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園長の日記

新年度の新しい仕組み

2022/03/14

先日デジタル庁の担当者に来ていただいて、DX (デジタル・トランス・フォーメーション)に取り組み始めました。と言うと大げさですが、事務長の友人にMicrosoft系のアプリについて、アドバイスをいただくために園に来てもらったら、デジタル庁にお勤めでした。コロナによって日本はデジタル化が先進国の中で遅れをとっていることが明らかになり、全国の自治体もDXに来年度予算をつけています。千代田区もそうです。(この予算は、公立だけなので、民間の私たちのではありません。)

当園も遅ればせながら、デジタル化を進めることで、業務効率を上げ、先生たちが、保育で大切なことに、これまで以上に時間をかけられるようにしたいと思います。また紙の媒体を極力なくし、記録の振り返りやデータの有効活用も図ります。保護者の皆さんとのやりとりは、アプリを使った方法に移行します。3月から移行期間に入っていますが、メリットの方が大きいことを実感しています。例えばお休みの連絡内容が正確に記録に残り、職員間の共有もしやすく、クラスや園全体での状況が一目でわかり、いろいろな情報も把握しやすくなりました。

保護者の皆さんも、スマホが普及してきたこともあり紙媒体での情報把握よりも、利便性が向上すると思われます。新しいことを始める事は、これまで慣れていた事を止め、新しくいろいろなことを覚えなければならないので大変なのですが、これに取り組むことによって、保育の質の向上、職員の働き方改革にもなっていくと思います。ご理解とご協力のほど、よろしくお願いします。

なんと恐ろしいことでしょう

2022/03/12

2月24日のロシアのウクライナ侵攻以降、私は人間の愚かさをそこまでを想像できていなかったことに、絶望的な気分になっています。私の父は、第二次世界大戦に参加し、海軍でラバウルでアメリカと戦いました。目の前で死んでいく戦士を見てきた父は「戦争は絶対にだめ」と、子どもの私たちにいっていました。私たちは第三次世界大戦の前夜にいます。

人口4,400万人のウクライナ。首都キエフの人口は300万人。国連人口基金によると、約1,000万人が国内で避難民となり、約300万人が国外への難民となっています。世界中が見守る中で、よくこんな暴挙がまかり通るものです。既に起きていることでさえ悪夢のような現実なのに、これからキエフへの総攻撃が始まるかもしれないと言う、なんと恐ろしいことでしょう。ほんとにこんなことがあって良いのでしょうか。人間が狂うことほど恐ろしい悪魔はいないと、思い知らされます。そして、何もできないことにぼう然としてしまいます。

普段、保育と言う仕事を通して、子どもも大人も、人間はいかに一人ひとりの尊厳を尊重しあえるかと言うことに力を注いでいるのに、戦争となると、人間が戦士という匿名の個人となります。100人、1000人、万人、そんな単位で死者の数が増えていき戦況のデータの一つに過ぎなくなってしまいます。あぁ、なんと言うことなんでしょう。とにかく、恐ろしい。

就学する小学校を訪問

2022/03/11

9日(水)には和泉小学校へ、また11日(金)には千代田小学校へ、この春入学する子どもたちを連れていきました。校長や副校長先生が大歓迎してくださり、小学生たちも待っていてくれました。

私の思いは入学までの心理的な敷居を低くしてあげたい、というものが主だったのですが、小学校へ行くよ、と話した時からワクワクして待っていたようです。

2時間目と3時間目の間の「中休み」の時間に合わせて出かけ、先生や小学生と交流できました。とくに卒園児との再会はお互いに嬉しかったようです。

授業を少しだけ、教室の後ろから見せていだきました。国語や音楽、体育などの「授業」が、こんな感じなのか、と伝わったことでしょう。

やっとこのような訪問ができました。コロナに拒まれていた2年間。もっといろんなことをやりたいと思っても、交流というものは相手が快く思っていただかないと、うまくいくものではありません。ここでも先生同士の思いの共感、心の通いあいというものがベースにあるかどうかが大事だからです。以下は、全て余談です。これからは、もっとこうだったらいいな、という私の振り返りです。

私たちの法人は保育界が「連携・交流・接続」などという言葉で小学校とのつながりを求めるようになる、はるか前から子どもたちを小学校へ連れて行ったり、小学生が保育園に来たりしていました。1979年に開園した省我保育園では、学区でもある八王子市立第十小学校へ出かけ、園児が学校給食を食べさせてもらったりしていました。藤森園長(当時)が地道に創り上げて行った関係です。藤森先生が小学校や保育園で講演をしていたのを、見せてもらうことあり、藤森先生が小学校の先生もやっていたので、学校や教育委員会からの信頼が厚かったからです。

1997年に開園したせいがの森保育園では、八王子市立長池小学校の先生が全員保育園に来て、話し合いをしていました。また近隣の小学校の教頭先生(当時)4人が集まって、総合的学習の時間などに活かせる地域人材の情報を交換していました。小学校がお店屋さんなどを開き園児が遊びに行ったり、小学校のクラブ活動のグループが保育体験に来たりしていました。卒園園児が保育士として戻ってきているほど、子どもたちの生活全般の中に、地域のいろんな人たちが出会い、挨拶を交わし、思いを分かち合い、課題解決を一緒に考えていました。

