっているからです。

「サンタさんはね、トナカイでくるんだよ」

「ちがうよ。起きたらきてるんだよ」・・・

トンチンカンな会話も微笑ましくて、言いたいことが、そうなるんだと、私たちには理解できます。そこが子どもの言葉の面白いところであり、大切にしたいところでもあります。

子どもたちは真剣です。サンタはいつくるのか、本当にくるのか。どうやってくるのか・・・

子どもは知りたがっているし、分かりたがっているし、実現するようにしたいと思っています。

ああだこうだ、と想像して、考えたりもしています。「お母さんが言ってた」とか「じゃあ、先生に聞いてみよう」とか判断したりしています。ここには知識も理解も技能も思考も判断も、それにともなう心情も、そのほか、いろいろなものを総動員して、子どもは成長したがっているようにみえます。

子どもの姿はあまり個人の内面的なものだけに限定しないで、周りとの関係や関わり方そのもの、あるいは状況に目を向けようというのが、保育の捉え方の一つと言っていいのでしょう。

クリスマスに向けて、アドベントカレンダーに届くサンタからの手紙と、そこに書かれたサンタの言葉は、子どもたちにしっかりと届きます。それに基づく継続的な1ヶ月間の積み重ねが、こんな会話を生んでいるのかもしれません。

脳の感情コントロールの曲線をどう解釈するか

2022/12/21

昨日20日は、藤森先生を交えた会議(ギビングツリー)が午後からあったのですが、その中で乳幼児期のヒューマンコンタクトが大切なことを踏まえた保育や子育て支援のあり方について、認識を深めました。現行の保育所保育指針の改訂の際に出された資料の一つです。これらのエビデンスから乳児保育が一つの章に独立したものになることへ、影響を与えたと伝わっています。

いくつかある曲線のうち、感情コントロール(下の写真のピンク色の線)が、かなり早くに立ち上がるのは、親子などの親密なパーソナルな関係から、やや距離のある大家族の親族関係(さらに離れた村人との関係などもか?)への拡大が想像されるのですが、可能性としては、人類の子育ては6か月ぐらいから離乳が始まって、親だけが母乳による栄養を与えるのではなく、そのほかの協力を得ながら子育てをしてきた、つまり共同保育をしてきたことと関係するのでは、ないでしょか。

人見知りもその頃とかさなり、言葉の獲得過程でも母語の認識の上で大切な時期であり、いわゆる9か月革命の頃までの保育を、家庭だけで過ごさせていいのか、という、まさに今の保育問題の核心にいきなり迫る問題だと、私は思います。育児休業の延長によって、単純に母子関係だけのヒューマンコンタクトを続けていいものなのかどうか? もう少し、多様な人間関係があったに違いない伝統的社会の子育てから、現代の乳幼児保育のあり方を見直したほうがいいのではないか、そんな問題意識を、藤森先生は持っています。

ジャレド・ダイヤモンドは人類の伝統的社会の子育ては、ペアレンティング(親による子育て)ではなく、アロ・ペアレンティング(親だけが子育てをしなかった)だったと述べていますが、そうだとしたら、700万年から考えていいのかそれとも20万年からかはわかりませんが、脳の機能がそのように出来上がっていることは、そうした社会の反映なのだろうと想像します。保育園が人間のデファクトスタンダードとしての脳のあり方にあった環境を用意したり、社会へもモデルを提案していけるような保育を作り上げたいものです。現代版の伝統的社会の子育てです。

たぶん、そのためには地域の子育て支援と入園している家庭の保育を、くっきりと線引きしてしまうような仕組みではなく、地域全体が伝統的社会のような保育機能を取り戻すことが望まれていくのかもしれません。学校が地域に開かれていく機能と調和するようなアプローチを構想していくなら、小学校の就学前の機能はこども園にするべきなのでしょう。地域の子育て支援と0歳の乳児保育が幼児教育につながりながら、小学校以降の生活と学びにつながっていくような形を作りたいと、イメージしてしまいます。

