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園長の日記

入園説明会(第1回)2月19日

2022/02/19

今年の入園説明会は、保育園に集まらずにリモートで参加していただきました。園のしおりを中心に説明しました。開園して4年目を迎えますが、保護者の皆さんとの情報のやりとりの仕方を、できるだけ分かりやすく、簡便なものにしたいと考えています。この数年の間に、とくにコロナ禍がリモート環境を促進したこともあって、リモートでの実施が自然なものになってきたと感じます。緊急連絡網の代わりに導入した通信アプリの方が、連絡もやりやすくなりました。紙での配布資料を減らして、園だよりはお知らせなども、サイトで確認できるようにした方が皆さんにとっても便利そうです。徐々に替えていくつもりですので、その都度、お知らせします。

4月に入園される方は12名募集して10名が決まり、2次募集も終わり選考中です。今回の入園説明で配布した資料は、ホームページの「お知らせ」や「各種申請書類」(いずれもパスワード必要)にアップしました。園のしおり、ほけんのしおり、たのしい離乳食・食事、そのほかの書類も、ダウンロードできますのでご利用ください。このような案内もまた、通信アプリに一本化していく予定です。

乳幼児に見られる科学的態度とは?

2022/02/18

<生活経験の中で身につけていく知識だけでは、真実の世界を捉えることができない。真実の世界を捉えるためには科学的な見方が必要である>ーー。こんな趣旨のことを、どこかでヴィゴツキーが書いていたと思うのですが、生活の中で獲得する知識を生活概念だとすると、それだけでは本当のところに届かないだろうから、体験の工夫をしてあげたい、そう考えて環境を再構成することを「乳幼児STEM保育」と呼びます。

生活概念というのは「太陽は東から登って西に沈む」という知識です。一方、科学概念は「地球が自転しているので太陽が動いて見える」ということが真実の世界、という意味です。子どもにこの知識が理解できるかどうかが問題ではなく、そういう正しい知識に向かう科学的な学びの力をどう育てるか、ということが保育の課題になっているということです。

今日はそんなテーマの話し合いを、Z00Mを使って11の保育園の園長先生たちと持ちました。例えば寒い日の朝、ある子どもが氷が張っていたのを見つけたのですが、その氷を触っていたら溶けて無くなったことに興味を持ったり、また氷が欲しくて一人ずつの紙コップに水を入れて置いてみたけれど、なかなか凍らない日が続いたものの、ある日、ある場所は凍り、他のは凍らなかったので「どうして?」となった、という事例が報告されました。この一連の活動の中で見られる「思考」と「行為」が科学的な姿勢と言っていいものです。

ある物理現象に気づき、そのものを触ったりして、溶けるという性質に気づき、寒い日には水が凍るらしいという仮説を立てて、試してみる・・・このような「気づき、感じる、試してみる」という思考と行為が生まれているプロセスがとてもいいのです。当園でも同じようなことを最近やっていましたね。他にも積み木ゾーンでは、ビー玉の転がり方を観察して「じゃあ、こうしてみたらどうなるだろう」と試しながら、長く転がる大掛かりな作品がよくできています。

ここには、物質の世界を支配している物理法則が働いているのですが、その一端を遊びの中で体験ししていることになります。

このような現象は物の世界に限らず、生き物を相手にする世界でもあります。興味ある現象に気づき、じゃあ、こうしてみたらどうなるんだろう?と試してみる・・そんな心の動き方をするような接し方です。ダンゴムシは触ると丸くなります。でもじっと待っているとまた動き出します。転がしたらどうなるだろう、水につけたらどうなるだろう?大人だと思いもしないことをやっています。アリの巣を観察していた時も、えさの種類を変えてみるとか、埋まってしまった巣の道も翌朝にはまたトンネルができていたことに気づき、また揺らして穴を埋めてみようとする子もいました。

自然を相手にする科学は自然科学ですが、その性質や仕組みを応用した科学技術が、現代社会の隅々に生かされています。人間は自然の一部でありながら、人間だけが感覚で得た表象を意味ある概念を作り上げて、技術や工学に活かしていきます。それを組み立てるときに、抽象科学である数学や論理学を用います。私たちの生活は隅々までSTEMに取り囲まれていると言ってもよく、これを子どもの発達段階にあった体験にするにはどうしたらいいのかを考えるのも楽しいものです。

大人が科学概念を言葉で説明して理解させるのではありません。大切なのは、子ども自身が何かに気づき、どうして?とか不思議だな?と興味を持って、試したり、考えてみたりする自発的な活動になることです.

