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園長の日記

つながり合いたい家庭同士

2022/01/07

私たちは「どうしてだろう?」と思って、出来事を振り返ることがよくあります。私たち保育者もよくやります。自分達のことを振り返ったり、子どもの姿を振り返ったり。私たち省我会では、法人名の由来となっている「孔子の三省」、つまり論語「吾日に三省す」(自分の言動を1日に3度省みる)が法人の基本姿勢になっています。書店の三省堂と同じ由来です。さらに保育を振り返るときの三省は、「見守る保育の三省」というものがあって、これが私たち職員のクレド(仕事の信条)になっています。

なぜ、こんな話をしているかというと、何にしても「出来事」を振り返るときは、みる人の立場によって、その見え方や意味が異なるという話をしたいからです。そのためには、複数の見方、見え方を重ね合わせていくことを大事にしたい、そんな話です。実は、論語の三省には、解釈が複数あって、1日に3回省みるという解釈と、3つの視点で省みるという解釈に分かれています。

前者の見方に立つと、一つの出来事も、その時の感情で感じたことも、あとで冷静になってみたら受け止め方が変わることがよくあります。カッとなって怒りに任せて言動に移してしまって反省したり後悔したことは、誰でもあるでしょう。孔子の三省のように1日のうちの振り返りではなく、もっと間を開けて、あの時はそう考えていたけれど、年を重ねてくると違った価値観で考えられるようになる、といったこともありますね。

後者の見方に立つと、三つの視点の違いで見え方が変わってくるということですが、例えば、子どもの喧嘩の場面を振り返るとすると、やったり言ったりした「行動」の面から見るのか、どうしてそうしたのか「動機」に注目するのか、あるいは、そうなってしまいがちな「性格」や「特性」に目を向けるのか、さらに、そこに至る子ども社会の「関係」や「経緯」を長い目で捉えるのか、色々な観点によって、焦点の当て方が変わってきます。

さらに、それがAさんの立場、Bさんの立場、Cさんの立場でも違ってくるでしょう。観点も違えば、みる人によっても違うということもあります。子どもの姿にしても父親の見方、母親の見方、あるいは先生の見方、それぞれ異なることもあるでしょう。そう考えると、いろんな見方をいろんな人から聞いて総合してみて初めて「見えてくるもの」というものがあるような気がします。長く保育園の仕事をしてきた立場から申し上げると、さらに新聞記者時代からの「現場主義」「裏取り」の鉄則から考えても、自分だけの見方というのは、大抵、真実から遠いものです。特にファクト(事実)だけではなくて、保育のように「内面」や「心の動き」を捉えるとなると、「誰も本当のところはわからない」という謙虚さがないと、かえって危ないと思います。常に自分の見え方は、一面の真実でしかないかもしれない、という出来事への心構えと接し方(態度)です。

見えずらさ、ということから考えると、保育にも「死角」というものがあります。物理的な視野のことではありません。ちょうど、その時、みていたとかみていなかったとか、ものに隠れていて見えていなかったという種類のことではなくて、子どもの内面や心の動きを捉えるときの「死角」です。これは、実は「環境」との関係によって、現れたり隠れたりするものなので、その環境の中に入らないと見えてこない「死角」です。家庭では見える姿だけど、保育園では見えてこない姿だったり、お父さんにはこうなのに、お母さんにはこうなる、ということもあるでしょう。人や物、空間などの環境との関係によって変わる姿です。

その「死角」の分かり合いは、夫婦や親子なら、その環境を体験し合えるので分かり合えるのですが、家庭と保育園ではお互いに見えないし体験し合えないので、個人面談などでお互いの姿を伝え合っています。ここで課題になる「死角」は、家庭同士の分かり合いです。保護者同士のお互いの家庭環境は、お互いに見えないので、子どもの姿の背景を想像し合うことが難しい、そういう「死角」があるのです。私たちは保護者の皆さんが、子ども同士が仲良くなるのと同じように、親同士が仲良くなってもらうといいなあと思っています。普段から、日常的な会話や対話が弾む関係になっていくと、子ども同士も生きやすく、呼吸しやすくなります。遠回りのように、あるいは関係ないように思えるかもしれませんが、子どもは繊細に感じ合っています。

