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園長の日記

理念は「いきている」

2022/12/13

最近のこの「園長の日記」は、その日のことを超えてその意味の背景や自分の思想を語っていることが増えてしまいました。もともと、この日記は、なぜこんな保育をしているのかという意図や背景となっている理念を説明したいと考えて、2019年春の開園の時からスタートしてものだからです。ですから、もともとそうした傾向が強かったのですが、このところ自分自身で、さらにそれを吟味しながら再構築している自分に気づきます。ちょっと気をひく言い方をするなら「理念は目に見えない「いきもの」である」ということを説明したくなります。いきものだから、元気な時や調子が悪い時もあります。大事に育てないといけません。理念にもケアリングが必要なのです。

今日は保育研究団体の保育環境研究所ギビングツリー(藤森平司代表)が、毎年3回開いている保育環境セミナーの2日目で、私が司会者でした。全国から多くの保育者が集まって<保育環境>について、つまり保育について学びます。講演、実践発表、質疑応答(アンケートで提出してもらうものへの解説)からなります。今回で56回目になります。この積み重ねの意味は別の機会に述べます。

司会をしながら、つくづく思うのは参加者の熱心さです。とても意欲的に参加されています。月曜日と水曜日には、保育園の見学もあるのですが、当園にもそれぞれ2園3人の方が見学に来られました。そして保育を見ながら、よりよい保育を語り合い、深め合うのです。そして私自身も飽きることのない保育の魅力を感じます。どこまでも行っても完成することはない、常に発展途上なのが教育や保育だと思います。そして「この熱意はどこから来るのだろう」と考えると、それについての私の実感は「理念からくる」です。人間は「理念」があるから向上しよとするんじゃないでしょうか。理念と日本語に訳されているもので、私たちは「生かされている」と実感してしまうのです。(和語だったらなんだろう?やまとごころ? 違うなあ。そうじゃない。現代に必要なその言葉がまだ生まれていない気がする)

それが私たちの精神を常に活気づけ、再生させてくれるもの、それが理念だと思います。そして、これも意外な言葉かもしれませんが、子どもこそ「理念」を私たちに伝えてくれいるようにも感じます。子どもから、私たちは「理念」を汲み取っていると感じるのです。

子ども同士の関係の再構成と子どもの見通し

2022/12/12

「ねえ、お集まり始まるよ」「いやだ、まだやる〜」。

(写真はこの話の時のものではありません)

朝9時50分ごろ。にこにこ組(2歳児クラス)の子どももたちが、こんなやりとりをしていました。遊びを終えた4人はテーブルにつき、残り2人がレゴブロックで遊び続けています。子どもが生活の主人公になっていくように、どんな保育をしたらいいのでしょう。何をどう考えたらいいのでしょうか。その場にいた見学者2人と一緒に考えました。このとき保育のポイントは、やはり「子どもの姿」をどう理解するか、です。

それを考えないで、ただ『ほら、もう集まっているよ、お片付けして集まってください』なんて言ってやらせるだけなら、素人でもできます。それで子どもが納得するなら、簡単ですけど、そうはいかないものです。では、どう考えればいいのでしょうか? 見学者の園長先生は「本人が達成感を持って終わるまでやらせてあげる」といいました。

私はこう提案したのです。「子ども同士の関係がどう育ってほしいと、私たちがもつ「ねがい」が、本人たちの「見通し」(AARのA)となっていくように、環境の再構成を考えるといいんじゃないでしょうか」と。4人と2人の間の関係が、それぞれが願っている方向で合意されていくプロセスを考えるのです。しかもそれぞれが主人公になって。しかも起点は私たちの「子ども理解」から始まります。その上での何らかの働きかけが生まれていくことになります。しかも、それは担任にしか判断つかないような、微妙なものであることが多いのです。

