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園長の日記

子どもにとっての故郷

2021/12/30

人は「くに」に帰省すると、普段いる場所が、「故郷ではないこと」に、いちいち気づかされることになります。仕事柄、心の安全基地だとか、心の拠り所だとかを考えることが多いので、つい自分の幼少期に過ごした場所と、千代田せいが保育園の場所との関係を比べてしまいます。帰るとか京に上るという言葉遣いからして、やはり「ふるさと」とは、遠くにありて思うものであり、幼少期に過ごした場所に実際に戻ってきてしまうと、東京という場所は、あくまでも「出かけていく先」のように感じてしまいます。

ところが子どもにとっては、生まれ育った東京が紛れもなく故郷であり、何かがあったら帰ってくる場所になります。子育ての最中にはあまり考えなくても済むことだったのですが、私のように、自身の来し方行く末の始点と終点が見えてくる歳になってくると、本来、魂が還るべき場所は、どこだったのか、迷ってしまう自分がいます。今は亡き父や母も、生まれ育った場所と、私たち姉兄弟を育てた場所が違います。日本人は、近代になると「お国=江戸時代までの藩」から出て、働く家庭が急増します。私たちの「ふるさと」のあり方も、戦前から戦後、そして現代にいたる約150年の間に、様変わりしてしまいました。

こんなことを考えるのも、年の瀬のせいかも知れません。保育の質が、人とを含む環境との「関係の発達」にあることを考えているうちに、親の働き方に大きな影響を与え続けている「資本主義の歴史」を考えなければならなくなり、それが「人類の子育ての歴史」とぶつかって、大きな波頭を立て始めたのが明治以降になるわけですが、その津波の影響は現代にもまだ続いていて、それはまた都市と故郷との関係とも重なっていることに気づきます。

すでに多くの子どもたちにとって、生まれ故郷が都市になっている時代において、「お国」の風景は田園ではなくて、ビル群や駅前の風景、あるいは遊んでいた公園が原風景になっていくのでしょう。故郷としての保育園。そのありようを改めて考え直してみたいと思います。

 

 

清らかにしておきたい理由は・・

2021/12/29

13世紀の「最寒三友図」(ウィキペディアより)

正月飾りには必ず松、竹、梅が描かれています。日本で「松竹梅」がめでたいことを表すようになったのは、色々な俗説があるようですが、松は平安時代から、竹は室町時代から、そして梅は江戸時代から祝い事で使われるようになったそうです。松も竹も寒い冬でも緑を保ち、花を咲かす梅に生命力や寿ぎ(ことほぎ)を感じたのでしょう。私の実家の襖絵も、宗の時代に活躍した絵師に始まると言われる「歳寒三友」が、芳水の作としての松竹梅が描かれています。色々なところに見られる松竹梅ですが、子どもたちに「本物」の梅を愛でる機会を逃さないようにしてあげようと思います。

おせち料理にしても、お祝い事で使う食材に吉祥を読み取るようになっていったことも、同じものを感じます。また新しい歳を迎えるにあたり、豊穣への感謝と共に、自然の畏敬の気持ちを新たにしていくところに、年末年始の清まっていく気持ちよさを感じます。改めて気持ちを清らかにしておきたいと願うのは、日本の文化として良質なものを感じるのですが、皆さんはいかがでしょうか。

植物の育ちや実りを、子どもの成長や教育に例えることが、日本では昔からあったそうです。自ら育つ力を持つものとしての、草花や樹木の生長を、子どもの発達の特徴になぞらえたものが多く見られます。秘めた命が形を変えて大きくなっていく姿は、種から芽が出て茎や幹が伸び、葉から蕾が出て花が咲く。それが実をつけて種に戻っていく。そうした変化は、生命と生態系の循環を表していることに、子育てや人生の循環を重ね合わせてきたのでしょう。

そこに何か、大事なもの、大いなるものがあるという感覚。改めてそれを迎え入れようとする姿勢。子どもたちに、その何かを感じてもらうことは難しいことですが、それでも、そのきっかけを、わいらんすい(3〜5歳)の子どもたちは、大掃除という活動で感じたようです。「自分達が1年間お世話になった部屋をきれいにしましょう。そうして神様を気持ちよくお迎えしましょう」。先生が、そう呼びかけて行った掃除を真剣にやっていた子どもたちの姿を見て、私は大掃除を行う大切な意味を思い出しました。

