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園長の日記

幼児が笑い転げるおかしみのツボ

2022/10/19

今日4歳の誕生日を迎えたKSくんと遊んでいて、可笑しくて笑いが止まらなくなりました。

子どもには「笑いのツボ」があります。そのツボにはまると、ゲラゲラ笑いが周囲に感染します。そのツボはいくつか種類があるのですが、今日のツボは、「他人が期待している楽しみが、偶然できなくなくなってしまう」というものです。代表的な例は「落とし穴」です。人が落とし穴に落ちるのを面白いと感じる心が人にはあります。相手を騙すことが面白いと感じるのと似ています。この感覚、わかりますか。子どもには、そういうものを面白がる心理があります。

こんな場面でした。折り紙で作った「筒のようなもの」(写真)が偶然、机の上で立ったので「あ、立った、立った、すごいね、立ったね!」と私が喜ぶと、KSくんは、すかさず「ふ〜っ」と息を吹いて倒したのです。ろうそくの火を消す時のように、です。そこで私が「あ、倒しちゃった。ねえ、もう一回、立てて」とお願いすると、KSくんは立てようとするのですが、なぜか笑い出しています。笑いで手が揺れるのこともあって、筒が中々、立ちません。

私が「立たないかなあ、立たないかなあ」と声に出して期待していると、KSくんはなんとか筒を立たせました。笑いながらです。そこで「あっ、立った立った!」と私がいうと、KSくんは、またすかさず「ふ〜っ」と息を吹いて倒そうとします。でも、笑っているのでうまく息が出ないので、中々倒せません。自分でやりながら可笑しくてうまくできないという感じです。その経過をずっと録画していたので、二人で笑いながら、繰り返しみました。楽しかったあ〜。

このような一見、実にどうでもいいように思えるエピソードかもしれませんが、私はそんなことはない、大切な意味があると確信を持って主張したいと思います。このように子どもが「笑い転げるようなおかしみ」を体験する意味について、解説したものがあまりない気がします。でもきっと重要な意味が隠されていると、私は思っています。スマイルの微笑ではなく、ラーフターの哄笑の方です。声に出して笑う方です。

私の仮説はこうです。人間の脳は社会的な脳だと言われています。人と人が結びつくことを望む脳です。ヒューマン・コンタクトを必要とする脳です。その際、利他性が人間性の特徴です。利己的ではなく利他的であったこと、なぜか協力することを人類の進化は選択してきました。他人が喜ぶことが嬉しく、他者が悲しいと自分も悲しいと思う共感性を持っています。他者の快感が自分の快感になるような性的傾向を愛情の中にも組み込みました。

そのような共感性が発達していくにつれて、他者が困ることなど「起きてはならないこと」が実際に起きてしまうことは恐れや怒りなどの感情を伴います。そこで子どもは、あえてそうした「起きてはならないこと」を、先取りした模倣、つまりシミュレーションすることで、裏返しの感情が発露してしまうという心理機構があるのではないでしょうか。プラスの感情を伴った体験の再現が「ごっこ」です。これはいわば過去から現在への模倣。一方で、マイナスの感情が引き起こされる予行を平然と引き起こすことはできないので「おかしみの感情」を伴いながら、一種のごまかし、ユーモアにしてしまうのではないでしょうか。

それが大人からは「いたずら(悪戯)やおふざけ」に見えるのではないでしょうか。バケツを被って階段を昇り降りしたりするような、きっと叱れるようなことを、子どもがやりがるのは、共感性の発達の裏返しかもしれません。相手があって初めて誘発される感情でもあって、そのおかしみの体験が引き起こされているとき、私はあまり「待ったをかけない」ことにしています。私との自由遊びの時間には、この笑いが突発的によく起きます。

園長ライオンの遊びの中でも、ライオン役の私に「はい、肉ですよー」とくれるので、おいしく食べるふりをすると子どもは「毒でしたあ」と言って、騙したことを笑って楽しむのです。

