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園長の日記

遊びの中の学び

2022/02/04

いつもは2階で生活している、にこにこ組(2歳時クラス)の子どもたちが、今日の午前中3階で遊びました。4月からの生活に向けた移行保育です。絵本、ごっこ、制作、パズル、運動などのゾーンを選んでいます。この時期の移行保育で大切な事は、それぞれのゾーンに何があり、どのように使えば楽しい体験ができるのか、その使い方や遊び方を学ぶことです。

遊び方を学ぶ。遊びが学びである。似たような言葉ですが、実は内容は随分違います。遊び方を学ぶと言うのは、そこにあるものとの関わり方を学んでいます。ものをどのように取り出して、どのように扱うのか、終わったらどこにしまうのか、危なくないよな扱い方や、ものが壊れないような使い方などを学んでいます。

遊びが学びであると言うのは、そのものや場所と関わりながら体験していることが、身に付いていくと言うことです。どの場所で何をして、どのように遊ぶかは、それぞれの子どもたちが自由に感じ、考え、試したりして、いろいろやってみていいわけですが、その時に使っている身体的な機能や、精神的な機能、そして子ども同士の関わりの中で生まれる社会性の機能などが、使われています。

子供たちは、自分たちが既に持っている機能を、新しい環境の中で、新しい関わり方を覚えながら、自らの機能をより発達させていることになります。自分が既に持っている様々な能力を、環境と関わることによって、さらに伸ばしているわけです。自分が既に持っている能力が、コップの中の水だとしたら、新しい環境で過ごしながら、新たな能力がコップの中に注ぎ込まれているといえます。

自分が持っている力を、自発的に使おうとする傾向は人間は必ず持っており、これを「自発的使用の原理」と、昔、イスラエルの研究者ジャーシルドは言いました。子どもが、これもやりたいあれもやりたいと、何かをやりたがるときは、発達における意味がそこにあって、それをやることによって使われている能力が伸びようとしている、と捉えます。

にこにこさん達のやりたがっている様子を見ていると、「あーこんな所の力が伸びようとしてるんだな」と見えてきます。人の能力は、使わないと伸びないのです。そして、その能力が十分に獲得されて、新たな機能を伸ばそうとして別のことをやり始めることを「熱中転移の原理」といいます。その子にとっての次の発達課題、熱中してやり始めるテーマがそこに現れます。

これらは遊びの中の学び、と言うことが言えますが、小学校以降になってくると、意識して行う学び、自覚的な学び、と言う傾向が強くなっていきます。遊びと学びが分離されていくのですが、遊びの持っている要素が漂白されていて、繰り返し使用することが自発的ではなくなり、繰り返し行う内容が指定され、やり方も統一されることを勉強といいます。

学校教育の学びは、こちらの傾向がどうしても強くなるので、本来広い意味を持っている学びと言う言葉が、場合によっては狭い意味の勉強と捉えられてしまい、本人も学ぶ事は苦痛なものだと勘違いしてしまう不幸が発生しています。

そして本当にクリエイティブな仕事や、創造的な仕事に熱中している時、遊んでいるときのワクワク感や楽しさが含まれていて、本来の学びに近いものになります。ルドルフ・シュタイナーは、学校の授業も芸術的なやり方にしなさいと言っていました。それは質の良い遊びは、自身の発達にとって深い意味を持つ探究活動になっていると言うことです。移行保育中のにこにこさん達の姿を見ていると、遊びの中に自分にとって必要な能力を使える場所を探しているように見えました。

節分の日に出ていくものと入ってくるもの

2022/02/03

自らの力を引き出すことが教育であり、期待されていることを取り入れることも教育である。そんな話の続きを考えていたら、今日は子どもたちが元気に「鬼は外、福は内」と豆まきをしたので、なんだか、水ではなくて豆の話をしたくなりました。なぜ節分で豆を巻くのかという「いわれ」に関する絵本を、先生に読んでもらった後、実際に豆まきをしたのですが(クラスブログをご覧ください)、ここで追い払う鬼が象徴しているものは、人間につけ入ってくる「魔」たちのことですから、これを「滅」するために、豆(まめ)を撒くという説があります。語呂合わせ説です。

