今日16日は午後から、参宮橋にあるオリンピック青少年センターの大ホールで、影絵劇「三枚のおふだ」を楽しんできました。このイベントは千代田区が主催したもので、区内の幼稚園、こども園、保育園すべての年長さんが観劇をしました。昨年はコロナで中止になったので、千代田せいが保育園ははじめての参加となりました(初年度は年長さんがいなかったので)。
どんな内容かは、「劇団かかし座 三枚のおふだ」の検索で予告編の動画を見ることができます。
2021/11/16
今日16日は午後から、参宮橋にあるオリンピック青少年センターの大ホールで、影絵劇「三枚のおふだ」を楽しんできました。このイベントは千代田区が主催したもので、区内の幼稚園、こども園、保育園すべての年長さんが観劇をしました。昨年はコロナで中止になったので、千代田せいが保育園ははじめての参加となりました(初年度は年長さんがいなかったので)。
どんな内容かは、「劇団かかし座 三枚のおふだ」の検索で予告編の動画を見ることができます。
2021/11/15
次の「分数の足し算」について、皆さんはどう考えますか。問題は「2分の1」たす「3分の1」です。小学生は分母と分子を足して「5分の2」と答えることがあります。2打数1安打と、3打数1安打だった選手は5打数2安打だから、というのです。一瞬、騙されませんか? 面白いでしょ。分数の足し算という概念を理解することは、実は結構、難しいんです。大人「通分」という記号操作を覚えていてるだけで、分数同士を「たす」というのは、本来、どういう意味なのか、わかっていないような気がします。実は「たす」には多様な意味があるのであって、ある限定的な意味になっていることを理解していません。
こんなエピソード満載の講演が昨日15日(月)に東京・三軒茶屋の昭和女子大学でありました。講師は秋山仁・東京理科大学数学教育センター長です。15日(月)の、第1回乳幼児STEM保育研修会でのことです。開催したのは、藤森先生がこのほど立ち上げた一般社団法人幼児STEM保育研究会(藤森平司理事長)です。藤森先生もこんな事例を紹介しました。小学校教員時代の話です。「倉庫の四隅にわらの山があります。一つの山、2つの山、3つの山、4つの山があります。わらを全部たすといくつの山になるでしょう?」答えは、10の山と答えがちですが、正解は「一山になる」です。これはトンチクイズみたいですが、「たす」という言葉の意味がいかに多義的かということでもあります。
分数同士をたすことは、あくまでも「量」を足しているので、小数どうしの足し算で表せば、勘違いはおきません。0.50+0.33=0.83だと答えるでしょう。ところが「2分の1」たす「3分の1」となると、「割合どうしを足すこと」という意味が生じ、割合の平均を求めることを「たす」ことと混同してしまうのです。野球の打率を出しているのは、母数と子数どうしをたすと平均を求めることになりますよね。
小学生はこの二つの違いを理解することが難しくて、丸い図を書いて「量の足し算」であることを理解します。あるいは「通分」という方法で、正解が導かれるということに「慣れていく」ことになります。ここの違いが、数学が暗記にすり替わる分かれ道になります。この別れ道は、数学だけではなく、科学、技術、エンジニアリングにも見られるのでしょう。秋山さんは「暗記でできることは、数学の本質と関係がない」と言います。
ここまでは小学生以上の話ですが、では乳幼児にとってのSTEM保育のポイントは、なんでしょうか。面白かったのは、秋山さんも私たちの結論と同じだったことです。いわゆる非認知的能力の方で、心動かされる体験や、意欲や好奇心・探究心、思いやりや協調性、諦めない力や最後までやり遂げる力などです。これらの力はスキルなので、教育によって育つもの、身につけることができるものです。ではどうやって、育つかというと、その方法も私たちと同じ考えでした。暖かい愛情や大人の応答性、没頭して遊び込んだり子ども同士の関わりの中で育つのです。この心情・意欲・態度が育つことで、STEMマインドも身につくという構造は、全く同じ話でした。
秋山さんの話の後、午後は河村康文・東京理科大学教授と藤森理事長との対談でした。藤森先生からは数学の面白さを小学生にどう伝えたかという実践事例、川村先生からは理科や科学の歴史についも話があり「科学というのは発見と発明の歴史です」という指摘に、テクノロジーやエンジニアリングの側面が理解できました。
2021/11/13
階段に掲示した月の変化を実感してもらうために、夕方から望遠鏡を出して覗いてもらうと・・