このような仕組みは、中国・上海やシンガポールなどがいち早く着手し始めました。藤森メソッドを急速に取り入れ始めているのです。

優劣・競争・協同について、ふたたび。

2022/12/20

自分で書いた昨日のコーディネートの話を読み返して、なんだか大事な、もっとわかりすい話を書き忘れたことに気づきました。子どもによって得意なことをお友達の中で分かち合ったり、共感しあったりすることもありますが、いろんな遊びや活動の中で、〜名人として登録したり、認定証を発行したり、お手伝い保育で「小さい子どもの気持ちに気づいたか?」を自己評価してシールを貼ったり、そんな可視化と共有ということをよくやっています。こういうことも、調整の一つでしょう。

こうした活動は、本人の良いところを認めて自信を育て、掲示したりしてあげることで自分を誇らしく感じたり、あるいは他のお友だちの良さに気づいたり、友だち同士の会話やかかわりを増やすことにつながります。また年齢の開きが小さい関係から大きな関係まで、幅広い関係の中での生活になっていると、憧れを持ったり、みられることで背伸びをしたり、そこに競争心や粘り強さが引き出されたりすることもあります。

このような子ども同士の関係がどうして望ましいと言えるのか?という問いに対して、そういう経験のある集団とない集団のその後の比較をするという方法はとても難しいだろうと予想がつきます(いえ、私の不勉強で、実は結構あるのかもしれませんが)。ところが、多分こうした比較研究を待つまでもなく、こんな活動に意味がある、と思える根拠は、正統的な人間社会の縮図をそこにみとることができるからではないでしょうか。例えば、ある縮図は「優劣・競争・協同」とい線でスケッチできるというわけです。

何かが優れ、何かが劣る。その優劣を競い、また協力する。個人も家庭も学校も企業も、文化活動も経済活動も学術活動も、趣味やスポーツも、私たちの生活には、何かの規範やルールのもとに「競う」という営みがたくさんあります。国家間でも平和を築いたり戦争になったりする現実があって、そこには優劣をめぐる競争と協同が作用し続けているという事実を確認できます。

その営みが生命の起源から現在までの進化の過程にも見られ、文化や文明の中でも、そうした特徴が見られるわけですから、園生活での上記のような活動が、子どもたちの経験の正統性が、そこにあると言えるのではないかと思ったりします。長い間、そうした社会の中で人間は生きたきたのだということが、説得力を持ちうるように思えるからです。よく保育環境を考える時に、本物と出合うようにとか、世界を構成する要素の代わりに、といわれたりすることと近いと感じます。

さらに、個々の子どもにとってはどうなのか、とさらに分け入っていくと、無藤先生によると、進化心理学や社会心理学の中で「集団間、集団内の個人間(細かくは社会的な位置と個人間)、パーソナルな親密関係、個人、というあり方として区別できるでしょう。この区別は進化心理学・社会心理学で整理され、実証的に明らかだと言える」そうです。

そうだとすると、保育園の幼児たちが繰り広げている「優劣」をめぐる競争や協同という特徴がみられる活動や遊びは、集団と集団の間にも、その集団の中の個人と個人の間にも、とても仲のいい友達の間にも、さらにそれを超えた同僚的仲間関係の中にもあって、そうした関係を体験していくことが大切だろうと見当がつく、ということになりそうです。

そして、大事なことは「あることの優劣がすべてではなく,他の優劣もあり,また優劣と関係ない活動も多いことが分かることです。幼児に聞けば、誰が運動が得意か,誰が頭がいいか,誰がイケメンまた可愛いかすぐに答えます。それを超えて個人の価値のかけがえのなさと,協同で成し遂げられる凄さを実感して分かるようにすることが幼児教育というものです」ということでした。<個人の価値のかけがえのなさ><協同で成し遂げられる凄さの実感>。