私はこういう事も大事にしたい。でも、これは遊びの価値への確信と心の余裕がないと、なかなかできないですね。

自由遊びとは何か。今は亡き大場幸夫先生の言葉です。

「子どもたちが自ら発想し、その遊びの存続や遊びの内容の選定など、一切を子ども自身に委ねられる遊び。子どもたちの自発的な意思にもとづいた活動の総称。保育者が意図的に設定し子どもに課す遊びの類とは峻別される。自分の思いつくままに、自由にいろいろな遊具やおもちゃを選択できることや、自分なりの遊び方を楽しむことが可能であり、進んでいろいろ工夫してみることが許されている。自由であることは、なんとなくぶらぶらしていられることも含めて、自分の気持ちに正直に呼応できる行動のあり方、ということができるだろう。それだけに、意思決定と自己調節が、こうした遊び方のプロセスを通して、育まれる機会を得ることにもなる。子どもが自らの主人公になって遊べるところに、この遊びの本質を見ることができる。問題はこうした遊びを、日課の一部に取り込み、“束の間の自由”でしかないような生活を是認する保育者の考え方にある。(「発達心理学辞典」(ミネルヴァ書房))

木場公園での鬼ごっこ

2022/10/18

木場公園からの帰りのバスの中で、子どもたちと「♪ありの〜ままの〜」の大合唱になりました。昨日の「日記」を読んだ主任が、かけてくれたのです。

粋なことをと嬉しくなり、思い出しました。この歌の歌詞を初めて聞いたのは2014年のはずですから、もう8年も前、「保育園のテーマソングにしよう」と思ったことを。そして聞きながら、今の子どもたちも、よく知ってるなあ、と驚きました。歌い終わると、すかさず「アナ雪ツーもやって!」と催促されましたが。

うちのような園庭のない都市型の保育園にとって、昨日無藤先生が訪問されているような広い園庭のあるところが、羨ましい、輝いて見えます!★キラリ〜ン★ 私もそういうところに平成の最後の年までいたので、園庭の魅力というものはよくわかります。そこでバスでちょくちょく、子どもたちを連れて広い公園へ出かけます。

バス利用は今月、先週14日の芋掘り遠足に続き2回目です。今日は1歳児クラスから年長さんまで、いきたい子たち37人で出かけました。木場公園は芝生の広場と、多様な遊具が並ぶゾーンがあって、そのどっちも園では体験できないものです。今日は雨上がりの芝生広場を思いっきり駆け回りました。私の担当は、もっぱら鬼ごっこの鬼役でした。

(写真は鬼きめ、をしているところ)

子どもは隅っこと原っぱが好き、という言葉を学生に話すと、最近はポカ〜ンとされることが増えました。確かに原っぱを駆け回る子どもの姿というものを見かけることがなくなりました。子どもは風の子、ともよく言われたものですが、こっちもあまり聞かなくなりました。家の中で遊んでいたら、誰ともなく「子どもは外で遊んでなさい」と言われていたものです。

子どもだけで外へ出すことなんて、危なくてできない時代になりました。そして外遊びの減少で引き合いに出されるデータが「サンマの喪失」で、外遊びの時間、空間、仲間の三つの間、でサンマが消えた、と。園庭というのは、運動、自然との触れ合い、野菜や果物の栽培、開放感などの役割があるのですが(グラウンドにはありません)、このように運動遊びのために、子ども集団が身体的に群れあう空間を保障するための、重要な役割があります。

そこで私が令和から始めたのが「鬼ごっこのある街ちよだ」キャンペーンです。それを区長に提案すると「鬼ごっこする場所がないでしょ」と言われました。その通り。でも公園はあります。校庭もあります。児童遊園もポツリ、ポツリとあります。遊具がなくても遊び込めるものは何か?そう考えた時に閃いたのが「鬼ごっこ」でした。

鬼ごっこ協会の羽崎貴雄さんとの協働が始まりした。鬼ごっこは、とても優れたソフトウェアです。ものがないと遊べない子どもにしたくない。体操やスポーツといった世界に入ると真の創造性が発揮されにくい。しかし鬼ごっこというソフトと空間があれば、おそらくどんな競技スポーツよりも、実り多い身体と精神と社会性が身に付きます。

https://www.onigokko.or.jp

親子運動遊びの会(略して運動会)は、全部親子で鬼ごっこでやりました。今日はその空間を木場公園が提供してくれたわけです。

私との鬼ごっこといえば「園長ライオン」です。私がずっと鬼役なのですが、捕まえたら抱っこして持ち上げ「もぐもぐもぐ、食べました」と言ってゆすります。それが嬉しいんですよね。本当に他愛もない、戯れ遊び鬼ごっこですが、子どもの心と体が本当に嬉しがる要素が詰まっています。楽しくないはずはありません。ライオンの背中に回って触りにくることが、逃げることになっており、小さい子たちにとっての立派な鬼ごっこになっているのです。

