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園長の日記

久しぶりの木場公園

2021/11/11

にこにこ組は花壇と噴水のある方面で、わいらんすいは冒険広場で過ごしました。にこにこ組とわいわい組は、初めての木場公園でしたが、あまりそんなことを感じさせないほど、公園の中に溶け込んで遊んでいました。

前半はにこにこ組の引率でした。花の蜜を吸いにきている蝶々には、みんなが興味を示していました。

途中から噴水が面白くて離れない子がいたので、何を面白いと思っているのかなあ、とじっと見ていたら、わかりました。

噴水の水が落ちてきて、泡ができて、浮いていた葉っぱが水の渦に巻き込まれて沈んでいく様子をじっと見ていたのです。秋の枯れ葉が、水面にたくさん浮かんでいたのです。

それをまた見たくで、自分で葉っぱを掴んで噴水の中に投げ込もうとするので「それは噴水が壊れちゃうから、小さいの一個だけにしよう」と提案して、小さなはっぱ1枚で妥協してもらいました。

そこまで譲歩してくれるだけでも、偉いなあ、成長したなあ、という「にこにこさん」です。水の渦や飛沫や、ずっと流れてくることが不思議なのか、「どうして流れるの」と何度か聞かれましたが、「どうしてだろうね、上の方に水がピューッと上がっているね」などと、返事をしていました。公園といっても、一人ずつやりたいことが違うので、そのバリエーションが豊かなのが公園の良さです。

冒険広場の方では、昨日の会議の影響があるのか、すいすい組の団結が一層深まっているように見えました。大型アスレティックの踊り場や、ネットの上に集まって「すいすい談義」をしているのです。

地域の親子が通れない、使えないという状態になるので、その度に私が「同じ場所に集まって座り込んでいたら、地域のお友達が遊べないから、散らばって遊んでね」と話してあげなければならないくらいでした。

 

友達関係から見る子どもの姿

2021/11/10

(写真はお手伝い保育の様子)

私たち保育者は、保育における起点(スタートポイント)を持っています。それは一般に「子ども理解」という言葉で位置づけられているのですが、その理解は何を目指しているのかというと、別の言葉では「子どもの実態」ということになります。実態という言葉を使うのは、目に見える姿だけではなく、目に見えない「子どもの心」まで含めた、その子の本当の姿の理解に迫ろうという意味があるからです。

今日は、その「実態」に迫ることができる場面がありました。午後2時ごろから30分ごろまで、年長のすいすいの子どもたちが話し合いをしました。子どもたちから真剣な意見が語られました。その内容を聞いていると、「そんな思いを持っていたんだなあ」「友達のことをよくわかっているなあ」と感心します。そこで大切なことを確認できました。それは子ども理解における5つの視点の中の一つです。

5つの視点というのは、私の長い保育経験の中で気づきながら整理してきたもので、どこかに書いてあるものではありません。ただ、私の「保育者論」では、この説明を学生にしてきました。その一つとは、「子ども関係」なのですが、これは単に大人との関係から対比的に捉えたものではなく、子ども同士の関係をよりリアルに捉えるための視点です。

今日の子どもたちの話し合いからも「子ども関係」が見えてきました。子どもの理解は、それぞれの子どもを切り離して捉えることはできません。園生活というのは家庭生活とは異なり、集団の中で、その子のありようは、周りの子どもたちとの関係によって大きく左右されます。仲間関係の中で、どのように位置づいているのか、周りの子どもたちからどのように受け止められているのか、そうしたことを捉えることが、子ども理解には欠かせない視点の一つなのです。

子どもは、自分の気持ちを無邪気に言葉に表している頃は、ほとんどがその場で終わっていき、人間関係が拗れることもないのですが、自分自身へのメタ認知能力が育ってくると、つまり自分がどう見られているかを自覚できるようになってくると、子ども同士もある種の評価をしあうようになってきます。それは普段の生活の積み重ねからくるものなので、何かの機会がないと、あまり表面化されることもないのですが、最近はそれが表面化されることがよくあります。その機会とは、失敗や衝突です。喧嘩して、怒ったり、泣いたりしながらも、また気持ちを立て直して歩んでいきます。

