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園長の日記

あたらしい保育イニシアチブ2022「対話をはじめよう」

2022/08/21

これからの保育を語り合うシンポジウムが21日(日)東大で開かれ、1時間のメイン会議に参加してきました。テーマは「子どもたちと未来をつくる〜映画「こどもかいぎ」公開の寄せて〜」で、登壇者は映画監督の豪田トモさん、玉川大学の大豆生田啓友さん、みんなのみらいをつくる保育園東雲の成川宏子園長先生、モデレーターは認定NPO法人フローレスの駒崎弘樹さん。私の話は「こどもかいぎ」を実践したきっかけ、印象に残っているエピソード、子どもや先生が感じたメリット、そして大人も子どものように本音で自由に対話するにはどうしたらいいか、についてです。

今日までに豪田監督は映画をみた保育関係者や研究者、クリエーター、起業家、アーチストなどと対話を重ねてきており、たくさんの動画が配信されてきました。内閣府や厚労省も「こどもかいぎ」を重視してきており、これからの教育や保育の仕組みに入っていくことを、今回のイベントの実行委員会は期待しています。その趣旨に賛同した方々のボランティアで成立した今回のイベントですが、多くの保育関係者、園長以上の経営者が東大に集まり、3会場で10のセッションが展開されました。

私は5分間が2回、合わせて10分ほどの時間で、次のようなことを述べました。「こどもかいぎ」などでの対話は会話と異なり「人と向かい合う関係」になっていること。ちゃんと人と向かい合うことが対話であること。それが成立するために赤ちゃんの頃からの「声」を大人がちゃんと「聞く」こと、つまりそれに応答することが、子どもが人への信頼を獲得するベースになること。それはアタッチメントでもあること。それは大人も同じで、自由に語り合えるためには安心して話を聞いてもらえる信頼の場を作ること、日本人はたぶんリスク込みの他者への信頼力が弱いので、子どもの頃から話を聞いてもらうことの積み重ねが重要な鍵になること、などを伝えました。

このようなことが「こども」を真ん中にした世界を作るための条件のようなものであり、かいぎだけを開けばいいものでもないことはもちろんそうなので、どのようなことが大事なのかを考えていきたいと思います。

3年後の「こどもかいぎ」

2022/08/20

映画「こどもかいぎ」に出演していたこどもたちが、いまは小学校4年生になっているのですが、その子たちが再開して、ふたたび「こどもかいぎ」を開いています。その子たちはほぼ同じ小学校に通っているので、普段から会っている間柄とはいえ、改めて「対話」してみると新鮮だったようです。私も彼らのこの3年間の間の成長ぶりに驚かされました。

この「コロナ禍の子どもたちにホンネを聞いてみた」の収録は、第7波の頃なのですが、また子どもから見えている「大人」の姿とはこうなんだな、ということにも気付かされます。また、子どもの伝え合う力の成長を感じます。毎年でも半年に1回でもいいので、このような話し合い、対話を小学校、中学校、高校と継続してやっていける場は、今の日本の教育の中に、どうしても必要です。おとなもこのような場に率先して参加していくようになるといいですね。

制作遊びの中の道具

2022/08/19

幼児たちの「制作遊び」をみていると、何かを作るためのスキルが身につくと、それをいろんなところに応用して使いこなすことができるようになっていくことがわかります。ハサミの使い方、セロテープの切り方、糊の付け方、折り紙や画用紙の扱い方、色鉛筆の使い方やけづり方など、習熟していくのがみて取れます。

このようはスキルはどのような種類のものをどの程度扱うといいのでしょう。色々なものがたくさんあるので、広げていくとキリがないでしょうが、判断の基準は2種類ほどあるような気がします。一つは大抵の家にあって、日常生活の中で使われているもの。これは時代と共に消え去ったり、新しく登場したりしますが、それは仕方がないでしょう。これからは、このツール(道具)の中に、タブレットを入れていくことになります。

もう一つの判断の基準は、その道具の成り立ち、仕組みが子どもに理解できるもの、です。複雑すぎたり、操作や仕組みの過程がわからないものは、幼児の操作活動の中に取り入れても、意味ある体験になりにくいでしょう。仕組みがわからないブラックボックスだと、「どんな風にしてそうなるのか」に関心の向きようがないでしょう。そう考えると、調理道具や、工具などは子どもと一緒に体験した方がいいものです。ボールの中で何かを混ぜる、包丁で野菜を切る、うどん粉をこねる、シェイクしてチーズを作る・・・など。また工具ではシンプルに釘と金づち、万力、ノコギリ、ドライバーなどもいいでしょう。

ものとものが、どんな形や力を加えると、こうなっていく、というプロセスを体験していくことは、暗黙のうちに幾何学や物理学を学んでいることになります。概念としての用語を後で学ぶことで、「明確で確かな理解」につながっていくでしょう。

「他者と出会う」ための信頼とは?