こんなに意味の詰まった保育の言説は、芸術的であり、それを私は散文に書き換え、エピソードを加えて映像化していくことで理解に至るという作業を楽しんでいるのでした。

「優劣と競争と協力」の中の保育者の調整力

2022/12/19

 

今日19日は、都内のある保育園に第三者評価に出かけました。そこの園長先生と話していて、保育者のストレスや子どもの葛藤場面に対する職員の心構え、あるいは保育者の力量といったテーマに関して話を伺いました。

コーディネートという言葉は、一般に調整するという意味で使われることが多いと思いますが、保育や教育の場面では、具体的には、どういうことになるのでしょうか。一人ひとりを大切にすると、なおさら、この調整する力が色々求められるような気がします。そんなことを考えてたい時に、一昨日のFacebookで無藤隆先生から、こんな表現をしていただきました。ハッとすることがいろいろありました。ぜひ紹介したいと思います。私なりにこんなことを考えました。

「・・・いや、優劣と競争と協力はどんな社会にもあり,社会を構成するファクターです。それを幼児は現に経験し,児童期には明確に経験します。それがなかったら,子どもにはつまらないでしょう。

ただし,幼児の優劣感覚は自己中心的なので,正確さからは程遠いので,それがよいのでしょう。ともあれそういうファクターを健全に作用させるのが大人の役割で,それらがないのがよいとか、我が組織(園や学校)にないとするのは単に保育者や教師の幻想です。

大事なことは,あることの優劣がすべてではなく,他の優劣もあり,また優劣と関係ない活動も多いことが分かることです。幼児に聞けば、誰が運動が得意か,誰が頭がいいか,誰がイケメンまた可愛いかすぐに答えます。

それを超えて個人の価値のかけがえのなさと,協同で成し遂げられる凄さを実感して分かるようにすることが幼児教育というものです。それがあれば競争や優劣も楽しくなります。毎日、そういう遊びをしているではないですか。」

一つ焦点となるのは「そういうファクターを健全に作用させる」とは、具体的にどうすることなのかということでしょう。教える、モデルを示す、話をよく聞いてあげる、橋渡しをする、ヒントを与える、子ども同士の関係に誘う、褒める、驚く、うなづく・・まあ、いろいろあります、きりながないほどありそうです。そこにコーディネーションという役割で。その役割は実にたくさんあります。大人は、ここのありようをもっと語り合うべきなのだと私は思います。

もう一つ、そうか、と思い当たったことは、どんな社会にだって「優劣と競争と協力」というものがあって、他の要素もあるわけですが、それらの中での子どもたちも自己の相対的なボジションを理解していくことになっていく。そういう面からの資質・能力の創発的プロセスに注目した方がいいということでしょう。だからこそ、私はいろんな子どもたちがその中にいた方がいいと考えます。国籍、人種、性別、年齢・・さまざまな人々が立場を超えて協働していく社会が未来だと予想されているからです。

子どもたちは、その中で、体験しながら、自分と他者の関わりを自分のものにしていくのでしょう。エイジェンシーを当事者意識のことと理解していいのなら、幼児にもそれを大事にしてあげて、その環境を用意して、そこでの体験の作用のありようをしっかり見つめていくことが大事なのでしょう。協同性の中の自立心のかたち、そこを見つめるキーワードとしても「優劣・競争・協力」ということを心に留めておこうと思ったのです。

こういうこととも関係しそうです。例えば、若い方々が精神的に弱くなったという話をよく聞くようになってだいぶ経ちます。若い方々向けのセラピーやカウンセリングをされている専門家の方にも話を聞くこともありますが、幼児教育の協同的体験が、つまり幼児期や児童期のそうした仲間関係の経験が、その後にどのように影響を与えているのかという研究がまだまだ足りないそうです。社会情動的スキルや非認知能力のことを考えてみても、保育園時代の仲間関係の大切さを捉え直す意味でも、これまでに分かっている知見から得る示唆は大きいのだろうと想像しています。

 