子どもたちは、小さい時から、自分自身でその「つらさ」を味わいながら生活しているのですが、大人には真似できないほど、逞しいものです。その力強さを子どもは持っていて、失敗や衝突に負けない心の復元力を持っています。その時、心の支えとなっている友達は誰なのか、そうした友達をどうやったら作ることができるか、そんな見方が子ども理解には、どうしても必要なのです。

今日の話し合いでは、友達をみんなが責めたくなった時、相手が傷つくことがあることを、みんな経験していたようで「それは嫌だ」と感じていました。でも、その感情を抑えることができない、我慢できない時、子どもたちはどうしたら良いのかわからなくなるようです。今日の話し合いでは、担任の話から子どもたちは「困った時には誰かに助けてもらえばいいんだ」ということや、「助けてくれるのは友達の場合もある」ということに気づいたようです。なんと素晴らしい気づきでしょう。

こんな話し合いの後、ちょっと晴れ晴れとした顔をして「漢字書きたい」と、私のところに頼みに来ました。この気持ちの切り替えや心の健康さに、私は「なんてすごい子たちだろう」と思い、子どもの素晴らしさに接した瞬間でした。

回転寿司店ごっこ

2021/11/09

 

なぜか火曜日は雨の日が多くて、旧今川中へ遊びにいく予定でしたが(毎月第二火曜日)、室内遊びになりました。

わいらんすい(幼児)はブログ(パスワードが必要)で紹介されているように、お寿司やさんごっこが流行っています。

私も夕方の運動ゾーンで「客引き」にあって、お店の中に入ると、接客係のTHくんやHSくんから、メニュー紹介が始まります。

接客係「はい、こっちに来てください」「何にしますか?」

私「何があるの?」

接客係「マグロ、イカ、たまご、それ以外」

私「じゃあ、マグロください」

接客係「はい、こっちにきてください」

と、空いているカウンターに案内されました。

繁盛しているので、お店屋さんはすぐにカウンターに座ることができないようです。

どうも混んでいるラーメン屋さんとお寿司屋さんが混ざったような、お店です(笑)。

秀逸なのは、お皿がカウンターの上を動く仕掛けになっています。

この時期になると、毎年、遊びの中に「協同性」が浮かび上がってくる気がします。

そうした発達の姿はお楽しみ会などでもお伝えできれば、と思います。

子ども主体の保育・・というけれど

2021/11/08

いい歯の日(11月8日)の今日、大人の歯へ生え変わる年長さんたちの、ぐらつく前歯を「ほら、みて」と見せにくる子たちと接しながら、子どもが自分自身の体の変化を分かち合う共同体が、ここの生活なんだな、と妙に感じ入った瞬間がありました。人が「主体的に生きる」とは、自分は自分だけど、自分は自分だけじゃない、という感覚をしっかり持つことも、大事なことなのでしょう。

子ども主体の保育について、説明する機会が今日は2回、午前と午後にありました。午前は見学に来た桜美林大学の3年生に、午後は千代田区が主催したリモートによる園長会です。この主体性という言葉は、わかったような、わからないような、実に扱いに困る言葉なのですが、保育の質や大人の価値観と密接に関わる言葉なので、一度はきちんと分析して理解した方がいい言葉だと思います。

まず「子ども主体の保育」というと、一般的には「子どもを中心にした保育」、とか「子どもを主人公にした保育」、などと言い換えられるような意味が多い気がします。

実際の保育場面では「子ども主体の活動にする」とか、「もっと主体的な遊びを取り入れる」などとも使われます。この場合は、「子どもが自発的である」とか、「自主的に自ら取り組んでいる」とか、「子どもの興味や関心に基づく活動になっている」、そういった意味で使われています。

ところで、日本語は外来語を訳した時と、しばらく経って、日常的に使われるようになるまでに、その意味がずいぶん変化してしまいます。この主体性という言葉も、本来の意味からずいぶんずれてしまった言葉のように感じます。

では、本来の意味はどうだったのでしょうか。言葉には、反対の言葉と並べてみることで、その意味がはっきりすることがあります。例えば自立と自律はよく似た言葉ですが、全く意味が異なります。いずれも子どもの成長の姿として大事なことですが、英語で考えるとはっきりします。自立の反対は依存です。自律の反対は他律です。自分の力でしっかり立つということと、人に言われなくても自分で自分の行動を律するということでは、かなり意味が違うことがわかります。