この身体的な触れ合い遊び、戯れあそびは、子どもたちの心と体を本来のものにしているように思えて仕方がありません。この欲求は相当たいせつな気がします。戯れ遊び、わらべうた、鬼ごっこの3つは、現代の子どもたちにとって真剣に再評価すべき遊びだと思います。スポーツにはいる前に、乳幼児にはこの遊びをたっぷりと味わわせてあげたいものです。

 

 

「ありのまま」の受け止め方について

2022/10/17

「アナ、かわいいね!」って声をかけたら、「ちがう!エルサ!!」っておこられました。

ごっこ遊びの場所には、コスチュームや衣装が置いてあるので、それを来てアナ雪の世界を楽しんでいます。男の子もアナかエルサになったりしています。

こういう失敗が、私の場合、時々あります。この辺りの会話は、キャラクターやジェンダーのテーマとからむので、気を使うのですが、そういうことを考えていると、冒頭のように大事なことをハズしてしまいます。「そこ、はずしたら、ダメじゃん!」のパターンです。

「アナと雪の女王」は先生の女王役が登場したりして、数年前に劇遊びでよく盛り上がりました。そして例の「♪ありの〜ままの〜」が歌われます。思い出すと、懐かしいですね。

当園の保育目標は「自分らしく 意欲的で 思いやりのある子ども」なのですが、昔、タレントの木梨さん(とんねるず)がテレビ番組の収録で保育士の体験に来たことがあって、保育を体験した後の感想で「この保育園なら、うちの子がどんなタイプかわかるなあ」と言っていました。つまり、その子らしさを、そのままま出せる場所だという意味です。そういう感想をもらうと嬉しかったことを思い出します。

また転園してきた子のお母さんが「初めて保育園でトレイできました」と泣かれたことありました。ストレスで頭部に丸い脱毛があった子が、うちにきて治ったりしました。「大声を出しているから声が枯れてしまう」という先生が見学にいらして「ここなら定年まで働けそう」と言われたり。居場所というのは、精神的な安全基地になるということが大きいのでしょう。学校に居場所がないなら、家庭も地域も新しい学校にするといい。ネット技術があるからできるはず。それがソサエティ5・0です。

さまざまな欲求が適切に満たされることで情緒は安定し、エネルギーを補給してもらって、自分から一歩を踏み出したり、歩み始めたり、走り出したりします。そうするスタート地点になれる「場」というのは、鯨岡先生が強調され続けておられるように養護の最も大切な働きです。心の安定した生活にすることが養護ですから、心理的な安全基地、避難場所がどの子にも必要です。大人も持っていますが。

一向に虐待が減らないという話で「安全感の輪」を持ち出すなら、安全基地の方は、何か困った時に戻ってくる場所でもあるので、その場は見通しがよく、動かないことが大事だと言われ、子どもにとっては「あそこに戻ればいい」という見通しが、安心感をもたらします。

でも今度はその輪の右側の方はどう考えましょう。子どもが安全基地から歩み出し、遊び始める場の方です。こちらは遊びや学びの文化的実践の場であってほしい。こちら側を教育の面から見たら、心情や意欲や態度が育ち、学びに向かう体験の場と言ってもいいのでしょう。

「ありのまま」「その子なりの」「自分らしく」といった言葉の後に「〜でいい」がくっつくと、「そうかな?」「ママでいいかしらん?」となるかもしれませんね。もし、何か物足りないような、積極的に感じられないような、それは安全基地の機能、養護の機能だけを感じ取るからでしょうか。

実は、私たち保育者が大事にしている養護は、常に教育と一体なので、養護の場でありながら、同時に子どもは一歩を踏み出す先の空間、もの、事象としての場とコインの裏表のようにセットで考えます。別のモデルですが佐伯さんのドーナッツ理論でいうなら、三人称側の外側との接面も常にある。でないとドーナツの厚みにならない。現実的には共同生活の場である保育園には、たとえ「かけっこ」で尻込みしても「ネット遊び」や「ダンス」や「泳ぎ」や「お絵描き」や「歌」や・・・と、その子の周りには、自分らしさを発揮している子どもたちがいっぱいです。その選択肢が少ないと、みんな同じ活動に向かわされてしまい、子どもに切ない思いをさせてしまいかねません。