その真偽はともなく、邪悪なものと善良なものが、何かの力や人間の知恵などによって交代する、入れ替わるという話が、世界中に見られる物語であり、邪悪なものとして、鬼や悪魔や怪物や化け物などが生み出されてきました。そして、大抵、それらの「魔」たちは、人間に謎めいた問いを投げかけ、人間が答えられたら、魔の仕打ちから解放されたり、許されたりするというパターンになっています。

この物語の構造は、ずっと昔から、人生の謎、命の神秘といった事柄の真実を会得した者たちが、その真実をこの世の言葉で喩えたときに出来上がるお話なのでしょう。約束をして守らないこと、嘘をついて人を騙すこと、そういった行為は自分と他人の人生を傷つけることになるため、人々の間で戒められれてきたことがわかります。鬼や福は、一体何を意味しているのか。寺や神社で節分の豆まきをするのは、この年中行事によって「謂われ」の中に息づいている倫理的な人間性の意味を、思い出すためなのかもしれません。

コップの水としてのエージェンシー(主体性)

2022/02/02

屋上で遊んできた子たちが玄関に戻ってきました。年長のTくんが私に鬼ごっこで遊んだことを説明してくれます。ん、すごい!面白い!と感じたのは(成長を感じたのは)、彼の話の中には「楽しかったこと」もありますが、集団として思い通りにいかないことへの不満が含まれていることです。自分のことだけではなく、年長組すいすいとして期待されていることがうまくいくことを望んでいることがわかります。子どもの成長は自分ができたことへの喜びだけではなく、自分も含めて、その集団が目指している目的が達成されることへの喜びへと発達してきていることがわかります。

このような個人の成長は、個人の「自立」であると同時に、仲間意識が色濃い集団の中でしか望めない「協同性」の育ちと言えます。自分が所属している小さな社会(ここでは、年長組)が、よりよくなることを望み、その一員としての自分と他者を振り返ることができるようになっているのです。この子は友達の行為について、目的を達成するための行いとして捉えています。このような主体性は、これからも時代に必要な力の中で、ますます重視されいくものになっていくでしょう。

こんなこともありました。3階の積み木ゾーンに、新しい遊具が導入されて、ビー玉がジグザグに転がってきて、ポトンと落ちる受け皿として、まだ箱に入って出されていないパーツを使いたい、というのです。ところが、私が出してあげようとすると「まだ◯◯先生がいいと言ってないから」と、合意を得るプロセスを優先させようとします。「小さな社会」の中で決まっているルールを変更するためには、ある種の手続きがあって、そのプロセスにこだわるあたりにも「協同性」を感じます。

ここで、あえて「これからの時代に必要な力」という言い方をしたのは、昨日までの話で出てきた外から中に注ぎ込まれる「コップの水」だということに、着目して欲しいからです。ここで紹介したよう子どもの主体性をエージェンシー(Agency)といいます。OECDの「エデュケーション2030」プロジェクトで、最重要なキーワードになっています。その定義は「変化を起こすために、自分で目標を設定し、振り返り、責任をもって行動する力」のことで、行為主体、とか行為主体性、などと訳されているようです。

しかし、一方でこの水は、社会の中でこそ発揮される力でもあるのですが、ポイントはその社会がよりよくなるために、そのメンバーである個人が責任感を感じながら目標を達成させようとする自発性が育っているかどうかにあります。つまり「コップの中の水」が引き出される側面もあるのです。自発性が発揮される場面は、子ども同士という集団が生み出す活動(鬼ごっこ)や目的(より楽しい活動など)であるのでしょう。主体性という育ちは、外からとも、内からとも区切られない「水」だと言えます。社会性の育ちは個人と集団の両立の中に見られます。