大人を手こずらせた私の話

2022/12/18

大人を手こずらせた私の話です。私には6学年離れた兄がいるのですが、小学校1年生ぐらいの時のことです。定期購読していた雑誌の付録にレコードがついていました。私に届いたものなので先にそのレコードを触りたかったのですが、兄がそれをとって袋から開いたのです。私はそれが悔しくて怒り、泣き叫びました。そして、大事なレコードなのに、私は割ってもみくちゃにしたのです。兄弟喧嘩の一コマに過ぎません。でも、そのことはずっと忘れずに覚えています。

この心理状態を振り返ることがあります。なんて勿体無いことをしたんだと、自分でも悔やむのですが、それよりも先に「自分でやりたかった」という気持ち。その抑えきれない衝動の強さ。これって、なんなんでしょう。そんな経験は結構あるんじゃないかと、園児たちをみていて思います。兄にしてみれば、封を開けてあげているに過ぎないのでしょうから、そこまで怒らなくても!と戸惑ったことでしょう。

兄弟姉妹のいざこざは、その場にいる大人を困らせますね。あんまり聞き分けがないと、誰だって腹立ちますよね。わんわん泣かれたら、周りの視線も気になるでしょうし。園内では気にしないでくださいね。みんな慣れてますからね。子どもの泣き声がうるさいと思われるようになったり、それで保育園が苦情施設になったりしている事例があるのですが、それもまた困ったものです。14日の日記でも触れたような大人の不適切な対応への関心が高まると、また余計に周りの視線が気にあったりして、それもまたストレスになりかねないですよね。子育てしていたら、もう!って思うことあり、ですから。

保護者の皆さんに、改めてお伝えしておきますが、子育ては親だけで担おうとなさらずに、みんなで分かち合いましょう。お互い様です。困ったら助け合いましょう。一対一の関係はしんどいから、複数対複数で行きましょう。園ならチーム保育、子育ては大家族のように。子どもも子ども同士の中に入れましょう。子ども同士の関係の中で子どもは育ちます。親子関係だけで子育てしなきゃって、思わないようにしましょうね。

映画「みんなの学校」のインクルージョン

2022/12/17

◆この映画の最も大切なメッセージとは

映画「みんなの学校」の上映会をやりました。この映画のメッセージでもっとも大切なことは、地域の公立小学校が誰もが安心して過ごせる場所になることを目指した実践であることでしょう。この映画を企画した関西テレビ(当時)の迫川緑さん(真鍋俊永監督と夫婦)の文章(『自立へ音立てられる社会』インパクト社)によると、この映画が初めて上映された2015年当時「生身の子どもたちの姿を映し出したことで映画の反響も予想以上に大きかった」そうです。

文部科学省の職員向けにまで上映され下村博文文科大臣は「木村さんのような校長が全国2万の小学校に広がったら」と、述べたと書かれています。映画のサイトには、コメント欄に教育評論家の尾木直樹さんも「驚いた!ここには、ありのままの公立小学校の魅力が、大胆に惜し気もなく躍動している。人間が発達可能体であることを、限界なしに教えてくれる。それにしてもスゴイ記録映画が完成したものである。学校と教育の未来に、希望が湧く映画である。」と書いています。

http://minna-movie.jp/index.php

この映画の舞台となった大阪市立南住吉大空小学校。その初代校長で9年間勤めた木村泰子さん自身が、教育開発研究所『学校の未来はここから始まる』(2021年3月)の中で、「みんなの学校ができるまで」というコラムを書いています。こんな強い思いがあったから、このような学校ができたということがわかります。機会があれば、これもぜひお読みください。木村さんは、この本(工藤勇一さん、合田哲雄さんとの座談会)の中で、大空小の実践の意味を詳しく説明しています。それを読むと、素晴らしい考え方であり、強く共感していたのです。確かにこの考え方で、インクルージョンを進めてほしいと感じる内容でした。