この思考と行為の中に見られるのは、ある対象に興味を持ち、たとえば時計の音がすることに感覚(聴覚)を通して「気づき」、それが音がするのなら、こっちの時計は?と「試してみる」という思考が確実にある、ということです。下の写真は、息を吹きかけて回るモノですが、こうしたらどうなるのかな?と言う問いかけが、試してみるという行為には含まれています。

この一連の感じ、気づき、試し、確かめる、考える・・・この過程は科学する心の態度(アティチュード)を育てていることになるのです。

いかにも科学的な対象やそれらしい器具などを用いないと科学ではない、ということではありません。生活経験の中にある科学的思考や行為とはどんな物なのかを、私たち大人が学んでいくことが大事なことなのです。

子どもと飾った雛人形

2022/02/17

このようなものに強い興味を示すのは女子なんだなあと、実感しました。昨今、社会的通念としての「男らしさ」「女らしさ」などと考えること自体がジェンダーとしておかしいという議論があるのですが、お人形に「かわいい」と言って離れない女子たちを見ていると、それはそれで事実として好みに傾向があるものだと感じます。お雛様を飾ったのです。保育園は狭いので玄関に飾るスペースがないため、屋上へ登る階段を使っています。これで3回目になります。

人形を恭しく箱から取り出し、人形を覆った柔ない和紙を覗くところから子どもたちに見てもらいます。人形の白い顔がお目見えすると、おお〜といった、何も言えない高揚感があたりに流れます。お人形のお顔は直に触らないように、お内裏さま帽子を被らせたり、お雛様に扇子も持たせたり、三人官女にお神酒を提げさせたり、五人囃子に笛や鼓を持たせたり、しながら、人形の説明をしてあげました。BGMには「たのしいひなまつり」をかけて、♪明かりをつけましょ、ぼんぼりに〜と、歌詞に沿って、説明していくと「もう一回」「もう一回」と何度も何度も歌っていました。

雛人形は、こうやって子どもと一緒にうやうやしく飾ることで、ものが大事ということを超えて、そこに何か込められているものがあるんだということが、子どもたちに伝わっていくのではないかと思います。言葉では言い表せない大事なことが、ちゃんと体験できていくこと。そんなことが大事な気がします。

勝ち負けよりも大事なもの

2022/02/16

勝ったり負けたりする勝敗のある事柄を人間は古来から好きなようで、それに人生をかけたり、職業にしたりすることができるようになった時代は、ある意味で恵まれていると言っていいのでしょう。ギリシャ時代からプロがいたそうですが、将棋にしてもスポーツにしても、その勝敗のレベルがどんどん高度になっていくにつれて、そのレベルに到達できる人たちは、本人の才能や努力が大いに影響するにしても、幼少期のうちからそれに没頭できるだけの恵まれた「何か」が左右するようです。子どもの頃に没頭して打ち込んだことが、将来の経済的自立に結びつくかどうかは、あまり考えても仕方がないことで、そういうことに左右されない生き方の真ん中を探りたいと思いながら、冬季オリンピックを見ています。

趣味ではなく、それが仕事になったりプロになったりできるのは、それを観て対価を払う人たちがいるからで、その分野が商業として成立する必要があります。それはマスコミが大きな影響力を持ちます。例えば日本で野球がこれだけ国民的スポーツになったのは、読売テレビが巨人戦を毎日放送してしたからですが、最近ではサッカーやバスケット、卓球など、リーグが成立しています。観たり応援したりする人が増えると、そのスポーツがメジャーになっていきます。それにはマスコミやSNSの視聴率とスポンサーがタッグを組む必要があります。その結果、多くの人が見て、それがカッコよかったり、素晴らしかったりして、やってみたい!という青少年が憧れるようになります。

冬のスポーツは雪や氷の上で行うので、滑ったり、躓いたり、溝に挟まったりと、予想外のアクシデントも起きて、力量だけではなくて運も左右することが、今回よくわかりました。その時、日本的美徳かどうかはわかりませんが、人によって競技への挑み方や勝ち方、負け方に差があって、負け方が潔かったり、悔いのない言葉を聞いたりすると、その心の姿勢に感動したりします。勝ち負けを超えたところにある競技への臨み方に魅力を感じます。その競技に向かい合ってきた姿勢のようなものですが、人間性がそこに現れてきます。その日本的情緒の質について、私たちが直感的に良し悪しを感じるのはどうしてなのでしょう。そんなところにアスリートの潔さや美しさを感じてしまいます。