ことさら、連携だとか交流だとか、上からさせられているという感覚はありません。それぞれの人たちが、自然と「こうだったらいいよね」と考えて動くキーマンが、それぞれの場所にいらしたものです。その結果、保育園の周りには、幼稚園の先生、小中学校の先生、用務員の方、学童の指導員、児童館の遊びのボランティア、保健所の保健師さん、地域で活動する助産師さん、児童民生委員、主任児童委員、とにかくいろんな方が、保育園を出入りしていたものです。出来上がった成果は、自主学童クラブ、子育てひろばの地域運営、発達支援のセンター創設、ファミリーサポートセンターの保育園版、小学校の先生の保育体験、保幼小連絡協議会の立ち上げなどがありました。

人というものは生まれた時から「ジョイントネス」という、人と人がくっつきたがる傾向を持っているという赤ちゃん学の知見があるのですが、それは私にとっては、それは当たり前の感覚です。人間学や人智学に学べば、私たち人間は教育の意図を超えて、そもそも人生が望ましいものを追求するようにできています。その本来や本分を踏み外さないなら、「こうだったらいいのに」が湧き出てくるものです。その感覚を大事にしていきたいものです。

自立の姿(その10)遊び

2022/03/10

今回で「自立の姿」の短期連載は終わりです。これまで生活の中から、食事、睡眠、排泄、衣服の着脱、清潔、危険回避、身近なものの扱い、あいさつについて「自分でそうなる」ような自立の意味やポイントや述べてきました。最後は、子どもたちの本分ともいえる「遊び」です。遊びの自立というのは、どう考えたらいいのでしょうか。

子どもに好きなようにしていいよ、という状態を与えると、誰に言われなくても、自分からやり出すことがあります。それが遊びです。勾配のある場所に水を垂らすと、水は低い方へ流れます。それと同じように子どもは遊び始めます。私が保育の仕事を始めた四半世紀前、研修で聞いた話が忘れられません。それは幼稚園で「お絵描き遊び」をしていた時の話です。遠足にいった思い出を描いていたそうです。きっと楽しかったことを、それぞれの子どもが絵にしたのでしょう。研修の先生は「実は、このお絵描き遊びは、遊びではありませんでした」というのです。私はどういう意味だろうと思いました。話はこうでした。このお絵描き遊びが終わった子どもが、先生に所にやってきて、こう言ったらしいのです。

「先生、お絵描き終わったから、遊んでいい?」

子どもたちにとって、お絵描き遊びは、遊びではなかったのです。子どもは自分がやっていることが、遊びかどうかをわかっています。遊びというものは、自分でやりたいことをやり始めます。人にやらされることは遊びになりません。

一見、いかにも楽しそうに見えたり、大人から見て、やっている活動に意味のあるものに見えれば見えるほど、大人にとって、それが遊びなのか、そうでないのかの見分けが難しくなるかもしれません。でも見分け方は、簡単なんです。遊びは水が低い方へ流れるように、本当に自然に始まるものなのです。「さあ、これからお絵描きをします」。とって始まるお絵描きは、それをやりたかったならいいのですが、やりたくない子にとっては苦痛なものになります。

遊びの自立とは、まずこの条件が満たされることです。まずは、その遊びが遊びであること、です。

そうでなければ、「遊びもどき」の活動は遊びではないので、自分からやろうという気になりませんし、熱中しませんし、継続しません。基本的に「できればやりたくないなあ」という気分モードなので、やめるきっかけがあれば、さっさとやめます。

それに引き換え、本来の遊びは、自発的なものです。ですから、最近の保育所指針や幼稚園教育要領には、「遊び」と書かずにわざわざ「自発的な遊び」と書いているのです。遊びは本来、自発的なものなのですが、そうでない遊びが混ざり込んできやすいからです。「遊びは自発的なものですよ、大人がさせる遊びは慎んで下さいね」というのが国の方針です。本物の遊びでなければ、子どもは育ちません。本当の学びになりません。必要はものは子どもがやりたがる遊びの中で身につけるのです。その時、遊びの中で何を学んでいるのかを見極める力が、プロの保育士の力です。

これは他の生活の活動では、迷うことはないでしょう。食事は食事ですし、排泄は排泄です。それか食事なのか、排泄なのか、遊びなのか迷うことはないでしょう。ところが遊びの場合は、自然とそうなる傾向を持っているので、寝る時間だから寝せとうと思っても遊びが終わらない、とか、最後まで食べてほしいと思っても遊び食べになる、とか、あるいは手を洗っていたと思ったら水遊びになっていた・・・こんなことの連続ではないでしょうか。