◆私が感じた違和感とは・・

ところが、実際に映画を見ると、あれ!っと思うことがあって、私は別の感想を持ちました。ここからは全く個人の印象です。映像から伝わってくる子どもたちの姿は大人が期待していることに、子どもが必死で合わせられているように見えました。私はこの強い教育指導の力に対して、またそうした強引さに対して嫌悪して育ってきた人間だからかもしれません。特にケアリングと「環境を通した保育」を大切にしている私は、このような直接的な指導による営みに警戒心を抱いてしまうのです。

私たちは子どもたちに豊かな選択肢を用意します。そして当事者の相互の関わりも大事にします。子どもの可能性を信じて、訓話ではなく対話を丁寧に繰り返します。あたかも似ているように見えますが、とても大きな違いだと感じました。

それでも、この学校をよく知る校長先生から、こんなアドバイスもいただいています。

「・・・大空小学校のお話は、大阪の南部地域の方々の生活とともにあります。差別、貧困、偏見、虐待、トラウマを親子が抱えている上に発達に特性のある子が50人学校にいる。そうした状況は当たり前にある状況とはわけが違います。時代が変わっても、子どもの本質は変わりません。私は、みんなの学校の中に込められているメッセージを受け取り、ひたすらに子どもを分かろうと日々、子どもに向き合っています・・・」

頭が下がります。この映画を理解するには背景と歴史を知る必要がありそうです。ここでは、このやり方がふさわしいmのなのか、と私の見方が揺れ動きます。こんなふうに私には思えます。

◆映画だけでは伝えきれないものがあるかも

いくら主語を大人から子どもに取り替えたところで<育つ>ようにしむけている力の流れは一方向になってしまっているように感じます。もっと子ども主体の、モザイク状のリゾーム状の、複合的な空間にしないといけないのです。やぱりピラミッドになってしまっているように見えました。校長がトップマネジメントで表に出ているリーダーシップと組織でもいいのですが、それで出来上がっているこの学校空間そのものに、拒否反応を持つ大人と子どもはいないのでしょうか。もしいないなら、家族を含めた同じ志向や価値観を共にする共同体になってしまう危険性を感じます。

例えば、映画を見て気持ち悪くなってしまった友人がいます。こんな感想を寄せてくださいました。

<・・・この映画を「良きもの」として進めてしまうと、インクルージョンの考え方が逆戻りにしてしまう。 日本の教育を受けてきた一般の大人は、子どもの権利擁護について、ある意味鈍感で、真剣に向き合ってこなかったと感じています。幸か不幸か、今世の中に子どもに関するいろいろな事件が起きているから、今こそこのことについて考えてもらいたいと思っています。そのためには子どもは考える力や意思をしっかりともっているし、子どもの能力への信頼をベースにしたコミュニティーづくりが大事になってくると思います。 ・・・>

大人と子どもの信頼関係の構築の方法に違和感を感じるのか、子どもを育てるべき対象と見ているからなのか、私も数回見直したのですが、今でもその違和感は拭えないのです。そして、そこもぜひ観ていただいて、私の感じ方がおかしいのかどうか、意見を聞きたいと思いました。木村泰子さんの本も読み、共感するところも多く、学ぶことも多いものです。でも私は映画を見る限り、ちょっと違ったのでした。時代も地域性も考慮した上で、子ども観、教育観、教育方法のちょっとした違いなのでしょうか。ほとんど同じようなことを考えているのに、語られている言葉も同じようなのに、です。

◆まずはすべての子どもが同じ場所で学ぶ土俵を

どんな学校を目指すべきでしょうか。木村さんはこう主張します。

「今、工藤さんから、子ども自身がで学びを選んでいけるようにする必要があるとのお話がありました。その際に気をつけなければならないのは、すべての子どもたちが同じ場で学ぶ「土俵」をつくったうえで、選べるようにすることです。さまざまな特性を持った子が一緒にいるのが当たり前の「土俵」をつくり、その上で学ぶ場を選べるようにすることです。そうしなければ、子どもたちが分断されてしまいます」。