 

当たり前かもしれないけど・・・

2022/02/15

今日は実習生との最後の振り返りの会があったのですが、二人の実習生が語る保育をめぐる出来事は、本人とって意味があるので、その意味を理解したくて、じっと耳を傾けて聞いてみました。そして、大事なことに気づきました。それは二人が印象に残ったこととして取り上げた事例は、私たちだときっともう、話題にしないようになってしまっていることだったからです。私たちは、当たり前のこととなっていることが、実習生には新鮮なことに見える。これは案外、私たちが心しておかなければならない意味があるような気がしたのです。当たり前になってしまっていいことと悪いことがあるかもしれないという話です。

私たちは生活のなかで、いろいろなことをやっています。そこで見聞きしたことを人に話すとしたら、その話の内容は相手によって違うし、そこにいる人たちによっても異なります。何を語るかは、その人間関係の模様が違えば、話題も変わって当然です。実習の反省会ですから、保育のことを語り合い、何某かの意味ある気づきを持ち寄りたいわけですが、いつもと同じメンバーで子どもの姿を語ると、大抵は同じ角度、切り口になりがちです。そこで実習生から見えた子どもの姿や事例への気づきが、私たちに新しい気づきをもたらすこともあります。あるいは、語られずに終わっていた先生の思いや意図が、初めて明らかにされるということもあります。

実習生が子どもに楽譜を用意したことについて「それが保育なんですよ」と語る先生の、その心は?という話が聞けたのも、園長としてはとても嬉しくなりました。また旧今川中校庭で遊んだ日、そこの三輪車で遊んで片付ける時に、年長の二人が率先して動いた姿が、実習生にはとても印象的だったそうです。実習生曰く「教育的にさせたというのではなくて、自分たちでやるように援助した」といった言い方をしていました。その事例について、担任の先生は、年長さんに人的なモデルになってもらうことが意図されていたことなど、幾つもの視点やねらいが隠されていることが説明されました。

そうなんです。保育というのは、ある「ねらい」があって、そのためにこうやったら、こうなった、みたいに単純な話ではなくて、輻輳した線や網目で織り込まれているようなものなので、指導検査などで「ねらいを書いて、それが達成できたかどうか振り返って、ちゃんとPDCAを回して」という趣旨のことをいう方が時々いるのですが、保育所保育指針はそんなことを言っていないのに、自治体レベルでは曲解されてしまっています。これでは日本の心情や情緒を大切にしてきた保育の伝統が薄っぺらいものになってしまいます。当たり前と思ってやっていると、正しいけど浅はかなことになってしまっていないか、そこへの危惧も大事なんだろうと思うのでした。

早く終わってほしいコロナ禍

2022/02/14

「コロナ禍で休園になって、働けない保護者の方が困っているニュースに接すると、それと同じように、子ども集団での経験が失われていることへの危惧も、併せて報道してもらいたい」。藤森統括園長は今日のGT会議で、この間コロナ禍で失われた保育園の教育的機能を取り戻そう、と強調しました。子どもは集団の中でこそ、その子どもらしさを発揮します。子どもの本分は集団の中にあります。そのことを思うと、早くコロナ禍を終わらせなければ、と思います。幸い、東京都の感染のピークは越えたようです。もちろん、油断大敵、感染対策に緩みは禁物です。

4月で年度が切り替わる日本では、子どもの月齢の合計は3月末が最も大きくなります。子どもたちは4月が最も若く、3月が最も成長していることになります。それは数字の話ですが、子どもたちの暮らしていると、この時期の成長は目を見張るものがあって、大きな成長を実感します。

今日、2月26日に開く成長展でお配りする「子どもたちの育ち」(担任によるクラス別の集団の育ちを記述してもの)を読んでいて、改めてそれを感じたからです。誰にでも公平に与えられた時間であっても、子どもの頃の1年、1ヶ月、1週間というのは、とても貴重な時間に思えます。登園を控えてもらうお願いをしなければならない状況を、本当に早く終わらせたいものです。

 