この子たちと毎日接している担任が見えている子ども理解と、たまにしか見ない私などの子ども理解とは、子どもの見え方が違うはずです。前の保育園での事例ですが、園庭に「こぶし」の木があって、木登りができるのですが、その日も何人かが登っていました。その様子を実習生と見ていたのですが、「いいですね、木登りができる園庭なんて」と実習生がいいます。そのときです、そばにいた先生が「○○くん、登れたのね、やったねえ」と声をかけて喜んでいます。目の前には初めて木登りができた子がいたのです。私も実習生も分かりませんでした。これが、いつも子どもを見ている担任との違いです。

これと同じような見え方の違いは、テーブルの4人とレゴブロックの2人についてもいえます。私や見学者には見えない子どもの姿を、担任はピアノを弾きながら感じているはずなのです。以下は勝手な想像ですが例えば「あんな城みたいなレゴ城づくりが昨日から流行っているからなあ」だとか「あの二人が一緒に作っているときは、なかなか終わらないだろうなあ」だとか、一方のテーブルにいる子たちには「Fちゃんは今朝から張り切って散歩に行きたがっているし」とか、子どもの心の動きを想像しながら、どんな流れで彼らが「自分ごと」(つまり当事者意識のようなもの)になる関係が育っていくのかを考えているでしょう。

しばらくして、担任はお話をしながら「お名前を呼ぶから、そっちからでいいから返事してね」といって、一人ひとりの名前を呼びます。すると二人はブロックをしながら返事をします。そして水分補給のお茶を飲む頃には、ブロックはかなり完成し、二人とも飲みにきて、また急いでブロック作りに戻ります。

私は見学者に「そろそろ、これから散歩に行くか、お部屋で過ごすか、どこで何をするかなど、どう過ごすかを話し合うタイミングになるから、あの子たちも参加し出すんじゃないかな。どこに散歩に行くかなど、自分達のやりたいことを伝えないと、違う結果になると嫌でしょうから。参画のタイミングで戻ってくるんじゃないかと期待しているんですけどね」と話しました。でも実際は、そうなりませんでした。散歩に行く準備が始まってから、二人はブロック遊びをやめて散歩に行く準備を始めたのです。遊びながら先生の声を聞いていたので「それならやる」と思っていたのでしょうか。それはよく分かりません。でも、これが彼らなりの朝のお集まりへの参加の仕方でした。

このように、子どもたちは自分の好きな遊びを自分で始め、そして自分で「お終いにする」まで続けます。遊びの自立とは自分で遊び初めて、自分でお終いにできることです。そのタイミングは、自分でこうしようと、見通しを考えながら、あれこれ考えているのです。この時期の二人にとってはそこまで育っているので、それで十分なのです。とにかく自分で決めて初めて終われるというのは、大事な自立の姿なのです。そして、対話を重ねながら、徐々に自分の関心ごとと、他者の思いを重ね合わせて考えることができるようになっていくのです。

若者を覆う閉塞状況の正体

2022/12/11

私の友人から、Facebookでこんな書き込みをもらいました。

全く同感だったので、その内容をご紹介します。私が感じてきた「閉塞状況」を説明してくれています。ここからの解放が、ぜひ求められている気がしてなりません。変えるべき保育の本丸はここからです。

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid02Lr2dHvaNm1uXLHw1DNpcF94qw1KigeAcfG4uLGUK2jWi9k9N9eZXuDs9wrDvMzNYl&id=100005943404376&comment_id=695796388721114&reply_comment_id=665596058395799&notif_id=1670764303202880&notif_t=feed_comment&ref=notif

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倉掛さん、返信対応してくれてありがとうございます。

日本の場合、謙虚さや控え目の裏側に、いつも周りに同調することを良きこととする慣習・文化が根強いのだと感じています。そもそも個性とは独自のものだから、他者や外部の環境と接すれば「違和感」がつきまとうはずです。

