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保育アーカイブ

なぜかカッコつけて<アボカッ・ベイべーッ!>

2024/12/28

4回も続けて同じ絵本を読んだのは初めてでした。「もう一回!」という強い要求から、そうなったのですが、どんなところがそんなに魅力的だったのだろうと読みながら、感じ取ろうとして、それを今でも考えています。あの時空はたしかにちょっと特別でした。

お昼ご飯は子どもと一緒に食べることがあるのですが、その時、ある先生の赤ちゃんが生まれた話になって、そこから、たしか「じゃあ、元気な赤ちゃんの話がいいね」となったのでした。ジョン・バーニンガムの『アボカド・ベイビー』。「あるものを食べたら、すっごく元気なる赤ちゃんの話なんだ」とかなんとか言って、ご馳走さまをして、何人かと一緒に3階の「ゴロゴロするところ」へ向かったのでした。

ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、物語は、家族みんなが心配するほど、食欲もなく病弱な赤ちゃんが、なぜかアボカドだけは好きで、それを食べはじめたらとても元気になって、力持ちになって・・・(わざと抽象的に書きますが)悪い奴も懲らしめてしまうという、痛快なお話です。絵本には奇想天外なところがあって、そこが物語の面白さでもあるのでしょうけれど、私が「面白いだろうから読んであげたいな」という気持ちがなければ、この絵本は選ばれなかったわけですが、そもそも私が、たくさんあるバーニンガムの絵本から、これを思いついたのは、最近、ある大学生と絵本の話をしていて「気になる絵本の一つ」に挙げていたことを思い出したからでもあります。

ですから、私もタイトルの読み方からして、『アボカド・ベイビー』とは読まず「これはね、英語で書いてあるでしょ、英語の発音はね、<アボカッ・ベイべーッ>というんだよ」と、右手を銃の形にしてイェーイ!とカッコつけて、<アボカッ・ベイべーッ>とやってあげました。もちろん「もう一回やって」を何度か繰り返して、子どもたちも真似してましたけど。そういう空気感の中での、『アボカド・ベイビー』です。

ということもあって、この機会が生まれたわけですが、ちょっと前までこれを読んであげようという詳細なプランがあったわけでもなく、食後に絵本を楽しむという大枠の計画はあるのですが、そこで何をどう読んで過ごすかは、それまでの子どもたち、担任たち、私、その場所、その時間、その他の絵本、ジョン・バーニンガムの絵本への思い、担任の赤ちゃんの話題、私が大学生と話題にした過去の記憶の甦りなどと、それらは数え上げれば、それぞれの主体に無数にあって、それがあの時の空間に結晶化したとでもいうようなことではあります。どんな出来事だって、縁のないものはないので、そのつながりの中に、人は大切だと思えるラインを引き直しているのかもしれません。

でも、その中でも「こうこうことが起きるからいいんだよなあ」というのがあります。その空間で、子どもにとっては初めての予期せぬ物語に引き込まれ、「もう一回」のカーテンコールが4回続いたのです。これは滅多にない。それもそれで面白さの度合いが違う何かがあったのでしょう。話は奇想天外で痛快で、こんな感じ自分でも味わいたいという、何か胸のすく解放感が感じられ、絵本の中だから許される経験が疑似体験できるから、もう一回!と反復しながら、子どもたちの時間が生きられたのではないかと思います。そういう快感を求めたいほどの状況を生きている子どもたちだった、とも言えるかもしれません(じゃあ、どういう状況を生きているのか?と気になりますが)。

 

今週は3回、絵本を読んであげる機会がったのですが、上記のことは2回目のことです。1回ずつ、出来事として違いました。同じ絵本の読み聞かせという時間(園長の絵本タイム)であっても、その機会そのものとしても、おそらく個々の子どもたちにとっても毎回違います。まあ、当たり前ですが。それでも今週は3回あった絵本タイムのそれぞれが、違った味わいに彩られていくことが、とっても楽しいのです。