これと同じように、主体性の反対を考えると、本来の意味がはっきりします。主体の反対は客体です。文法で例えると主語と目的語ぐらい違います。人を主体として扱うのか客体として扱うのか。子どもの主体としてみるのか、客体としてみるのか。そう考えてみたとき、これからの保育について「子ども主体の保育を大切にします」と言ったとしたら、それまでは「子どもを客体として保育をしていました」と言っていることになるのかもしれません。

「大人が子どもを客体としてみる」ということが、もし「大人が主体で、子どもを客体としてみていました」という意味になるのなら、ちょっと極端な言い方をすると、それまでの保育は「子どもとは何かを教える対象」であったり、「指示して動かす対象である」という保育になっていたのかもしれません。

ちなみに、ちょっと脇道にそれますが、この「子ども客体論」に基づく偏見はたくさんあって、それを紹介すると、「大人は成熟していて子どもは未熟な存在である」、「大人はあることに長けていて、子どもは何かを身に付けさせなければならない存在である」、「大人は優れていて子どもは劣った存在である」、「大人が一人前なら子どもは半人前である」・・・・このような子ども観は、また至る所で見られます。

そうではなく、「子ども主体の保育」を本気で実現させようとするなら、子どもを客体として扱わない、保育の対象として扱わない、という意味にまで発展していきます。子どもも大人も主体者であり、同じ人間の主体者として、ともに生活を作り上げる主人公である。実際のところ、子どもは自ら環境に働きかけて、色々なことを学び取っています。子どもは「有能な学び手」であり、「小さな科学者」であり、一人の生活者、一人の市民として何事にしても自ら意思決定する存在であると尊重されていくのです。

当園でいう子ども像の「自分らしさ」とは、この主体性のことです。そして「意欲的で」というのは、主体性の性質です。だからこそ「思いやりのある子ども」は、他者の主体性も尊重できるような主体になりましょう、ということです。やりたいことを自分で決めて、やりたいことをやれるようにしますが、それは自分だけではなく、他者のそれとも両立するような形で(共生社会)ということになります。

青木さん主催の座談会(11月14日)にお邪魔します

2021/11/07

過去2回の「親子運動遊びの会」でお世話になったダンサーの青木尚哉さんから、ワークショップのトークセッション(座談会)にお誘いを受けました。11月14日(日)の夕方です。お相手は「芸術と子どもたち」代表の堤康彦さんです。先週、墨田区立業平小の運動会で初めてお目にかかり、子どもの表現に関する考え方が似ているなあと感じました。どんな話になるのか、楽しみです。青木さん自身が作られたフライヤーができました。場所は海老原商店で有料です。この活動へのカンパ、だと思ってくださいませ。

ただ、時間が17:00〜なので、ちょっと参加しにくいかもしれません。ライブ配信もあるそうなので、晩ご飯を作りながら(?)ご覧ください。

忍岡高校生2名が保育士体験に

2021/11/06

忍岡高校の2年生が2人、保育士体験をしました。小学校の頃から保育士になりたい、という夢を持っている二人。今年の夏に体験する予定だったのですが、やっと実現できました。本人たちは、楽しかったようで「保育士になりたいうという気持ちが強まりました」と語っていました。コロナ禍で、保育体験や保育ボランティア、保育実習などの機会が奪われてしまったことから、学校の進路指導やキャリアガイダンスにも大きな影響が出ています。

午後からは、ある大学の実習懇談会がリモートで開かれました。この大学もコロナ禍で実習を拒まれた学生が多くいて、当園は1名を受け入れてあげましたが、懇談会では、コロナ禍でも受け入れた保育園の先生たちが参加していました。受け入れる時期の判断と、丁寧な感染対策が欠かせませんが、できるだけ機会をとらえて、学生たちの夢を叶えてあげたいものです。

加湿と空気清浄の機能を強化へ/今日の「月夜は?」を掲示

2021/11/05

空気清浄機の機能を兼ね備えた「加湿器」を今日、全ての保育室に設置しました。

(1階 ちっち・ぐんぐん)

明後日7日には「立冬」だというのに、幸にして10月のような20度前後の暖かい日が続いています。これからは一雨ごとに寒くなっていくでしょうが、それに併せて空気も乾燥してきます。コロナ対策を考えても窓を開けた換気がしにくくなるので、空気清浄の機能を強化しました。