小さな社会は霊妙に大きな世界と繋がっている

2022/02/01

今日から2月。大学と相談しながらコロナ科での保育実習も始まりました。保育園は一つの小さな社会です。これを小さな丸(○)で表すなら、家族の営みがこの○と重なり合って、ひょうたんのような楕円形の社会を作っているとしましょう。さらに外の世界にも囲まれているので、その外側には大きないくつもの大きな丸に包まれていると想像してみてください。子どもたちは、それぞれの環境から影響を受けながら、自らの体験を深めたり、広げたり、豊かにしていきます。鬼ごっこの深まりということ一つにしても、それを用意して見守る先生の意識の中には、鬼ごっこ協会という外の専門家集団の知恵が影響しています。子どもたちには、見えない関係の網の目が、色々な形で取り囲んでいることになります。それは子どもたちではなく、私たち大人も同じです。大学からやってきた実習生にも、そこでの学びと園生活での学びが繋がっています。

朝の挨拶の代わりに、家に地球儀がお目見えしたことを教えてくれる子どもがいます。「保育園にも用意しようかな」と答えながら、本物の地球が私たちに与えている大いなる意志について、この子たちもいずれ気づく時期が来るだろうか、と考えていました。保育園という、この小さな社会に見える場ですが、実はそれを取り巻く大きな社会と繋がっていて、霊妙に影響しあっていることを、人類は将来、もっと明確に共有できる社会になるといいな、と思います。私たちの先人が持っていた力を再開発しながら、私たちを取り巻く環境について、もっと目を凝らしていきたいものです。

注がれる水が「10の姿」になるまで

2022/01/31

教育の本質について「コップの中の水」に例えて考えています。教育というのは「何かを教えることであり、コップの中に水を注ぐこと」に似ているか、それとも「最初からコップに入っている水を、汲み出すこと」に似ているか、そんな話をしてきました。そして、前者の水は「大人が」身につけてほしいと願う知識や技能などの内容であり、後者の水は「子どもが」すでに持っている「生きる力」である、といった話でした。

しかし、教育はこの2つが分離しているのではありません。大人が子どもに学んでほしいと願うことと、子どもが自ら育とうとする自発的な力とは、相互に補い合って初めてうまくいくことが多いのです。自ら伸びようとする力、自ら使いたがる力、あるいは学びに向かう力、と言った子どもの側から湧き起こってくる生きる力が、ちょうど学んでほしい内容、身につけてほしい内容と出会い、その内容を自分の方へ引きつけてきて、身についていくようにすることが、教育の実態になります。

内容としての水がコップにちゃんと入るために、最初からある水が、生きる力という、いわばエネルギーになって外からの水を取り込むのです。それがうまくいっている時、子どもは遊びに没頭していたり、我を忘れて夢中で遊んでいたりするのです。遊びこむことが、自分の生きる力を使って、色々なことを学ぶことになっているわけです。それは遊びに限らず、食事や睡眠、排泄や服の脱ぎ着、手洗いなど生活の中でも、生きる力を発揮しながら生活習慣を身につけ、その過程で心身の発達が促され、望ましい文化的な営みに参加できるようになっていきます。

ところで、このように教育を捉えると、子どもがちが外から取り入れている内容は、私たちが満1歳以上の子どもたちについて「教育の五領域」で捉えている内容(健康、人間関係、環境、言葉、表現)の全てにわたることになります。また、その5つの領域にはそれぞれ3つの教育のねらいがあって、それが心情、意欲、態度という観点で捉えるように構造化されています。つまり「外から取り入れる水」には、3つのねらいが5領域にまたがってあるので、全部で15個あることになります。

そして、ここからが肝心なことなのですが、この15ある「ねらい」は、いわば「外にある水」です。このねらいを達成させるためには、子どもが自ら環境に関わって体験できるように、環境を用意することが必要になります。言って聞かせてさせるのではありません。子どもには自ら育とうとする自発的な力が備わっているので(つまり最初から水を持っているので)、これを使って環境から体験を引き出すことになります。したがって教育の最大のポイントは、子どもの方が自発的に遊び(学び)始めるようにすること、意欲的に自分から活動し始めることです。それは大人がさせるものではなくて、ある環境を用意することで、それをみて子どもが「やってみたい」と思うように、子どもにとって魅力的な環境にすることが肝心なのです。

