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園長の日記

戻ってきた素晴らしき子どもたち!

2022/01/05

2022年の保育が始まって2日。帰省していた子たちも戻ってきて、また「あの活気」が戻ってきて嬉しくなりました。子どもたちも再会が嬉しそう。そのぶん、はしゃぎ過ぎの面もありますが、家庭と保育園の両方を行き来しているのは「子どもだけ」という事実の意味を再確認したいと思いました。子どもたちは二つの環境との「往還」に、自分の色々なことをチューニングしています。家ではこう、保育園ではこう、そんな環境への適応を一生懸命工夫しているのが、子どもたちかもしれません。

でも、それがいつも、いつも、うまくいくとは限りません。年末年始と、1週間近い休みとなると、その生活にやっと慣れた頃に、また園生活が再開するというタイミングになっているかもしれません。家庭と保育園という、二つの居場所の役割交代への調整は、今週いっぱいぐらいはかかるでしょう。また、保護者の皆さんも、年末年始はとても忙しかったはずです。お祝い気分が、その疲れを隠してしまいがちですが、実は、皆さんも「とっても疲れている」はずです。普段の人間関係とは異なる触れ合いが多くなる年末年始は、この2年間、できなかった分、今年こそは、と張り切った方こそ、さらにいろんなストレスを感じているものです。

現代の家庭は、親も子どもも、心の故郷という安全基地が、今住んでいる場所ではないことが多いものです。本来、人間の子育ては核家族で行ってはいけません。危険です。一人ひとりを大切にするという「個の尊厳」を支えあうには、もっと太くてどっしりとした土台が必要なのです。昔に比べて「子どものため」に考えたり、やってあげたりすることが遥かに増えました。理想的な理念は大きく、重くなったのですが、その大きな理念を実現させるには、それを乗せる土台は核家族だけでは、支えきれません。人類は大家族が集まった村が、子育てを担い合っていたのです。この子育ての構造変化が、いろんなことを不安定化させています。

二つの居場所を行ったり来たりしている子どもたち。子どもは大人に比べて環境への適応力が高いとはいえ、この世に生を受けてまだ数年しか生きていない子どもたちです。そんなにうまく適応できるわけではありません。たった数年でこんなに成長するなんて、すごい。本当に素晴らしい子どもたちです。何年も生きてきた大人の私なのに、こんなこと絶対、真似できません。しかも大人にはお茶して愚痴をこぼしたり、宴会やお酒ではしゃいだり、カラオケ、スポーツ、趣味など、ストレス解消の手段があります。でも子どもにはありません。ふざけたり、はしゃいだり、羽目を外したりしたい気持ちがあるのは、子どもも同じだと思います。

 

正しいことをやって経済成長になるかどうかは別の話

2022/01/04

ジェンダー平等で何年も世界一を続けているアイスランドの女性の首相が、先ほどNHKの「クローズアップ現代」のインタビューでこんなことを言っていました。以下は私の要約です。

「正しいことをしていくことが大事です。その結果が経済成長になるならそれは結構。経済成長のために何かやるべきではない。私がやったのは、男女の間で給料に差があるのはおかしいと法律にしたこと。職を失った人たちのために、大学で教育を受けるチャンスを広げたことです。その結果、若い人たちから生まれたアイデアや技術革新で、新しいビジネスも生まれました」。

そう、この感覚が大事なんだろうと、素直に思います。ものを大事に長く使えば、消費が減ります。そうすれば経済成長の数字は減ります。市場メカニズムに乗らないものや労働はたくさんあります。子育てもそうです。家事もそう。教育も本来そうでした。しかし、今はなんでも「外注」できるので、つまりなんでもお金を払えば手に入るような錯覚に陥っているだけです。

この感覚に慣れてしまうと、大切な自己表現や話し合いや民主主義の営みも、雑誌や新聞やSNSなどの市場メカニズムに組み込まれた媒体でなければ、その意味内容を伝え合うことにならないと、思い込んでしまう社会がきてしまうかもしれません。なんて恐ろしいことでしょう。井戸端会議や、集会を開いたり、政府に文句を言ったり、政治家に会いに行ったり、行政にやってほしことを署名活動したり、そうした自然発生的に直接意見を述べたり、広げたりすることも、市場を挟まないとできなくなるとしたら、それは民主主義の危機に通じます。