(2階 にこにこ)

(3階 中央)

(3階 寝室)

話は変わって、今日は月の年齢は「0.3」で新月です。今日から毎日、月が少しずつ上弦の月になっていきます。その月の写真を、1階から2階への階段の袖に毎日掲示していくことにしました。「今日のお月様は、どんな形かな?」と、親子の会話を楽しんでください。

満月から下弦の月へ向かう月には、日本らしい名前がついているのですが、その風情も楽しんでもらえたら、とも思っています。

またチャンスがあれば15日ごろから望遠鏡で上弦の月を観察できたらと思います。

 

お手伝い保育

2021/11/04

年長の子、すいすい組の子たちは好奇心いっぱいでした。新しいことをやるのが楽しかったようです。

今日4日(木)の午前中は「お手伝い保育」でした。年長児10人が3グループに分かれて、ちっち・ぐんぐん、にこにこ、事務室のお手伝いです。「お手伝い保育」は、年長と乳児ぐらい、はっきりと年齢の差がある間で行われます。子ども同士の関係の中には、発達が同じくらいの間で遊んだり過ごしたりする関係と、発達に差がある子どもの間で関わる関係とがあります。

先生がやっていることを、子どもが手伝うという活動には、普段の生活や遊びの中では体験できないことが色々あります。今日、私が事務室でやってもらおうと考えていたのは、芋掘りでとってきた「さつまいも」と「つる」による、オーナメントと、つるによるクリスマス用のリースにするための準備でした。

ところが、子どもたちが3階からお手伝いに降りてくると、Hくんが手に持った袋の中に、お世話になったトンボが入っていました。「埋めてあげたい」というのです。お手伝いは「じゃあ、どこがいいかな」と話し合うことから始まりました。そして決まったのが、駐輪場側の花壇。4人いるので「土を掘る人」「トンボを入れる人」「土をかける人」「応援する人」に分かれていました。

その後、さつまいもやつるをバケツで洗いました。食育活動としての芋洗いとは違い、大きなバケツでいもを洗うので、その作業の一つひとつが、新しい体験になっていきます。

それが終わると、階段に貼ってある「数字」を新しいものに張り替えるという、主任の作業のお手伝い。まずは、古いものを剥がしてもらいました。

その時、剥がした数字のラベルを、「10個ずつ、数字の順番に並べる」という作業に転換します。そうすることで、5、10、15・・という区切りを意識してもらいます。当園の生活の中には「算数のはじまり」が埋め込んであるのですが、これもその一つです。

最後は馬の水飲み場に3人だけ出かけて、30分ほど木登りをして遊びました。さっと行って、さっと帰ってくることができます。少人数だと動きやすい。木登りは10月15日以来、確実に上達してきました。

今のところ、登るルートが2ルート開発されました。園に残った子は、玄関のプランターのお世話です。朝顔はもうすぐ、種の収穫の時期がきそうです。ぐんぐんさんが育てているメロンも、大きくなってきました。

 

文化の日は「共生の喜び」を確認する日

2021/11/03

今日11月3日の文化の日は、文化勲章を授与される日で、長嶋茂雄さんがニュースになっていますが、今年は武田信玄の誕生日でちょうど500年になることを知りました。漢字で書く、この「文化」という言葉を日本人が使うようになったのは、明治からです。外来語の、たぶん英語の culture を「文化」と訳したのでしょうが、 cultureには他にも「栽培」「耕す」という意味もあります。日本語はカタカナでカルチャーと書くとまた別のニュアンスが生まれ、使い分けています。

辞書をひくと、文化とは「人間が後天的に学ぶことができ、集団が創造し継承している認識と実践のゆるやかな体系のこと」と説明されていたり、ネットで検索すると「複数名により構成される社会の中で共有される考え方や価値基準の体系のことである」とされたりしています。また「 簡単にいうと、ある集団が持つ固有の様式ことである」ともあります。

そうなると、私たちが基本的な生活習慣と呼んでいる食事、睡眠、排泄、衣服の脱ぎ着、手洗いやうがいや歯磨き、挨拶なども、全部、文化です。また、ありとあらゆる遊びや活動も文化です。なんでもなくなった今でも、マスクを取ろうとしない日本人の感性とかも文化でしょうか。

