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園長の日記

自立の姿(その9)あいさつ

2022/03/09

本来のあいさつというものは、心のこもった言葉が交わされる繋がりを、浮き彫りにしたり、ないと困る心情なのに、本当はそうではないのにあることにするためだったり、あからさまにしないための方便であったりと、人間が編み出したうまい知恵のように思えます。ただ、好ましい挨拶は、それが嬉しくてその気持ちを再確認するような心の働きをもつ場合でしょう。

次のエピソードは、一度話したことがあるのですが、藤森統括園長が誕生日のお祝いに、園児から紙で作った紅白饅頭をもらった時の話です。「わあ、ありがとう」とお礼を言ったそうですが、その園児はしばらくして戻ってきて「あれ、嬉しかった?」ともう一度聴きに来たそうです。「ああ、そりゃ、嬉しかったよ」と藤森先生は答えたそうです。

このエピソードは私にとって、忘れられない、いい話だと思います。私はこのように感じています。その子は、最初に藤森先生に「ありがとう」と言われて、嬉しかったのでしょう。プレゼントはもらったら嬉しいわけですが、この場合「ありがとう」と言われたことが「嬉しかった」のではないでしょうか。ですから、その子は、自分に沸き起こった「嬉しさ」を感じていて、プレゼントをもらった藤森先生にも、その気持ちを確かめたくなった、のではないでしょうか。この心の通いあいを確かめたい、味わいたいという子どもの心の動きが生まれたは、とても大切な体験だと思うのです。

私は次のような話を毎年学生に必ず話します。「ごめんねは魔法の言葉」という話です。どうして「ごめんね」が魔法の言葉かというと、それを言って謝ると「いいよ」って許してもらえるからです。よくないことをしたら、ごめんなさい、と自分の子どもは素直に謝れる子どもになってほしいと、多くの親は願うでしょう。それなので、大人は子どもが悪かったら「ごめんねは?」と謝らせるのでしょう。

しかし、この話の次に、こういうのです。「ごめんは魔法の言葉にしてはいけません」と。悪いことをしたら「ごめんねを言いなさい」と、やり続けると、こんなことが起きかねません。実際にあったことですが、友達が作った積み木を間違えて壊してしまい、その子はすぐに「ごめん」と謝りました。しかし、やられた方はいいよ、と許せません。せっかく作ったものが台無しになったからです。すると「ごめん」が何度も繰り返されて、最後には謝っていた方が「なんで、いいよって言わないんだよ」と怒り出しました。

ごめん、と謝ればいいんだという方法だけが、その子どもには習慣になってしまったのでしょう。呪文のようの唱えることがごめん、という使われ方になったのです。ここで立ち返りたいのは、謝るというのは、本当に「ああ、悪かったなあ」という気持ちがこもっているかどうかが問題なのです。心のこもった「ごめんね」かどうか。それが「許し」を促すからです。これを心の通いあい、というのです。謝罪における心の通わせ方の基本です。これは最初のお礼「ありがとう」にしても、感謝の「ありがとう」にしても、言われた方が、心が温かくなります。

つい今さっき、和泉小学校へ4月に入学する子どもたちを連れて行ったのですが、昼食の時にTHくんから「今日楽しかった、ありがとう」と言われました。卒園した1年生が5人いるのですが、再会できたからです。その子は、その言葉が自然に出てくるようになっているので、素晴らしいと思います。そばで聞いていた千代田小にいく予定の子たちは「えー、いいなあ」と、本当に羨ましいようでした。その一言を聞くと別の機会に連れて行ってあげたいと思ったのでした。

人は人と関わり合うことを本質に持っている生き物です。面白いのは、かかわりあいや、一緒にいることや助け合うこと、心を通わせることをこんなに真剣に求めあう存在なのに、その一方では、一人ひとりが全く異なるものを携えて生きてきたし、生きていく存在だという、この2面性があることです。分かりあうことを真剣に求めていながら、分かり合えないこともあることを認めなければならないような、そんな矛盾した世界の中で、誰もが真剣に生きています。

社会的な生き物でありながら、人間だけがもつ個人の奥深さという、この2面性の中で、その接点を常に確認し合う営みが「あいさつ」なのです。ですから、挨拶というのは、挨拶を必要とする関係から挨拶を必要としない関係まで、実に幅広い人間的繋がりのスペクトラムの帯の中で、それにふさわしい形というものを取ります。挨拶にこれが正解というものはなく、そこに込められた心情や気持ちを大切にする中から、生まれた知恵のようなものでしょう。

出会いの挨拶、別れの挨拶、セレモニーの挨拶、政治家の挨拶、市井の人々の日常の挨拶、いろいろな挨拶というものがありますね。それぞれに意味や歴史や彩りが異なり、それぞれに期待されている役割があります。小さい子どもたちにとって、大切にしたいことは、あくまでも気持ちの通いあいが「嬉しい」と思えるような体験になることです。

毎日、その都度、必要な時に使うもの挨拶です。いま、外遊びから帰ってきた子どもたちが「ただいま〜」と元気な声で<楽しかったあ〜>という気持ちを伝えてくれます。誰もいないのかな、と思っていた場所で「ばあ〜」と私を驚かして喜ぶような朝の挨拶もあります。あるいは「私がここにいるよ、気づいて」というサインのような挨拶もあれば、いつまでも深々と頭を上げずに、そこにはこぼれた涙しか跡に残さないような挨拶もあるでしょう。

あいさつは「こんにちは」「おはようございます」と挨拶することで、私はあなたに心を開いていますよ、身近な人だと思っていますよ、という確認なのでしょう。挨拶をしたい相手や場面や状況に応じて、あいさつが生まれたり、なくなったりします。挨拶というのは、それによって相手との関係が見えてくるものだからです。