インターネットやSNSを否定するつもりはありません。このホームページも、その恩恵を被っています。でも、なんでも「いくらになるか」で価値判断することに慣れてしまうと、本来はそれで「食べていけるはずのない自己表現」でさえも、「フォロア数」やら「いいね数」やらの、市場に絡め取られていることに気づかなくなるかもしれません。また「売れる」「作品」にするのが無理だと考えて、自己表現すら、自分からやらなくなってしまいます。

私たちは詩人、芸術家、アーティストなど、自分のことを自分で名づけることが自由にできるのですが、それが職業として「食べていけること」と同一視したり、前提条件にしてしまいます。また、そうでないと本物と思わない市場社会になってしまいました。それは一面の真実でしかありません。

何かになりたい、という思いは、「それで食べていけるか」が、まず試金石になっていることの不思議さを、もう一度、問い直してみましょう。売れる作品を編み出さないと芸術家、音楽家、作家とは言えない。もし、そう考えるなら、市場経済が成立していなかった昔、洞窟壁画を描いた人や、法隆寺を建てた人、仏像を彫った無名の人たちは、どうなるのでしょうか。わたしたちよりも、ずっとすごい技術とセンスを持っていたのです。でも、別に高値で売ったり買ったりしていたのではありません。

スポーツ選手のプロとアマの違いに、スポーツの本質的な違いはありません。その人にとって正しいことや好きなことをした結果、それが結果的に市場で価値が出た、ということです。本人がやって楽しいスポーツから、見てもらってなんぼのスポーツが幅をきかせすぎると、子どもの夢の持ち方が歪んでしまいます。稼ぐことができるスポーツが、かっこいい、になっていくでしょう。人気のあるもの、多くの人がいいと思うものにならないと、成功とは言わない、という誤ったキャリア(進路)観を育ててしまいます。

日本はアメリカ、中国に次いで世界第三位のGDP大国です。だから、なんなのでしょう。経済成長をしているからと言って、それが個人や社会の何かの豊かさを表しているとは限らないのは、当たり前だったはずです。この認識をまず、しっかりと大人がもつべきです。そうでなければ、子どもの持ついろんな良さを、今の市場価値で値踏みしてしまう恐れがあるからです。

2年前には戻れない「気づき」

2022/01/03

ケイト・ラワーズ著『ドーナツ経済』(河出文庫)より

 

明日から仕事始めです。年末年始の大移動が終わりました。年に一度の大きな節目を跨いで、私たちは何をしているのでしょうか。1億2千万人のうち何割が移動したのか知りませんが、移動しなかった人も含めて、私たちはどこへ出かけてどこへ戻ってきたのでしょうか。

 

一体何をしてきたのでしょうか。もちろん、大切な人、場所、家族と過ごした人たちが大勢いたことでしょう。私たちのおこなっているこの表面上の移動や出会いは、いつもの仲間の中での往還です。その裏側に「往還の意味」がきっと見出されるはずなのですが、それは、一人ひとりがこれからもずっと問い続けることになる人生のテーマでもあります。何処かから私たちはやってきて、どこからかへ還っていく。その往還のテーマです。

昨日はコロナ禍の話をしましたが、それはコロナ前とコロナ後の間の往還の物語でもあります。私たちは、2020年の春の始点と2022年の春とでは、もはや同じではないことに気づきました。もう元の世界には戻れません。いろんなことに気づいてしまったからです。

(1)私たちが地球規模の生態系に織り込まれていること。私たちの生活や経済や身体が、あくまでも地球規模の自然の一部であること。ウイルスと私たちは何万年も共生していたこと。それはワクチン接種の副反応でも、よくわかりました。

(2)被害を被った人たちとそうでない人たちの差も明らかになりました。家計への影響です。また大儲けした人と苦境に追い込まれた人の差も明白になりました。市場メカニズムの歪さ。資本主義経済の脆弱さと残酷さ。生活基盤としての公共財の不足。