子どもは、子ども同士の関係、親や大人との関係の中で、お互いに育ち合っています。事実、私は子どもたちからも保護者のみなさんからも、いまだに育てられてもらっていると感じることがいっぱいあります。子ども同士の関わりは、クラスブログでもよく取り上げられていますが、エプロンをつけたあげたり(つけさせてあげたり)、ズボンを履くのを手伝ったり(手伝わせてあげたり)、しあうのは、「子どもにとって、生活の中の一つ一つの習慣や行為は、その目的を達成するためだけのものではなくて、友だちや大人との関わりの喜びを感じたり、そこから色々なことを学びとったりするための時間でもある」(昨日のぐんぐんブログ)のだとしたら、これこそ、文化的実践と言えるものだと思いました。

どうしてかというと、こうです。文化の辞書的な定義だと「なんでもあり」かのように誤解されがちですが、「文化の日」が醸し出しているものを感じ取ると、また「耕す」とか「栽培」とかの意味もあったことを思い返すと、文化という言葉には、国や地域社会の成り立ちや、それを成り立たせてきた歴史や自然や風土との関係、あるいは今の生活様式に大きな影響を与えてきた、ルーツのような、また私たちが生きる条件のようなものを指し示している、という語感を伴います。

最近は千代田区の保育の歴史を振り返っているのですが、平成20年告示の保育所保育指針の解説書を作っていたときに、色々なアドバイスをいただき、大変お世話になった柴崎正行さん(数年前に亡くなられました)が著した本の中に、こんな言葉があります。「子どもたちは園生活の中で、何をどのように学んでいるか」というテーマで「子どもたちは、保育者や仲間と一緒に園生活を営みながら、実に多くのことを学んでいます。その中には、人として生きていくために、どうしても欠かすことのできない、大事な事柄が含まれているのです」

この大事な事柄とは、こうです。「例えば、他者に自分の思いを伝えることや仲直りをすること、他者を助けることや、できないときには手伝ってもらうことなど」という例を挙げています。NRちゃんがN Lちゃんのズボンを履くのを手伝う姿は、あるいは手伝わせてあげる姿は、「喜びを感じたり、いろいろなことを学びとったりするための時間」だとすると、人としていききていくために、どうしても欠かすことのできないものが含まれているからなのでしょうね。それは一緒に生きること。ともにあるという心を確かめ合っているようにも思えます。

ちょうど今、英スコットランド・グラスゴーでCOP26(国連気候変動枠組条約第26回締約国会議)が開かれています。文化の日は、世界中で未来に向けた共生の日になるといいですね。

 

年長児の体力測定

2021/11/02

年長の5〜6歳の子が25メートルを何秒ぐらいで走ると思いますか?

ソフトボールを投げたらどれくらい投げるでしょう?

立ったまま両足を揃えての幅跳びは何センチ?

両手をテーブルについて自分の体重を何秒支えることができるでしょう?

こんな運動能力を今日、千代田区の方と一緒に測定しました。場所は旧今川中の校庭です。

何をするのか興味津々だった子どもたちですが、やるたびに「すごいね」との褒められながら、限界に挑戦する運動を面白がっていました。

ストップウォッチで測定を手伝っていただいた区の方は、両手で体重を支える力に驚いていました。

 

数秒で終わってしまうことが多いらしいのですが、千代田の子たちは何十秒もやっていて、中には1分を超える子や2分を超える子もいました。

これこそ普段の運動遊びの成果だと思いました。25メートル走も5秒台6秒台が多くて、早いです。

 

ソフトボール投げは、昨年もそうだったのですが、そもそもあまりやっていないので(やれる場所がないことが大きい)、距離はあまり出ません。私はそれはあまり気にしていません。結構、早い球を投げていました。ただ角度が地面に向かってしまったりと、投げる角度がもったいない、というケースが目につきました。ですから、やればできるようになるでしょう。これは基礎体力とはちょっと違って、ある種の技能なので、コツをうかめば、遠くまで投げることができそうでした。

結論は、もちろん個人差はありますが、総じて申し分なし、です。帰りには、馬の水飲み場で木登りをしたりして、園に戻りました。

 

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