ここではっきりすることがあります。それは、遊びは子どもにとって自然と「始まる」ものであり、自発的なものでなければならず、そうでない遊びは強制的な遊びか、自分で選び始めていない誘導された活動です。したがって、本物の遊びの自立を考えると「お終い」にすることが、課題になってきます。そこで遊びの自立の姿とは、「自分で遊び始め、自分でお終いにできる」ということになります。遊びは終わることが難しいものなのです。そこで自分で遊びをお終いにできる、区切りをつけることができる、一旦やめることができることが、現実的な生活の中では「自立のテーマ」になってくるのです。

そのヒントは次のようなものです。

(1)遊びは中断してもまた「続きができる」ことを納得できるようにすることです。これは発達が未熟なうちはできません。「一旦、おしまいにしてお食事にしよう」ができるようになるのが、これもまた見通し力が育つ満3歳のころなのです。2歳の頃からまた後でできる、という体験を積み重ねることで、それができるようになっていきます。

自分で決めることにこだわる時期に「すぐにやめる」カードと「あと1回」のカード2枚、3枚などを選ぶという方法もあります。選択肢の中で選ぶことで、自分が決めてそれに従いやすくなる時期があるものです。その段階を過ぎると「まだ途中です」とカードや札や目印を自分で置いたり示したりして、一旦おしまい、ができるようになります。

(2)質の高い遊びは、継続性が見られます。1日から2日は当たり前で、1週間ずっと続いたり、1ヶ月2ヶ月と続くことだってあり得ます。このような遊びは、同じような遊びをしているように見えて、実にさまざまな体験が含まれており、それを縦横無尽に使い切っていたりします。このように長い遊びは、一旦区切る、一旦おしまいにするということが何度もできており、遊びが自立していると言えます。

(3)もっと長い遊びがあります。それは実は人生です。私たちは本当に真剣に仕事に打ち込み、何かを成し遂げ、探求したり協力したり、何かを発明したり、社会に貢献したりしながら生きているわけですが、その本質は本物の遊びに似ています。人生にとって遊びの区切りをつけるということは、人生における本当の自由な生き方の選択に似ているなあと、私は思っているのですが、それはまた別の機会に。それはともかく、熱中して遊び込んでいる子どもの姿は、子どもの人生の熱中度を表しています。子どもが本当に生きている時間を過ごすには、本当の遊びを保障することです。そうやって遊ぶことが、その後の生活の基本を作っているのです。

自立の姿(その9)あいさつ

2022/03/09

本来のあいさつというものは、心のこもった言葉が交わされる繋がりを、浮き彫りにしたり、ないと困る心情なのに、本当はそうではないのにあることにするためだったり、あからさまにしないための方便であったりと、人間が編み出したうまい知恵のように思えます。ただ、好ましい挨拶は、それが嬉しくてその気持ちを再確認するような心の働きをもつ場合でしょう。

次のエピソードは、一度話したことがあるのですが、藤森統括園長が誕生日のお祝いに、園児から紙で作った紅白饅頭をもらった時の話です。「わあ、ありがとう」とお礼を言ったそうですが、その園児はしばらくして戻ってきて「あれ、嬉しかった?」ともう一度聴きに来たそうです。「ああ、そりゃ、嬉しかったよ」と藤森先生は答えたそうです。

このエピソードは私にとって、忘れられない、いい話だと思います。私はこのように感じています。その子は、最初に藤森先生に「ありがとう」と言われて、嬉しかったのでしょう。プレゼントはもらったら嬉しいわけですが、この場合「ありがとう」と言われたことが「嬉しかった」のではないでしょうか。ですから、その子は、自分に沸き起こった「嬉しさ」を感じていて、プレゼントをもらった藤森先生にも、その気持ちを確かめたくなった、のではないでしょうか。この心の通いあいを確かめたい、味わいたいという子どもの心の動きが生まれたは、とても大切な体験だと思うのです。

私は次のような話を毎年学生に必ず話します。「ごめんねは魔法の言葉」という話です。どうして「ごめんね」が魔法の言葉かというと、それを言って謝ると「いいよ」って許してもらえるからです。よくないことをしたら、ごめんなさい、と自分の子どもは素直に謝れる子どもになってほしいと、多くの親は願うでしょう。それなので、大人は子どもが悪かったら「ごめんねは?」と謝らせるのでしょう。

しかし、この話の次に、こういうのです。「ごめんは魔法の言葉にしてはいけません」と。悪いことをしたら「ごめんねを言いなさい」と、やり続けると、こんなことが起きかねません。実際にあったことですが、友達が作った積み木を間違えて壊してしまい、その子はすぐに「ごめん」と謝りました。しかし、やられた方はいいよ、と許せません。せっかく作ったものが台無しになったからです。すると「ごめん」が何度も繰り返されて、最後には謝っていた方が「なんで、いいよって言わないんだよ」と怒り出しました。

ごめん、と謝ればいいんだという方法だけが、その子どもには習慣になってしまったのでしょう。呪文のようの唱えることがごめん、という使われ方になったのです。ここで立ち返りたいのは、謝るというのは、本当に「ああ、悪かったなあ」という気持ちがこもっているかどうかが問題なのです。心のこもった「ごめんね」かどうか。それが「許し」を促すからです。これを心の通いあい、というのです。謝罪における心の通わせ方の基本です。これは最初のお礼「ありがとう」にしても、感謝の「ありがとう」にしても、言われた方が、心が温かくなります。