その判断は多様な経験の中で、ふさわしい形を編み出した方がいいのですが、学校や町会などが行う「あいさつ運動」という場合の、あいさつは「ここには自然発生的に生まれる挨拶がないので、することにします」と宣言しているように見えます。いかに心を通わせる空気がなくなってしまったのか証明しているように見えます。あれをやってしまうと、挨拶がもつ本来の多様性や歴史や意味あいが漂白されてしまいます。人間関係が希薄になって心を通わせることが難しくなった時代を自ら覆い隠すために行っているということさえ、気づけない鈍感な人間関係を蔓延させてしまうのです。

子育てで大事な挨拶の姿は、大人同士が気持ち良く心を通わせているかどうかです。クレーマーにはきっと挨拶がありません。一方的ですから。大人同士が楽しそうに心を通わせている関係を見ると、その空気の中で子どもは安心して心を許し、素敵な挨拶を示してくれるようになります。やらされている挨拶は痛々しい。そのさせる力がなくなったら、きっとしなくなるものだからです。先にあるのは心と心のつながりなのです。保育はそれを守り、育てる営みです。

 

自立の姿(その8)身近なものの扱い

2022/03/08

「身近なものの扱い」の自立の姿は「社会の変化で変わる生活スキルの基礎を模倣を通じて学ぶこと」ということになります。

ちょっとだけ、人間と環境の関係の本質について説明しておきます。

人間は周りの環境世界から、自分にとって気に入るもの、自分を惹きつけるもの、有用なものを取り入れようとします。世界は自分にとってどうあるのかこそ、生存を左右しかねないテーマになるからです。そういう意味では、発達というのは、子どもが事物を見たり触ったりしながら、自分にとって気に入った心地よいもの、有用なものを引き寄せながら、自分の生活圏の中に「あるもの」を取り込んでいくことでもあります。

事物は子どもにとって、どのような姿を見せてくれるのでしょうか。それを探り当てながら、その事物そのものが伝えてくるものを、子どもは受け取っています。心地よいこと自体に意味があるのではなく、それを与えるにふさわしい性格がその事物に備わっていると言う事が大事なのです。

また、身の回りの「もの」のそれぞれについて、子どもはその用途や目的を理解することで、その扱い方を覚えます。その用途の目的と「もの」の概念はセットです。例えば、ここにコップがあります。初めてコップを見た子どもは、その用途をまだ知りませんから、触って倒したり、持って口に持っていって舐めたり、場合によっては手を離して落としたり、転がしたり、半ば偶然に任せていろんなことをします。毎日の生活の中でそれにお茶やミルクが注がれて、飲むという場面でコップが現れるので、それを口へ持っていって傾けて飲むものであることを認識するようになっていきます。また使われるたびに、「はいコップどうぞ」だとか「コップはこっちね」など、繰り返し聞こえてくるコップのところが、どうも「コップ」というものらしいと気づき始めます。言葉の獲得も「もの」の扱いを促します。

子どもはいつもの使われ方と意味される概念を結びつけて自分のものとします。こうして子どもは教えてもらわなくても、見る力、聞く力で、その対象のものの扱いを習得していくのです。そうではければ、身の回りの物の扱い方を、まるで自動車教習所で車の運転を学ぶかのように、いちいち一つずつ教えなければならないことになります。以上をまとめると、子どもは世界から意味のある対象を選び取るのですが、そこには他の人が使っている意図と方法をセットで模倣し、自分のものにしていきます。

このイミテーション学習を、ざっくりと「模倣」と呼びます。真似ることが学ぶことになっていきます。その中にものの扱いも含まれるのですが、人間は手順を覚えるというよりは、その目的を先に理解してしまうので、その目的に適った方法を自分で編み出します。前置きが随分と長くなりましたが、この物の扱い方は、そのものの用途にあった扱い方をモデルを通じて身につけていくので、上手な扱い方を見せることが、上手な扱い方を真似するようになります。実は挨拶も同じ原理なのですが、それは次回の最終回で説明します。

さて、本題に戻りましょう。生活上のものの扱いというと、衣食住の中に見られるものは全てです。衣類と食事はお話ししましたが、住むということの中には、居住空間の中にあるものですが、現代はかなり電化製品が代わりをしてくれるようになり、昔は子どもの頃から習得する必要のあった掃除や洗濯、裁縫、水汲みや灯り、火を起こしたり灯りを灯したりといったことも、生活技術の中から消えてしまいました。家庭生活の中に残っているものの扱いは、どんな取扱説明書があるかが象徴的です。

当園では、あえて昔からある生活技術の中から、ほうきとちり取り、雑巾掛け、モップなどの掃除スキルは体験しています。お米とぎや野菜の栽培、金魚や生き物への餌やり、生花なども生活の中のスキルです。現代は学問優先の学校教育になってしまいましたが、高等教育を受けても、現代社会を生きるための生活技術がすっぽりと抜け落ちているので、恋愛や子育て、経済や保険など、すぐに必要な基礎スキルを持たずに社会に放り出されている若者が多い気がして、とても気の毒です。やっと英語やプログラミングや金融を学校で学べるようになりましたが、教える先生が足りないという状況です。

こんなにあからさまに抜け抜けと戦争が勃発する社会を突きつけられると、きちんと政治と平和を教える国際的カリキュラムが不可欠なようです。核やロケットや武器を身近なものとして、大人もその扱い方を1から学び直してもらう必要があるようです。

 

 

自立の姿(その7)危険回避力

2022/03/07

危険を回避する力は、生きていく上で、どうしても必要な基本スキルです。どこで何をどうしたら危ないのか? 何をやってよく、何をしたら危ないのか?この判断力と行動力は、どうやったら身につくのか?ーーここに大きな保育のテーマがあります。この危険回避力の自立の姿は、どういうものでしょう?