新しいものを迎え入れるために、きれいにするんだということ。新しいものが何かは、それぞれでしょうが、このウェルカムのために清らかにしておきたいということを、心や精神の「容れ物」にも当てはめているところを、大事にしていきたいと思ったのでした。

 

新年を迎えるにあたり、遊びの力に思いを寄せて

2021/12/28

本日で、今年の保育は終わりです。明日から年末年始の休園に入ります。1月4日(火)にお目にかかります。よいお年をお迎えください。

(以下、本日配布の「園だより」1月号 巻頭言より)

子どもたちが同時にいろいろなことをしているのが保育園です。一人ひとりが自分らしく生活しています。やりたいことがあって、それを実現させたくて取り組んでいます。その姿を見れば、多くの人は「遊んでいる」というでしょう。子どもが他愛もなくよく遊んでいる、と。その通りです。でも、その表現、言い方だけでは見落としてしまうことがたくさんあるのが、その「遊び」というものなのです。

赤ちゃんは自分が遊んでいると思っていません。大人の目から見ても、どこからどこまでが遊びだとはっきりしません。大きくなると子どもは自分が今遊んでいるのか、そうでないのかを区別できるようになります。いずれにしても遊びは生きるために必要な経験になっています。子どもから遊びを取り上げたらきっと死んでしまいますから。子どもの遊びを大切にできない社会はきっと滅びます。なぜなら、社会を形成するために必要な力の根っこを、この乳幼児期に育てているからです。根の生えない木が育つことはないように、社会を形成する力の根がなければ、社会は機能しなくなるでしょう。

では、社会を形成する力の根っことはなんでしょうか。それは遊びの中に見出せるのですが、一つ目は「対話する力」や「コミュニケーション力」です。遊んでいると頻繁にこれを使っています。二つ目は「他人と協力する力」や「集団の中で考える力」です。お楽しみ会の動画や劇遊びの中に、いっぱい見られましたね。三つ目が「実行機能」や「自己調整能力」です。自分の考えや目的のために自分をコントロールする力です。集団生活である社会は、他人との関係の中で自分を発揮し、また他者も生きるようなスキルを身につけていく必要があるからです。

これらの力を育んでいるのが保育園生活なのですが、個別の塾や教室では、これらのうち特定の力しか育てることができません。なぜなら、そこには本当の遊びがないからです。本当の、というのは「本心を自由にさらけ出せる場」の中で「地の自分」が育つ以外に、心の成長はないからです。本物の強い根っこは、自分の力で地面の土を握りしめます。ずんぐ、と地面を掴み取って張り巡らした心の根っこが、社会を形成する力になるのです。

しっかり遊んだ乳幼児期は、いくつもの非認知的スキルを育むことになります。その種類だけお伝えすると、誠実さ、情熱と粘り強さ、自制心、好奇心、考える力、楽観性、見通し力、感情のコントロール、共感する力、自信、今に熱中する力、気持ちの復元力、ストレスへの耐性・・こんないろんな力が遊びの中で育っています。さらに、社会への希望をもてる子どもになってもらいたいとも思います。ただ、そのためには大人の責任も大きいでしょう。本当に不思議なことですが、遊びこそ、大きな根っこが育つ土であり、地面なのです。改めて、これを守ってあげましょう。子どもから遊びを奪わないこと。このことを心に留めながら、新しい1年を迎えたいと思います。

第三者評価者が園に来られて訪問調査

2021/12/27

東京都の場合、保育園は第三者による評価を受けることが義務化されています。すでに保護者の皆さんには先月11月中旬、「利用者アンケート」をお願いしました。今日27日は、それとは別に評価機関の評価者3人が保育園にやってきて、実際の保育を観察したり、職員からヒヤリングを行ったりする「訪問調査」をしていかれました。

皆さんに書いていただいたアンケート結果も含めて、本日までの審査結果は、来年2月25日に保育園に届くそうです。ずいぶん時間がかかりますね。皆さんから書いていただいたアンケート結果は第三者機関が把握しており、当園にはまだ届いていません。全体の審査結果を皆さんにお伝えするのは、来年になりますので、しばらくお待ちください。