それなのにその違和感よりも、大人は先ほどの慣習の正しさを教えこもうとします。僕の場合、小さい頃から学校文化になじまなかったせいか、この違和感をどう伝えたらよいのかをいつも悩んでいました。この違和感を自分としては素直に外に表現したつもりでも、大人からはいつも問題児扱いされ、説教されることが多く、辟易としていました。幸い対人関係に悩んだとしても、それを乗り越える鈍感さと、自分なりに考えたり調べたりする力があったため「うつ」にはなりませんでしたが。
要は、この「異」や「違」を幼いころから素直に発信できないことが、倉掛さんの言う「閉塞状況」の正体だと思います。自分でも言語化できないうちに、よくわからないままに同調することに慣れすぎてしまっている気がします。
僕が学校の風景でよく覚えているのは、「福島くん、それは今考えることではありません」と先生によく言われたことです。例えば僕は国語の授業で「なぜ○○についてもっと考えないのか?」と思ったり、数学の解の公式について疑問をもったり、速度と時間と距離の関係について疑問をもったりと、今でも自分で勝手に調べた記憶がありありと思い出されます。
守破離の「破」に行こうとすると、いつも連れ戻されました。連れ戻された世界は当然退屈なので、集中して聞くことができず、ひどい時には早退(脱走?)や欠席をするわけです。
学校教育に必要なのは、独自性や個性を尊重し、最大限伸ばす方法を考えることです。そのためには倉掛さんが言うように「違う考えや価値に出会って」、自分を超えていく体験を積み重ねていくことです。具体的には一斉授業を極力やめて、教材は共通だとしても学び方を自由にしていくことです。ただこんなことをは、僕が言わなくても倉掛さんはわかっているので省力しますが…。
いずれにしても倉掛さんが言っている閉塞状況は、深刻だと僕も思います。
この状況を変えていくには、やはり現場からでしょうね。
もどかしいのは、園を変えていっても、それが小学校以降の教育には参考にされない点です。
それなので「新しい学校をつくる会」に参加してほしいと倉掛さんに言われた時は、嬉しかったです。できる・できないではなく、何を実現することで世界を変えていきたいのか、そこが何より大切です。
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ストレスフリーの「お楽しみ会」(乳児)

2022/12/10

<ある条件>を整えるなら「こんなに楽しくて、自分らしさを表すことができる」ということに、今日、私は感動しました。これまで「自分らしく」過ごすことを大切にしてきた積み重ねが、こういう姿となって現れるということを目の当たりにして、本当に嬉しくなりました。今日10日は、乳児(0歳から2歳児まで)のお楽しみ会でした。今年は保護者参加型でやってみたのです。

<ある条件>というのは、ストレスフリー、ということです。なんのプレッシャーもない、練習なども全くゼロで、いつものように生活して遊んでいればいいという行事です。子どもが親がそばにいて欲しければ、一緒にやります。無理に引き離すこともなく、安心した心理状態で、普段の様子を見てもらいました。

多くの方はお休みの土曜日。9時に登園してもらって、子どもたちだけでひと遊び。その間、保護者の方は2階に集まってもらって、今回のお楽しみ会の流れや趣旨を説明しました。今日、一緒に見ていただいた内容は、ひと遊びした後からの様子です。お名前を呼んで出席を取ったり、歌を歌ったり、絵本をよんでもらったり、朝のおやつも食べて、使ったエプロンやお手拭きタオルも自分で手提げバックにしまって。靴下履いて、靴を履いて、お外へ出て、親子で和泉公園までお散歩。そこで遊んで解散。ここまでを「お楽しみ会」として実施しました。

担任が◯◯ちゃーん、と名前を呼ぶと、は〜い(と声にならないばあいもありますが)と手があがり、その度に周りからおほえましい称賛の拍手。本人も嬉しそうに自分でパチパチパチ、と拍手しています。大好きな絵本を読んでもらいながら、それを自分の親にも指差して「みて」と促す子がいたりして、保護者と一緒に楽しんでいます。