3回目のワクチン接種

2022/02/13

(樋口区長のホームページ)

コロナ禍で政府が切り札と考えている3回目のワクチン接種ですが、千代田区は2月8日現在で65歳以上の接種率が51.4%だそうです。東京都全体ではまだ17.5%(2月6日現在)なので、千代田区は接種を急いでいると言えそうです。私たちエッセンシャルワーカーも2月8日から始まりました。当園は12日から開始。今月中には完了予定です。ただ副反応もあるので、翌日、翌々日の勤務ができなくなっても、できるだけ保育に支障が出ないように打つ順番を検討しました。連休明けの明日14日(月)から、また健康な状態で保育園生活を始めたいと思います。もし体調が悪そうだったら、大事ととって療養して元気な状態で登園しましょう。登園の様子はまた連絡アプリでお知らせします。

個人の育ちと集団の育ち

2022/02/09

子ども集団が育つ、というと、皆さんはどんな場面を思い浮かべるでしょうか。それでわかりやすいのは、お楽しみ会などでお伝えした「劇遊び」などかもしれません。年齢別に劇を続けて観ると、その育ちがはっきりわかりますよね。保育では個人と集団の、どちらの育ちも大切にしています。この「園長の日記」では、教育の営みについて、主体者個人と環境の関係からいろいろと説明してきましたが、こんどは主体者が「集団」になった場合を考えてみましょう。

集団の育ちというのは個人の育ちがベースになるのですが、面白いのは個人が集団の育ちに影響を与える方向と、集団が個人の育ちに影響を与える両方向があることです。お互いに影響をしあっている複雑な関係になっています。

たとえば、今日の夕方のお集まりは、年長のHSくんが司会をしていました。どのゾーンを開けますか?と聞くと、「はい、はい」と、たくさん手が挙がります。司会者は「ちゃんとみている人にあてよう」というと、司会者の方に顔を向けます。でも司会者がなかなか指名しないのでKMさんが「早くやって。時間のムダ」といいます。すると指名されたKSくんが「ゲーム・パズル」と言います。さらに司会者が「他にどこがいいですか?」と聞くと、THくんが「みんなが制作遊ぶと思うから制作」という言い方をしたのです。

それを聞いていた年少のKAさんが「THくんばっかりでつまんない」というのですが、THくんはこう反論します。「え、だって、今のはみなんが制作で遊ぶから・・・」と。

このように夕方のゾーンを、どこを開けて遊ぶかを、そこにいる子どもたちが話し合って決めていくのですが、自分のことだけではなくてみんなのもそれをやりたいだろうから、それにする、という言い方が生まれています。これも集団ならではでしょう。これを少し大袈裟に考えると、自分の1票が他の人たちの意思も汲んだ結果の1票だ、というわけです。単純に自分がやりたい遊びを主張するだけではなく、他の人の意向も踏まえた意見だというわけです。自分の意見に説得力を持たせる、という意図ももちろんありそうです。

 

それにしても多数決で決するということではなくて、話し合いを通じて、集団としての意思決定に辿り着くことができるようになっているのです。このような集団の育ちは、集団の中で、色々な人間関係を体験してきたことから生まれてくる個人の力です。個性が発揮されるような集団の在り方としても、これからの時代の持続可能な社会に必要な資質だと言えます。

 

子どもが体験している意味を伝えたい

2022/02/08

今年4月に入園する方が今日7日(月)決まりました。この「園長の日記」はこれから保育園に入園される方にも、保育や教育の営みについて、お伝えしているつもりなのですが、1月28日の「園だより」2月号の巻頭言から始まった教育論は、一つの区切りに差し掛かってきました。子どもをコップに例えると、教育はコップに水を注ぐことなのか、それともすでに入っているコップの水を引き出すようなことなのか、そんな譬え話から始まりました。

子どもは教えなくても自ら環境に関わろうとするのですが、つまり何かを体験することで、すでに最初から持っている力が、使われて伸びるという側面(コップの水を外へ)と、そのとき体験する事柄自体が、その文化が編み出してきた歴史的な営みでもあるので、そのやり方なり内容なりを身につけていく側面(コップに水を中へ)とがあるのでした。たとえば赤ちゃんは、どんな国で生まれようと、持って生まれた力を使って言葉を聞いたり話したりできるようになっていくわけですが、一方で、それが親が日本語を話すから日本語を身につけることになります。

