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園長の日記

それでも譲れないものは守り通す

2021/08/16

今回、納涼会をどうするか悩みました。今、甲子園で熱い戦いが繰り広げられていますが、昨年は出場できずに無念な思いを噛み締めた高校生たちの姿を思い出し、大人にとっては何年かの我慢かもしれませんが、子どもたちにとっての1年は、一生のうちで1回しかない一年だったりします。それは園児も同じはず。この頃の1年は、本当にかけがえのない一年なのです。それを大人の都合で簡単に手放していいのだろうか。でも未曾有のコロナ禍が進行しているし、どう判断したらいいのだろう。そして決め手になったのは「誰がみても濃厚接触者ゼロ」状態を作り出すこと。そのための工夫をしながら、実施することにしました。

保育にとって大事なのは、本当は行事やイベントではありません。何か名前のついた活動や行事だけでは、子どもの根っこは育ちません。日常の毎日の、地味な生活の積み重ねが方がよっぽど大事なのは間違いありません。ですから行事の一つや二つがなくなったとしても、それほど大きな喪失にはなりません。しかし、それでも子ども達が楽しみにしている思いを考えると、そう簡単に諦めるわけにはいかないと考えました。

話はコロナとの戦いになりますが、この長期戦とどう向き合うか。保育の本質が日常にあるからこそ、地味な毎日にコロナなの影響を与えたくありません。それでも無用な自粛になっているものはないか、きちんと点検しながら、保育を進めたいと思います。この2年半を振り返ると、コロナ禍がなんと長いことか、驚きます。

「地域を園庭に!」を合言葉のようにして開園したのが2年前の春。園庭はなくたって、地域があるじゃないかと、子どもたちの生活圏を地域へ広げてきました。まずは園の前を流れる神田川。これを地域の交通インフラにしようとしている「千代田リバーサイド・プロジェクト」と連携をはかり、一年目の納涼会は屋形船で隅田川へ出てもらい東京スカイツリーが見える吾妻橋までの往復を楽しみました。

また園の前を走っているのは幹線道路ですから、バスを借り切って「木場公園」や「しながわ水族館」「北の丸公園」などへ、園ではできない運動や生き物観察を楽しみに出かけました。さらに地下鉄や電車も近くを走っているので、これも活用する計画を立て、さあ、これから近くの保育園とも交流だ!と張り切っていた頃へ、やってきたのはコロナウイルス感染という、目に見えない妨害者です。開園2年目はこれとの戦いを象徴する「閉園」で始まったわけですが、その戦いは1年半以上にもなり、開園してからこれまでの時間の半分以上にもなってしまいました。

園庭がなくても地域がある、いろんな人たちと出会い、交流を深めたい。この方針に変わりはありません。でも保育園や小学校、学童、高校生、大学生など、相手を必要とする交流は今、いかにもやりにくい。人数と時間を制限しながらやるしかありません。コロナ禍は、こうして人と人の接近と交流を阻むかのように、なんとも身動きの取りずらい状況に引きずり込んでしまいます。身体性と物理的接触が極めて大事な子育てに、ソーシャル・ディスタンスを取るのは致命的なことなのですが、そうならないように、感染対策を講じ、活用できるリモートは利用しながら、必要なことは淡々と実施していこうと思います。

本日16日、感染情報の報告についてお願いをさせてもらいました。皆さん、くれぐれも感染なさらないようにお気をつけください。

子どもたちにとっての納涼会

2021/08/13

コロナ禍で軒並み中止になってしまった夏の風物詩の数々。大人にとっては懐かしいと感じるお祭りの屋台や盆踊り。

そうであっても、未曾有の感染爆発真っ只中にあるからこそ、彼岸から現世を心配されているご先祖さまをお迎えするのがお盆の礼儀というもの。地域でそれらを準備して、実施していく大人をみながら、子どもは育っていくのです。その光景を無きものにしてしまうことが、現代の残酷さでもあります。