今日の訪問調査の一人は、東京都の第三者評価の仕組みづくりに関わっている方で、「評価とは何か」ということに詳しい専門家です。評価者を養成する研修会の講師を努めている方でもあり、客観的に当園のことを評価していただけるので、とてもいい機会に恵まれたと思います。他のお二人の方も、保育園を運営していり園長先生でもあり、保育の質にとても詳しい方です。

当園の保育をさらに良くしていくために、第三者の専門的な目で分析していただき、私たちが気づいていない当園の強みや課題を明らかにしていただきたいと願っています。

さて、早いもので12月も最終盤になり、今日で年末の挨拶をさせていただいた方もいらっしゃいました。今月はお楽しみ会の動画配信やクリスマスデーなども無事に行うことができ、楽しい思い出を作ることもできました。

ちょっと心配なのは、健康管理です。寒さも一段と厳しくなってきました。25日に都内で初めてオミクロン株の市中感染が見つかりましたが、年末年始の人の移動などでその拡大は避けられそうもありません。帰省される方は、くれぐれもお気をつけください。新年が平穏に始まることを祈ります。

 

 

 

保育を「商品」にしてはいけない

2021/12/26

ぐんぐん組のブログで、屋上で長縄跳びをめぐる子どもの心の通いあいが描かれています。子どもの心の機微を想像しながら、それをそっと包み込むような立ち位置にいる保育者の仕事の質を、誰かが値踏みすることなんて、できるだろうか? できはしない! と考えてしまいました。この人の育ちの過程に見つかるエピソードの数々に値段をつけることはできません。ましてや、保育がどこからどこまでで、ここから保育の商品です、なんて線引きはできません。生活の中に空間や時間の区切りをつけて値段をつけることはできないのです。時間を区切って預かるということと、私たちが実践している保育とは、似て非なるものです。

保育はお金にならない。そういうと、起業家が保育を事業化しにくい、と言っているように聞こえてしまうかもしれませんが、そういう意味ではありません。保育は儲からない、そう言うことではなくて、保育は商品のようにはできない、と言う昨日の話の続きです。

最初に、余談です。

こんなものまで値段がついて商品になっているのか、とびっくりすることが時々あります。坂本龍一の映画音楽「戦場のメリークリスマス」が、1万円でネットで売られていることがニュースになっていました。1万円か!と高いなあ、と思って見ていたら、ご存知の方も多いと思いますが、「戦場のメリークリスマス」の1曲ではなくて、その曲を構成している音符、音、一つが1万円なんです。300だか500だかの音符でできているのそうですが、それが完売したそうです。しかも、早くもネットオークションで、さらにその一音が60万円もの値がついていると言うから、物の価値が本来の使用価値から遠く離れて、投機目的の価値、つまり使う目的ではない、資本増殖の価値にどんどん転化してしまうことの、わかりやすい例ですね。ただ、最初の一音1万円のほうの収益は、慈善事業に寄付されるそうなので、生活基盤を支える「富」の方へ還元されるので、ちょっとホッとしました。

そこで話を戻すと、保育園での保育に値段をつけるとすると、すぐに思いつくものは「保育料」でしょう。子どもを預ける保護者が自治体に支払います。保育園にはきません。この保育料は、児童福祉施設である保育園の場合は、小さい子どもほど高く、さらに保護者の収入が多い方ほど高い、という2つの要素の組み合わせで決まっています。このような価格の決まり方は、市場経済にはありません。一般の商品は、市場メカニズムに任せてあり、供給量に対して需要(ニーズ)が多ければ、価格は上がります。この市場メカニズムに任せないで、規制をかけているものはたくさんあって、公共料金は市場価格ではありません。

ところで、保育料は保護者が負担しますが、実は実際にかかる保育の経費は、その約10倍です。保育料を除く部分は、国の国庫補助から半分、東京都から4分の1、基礎自治体の補助金が4分の1加わります。全部、税金です。つまり保育は、公共的な富なのです。ですから、その富の使用を決定するのは、私たちではなく、自治体の福祉事務所が審査の上で決定します。実際の保育経費のうち、7〜8割が人件費です。しかも保育士も看護師も国家資格であり、誰でも担える仕事ではありません。