実はこれまでの経験から、朝親子が別れるとぐずってしまうことがあり、再会すると泣いてしまう子が多いんじゃないと予想していたのですが、そんなことはありませんでした。0歳児と1歳児のクラスの子どもたち(満1歳〜満2歳)の子どもたちは、いたって平気で、いつの姿を見せてくれたのです。正直、驚きました。ちゃんと先に「これからお父さんやお母さんがまた来るからね」と伝えてあげると、それをちゃんと受け入れてくれています。

2歳児クラスは、1時間遅れて、2階で同じようにやりました。ここではさらに保護者の参加型を促し、絵本を読んでくださったのはお父さんやお母さん。3冊の絵本を楽しみました。3冊目の絵本「3びきのやぎとがらがらどん」を見終わったら、それをやりたい、というのでテーブルを橋に見立ててごっこあそび。お父さんやお母さんと手を繋いで橋を渡った子は、「もう一回!」といって、またやぎになります。安心できる状態にしてあげれば、意欲的になるとう、当たり前の状態を確認できて、誰もがハッピーでした。

とかく日本の行事は、見せて立派にやり遂げた、よくがんばったね、と大人が喜んでいますが、本当に子どもはみんな嬉しいんでしょうか?本当に「誰一人取り残すことのない」(文科省の「令和の日本型学校教育」で使われたフレーズ)保育なのでしょうか。私はそうは思えません。同じ内容を同じ時間に同じ場所で多くの子どもがやらされること。これは今の世界の時代感覚からすると人権侵害をうむ土壌そのものです。子どもは一人ひとり違って当たり前なのですから。

それでも、まだまだ課題はありますが、せめて出来栄えを見せる、競う行事はやめたい。やるなら選択制にする。それぞれの子どもが安心して過ごせる毎日、発揮したい自分のやり方が選べる方法、それをお互いに認め合い、助け合う関係が育つ場にしたいと思っています。次回幼児(3歳以上)のお楽しみ会は1月になります。これくらいからは、自覚的な「自己表現」といえる姿がミラるようになっていくでしょう。どうぞ、お楽しみに。

第三者評価の限界と保育の質

2022/12/09

園長向けの研修会で、監査と第三者評価について講義する機会が12月5日の夜、東京・高田馬場の「日本児童教育専門学校」でありました。このシリーズ講座は同専門学校と私の法人の理事長である藤森平司氏が、共同で企画開発し始めたものです。

今行われている保育士向けのキャリアアップ研修では、各分野の最新の制度改正後の概論の確認が中心になっており、国のガイドラインに突き合わせながら、代表的なテキストを調べてみると、受講スタイルは説明&参加者のディスカッションとなっている場合が多いようです。当園の受講者の報告によると、要領や指針が本来目指していることを掘り下げた説明は講師によって差があり、例えば中教審答申に至る過程で影響を与え続けている世界の動向(例えばラーニングコンパスのAARサイクルの意味とコエイジェンシーの関係、社会情動的スキルの育み方など)をはじめ、脳科学などの学際的知見、文科省や内閣府が目指している<学びのパラダイムシフト>などを学ぶことができない、という認識から試行しているものです。

それに合わせて、施設長がアップデートする機会も作ろうと、園長向けの研修も始めたのです。その日は、私の持ち時間90分のうち、監査について20分、残りの多くを第三者評価について説明しました。

監査、学校評価、第三者評価そして自己評価の関係は、それぞれ所管やねらいが異なることからくる違いを確認した上で、共通の問題点として整理したのは、次のとおりです。

一つは理念や目標の再構築過程の評価が弱いことがあります。福祉施設の第三者評価は東京都の場合、めざす理念の内容が問われることがありません。極端なことを言えば、赤ちゃんは白紙で無能という認識のままでも(実際にそう思って保育をしている保育園長がいましたから)、その発達感に基づく保育を実現させるために組織が一丸となって、大人が主体の、子どもを上手に動かす一斉保育が見事に展開されていても、いいのです。