このように、本人の持って生まれてきた力を十分に発揮できるような生活を創り上げていくために、生活や遊びの中の、さまざまなシーンを取り上げて、その体験の意味を捉えていきたいと思っています。

子育ては子どもを支えること

2022/02/07

子育てとは、本人が自立するまでに必要な援助です。子どもが大人になれば、なんでも自分できるようになり、援助がいらなくなります。自立すると言うことです。そして今度は自分が子育てをする側に回ります。子どもは大きくなるにつれて自立していき、援助する側になっていくことが大人になる、と言うことになります。すると、子育ては自立に向かって支えることですから、大人がさせてしまっては自立する機会を奪うことになります。本人の代わりになんでもやってあげてしまったら、自分で伸びようとする力を使うチャンスを失うことになります。これを過保護、と言います。

一方で、子どもの体験は、初めてのことが多いので、最初からうまくいくことはあまりありません。繰り返しやっていくうちに、身についたり、覚えたり、できるようになっていきます。その過程には「自分で考えて試す」ということが含まれてきます。いわゆる試行錯誤の過程です。自分でやってみようとしたり、挑戦してみたり、できるかな、でもちょっと怖いな、どうしようかな・・といった過程で、子どもは自分自身と向き合い、自分のことを振り返ります。決断して前に進むか、助けてと援助を依頼してくるか。このプロセスがとても重要な自立の過程になります。失敗を繰り返しながらも、試行錯誤しながらなんとかゴールに辿り着くと、達成感と共に自分への自信を持てるようになっていきます。

ところが、このプロセスがない子育てがあります。それは子ども自身に考える時間、試してみる時間、自分で創意工夫する時間がないような子育てです。ことある度に「ああしたら」「こうしたら」と指示を出し、言ってさせようとします。これを過干渉と言います。大人はできるだけ本人が困ったときだけ、援助してあげるようにします。「手伝って」「助けて」と言われたら支えてあげればいい、と言うことになります。

過保護は自立の機会を奪い、過干渉は考える機会を奪います。いずれも受け身な姿勢になって、自分からこうしたい、ああしたい、という意欲や自発性が損なわれてしまい、自信のない子どもになってしまいます。本来子どもは好奇心旺盛な心を持ってこの世に生を受けるのですが、過保護にされてしまうと、努力しないで目標に辿り着けるので、依存的な子どもになってしまいます。また過干渉にさらされると、本来自分で決めたい、自分で判断したい、という欲求があるので、自分なりの理屈や方法を編み出そうとして、反抗的になりがちです。

もう一つ、やってはいけない子育てが「放任」です。ネグレクト、育児放棄です。大人は子どもをしっかりみて理解し、子どもが困ったときに駆け込める避難場所、安全基地になってあげる必要があります。愛着(アタッチメント)というのは、この安全基地に大人がなるということです。不安になったり、困ったりしたときに、あそこに行けば助けてもらえるという見通しを持てる位置に、大人はどっしりと構えてあげるといいのです。エネルギーを補給に来たら補ってあげてください。気持ちをうけとめてあげて、しっかり応答しましょう。しっかりと抱きしめてげましょう。そうすると、子どもは回復してまた元気に遊び始めるでしょう。自分から離れます。大人は手を離すだけです。これを「ハンドオフ」するといい、日本語では「見守ること」に相当します。

自ら考えて判断する力、失敗しても挫けずに立ち直る力、自分で目標を立ててそれに打ち込む力、こういった力を使う機会を保障しましょう。すると、結果的に、その子育ての姿は「見守る保育」という姿になります。しかし、見守ることができるためには、いくつかの条件が必要になります。その一つが、自分らしさを発揮できる生活であること、一人ひとり異なる欲求が満たされるようなことを選べる環境になっていること、そして、子ども同士の豊かな関係があることです。この3条件が揃って初めて、見守ることができます。ただ3つ目の条件は家庭では難しいかもしれません。家庭には子ども同士で何かをして遊んだり、協力して何かを生み出したりできる環境に乏しいからです。

自分と相手の間にコミュニケーションを取りながら生活を作り出す当事者になること。これを生活への「参画」と言うのですが、昔、倉橋惣三はこれを「生活を生活で生活へ」と言いました。今では「環境を通した保育」と「子ども主体の保育」を併せて「社会生活者の一員として責任を持って、よりよい生活づくりに参画する」という意味になります。

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