 

「さまざまな状況の中で、自ら安全な生活をを作り出す力を身につけること」

これがリスクを回避できる自立の姿です。ここでのポイントは、リスク判断なのです。どうやったら、こうしたら危ないと予想して予め回避できるようになるでしょう。自立にはその発達の過程があります。赤ちゃんの頃からここでできる、年長さんになったらここまでできる、そんな身体的、精神的な発達の段階があります。

発達というのは自分で関われる世界、自分の中に取り込める世界が「広がっていく過程」だとも言えます。そばにある物が触ってもいい物なのかどうかは、大人でも分かりません。山菜取りで食べていいキノコと毒キノコの違いは、体験で学ぶことは危ないことになります。人間にはその判断力は本能や遺伝の中に組み込まれていないからです。しかし山に棲む熊は、その差を間違うことはありません。それを破断できる感覚の器官を持っているからです。

手に取って口に持っていって、舐めて確かめる赤ちゃんにとって、その物に毒や病原体がついているかどうかは判断できません。目に見えないもの、匂いで判断できないもの、音を聞いて区別できるもの、そういうものは、外界を捉える感覚器の感度や力によって異なるからです。

子どものことを話しているので、人間の感覚の感度と判断力の限界を知っておけば、学ばなくても自分で判断できる危険と学習すべき危険を分けることができます。研究によると、人の場合は学習しないと判断できないことの方が多いそうです。これは能力が劣っているということではなく、環境への適応力を高めるために、つまり環境が変わっても生きていけるように柔軟に適応できる仕組みを持っていると、言い換えることができます。動物の本能は学びが少なくても適応できますが、個体の一生の間に変わってしまう環境へのリスク回避はできません。レジ袋を海藻と間違えて食べてしまうウミガメのように。

寝返りもできない頃の赤ちゃんを坂道に寝せると転がってしまいます。自分で回避できません。しかし、はいはいができるぐらいになった赤ちゃんは、断崖の前に座らせると、それ以上進むことを躊躇するそうです。これ以上やっていいの?という警戒心が育っていることになります。9ヶ月ごろをすぎると、周りの人は「意図」を持っていることを理解できるようになるので、「ここ、どうなのよ、行ってもいいの?」と大人の表情から、いい、悪いのサインを読み取るようになっていきます。社会的なサインを参照しようとし出すのです。

複雑なものや場所になると、もっと詳しく「どうやったら安全か」を学ぶ必要があります。これは体験の積み重ねからの学習がものをいうので、小さいことから危険回避の学習機会を多く用意しておく必要があります。この考え方に基づいて、ヨーロッパの「乳児の」多くの保育園では、芝生にした園庭にわざわざ大きな岩を置き、アスファルトで舗装した歩道をあえて土と石の歩道に作り替え、あえて段差を設けています。なんでも滑らかにしてしまうユニバーサルデザインとは異なる発想です。

階段は手すりを持つことで転びにくくなること、花瓶は倒れたら水がこぼれること、お茶碗は落とすと割れること、高いところから落ちると勢いがつくこと、器の水はそっと運ばないとこぼすこと、人の体は転ぶときに咄嗟に手で支える必要があること、このようなことを「体験しながら」子どもたちは身につけていきます。走ると急には止まれないこと、手すりから体を乗り出すと思わず前転してしまうこと、通れそうな細道も壁に体が当たって通れないこと、前むにき入れた頭も振り返ることができないこと(頭は楕円形なので)、目が痒くなっても汚れた手で目を擦ってはいけないこと・・・こんな数えきれないほどたくさんのことを、子どもたちは生活の中で、その都度身につけています。

馬の水飲み場の木登り、和泉公園の木登りを怪我をしないように丈夫に登れるようになるには、これらの力がうまく組み合わさっています。子どもの生活圏を、危なくないように何もないようにすることは、かえって危険です。自分で危険を回避する判断力と適応力、応用力を育てるチャンスを失うからです。安全の自立というのは、子どもが転ばないようにガードしたり、転んでも怪我をしないようにクッションを用意することだけは足りません。転んでも自分で手をつけること、転ばないような歩き方、走り方ができる能力を育てることが必要です。

幼稚園教育要領や保育所保育指針には、教育の「健康」領域に、こう書いてあります。

「健康な心と体を育て、自ら健康で安全な生活を作り出す力を養う」

子ども自らが、安全な生活を作り出せるようにしましょう、というのです。大人がただ安全な生活を与えるのではないのです。

 

自立の姿(その6)清潔

2022/03/06

清潔の自立、ってあまり聞かないかもしれませんが、健康な生活のためには必要なものです。世の中はコロナ禍で大変ですが、感染症を防ぐためにも「清潔」が欠かせないことを思い出していただければ、分かりやすいでしょうか。私たちの体は、体にとって害のあるものを取り込まないようにする仕組みを色々と備えています。皮膚や毛や免疫機構や常在菌なども、毒物や病原体から身を守るためのバリアになっています。

しかし、健康であるためには、顔や手を洗ったり、風呂に入ったり、うがいをしたり、歯を磨いたり、鼻をかんだり、整髪したりと、いろいろなことをして身の回りを清潔に保っています。これらも習慣になるといいのですが、そのためにはどんな秘訣があるのでしょうか。それは清潔の自立の姿をイメージすることから導かれます。