子どもたちは「納涼会プロジェクト」をはじめました。というとなんだか凄そうですが(笑)、要するに「お店屋さんごっこ」です。

納涼会はやることにしました。それに向けて7月上旬から、幼児組の子どもたちは、お祭りの屋台に並ぶ「美味しいもの」を作ろうと話し合っていました。

室内にちょうちんを飾った今日13日(金)。制作ゾーンを覗くと、お寿司を握っていました。

まぐろやしゃけ、玉子焼きなどができていました。屋台でお寿司はあまり見かけませんが、それはまあ、いいとして・・

これまでにも作ってきた様子を主任が玄関に張り出してくれました。焼きそば、たこ焼き、ドーナツなど、どれもおいそう・・・ぜひご覧ください。

咲いた朝顔の花

2021/08/12

子どもたちが種から育てた「朝顔」が玄関で咲きました。

先生に抱っこしてもらって、花の中を覗き込むと・・・

「オシベみたいなのが、4つあった」「キラキラしてた」

すいすい(年長)ともなると、雄蕊って言葉を知っているんですね。

ほんとに綺麗でした。

春に植えた稲も穂が実っています。

玄関周りの緑には、すいすいの子たちが、毎日のように水やりを続けてきました。

 

お手伝いが大好きなすいすい組のお世話のおかげで、さいた朝顔。

いろいろなことを伝え合い、話し合う姿が頼もしいすいすい組の子どもたち。

最近のすいすいさんの成長ぶりを表しているかのようです。

不思議なハンターがやってきた!

2021/08/10

年長のNKくんが上野の国立科学博物館で開催中の「特別展 植物ー地球を支える仲間たち」で見つけたらしく、ハエトリグサを持ってきてくれました。

パカっと開いた歯のある葉が、中に虫が入ると、一瞬のうちに閉じて捕まえるという、植物ハンターです。こういうの、子どもにはタマリマセン。私も小さい頃、アリを中に落として、閉まるかどうかやったことがありますが、あれ、なかなか閉まらないんです。

調べてみると、葉の口の中には、感覚毛が生えていて、2回ないしは2箇所以上触れないと閉まらないようになっているらしい。雨の雫や枯葉など、生き物ではないもの、消化でいないものが偶然入っても閉まらないようにできていると言うから、面白い。植物が虫を食べるという、動物が草を食べるなら分かるけど、草木が昆虫を食べちゃうんだから、それだけでも不思議な生態ですよね。北アメリカで発生したのは6500万年前となっているので、ユカタン半島に巨大隕石が落下して、恐竜が絶滅した頃になります。ちゃんと花も咲き、種もつけます。

ワクチン接種後に死亡は828人(7月25日現在)

2021/08/09

この2日間、肩は痛いし38度を超える熱が出るし、とても辛い時間を過ごしました。予防接種でこんな副反応になったのは初めてです。そこで、ネットで調べてみました。この数字を、みなさん、どう受け止めますか。

新型コロナウイルス対策のためのワクチンを接種した後で、翌日あるいは数日後に亡くなっている人が800人以上もいるんです。このことをあまり言いませんよね。私が疎かっただけでしょうか。

https://www.mhlw.go.jp/content/10601000/000816282.pdf

それにしても、今のマスコミ報道は一方的過ぎるんじゃないかと感じます。

私は論理的思考とは何か、少しは心得ているつもりです。

物事にはAという事象が起きたとき、その結果を発生させた原因であるBを探し出そうとします。結果に対する原因という「因果関係」です。

自然界では、物理現象は因果関係が明快です。だからこそハヤブサは成功し、残念ながら76年前の今日、私の生まれ故郷の長崎に原子爆弾が落ちました。

しかし、大抵の人間の生活に関わるほとんどの事象は、そんなにすっきりとした因果関係にはなっていません。Aという結果は、大抵は複数の要因が絡み合っていることが多いので、一つの「要因」に絞り込むことは難しいのです。特にそこで結果Aとの間に要因CDEF・・・とは「相関関係あり」と見做して、さらに主たる要因を突き止めようとするのが、科学的態度というものです。普通は、そういう態度をとりますよね。