(3)経済的先進国とそうでない国や地域の人たちとの格差の問題もコロナ以前からある問題。国家としてのグローバル経済のリ・デザインの必要性

(4)「人新世」として引き起こされたコロナ禍。地球規模の危機の序章あるいはリハーサルとしてのコロナ禍。最後のリハーサルかもしれないという見方もあります。

私たちは、こんなことを、くっきりと見てしまった、知ってしまった以上、もう同じ地点には戻れない、そういう意味の往還もあります。戻ることのできない旅立ちだったのかもしれません。

それは私たちの先祖も繰り返してきました。10万年前にアフリカ中央部から旅立ち、地球上に拡散しました。これをグレートジャーニーと言いますが、その間に地球はとても寒い時期があって、私たちはそれを乗り越えて、奇跡的に太陽と地球の熱代謝のバランスがとれている、非常に温かな地質年代「完新世」に恵まれました。この時代は1万2000年ほど続いています。あと5万年ほど続く予定でした。

こんな奇跡的に快適な地質年代は、40万年ぐらい後にならないと再現しません。それくらい珍しい奇跡的なラッキーな状態なのです。ところが「予定でした」というのは、もうあと10数年で「終わってしまいそう」だからです。地球上を薄く覆う大気の中の二酸化炭素などの温暖化ガスが増え過ぎてしまいました。人の経済活動が地球環境を破壊している新しい地質年代「人新世」に入っているかもしれないというのです。

その中で起きたコロナ禍です。これが何かの序章だとしたら、これから起きるかもしれない問題の影響を小さくするための、減災のような心構えを逞しくしていく必要がありそうです。これも戻れない往還です。あと数十年で引き返せない地点に到達してしまうかもしれない往路です。復路はないのかもしれません。私たちは、どこへ行こうとしているのでしょう。そしてどこへ行ったから、こうなってしまっているのでしょう。

オミクロン株じわり・・でも全国各地で新年行事が開催

2022/01/02

箱根駅伝で青学が往路で優勝した2日、今年は全国各地で成人式や伝統行事が復活しています。昨年とはちょっと違った年明けの雰囲気です。私は人混みは避けたいので初詣には出かけませんでしたが、今日は茨城、高知、香川でもオミクロン株が発見されて全国27都府県に広がりました。確実に地方へも新型株が伝播していることがわかります。このように水際対策をすり抜けて市中感染も始まってきたので、感染者数の上昇カーブの傾きがどうなるのか、気になります。

ただ、入院や重症化の割合がこれからどうなるのか、これまでの予防接種や始まったブースター接種の予防効果、あるいは抗体カクテルや飲み薬の治療効果など、これまでとは異なる「予防・検査や診断・早期の治療」の医療4条件の中で、これからの感染拡大局面を迎えていることになります。ただ欧米などに比べてアジアの感染数が目立たないのが「謎」です。日本よりも甘いシンガポールやインドで オミクロン株が増えないのはなぜなのでしょう? 日本も同様にあまり増えない可能性もあるかもしれません。

それはともかく、日本は医療逼迫が起きない限り、このまま感染対策を継続しながら「経済を回して」いくことになりそうです。新型コロナはWHOが昨年「空気感染」であることを認め、10月には厚生労働省も「接触感染」「飛沫感染」に加えて「空気感染」も加えました。二酸化炭素濃度との相関が強いことになります。保育園では換気と清浄機の併用で対策を講じてきました。これは1月からも変わりません。寒さが一段と厳しくなった中での新年のスタート、ここまま静かにコロナが去ってくれないかと、思うばかりですが、果たしてどうなるでしょうか。

 

 

ドーナツ経済とともに謹賀新年

2022/01/01

2022年が明けました。昨年中は大変お世話になりました。本年もどうぞよろしくお願いします。お年賀ありがとうございます。みなさんにとって良い歳になりますよう、祈念いたします。

新年のカウントダウンを始めたテレビを見ていたら、今年は大晦日から初詣に大勢の人が並んでいて、昨年とは違う光景に、明るさと危うさを感じます。じわじわと上がっている、あの数字を横目で見ながら、ある種の覚悟と祈りの中で新年を迎えました。