「見えた!」といって面白そう。よくわからないけど「見えた」ことが楽しいようです。
それでいいんだろうと思います。この「見えた」という体験が、後々、じんわりと意味が出てくることでしょう。
2021/11/12
今日はとても嬉しい日になりました。今年6回目の「園内研修」は、先生たちが全部自分たちで全部作り上げたからです。自らの保育を高めるために、自分たちで学び合いを作り出す力を先生たち自身が持っています。これが何にもまして素晴らしい。学び合いによって学んだ内容もさらることながら、この学び合いを作り出す力そのものを育てたい。学びを生み出す仕組みを生み出すこと。こんな素敵な創造があるでしょうか。これは受動的な学びから能動的な学びへの転換でもあります。
このような学び合いは、それぞれが異なる気づきを得たはずで、その気づきの多様性は、子どもたちが生活や遊びの中で気づく学びに似ています。必要感からの学びほど、スーッと自分の中に入っていくものはありません。
しかも2時間の間に、ロールプレイング、KJ法、事例検討の3種類の手法も使っていました。目的によって手法を使い分ける体験にもなっていて、研修手法そのものの研修にもなっていました。
2021/11/11
にこにこ組は花壇と噴水のある方面で、わいらんすいは冒険広場で過ごしました。にこにこ組とわいわい組は、初めての木場公園でしたが、あまりそんなことを感じさせないほど、公園の中に溶け込んで遊んでいました。
前半はにこにこ組の引率でした。花の蜜を吸いにきている蝶々には、みんなが興味を示していました。
途中から噴水が面白くて離れない子がいたので、何を面白いと思っているのかなあ、とじっと見ていたら、わかりました。
噴水の水が落ちてきて、泡ができて、浮いていた葉っぱが水の渦に巻き込まれて沈んでいく様子をじっと見ていたのです。秋の枯れ葉が、水面にたくさん浮かんでいたのです。
それをまた見たくで、自分で葉っぱを掴んで噴水の中に投げ込もうとするので「それは噴水が壊れちゃうから、小さいの一個だけにしよう」と提案して、小さなはっぱ1枚で妥協してもらいました。
そこまで譲歩してくれるだけでも、偉いなあ、成長したなあ、という「にこにこさん」です。水の渦や飛沫や、ずっと流れてくることが不思議なのか、「どうして流れるの」と何度か聞かれましたが、「どうしてだろうね、上の方に水がピューッと上がっているね」などと、返事をしていました。公園といっても、一人ずつやりたいことが違うので、そのバリエーションが豊かなのが公園の良さです。
冒険広場の方では、昨日の会議の影響があるのか、すいすい組の団結が一層深まっているように見えました。大型アスレティックの踊り場や、ネットの上に集まって「すいすい談義」をしているのです。
地域の親子が通れない、使えないという状態になるので、その度に私が「同じ場所に集まって座り込んでいたら、地域のお友達が遊べないから、散らばって遊んでね」と話してあげなければならないくらいでした。
2021/11/10
(写真はお手伝い保育の様子)
私たち保育者は、保育における起点(スタートポイント)を持っています。それは一般に「子ども理解」という言葉で位置づけられているのですが、その理解は何を目指しているのかというと、別の言葉では「子どもの実態」ということになります。実態という言葉を使うのは、目に見える姿だけではなく、目に見えない「子どもの心」まで含めた、その子の本当の姿の理解に迫ろうという意味があるからです。
今日は、その「実態」に迫ることができる場面がありました。午後2時ごろから30分ごろまで、年長のすいすいの子どもたちが話し合いをしました。子どもたちから真剣な意見が語られました。その内容を聞いていると、「そんな思いを持っていたんだなあ」「友達のことをよくわかっているなあ」と感心します。そこで大切なことを確認できました。それは子ども理解における5つの視点の中の一つです。
5つの視点というのは、私の長い保育経験の中で気づきながら整理してきたもので、どこかに書いてあるものではありません。ただ、私の「保育者論」では、この説明を学生にしてきました。その一つとは、「子ども関係」なのですが、これは単に大人との関係から対比的に捉えたものではなく、子ども同士の関係をよりリアルに捉えるための視点です。
今日の子どもたちの話し合いからも「子ども関係」が見えてきました。子どもの理解は、それぞれの子どもを切り離して捉えることはできません。園生活というのは家庭生活とは異なり、集団の中で、その子のありようは、周りの子どもたちとの関係によって大きく左右されます。仲間関係の中で、どのように位置づいているのか、周りの子どもたちからどのように受け止められているのか、そうしたことを捉えることが、子ども理解には欠かせない視点の一つなのです。