この原因と結果の関係を探る営みは、個人も組織も何らかの反省やら省察やらPDCAやら、言葉は違っても似たようなことをしているはずです。スポーツでもそうですよね。ましてや、物理現象と違って生命現象、複雑系を対象とすると、因果関係を導き出すのは初めから難しいものです。

だから、新薬など、人間の生体に直接、未知の物質作用を与える場合は、結果がどうなるか分からないので、ある一定の時間をかけた実験をします。実験というと道義的に反対されるので、治験というのですが、やっていることは同じです。

ところが、今、日本で起きているワクチン接種推奨のムードは、これでいいのでしょうか。冒頭に紹介した厚生省労働省が報告している「新型コロナワクチン接種後の死亡として報告された事例の概要(コミナティ筋注、ファイザー株式会社)」を見ると、7月25日現在(オリンピック開幕の前日)で、ワクチン接種の翌日や数日後に亡くなっている人が828人もいて、ほとんどが「情報不足等によりワクチンと死亡との因果関係が評価できないもの」となっています。

これを言い換えると「因果関係まではわかりませんでした」ということです。「因果関係なし」とは言っていないのです。「ワクチン接種と死亡に因果関係はない」と誤解しているコメンテーターがいるので、困ったものです。因果関係はわからないが、明らかに、強い相関関係はあるのです。死因の引き金になっている可能性があるとみた方がいい。接種日と死亡日が近過ぎるからです。

ですから、上に述べたように、ワクチン接種直後に、これだけの死者が報告されていれば「相関関係は大いにありそう」とアナウンスするべきです。情報不足であることを認めているということは「情報が満たされたら因果関係があるという判断になるかもしれない」とも読み取れます。

繰り返しますが<接種してから数日の間に死亡している>人がこんなにいるという事実だけからも、相関関係はあると見なすべきです。6割の壁といって、接種数を上げることばかりを言いますが、ちゃんと議論して欲しいものです。接種に不安を感じている人には、何か正しい知識を伝える必要がある、という識者がテレビに出ていますが、それを言うなら、この828という数字についてどう思うかを述べてからにして欲しい。

死因は「血栓」が原因になっているもの多くあります。これも、このワクチンの副反応の特徴だったことと一致します。

全てのマスコミ報道をチェックしているわけでもないし、SNSの動向をフォローしているわけでもないのですが、この議論があまりにも少なくないでしょうか。きっと、この数字をどう見るかが次の論点になるかもしれません。そこでインフルエンザワクチンによる死亡数も厚労省が出していますので比較しましょう。

https://www.mhlw.go.jp/content/11120000/000583992.pdf

平成30年度の分ですが、これによると5350万人に接種して死亡報告は、たった3名です。そして同じように「因果関係は不明」とされています。同じ判断基準を用いています。どちらも審査しているのは厚生労働省の科学審議会なのですが、審査基準のあり方を見直さないと、取り返しのつかない事態が進行しているかもしれません。

以上の私の感想が、発熱による妄想が産んだ「大いなる勘違い」だったらいいのですが。どなたか、私の論理的思考の誤りがあれば、教えてください。

「ヒロシマ」の日に感じる思い

2021/08/06

ヒトは生物なので、色々な気持ちを持っています。外からの刺激を視覚や聴覚などの五感を通じて感じるもの(外受容感覚)と、たとえば「ああ、お腹いっぱい!しあわせ!」と感じるもの(内受容感覚)などがあります。子どもとふれあい遊びをやっていると、肌と肌を触れ合わせて、接触する遊びには、この二つが融合しているような手応えを覚えます。