つい今さっき、和泉小学校へ4月に入学する子どもたちを連れて行ったのですが、昼食の時にTHくんから「今日楽しかった、ありがとう」と言われました。卒園した1年生が5人いるのですが、再会できたからです。その子は、その言葉が自然に出てくるようになっているので、素晴らしいと思います。そばで聞いていた千代田小にいく予定の子たちは「えー、いいなあ」と、本当に羨ましいようでした。その一言を聞くと別の機会に連れて行ってあげたいと思ったのでした。

人は人と関わり合うことを本質に持っている生き物です。面白いのは、かかわりあいや、一緒にいることや助け合うこと、心を通わせることをこんなに真剣に求めあう存在なのに、その一方では、一人ひとりが全く異なるものを携えて生きてきたし、生きていく存在だという、この2面性があることです。分かりあうことを真剣に求めていながら、分かり合えないこともあることを認めなければならないような、そんな矛盾した世界の中で、誰もが真剣に生きています。

社会的な生き物でありながら、人間だけがもつ個人の奥深さという、この2面性の中で、その接点を常に確認し合う営みが「あいさつ」なのです。ですから、挨拶というのは、挨拶を必要とする関係から挨拶を必要としない関係まで、実に幅広い人間的繋がりのスペクトラムの帯の中で、それにふさわしい形というものを取ります。挨拶にこれが正解というものはなく、そこに込められた心情や気持ちを大切にする中から、生まれた知恵のようなものでしょう。

出会いの挨拶、別れの挨拶、セレモニーの挨拶、政治家の挨拶、市井の人々の日常の挨拶、いろいろな挨拶というものがありますね。それぞれに意味や歴史や彩りが異なり、それぞれに期待されている役割があります。小さい子どもたちにとって、大切にしたいことは、あくまでも気持ちの通いあいが「嬉しい」と思えるような体験になることです。

毎日、その都度、必要な時に使うもの挨拶です。いま、外遊びから帰ってきた子どもたちが「ただいま〜」と元気な声で<楽しかったあ〜>という気持ちを伝えてくれます。誰もいないのかな、と思っていた場所で「ばあ〜」と私を驚かして喜ぶような朝の挨拶もあります。あるいは「私がここにいるよ、気づいて」というサインのような挨拶もあれば、いつまでも深々と頭を上げずに、そこにはこぼれた涙しか跡に残さないような挨拶もあるでしょう。

あいさつは「こんにちは」「おはようございます」と挨拶することで、私はあなたに心を開いていますよ、身近な人だと思っていますよ、という確認なのでしょう。挨拶をしたい相手や場面や状況に応じて、あいさつが生まれたり、なくなったりします。挨拶というのは、それによって相手との関係が見えてくるものだからです。

その判断は多様な経験の中で、ふさわしい形を編み出した方がいいのですが、学校や町会などが行う「あいさつ運動」という場合の、あいさつは「ここには自然発生的に生まれる挨拶がないので、することにします」と宣言しているように見えます。いかに心を通わせる空気がなくなってしまったのか証明しているように見えます。あれをやってしまうと、挨拶がもつ本来の多様性や歴史や意味あいが漂白されてしまいます。人間関係が希薄になって心を通わせることが難しくなった時代を自ら覆い隠すために行っているということさえ、気づけない鈍感な人間関係を蔓延させてしまうのです。

子育てで大事な挨拶の姿は、大人同士が気持ち良く心を通わせているかどうかです。クレーマーにはきっと挨拶がありません。一方的ですから。大人同士が楽しそうに心を通わせている関係を見ると、その空気の中で子どもは安心して心を許し、素敵な挨拶を示してくれるようになります。やらされている挨拶は痛々しい。そのさせる力がなくなったら、きっとしなくなるものだからです。先にあるのは心と心のつながりなのです。保育はそれを守り、育てる営みです。

 

自立の姿(その8)身近なものの扱い

2022/03/08

「身近なものの扱い」の自立の姿は「社会の変化で変わる生活スキルの基礎を模倣を通じて学ぶこと」ということになります。

ちょっとだけ、人間と環境の関係の本質について説明しておきます。

人間は周りの環境世界から、自分にとって気に入るもの、自分を惹きつけるもの、有用なものを取り入れようとします。世界は自分にとってどうあるのかこそ、生存を左右しかねないテーマになるからです。そういう意味では、発達というのは、子どもが事物を見たり触ったりしながら、自分にとって気に入った心地よいもの、有用なものを引き寄せながら、自分の生活圏の中に「あるもの」を取り込んでいくことでもあります。

事物は子どもにとって、どのような姿を見せてくれるのでしょうか。それを探り当てながら、その事物そのものが伝えてくるものを、子どもは受け取っています。心地よいこと自体に意味があるのではなく、それを与えるにふさわしい性格がその事物に備わっていると言う事が大事なのです。