ご存じのように、コロナ禍で失ったもの、できにくくなったものの一つに保護者会があります。みんなで集まって子どもの姿を見合い、語り合うという懇親会や談話会などができなくなってしまい、親御さん同士のつながりができにくくなってしまっているかもしれません。私たちは保護者のみなんさんが、お互いにつながり合うような機会を大切にしていこうと考えていますので、実際にコロナ禍でできにくいわけですが、大切なことだという、その趣旨はご理解いただければ思います。

論語の三省に限らず、複数の立場から真実に迫るというテーマは、大事なものほどそうなっています。キリストの語ったことは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四人の述べた福音書になって、微妙にキリストの誕生から死までの物語が異なります。ブッダが語ったことも、十大弟子や十六羅漢の物語で立体化された仏典に発展していきます。子どもの姿の背景を考えることは、実は奥深いことだと、私は思っています。

(写真は昼食で食べた七草粥です)

 

わいらんすいのSTEM保育

2022/01/06

ある程度予想されていたとはいえ、コロナ感染者が急激に増え始めました。この倍々に近い増加率で増えると、東京もあっという間に千人、1万人となってしまいそうです。いくら、仮に重症率が低くても、こんな増え方をされてしまったら、医療体制の逼迫はすぐきてしまいます。また、新しい変異株を作ることになってしまいます。ただ予防的に飲み薬が使える程度に医療体制が整い、治療がうまくいくようになればいいのですが。また目が離せなくなってしまいました。

さて、今日は雪が降って子どもたちは大喜び。その様子はブログで見ていただくとして、明日の朝は氷点下になる見込みなので、水が凍る現象を観察できるチャンスです。わいらんすい(3歳以上の幼児クラス)では、早速、いろんな容器に水を入れて明日どうなるだろう?と、用意しています。こんな活動は、大人にとっては結果が見えているので、それほど面白くないかもしれませんが、子どもにとっては興味津々、とってもワクワクする活動になります。

ここで大事なのは、実際にやってみる、ということ。やってみなければわからないことがあることを知ること。きっと予想したり、こうなるだろうという見込みがまず生まれて(そこが大事)、そして結果を確かめてみることができる。この仮説と検証の過程が科学的認識のプロセスになります。ただ、気温が氷点下になったら水は液体から固体になるという事実について、どうしてそうなるのか、という説明ができる大人は、そうそうはいません。

幼児期に大切なことは、予想したことと違っていたり、めずらしく感じたりして、何かしら面白い!と感じたり、不思議だなと感じたり、何某かの「!」や「?」があることです。センス・オブ・ワンダーの感覚です。人は好奇心があれば、何かを探求しようとします。今日のわいらんすいのブログには、もう一つ、ふ〜っと吹くと回るものが登場しますが、これもエンジニアリング(工学)の体験になっています。広い意味では科学的体験です。どちらも、実際にやってみて、あれ「!」という気づきがあって、じゃあ、こうしたら(ダンボール)というひらめきが生まれて、またやってみる。ここにも仮説と検証があります。

何かを感じ、気づき、試し、わかり、できる。こうした思考が見られる遊びの中に、知識や技術の習得もあとでついてくるのですが、それを動かすエンジンは、面白い!楽しい!どうして!という心情体験の方です。好奇心への刺激です。これがやってみたい!という意欲をうみ、科学的な心構え(仮説を持って試してみる検証行動)を育てていることになるのです。ここにSTEM保育が見られると言っていいのです。

戻ってきた素晴らしき子どもたち!