清潔の自立とは、「きれいになることで気持ちがいい、という感覚を覚えることから、自分でやってみたいと思うこと」です。

顔や手を洗うとさっぱりして気持ちがいい。お風呂に入ると気持ちがいい。うがいをするとスッキリして気持ちがいい。・・・こんなふうに、歯磨きや鼻かみなども、きれいになることが「感覚」として気持ちいいとか、うれしいとか感じることが大事なことになります。そのためには、小さいうちから、やってあげるときに、黙ってやるのではなく「ほおら、きれいになったね、さっぱりして、気持ちいいね」と話しかけながら、行うといいのです。

清潔の体験には気持ちよさが伴う。やることが嬉しい。やらないと気がすまない。そんな気持ちの好循環が生まれると成功したのも同然です。それには言葉をかけるだけではなく、そういうモデルを見せること、大人も一緒にやること、そのときに「ああ、気持ちよかった」という感想なりコメントなりを、気持ちを込めて表すことが大事です。そうすると、それをみて子どももやってみようかな、となります。子どもの持っている模倣力に訴えるのです。

もう一つの秘訣は、手洗いなど水を扱うとき、小さいうちは手洗いが水遊びになってしまう時があります。遊びになってしまうときは、清潔のために手を洗うときと、水遊びをすることを別の機会に分けることです。水遊び、シャボン遊びをたくさんんやれば、手洗いのときにはそれをしなくなります。水や石鹸は子どもにとって、土や光と同様に格好の遊具、遊びの材料です。その物の特性を十分に体験し尽くすまで、遊べるようにします。

 

自立の姿(その5)衣服の脱ぎ着

2022/03/05

(90度が4か所あるのが、お分かりでしょうか)

 

「先生、やって」「ああ、いいよ、向こう向いてごらん」

3月4日の子どもクッキングで、エプロンの腰紐を自分で後ろ手で結べないので、やってほしい、というのです。私は「ああ、いいよ」と、やってあげるモデルを見せるつもりで、そうしますが、先生によっては「お友達にお願いしてみて」と、子ども同士の助け合いの体験へ導くような返事をすることも多いです。

それはともかく、小学校中学年以降ぐらいになると、エプロンの紐を後ろで蝶結びできるようになるかもしれませんが、幼児では無理です。そこで大抵は、結ばずに済むようにゴムにしたり、マジックテープにしてもらっています。頭の三角巾も四角の状態から自分で被ることは、幼児ではまずできません。最初から三角形のゴム紐付きにしてもらっています。マスクも、どっちが上なのか「これでいい?」と聞いてくる子もいました。今のマスクは鼻を覆う方が少し窪んでいるデザインのものがあるのですが、その微妙な違いを見分けるのも、幼児では難しいのです。

衣服を着たり脱いだりすることができることは、衣服の着脱の自立といいます。昔、よく身辺自立といういい方で基本的生活習慣の自立のことを、そう呼んでいました。自分ものは自分で始末できる、というフレーズもよく使われました。身辺とか始末とか、けっこう強い語感の言葉が保育では使われていました。自分のことは自分で始末しなさい。生活力の鍛錬にも似て、訓練することが自立の秘訣かのように言われていました。身辺自立ができていないと幼稚園にはいけません。そんな雰囲気があった時代もあります。確かに、30人を一人担任で見るような教員配置の制度のままで(いい加減、無理な配置数はとっとと改善したらいいのに)、身の回りのことが自分でできないと、集団生活が成り立たない、そんな考えが保育の前提に横たわっていたのです。

人間が衣服を使うようになったのは、体を保護すること、体を清潔に保つこと、暑さや寒さの加減をすることなどの必要性からです。その目的を考えれば、現代では生活環境は安全なものになり、お風呂に毎日入ることができ、衣服も洗濯して常に清潔であり、部屋の温度も機械でコントロールできるようになり、衣服の役割は、この保護、清潔、保温などの役割を超えて、別の価値が付加されきました。

オリンピックの開会式などを見るのが、私は好きなのですが、何が面白いかというと民族衣装が登場する国や地域があるからです。でもウクライナのキエフの駅で戦火から逃れる人たちの報道を見ていると、怒りから胸が熱くなります。戦争は命も食糧も剥ぎ取り、衣服でさえままならない状態へおいこむ、惨たらしい卑劣な行為です。プーチンよ恥を知れ!

園児たちは、自分の服を見せてくれます。「ねえ、これ可愛いでしょ」と、今日はこれだよ、と見せてくれるのが朝の挨拶になっている子もいます。「うん、可愛いねえ」と心を通わせてにっこり。一度靴箱に入れた後で、通りかかった私に、わざわざ「待って」と声をかけて、買ってもらったばかりの靴を見せてくる男の子もいます。これらは最高の朝の挨拶ですね。このように装飾的服装つまり衣装の意匠の役割が大きくなりました。ミッキーやキティや鬼滅やシンカリオンが子どもたちの衣服に欠かせないものになっています。

そこで、話を衣服の着脱の自立の話に戻すと、これらを自分で着たり、脱いだりできることができやすいものにしていただきたいということです。頭の大きさに比べて首回りが小さいと子どもの力では頭が通らない、という光景を何度も見ます。体の大きさに比べてサイズが小さくて、右腕は通ったものの、左袖に左腕が通らない、ということもありました。夏の水着はぴっちりしすぎていて、ほとんどの子が自分では脱ぎ着できません(これは仕方ないかな)。

ボタンホールは大きめですか。窮屈だと、それだけて「できな〜い」に、なってします。

例えば、市川宏伸さんの著書にも、次のような説明がありました。

〈・・ぜひ育てていきたいもの。そのためには人との比較ではなく「自分としてはここまでできたから凄い」と思える「成功体験」が大切です。小さな事では、自分でボタンがかけられない子なら、ボタンホールの大きな服に変えて上手にボタンがかけられたならこれも1つの成功体験です。苦手な事は手伝って、1つでも成功体験を増やす丁寧な対応が必要です。・・〉