子どもと大人が向かい合っている状況の中での「問い」は、大抵の場合、人類の長い子育ての歴史から見たら「例外」です。大人がどう考えるか、謎のように思える問いは、子どもたち同士の関係が豊かにある「場」では、さほど問題になりません。実際には子どもは自分で他の子どもの中へ体験し学び取る力を持っているからです。そんな事例は毎日のように起きています。やってみたくなる選択肢が身近にいくらでもあるし、それぞれに没頭している<本気なモデル>や<魅力的な刺激>がいっぱいあります。子ども同士、集団の中での精神の生態学がもっと語られてほしい。

アフォーダンスの拡張理論ができたら面白いですが、従来の社会構造主義でもいいので、子ども同士にもっと目を向けてほしい。無藤先生がずっとこの分野をていねいに整理なさってこられたところを。集団的敏感性のところを。

どの子にっても、多様な参照・選択・自己決定がしやすいように環境(子どもという人的環境が要)を用意したい。困ってる子どもに、アドバイスをする子どももいます。映画「こどもかいぎ」には、そんな子ども同士の話の場面もあります。タレントの木梨さんは、その多様性が受け入れられていることを感じたそうです。インクルージョンです。

この辺りのことを、「保育所指針の解説書」には保育所の目標のところで、こう書いています。

・・・保育所は、それぞれに特色や保育方針があり、また、施設の規模や地域性などにより、その行う保育の在り様も様々に異なる。しかし、全ての保育所に共通する保育の目標は、保育所保育指針に示されているように、子どもの保育を通して、「子どもが現在を最も良く生き、望ましい未来をつくり出す力の基礎を培う」ことと、入所する子どもの保護者に対し、その援助に当たるということである。

乳幼児期は、生涯にわたる人間形成にとって極めて重要な時期である。 保育所は、この時期の子どもたちの「現在」が、心地よく生き生きと幸せなものとなるとともに、長期的視野をもってその「未来」を見据えた時、生涯にわたる生きる力の基礎が培われることを目標として、保育を行う。その際、子どもの現在のありのままを受け止め、その心の安定を 図りながらきめ細かく対応していくとともに、一人一人の子どもの可能性や育つ力を認め、尊重することが重要である。・・・

このようにして、赤い文字の抽象的な記述のところの意味を、具体的な保育事例を通じて実感していくために、学生たちには実習期間を長くとってあげてほしい。そして「子どもと大人」のセットの保育モデルと保育の心理学の語りから抜け出し、「子どもたち」の中の子どもこそが、本来の子どもがいるべき関係なのだということ、しかも異年齢の生活の方が関係が選択できる仲間関係も豊かになることを訴え続けたいと思います。その子ども同士の関係の中で、子どもの持っている潜在的な力も引き出され、生かされていくことへ、保育の形態を導くべきでしょう。

#アフォーダンス

#生態学的知覚システム

オオタヴィン監督の「いただきます2」をみる

2022/10/16

この映画も早く観たいと思いながら、今日16日(日)やっと実現しました。場所は東京・練馬区の江古田駅近く。この映画も親御さんや保育関係者に広く観てもらいたい。

監督は「夢みる小学校」のオオタヴィン監督です。当園が行う自主上映会での有力候補「ベスト5」入り確実です。保育園でやりたい!と思う内容です。保育園や幼稚園の先生、栄養士さんたちの養成校の学生さんたちにも、ぜひみてもらいたい。トレーラー(予告編)だけでものぞいてみてください。

それから、ふと思った程度なので、どうかわかりませんが、幼児教育と小学校教育の連携は、このような取り組みを地域まるごとやっていく中に、子ども同士の交流もカリキュラム作りも先生の話し合いも、全部入り込んでくるような気がします。言い方に語弊があるといけませんが、橋をかけなければならない川や谷や溝があるのなら、そこをいっそのこと地続きにしましょう。その実践を教材化するとよいでしょう。

例えば、私たちのような就学前なら、この映画に出てくるような体験が色々できます。小学生も生活科、理科、社会、国語、算数、どの教科からも、それぞれの「見方・考え方」による教材化ができます。総合的な学習の時間にはもってこいでしょう。微生物の働きは大学研究でも色々な研究があるでしょうし、SDGSの世界的な諸問題の解決に結びつくものにもなります。実際のところ、本当に世界の大問題ですから。「こどもかいぎ」のテーマにもなりますし、地域でも取り組みたいです。