2022/01/05

2022年の保育が始まって2日。帰省していた子たちも戻ってきて、また「あの活気」が戻ってきて嬉しくなりました。子どもたちも再会が嬉しそう。そのぶん、はしゃぎ過ぎの面もありますが、家庭と保育園の両方を行き来しているのは「子どもだけ」という事実の意味を再確認したいと思いました。子どもたちは二つの環境との「往還」に、自分の色々なことをチューニングしています。家ではこう、保育園ではこう、そんな環境への適応を一生懸命工夫しているのが、子どもたちかもしれません。

でも、それがいつも、いつも、うまくいくとは限りません。年末年始と、1週間近い休みとなると、その生活にやっと慣れた頃に、また園生活が再開するというタイミングになっているかもしれません。家庭と保育園という、二つの居場所の役割交代への調整は、今週いっぱいぐらいはかかるでしょう。また、保護者の皆さんも、年末年始はとても忙しかったはずです。お祝い気分が、その疲れを隠してしまいがちですが、実は、皆さんも「とっても疲れている」はずです。普段の人間関係とは異なる触れ合いが多くなる年末年始は、この2年間、できなかった分、今年こそは、と張り切った方こそ、さらにいろんなストレスを感じているものです。

現代の家庭は、親も子どもも、心の故郷という安全基地が、今住んでいる場所ではないことが多いものです。本来、人間の子育ては核家族で行ってはいけません。危険です。一人ひとりを大切にするという「個の尊厳」を支えあうには、もっと太くてどっしりとした土台が必要なのです。昔に比べて「子どものため」に考えたり、やってあげたりすることが遥かに増えました。理想的な理念は大きく、重くなったのですが、その大きな理念を実現させるには、それを乗せる土台は核家族だけでは、支えきれません。人類は大家族が集まった村が、子育てを担い合っていたのです。この子育ての構造変化が、いろんなことを不安定化させています。

二つの居場所を行ったり来たりしている子どもたち。子どもは大人に比べて環境への適応力が高いとはいえ、この世に生を受けてまだ数年しか生きていない子どもたちです。そんなにうまく適応できるわけではありません。たった数年でこんなに成長するなんて、すごい。本当に素晴らしい子どもたちです。何年も生きてきた大人の私なのに、こんなこと絶対、真似できません。しかも大人にはお茶して愚痴をこぼしたり、宴会やお酒ではしゃいだり、カラオケ、スポーツ、趣味など、ストレス解消の手段があります。でも子どもにはありません。ふざけたり、はしゃいだり、羽目を外したりしたい気持ちがあるのは、子どもも同じだと思います。

 

正しいことをやって経済成長になるかどうかは別の話

2022/01/04

ジェンダー平等で何年も世界一を続けているアイスランドの女性の首相が、先ほどNHKの「クローズアップ現代」のインタビューでこんなことを言っていました。以下は私の要約です。

「正しいことをしていくことが大事です。その結果が経済成長になるならそれは結構。経済成長のために何かやるべきではない。私がやったのは、男女の間で給料に差があるのはおかしいと法律にしたこと。職を失った人たちのために、大学で教育を受けるチャンスを広げたことです。その結果、若い人たちから生まれたアイデアや技術革新で、新しいビジネスも生まれました」。

そう、この感覚が大事なんだろうと、素直に思います。ものを大事に長く使えば、消費が減ります。そうすれば経済成長の数字は減ります。市場メカニズムに乗らないものや労働はたくさんあります。子育てもそうです。家事もそう。教育も本来そうでした。しかし、今はなんでも「外注」できるので、つまりなんでもお金を払えば手に入るような錯覚に陥っているだけです。

この感覚に慣れてしまうと、大切な自己表現や話し合いや民主主義の営みも、雑誌や新聞やSNSなどの市場メカニズムに組み込まれた媒体でなければ、その意味内容を伝え合うことにならないと、思い込んでしまう社会がきてしまうかもしれません。なんて恐ろしいことでしょう。井戸端会議や、集会を開いたり、政府に文句を言ったり、政治家に会いに行ったり、行政にやってほしことを署名活動したり、そうした自然発生的に直接意見を述べたり、広げたりすることも、市場を挟まないとできなくなるとしたら、それは民主主義の危機に通じます。