元旦の新聞に齋藤幸平さんが対談に出ていました。多くの人たちが時代が「人新世」に入っているのかもしれないと気づき、若者たちの精神的な目標になっていくことを期待しました。そして齋藤さんがいうように、大人が反省して新しい経済の仕組みへの舵を切るべきなのです。昨年の園だより1月号も「人新世」の話で始まりましたが、今年は、その実践がいろんなところで報告され、語り合える年になるでしょう。その実践に、千代田せいが保育園も引き続き踏み込んでいこうと思います。

すでにいろんな組織や団体で、採用されているケイト・ラワースさんの「ドーナツ経済」論は、すでに文庫化されて広く読まれるようになりました。地球環境を保全することが、ドーナツの外側の限界点を示し、地球上から貧困を根絶することがドーナツの内側の限界点を示します。このふたつの輪で挟まれたドーナツ型の帯の部分に、私たちの「目標」を据えましょう、そういう経済のあり方を提案しています。

保育が生活である限り、私たちも、このドーナツの輪の外側と内側に落ちないように、保育料を設定したり、自然環境を破壊せず、疎外労働にならない働き方を支援したり、動物福祉を考えた食材を購入したり、国土や海の生物の多様性を守るような活動を取り入れたいと思います。すでにいろんなところでその実践が始まっています。佐伯胖さんが以前、保育のドーナツ理論を提唱しましたが、これからは経済にもドーナツの発想が求められる時代になってきました。

多様でありながら一つのことへ

2021/12/31

 

いろんなことを学び続けていくと、多様になっていく部分と、一緒になっていく部分とがあって、大事なことは一つになっていくように感じます。確かに一人ずつ違うということを保育の基盤に据えているのですが、それをお互いに認め合って、お互いに尊重し合うことを大事にしたいのですが、それがバラバラになってしまうのかというと、そうではなくて、支え合ったり、協力しあったり、同じ目的を見出そうとしたりと、何かのため連帯や調和を作り出すことに価値を見出します。

これは変化するものとしないものでもあって、あるいは不易と流行でもそうですし、なくなってしまうものとずっとあるものの違いかもしれません。私たちは必ずいつか死ぬのですが、生命のバトンは引き継がれてきたからこそ私がいるのですし、私はいつかいなくなっても生命の連鎖は無くなりません(で、あってほしいものですが)。テクノロジーの発達でできることが増えたように見えても、真善美など人間の感覚で大事にしたいものは変わらないような気もします。

そういう意味では、人の進化というものも、進化してよくなっていくものと、環境に適応してできなくなったこともあるので、一概に進化がいいのではなくて、どういう意味でいいのかを読み取っていくことが大事になります。その人にとって意味があることが、さらに他の人にとっても意味があるように、関係の中での意味を作り出していくことができるように、保育を創り出していきたいものです。その当事者はみなさんでもあります。子どもたちの育ちをみなさんと支えあうために、いろんな関係を作っていきましょう。たくさん、たくさん作っていきましょう。そしてその関係は、いろんな形をしている多様なものでしょうが、ただ、どれも信頼の関係になっていくはずです。七色に輝く多様なものかもしれませんが、きっと美しい関係になっていくでしょう。そんな新しい一年になるといいなと思います。

子どもにとっての故郷

2021/12/30

人は「くに」に帰省すると、普段いる場所が、「故郷ではないこと」に、いちいち気づかされることになります。仕事柄、心の安全基地だとか、心の拠り所だとかを考えることが多いので、つい自分の幼少期に過ごした場所と、千代田せいが保育園の場所との関係を比べてしまいます。帰るとか京に上るという言葉遣いからして、やはり「ふるさと」とは、遠くにありて思うものであり、幼少期に過ごした場所に実際に戻ってきてしまうと、東京という場所は、あくまでも「出かけていく先」のように感じてしまいます。

ところが子どもにとっては、生まれ育った東京が紛れもなく故郷であり、何かがあったら帰ってくる場所になります。子育ての最中にはあまり考えなくても済むことだったのですが、私のように、自身の来し方行く末の始点と終点が見えてくる歳になってくると、本来、魂が還るべき場所は、どこだったのか、迷ってしまう自分がいます。今は亡き父や母も、生まれ育った場所と、私たち姉兄弟を育てた場所が違います。日本人は、近代になると「お国=江戸時代までの藩」から出て、働く家庭が急増します。私たちの「ふるさと」のあり方も、戦前から戦後、そして現代にいたる約150年の間に、様変わりしてしまいました。