具体的には保育園の給食の中身や食育活動を、毎日の食事として変えてみる。当園の給食は9月から、砂糖、塩、しょうゆ、味噌などの調味料は全部、自然栽培の物に取り替えました。当園のアドバイザーは自然栽培全国普及協会です。

毎日口にするものから、徐々に変えていくつもりですが、当園のような都市部で自然栽培の食材を給食に取り入れていくためには、あるいは小中学校の給食をこのようなものに変えていくには、経費がかかります。この前、千代田区の樋口区長と立ち話をしたら、保育園の給食一食当たりの単価コストをご存知でした。そこも課題であるという認識をお持ちでした。

ただ、韓国のソウル市が、給食を全て有機肥料にするというのが、話題になってますが、オーガニックならいいというのは大きな間違いで、有機肥料も千差万別。どんな有機かが問題です、特に日本は。結構、タブーも多い。

一方、農薬はもちろん、化学だろうと有機だろうと肥料も使わない良質な自然栽培は、カギが「土」です。それと微生物。そこに辿り着くには、農家はものすごい苦労をして、困難を乗り越えないといけないので、私たちが強力に応援することが不可欠です。映画でも、そのことが描かれていました。

そのためにもコストはかかっても、子どもたちの「給食」の質を上げていく。それを国民を守るための国策として位置付けてもらいたい。まずは、この映画、千代田区の方や議員さんにもみてもらうことにします。

今日の自主映画会を主催した方々といろんな話をしてきました。当園の近くにある食事のお店を紹介してもらったので、忙しい保護者の方のために、そこで夕食用のお弁当を作ってもらえないか、相談してみたいと思います。

 

 

選択・参画・対話のある生活

2022/10/15

セキセイインコの名前が決まったようです。昨日14日は、いもほり遠足があったのですが、保育園の玄関に戻ってくるなり、KAさんが「園長先生、インコの名前決まったよ。いつもチュンチュンってないているから、チュンちゃんなの」と教えてくれました。どうも年長さんたちの間で話し合ったようです。いつどうやって話し合ったのか担任も知らなかったようで、他の子に「チュンになったの?」と聞くと、たとえばKKくんは平然と「そうだよ」と、他の子たちも納得していたそうです。そこで早速、部屋に入る前の掲示ボードに張り出されました。

何かを話し合って決めるという経験の積み重ねは、とても大事なことではないでしょうか。自分の考えや意見を持つこと、それを人に話して伝えること、他の考えや意見があることを知ること、それらを出し合って、比較してみて、どれがいいかを話し合うこと。自分の考えよりも「そっちがいい」、「それでもいい」などに変更修正できることも、大切な力のような気がします。年長さんたちの「自立性」と「協同性」の育ちが、こんな場面にも垣間見えます。

このエピソードについて、主任は「多数決で決めなかったことが嬉しい」と話していました。また「民主主義は多数決で決めることと思っている人が多いから、そうじゃない、ということを、この時期から体験していくことが大事」だとも。全く同感。いろんな意見や考えの違いがあること、自分と他者は色々と違うということが、当たり前のように前提になってもらいたい。違うのが当たり前、だから、そこから合意を得るにはどうする!?ということ。個人としての「自分らしさ」と共同空間としての「思いやり」をつなぐもの。それが選択・参画・対話のある生活づくりです。

 

ダンスによる「からだとことばの協同」

2022/10/14

ダンサーの青木尚哉さんが作ってくださった「わらべうた」は、ダンスをする人たちが輪になって「鬼さん、鬼さん、なにするの?」というと、その輪の中の一人が即興的に「これするの」と言って、「これ」を身体で表します。それを他のみんなが「真似」をして、もう一度「これするの」と繰り返します。

みんな「鬼さん、鬼さん、なにするの?」

鬼役「これするの!」

みんな「これするの!!」

この掛け合いを続けながら、体を動かし続けます。やってみるとわかるのですが、インプロビゼーションで「これ」を思いつくのは、慣れていないと難しいものです。プロのダンサーのその引き出しの多さには驚きます。この「わらべうたダンス」は、私が「鬼ごっこ」と「ダンス」を橋渡しするものを探していた時、児童文化財に「わらべうた」の可能性を発見したことがきっかけです。それを青木さんに伝えると、創作してくださったのが、このダンスです。