2022/08/18

わらす(3〜5歳)の制作遊びが活発です。昨日のクラスブログにもありましたが、やりたいごっこ遊びで使うものを制作しています。その集中ぶりに接すると、私は嬉しくなりました。制作ゾーンのテーブルでは足りず、ゲームゾーンでも制作しています。今日はそこで、ホールケーキを作ってました。かなり本格的です。昨日はカップケーキでしたから、スイーツが続きますね。ジュースもあります。このケーキ店は人気になりそうです。楽しみ。

さて、例によって「信頼と対話」の視点で今日の遊びを見つめてみましょう。この制作過程には、あまり「対話」はなさそうに見えますが、自分がやりたいことを実現させるために、折り紙、のり、セロテープなどの物との「対話」が盛んになされています。声の出る「言葉」ではない、モノとのやりとりは、ふつうは「対話」とは言わないのでしょうが、「こうしてみたら、こうなった」、とか「じゃあ、こうしてみたらどうなるだろう」とやってみるのは、モノからの応答もあるので、意図したことの働きかけによって、モノは変化し反応するので、これは広い意味でのコミュニケーションになっています。

モノが応答する、と言っても、モノからの応答は人のような手加減はなく、正確な働きかけをしなければ、期待したようには応答してくれません。でも正しく働き続ける限り、必ず同じように生真面目に反応してくれるのがモノです。人のような、気まぐれでムラのあるバラバラの対応にはなりません。なんと頼り甲斐のある、確実な相手なんでしょう。ここには、こうすればこうなるという、確かな信頼が成立していきます。こうやって作れば、カップケーキやホールケーキがゲットできるという確かな結果の見通し、約束を違わない、正直な他者がいてくれるのです。

それに比べて、私なんて当てになりません(笑)。そう言えばさっき、年長のOSさんにおこられました。「今日(こそ)は、ちゃんと園長ライオンやってよぉ〜」と。「わかった、やろう、やろう」と言いながら「ごめんね、今日も時間がないんだよ」と謝ってばかりで。やっぱり、なんど言っても当てにならない私のようはヒト相手の「対話」より、おもちゃやゲームや絵本などのモノ相手のほうが信頼できるというものかもしれません。それならヒトは子どもに愛想つかれる前に、ちゃんと約束は守れるようにしないといけないですね。そうしないと、ヒトがモノであるロボットやAIやアバターに乗っ取られてしまうかもしれません。

期待した通りに他者から何か反応が戻ってくることが、他者への信頼を得ていくのだとしたら、それはヒトに対してもモノに対しても同じように言えるでしょうか? そこは違いますよね。ヒトとしての「他者」には、決して分かり合えない他者性というものが厳然としてあります。しかしモノには、そういう意味の他者性はありません。モノを信頼することとヒトを信頼することは、その信頼の意味が180度違うのです。どう違うか?それは最終的には決して分かり合えない他者性というものを前提に人間関係は成立していくようにしていくのですが、モノにはそのような、分かり合えない他者性などはもともとないからです。

分かり合えない他者だからこそ、分かり合えることへの希望を持ち続けることが生きることだと考えるなら、こどもかいぎやサークル対話は、わかりあえない他者との出会いを学ぶ機会になっていくのでしょう。

 

信頼と対話を促す場のデザインとは

2022/08/17

保育の質を考えることは、人間の成長の時間を遡っていくことになります。源流はどこだ?起点はどこだ?と、遡っていくことが、発達を考えるときのパターンの一つです。だから乳幼児時期を、世界の発達研究者たちは見つめてきました。人が人を信頼する力や、人と人が対話をする力の原点はどこにあるんだろうと考えてみると、やはり、他の発達課題と同じように乳幼児期に遡って行くしかないのでしょうか? 信頼と対話という、人と人をつなぐ絆について考えるときも、同じような筋道を見つけようとすることになります。