インターネットやSNSを否定するつもりはありません。このホームページも、その恩恵を被っています。でも、なんでも「いくらになるか」で価値判断することに慣れてしまうと、本来はそれで「食べていけるはずのない自己表現」でさえも、「フォロア数」やら「いいね数」やらの、市場に絡め取られていることに気づかなくなるかもしれません。また「売れる」「作品」にするのが無理だと考えて、自己表現すら、自分からやらなくなってしまいます。

私たちは詩人、芸術家、アーティストなど、自分のことを自分で名づけることが自由にできるのですが、それが職業として「食べていけること」と同一視したり、前提条件にしてしまいます。また、そうでないと本物と思わない市場社会になってしまいました。それは一面の真実でしかありません。

何かになりたい、という思いは、「それで食べていけるか」が、まず試金石になっていることの不思議さを、もう一度、問い直してみましょう。売れる作品を編み出さないと芸術家、音楽家、作家とは言えない。もし、そう考えるなら、市場経済が成立していなかった昔、洞窟壁画を描いた人や、法隆寺を建てた人、仏像を彫った無名の人たちは、どうなるのでしょうか。わたしたちよりも、ずっとすごい技術とセンスを持っていたのです。でも、別に高値で売ったり買ったりしていたのではありません。

スポーツ選手のプロとアマの違いに、スポーツの本質的な違いはありません。その人にとって正しいことや好きなことをした結果、それが結果的に市場で価値が出た、ということです。本人がやって楽しいスポーツから、見てもらってなんぼのスポーツが幅をきかせすぎると、子どもの夢の持ち方が歪んでしまいます。稼ぐことができるスポーツが、かっこいい、になっていくでしょう。人気のあるもの、多くの人がいいと思うものにならないと、成功とは言わない、という誤ったキャリア(進路)観を育ててしまいます。

日本はアメリカ、中国に次いで世界第三位のGDP大国です。だから、なんなのでしょう。経済成長をしているからと言って、それが個人や社会の何かの豊かさを表しているとは限らないのは、当たり前だったはずです。この認識をまず、しっかりと大人がもつべきです。そうでなければ、子どもの持ついろんな良さを、今の市場価値で値踏みしてしまう恐れがあるからです。

2年前には戻れない「気づき」

2022/01/03

ケイト・ラワーズ著『ドーナツ経済』(河出文庫)より

 

明日から仕事始めです。年末年始の大移動が終わりました。年に一度の大きな節目を跨いで、私たちは何をしているのでしょうか。1億2千万人のうち何割が移動したのか知りませんが、移動しなかった人も含めて、私たちはどこへ出かけてどこへ戻ってきたのでしょうか。

 

一体何をしてきたのでしょうか。もちろん、大切な人、場所、家族と過ごした人たちが大勢いたことでしょう。私たちのおこなっているこの表面上の移動や出会いは、いつもの仲間の中での往還です。その裏側に「往還の意味」がきっと見出されるはずなのですが、それは、一人ひとりがこれからもずっと問い続けることになる人生のテーマでもあります。何処かから私たちはやってきて、どこからかへ還っていく。その往還のテーマです。

昨日はコロナ禍の話をしましたが、それはコロナ前とコロナ後の間の往還の物語でもあります。私たちは、2020年の春の始点と2022年の春とでは、もはや同じではないことに気づきました。もう元の世界には戻れません。いろんなことに気づいてしまったからです。

(1)私たちが地球規模の生態系に織り込まれていること。私たちの生活や経済や身体が、あくまでも地球規模の自然の一部であること。ウイルスと私たちは何万年も共生していたこと。それはワクチン接種の副反応でも、よくわかりました。

(2)被害を被った人たちとそうでない人たちの差も明らかになりました。家計への影響です。また大儲けした人と苦境に追い込まれた人の差も明白になりました。市場メカニズムの歪さ。資本主義経済の脆弱さと残酷さ。生活基盤としての公共財の不足。