こんなことを考えるのも、年の瀬のせいかも知れません。保育の質が、人とを含む環境との「関係の発達」にあることを考えているうちに、親の働き方に大きな影響を与え続けている「資本主義の歴史」を考えなければならなくなり、それが「人類の子育ての歴史」とぶつかって、大きな波頭を立て始めたのが明治以降になるわけですが、その津波の影響は現代にもまだ続いていて、それはまた都市と故郷との関係とも重なっていることに気づきます。

すでに多くの子どもたちにとって、生まれ故郷が都市になっている時代において、「お国」の風景は田園ではなくて、ビル群や駅前の風景、あるいは遊んでいた公園が原風景になっていくのでしょう。故郷としての保育園。そのありようを改めて考え直してみたいと思います。

 

 

清らかにしておきたい理由は・・

2021/12/29

13世紀の「最寒三友図」(ウィキペディアより)

正月飾りには必ず松、竹、梅が描かれています。日本で「松竹梅」がめでたいことを表すようになったのは、色々な俗説があるようですが、松は平安時代から、竹は室町時代から、そして梅は江戸時代から祝い事で使われるようになったそうです。松も竹も寒い冬でも緑を保ち、花を咲かす梅に生命力や寿ぎ(ことほぎ)を感じたのでしょう。私の実家の襖絵も、宗の時代に活躍した絵師に始まると言われる「歳寒三友」が、芳水の作としての松竹梅が描かれています。色々なところに見られる松竹梅ですが、子どもたちに「本物」の梅を愛でる機会を逃さないようにしてあげようと思います。

おせち料理にしても、お祝い事で使う食材に吉祥を読み取るようになっていったことも、同じものを感じます。また新しい歳を迎えるにあたり、豊穣への感謝と共に、自然の畏敬の気持ちを新たにしていくところに、年末年始の清まっていく気持ちよさを感じます。改めて気持ちを清らかにしておきたいと願うのは、日本の文化として良質なものを感じるのですが、皆さんはいかがでしょうか。

植物の育ちや実りを、子どもの成長や教育に例えることが、日本では昔からあったそうです。自ら育つ力を持つものとしての、草花や樹木の生長を、子どもの発達の特徴になぞらえたものが多く見られます。秘めた命が形を変えて大きくなっていく姿は、種から芽が出て茎や幹が伸び、葉から蕾が出て花が咲く。それが実をつけて種に戻っていく。そうした変化は、生命と生態系の循環を表していることに、子育てや人生の循環を重ね合わせてきたのでしょう。

そこに何か、大事なもの、大いなるものがあるという感覚。改めてそれを迎え入れようとする姿勢。子どもたちに、その何かを感じてもらうことは難しいことですが、それでも、そのきっかけを、わいらんすい(3〜5歳)の子どもたちは、大掃除という活動で感じたようです。「自分達が1年間お世話になった部屋をきれいにしましょう。そうして神様を気持ちよくお迎えしましょう」。先生が、そう呼びかけて行った掃除を真剣にやっていた子どもたちの姿を見て、私は大掃除を行う大切な意味を思い出しました。

新しいものを迎え入れるために、きれいにするんだということ。新しいものが何かは、それぞれでしょうが、このウェルカムのために清らかにしておきたいということを、心や精神の「容れ物」にも当てはめているところを、大事にしていきたいと思ったのでした。

 

新年を迎えるにあたり、遊びの力に思いを寄せて

2021/12/28

本日で、今年の保育は終わりです。明日から年末年始の休園に入ります。1月4日(火)にお目にかかります。よいお年をお迎えください。

(以下、本日配布の「園だより」1月号 巻頭言より)

子どもたちが同時にいろいろなことをしているのが保育園です。一人ひとりが自分らしく生活しています。やりたいことがあって、それを実現させたくて取り組んでいます。その姿を見れば、多くの人は「遊んでいる」というでしょう。子どもが他愛もなくよく遊んでいる、と。その通りです。でも、その表現、言い方だけでは見落としてしまうことがたくさんあるのが、その「遊び」というものなのです。