青木さんのダンスを見ていると、その周りの世界の全てがダンスを動かしていく要素になっていることに気づきます。例えば9月23日の秋分の日に、海老原商店で開かれた「コンテンポラリーダンス」では、尺八演奏とのコラボダンスでしたが、尺八の奏でる「音」に、身体が即興的に応答・共鳴・反発・融合・・・などしています。実に美しい。音、音色、リズム、無音の空白・・それらをどう受け取るか、そのイメージの差異を身体の動きに転換していく一瞬、一瞬がダンスになっていることがわかります。

周りの世界は、視覚からも聴覚からも、そして気配としての環境も、さらには身体自身が抱えているイメージや感覚さえも、自身のダンスのパラメントになっているかのようです。身体と環境の間の自在性。そこには豊かな相互交流が活発に行われているので、その様相を目の当たりすると、既存の同じ型のあるダンスが非常に陳腐に見えてきます。青木さんのダンスを、親子運動遊びの会でも、皆さんにご覧いただきます。

この感覚を小さいうちから子どもの身体が会得していくなら、かなり豊かな感覚が身体に宿っていくことでしょう。今日14日も青木さんと芝田いづみさんにきていただいてきました。子どもたちは、楽しみにしています。

先日11日、桜美林大学で演劇を教えている先生からこんな感想をいただきました。「すでにせいがのお子さんたちに蓄積れた身体技法に演劇の刺激で新しいからだが生まれたら最高だなと思います」。この先生も運動会(10月22日)にご招待することにしました。

ケアリングとしての命名過程

2022/10/14

相手はどうしてほしいと、思っているのかな? いったい、どんな名前なら喜んでくれるかな? このまなざしがケアリングなんだと気づいたのは、平成20年ごろ。佐伯胖さんがオリヴィア・ベヴィスらの「ケアリングカリキュラム 看護教育の新しいパラダイム」(医学書院)を紹介していた頃から、つまりノディングスのケアリング理論が話題になっていったように、ずっとこのテーマの周辺を歩いてきたような気がします。

子どもたちがセキセイインコに名前をつけてあげたいという話し合いを見ていて、ちょっと口を挟みたくなったのは、子どもたち自身にも、このケアリングのまなざしをセキセイインコにむけて欲しかったからです。

この「まなざし」とは、関心を寄せる相手に入り込めば入り込むほど、その相手がいろんなことを開示してくれる、その相手から伝わってくるものに気づく、という関係になります。一般に、私たちが何かに興味をもつとか、関心を寄せるとか、知ろうとするとか、いろんな共感の仕方や深さがあると思いますが、もっとも深い接近の仕方があるとしたら、あるいは、本当に相手をリスペクトした接し方があるとしたら、それは相手がどうしたいと願っているのかへの配慮でしょう。佐伯先生は聖杯伝説にまで遡ってそれを説明されてきました。私はドラマ「僕らは奇跡でできている」を授業で使ってきました。

私たちは日常、「きっとこうだろう」という配慮を他人にしているつもりでも、本質は「自分がそうしたい」と閃いたから、ただ相手もそうじゃないかとやっているようなことが多いですね。それすらなくて、相手がどうであろうと、教える内容や学ぶべきことが、これこれだから、ちゃんと聞きなさい、みたいになってしまっている教育がなんと多いことでしょう。これは学びと大きくかけ離れたものであり、本来の学びのあり方を探求する中で見出された考え方が、ケアリングでした。

このような考え方に馴染んでくると、相手が人や動物に限らず、植物や物、あるいは「事柄」や、イメージや概念にまで広がっていきます。変な例えかもしれませんが、野菜や果物たちは、本当はそんなふうに成長したくなかったのに、消費者の好みに合わされて、あんなテカテカで甘すぎる「高級商品」にさせられてしまって可哀想。もっと野菜らしく育ってほしい。・・・そんなふうに思えてきます。そういう共感的知性(佐伯胖)を持った大人が増えないと、ケアリングによる教育や医療や農業にはならないだろうな、と思うからです。