(3)経済的先進国とそうでない国や地域の人たちとの格差の問題もコロナ以前からある問題。国家としてのグローバル経済のリ・デザインの必要性

(4)「人新世」として引き起こされたコロナ禍。地球規模の危機の序章あるいはリハーサルとしてのコロナ禍。最後のリハーサルかもしれないという見方もあります。

私たちは、こんなことを、くっきりと見てしまった、知ってしまった以上、もう同じ地点には戻れない、そういう意味の往還もあります。戻ることのできない旅立ちだったのかもしれません。

それは私たちの先祖も繰り返してきました。10万年前にアフリカ中央部から旅立ち、地球上に拡散しました。これをグレートジャーニーと言いますが、その間に地球はとても寒い時期があって、私たちはそれを乗り越えて、奇跡的に太陽と地球の熱代謝のバランスがとれている、非常に温かな地質年代「完新世」に恵まれました。この時代は1万2000年ほど続いています。あと5万年ほど続く予定でした。

こんな奇跡的に快適な地質年代は、40万年ぐらい後にならないと再現しません。それくらい珍しい奇跡的なラッキーな状態なのです。ところが「予定でした」というのは、もうあと10数年で「終わってしまいそう」だからです。地球上を薄く覆う大気の中の二酸化炭素などの温暖化ガスが増え過ぎてしまいました。人の経済活動が地球環境を破壊している新しい地質年代「人新世」に入っているかもしれないというのです。

その中で起きたコロナ禍です。これが何かの序章だとしたら、これから起きるかもしれない問題の影響を小さくするための、減災のような心構えを逞しくしていく必要がありそうです。これも戻れない往還です。あと数十年で引き返せない地点に到達してしまうかもしれない往路です。復路はないのかもしれません。私たちは、どこへ行こうとしているのでしょう。そしてどこへ行ったから、こうなってしまっているのでしょう。

オミクロン株じわり・・でも全国各地で新年行事が開催

2022/01/02

箱根駅伝で青学が往路で優勝した2日、今年は全国各地で成人式や伝統行事が復活しています。昨年とはちょっと違った年明けの雰囲気です。私は人混みは避けたいので初詣には出かけませんでしたが、今日は茨城、高知、香川でもオミクロン株が発見されて全国27都府県に広がりました。確実に地方へも新型株が伝播していることがわかります。このように水際対策をすり抜けて市中感染も始まってきたので、感染者数の上昇カーブの傾きがどうなるのか、気になります。

ただ、入院や重症化の割合がこれからどうなるのか、これまでの予防接種や始まったブースター接種の予防効果、あるいは抗体カクテルや飲み薬の治療効果など、これまでとは異なる「予防・検査や診断・早期の治療」の医療4条件の中で、これからの感染拡大局面を迎えていることになります。ただ欧米などに比べてアジアの感染数が目立たないのが「謎」です。日本よりも甘いシンガポールやインドで オミクロン株が増えないのはなぜなのでしょう? 日本も同様にあまり増えない可能性もあるかもしれません。

それはともかく、日本は医療逼迫が起きない限り、このまま感染対策を継続しながら「経済を回して」いくことになりそうです。新型コロナはWHOが昨年「空気感染」であることを認め、10月には厚生労働省も「接触感染」「飛沫感染」に加えて「空気感染」も加えました。二酸化炭素濃度との相関が強いことになります。保育園では換気と清浄機の併用で対策を講じてきました。これは1月からも変わりません。寒さが一段と厳しくなった中での新年のスタート、ここまま静かにコロナが去ってくれないかと、思うばかりですが、果たしてどうなるでしょうか。

 

 

ドーナツ経済とともに謹賀新年

2022/01/01

2022年が明けました。昨年中は大変お世話になりました。本年もどうぞよろしくお願いします。お年賀ありがとうございます。みなさんにとって良い歳になりますよう、祈念いたします。

新年のカウントダウンを始めたテレビを見ていたら、今年は大晦日から初詣に大勢の人が並んでいて、昨年とは違う光景に、明るさと危うさを感じます。じわじわと上がっている、あの数字を横目で見ながら、ある種の覚悟と祈りの中で新年を迎えました。