子どもは、自分の気持ちを無邪気に言葉に表している頃は、ほとんどがその場で終わっていき、人間関係が拗れることもないのですが、自分自身へのメタ認知能力が育ってくると、つまり自分がどう見られているかを自覚できるようになってくると、子ども同士もある種の評価をしあうようになってきます。それは普段の生活の積み重ねからくるものなので、何かの機会がないと、あまり表面化されることもないのですが、最近はそれが表面化されることがよくあります。その機会とは、失敗や衝突です。喧嘩して、怒ったり、泣いたりしながらも、また気持ちを立て直して歩んでいきます。
子どもたちは、小さい時から、自分自身でその「つらさ」を味わいながら生活しているのですが、大人には真似できないほど、逞しいものです。その力強さを子どもは持っていて、失敗や衝突に負けない心の復元力を持っています。その時、心の支えとなっている友達は誰なのか、そうした友達をどうやったら作ることができるか、そんな見方が子ども理解には、どうしても必要なのです。
今日の話し合いでは、友達をみんなが責めたくなった時、相手が傷つくことがあることを、みんな経験していたようで「それは嫌だ」と感じていました。でも、その感情を抑えることができない、我慢できない時、子どもたちはどうしたら良いのかわからなくなるようです。今日の話し合いでは、担任の話から子どもたちは「困った時には誰かに助けてもらえばいいんだ」ということや、「助けてくれるのは友達の場合もある」ということに気づいたようです。なんと素晴らしい気づきでしょう。
こんな話し合いの後、ちょっと晴れ晴れとした顔をして「漢字書きたい」と、私のところに頼みに来ました。この気持ちの切り替えや心の健康さに、私は「なんてすごい子たちだろう」と思い、子どもの素晴らしさに接した瞬間でした。
2021/11/09
なぜか火曜日は雨の日が多くて、旧今川中へ遊びにいく予定でしたが(毎月第二火曜日)、室内遊びになりました。
わいらんすい(幼児)はブログ(パスワードが必要)で紹介されているように、お寿司やさんごっこが流行っています。
私も夕方の運動ゾーンで「客引き」にあって、お店の中に入ると、接客係のTHくんやHSくんから、メニュー紹介が始まります。
接客係「はい、こっちに来てください」「何にしますか?」
私「何があるの?」
接客係「マグロ、イカ、たまご、それ以外」
私「じゃあ、マグロください」
接客係「はい、こっちにきてください」
と、空いているカウンターに案内されました。
繁盛しているので、お店屋さんはすぐにカウンターに座ることができないようです。
どうも混んでいるラーメン屋さんとお寿司屋さんが混ざったような、お店です(笑)。
秀逸なのは、お皿がカウンターの上を動く仕掛けになっています。
この時期になると、毎年、遊びの中に「協同性」が浮かび上がってくる気がします。
そうした発達の姿はお楽しみ会などでもお伝えできれば、と思います。
2021/11/08
いい歯の日(11月8日)の今日、大人の歯へ生え変わる年長さんたちの、ぐらつく前歯を「ほら、みて」と見せにくる子たちと接しながら、子どもが自分自身の体の変化を分かち合う共同体が、ここの生活なんだな、と妙に感じ入った瞬間がありました。人が「主体的に生きる」とは、自分は自分だけど、自分は自分だけじゃない、という感覚をしっかり持つことも、大事なことなのでしょう。
子ども主体の保育について、説明する機会が今日は2回、午前と午後にありました。午前は見学に来た桜美林大学の3年生に、午後は千代田区が主催したリモートによる園長会です。この主体性という言葉は、わかったような、わからないような、実に扱いに困る言葉なのですが、保育の質や大人の価値観と密接に関わる言葉なので、一度はきちんと分析して理解した方がいい言葉だと思います。
まず「子ども主体の保育」というと、一般的には「子どもを中心にした保育」、とか「子どもを主人公にした保育」、などと言い換えられるような意味が多い気がします。
実際の保育場面では「子ども主体の活動にする」とか、「もっと主体的な遊びを取り入れる」などとも使われます。この場合は、「子どもが自発的である」とか、「自主的に自ら取り組んでいる」とか、「子どもの興味や関心に基づく活動になっている」、そういった意味で使われています。