それは自分に対してもそう。本当は何をどうしたいと思って生きているのかを探求したい。それが本来的な意味で、子どもと対等な地平に立つことになるでしょう。大人と子どもの差なんて、たかだか20年や30年の年齢差ですからね。先ほどの本を引っ張り出して開いてみたら、こんな言葉に私は線を引いていました。「学習とは、はるか将来のことも含めた『私が真の私に出会う』過程なのである」(グリーネ「教育の展望」)。ちっとも進歩できていない私です。子どもたちが考え始めたセキセイインコの名前ですが、当のセキセイインコが喜んでくれますように。そして、その名前の探求過程そのものが、子どもたちの幸せな生き方を探求する人生の大切な一部となりますように。

セキセイインコとの出会い

2022/10/12

セキセイインコにオヤツをあげると、上手に啄みます。子どもがそうすると「かわいい〜」と、もう夢中です。

何かをやってあげて、それを喜んでくれると、やってあげた方はまた嬉しい。そのやりとりを見ていて、子どもはケアされたがっているだけではなくて、ケアをしたがっていということがよくわかります。

今日12日は「お手伝い保育」を楽しみにしている年長さんたちですが、3階の観察ゾーンに生き物のお世話ができる場が増えました。

知らない生き物と出会うたびに、それをじっと、よく見ようとします。と同時に触りたがります。子どもにとって対象を理解するということは、頭でわかるのではなく、感覚で取り込もうとします。なので「触ってみたい!」「だっこしてみたい!」と言っていました。

初めてものへの接し方、近づき方も色々です。エルサになっている子は、魔法の杖を鳥籠の上をクルクルと回してみて様子を見ようとします。インコが怖がることを教えてあげますが面白いから続けてしまいます。インコは新しい場所で緊張しているでしょうし、ストレスもあるので、大人はそんなケアを優先します。動物が「嫌がっているよ」、「怖がっているよ」は、伝えてあげます。子ども同士のトラブル場面とも似ています。

そのあと、段々といろんな興味が湧いてくるようで、子どもたちは何を食べるんだろう?水飲むかな?(毛繕いをみて)痒いのかな?このおもちゃで遊ぶかな?・・と「?」がいっぱいになります。

大人はつい、どうしたらいいのかを知っているので、いろんなことを先回りしがちなのですが、こんな時にも、動物にとって過剰なストレスになったり、けがをしたりしない限り、子どものペースで出会わせてあげたい、と思います。

子どもの姿をアート作品としてみる

2022/10/11

今日は見学に来られた大学の先生と、子どもの動きをアートとして観てみました。その先生と一緒に保育室を見てまわりながら、気づきました。子どもの姿や行動を「アート作品」のように鑑賞することができることに。ただ、その作品はその瞬間に生起して消えてしまうものなので、この場(言葉を連ねて写真や動画を添えるメディア空間)に再現させることはできません。ただ、私に印象として残っている記憶を頼りに、言葉でリプレゼンテーションしてみます。

少し静かなところで話をしたくなって、3階のパズルゾーンのところから、吸音効果の高い運動ゾーンに移動して、見学者の方と「演劇」について話していた時です。3歳児クラスのKSくんがネットにぶら下がって遊び始めました。時刻は朝9時35分。遊びを終えて2階で朝のお集まりに移るタイミングの時でした。私がいるので、ネットに登り始めたのですが、もし私が「今はそれをやる時間じゃないよ」みたいなことを言う先生だったら、きっとネットに登り始めることはないかもしれません。でも私がそんなことを言う人ではないことを彼は知っているので、ネットに寝そべって、私たちの演劇論に耳を傾けています。

私たちが、どんな話をしていたのかというと、「子どもが、こうやってネットで揺れている動きは、これもダンスと言えるかもしれませんよね。地面の上で踊る姿を見て、それをダンスと思うことは難しくない。でも、こうやってネットの上で揺れている姿は、ダンスじゃないのか? ダンスは自分の身体と周囲の環境との対話のようなものなので、例えばこの子は今、なぜネットに登り始めたのかを考えると、ネットという物的、空間的な環境がもつアフォーダンスが、その子にぶら下がることを引き寄せたという要素もあるでしょうね。

あれ、私の方へ寄ってきました。・・・(子どもと会話を交わす)・・・こんなふうに私がお客さんと話をしているという状況が、彼の興味を引き出したとも言えるから、彼の身体と環境と意識とが、一つの動きを生み出したわけですよね、例えば、いま起きたことを、何かのコンセプトで切り取ってフレームにはめて作品らしく見せることができてしまう。それを演劇にすることも可能かもしれない」・・といったことを話していました。