元旦の新聞に齋藤幸平さんが対談に出ていました。多くの人たちが時代が「人新世」に入っているのかもしれないと気づき、若者たちの精神的な目標になっていくことを期待しました。そして齋藤さんがいうように、大人が反省して新しい経済の仕組みへの舵を切るべきなのです。昨年の園だより1月号も「人新世」の話で始まりましたが、今年は、その実践がいろんなところで報告され、語り合える年になるでしょう。その実践に、千代田せいが保育園も引き続き踏み込んでいこうと思います。

すでにいろんな組織や団体で、採用されているケイト・ラワースさんの「ドーナツ経済」論は、すでに文庫化されて広く読まれるようになりました。地球環境を保全することが、ドーナツの外側の限界点を示し、地球上から貧困を根絶することがドーナツの内側の限界点を示します。このふたつの輪で挟まれたドーナツ型の帯の部分に、私たちの「目標」を据えましょう、そういう経済のあり方を提案しています。

保育が生活である限り、私たちも、このドーナツの輪の外側と内側に落ちないように、保育料を設定したり、自然環境を破壊せず、疎外労働にならない働き方を支援したり、動物福祉を考えた食材を購入したり、国土や海の生物の多様性を守るような活動を取り入れたいと思います。すでにいろんなところでその実践が始まっています。佐伯胖さんが以前、保育のドーナツ理論を提唱しましたが、これからは経済にもドーナツの発想が求められる時代になってきました。

多様でありながら一つのことへ

2021/12/31

 

いろんなことを学び続けていくと、多様になっていく部分と、一緒になっていく部分とがあって、大事なことは一つになっていくように感じます。確かに一人ずつ違うということを保育の基盤に据えているのですが、それをお互いに認め合って、お互いに尊重し合うことを大事にしたいのですが、それがバラバラになってしまうのかというと、そうではなくて、支え合ったり、協力しあったり、同じ目的を見出そうとしたりと、何かのため連帯や調和を作り出すことに価値を見出します。

これは変化するものとしないものでもあって、あるいは不易と流行でもそうですし、なくなってしまうものとずっとあるものの違いかもしれません。私たちは必ずいつか死ぬのですが、生命のバトンは引き継がれてきたからこそ私がいるのですし、私はいつかいなくなっても生命の連鎖は無くなりません(で、あってほしいものですが)。テクノロジーの発達でできることが増えたように見えても、真善美など人間の感覚で大事にしたいものは変わらないような気もします。

そういう意味では、人の進化というものも、進化してよくなっていくものと、環境に適応してできなくなったこともあるので、一概に進化がいいのではなくて、どういう意味でいいのかを読み取っていくことが大事になります。その人にとって意味があることが、さらに他の人にとっても意味があるように、関係の中での意味を作り出していくことができるように、保育を創り出していきたいものです。その当事者はみなさんでもあります。子どもたちの育ちをみなさんと支えあうために、いろんな関係を作っていきましょう。たくさん、たくさん作っていきましょう。そしてその関係は、いろんな形をしている多様なものでしょうが、ただ、どれも信頼の関係になっていくはずです。七色に輝く多様なものかもしれませんが、きっと美しい関係になっていくでしょう。そんな新しい一年になるといいなと思います。

子どもにとっての故郷

2021/12/30

人は「くに」に帰省すると、普段いる場所が、「故郷ではないこと」に、いちいち気づかされることになります。仕事柄、心の安全基地だとか、心の拠り所だとかを考えることが多いので、つい自分の幼少期に過ごした場所と、千代田せいが保育園の場所との関係を比べてしまいます。帰るとか京に上るという言葉遣いからして、やはり「ふるさと」とは、遠くにありて思うものであり、幼少期に過ごした場所に実際に戻ってきてしまうと、東京という場所は、あくまでも「出かけていく先」のように感じてしまいます。