木曜日の朝遊び。「ハンバーガー作ってください」と私が一番下のパンになると、ハンバーグが2枚3枚と乗っかってきて、「ダブルバーバーできました」「もぐもぐもぐ、ごちそうさま〜」とやって遊びました。子ども同士が身体的な接触を求めているのは明らかですが、ある仕掛け=遊びの環境を用意しなければ、意外とそれが生まれません。身体的接触がなくては、ヒトの脳は育たないのですが、現代の子育ては、その経験が家庭でも地域でも少なくなってきたと言われています。

親が子どもを産んでも、育てるのは村中の人たちが協力して共同保育をずっとやってきたヒトは、現代でいう保育園のような場所をずっと必要としてきたのですが、いつの間にか、共同保育の場としての大家族が喪失して核家族になり、少子化なのに虐待が増え続け、子育てが苦しいものになってしまいました。不自然な子育ての仕組みができてしまいました。ヒトの子どもが満たしたがっている欲求に丁寧に耳を傾ければ、深いところにあるエモーション(情動=大脳周辺系から生まれる感情)が聞こえてきます。

その深いところで満たしたがっている感情の強力さは、オリンピックを見ていても感じます。

約20万年前にアフリカで生まれたホモ・サピエンスが世界中に散らばって独自の進化を遂げ、亜熱帯気候に変化してきた東京に205もの国と地域が集まって、スポーツという人類が発明した非日常の競技の祭典「オリンピック」が明日で終わります。これを見ていると、どうしてヒトは力や技や美の極限や限界を競うことに、こんなに熱中できるんだろうと考えてしまいます。やるヒトも見るヒトも「競う」ことがこんなに好きな生き物は他にはいません。ここには大きな謎があります。やはりヒトは心理的に「戦う」ことを満たしたがっていて、それをスポーツという文化形式に転換して昇華しているのでしょうか?

そこで何が満たされいるのかというと、勝てば喜びや達成感という高揚感であり、負ければ悔しさや後悔や失望感を味わいます。その質は普通の生活の中では得られないものです。毎年ではなく四年に一回しかないという頻度も大事です。毎年やっていたら、希少性がありません。しかも、スポーツには一つの法則があります。どんな競技や種目も、そこには全く同じプロセスがあるのですが、それは目標を作ってそれに向かって努力して達成するというプロセスです。ルールや評価の基準があらかじめ決まっていて、その枠の中で、訓練や鍛錬を積み重ねなければ成し遂げることができないプロセスです。

競技を終えたアスリートたちが、「今どんな気持ちですか」「結果をどう受け止めていますか」と聞かれて、奥深いところから湧き上がってくるエモーションに、言葉で意味を付与していきます。物語の形式に変換しながら、喜びも悔しさも1人ではできななかったことに感謝するという概念に昇華させていくアスリートたち。ここにも共同保育で創られてきた共感力、他者の気持ちを想像できるメンタライジングの力を感じざるを得ません。

このプロセスがあるので、日常や平凡では得られない、特別なエモーション(情動)が生まれるのでしょう。それが実践者だけではなく、それを見る人までにも伝染し、マスメディアと通じて拡大され、増幅されて伝わっていきます。このような文化装置が巨大になればなるほど、その感染力を止めることは難しいでしょう。

このことは、無理と思い込まされていることも可能だと考え直すことにつながります。今日6日は「ヒロシマ」の願いを忘れない日だったのですが、人類がオリンピックという、これだけの文化装置を作り上げることができるのなら、本気でコロナと戦ったり、核兵器の所持や利用を禁止するためへ、政治のエネルギーを注ぐことぐらいできそうなものなのですが、そうした叡智を政治が発揮できないのは、どこかで私たちが「できない」と思い込まされているからかもしれません。アスリートたちの言葉を信じたり、勇気をもらえるのなら、原爆被害者の方々の戦いからも希望と勇気をもらえるはずなのです。

 

安心感の輪が大きくなったみたい

2021/08/05

8月2日(月)の朝。3階へ顔を出すと、年長のKMさんやIYさんたちが寄ってきて「ねえ、もう一回、お泊まり会やりたい!」と要望されます。それだけ楽しかったようなのです。たった1日のお泊まり会でしかないのに、子どもたちの成長を色々と感じます。担任から見えるその姿はクラスブログの連載を読んでいただきたいのですが、私にも保護者の方からいくつかの「成長の姿のエピソード」が届いています。