靴の脱ぎ着も、自分でできるようになるには、自分でやりたい!という時期がきたらチャンス到来です。時間がかかっても、じっと待ってあげられる、余裕を持った時間配分をお願いします。身支度の時間というものを、生活の流れの中に確保してあげてください。できないところは手伝ってあげても、最後の「美味しいところ」は自分でやれた!、履けた!という気になるような援助がいいでしょう。

ジャンバーのチャックは下の始まりのところが難しいことが多いです。手が届かないこともあります。水筒も襷にかけることができるようになってほしい。紐が外れると自分でつけることができないことも多いですね。紐の長さの調節はこの幼児で無理なようです。また後で物の取り扱いのところでも触れますが、押して開く栓が固くて、自分では開けられない、という場合もあります。購入するときには、子どもと一緒にやってみて、自分でできそうかどうかも試していただくといいかも知れません。

これは単純に自分でできるようになることが、周りの大人の手を借りずにできるようになるから、周りの大人が助かる、ということ以上に大事なことがあります。それは実は、自信がつくのです。それが明らかに伝わってくる瞬間というものがないだけに、本当?と思われるかもしれませんが、満2歳になっていく前後から、なんでも「自分で!」という時期がきます。この頃からの発達課題にとっても、やってみてできるようになることが、生きる力そのものを育てている面があります。そう思って、排泄や衣服の自立を気長に見守ってあげてください。

幼児になると、自分でできること、お願いすればいいことの判断がつくようになりますから、もう大丈夫ですが、そこに至るまでの「自分で!」の時期は、子育ての我慢比べになることもありえます。どうぞ、大人がおおらかさと心の余裕を確保することを、セットで用意しておきましょう。(余計な話かも知れませんが、細かいところに気づけないのがお父さんですが、この場合のお父さんはお母さんの話をちゃんと聞いてあげてくださいね。)

自立の姿(その4)排泄

2022/03/04

(写真は、今日の子どもクッキング「野菜の型抜き」から)

トイレに自分で行って排泄ができるようになることを排泄の自立、といいます。いわゆる「おむつが外れる」ということです。世の育児雑誌の三大テーマは、昔から食事、トイレ、イヤイヤ期と決まっていて、それだけ親御さんの関心が高い、あるいは困っていることがある、とも言えるのかもしれません。トイレットトレーニングが子育てメディアでは盛んなのですが、トイレの空間に興味を持たせるとか、怖がらないようにするとか、この夏紙パンツに挑戦!だとか、アレコレ、いろんなアイデアが紹介されています。オマルに慣れてから大人用の便器へ、だとか紙オムツよりも布の方が外れやすくなっただとか、情報が多すぎる気がします。

排泄の自立に欠かせないことは、私は次のように伝えてきました。これが排泄の自立の姿だからです。

〜自分で「あ、おしっこ!」と気づき、ちょっと我慢してトイレに行くことができる〜

「あ、うんち!」でも同じですが、この気づいて、我慢できるというところがポイントになります。何に気づくかというと尿意、であり便意というものですが、これに気づけるようになるのは、2歳から3歳と幅があります。サインが脳に届いても、それが便意だという意味になるのにも、知的な発達がある段階にまで育たないと認識できません。さらに「あ、おしっこ」と、したくなってから、トイレに行くまでにある時間がまんできないといけないので、こちらも自分の意思で尿道をふさぐ随意筋を動かすことができるまで、身体的な育ちがなされていないといけません。

他にも色々な身体的な育ち、神経系の育ちなどが相まって、排泄が自立していくようになります。でも、基本はこの二つのことが繋がって初めて排泄が自立できるのです。そしてこの発達には個人差が大きいので、いつはは必ず二つのことが繋がって、ある意味で突然、できるようになります。そうすると、この条件が揃っていない段階で、練習やトレーニングでそれが育つのかというと、それは無理です。知的発達と身体的発達が揃わないと排泄は自立しないので、どっちかができないと難しいということになります。

そこで、この自立の秘訣は、楽観的に待つこと。ただし、保育園の園児は有利です。なぜなら、その「あ、おしっこ」でトイレへ行く、という姿やモデルが周囲にふんだんにあるからです。またオムツをしている状態が普通なので、それに引け目を感じるという空気も皆無です。おむつが早く取れることが良い、と考える文化はありません。オムツはそのこのペースで、必ず取れる。ただそれを信じてあげているだけです。大人が気をつけることは、できもしない時期に無理にさせようとして、子どもにコンプレックスを持たせてしまうこと。できるはずのことが自分はできない、と思い込まされると劣等感から自信が持てなくなります。

食事や排泄は動物も行う自然な営みです。それを上手に、きれいに、という人間社会の文化的営みとしての「しつけ」に格上げしないといけないので、その文化的行為への適応には個人差が生じ、ただ「一人ひとり異なるから、それで良い」で落ち着けはいいのですが、情報化社会は、自分の子どもは遅いのかしら、とか大丈夫だろうか、と無用な心配をさせてしまうような環境になっていることが、困ったものです。

食べたら出る。当たり前です。あとはタイミングを自分で図ってできるようになること。そこにもリズムがあるので、特に大便のリズムは生活の中で作ってあげるようにしましょう。習慣にしてあげると体も意識も楽になりますから。