確かに第三者評価の組織マネジメントでは、6つのカテゴリー全体を一年単位のPDCAで回すことになっている(その自己評価がカテゴリー7)のですが、理念(は目標概念ですが)の再構築は、カテゴリー1の名前が「リーダーシップと意思決定」となっているように、その見直し過程のプロセスの評価はあっても、その理念そのものも価値判断は、各法人や施設に任されているので、そこをどうするのか、という問題は第三者評価の圏外になってしまします。

もう一つ、大きな問題だと思うのは、第三者がまるで神の目のように、課題を指摘してもらえるかのように勘違いされている節があるのです。そんなものはありません。最初に評価の基準というものが示されて、その枠の中でやっているものなので、その評価の基準そのものを問い返してもいいのです。

でも、そんな発想は現場からはなかなか出てきません。唯々諾々と、あります、やってます、にしておいて、その裏付けを探しているというのが実態です。監査は法令遵守ですから、ありません、やってません、は指摘されますから、全て「◯」にしないといけませんが、第三者評価は、本来、それの上乗せ部分を評価するのが建前ですから、濃淡があってもいいのです。それがその園の強みや特徴となって、利用者の選択に資する、という考え方です。

ただ、これが最も深刻な構造問題なのですが、東京都の場合は、日本経営品質協会の顧客価値創造経営のモデルを社会福祉に持ち込んだものなので、どうしても、利用者の満足度が幅を利かせる評価構造になっているのです。端的に言って子どもの経験の質が中心にはないのです。延長保育の要望があったら速やかに対応できているか、長時間保育に対応した指導計画をもとに、その工夫をどうしているか全体の計画に位置付けいてるか・・・などが目立ちます。

このことを考えてもらうために、講義では学校教育との比較をしてもらうました。保育所は、直接契約の元で、福祉サービスとい言葉(学校教育にはサービスという言葉は出てこないと思いますが)が表しているように、そこに向けてサービス競争を促す構造はあっても、幼稚園のように教育課程、カリキュラムのマネジメントの質に向かわせる組織の動機が発動しにくいのかもしれません。

そして達成した途端に、新しい地平が見えてきます。新しい頂が覗きます。そこと現時点の差が課題です。課題は第三者から示唆を得ることもありますが、組織の「仕組み」になっていく過程で、必ず新しい目標が見えてくるものなので、その差が新しい目標になっていきます。ここでいう課題は、最近流行の議論で言うなら、最上位目標の再定義と言い換えてもいいでしょう。

私は、第三者評価にしても、保育の質の向上は、子どもの経験の質をプロセスとして捉えることから始まると思ってきました。物や空間のアフォーダンスにまで立ち返り、同時に精神や自我が社会とどういう関係になっているのかを考える時間をできるだけ確保しつつ、資質・能力が創発する環境としての保育園、学校の在り方を考えています。

そのためには、子どもがどんな体験をするのが望ましいと考えているのか。掲げている理念にそれが現れているはずです。その一つをとっても、私には理念の再構築はずっと続いてきた物でした。組織は学び続ける必要があります。第三者評価を受けることでその中身が出てくるわけではありません。それは理念実現に向けた自己評価のための参考指標なのです。望ましいと思える理念は、<私たち>で織り成していくものであって欲しいと願いながら。

 

保育園に台所がある意味

2022/12/08

今日は夕方から「保育園の食事の提供の実際と栄養士の業務」について、大妻女子大学短大で話をしてきました。話したのは私の他に「さくらしんまち保育園」の小嶋泰輔園長先生と、フランスレストランのシェフ江口颯良さんの3人。90分を3人で分担、構成しました。受講したのは、みんな栄養士を目指している同短大の1年生です。多くが保育園で働きたいと思っているそうです。そこで、保育園の中にちゃんと調理室があって、栄養士も保育士と話し合いながら、子どもの生活に即して献立を考えたり、食べる環境を工夫したり、子育て支援がよりきめ細かくできたりする「自園方式」のよさを説明してきました。