ところが子どもにとっては、生まれ育った東京が紛れもなく故郷であり、何かがあったら帰ってくる場所になります。子育ての最中にはあまり考えなくても済むことだったのですが、私のように、自身の来し方行く末の始点と終点が見えてくる歳になってくると、本来、魂が還るべき場所は、どこだったのか、迷ってしまう自分がいます。今は亡き父や母も、生まれ育った場所と、私たち姉兄弟を育てた場所が違います。日本人は、近代になると「お国=江戸時代までの藩」から出て、働く家庭が急増します。私たちの「ふるさと」のあり方も、戦前から戦後、そして現代にいたる約150年の間に、様変わりしてしまいました。

こんなことを考えるのも、年の瀬のせいかも知れません。保育の質が、人とを含む環境との「関係の発達」にあることを考えているうちに、親の働き方に大きな影響を与え続けている「資本主義の歴史」を考えなければならなくなり、それが「人類の子育ての歴史」とぶつかって、大きな波頭を立て始めたのが明治以降になるわけですが、その津波の影響は現代にもまだ続いていて、それはまた都市と故郷との関係とも重なっていることに気づきます。

すでに多くの子どもたちにとって、生まれ故郷が都市になっている時代において、「お国」の風景は田園ではなくて、ビル群や駅前の風景、あるいは遊んでいた公園が原風景になっていくのでしょう。故郷としての保育園。そのありようを改めて考え直してみたいと思います。

 

 

清らかにしておきたい理由は・・

2021/12/29

13世紀の「最寒三友図」(ウィキペディアより)

正月飾りには必ず松、竹、梅が描かれています。日本で「松竹梅」がめでたいことを表すようになったのは、色々な俗説があるようですが、松は平安時代から、竹は室町時代から、そして梅は江戸時代から祝い事で使われるようになったそうです。松も竹も寒い冬でも緑を保ち、花を咲かす梅に生命力や寿ぎ(ことほぎ)を感じたのでしょう。私の実家の襖絵も、宗の時代に活躍した絵師に始まると言われる「歳寒三友」が、芳水の作としての松竹梅が描かれています。色々なところに見られる松竹梅ですが、子どもたちに「本物」の梅を愛でる機会を逃さないようにしてあげようと思います。

おせち料理にしても、お祝い事で使う食材に吉祥を読み取るようになっていったことも、同じものを感じます。また新しい歳を迎えるにあたり、豊穣への感謝と共に、自然の畏敬の気持ちを新たにしていくところに、年末年始の清まっていく気持ちよさを感じます。改めて気持ちを清らかにしておきたいと願うのは、日本の文化として良質なものを感じるのですが、皆さんはいかがでしょうか。

植物の育ちや実りを、子どもの成長や教育に例えることが、日本では昔からあったそうです。自ら育つ力を持つものとしての、草花や樹木の生長を、子どもの発達の特徴になぞらえたものが多く見られます。秘めた命が形を変えて大きくなっていく姿は、種から芽が出て茎や幹が伸び、葉から蕾が出て花が咲く。それが実をつけて種に戻っていく。そうした変化は、生命と生態系の循環を表していることに、子育てや人生の循環を重ね合わせてきたのでしょう。

そこに何か、大事なもの、大いなるものがあるという感覚。改めてそれを迎え入れようとする姿勢。子どもたちに、その何かを感じてもらうことは難しいことですが、それでも、そのきっかけを、わいらんすい(3〜5歳)の子どもたちは、大掃除という活動で感じたようです。「自分達が1年間お世話になった部屋をきれいにしましょう。そうして神様を気持ちよくお迎えしましょう」。先生が、そう呼びかけて行った掃除を真剣にやっていた子どもたちの姿を見て、私は大掃除を行う大切な意味を思い出しました。

新しいものを迎え入れるために、きれいにするんだということ。新しいものが何かは、それぞれでしょうが、このウェルカムのために清らかにしておきたいということを、心や精神の「容れ物」にも当てはめているところを、大事にしていきたいと思ったのでした。

 

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