自立の姿(その3)食事

2022/03/03

自立、という概念は、簡単にいうと「自分一人でできるようになる」という意味です。当園のクラスの名前は、この子どもの発達の姿を表しています。ちいさなちいさなちっち組、おおきくのびるぐんぐん組、のように、その年の特徴を表しているのですが、年長組は、なんでもしようすいすい組です。このように乳幼児の発達の特徴というのは、おおむね自立と言ってもよく、そのプロセスが表現されているようにも思えてきます。

この短期の連載で取り上げている「自立の姿」は、だいたい満3歳になる頃のことを想定しています。満3歳というのは、昔から三つ子の魂百までというように、その子どもらしさの本質がしっかりと輪郭を示してくる時期だからです。今日のテーマは食事の自立ですが、その姿はこんな感じです。

「自分の食べられる適量がわかってきて、食べこぼさずに食べ、自分でごちそうさま、ができる」

この中には、いただきます、まで待つことができ、食べ物を見て自分で好き嫌いや、食べられそうな量がわかり、食具を使って食べ物を上手に口に運び、咀嚼と嚥下がすっかり上手になっており、満腹感を覚えて、おしまいにできるということです。このように食べることの自立には、こんなにたくさんのことが含まれているのですが、ここに至るまでには、生まれてすぐの授乳のころから、徐々にいろんな力が身についてきて、こうなっていきます。

生まれてすぐの赤ちゃんは、教えてもらわなくても、お母さんのおっぱいを吸啜し、ごくごくと飲み続けます。どれくらい飲んだのか、お母さんもはっきりはわからないのですが、満足すると、プイと飲むのをやめます。まずこの頃から初めと終わりは自立しているのです。自分で満足するまで飲むという味への好みと量への判断がしっかりと行われています。このイメージを基本に据えると、おっぱいの代わりに哺乳瓶になり、乳から離れて食事へ移行する「離乳食」になり、そこから幼児食へと移行していきます。

この食べ物の中身については、ここでは触れませんが、摂食行動の自立について、ごくごく簡単に触れておくと、乳を飲むから食べる、つまり唇と歯と舌を上手に動かし、食べ物を口先から口腔内で部分的に移動させつつ、ごっくんと飲み込む嚥下まで、一連のなめらかな流れを習得していきます。上唇をスプーンに「アム」と挟むように下ろして、食べ物を下の歯の内側へ取り込むような動きになっているかどうか、私たちはスプーンでの食べさせ方も配慮しています。

食事への意欲を自立の姿に結びつけるには、いくつかのポイントがあります。それは入園見学の時にも説明していますが、目の前にある食べ物を食べたくて手が出やすい姿勢を作ってあげることです。肘がテーブルの角に当たらず抜けるように、椅子の高さを調整します。テーブルと口元の距離を、肘が抜けるように調整します。肘が直角になるようにします。そのためには、座る座面の高さを合わせ、それに従って膝が直角になり、足の裏が踵からペタンとつくように、足おきの高さを合わせます。

この姿勢には4つの直角があります。肘の角度、お腹と膝で作る角度、膝の角度、踵の角度のいずれもが90度になるようにしてあげるのです。すると姿勢が良く、手がフリーになって、手づかみ食べがしやすくなります。手づかみで食べることは大切な行為です。手で握り、摘み、自分の口に入れることができるようになるまでに、いっぱい、食べこぼします。口に入らずに、ほっぺたに擦りつけたり、床に落ちたりします。大抵、これを防ぐために、家庭では匙で口へ運んであげることが多いでしょう。保育園では、この手づかみ食べをします。

ずいぶん昔ですが、ドイツの食事風景を視察した時に、手づかみ食べをしている赤ちゃんが、食べ物をこぼしている様子を見せて、その園の園長先生は藤森統括園長に「これがこの子たちの大切な仕事です」と説明したそうです。日本でも厚生労働省は手づかみ食べを奨励しています。このような時期を経て、食具もうまく使えるようになっていき、2歳児クラスで、自分の食べるものを選び、自分で食べられる適量を知っていくことになります。

子どもの味への好悪は、哺乳類として持っている味覚への好みと、個人差としての好みを分けて考えてあげることが大事です。誰でも人間なら持っている味覚への好みは、遺伝で持っているものです。すぐにエネルギー源になる炭水化物系の甘いもの、タンパク質の素であるアミノ酸が含まれている旨味、体液も血液も必須ミネラルである体が欲する塩分を好む塩味、腐れているかもしれないと避けようとする酸味、毒があるかもしれないと避けようとする苦味。この甘塩酸苦と旨味は、先天的な味覚の反応なので、子どもが甘いものや旨味のあるものを好み、酸っぱいトマトや苦いピーマンや人参を嫌うのは当たり前だということです。

なんでも食べるようにしたいのなら、美味しい料理にすることです。子どもにとっての美味しさは、この甘塩酸苦と旨味をいかす味にすることです。先日、タイ料理が出ましたが、ちょっと酸っぱいスープは苦手でした。そして、美味しいと感じるのは、個性としての味覚の敏感さ、過敏さにも配慮が必要です。子どもによっては、ちょっとした質感や匂いが苦手であるということがあります。これらの個人差も受け止めてあげなら、自分で自分の好悪を知り、適量を食べられるようにしてあげると、自分でいただきます、とご馳走様ができるようになっていくのです。

よくかんで食べるようにさせたい時は、食べることに集中するといいのですが、よく噛むと味が変わる、美味しいと思える、そういう経験があると、「これはどんな味なんだろう」から「これ、美味しいんだよね」と期待になり、噛めば噛むほど美味しいという経験になるといいのですが、そのためには、ある程度の硬さが必要になります。現代の食事は、どちらかというと、なんでも柔らかいものが好まれるようになってきているので、給食では時々は意識して、硬いものを出すようにしています。