先週のことですが、入園先を探すために来られた見学者に、YSくんがネット遊びを見せてくたときがあります。その時のネットへの登り方がアクロバティックで、「こんな登り方があるんだ!」とびっくりしました。彼らなりに、登上ルートを開拓しているのです。これもわかりやすい技、アートです。うちの子どもたちは、身体がネットにとても馴染んでいます。難なくネットを自分のものにしているスパイダーだちです。そう思うと、技の洗練というものがアートの美の探求に近いのかもしれません。作品がどうこういうよりも、それを生み出す子どもの身体そのものがアーティスティックになることが大事なのかもしれません。それを突き詰めると、これからの時代を捉えるために、一つの方向として「人間は生まれながらのサイボーグである」(アンディ・クラーク)のようなテーマになっても面白いですね。

例えば、この冒頭の写真に「子どもはサイボーグである」と言う題名を付けることもできるでしょう。その説明はこうです。「人間は生物と非生物の間にまたがる認知体である。服を着て、靴を履き、帽子を被る。すでに人間は自然と人工のハイブリッド体と言ってもよい。子どもがネットに登り座りぶら下がるとき、運動をしているのではない。手足はネットと融合していくサイボーグとなり、子どもはアート(技)と共生し始めているのである」といった具合。

こちらは子どもの作品「ブドウ」です。こちらの話はわかりやすい。

でも、このように技(アート)の結果として制作物が作品になったものを通じて、私たちは、身体の機能の発達に目を向けがちなのかもしれません。またダンスや演劇も、身体がもの語る何か、メッセージに目が向きがちかもしれません。

そうではなくて、身体が持つ自然と非自然の重なり具合、その接面で動くものをアーティフィシャル(技能)と定義していたことを思い出したいのです。美術としてのアートではありません。藤森先生は「STEAMの中にARTが入るのはおかしい。アートは他のもの全部に必要なんだから」と喝破されているのです。科学にも技術にも工学にも数学にも、アートは含まれているからです。

なんでも遊び、運動などの粗雑な用語で括ってしまうのではなくて、どんな「視座」を持ち込むと、広がりや深さやコアな何かに気づけるのか、科学者やアーティストと協働すると、ものの見方・考え方が揺さぶられて面白いのです。

私たちはどこにつながっている(所属している)の?

2022/10/10

自分についてのいろんな<理由>を考え始めると、それは、すぐに「テツガク」になります。テツガクが好きでも嫌いでも、何のために?や、どこから来たの?や、自分はいったい何の一部なの?とか考えだすと、きっと答えのない永遠の謎に引き込まれてしまいそうです。でも、それを考えることが、明るい未来につながっていくとしたら? あるいは、それを考えることが、過去と未来をつなぐ何かになるとしたら、誰だって考え始めたくなるのでは、ないでしょうか。子どもの未来を考えることを仕事としている人なら、なおさら、かもしれません。

ちょうど10日前に映画「夢みる小学校」を観て、翌日に実際にその小中学校へ行ってから、そのような子どもたちの暮らしの場を作り出すことは、大人の責任だと強く感じるようになっています。この感覚は、私の中に眠っていた何かを呼び覚まし、自分が自分であることの<理由>とつながっている安心感さえ感じます。そうすることが、大事だとか重要だということでもあるのですが、それよりも、自然と調和しているように感じるのです。今日は映画「ベルファスト」をみて、なんだか、それがもっと強くなってしまいました。

どんなものに、それを感じるのかというと、辻信一さんの話の中にあった「ハチドリのひとしすく」や、自然栽培のレジェンド高橋博さんが育てている大根にそれを感じます。あるいは絵本「ぐりとぐら」が誕生するきっかけとなった、ホットケーキ作りのエピソードや、中川李枝子さんが保育士として過ごした「みどり保育園」の子どもたちのエピソードにも同じものを感じます。彼ら彼女らがやっていることは、それを続けていることと同じ<理由>です。それらは、いずれも大いなる自然の連鎖や営みとシンクロしているという安心感を感じるのです。

さらにいうと、それは本来、私たちがいた場所への回帰なのかもしれません。私たちが所属しているもの。私たちがいた場所。本来そこからきて、そこへ帰る場所。私は千代田せいが保育園とその家族で作る空間を、子どもたちの幼少期の居場所として、そんな場所にしてあげたいと願っているのです。私たちが所属する世界が未来につながっていく場所でありますように。

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