ところが、川上に向かって遡っていくと、大抵は枝分かれした支流にいくつも出遇うことになり、一つひとつの支流がまた分岐して枝分かれして、まるで茎から地下深く伸びて広がる「根」のような構造になっていることに気づきます。どこが本流で支流かもわかりません。リゾーム状に広がるネットワークの中で、どのように信頼の芽がふき出し、そして相手と向かい合うことのできる対話を作り出せるようになるのか、人間関係の発達の姿を描き出し、その起点を見出す探求に限りはありません。

個人の発達の問題に還元するのではなくて、人と人の関係そのものがどのように変化したり発達したりしていくのか、それを考えるのが面白いのですが、この夏、あることに気づきました。それは映画「こどもかいぎ」の上映や、最近保育園で流行っている「サークルタイム」や「一円対話」が、関係の発達を促す有力な人的環境の一つになりうるだろうということです。しかも、そこにはよりよい関係のデザインがあるはずです。では、それはどんなものなのでしょう?

 

信頼と対話の起点を探しながら

2022/08/16

対話を重ねていくと信頼が生まれるというのは、本当でしょうか? 信頼できる関係があったから対話ができたんじゃないでしょうか? お互いに歩み寄りたいという関係があったから対話が成立していき、信頼も生まれていったんじゃないでしょうか? 誰とでも対話を重ねていくことで関係が良くなるというのは楽観的すぎるし、事実、そうじゃないことが現実には多いんじゃないですか? 対話と信頼の関係は双方向の要因が絡み合っている気がします。

ーーーという反論が聞こえてきそうなのです。その通りです。信頼と対話は、対話と信頼ではなく、最初が信頼なんですね、きっと。そう思います。昨日15日の終戦記念日に、靖国神社の近くを歩いていたら、右翼と左翼の怒鳴り合いが大きな拡声器ごしに聞こえてきました。大の大人が罵り合っていました。この溝は深くて大きい。誰かが仲介して向かい合う関係になりそうな気配は、1ミリも感じることはできません。信じるものが違うと、これほどの敵意と罵倒が剥き出しにされてしまうものなのですね。

しかし、それでも対話から始めるしかないのです、そう思います。世の中は呼べば答えてくれる、応答してくれるという自己の生命(いのち)=生に対する拠り所は、本人が忘れてしまっているわけですが、乳児期の在り方にあります。それがのちの人格や資質に大きく影響しているからです。大人になった本人は社会やイデオロギーや価値観の問題だと思っているかもしれませんが、人を信頼したり共感したりできるかどうかが、対話を成り立たせるためにも不可欠なものだと思います。論理や行動で優越を競うようになる前に、お互いに人間であることへの共感をリスペクトし合うことができるための営みが必要です。

対話のありよう、そこで語られる言葉のありようについて、もっともっと想像力を豊かにしていくことが政治を語る時にも不可欠な気がしてなりません。対話が成立するためには、他者に尊厳性を感じることができる人間性、その精神性の開発が急務だと思います。8月15日に考える、未来の平和のためには、そこを起点に思考を巡らせたいものです。

人ときちんと向かい合うこと

2022/08/15

「じゃあ、あなたは、私のこと、ちゃんと向かい合ってくれたの?」。もし大事な人から、こんな言葉を言われたら、どうしますか? 重い言葉だし、真剣さを求められる言葉ですが、人と関わる上で大切ことであることは間違いないでしょう。

特に好きな人との関係において「向かい合う」という意味は、広くて深いものです。小説や映画には、恋愛関係をめぐって、このような対話が登場する場面がよくあります。相手に正面から向かい合うということは、誠実さや親切さ、真心を持って接するといったこととも響き合うものだと思います。特に愛の証として、心の態度を示す言葉がちゃんと向かい合うと言う表現になることがよくあります。

会話と対話の違いについて考えることが最近増えました。誰かと会えば、挨拶にしても雑談にしても、すぐに会話が始まります。言葉は人との人の間の潤滑油のように使われることも多いのですが、そういうものではなくて、大事している思いや切実なことなどを伝えたい、分かち合いたいというときに紡ぎ出される言葉のやりとりは「対話」と言った方がいいものになるでしょう。

親子で交わす話は会話でしょうか、それとも対話でしょうか。親子の会話?、それとも親子の対話? たぶん、想像ですが、親子の会話といった方がいいことが多いのではないでしょうか。では子どもたちにもそんな違いがあるだろうかと、遊んでいる様子を見ていると、その違いが見えてきました。