このような仕組みでやっと成り立っている保育という社会的な富に対して、その富を豊かにするということを望まない国民がいるでしょうか。私たち国民の富である保育の質を良くしようと思わない人はいないと思うのです。しかし、もしこの保育が富ではなくて、市場メカニズムと同じような、言い換えると保育サービス=商品と同じように、需要と供給のバランスで変動してしまう「価値」になってしまったら、私たちはその価値に振り回されてしまい、本当に大事な質を求めることに集中できなくなってしまうでしょう。マルクスはこの転倒を「物象化」と呼びました。

私たちは保育を物象化してはいけません。保育をサービスと呼んではいけないのです。

新しい資本主義

2021/12/25

私たち(人類)は、地球上のすべての過去の歴史にはなかった、とんでもない時代に突入していると感じます。経済成長の変化のグラフを見ると、ここ200年ほどの上昇カーブは異常です。

 

これでは地球環境を破壊しながら、不要な商品が造られ続けてしまうだろうと、予想されます。持続可能な社会にするには、別の経済の仕組みに移行することがどうしても必要です。

https://ourworldindata.org/economic-growth

そんなことを色々考えていると、保育というの仕事が、人類にとって不可欠で、もっと豊かにしなければならない「富」でなけれなならない、ということに気づきます。私たちはいつの間にか、「保育料」のように経済的売買の価格で、物事の価値を考えるクセがついてしまいましたが、このような市場経済の価値では、はかれない価値ほど、貴重で豊かな富だったはずです。

地球や土地や空気や自然や水などは、本来、誰のものでもなく、その一部を人間が囲い込んで商品化していくことは、ある程度は生活を便利にしていくために仕方がないことなのですが、それが行き過ぎると、取り返しのつかない地点にまで、突き進んでしまうのではないかと、非常に心配になります。

(引用) NHKテキスト「100分で名著 カール・マルクス 資本論」(斎藤幸平)より

オランダ・アムステルダム市の女性市長フェンケ・ハルセマさんは、植民地時代の奴隷制度を謝罪して話題になりましたが、市の経済政策には、イギリスの経済学者であるケイト・アラースさんが唱えている「ドーナツ経済学」を採用しました。

ドーナツの輪のところで、私たちは生活しています。この幅の間で、私たちの持続可能な社会を作り出す必要があります。ここにエネルギー、水、食糧、教育、民主主義、住宅などの社会的基盤があります。これが不足すると内側の穴に落ちてしまいます。一方、ドーナツの外側は、環境的な上限で、それを超えてしまうと、気候変動や海洋汚染、化学物質汚染などが起き、生物の多様性も破壊されます。すでにその兆候が地球規模で表れています。

(引用) NHKテキスト「100分で名著 カール・マルクス 資本論」(斎藤幸平)より

 

マルクスは資本を「運動」だと捉えたそうです。なんの運動かというと、貨幣で労働を買い、生産した商品を売って儲ける、その剰余価値でさらに商品を効率よく生産して売る。この果てしない運動のことを、資本としたのでした。それ以前の市場経済は、たとえば、食糧や服や薬を作って売り、得た貨幣で必要な生活品を買って生活しました。この過程には経済成長をどうしても必要とする仕組みを必要としません。剰余資本を再生産過程に投資することの何割かを、商品でありながら、社会基盤でもあるような「富」に還元する必要があります。

新自由主義以降の経済学は、経済成長、景気の安定、所得の再分配を3本柱としてきました。でも、経済成長を前提としなければ「回らない」資本の運動が、環境の限界を超えないような再生産になるようにデザインするのは、政治の役割だと思います。国ができないなら、地方自治体からでも始める必要があります。本来は、資本によって商品化されてはならない社会的基盤の一つは、明らかに「子育て」でした。空気や水や食糧と同じはずの「人類の子育て」や「共同保育」が、どんどん商品化されていくのを、私たちは、黙って見過ごすことはできません。

サンタが届けてくれるのは、ただ(無料)の社会的基盤(コモン)だろうと思います。

サンタが届けるもの

2021/12/24

あの、歌にも歌われている「あわてんぼうのサンタクロース」が、一日早くほんとうに保育園にやってきて、「今晩、子どもたちのお家におもちゃを配りにいくんじゃ」とフィンランド語で話してくれました。「そうそう、みんなにもプレンゼントがあるぞ」と、見せてくれると、子どもたちに「わ〜っ」と嬉しそうな笑顔と声が広がりました。サンタクロース、「来てくれるのかなあ」、と楽しみにしていた子どもたちには、特別な1日になったようです。