コップの水に例えるなら、外から注がれる水は、子どもからみて「わあ、きれい!」とか「あ、面白そう!」とか「あれ、なんだろう!」というように、心動かされる心情体験を引き出すような、魅力的な水である必要があるのです。そして、嬉しい!、楽しい! 面白い!といった心情体験が、またやりたい!、もっとやりたい!という意欲を生み出し、そして、それを繰り返すことで、望ましい姿が身につくことになります。これを、心情、意欲、態度(心の姿勢、心構え)と言います。これを育みながら、学びに向かう力も育ちます、その姿が年長の頃になると、こうなるといいね、という形で表現されているものが「10の姿」ということになります。

 

コップに注がれる水とは

2022/01/30

『これからの保育者論 日々の実践に宿る専門性』(高橋貴志著:萌文書林)より

話は昨日までの続きです。コップの中の水は、いわば「生きる力」であり、それを上手に育むことが教育だとすると、その方法は、それにふわしい環境を用意することだったり、「生きる力」が発揮されるような体験ができることが大切ということになります。では、コップの中に水を入れる方の教育は、どんな内容や方法になるでしょうか。

 

こちらも用意されている「環境」が問題になるのですが、ちょうど一昨日の夕方、来年度の保育材料の予算を検討していたとき、「子どもたちが協力して何かを成し遂げる楽しさを体験してもらいたい」という話になり、それを年間の保育目標の一つとすることにしました。協力ゲームで遊んでいる、わらす組(3〜5歳児クラス)の子どもたちの姿を見ていると、とてもいい遊びになっているので、もっとこの活動を深めてあげたい!と担任が感じているからです。

このように、今の子どもの姿をベースにした遊びや活動の見通しについて、大人が抱く願いや意図が、教育の内容を生み出します。子どもの「生きる力」が発揮されるように、これからの時代に必要な資質や能力としてふさわしいかどうかについて、専門職としての判断がここにあるのです。これが、コップに注がれる「コップの水」になります。その判断の根拠の一つとして「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」などの、国が定めた要領や指針などを参照します。

幼児期の終わりまでに育ってほしい姿は10あるのですが、この協力ゲームの場合は、その3番目「協同性」に当てはまります。「友達と関わる中で、お互いの思いや考えなどを共有し、共有の目的の実現に向けて、考えたり、工夫したり、協力したり、充実感を持ってやり遂げるようになる」姿を目指します。これは年長さんの姿ですが、5歳になって突然、そういう姿を意識するのではなく、保育は乳児の頃から、一貫してみていくことになります。

昨日の1歳児クラスのブログで、散歩の時に鳥を見つけたり、それを伝え合ったりする姿が、報告されています。そして、面白いなあ、と感じるのは、望ましい環境との関わり方を、自分で自発的に考える姿が描かれているあたりです。

「おててつながないと、車が来るから危ないー?」と、先生に訊ねています。満2歳の子どもたち(1歳児クラス)は、散歩の時、手を繋いでいます。散歩をしていると、何かの拍子で手が離れることがあリます。すると、自分たちで「手つないでー」と繋ぎ直したり、手をつなぐ理由を理解しているので、きっとやむなく手が離れてしまったのでしょうか、<いま繋がないといけないんだよね>と、確認しているかのようのです。

こんな姿が満2歳からみられるわけですが、先ほどの10の姿の4番目「道徳性・規範意識の芽生え」にぴったりです。「友達と様々な体験を重ねる中で、してよいことや悪いことが分かり、自分の行動を振り返ったり、友達の気持ちに共感したりし、相手の立場に立って行動するようになる。また、きまりを守る必要性が分かり、自分の気持ちを調整し、友達と折り合いを付けながら、きまりをつくったり、守ったりするようになる」。年長さんの普段の生活の中に、こんな姿がいっぱいみられます。それがぐんぐん組の頃から、つながっていることが見えてきます。

コップの注ぐ水は、こうなってほしいなあ、こんなふうに育ってほしいなあ、という、どこ子どもにもそうあってほしいと願わずにはいられない、現代社会の価値項目であると言っていいでしょう。それが特定の個人や団体が勝手に考えては困るので、幼稚園教育要領や保育所保育指針で「10の姿」のような形で定めているのです。これが、コップの水の内容になります。