また、身の回りの「もの」のそれぞれについて、子どもはその用途や目的を理解することで、その扱い方を覚えます。その用途の目的と「もの」の概念はセットです。例えば、ここにコップがあります。初めてコップを見た子どもは、その用途をまだ知りませんから、触って倒したり、持って口に持っていって舐めたり、場合によっては手を離して落としたり、転がしたり、半ば偶然に任せていろんなことをします。毎日の生活の中でそれにお茶やミルクが注がれて、飲むという場面でコップが現れるので、それを口へ持っていって傾けて飲むものであることを認識するようになっていきます。また使われるたびに、「はいコップどうぞ」だとか「コップはこっちね」など、繰り返し聞こえてくるコップのところが、どうも「コップ」というものらしいと気づき始めます。言葉の獲得も「もの」の扱いを促します。

子どもはいつもの使われ方と意味される概念を結びつけて自分のものとします。こうして子どもは教えてもらわなくても、見る力、聞く力で、その対象のものの扱いを習得していくのです。そうではければ、身の回りの物の扱い方を、まるで自動車教習所で車の運転を学ぶかのように、いちいち一つずつ教えなければならないことになります。以上をまとめると、子どもは世界から意味のある対象を選び取るのですが、そこには他の人が使っている意図と方法をセットで模倣し、自分のものにしていきます。

このイミテーション学習を、ざっくりと「模倣」と呼びます。真似ることが学ぶことになっていきます。その中にものの扱いも含まれるのですが、人間は手順を覚えるというよりは、その目的を先に理解してしまうので、その目的に適った方法を自分で編み出します。前置きが随分と長くなりましたが、この物の扱い方は、そのものの用途にあった扱い方をモデルを通じて身につけていくので、上手な扱い方を見せることが、上手な扱い方を真似するようになります。実は挨拶も同じ原理なのですが、それは次回の最終回で説明します。

さて、本題に戻りましょう。生活上のものの扱いというと、衣食住の中に見られるものは全てです。衣類と食事はお話ししましたが、住むということの中には、居住空間の中にあるものですが、現代はかなり電化製品が代わりをしてくれるようになり、昔は子どもの頃から習得する必要のあった掃除や洗濯、裁縫、水汲みや灯り、火を起こしたり灯りを灯したりといったことも、生活技術の中から消えてしまいました。家庭生活の中に残っているものの扱いは、どんな取扱説明書があるかが象徴的です。

当園では、あえて昔からある生活技術の中から、ほうきとちり取り、雑巾掛け、モップなどの掃除スキルは体験しています。お米とぎや野菜の栽培、金魚や生き物への餌やり、生花なども生活の中のスキルです。現代は学問優先の学校教育になってしまいましたが、高等教育を受けても、現代社会を生きるための生活技術がすっぽりと抜け落ちているので、恋愛や子育て、経済や保険など、すぐに必要な基礎スキルを持たずに社会に放り出されている若者が多い気がして、とても気の毒です。やっと英語やプログラミングや金融を学校で学べるようになりましたが、教える先生が足りないという状況です。

こんなにあからさまに抜け抜けと戦争が勃発する社会を突きつけられると、きちんと政治と平和を教える国際的カリキュラムが不可欠なようです。核やロケットや武器を身近なものとして、大人もその扱い方を1から学び直してもらう必要があるようです。

 

 

自立の姿(その7)危険回避力

2022/03/07

危険を回避する力は、生きていく上で、どうしても必要な基本スキルです。どこで何をどうしたら危ないのか? 何をやってよく、何をしたら危ないのか?この判断力と行動力は、どうやったら身につくのか?ーーここに大きな保育のテーマがあります。この危険回避力の自立の姿は、どういうものでしょう?

 

「さまざまな状況の中で、自ら安全な生活をを作り出す力を身につけること」

これがリスクを回避できる自立の姿です。ここでのポイントは、リスク判断なのです。どうやったら、こうしたら危ないと予想して予め回避できるようになるでしょう。自立にはその発達の過程があります。赤ちゃんの頃からここでできる、年長さんになったらここまでできる、そんな身体的、精神的な発達の段階があります。

発達というのは自分で関われる世界、自分の中に取り込める世界が「広がっていく過程」だとも言えます。そばにある物が触ってもいい物なのかどうかは、大人でも分かりません。山菜取りで食べていいキノコと毒キノコの違いは、体験で学ぶことは危ないことになります。人間にはその判断力は本能や遺伝の中に組み込まれていないからです。しかし山に棲む熊は、その差を間違うことはありません。それを破断できる感覚の器官を持っているからです。

手に取って口に持っていって、舐めて確かめる赤ちゃんにとって、その物に毒や病原体がついているかどうかは判断できません。目に見えないもの、匂いで判断できないもの、音を聞いて区別できるもの、そういうものは、外界を捉える感覚器の感度や力によって異なるからです。