赤ちゃんは自分が遊んでいると思っていません。大人の目から見ても、どこからどこまでが遊びだとはっきりしません。大きくなると子どもは自分が今遊んでいるのか、そうでないのかを区別できるようになります。いずれにしても遊びは生きるために必要な経験になっています。子どもから遊びを取り上げたらきっと死んでしまいますから。子どもの遊びを大切にできない社会はきっと滅びます。なぜなら、社会を形成するために必要な力の根っこを、この乳幼児期に育てているからです。根の生えない木が育つことはないように、社会を形成する力の根がなければ、社会は機能しなくなるでしょう。

では、社会を形成する力の根っことはなんでしょうか。それは遊びの中に見出せるのですが、一つ目は「対話する力」や「コミュニケーション力」です。遊んでいると頻繁にこれを使っています。二つ目は「他人と協力する力」や「集団の中で考える力」です。お楽しみ会の動画や劇遊びの中に、いっぱい見られましたね。三つ目が「実行機能」や「自己調整能力」です。自分の考えや目的のために自分をコントロールする力です。集団生活である社会は、他人との関係の中で自分を発揮し、また他者も生きるようなスキルを身につけていく必要があるからです。

これらの力を育んでいるのが保育園生活なのですが、個別の塾や教室では、これらのうち特定の力しか育てることができません。なぜなら、そこには本当の遊びがないからです。本当の、というのは「本心を自由にさらけ出せる場」の中で「地の自分」が育つ以外に、心の成長はないからです。本物の強い根っこは、自分の力で地面の土を握りしめます。ずんぐ、と地面を掴み取って張り巡らした心の根っこが、社会を形成する力になるのです。

しっかり遊んだ乳幼児期は、いくつもの非認知的スキルを育むことになります。その種類だけお伝えすると、誠実さ、情熱と粘り強さ、自制心、好奇心、考える力、楽観性、見通し力、感情のコントロール、共感する力、自信、今に熱中する力、気持ちの復元力、ストレスへの耐性・・こんないろんな力が遊びの中で育っています。さらに、社会への希望をもてる子どもになってもらいたいとも思います。ただ、そのためには大人の責任も大きいでしょう。本当に不思議なことですが、遊びこそ、大きな根っこが育つ土であり、地面なのです。改めて、これを守ってあげましょう。子どもから遊びを奪わないこと。このことを心に留めながら、新しい1年を迎えたいと思います。

第三者評価者が園に来られて訪問調査

2021/12/27

東京都の場合、保育園は第三者による評価を受けることが義務化されています。すでに保護者の皆さんには先月11月中旬、「利用者アンケート」をお願いしました。今日27日は、それとは別に評価機関の評価者3人が保育園にやってきて、実際の保育を観察したり、職員からヒヤリングを行ったりする「訪問調査」をしていかれました。

皆さんに書いていただいたアンケート結果も含めて、本日までの審査結果は、来年2月25日に保育園に届くそうです。ずいぶん時間がかかりますね。皆さんから書いていただいたアンケート結果は第三者機関が把握しており、当園にはまだ届いていません。全体の審査結果を皆さんにお伝えするのは、来年になりますので、しばらくお待ちください。

今日の訪問調査の一人は、東京都の第三者評価の仕組みづくりに関わっている方で、「評価とは何か」ということに詳しい専門家です。評価者を養成する研修会の講師を努めている方でもあり、客観的に当園のことを評価していただけるので、とてもいい機会に恵まれたと思います。他のお二人の方も、保育園を運営していり園長先生でもあり、保育の質にとても詳しい方です。

当園の保育をさらに良くしていくために、第三者の専門的な目で分析していただき、私たちが気づいていない当園の強みや課題を明らかにしていただきたいと願っています。

さて、早いもので12月も最終盤になり、今日で年末の挨拶をさせていただいた方もいらっしゃいました。今月はお楽しみ会の動画配信やクリスマスデーなども無事に行うことができ、楽しい思い出を作ることもできました。

ちょっと心配なのは、健康管理です。寒さも一段と厳しくなってきました。25日に都内で初めてオミクロン株の市中感染が見つかりましたが、年末年始の人の移動などでその拡大は避けられそうもありません。帰省される方は、くれぐれもお気をつけください。新年が平穏に始まることを祈ります。

 

 

 

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