 

持って生まれたコップの水

2022/01/29

教育がコップの中にある水を汲み出す方向にもあるとすると、どうやって、すでにコップの中に水があるのか? または、最初からあるその水と後から注ぎ込む水とは、何がどう違うのか? いろんな「?」があっていいのですが、私なりに納得しているのは、こんなことです。

生まれてきた赤ちゃんが、すでにそこに赤ちゃんとして存在すること自体が、とても不思議な人間存在の謎につながる話なのですが、しかし、その話を抜きには「なぜコップの水が最初からあるのか?」を説明することは難しいでしょう。人間が存在するのは、過去からつながっている生命があるからですが、一世代だけを考えれば、お父さんとお母さんから受け継がれてきたものがすでにあるから、という説明をしておくことにしましょう。

そして、もう一つの問い、最初からある水と、後から注ぎ込む水の違いですが、端的にいうと、原初の過去からずっと途絶えることなく受け継いできた「水」が最初からある水であり、ブッダの時代でもキリストの時代でも鎌倉時代でも江戸時代でも昭和の時代でもない、21世紀のこれからの時代を生きていくために必要な、資質や能力を培うために必要な水が、後から注ぎ込むことになる水と言えるからもしれません。

それでも、もしこの二つの水の大切さを天秤にかけてみるとしたら、生きているために重大な生命力としての水が乗っている皿がずっしりと沈み込み、もう一方の現代的課題としての知識やスキルとしての水が乗っている皿は、軽々と跳ね上がってしまうことでしょう。圧倒的に大切なのは、生きる力としての水だからです。

もう一つ、大切な疑問があるかもしれません。それは「引き出す、とか育むというのは、具体的にはどういうことか?」という、教育の方法に関する本質的な質問です。一つの考え方はその一人ひとりの子どもにとって、取り巻く環境が、その子にふわしいかどうか、ということになります。思わず遊び始めるような遊具がものがあるか、わくわくするような活動ができるか、自発的に自分のいろいろな力を使うことができる体験ができるかどうか、そのような環境との相互作用が生まれるように、環境を用意することです。

私はこれをよく植物に例えます。今私の目の前には花瓶に花が飾ってありますが、その蕾が花を咲かせるためには、水と日光を温度を用意します。花を咲かせる力は、花が最初から持っている生命力であり「コップの中の水」です。しかし、その生命力はある条件のもとで活躍します。水もやらずに真っ暗な中で、寒い外に放っておいたら、きっと枯れてしまうでしょう。あるいは、目の目には保育園の玄関に咲いていた朝顔の種があります。これはずっと種のままです。しかし、暖かい室内で、10日間ほど水に浸し、空気に触れるようにしておけば、きっと発芽するでしょう。

このことが「教育」のエデュケーションの意味です。本来、どの子も持っている、かけがえのないその子らしさを携えて、この世に生を授かった子どもたちは、それぞれの「コップと水」を持っているのです。それをわかりやすく個性ということがありますが、それは本当に一人ずつ異なるものであり、何か評価するようなものではありません。ましてや時代によって変わってしまう価値観や、社会が求めてくる資質や能力の物差しで評価を下してはならないのです。

コップの中に注ぐのか、それとも引き出すのか?

2022/01/28

(園だより2月号 巻頭言より)

皆さんは教育というと、どんなイメージを持たれるでしょうか。きっと、勉強とか宿題とか学校とか先生、あるいはちょうど今行われている試験などを思い浮かべるかもしれません。教育というのは、教えること、あるいは教えてもらって身につくこと、何かが分かってできるようになること、そういうイメージだと思います。空のコップに水を注ぐことです。これは間違いではないのですが、私たち保育者は、もう少し広くとらえます。この広がりを皆さんと共有しておきたくなりました。