子どものことを話しているので、人間の感覚の感度と判断力の限界を知っておけば、学ばなくても自分で判断できる危険と学習すべき危険を分けることができます。研究によると、人の場合は学習しないと判断できないことの方が多いそうです。これは能力が劣っているということではなく、環境への適応力を高めるために、つまり環境が変わっても生きていけるように柔軟に適応できる仕組みを持っていると、言い換えることができます。動物の本能は学びが少なくても適応できますが、個体の一生の間に変わってしまう環境へのリスク回避はできません。レジ袋を海藻と間違えて食べてしまうウミガメのように。

寝返りもできない頃の赤ちゃんを坂道に寝せると転がってしまいます。自分で回避できません。しかし、はいはいができるぐらいになった赤ちゃんは、断崖の前に座らせると、それ以上進むことを躊躇するそうです。これ以上やっていいの?という警戒心が育っていることになります。9ヶ月ごろをすぎると、周りの人は「意図」を持っていることを理解できるようになるので、「ここ、どうなのよ、行ってもいいの?」と大人の表情から、いい、悪いのサインを読み取るようになっていきます。社会的なサインを参照しようとし出すのです。

複雑なものや場所になると、もっと詳しく「どうやったら安全か」を学ぶ必要があります。これは体験の積み重ねからの学習がものをいうので、小さいことから危険回避の学習機会を多く用意しておく必要があります。この考え方に基づいて、ヨーロッパの「乳児の」多くの保育園では、芝生にした園庭にわざわざ大きな岩を置き、アスファルトで舗装した歩道をあえて土と石の歩道に作り替え、あえて段差を設けています。なんでも滑らかにしてしまうユニバーサルデザインとは異なる発想です。

階段は手すりを持つことで転びにくくなること、花瓶は倒れたら水がこぼれること、お茶碗は落とすと割れること、高いところから落ちると勢いがつくこと、器の水はそっと運ばないとこぼすこと、人の体は転ぶときに咄嗟に手で支える必要があること、このようなことを「体験しながら」子どもたちは身につけていきます。走ると急には止まれないこと、手すりから体を乗り出すと思わず前転してしまうこと、通れそうな細道も壁に体が当たって通れないこと、前むにき入れた頭も振り返ることができないこと(頭は楕円形なので)、目が痒くなっても汚れた手で目を擦ってはいけないこと・・・こんな数えきれないほどたくさんのことを、子どもたちは生活の中で、その都度身につけています。

馬の水飲み場の木登り、和泉公園の木登りを怪我をしないように丈夫に登れるようになるには、これらの力がうまく組み合わさっています。子どもの生活圏を、危なくないように何もないようにすることは、かえって危険です。自分で危険を回避する判断力と適応力、応用力を育てるチャンスを失うからです。安全の自立というのは、子どもが転ばないようにガードしたり、転んでも怪我をしないようにクッションを用意することだけは足りません。転んでも自分で手をつけること、転ばないような歩き方、走り方ができる能力を育てることが必要です。

幼稚園教育要領や保育所保育指針には、教育の「健康」領域に、こう書いてあります。

「健康な心と体を育て、自ら健康で安全な生活を作り出す力を養う」

子ども自らが、安全な生活を作り出せるようにしましょう、というのです。大人がただ安全な生活を与えるのではないのです。

 

自立の姿(その6)清潔

2022/03/06

清潔の自立、ってあまり聞かないかもしれませんが、健康な生活のためには必要なものです。世の中はコロナ禍で大変ですが、感染症を防ぐためにも「清潔」が欠かせないことを思い出していただければ、分かりやすいでしょうか。私たちの体は、体にとって害のあるものを取り込まないようにする仕組みを色々と備えています。皮膚や毛や免疫機構や常在菌なども、毒物や病原体から身を守るためのバリアになっています。

しかし、健康であるためには、顔や手を洗ったり、風呂に入ったり、うがいをしたり、歯を磨いたり、鼻をかんだり、整髪したりと、いろいろなことをして身の回りを清潔に保っています。これらも習慣になるといいのですが、そのためにはどんな秘訣があるのでしょうか。それは清潔の自立の姿をイメージすることから導かれます。

清潔の自立とは、「きれいになることで気持ちがいい、という感覚を覚えることから、自分でやってみたいと思うこと」です。

顔や手を洗うとさっぱりして気持ちがいい。お風呂に入ると気持ちがいい。うがいをするとスッキリして気持ちがいい。・・・こんなふうに、歯磨きや鼻かみなども、きれいになることが「感覚」として気持ちいいとか、うれしいとか感じることが大事なことになります。そのためには、小さいうちから、やってあげるときに、黙ってやるのではなく「ほおら、きれいになったね、さっぱりして、気持ちいいね」と話しかけながら、行うといいのです。

清潔の体験には気持ちよさが伴う。やることが嬉しい。やらないと気がすまない。そんな気持ちの好循環が生まれると成功したのも同然です。それには言葉をかけるだけではなく、そういうモデルを見せること、大人も一緒にやること、そのときに「ああ、気持ちよかった」という感想なりコメントなりを、気持ちを込めて表すことが大事です。そうすると、それをみて子どももやってみようかな、となります。子どもの持っている模倣力に訴えるのです。