箸の持ち方、使い方、三角食べ、頬張ったままおしゃべりしない、などのマナーは、ごっこ遊びの中で、意識するようにしています。食べている時に、とやかくしつけを言うのは、食事が楽しくなくなるからです。別の機会にしっかりと教えて、できている時に褒める、それが何事にも応用できる基本になります。

自立の姿(その2)睡眠と食事

2022/03/02

生活の自立を考えるとき、よく眠って気力が回復した朝は、お腹が減るものです。夜更かしして寝る前に何かを食べたりすると、夜の睡眠中にも消化が行われていて、朝はなんだかお腹が重い感じがして、食欲も湧かない、という経験は誰にでもあることでしょう。

(お昼寝をしないで、瞑想タイムで体を休めている子どもたちも)

 

目覚めは脳も体も起きないといけないので、朝の食事をとらないと、午前中の活動がうまく始まりません。そこで生活リズムを整えるための最も大切な標語が「早寝早起き」で終わらずに「朝ごはん」がついていることになります。

日本では、子どもの夜の生活が楽しすぎて(?)寝る時間が遅れ気味になると、それが翌日にまで尾をひいてしまいがちです。日本の子ども向けのメディア文化は海外でも人気ですが、それが夜ふかしを助長さしているとしたら、看過できません。そうなってしまいがちな最も大きな要因は、テレビ、ゲーム、タブレット、スマホだと、言われています。

テレビ、ゲーム、タブレット、スマホとの付き合い方は、現代の子育てで、とても悩ましい問題になっています。乳幼児の時にテレビの視聴時間にケジメができないと、その後、小学校でゲーム、中学校でスマホの付き合い方がルーズになってしまいます。最初が肝心です。赤ちゃんの時から子育ての環境にテレビはない方がいいのですが(保育園でテレビを見ることはありません)、現実はそうもいきません。でも、知っておいてほしいのは、世界の小児科学会は2歳まではテレビは見せないというのが大切な常識になっていることです。

https://www.jpa-web.org/about/organization_chart/cm_committee.html

https://www.jpa-web.org/dcms_media/other/media2008_poster02.pdf

夜の睡眠までの時間の使い方は、最大の秘訣は、早いうちからの習慣化、です。

帰宅して家でやりたい好きな遊びがあり、テレビをつけたとしても食事の時は消します。そしてお風呂(夕食とお風呂の順番はどっちでもいいのですが、日によって変えない変えない方がいい)の後、絵本でもなんでもいいので、だらだら寛ぐ時間を作って、眠る前のこの時間を大切にします。はい、もう寝なさい、と言って、はいはい、と眠れるものではないからです。そこで眠気を誘うためのポイントがいくつかあります。食事やお風呂が終わったら部屋のライトは暖色系で暗めにして、青や白は避けること。またお風呂で温まった体が覚めていく時に、人は眠くなりますから、そのチャンスを生かすのもいいです。一旦、うとうとさせてしまうと、また寝るのは難しくなりがちです。

永持さんの「赤ちゃんねんね講座」では、この流れを作るときに「逆算マネジメント」という発想を提案されています。布団に入るタイミングを8時とか8時半とかに決めておきます。本当に眠る時刻は、ずれることが多いので、布団やベッドに入るタイミングを決める方がいいでしょう。その時刻から、遡って7時半にお風呂、7時に夕食などと決めていきます。夕食を作る間だけ、うまくひとり遊びができるような工夫が必要ですが、この場合の秘訣は夕食を作る時間を、ウ〜ンと短くしてしまうことです。

夕食はお腹がいっぱいになればよし!と考えることです。保育園の食事は1日に必要は栄養とカロリーの半分以上になるように計算されています。朝ごはんと晩ごはんで半日分がとれれば大丈夫です。冷食や作り置き、電子レンジの上手な活用など、色々な手があります。

6時にお迎えだとして、8時に布団に入るとすると、2時間ですが、これが短いと感じるか長いと感じるか?ここがポイントです。2時間もある!と思えるようなルーティンを作り出せるといいですね。多くの方が夕食の準備と食事時間に多くを取られてしまっているようです。ここを短時間にすることが、睡眠から食事の自立を作り出すためのポイントになりそうです。そして、この時間を過ごすことが楽しい!という時間になることを優先することです。

だらだらタイムのコツがあります。それは親の方が他愛のない話をしてあげることです。子どもから保育園の話を聞き出そうとせずに、寝る前の時間は「今日ママね、買い物でいいもの見つけちゃった〜」ぐらいの、お話です。子どもになったつもりで、ポア〜ンとした時間にしましょう。イメージは「お猿さんの親子が毛繕いしているような、あのダラダラした感じ」(永持さん)です。どうぞ試してみてください。

自立の姿(その1)睡眠

2022/03/01

新年度まで残すところ1か月。今日から3月になって「移行保育」も遊びから食事、睡眠へと移ってきました。その報告がクラスブログでなされていますが、今日から少し「自立の姿」というものを、その子どもの姿からお伝えしようかと思います。私たちは子どもの姿を5つの領域で捉えることを「成長展」にちなんでお話ししてきましたが、自立という姿を捉えるときは、生活の領域で捉えるとわかりややすいと思います。子どもの生活が、どんなことで成り立っているかというと、大体は遊びの他に、食事、睡眠、排泄、衣服の着脱、清潔、身近なものの扱い、あいさつなどからなります。これを一つずつ取り上げてみましょう。まずは、睡眠から。