(上の写真は、園内のいろいろなところに隠されている手紙を見つけてそれを読み、わかったらそこだ、と次の手紙の場所を探しに行く子どもたち。7月30日のお泊まり会で)

・・・・

それらの話からは、子どもたちの「安全感の輪」(サークル・オブ・セキュリティ)が大きくなった、ということを思い浮かべます。私たちヒトは生まれてすぐから。自分だけでは生きていけず、体温や心拍、覚醒や睡眠などの生理的欲求の調整さえ親に頼っています。併せて、子どもたちは、大人の身体に「アタッチメント=くっつくこと」によって、心理的にも社会的にも安心を得て生存します。安全と安心を与えてくれる大人との身体の接触を通じて、子どもは生理状態を一定の水準に回復させながら生きています。

ちょっと、脇道にそれますが、この話を思い出すのは、東大の遠藤利彦先生がこの話を最近もよくされるからです。

初めて聞いたのはもう10年ぐらい前のことです。日本赤ちゃん学会の故小西行郎先生の紹介で私たちの研修会(ギビングツリーのセミナー)に遠藤先生をお招きしたことがあります。

その時、私が司会だったのですが、その会の最後に「安全感の輪の右側に、空間や物の保育環境の輪も必要ですよね」と質問したことを覚えています。遠藤先生も「その両方が保育実践には不可欠ですね」とおっしゃっていました。「見守る保育」の条件の一つがここにあると思ったものです。

園の先生は基本的に環境を構成し、この図でいえば安全基地のところに、どっしりと構えていればいいのです。困った時、不安や恐れを感じた時に避難できる安全基地があるという、その見通しが安心感をもたらします。

人間は、「抱っこ!」と甘えたり、じゃれ遊びを求めたり、子どもは安心できる他者との身体的接触を拠り所にしながら、生理的にも精神的にも社会的にも、成長していきます。

その拠り所となる安全基地に戻ってくるサイクルを、「安全感の輪」と言って、その輪は小さい子どもほど、小さく、成長するとその輪が大きくなるというわけです。

大人も同じで「安全感の輪」を持っています。不安な時、安心したいので、人と接触を求め、ハグしたり、体を撫であったりします。

身体的な接触が叶わない時は、SNSや電話をかけてきて話を聞いてもらったりします。中には「他人を心配している」と言いながら、実は自分が不安だったりしています。大人は人や物から離れて、もっと抽象的な思想や宗教やアイコンだったりします。安全基地が浄土だったり、仏様だったり、天国だったりするのでしょう。人それぞれの<安全基地>の確認や往還をしながら生きているのです。

安全基地を持たずに、自信のない青年や大人になってしまうと、自分を安心させる方法として〈他罰性〉を大きくさせてしまう大人もいます。人を批判したり、ネットに誹謗中傷を書き込んだりする心理です。

3日、ダンサーの青木さんもいろいろな場で、同じテーマを感じているそうで、活動への参加を躊躇する子どもとは、まず「ぎゅ〜っと、抱っこするとか身体的な接触を増やした」そうです。「この分野は僕らの得意なところなんですけど」と。なるほど、と思いました。

青木さんのダンスの要素に「養護=ケアリング」を感じてきたのは、実は身体の本質だったからかもしれません。当園の運動会が「親子の身体的なふれあい遊び」を大切にしていることと、理論的に重なってきました。

お泊まり会を通過する意味は、この輪が大きくなったことを意味します。困ったり不安になったら、いつでも親の身体的な接触による安心基地へ戻れる。その安心感の輪が、少し大きくなったのでしょう。それが「なんだかしっかりしてきたなあ」という感じを与えているのかもしれません。