というのも、保育は、この15年ぐらいでしょうか、調理業務の外注化、委託化がかなり進んだように感じます。そろそろ、その総括をするべき時期だと思います。そして私はやはり、調理室がなくなったり、あるいは調理員の委託化が進むと「その園の子どもの生活に応じた」献立、調理、喫食、振り返りなどができにくい、と感じてきました。また安心・安全な食材に切り替えて提供するといったことも含めて、食事の質を高めることも難しいという課題がはっきりしてきたのではないかと思います。

「その園の子どもの生活に応じた」というのは、保育士や栄養士が直接、子どもの姿を観察できるので、対応しやすいという意味です。例えば離乳食の咀嚼の様子や食具の使い具合を観察して、その実際を理解してあげれば、その子に合った離乳食を作ることができます。単純に月齢で分けたりせず、発達の実際に合わせるのです。微妙な柔らかさの加減などは、保育士からの指示だけで調理担当者が作ることは難しいものです。それは保育士が箸の持ち方を教えてあげたいな、と思う子どもがいたときに、遊びの中で「箸遊び」の遊具を工夫することと似ています。

あるいは味覚に敏感な子どもの食事の進み具合を確かめながら、どんな食感に変えるとたべやすいのか、といった検討もしやすくなります。行事のリクエストメニューに応じたり、屋上で採れた野菜を、その日の料理にうまく入れ込んだりもできます。先日も近所付き合いでいただいた「かぼす」を活用できないか、相談したばかりです。

さらに食事を作ってくれている人が、すぐそばにいて、「先生、美味しかった。またハンバーグ作ってね」を伝えられる関係があることの意味は非常に大きいのです。このようなことが業務委託では、絶対にできない、とは思いません。でも作ってくれる人は、確かにそばにはいますが、子どもと一緒に遊んだり、園児と一緒に食事を取ったりしている間柄ではありません。子どもたちに愛情を注ぎながら食事を作る人がそばにいる、ということが、とても大事な意味をもつように思えて仕方ありません。

当園には子どもキッチンもあるので、遊びで描いた絵でクッキーの型抜きをしたり(誕生日会の午後のおやつ作り)、ぐりとぐらの絵本を楽しんだ後でホットケーキをつくって食べたり、その時季の旬のくだものでジャムを作ったり、桃太郎の劇遊びに連動して「きびだんご」を調理さんに作ってもらったり、ベランダで育てているミミズハウスの餌を調理さんからもらったり、「アリさん」や「ダンゴムシ」や「しゅんちゃん(セキセイインコ)」は、何を食べるのか栄養士さんも一緒に調べてみたり・・そうしたことは数限りなく生じています。子どもの生活や遊びと「台所」が結びついているのです。決して給食の提供に限らないのです。専門家が連携するチーム保育というのは、保育士や看護師、栄養士、事務員、子育て支援担当者らが、その園の子どもの姿を共有しながら、つながりあうということです。

どこかで管理栄養士が統一献立を作って、各園はそれに従って調理員が料理を作ればいい、ツリー状の態勢では、子どももや大人にとっての個別最適な学びのための環境を、より豊かに展開することは難しいような気がします。保育実践の中で実感する望ましい態勢というものは、大人も子どもも、これからの時代に育んでいきたい資質・能力(全て個人は還元できない)を想定していくと、その中の環境を柔軟に組み合わせていく、臨機応変な対応力が必要だろう、からです。保育学会もブリコラージュをテーマに取り上げたりしていました。

「お花の植え替え体験&野菜収穫」のレポートが掲載されました

2022/12/07

9月30日に行った「お花の植え替え体験&野菜収穫」のレポートが今日、ホームページで公開されました。

https://www.ecozzeria.jp/events/env/report-repotting-220930.html

この体験を用意してくださったのは、エコッツェリア協会です。

レポートから、少し紹介しましょう。

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目で見て、触って、匂いを感じる

子どもたちは、花や土に触れながら「いい匂いがする」「なんか変な匂いするよ」と口々に感想を言い合い、それぞれ自然との触れ合いを楽しむ様子が見られました。花を植えた後は、水やりをして作業完了。
たくさん用意されたエディブルフラワーが綺麗に植えられ、衣替えしたように花壇がぱっと華やぎました。きっと、オフィス街で働く人々や大丸有エリアを訪れる人々の癒しの空間になってくれることでしょう。