この本の中で語られていることはその通りだと思います。基本は地域での生活の延長として学校があり、そこに集いながら生活を共にできる場的な統合を図りながら、そこに教師以外にも必要な人々がいて、カウンセリングなり医療なり療育なりを受けられるような時間と場を作っていくようにすべき時代なのだと思います。学ぶ内容もその子どもに合ったものを用意します。子どもが学び合うこともできるように。

排除されたきた場所に比べてまだいいから集うというのではなく、その子どもと家族にとって分けられていない、という安心感の中で通えるような包摂空間です。そして、そこに馴染めない場合の学校はフリースクールではダメです。木村さんも強く主張するように、同等の一条校であるべきなのです。それが無理ならせめて、なぜフリースクールなら通えるのかという、その条件や空間を、どうやったら一条校が取り入れられるのかを学び、取り入れるべきなのでしょう。全国各地で新しい実践が始まっているようです。自治体はこの動きに今こそ敏感にならないと、世界の潮流から取り残されるかもしれません。

入園見学者に説明する保育目標について

2022/12/15

子どもの姿から、よい保育を展開するというのは、どういうことなのだろう。1223日に締め切られる千代田区の令和5年度入園申込(第一次)を前に、園見学が続きます。その親御さんたちに「当園は3つのことを大切にしています」と、保育目標を解説しながら、本当によい保育って、どうすることなんだろう?と考え続けている園長(私)がいます。保育目標は「自分らしく 意欲的で 思いやりのある子ども」です。もっとも高い目的は「共生と貢献」社会の創造です。

園で話し合ったり、実習生の記録にコメントを書いたりする時に、いつも保育とは?の「そもそも」のところに立ち返って考えます。経験的にきっとそうだろうと確信していることに立ち返るのです。それは園生活と遊びの中で、ということなのですが、ただその時に「世の中から期待されていること、つまり社会的に肯定されていくことを踏まえないと、幼児教育ではなくなってしまう」という意識が働きます。いつものように保育の質は、子どもの経験の質が大事だと考えるのですが、その時にやはりその経験が「子どもの育ちや学びに向かっているか」ということが欠かせないと考えます。自由遊び、ということでいいのですが、それをホイジンガやカイヨワなどの大人の遊び論で済ますことはできないのです。

すると、まずは子どもから世界へ向かっているか、ということが第一です。基本的信頼感の獲得でもいいのですが、もっと一般的にいうと、乳幼児が周りの物や事柄へ肯定的に対峙しているか、というか積極的に関心を寄せているか、ということです。子どもが問えば応えてくれたり、なんだろう?とか面白そう!とか、やってみたい!といった自発性が引き出されてくるような環境が用意されているか、子どもにとって活動が見えているか、子どもの方へ届いているか、といったことです。楽しそうだったり、真剣だったり、黙々とだったり、溌剌とだったり、反対にぼーっと眺めていたりということも含めて。一人ひとりの人権を基礎とした個人の尊厳に基づく「自分らしく」という姿になっているかどうか。子どもの姿で表す保育目標の1番目です。育ちの物語がきちんと個別にある、それが一人ひとりだということです。

その時に常に園生活では集団なので、個々の子どもがそれに向かって選べるようになっていないと、それを肯定的に取り込むことができません。世界との接点の持ち方が子どもによって異なるからです。そこで選択性ということが出てきます。選ぶのは子どもで、乳児からそれはできます。選ぶという言葉遣いが意外性を持つのなら、かかわり方が子どもによって異なるように、と言い換えてもいいです。どこにいるか、何で遊ぶか、誰のそばにいたいか、どっちを先にするか、あることをやっておわるタイミングも違っていいようにします。何をどれくらい誰と食べるのかも選べるようにしています。つまり、その体験がしっかりと充実したものにようになっているかどうかです。それが個別に違うのを許容する保育方法になっているかどうか、ということです。保育目標では「意欲的に」という、心情体験の中でも態度への架け橋となる心情です。