すいかの味 夏の味

2021/08/04

今日は屋上で「すいか割り」を楽しみました。屋上のプランター菜園には、 何個かの「すいか」がなりましたが、すいか割りは買ってきた大玉を使います。

水着に着替えた「かにグループ」の子たち(主に34歳)がまず、トライ。

目隠しあり、を選んだ子が2人。さてどうなるかと見ていたら・・目隠しなしを選んだ多くの子も、すいかに向かって棒を振り下ろして・・・ポン。いい音(笑)。割る、というより、叩いてポン。割れなくても「当たった」という気持ちで満足そう。

これに続いて、にこにこ組(2歳)、ちぐ(0歳1歳)の子たちも屋上へやってきて、同じように棒で叩いて「すいか割り気分」を味わいました。

連日猛暑が続いていますが、わいらんすいは、すいか割りのあとで、プールに入ったりして水遊びを楽しみました。

「いるかグループ」(主に5歳)のすいか割りは、棒が当たるたびに「あ、ヒビが入った」と、すいかがどうやって割れるのかに興味津々でした。

そして「すいかパーティ」です。割れたすいかを切り分けて食べました。味は甘くて冷たくて「もう一個食べたい!」「おかわりしたい!」と大好評でした。

水遊びと一緒のスイカの味。子どもにとってすいかは「真夏の味」を代表するものの一つですが、きっと格別なものになったことでしょう。

真夏のダンスの向こうに江戸情緒を感じよう

2021/08/03

今日は7月に続き、今年2回目となるダンスの日。青木さんと芝田さんがいらっしゃって、乳児から幼児まで全クラスで体を動かして遊びました。

いま「ダンスの日」と言いましたが、実は青木さんは「ダンスと言うと、その言葉のイメージに引っ張られてしまって、意味が狭くなってしまうよね」と話されています。青木さんの活動は、ダンスの枠を超えて「身体」そのものの可能性を、いろいろな世界に切り開くような営みを探究されています。園の生活の中では「楽しく体を動かす」としかいいようがありませんが、でも、ただ動かすというのではありません。動き全体をデザインしつつ、子どもから生まれてくる創造力を上手に引き出していきます。

例えば今回もいくつかの新しい試みがあったのですが、その一つは「わらべうた」の導入でした。わらべうたは、日本に昔から伝わる児童文化財です。「い・れ・て」「い・い・よ」もわらべうたなのですが、「い・れ・て」(ソ・ファ・ソ)「い・い・よ」(ソ・ファ・ソ)のように、シンプルな音階と休符からなり、会話と音楽を繋ぐような位置にあるのですが、併せて身体遊びと密接に結びついています。

今日の「にこにこ」(2歳)で見られたのは、「おふねがぎっちらこ」です。大人が膝を伸ばした両足の上に、子どもが向かい合ってまたがって座ります。そして、手を持ち合って「ぎっちらこ、ぎっちらこ、おふねがぎっちらこ」と、前後に体を揺らします。最後にブルブルと膝を揺らして揺さぶってあげると、子どもは大喜びです。

わらべうたは、簡単な音階とリズムなので、子どもは自然と覚えてしまいます。しかも、この種類のわらべうたは、体も一緒に動かすので、記憶に残りやすく、言葉、リズム、メロディ、体の動き、動感などが快感とセットになって、いわば身体に染み込むのです。皆さんも、なべなべそこぬけ、とか、ずいずいずっころばし、とか忘れずに覚えていることでしょう。実際のところ、これを「ダンス」と呼ぶよりも「わらべうた遊び」そのものです。しかし、この「わらべうた」がアートに変わっていく瞬間を目撃しました。それは、らんすい(4歳5歳)で「わらべうた」をやった時です。

今年はダンスにわらべうたを取り入れたい、と青木さんにリクエストしたのですが、早速、オリジナルのわらべうたを用意してくださいました。それが「鬼さん鬼さん、何するの?これするの、これするの」というものです。小学生向けのインプロ・キッズ(インプロビゼーションは即興の意味)を、幼児向けの「わらべうた」にアレンジした青木さんのオリジナルなのですが「これするの」のところで、即興的に体を動かしてみるのです。子どもたちはそれを見て、2回目の「これするの」の時に真似して一緒にやります。