教育という日本語は、英語のeducationを訳したものですが、このeducationの語源には、「引き出す」という意味のラテン語educere(エデュケーレ)と、「養いつつ育む」という意味のeducare(エデュカーレ)があると言われています。この二つの意味から考えると、教える、あるいは教えてもらって身につくという「外から中へ入れる」というのとは、反対の意味になります。つまり「中から外へ出ていく」ようにすることが教育だったということになります。

人の中には「最初から何かがあって」、それがうまく引き出されていくようにすることが教育である、と。例えると、コップの中にはすでに水があって、それを取り出すということになるのですが、果たして、そんなことができるのでしょうか。「最初からある何か」というのは、自ら育つ力、発達する力のことです。人間は、あるいは子どもは元来、自ら育つ力、発達する力を持っていて、それを支えながら、さらに伸びていくように援助すること、それが「引き出す」とか「養いながら育む」ということになります。

私たち保育者は、教育について、こちらの方に力点を置いてとらえています。こちらの方が、いつの時代にも普遍的であり、変えてはならない不易の方であり、教育の本質になるからです。なぜなら、時代や環境によって姿が変わってしまうものは、狭義の教育、流行の教育の方になるからです。私たち保育者は、あるいは教育者は、どんな時代になろうとも、子どもが人間である限り、この普遍的で本質的な教育の役割を手放すわけにはいかないことになります。

そこでよく私は、最初から元来持っている自ら育とうとする力は「見えない」という話をします。種の中に、その後に芽が出て膨らんで花が咲いて・・という姿に変化させる力は、種をじっと見つめていても、解剖しても、物理的に分解しても、どこにも見えません。それは細胞の中のDNAだ、という人がいるかもしれませんが、それでも、そのDNAを動かしている力は、現代の科学でも見出せてはいないのです。でも、確かに存在するその何かに、私は畏敬の念を覚え、私たちの命の不思議さ、分かっていない事柄に謙虚な気持ちで、謎は謎として大切にしてく姿勢を保持したいと思います。

保育というのは、子どもを育てるという営みは、何か大事そうに見える内容を、外から注ぎ込み、覚えさせたり、できるようにさせたりすることで身につく事柄を「超えたところ」にあります。その基盤となるものをまずは、しっかりと育みたい、支えたい、守りたいと考えています。

流行性胃腸炎も流行中ですのでお気をつけください

2022/01/27

(COVID-19会議の資料より)

つい新型コロナウイルスのことに気を取られてしまいがちな私たちですが、冬に流行しやすい胃腸炎を引き起こすウイルスも忘れてはいけません。下痢や嘔吐などの症状も、発熱と同様に病原体が体内に入らないように防ぐ生体反応です。吐瀉物は空気感染しやすいので、私たちにとっては要注意、特に気をつけています。それは突然やってくることが多いので、防ぐことが難しいものです。前日から下痢症状があったり、朝の食欲がなかったり、顔色が悪かったりと、ちょっと体調が悪いな、というときは、必ずお知らせください。子どもは吐いた後は気分もスッキリすることが多いのですが、それで完治しているわけではありません。元気に見えても、繰り返すことがありますから、しっかり休養をとるようにしましょう。よろしくお願いします。

子どもたちの歌声が生活を明るくしています

2022/01/26

保育園の生活には、歌声があります。テレビやラジオやネットではなく、生の歌声が響いているのが保育園の生活です。朝のお集まりや食事の始まり、あるいは自由に遊んでいるときに、先生たちの伴奏に合わせてよく歌を歌います。今日もぐんぐん組(1歳児クラス)の子たち数名が、♪ハッピバースデイ、ツー、ユー〜と上手に歌っていました。見れば、誕生会ごっこです。♪ハッピバースデイ、○○ちゃん、ハッピバースデイ、ツー、ユー・・・パチパチパチ(拍手)・・・と、延々と続いていました。○○ちゃん、のところは、ちっちさん、ぐんぐんさん、全員のお友達の名前を入れて、繰り返していました。いつも歌を歌っているので、園生活はそういうものだと、あまり気にしていないのですが、コロナ感染症への対策で神経を使っている日々が続くと、子どもたちによる歌のある生活が、とても幸せなことに感じるのでした。

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