ちょうど先週からマルクスの書いた「資本論」についての斉藤幸平さんの解説書を読んでいて、サンタクロースのプレゼントは商品でもないし、お金で買うわけでもないし、そこに労働もない。「商品〜貨幣〜商品」でもないし、でも、子どもたちの喜ぶ富がある。でも、大事な社会へのメッセージがあるだけどなあ〜と考えていました。

そして自問自答が続きます。「そりゃ、そうさ。これは、おとぎ話だから、現実の資本主義社会じゃないから、こんな夢〜プレゼント〜感謝という関連が成立するだけさ。だって、本当は、おもちゃもケーキもお金で買わないと手に入らないし、それを作ってくれた労働者たちがいることを、忘れてもらっては困るね」と、私の中から、誰かの聞こえてきます。

それでもサンタクロースはいてほしい。資本の論理ではなくて、格差を無くしたいという思いからサンタクロースが生まれた歴史に思いを馳せるなら、この子どもの夢を叶えてくれる存在が、世の中にはしっかりあるんだという実感を、子どもたちに伝えたい。私たちは、本当の世界にサンタクロースを作り出さなければならない時代に直面しています。それはどんなサンタなんでしょうか?

すいすい「ブレーメンのおんがくたい」

2021/12/23

私は、社会の中で大人になるというのは、自分の意見をしっかりもつ、ということと同時に、他人の意見もしっかり受け止めるという両立や合意や共生を創り上げていくことだと思っています。保育所保育指針や幼稚園教育要領の教育のねらいにこうあります。「他の人々と親しみ、支え合って生活するために、自立心を育て、人と関わる力を養う」(人間関係)。人は協力するために自立するのです。

現代の社会の大きな課題の一つは、このデモクラシーの危機と直面していることです。保育園生活といえども、立派な人格を持った一人ひとりの子どもたちが、大人と一緒に創り上げていく生活ですから、その生活の中には、意見の調整という力の育ちも期待されています。何かを創り上げていく中で、そうした営みに、どれだけ一人ひとりが「参画」できているかが、保育の大きな焦点になります。

人間関係が発達していくというのは、このような力が引き出されて育っていくような集団になっていくことを意味します。すいすい組という小さなコミュニティが、どのように成長してきたか、そこを感じてもらえたら嬉しいです。

ですから、まず、好きなお話がそれぞれあって、どれにするかを自分たちで決めることができたところに、とても大きな発達の意味を感じます。

以下、担任が見とった言葉を紹介します。公開動画のイントロダクションから、引用したところは<  >で表します。

<数冊ある絵本との出会いから始まった話し合い>。テーブルには「おおさまとこどもたち」「ブレーメンのおんがくたい」が乗っていますが、実は「スイミー」も候補になっていました。

<子どもたちが元々知っている絵本もあれば、新しく見た絵本もある中で、話し合いが始まりました。初めは「ぼくは、わたしは、これがいい」と自分の意見を伝え合うだけだったのが、話し合いの途中から。「どうやって決めようか?」「どうしてこれがいいの?」「やりたい役はどれ?」と相手の気持ちを引き出すやりとりが始まりました。ただ、そうはいってもなかなか決まらず、「こっちの絵本で◯◯役をやりたい」と、話し合いは1時間続きました。そんな中、子どもたちの中で意見をまとめる役が生まれて、一人ひとりの気持ちを聞き、譲ってあげる子がでてきたり、提案する子が出たりして、劇遊びは「ブレーメンのおんがくたい」に決定しました。>

まず、ここが素晴らしいですね。決まるまでの過程に大きな成長を感じます。

さらに、すいすい組(5歳児クラス)の劇遊びを見ていると、劇が仕上がっていく過程で、子ども自身がその面白さを発見してくことプロセスが伝わってきます。

<台本を見ながら読み合わせをしたり、自分の役の台詞を何度も練習したり、練習する時間は少なかったですが、すいすい組みんなで協力しながら取り組んできました。練習が終わると「またやりたい!」とアンコールが出るほど、子どもたちは楽しんでいたようです。友だちと一緒にいう台詞、一人でいう台詞、それぞれの表現で楽しんで出来たと思います。>