たとえば、何かの話し合いが始まる時です。今日15日はこんな場面がありました。運動ゾーンは人数が多いと遊びにくいので、その時間はすいすいタイム(年長さんだけの時間)として人数が制限されていました。

ところが、らんらん(4歳児クラス)のIHさんが「入れて」と頼んでいます。最初は「だめだよ、今はすいすいタイムだから」と拒んでいた年長さんでしたが、どうしてもやりたいと交渉して、ネットではなく下の空間なら遊んでいい、ということになりました。そのやりとりを見ていると、子どもたちは何かを決める時、とても真剣です。だからこそ、時にはケンカにもなるのですが、その「対話」の積み重ねは、集団で生活していると、いろんな場面で発生します。

それをさらに「対話」がじっくりと、できるように場所を設定したものがピーステーブルという空間です。そこでは、その都度、起きる会話にしても対話にしても、その場では深まらない時、相手の意見や考えをきちんと聞き、また自分の意見や思いをしっかり述べていいという体験を保障するための空間です。

「対話」専門ゾーンといってもいいでしょう。このようなちょっと改まった空間を設けることは、大事なことです。そして対話が複数で行われるとき、輪になって行えば「サークル対話で」すし、大人なら座談会やシンポジウムということでしょうか。その時の空間のデザイン次第で、引き出される対話の内容も質も方向性も変わってくるように思えます。

生活の中に対話のある生活を意識すると、それはちゃんと向かい合う関係を作り出し、大切にする心も引き出されてくるのかもしれません。向かい合う対話を積み重ねて初めて、信頼というものが芽生えると私は思っています。そうなので、私は園長になった年から、先生たちには必ず「信頼と対話」ということをモットーに掲げ、大切にしています。会話ではなくて対話のある生活が、生きていく情熱も生み出していくような気がしますが、いかがでしょうか?

延期した納涼会は9月10日で調整

2022/08/15

延期となった7月の納涼会は9月10日(土)に開きたいーー今日15日(月)に、そのお知らせをアプリで発信させてもらいました。時間帯は同じで、同日に予定していた「一日保育士デイ」は順延します。この日に都合が合わない方もいらっしゃると思いますので、その日の参加ができなくても、平日の夕方などのお迎え時に同じ体験ができるように工夫したいと考えています。何度も勤務調整をお願いすることになり、申し訳ありません。

第1グループ(9:30~10:00)

第2グループ(10:10~10:40)

第3グループ(10:50~11:20)

第4グループ(11:30~12:00)

第5グループ(12:10~12:40)

 

安全でおいしい食を求めて

2022/08/13

子どもたちにより「安全」で「美味しい」食べものを提供しようと、藤森平司省我会理事長は、園長を努めている新宿せいが子ども園(新宿区・高田馬場)で、秋から保護者向けの弁当や冷凍食品の販売を始めます。今日13日は午前中にそのお披露目会が開かれたので、海老原商店の海老原さんと記念イベントに参加してきました。弁当や冷凍食品は、無農薬で徹底した有機にこだわった野菜や肉などを使ったもの。調理はイタリアレストラン「エン」(新宿・高田馬場)で作られたものになります。ネットで注文しておけば、保育園のお迎えの時にピックアックして持ち帰ることができます。

日本の食材の安全性については、農薬や保存料などの添加物、遺伝子組み換えや、牛や鶏が食べている飼料、さらに動物福祉といった観点から見たときに、日本の基準は国際的にみて「ゆるく」て、不安視されているといっていいでしょう。また有機と書いてあっても、そのレベルはまちまちです。農薬を使っていても、有機肥料を使えば「有機」と名乗ることができるので、そこに線引きの難しさがつきまとうといった問題もあるそうです。

そこで、その分野の専門家たちから評価を得ている食材を給食で使いたい。私はずっとそう思っていたのですが、一定の量を献立スケジュールに合わせて納品してくれる卸ルートはなかなかありません。これからの食の質を考えると、学校給食で実現できるような、農家や畜産家と協働できる仕組みがどうしても必要です。新宿せいがでも、そこはまだできませんが、そこまで辿り着きたいと考えています。

そこで、一時保育室のある新宿せいがでは、その場所に飲食のできるカウンタースペースを設け、送り迎えの際に注文しておいた惣菜サラダや肉料理、あるいは調理済み冷凍食品などを受け取ることができるようにしました。決済はネットで済ませます。いま冷凍技術の進歩はめざましく、食材の良さを損なわずに保存できるようになってきました。地下鉄などの出入り口にも、よく見かけるようになりました。イタリアレストラン「エン」では、最新の冷凍機材を導入してすでに販売を始めています。それをこの場所に運んできます。園にも近々冷凍庫を導入します。