そして、園生活が集団であるというのは、社会生活があるということです。子ども同士のかかわり、共同生活が営まれています。複数の子どもたちが作り上げる生活の中で生まれてくる育ち、自立心と協同性の育ちを意識することになります。これが赤ちゃんの頃から心を通わせながら育っていくので、自分との関わり、物との関わり、身近な人との関わりが、生活と遊びの中で、子どもの中に取り込まれていくのでしょう。集団のありようが、個々の内面を作っていくのです。競争的排他的な集団だったらそうした社会的心理を個人が獲得してしまうのです。泣いている子どもにティッシュを持っていく子どもたちが周りにいるから、困っていたら「どうしたの?」という態度を見せてくれる幼児が育つのです。その姿を「思いやりのある子ども」と表現したのでした。

ホームページのブログによく登場する子どもたちの姿は、これら3つの要素が含まれていることが多いように思います。先生たちが好んで取り上げるエピソードでもあります。

なぜ虐待が起きるのか

2022/12/14

やはり、このことに触れないわけにはいかないのでしょうか。保育所の職員による虐待問題です。先日9日(金)の午後、近隣の保育園の園長が集まる会合があって、その場に千代田区の子育て推進課長がいらして、この問題に関して各園に「こうしたことがないようにしてほしい」旨の話があり、各園からの現状報告や対策案などの情報交換をしました。内部告発で出てくる事例が、法令違反に相当するものから、研修などで質を高めるべき「不適切な保育」にまで、さらに保育業務の内容や待遇、採用から養成のあり方まで影響が広がっています。

私が最も問題だと思うのは、一人担任(一部、担当生を含む)の態勢です。そこからくる保育をめぐる職員へのプレッシャーです。期待されている子どもの姿にならないのは、自分の力不足だという誤った責任感を生んでしまう風土です。映画「みんなの学校」にも、その構造からくる新任教師の事例が描かれています。周りからの視線や評価が、大人の思う通りにならない子どもに対する強い働きかけや脅迫的な言葉遣いを生みやすいということです。

この話は、見学者と話をしていて、感じることです。こんなふうにゆったりと過ごしたいけど、「どうしてそこで入らないの」と主任や先輩など周りに指摘されるというのです。テキパキとさばく保育や、子どもの動きを流れるようにできる保育が評価されるそうです。いわば子どもを一斉に動かせる力が期待されていて(本人はそう思っていない場合が多いのですが)、子どもの多様性や主体性を尊重する形ではないことからくる、暗黙の圧力です。この話が園同士の間でも、あまり話題にはなりません。なぜなら「それでいい」と信じ込んでいるわけですから。

また外部からも質の高い「保育サービス」を望まれてしまうことから「圧力」となることもあります。集団に入ることを怖がってしまう子どもや、やりたい遊びに熱中していることが「甘え」や「自分勝手」に見え、発達が偏ると勘違いされてしまうことや、自由遊びだけでは物足りない、と感じて何かが上手にできるようになってわかりやすい成果を期待されるようなこともあります。それは親御さんも感じて悩んでおられる場合もあります。

子ども本人の特性や願いはそうではないのに、どうにかして大人の願いに上手に誘導することを賢明にやらなければならない、というプレッシャーです。見学に来られる方々の話を聞いていると、大人が活動を色々用意してさせることが多くて「子どもが自ら環境に関わっていく」ことから始まっていないようです。

このアカウンタビリティを果たすことは、とても難しい。各園だけの力では、この強力な流れに竿さすことは、とても大きなエネルギーが必要です。個人でやろうとすると、その流れに持っていっていかれます。孤立や退職に追い込まれます。組織を上げて取り組む必要があります。職員に精神的な安心感をもたらす保育のあり方を、ずっと考えてきた私たちの研究グループは、この問題を「チーム保育」の充実という方法で提案してきたのです。

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