ところで、日本語は外来語を訳した時と、しばらく経って、日常的に使われるようになるまでに、その意味がずいぶん変化してしまいます。この主体性という言葉も、本来の意味からずいぶんずれてしまった言葉のように感じます。
では、本来の意味はどうだったのでしょうか。言葉には、反対の言葉と並べてみることで、その意味がはっきりすることがあります。例えば自立と自律はよく似た言葉ですが、全く意味が異なります。いずれも子どもの成長の姿として大事なことですが、英語で考えるとはっきりします。自立の反対は依存です。自律の反対は他律です。自分の力でしっかり立つということと、人に言われなくても自分で自分の行動を律するということでは、かなり意味が違うことがわかります。
これと同じように、主体性の反対を考えると、本来の意味がはっきりします。主体の反対は客体です。文法で例えると主語と目的語ぐらい違います。人を主体として扱うのか客体として扱うのか。子どもの主体としてみるのか、客体としてみるのか。そう考えてみたとき、これからの保育について「子ども主体の保育を大切にします」と言ったとしたら、それまでは「子どもを客体として保育をしていました」と言っていることになるのかもしれません。
「大人が子どもを客体としてみる」ということが、もし「大人が主体で、子どもを客体としてみていました」という意味になるのなら、ちょっと極端な言い方をすると、それまでの保育は「子どもとは何かを教える対象」であったり、「指示して動かす対象である」という保育になっていたのかもしれません。
ちなみに、ちょっと脇道にそれますが、この「子ども客体論」に基づく偏見はたくさんあって、それを紹介すると、「大人は成熟していて子どもは未熟な存在である」、「大人はあることに長けていて、子どもは何かを身に付けさせなければならない存在である」、「大人は優れていて子どもは劣った存在である」、「大人が一人前なら子どもは半人前である」・・・・このような子ども観は、また至る所で見られます。
そうではなく、「子ども主体の保育」を本気で実現させようとするなら、子どもを客体として扱わない、保育の対象として扱わない、という意味にまで発展していきます。子どもも大人も主体者であり、同じ人間の主体者として、ともに生活を作り上げる主人公である。実際のところ、子どもは自ら環境に働きかけて、色々なことを学び取っています。子どもは「有能な学び手」であり、「小さな科学者」であり、一人の生活者、一人の市民として何事にしても自ら意思決定する存在であると尊重されていくのです。
当園でいう子ども像の「自分らしさ」とは、この主体性のことです。そして「意欲的で」というのは、主体性の性質です。だからこそ「思いやりのある子ども」は、他者の主体性も尊重できるような主体になりましょう、ということです。やりたいことを自分で決めて、やりたいことをやれるようにしますが、それは自分だけではなく、他者のそれとも両立するような形で(共生社会)ということになります。
2021/11/07
過去2回の「親子運動遊びの会」でお世話になったダンサーの青木尚哉さんから、ワークショップのトークセッション(座談会)にお誘いを受けました。11月14日(日)の夕方です。お相手は「芸術と子どもたち」代表の堤康彦さんです。先週、墨田区立業平小の運動会で初めてお目にかかり、子どもの表現に関する考え方が似ているなあと感じました。どんな話になるのか、楽しみです。青木さん自身が作られたフライヤーができました。場所は海老原商店で有料です。この活動へのカンパ、だと思ってくださいませ。
ただ、時間が17:00〜なので、ちょっと参加しにくいかもしれません。ライブ配信もあるそうなので、晩ご飯を作りながら(?)ご覧ください。
2021/11/06
忍岡高校の2年生が2人、保育士体験をしました。小学校の頃から保育士になりたい、という夢を持っている二人。今年の夏に体験する予定だったのですが、やっと実現できました。本人たちは、楽しかったようで「保育士になりたいうという気持ちが強まりました」と語っていました。コロナ禍で、保育体験や保育ボランティア、保育実習などの機会が奪われてしまったことから、学校の進路指導やキャリアガイダンスにも大きな影響が出ています。
午後からは、ある大学の実習懇談会がリモートで開かれました。この大学もコロナ禍で実習を拒まれた学生が多くいて、当園は1名を受け入れてあげましたが、懇談会では、コロナ禍でも受け入れた保育園の先生たちが参加していました。受け入れる時期の判断と、丁寧な感染対策が欠かせませんが、できるだけ機会をとらえて、学生たちの夢を叶えてあげたいものです。