関係性の発達として、付け加えるなら、子どもたちは保護者の皆さんに録画して見られる、ということを知っていますから、「よく演じる」という意識も感じられます。その場合の「よく」ということは、本人たちは、それこそ「よく」は、わかっていないのですが、それでも「見られる自分」ということから「演じる」という役者的な振る舞いが感じられるところが少しありました。

またナレーターも登場したり、台詞も随分と長いものになっています。らんらん組の時に「人生は旅に例えられる」という話をしましたが、この「ブレーメンのおんがくたい」も、その典型的なお話でしょう。旅に出て知らない人と出会い、悪と闘い、守るべき価値に気づく。生きることの真実に触れている感触が、謎のようになって残るような物語。長く伝わっている神話やお話というのは、どの物語にも、行って帰ってくる幸せの場所が示されていますね。

劇遊びの世界と現実の世界。その区切りも、自分たちで「おしまい!」と宣言して、「〇〇を演じた◯◯です」と自己紹介という形で、保育園生活に戻ってきます。そして「また、やりたい!」と、子どもの本分=遊びへと帰っていくのでした。

 

らんらん組「らんらん電車」

2021/12/22

本編の始まる前の、イントロダクション動画で、ごっこ遊びが大好きな子どもたちの様子が紹介されています。ごっこ遊びの中に、「お昼寝ごっこ」があるって、保育園らしいですね。布団をかけてお昼寝中♪です。ホントに可愛いですね。さて、らんらん組(4歳児クラス)になると、興味や関心の世界が広がって、多様性が増していく時期です。物語のヒロインやお気に入りの動物や恐竜など、まさしく十人色。やりたいごっこ遊びも多様になって、一つのまとまりを持たせた劇遊びにするのはむずかしい年頃かもしれません。そこで先生が注目したのは「のりものごっこ」でした。

子どもたちの「ごっこ遊び」は、生活体験の再現であることが多いのですが、その生活体験の中には、絵本や紙芝居をみたり、物語を楽しんだりすることも含まれています。リアルな生活の中に空想や仮想の世界が広がっています。この精神世界を持っているのは、人間だけです。動物はその世界を生きることはできません。しかも自分の人生を大きな物語の中に位置付け直すような想像力を持っているからこそ、聖書が書かれたり、仏典が残されたり、昔話や神話が語り継がれたりしているのです。

その大きな物語の世界へ、大きくなるにつれて、子どもたちも次第に参加していくようになるのですが、それがまた大人になること、成長することとも言えるのでしょうが、その物語には決まって同じ要素が含まれます。それは一体、なんでしょう?

神話学の中で定説になっているものは、人生を旅に例える物語性です。どこからかやってきて、どこかへ去っていく。出発があってたどり着く場所がある。誰からやってきて何かをして去っていく。どこかへ旅たち何かを探し求める。その過程で誰かと出会い、何かが起きる。その過程の中に、人は意味や意義を見出そうとする。絵本のお話も、大人向けの映画も、語り継がれている物語は大抵、人生が旅であるというモチーフになっていることになります。子どもたちの人生号「らんらん電車」も、新しい出会いを求めて出発していくのでした。

<・・・友だちと設定を決めて楽しむ姿がたくさんあります!こちらは、のりものごっこを楽しんでいます!みんなでアイデアを出し合って工夫して遊んでいますね♪のりもの好きのらんらんさんの姿から・・・お楽しみ会のテーマは「のりもの」にしようと決めました! ・・・>

運転手さんが「らんらん電車 出発進行!」と電車を走らせていくと、いろんなお客さんが待っていました。こやぎ、恐竜、プリンセス、うさぎが、それぞれの駅で「乗せてくださいな」と乗り込んできます。<・・個性豊かなところがとっても素敵ならんらんさん!一人ひとり、自分の好きなもの、好きなことがありますね。一人ひとりにぴったりの役を用意し、みんなで話し合ってなりたい役を決めました・・・>

他愛のない乗り物ごっこですが、あえて、やや大袈裟に捉えてみました。この子たちがすでに大きな人生の入り口に立っているんだあ! どんな人生が待っているんだろう! そう思うと、イントロダクションの説明が、なんだか示唆的に見えてきませんか?