生活の自立がなぜ「睡眠」から始まるのかというと、実は起きて活動するための条件を整えている時間が、睡眠だからです。睡眠がしっかり取れていないと、実は生活が自立できなんです。ですから、基本的な生活習慣や、小学校以降の「自覚的な学び」のためにも、「早寝早起き朝ごはん」が欠かせない必須条件になっているんです。意識して何かができることの前提条件のようなものです。うまくエンジンがかかるためには、ガソリンが必要なように、モーターが動くには電気が必要なように、生活が自立していくためには、夜の睡眠の質とリズムがどうしても順調である必要があるのです。

そこで睡眠の自立、というのはどんな姿かというと、まずは「無意識にそうする」ようになること。言い換えると「習慣」になることです。体が覚えていて、黙っていても、自然の流れでそうしていくようになることです。これは睡眠に限らず、食事も、排泄も、衣服着衣も、顔を洗ったり、歯を磨くことも、ルーティンの流れに沿って、毎日同じように体に染み付いていくようになることがいいのです。そのためには、まず大人がそれぞれの「自立の姿」を知っておくことが、そこへ導くためにも大事なことになります。

睡眠の場合、どんな習慣になるといいのかというと「寝るタイミングになったら自分で布団へ行き、安心と満足の気持ちの中でぐっすり眠り、朝になったら気持ち良く目覚める」ということです。自分で布団に入って寝て、自分で気持ち良く目覚める。寝つくことも、目覚めることも「自分から」という流れを作ってあげることが、本人にとっても親にとっても、ストレスのない愉快な生活づくりに繋がります。自然のリズムの中で生活することは、生活が充実してくるものです。

そのような睡眠に導くコツはどこにあるのかというと、リズムづくりの起点(スタート)は、朝7時前には目覚めるように、カーテンを開けること。光を浴びることです。これで脳の中の体内時計Aが「リリリ〜ン」と目覚めます。それだけでは、まだ本当には目覚めません。次に全身の細胞の中にある体内時計Bも目覚めさせる必要があるのですが、それはどうやったら起きるかというと、食事をとることです。朝ごはんは、しっかり目覚めるためにも大切なのです。これによって、午前中の生活、戸外活動、遊びが充実してくることになります。それが16時間後に眠くなるタイミングを誘発してくれます。

ここで、お昼寝の自立ですが、「お昼寝は夜の睡眠のための準備運動」という言い方があって、お昼寝は夜の睡眠とは意味も役割も違います。大切なのは夜というタイミングにしっかり10〜11時間の連続した睡眠が取れることにあります。そうなるために、昼の午睡があるのです。午睡と夜の睡眠の時間を足して10時間あればいい、と考えると間違えます。午睡はこの10時間の中には含めてはいけません。役割が異なるのです。午睡は真っ暗にしないで、オルゴール音がするような環境で行います。

保育園では乳児の午睡では、お昼ご飯が済んで、お昼寝に入る前に、絵本や紙芝居を読んであげて、心をもみほぐします。寛いだ気分で、あくびでも出そうな雰囲気の中で、お昼寝に入る歌を歌ってから布団へ移動します。この歌が合図になって、ちっちさんも、ぐんぐんさんも「自分で」布団の方へ移動します。さあ、寝よう、などという言葉は聞いたことがありません。ルーティーンが決まっているので、自然に体が動きていく感じです。眠りにつくまでには、個人差がありますが、少しさすってあげたり、そばにいてあげたりして、眠りに誘います。

にこにこ組になると、この寝かしつけも無くしていきます。ちょっとそばにいてあげる程度で、自分から布団に入って寝るという自立が完成していくのです。基本的生活習慣の自立、は満3歳を目安にしています。移行保育が終盤を迎えているこの時期、1年前、半年前と同じではありません。「自分で」という部分が自動化して、体が覚えているという状態にしてあげていくのです。

成長展の感想、ありがとうございました

2022/02/28

成長展の感想、ありがとうございます。動画も楽しくご覧いただけたようで、嬉しいです。この動画は3月6日(日)まで見ることができます。子どもの育ちを実感するのは、毎日では気づきにくくても、一年ずつ比べてみると大きな変化に驚きます。2歳児クラスの保護者の方の感想の中には「昨年は成長の差が出ていたようですが、今年は個性でした。その子らさしらが固まってきていてカラフルな展示でした。・・・」というのがあって、まさしく「ああ、そうそう」という変化ですね。

0歳から3歳ぐらいまでは、発達の差というのは、どの子どもも通る発達の筋道に差がある感じなのですが、満3歳を超えて幼児になってくると、発達の差というのは個性の差になってきます。その子らしさが、いわば縦から横に広がってくる感じですね。この感想は、その辺りの変化を感じとっていただいたようですね。

子どもの発達というのは、一人ひとり全く異なるものなので、子育てを楽しくする秘訣の一つは、平均的な数値や何歳ならこうだろう、という標準値などに振り回されないことです。いつもいうのですが、平均的な子供というのは、世の中に一人もいません。一人ひとりがかけがえのない(つまり代わりのものがない)、唯一の個性を持ってこの世に生を受けています。そのあり方は、まさしく一人ずつ異なります。だからこそ、面白いし、楽しいはずです。できれば、そのひとりひとりの在り方自体が、色々は素晴らしさを見せてくれます。そこを称賛しながら、面白がりながら、子育てができるといいですね。

保育園では、いろんな先生たちがいて、先生によってもその子の可愛らしさ、愛おしさ、面白さ、愉快さなどを捉える視点が違っていたりして、それを語り合い、共有することは、とっても楽しいものです。ちょっとした仕草や格好、言葉、気持ちなどにそうしたことが発見されたりします。これからも、ちょっとしたことかもしれませんが、それを分かち合っていけたらと思います。

 

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