「今日は、みんなにレタスとラディッシュを収穫してもらいます。お家に持って帰って食べてみてね。ここの野菜はお水で育てているから、とても葉っぱがやわらかいの。ラディッシュの葉っぱもお味噌汁に入れたりして食べられるので、お父さんお母さんにぜひお話ししてみてください」

水耕栽培された野菜の収穫方法を教えるのは、アーバンエコファームを管理するエスペックミック株式会社の仲間亜友未さんです。 茎の根っこの方を持ち、引っ張ると簡単に取れる仕組みになっているため、子どもたちは難なく野菜を収穫していきます。長い根っこを興味深く観察する子や、収穫される前の野菜が放つ匂いに関心を示す子もいました。
どんどん収穫は進み、あっという間に栽培室の野菜はすべて収穫完了。袋いっぱいになった野菜を持って、みんな満足そうな表情。「もう一回やりたい!」と、まだまだ収穫し足りない子もいたようでした。

生き物や植物との触れ合いが、命の大切さを教えてくれる

「園には園庭がないので、普段の屋外活動は近くの公園や神社へお出かけしています。特に、普段から自然との触れ合いは大切にしていますね。公園でトンボやダンゴムシを捕まえたり、タンポポなどの草花を見つけたり……。最近のおもしろい取り組みとしては、去年飼っていたスズムシの卵を育てて、孵化させるまでをやってみました。9月の中旬ごろまで鳴き声を聞かせてくれました」(倉掛先生)

そう話すのは、千代田せいが保育園園長の倉掛先生。今年の3月に大手町エコミュージアムで開催した、ホタルの放流プログラムにもご一緒していただきました。今回のお花の植え替えでは、土に触ったり水やりをしたり、また違った面白い経験ができたのではと倉掛先生は話します。保育施設でも、屋上スペースで野菜を種や苗から育て、成長していくプロセスを観察しているそうです。

「自分で野菜を収穫するのはとても良い経験だと思います。どんな味がするだろうかと興味を持つきっかけになりますし、持ち帰って親御さんとの会話も生まれるでしょう。野菜を育てて、収穫して、食べるまでの過程の周辺には、子どもたちにとって成長の糧となるたくさんの発見があります」(倉掛先生)

千代田せいが保育園では、今回収穫した野菜だけでなく、ごみとして処分する予定だった根っこも持ち帰られました。園で、野菜のヘタや根っこを水に浸けて再生させる”リボーンベジタブル”に挑戦するそうです。

「野菜クズだと思っていたものにも、まだ命がある。子どもたちには、野菜という括りだけではなく、生き物の持っている生命力を感じてほしいなと思っているんです。こうした経験が、ゆくゆくは持続可能な自然・社会への関心に繋がっていくと私たちは考えています。大人たちがどんな文化をつくっていきたいかで、子どもたちに伝わるメッセージも変わってくる。そういった意味でも、今回は一緒に勉強させてもらう良い機会になりました」(倉掛先生)

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(注)「エコッツェリア協会」は、「一般社団法人大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり協議会」や「NPO法人大丸有エリアマネジメント協会」の活動を通じて培われたエリア内の企業との協力関係をもとに、2007年5月に設立された一般社団法人です。大手門タワー・ENEOSビル1階「3×3Lab Future」を運営するなかで、産官学民とのパートナーシップを図り、大丸有(大手町・丸の内・有楽町)エリアのまちづくり推進や、エコに関する調査研究と情報発信、各種イベントの開催など、さまざまな活動を行っています。