この試みはぜひ成功させ、千代田でも給食での実施、家庭での入手、レシピ提供、夜ご飯の時短、安全な食、フードロスの軽減などに協力していきたいと思います。海老原商店とのコラボで何かができないか、その第一歩の準備を始めます。関心のある方はぜひ、お声かけください。新宿せいが見学会も計画したいと思います。

 

子ども同士は「つっかえ棒」同士

2022/08/12

明日やってくる台風に備えるために、屋上のネットをたたみました。その時、ついでに雑草を抜いていたら、朝顔のツルがクルクルと巻き付いていたので、抜かずにそのままにしてあげたのですが、この朝顔の「つっかえ棒」に相当するものが、保育環境と同じだな、と思います。朝顔のつるは、くるくると回りながら、周囲に捕まるものがないかと探し、それを見つけるとしがみつきます。人間が育つときにも、周囲に人を探し、身近な大人を相手にしながら育っていきます。でも保育園での子どものありようをずっと見てきた立場からすると、どうもその「つっかえ棒」に相当する周囲の人は、大人だけはなくて、「子ども」もそうじゃないかと思えます。

今日12日も、保育では「人との関わり」を大切にする、という話の続きです。7月中旬から8月初旬にかけて、保育室の環境を変えたことから、いろんなことに気づくのですが、今日感じたのは「しつけ」も子どもがやっている、ということです。しつけというのは、大人がやるものだと多くの大人は思っているのですが、そうじゃないかもしれません。子ども自身が「人と関わる」ための資質をもって生まれてくるわけですから、子どもたちはすでに育ちの方向性を持っています。

私たち保育士は「しつけ」という言葉を聞くと、漢字で書く「躾」というイメージと、裁縫でいう仕付け糸の「仕付け」という意味の二つを学ぶ機会があります。前者が方向ずけに「美」というゴールイメージを持たせていること、後者が仕付け糸は緩やかに「あそび」を持たせて縫うガイドラインのような働きをしながら、その方に向かって本縫いがしやすいようにするためのもの、という意味が含まれます。どちらがどうかという話はここではしませんが、いずれにしても社会が期待する姿になってもらうための方向づけが意味されています。

ところが、保育園で子どもが過ごしている時間のうち、その多くは子ども同士で遊んでいるのですが、そこでは大人が指し示す「しつけ」の方向性は、それほど目立ちません。まるで朝顔の「つっかえ棒」のように、環境そのものが「しつけ」の役割になっていたり、子どもが子どもの「つっかえ棒」だったり、しています。そこではもやは「遊び」だけではなくて「生きている時間そのもの」という状態です。

写真は3歳児わいわい組、4歳児らんらん組の子どもたち4人が、神経衰弱のカードゲーム「メモリー」で遊んでいるところです。「(次は)Uちゃんだよ」と順番を教えたり、これだよと人に教えようとする子に「言っちゃダメ」と言ったり、ルールのある遊びをしていると、そのルールの伝え合いが「つっかえ棒」であったり「しつけ」のガイドラインであったりしています。そこには人と関わるための言葉のやりとり、相手の意図の理解や自分の意見の主張、公正さや公平な感覚なども学んでいます。

そのような時間の中に分け入ってみれば、子どもが経験していることは、とても複雑な要素が絡み合ってできていることがわかります。ただ、その絡まり具合は、もつれてしまってはいません。大抵は大人が間に入って解くこともあるのですが、子ども同士の方が解き方も上手になっていきます。裁縫の糸が絡まるのは、誰から強く引っ張ったりしてしまうからです。もつれた糸の塊を解くのは大変です。セイタカアワダチソウをつっかえ棒にして伸びていく朝顔のツルを外すのは無理です。すでに成長の一部になっています。

そう考えると、子どもたちの成長過程から、子ども同士の関係を取り除くことは、子どもたちの存在の在り方そのものを壊すことに近いのかもしれません。仕付け糸は本縫いの後で抜かれるので、消えてしまいます。確かに成長してしまうと無くなるのです。それはまるで蝉の抜け殻のようです。でも、つっかえ棒は花が咲き実が地面に落ちて枯れるまで、つっかえ棒のままです。子どもがお互いを必要としながら、自らを支え合っていく関係、その関係が育っていく姿に成長が見られるから面白いと思います。

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