わいわい組「ねこのおいしゃさん」

2021/12/21

この園長の日記では、クラスごとに子どもの発達の意味をお伝えしていますが、今年は、その発達とは「何かとの関係の育ちなんだ」、という視点で説明させてもらっています。動画のイントロダクションでは、どのクラスも撮影に至るまでの劇遊びの様子や、お面や背景づくりなどの様子が紹介されていますが、わいわい組の動画では、画面の下に次のような説明が流れました。

・・・・・・・

バーコードリーダーのおもちゃをおでこに当てて、検温。ごっこ遊びがすきなわいわい組は、お医者さんごっこを盛んに繰り広げていました。コロナウイルス感染対策の社会、経験を遊びの中で表現していました。そんな子どもたちにとって、ニャーっと気合を入れて 何でも病気が治ってしまう ねこのお医者さんは みんなが好きで、それは劇遊びとなりました。

・・・・・・・

子どもたちの「ごっこ遊び」は、たしかに現実の「社会の縮図」でもあります。ごっこ遊びは、心に残った自分の体験を再現する遊びですから、子どもが真似をして遊ぶ対象として取り上げるものは、子どもにとって意味があります。たとえば、子どもの「ごっこ遊び」は、ままごと(飯事)から始まることが多いのですが、それは一番身近な体験になっているからです。どんな「ごっこ遊び」をするかで、子どもが体験している社会が見えてきます。家庭の中の出来事から始まって、お買い物にいったお店、お出かけした遊園地、お泊まりした親戚のお家や観光地、海や山へいった出来事など、生活圏の広がりと共に、ごっこ遊びの世界も広がっていきます。しかも、どこで心が動かされるか?ということですから、その子の興味や関心に入ってこないと、記憶には残りません。いくら綺麗な満月を望遠鏡で覗いたとしても、小さいうちは心にヒットしません。

ごっこ遊びの中で「お医者さんごっこ」は定番中の定番。お医者さんを知らない子はいません。誰もがお世話なったことがあり、「もしもし」の聴診器や体温計、注射器などは必衰アイテムですが、コロナ社会らしいのが、建物の中に入るたびに、ピッとやる非接触型の体温計でしょうか。保育園のごっこ遊びゾーンには、お店やさんごっこ用のレジ用の「バーコードリーダー」があるのですが、それが非接触型の体温計として使われている、ということになります。電話をする真似も、昔はダイヤルを回す時代がありましたが、そのうち携帯になって、今は画面をシュッと擦ったりしています。

わいわい組になると、グッと劇らしくなりますね。どうしてでしょう?何が違うのでしょうか?

一つは言葉の使われ方が大きく変わるんですね。にこにこ組(2歳)までは、「うんとこしょ、どっこいしょ」「まだまだ、かぶはぬけません」と同じセリフの繰り返し。しかも同じ節やリズムに乗って、子どもはセリフだという意識があまりありません。歌でも歌うかのような気軽な感じで繰り返しやるのが楽しそうでした。わいわいになってくると、役柄に合わせた独立した短いセリフがでできました。ただの「ごっこ遊び」が「劇遊び」と異なるのは、この台本のある決まったセリフになる、というあたり。間違ったセリフやタイミングに対して「違う」という意識を、子どもたちは共有しています。

なので、お医者さんが「次の人、どうぞ」と言って、動物の患者さんが登場する前に「どうしましたか」というと、「まだいないでしょ」という声があがるのでした。役はお医者さんとその奥さん、そして患者さんという3つ。象の患者さんは「鼻水が止まりません」、キリンの患者さんは「首が痛いです」、クマの患者さんは「眠れないんです」、うさぎの患者さんは「咳がとまりません」・・それぞれに「・・・♪ ニャーと気合を入れたなら、誰でも良くなる、すぐに良くなる、お大事に〜」をみんなで歌って、お薬がわりの果物をあげます。劇の中では、すいすい組(5歳児クラス)がコーラス隊でお手伝いをしてくれました。最後は、奥さんから元気な赤ちゃんが産まれて、みんな大喜びです。

子どもたちは色々な役をやりたくて、数人の子は途中で役割を交代しています。ごっこ遊びですから、それも自然なことですね。

最後はみんな一緒に、「ジャンボリーミッキー」でダンスです。

動画の説明によると<・・・なかなかディズニーへ行けないという気持ちに寄り添い、保育園でディズニーへ行っている雰囲気を味わおうと 画面に映し出してミッキーと踊ったりと、楽しんできた一つです。> こうやってコロナ社会を子どもたちは想像力で乗り越えてきたのですね。

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