クリスマスツリーの飾り付け

2022/12/06

12月になると、当園には毎日サンタクロースからの手紙が届きます。アドベントカレンダーは靴下でできていて、そこに入っている手紙に色々なことが書かれています。

今日は「クリスマスツリーに飾るものを届けておいたぞ」などのメッセージが書かれています。プレゼントは、いつの間にか事務所に届いていることが多く、靴下の中に手紙が届くと、プレゼントも届くようです。サンタクロースの不思議な力です。

 

映画「こどもかいぎ」の自主上映会を終えて

2022/12/04

夕暮れの和泉公園前。「おつかれさま〜、またあした」。さようなら、と手を振りながら、別れを惜しむ気持ちが、ちょっと私の心を湿らせる。こんな感傷はいつ以来だろう。映画の自主上映会が先ほど無事に終わりました。保護者の方々と一緒に作り上げた上映会。手伝ってくださった方にはありがとうございました。またそうしたくてもできない方も多くいらしたはず。そうした方々の気持ちも忘れないようにしたいと思っています。

新しい出会いは、そこに新しい道が見えてくるようにも思えます。映画「こどもかいぎ」を観おわった方々と、話し合いもでき、その思いに触れることができました。それぞれに大切にしていることがあって、ハッとさせられることがあります。映画に登場したクラッキー園長とカッキー先生、ユミコ先生によるアフタートークができました。それはまるで映画を使った保育の振り返りのような時間でもありました。

映画の力も大きいのですが、見終わった後も、何かもっと知りたい、分かち合いたいという気持ちからなのか、ほとんどの方が会場を離れることなく、それに参加してくださったことも励みになりました。会場からの質問もいただき、ミニ「おとなかいぎ」のようになりました。いただいたアンケート用紙の感想の中にも「おとなかいぎ、忘れていました」というものもありました。私たち大人がもっと話し合いというものの場を作っていくことに慣れていくのも必要なのかもしれません。

会場には他の保育園の先生や、地域で交流活動をされている団体の方との繋がりもできました。明日につながる道がここにあるよね、そんな手応えを感じることのできる上映会になった気がしました。

おでんに茶めし 心憎いバランス

2022/12/02

 

お弁当を用意してもらって公園へ出かけた様子は、ホームページのクラスブログを見ていただくとして、保育園の昼食は「おでん」でした。給食という言葉は制度の説明としては使っても、生活を大事にしている語りの中では、朝食、昼食、夕食という言い方にしています。それなので、献立表の名前も「ごぜんのおやつ」「ちゅうしょく」「ごごのおやつ」としています。よく食事の意味を説明するときに、おやつというとお菓子のイメージを持たれてしまうと誤解されるので、おやつではなく「間食」という言い方をする時もあるのですが、それもまた、日常的に使う言葉とは違うので、子どもたちにも「おやつの時間だね」「お昼ごはんはなんだろう」「わあ、おでんだって」というように使っています。

園長の役割の中に検食というのがあって、子どもたちが食べる前に事前に試食しています。そしてそれぞれの味や量、彩度(新鮮さ)や色合いなどもチェックしてコメントを書くのですが、保育園の「給食」は美味しいのです。そして外食の味が濃くて塩っぱくて、食べたくなくなります。薄味というよりも、食材の味を味わうこと、そこに苦心してもらっているからです。今日のおでんの味も出汁がよくきいて、それでさっぱりしています。おでんはおかずになりにくいので、白ごはんではなく、ちゃんと茶めしになっていて、その辺りも心憎いのです。

出汁などに使う調味料は、すべてナチュラルハーモニーからのものなので、私が知る限り最も安心・安全な食材です。

本当は保護者の皆さんにも食べてもらいたいぐらい、美味しいのですが、どうにかそんな機会も作ってみたいものです。例の保育参加体験のときは、試食してもらおうと思います。毎日献立に悩んでいるみなさんにとって、保育園のメニューと味を活用していただけたら、うちの栄養士さんたちも嬉しいと思います。

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