この即興による身体表現の「瞬発力」は、自分の中に引き出しをたくさん用意して、それを再現する場合と、全く何も考えず(用意せず)に、その瞬間に何が飛び出してくるか、自分自身も楽しみなっていく場合があるようです。その表現の生み出し方はまさしくアートですね。そして、問いと答えという言葉の意味、身体で答える表現、語りのようなメロディとリズムと間(ま)。遊びの中で、子どもたちは知らない間に、四分音符と休符からなる日本的リズムという音楽的素養も身につけていきます。

こんなことをプロデュースしながら、幼児教育としての身体活動遊びを繰り返していくことで、子どもたちには「自然の営みとしての身体を取り戻していく表現者」に育っていってほしいと願っています。それは本当の健康や幸せに通じるからです。そして江戸情緒など、日本的な文化へ感覚も身近なものになってほしいと思います。

さて、今日はさらに、保育園に素敵なお客さんがやってきました。カナヘビくんとカマキリくんです。ある保護者の家で飼われていて、夏休み間しばらく保育園で過ごします。カナヘビくんは北の丸公園に棲んでいました。

好物は虫ですが、よく水を飲みます。そんなカナヘビくんのことを、まずよく知ろうと、小林先生が用意した動画を見ながら子どもたちは上手な飼い方を勉強です。観察ゾーンにやってきたカナヘビくん、どうぞよろしくね。

連日暑い日が続いています。夕方にはすいすい(年長)の子たちが玄関前の歩道で「打ち水」もしました。クーラーも冷蔵庫もない江戸時代、この柳原通りの夏は、打ち水や柳ごおりが「夏の涼」を演出していました。

 

和泉小学校で講演

2021/08/02

「困難さは私たちの意識と環境が作り出している? 〜障がいという概念を超えた保育を目指すために、子どもの特性理解を深めよう」。私はこの数年、こんなタイトルの講演を幼稚園や保育園の保育者向けに何度か行ってきたのですが、その話を聞きたいとおっしゃって、私を講師として校内研修会を今日開いたのは和泉小学校の村田悦子校長先生です。

「障がい」の定義の歴史を見ると、国と時代によって大きく変化してきました。しかもその判断をするのは医師ですが、その基準は国際機関や医学会が制定します。その代表格は米国精神医学会(APA)が編成する「精神疾患の診断・統計マニュアル」(DSM-5)です。

私はその経緯を詳しく調べたことがあるのですが、純粋な科学的議論だけとは言いがたく、その国の保険制度や医薬業界の意向、当事者の会など関係者による活発なロビー活動を伴う政治力学が強く働いています。日本はDSMに比較的忠実に従うのですが、その扱い方は国によってもかなり違います。一言で言うと、この基準や診断で、その人のありようを決定してしまうかのように社会的な支配力を持つことに、私は強い懐疑を抱いてきたのです。

もう一つ、深い疑念を呼び起こす原因となっているのが「障がいの特性は環境因子によって変わる」という事実です。それは保育実践の中で強く感じてきました。そして私の懐疑が過剰ではなかったことを、今世紀になって世界保健機構(WHO)が証明しました。例えば「国際生活機能分類」です。それによると、健康とは「個人因子」だけで考えるのではなく「環境因子」も加味して、社会参加できれば、障がいとはならないと定義変更されたのです。

私たちは、医学モデルから適切な距離を取るべきなのです。環境への不適応は、個人の特性か、それとも環境の方に原因があるのか、あるいは相互作用なのか。私は食物アレルギーがあっても、それは障がいではなく除去や代替食があれば環境に適応できることを例に挙げ、環境いかんでは、障がいという医学モデルから社会モデルに移行できるものもあります。その可能性を広げるように追究するべきだと考えています。

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