もう一つの秘訣は、手洗いなど水を扱うとき、小さいうちは手洗いが水遊びになってしまう時があります。遊びになってしまうときは、清潔のために手を洗うときと、水遊びをすることを別の機会に分けることです。水遊び、シャボン遊びをたくさんんやれば、手洗いのときにはそれをしなくなります。水や石鹸は子どもにとって、土や光と同様に格好の遊具、遊びの材料です。その物の特性を十分に体験し尽くすまで、遊べるようにします。

 

自立の姿(その5)衣服の脱ぎ着

2022/03/05

(90度が4か所あるのが、お分かりでしょうか)

 

「先生、やって」「ああ、いいよ、向こう向いてごらん」

3月4日の子どもクッキングで、エプロンの腰紐を自分で後ろ手で結べないので、やってほしい、というのです。私は「ああ、いいよ」と、やってあげるモデルを見せるつもりで、そうしますが、先生によっては「お友達にお願いしてみて」と、子ども同士の助け合いの体験へ導くような返事をすることも多いです。

それはともかく、小学校中学年以降ぐらいになると、エプロンの紐を後ろで蝶結びできるようになるかもしれませんが、幼児では無理です。そこで大抵は、結ばずに済むようにゴムにしたり、マジックテープにしてもらっています。頭の三角巾も四角の状態から自分で被ることは、幼児ではまずできません。最初から三角形のゴム紐付きにしてもらっています。マスクも、どっちが上なのか「これでいい?」と聞いてくる子もいました。今のマスクは鼻を覆う方が少し窪んでいるデザインのものがあるのですが、その微妙な違いを見分けるのも、幼児では難しいのです。

衣服を着たり脱いだりすることができることは、衣服の着脱の自立といいます。昔、よく身辺自立といういい方で基本的生活習慣の自立のことを、そう呼んでいました。自分ものは自分で始末できる、というフレーズもよく使われました。身辺とか始末とか、けっこう強い語感の言葉が保育では使われていました。自分のことは自分で始末しなさい。生活力の鍛錬にも似て、訓練することが自立の秘訣かのように言われていました。身辺自立ができていないと幼稚園にはいけません。そんな雰囲気があった時代もあります。確かに、30人を一人担任で見るような教員配置の制度のままで(いい加減、無理な配置数はとっとと改善したらいいのに)、身の回りのことが自分でできないと、集団生活が成り立たない、そんな考えが保育の前提に横たわっていたのです。

人間が衣服を使うようになったのは、体を保護すること、体を清潔に保つこと、暑さや寒さの加減をすることなどの必要性からです。その目的を考えれば、現代では生活環境は安全なものになり、お風呂に毎日入ることができ、衣服も洗濯して常に清潔であり、部屋の温度も機械でコントロールできるようになり、衣服の役割は、この保護、清潔、保温などの役割を超えて、別の価値が付加されきました。

オリンピックの開会式などを見るのが、私は好きなのですが、何が面白いかというと民族衣装が登場する国や地域があるからです。でもウクライナのキエフの駅で戦火から逃れる人たちの報道を見ていると、怒りから胸が熱くなります。戦争は命も食糧も剥ぎ取り、衣服でさえままならない状態へおいこむ、惨たらしい卑劣な行為です。プーチンよ恥を知れ!

園児たちは、自分の服を見せてくれます。「ねえ、これ可愛いでしょ」と、今日はこれだよ、と見せてくれるのが朝の挨拶になっている子もいます。「うん、可愛いねえ」と心を通わせてにっこり。一度靴箱に入れた後で、通りかかった私に、わざわざ「待って」と声をかけて、買ってもらったばかりの靴を見せてくる男の子もいます。これらは最高の朝の挨拶ですね。このように装飾的服装つまり衣装の意匠の役割が大きくなりました。ミッキーやキティや鬼滅やシンカリオンが子どもたちの衣服に欠かせないものになっています。

そこで、話を衣服の着脱の自立の話に戻すと、これらを自分で着たり、脱いだりできることができやすいものにしていただきたいということです。頭の大きさに比べて首回りが小さいと子どもの力では頭が通らない、という光景を何度も見ます。体の大きさに比べてサイズが小さくて、右腕は通ったものの、左袖に左腕が通らない、ということもありました。夏の水着はぴっちりしすぎていて、ほとんどの子が自分では脱ぎ着できません(これは仕方ないかな)。

ボタンホールは大きめですか。窮屈だと、それだけて「できな〜い」に、なってします。

例えば、市川宏伸さんの著書にも、次のような説明がありました。

〈・・ぜひ育てていきたいもの。そのためには人との比較ではなく「自分としてはここまでできたから凄い」と思える「成功体験」が大切です。小さな事では、自分でボタンがかけられない子なら、ボタンホールの大きな服に変えて上手にボタンがかけられたならこれも1つの成功体験です。苦手な事は手伝って、1つでも成功体験を増やす丁寧な対応が必要です。・・〉

靴の脱ぎ着も、自分でできるようになるには、自分でやりたい!という時期がきたらチャンス到来です。時間がかかっても、じっと待ってあげられる、余裕を持った時間配分をお願いします。身支度の時間というものを、生活の流れの中に確保してあげてください。できないところは手伝ってあげても、最後の「美味しいところ」は自分でやれた!、履けた!という気になるような援助がいいでしょう。

ジャンバーのチャックは下の始まりのところが難しいことが多いです。手が届かないこともあります。水筒も襷にかけることができるようになってほしい。紐が外れると自分でつけることができないことも多いですね。紐の長さの調節はこの幼児で無理なようです。また後で物の取り扱いのところでも触れますが、押して開く栓が固くて、自分では開けられない、という場合もあります。購入するときには、子どもと一緒にやってみて、自分でできそうかどうかも試していただくといいかも知れません。

これは単純に自分でできるようになることが、周りの大人の手を借りずにできるようになるから、周りの大人が助かる、ということ以上に大事なことがあります。それは実は、自信がつくのです。それが明らかに伝わってくる瞬間というものがないだけに、本当?と思われるかもしれませんが、満2歳になっていく前後から、なんでも「自分で!」という時期がきます。この頃からの発達課題にとっても、やってみてできるようになることが、生きる力そのものを育てている面があります。そう思って、排泄や衣服の自立を気長に見守ってあげてください。

幼児になると、自分でできること、お願いすればいいことの判断がつくようになりますから、もう大丈夫ですが、そこに至るまでの「自分で!」の時期は、子育ての我慢比べになることもありえます。どうぞ、大人がおおらかさと心の余裕を確保することを、セットで用意しておきましょう。(余計な話かも知れませんが、細かいところに気づけないのがお父さんですが、この場合のお父さんはお母さんの話をちゃんと聞いてあげてくださいね。)

自立の姿(その4)排泄

2022/03/04

(写真は、今日の子どもクッキング「野菜の型抜き」から)

トイレに自分で行って排泄ができるようになることを排泄の自立、といいます。いわゆる「おむつが外れる」ということです。世の育児雑誌の三大テーマは、昔から食事、トイレ、イヤイヤ期と決まっていて、それだけ親御さんの関心が高い、あるいは困っていることがある、とも言えるのかもしれません。トイレットトレーニングが子育てメディアでは盛んなのですが、トイレの空間に興味を持たせるとか、怖がらないようにするとか、この夏紙パンツに挑戦!だとか、アレコレ、いろんなアイデアが紹介されています。オマルに慣れてから大人用の便器へ、だとか紙オムツよりも布の方が外れやすくなっただとか、情報が多すぎる気がします。

排泄の自立に欠かせないことは、私は次のように伝えてきました。これが排泄の自立の姿だからです。

〜自分で「あ、おしっこ!」と気づき、ちょっと我慢してトイレに行くことができる〜

「あ、うんち!」でも同じですが、この気づいて、我慢できるというところがポイントになります。何に気づくかというと尿意、であり便意というものですが、これに気づけるようになるのは、2歳から3歳と幅があります。サインが脳に届いても、それが便意だという意味になるのにも、知的な発達がある段階にまで育たないと認識できません。さらに「あ、おしっこ」と、したくなってから、トイレに行くまでにある時間がまんできないといけないので、こちらも自分の意思で尿道をふさぐ随意筋を動かすことができるまで、身体的な育ちがなされていないといけません。

他にも色々な身体的な育ち、神経系の育ちなどが相まって、排泄が自立していくようになります。でも、基本はこの二つのことが繋がって初めて排泄が自立できるのです。そしてこの発達には個人差が大きいので、いつはは必ず二つのことが繋がって、ある意味で突然、できるようになります。そうすると、この条件が揃っていない段階で、練習やトレーニングでそれが育つのかというと、それは無理です。知的発達と身体的発達が揃わないと排泄は自立しないので、どっちかができないと難しいということになります。

そこで、この自立の秘訣は、楽観的に待つこと。ただし、保育園の園児は有利です。なぜなら、その「あ、おしっこ」でトイレへ行く、という姿やモデルが周囲にふんだんにあるからです。またオムツをしている状態が普通なので、それに引け目を感じるという空気も皆無です。おむつが早く取れることが良い、と考える文化はありません。オムツはそのこのペースで、必ず取れる。ただそれを信じてあげているだけです。大人が気をつけることは、できもしない時期に無理にさせようとして、子どもにコンプレックスを持たせてしまうこと。できるはずのことが自分はできない、と思い込まされると劣等感から自信が持てなくなります。

食事や排泄は動物も行う自然な営みです。それを上手に、きれいに、という人間社会の文化的営みとしての「しつけ」に格上げしないといけないので、その文化的行為への適応には個人差が生じ、ただ「一人ひとり異なるから、それで良い」で落ち着けはいいのですが、情報化社会は、自分の子どもは遅いのかしら、とか大丈夫だろうか、と無用な心配をさせてしまうような環境になっていることが、困ったものです。

食べたら出る。当たり前です。あとはタイミングを自分で図ってできるようになること。そこにもリズムがあるので、特に大便のリズムは生活の中で作ってあげるようにしましょう。習慣にしてあげると体も意識も楽になりますから。

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