睡眠は「安心と満足」から

2024/12/21

今年最後の睡眠講座「赤ちゃんねんね」には、ご夫婦でリモート参加されました。毎回聞いていると何かしら気づきがあるのですが、今回はよく知っているはずの「安心と満足」の「安心」について、なるほど、そうか!ということがありました。赤ちゃんにとって、寝ることはもともと不安なことかもしれない、ということです。

というのは、赤ちゃんは眠りが浅くなった時、うっすらと目を開けて周りに異常がないか、みていることがあると言われています。そのとき、記憶力がついてくる4〜5ヶ月ぐらいから、寝る前の状態と違っていると不安になって泣くことがあります。それが多くの場合夜泣きの原因になります。

寝ることが自体に不安要素があるというのは、睡眠時は無防備になるので、警戒させているのでしょう。そこで本人が寝ることを知らないで寝かせてしまうのではなく、「ねんねしようね」「おやすみなさい、だね」などの一言が大事になります。赤ちゃんだから言葉は通じないだろうなどと思わないでください。赤ちゃんは、人の声をちゃんと聞いています。

オニツカ家に赤ちゃん誕生〜年長児が編み出していく「ごっこ空間」〜

2024/12/20

年長さんの女子3人が家族ごっこをしています。赤ちゃんとうさぎのペットの5人暮らしです。

母親「じゃぁ、(子どもの)Rっちが誘って、私たちにあげるんだよ。私たちにちょうだい。3個ずつよ。6個あるから」。

転がっているボールは何か意味があるようです。

父親「あそこ、青いマットの下(にあるよ)」

母親と父親が3個ずつボールを受け取ると、母親が

「ちょっと買ってくるから。ちょっとお父さん、子どもとやっといて。私、行くから!」

といって、飛び出して行きます。一体どこ行くんでしょう? すると、子どもが「赤ちゃん泣いたよ」と教えると、母親が「あぁ泣いちゃった」と、部屋に戻ってきます。

私がそこから「トントンごめんください」と中に入れてもらうと、母親が「赤ちゃんです」と抱えて見せてくれます。名前を聞くと、まだなかったみたいで、ちょっと考えて「ななちゃん」といいます。

すると、子ども役のRちゃんが「ななみは?」とお母さんに提案。母親は「じゃあ、苗字は、おにつかななみ、ね」。(なんでオニツカなんだ?)

3人は私をリビングに案内してくれて、お父さんが「こっちにはすごいソファーがある」と説明してくれました。そしてお母さんが私に「写真撮ってもらいましょう」と言って、3人でポーズ。

「赤ちゃんちょっと泣いちゃったね」と、段ボールと布てきたベッドに寝かせます。お客さんである私に「ここは気にしないでください」と、ベッドが壊れ、かけてでもいたのが気になったのか「ここは違いますから。うさちゃんのベッド」と、お客さんに気を遣ってくれます。

すると、子供がペットのうさぎを連れてきて、ベッドに寝かせます。

「うさちゃん、おやすみ。ここでね。」お父さんが「2段ベッド」。

子どもが「うさちゃんのミルク」とミルクを飲ませます。私がお礼を言って帰ろうとすると、「じゃあ玄関開けなきゃ」とお父さんがドアを開けてくれます。

お母さんも走ってきて「ここはみんなの庭なんですけれど、ここは赤ちゃんのお庭なんです」と離れを見せてくれました。

・・・

私がお邪魔したのは、ほんの5分位ですが、こんな家族ごっこが1時間以上続いていたと思います。犬の散歩に出かけたり、野球をやったり、買い物に行ったり、ごっこ遊びといっても、オニツカ家は大忙しでした。

このように、遊びは単なる模倣に止まらず、そこに持ち込まれる道具としての物と、表現的な要素が流動的に影響しあい、新しい関係性や意味が生成される創造的な場であると言えそうです。

運動ゾーンで展開されるごっこ遊びの空間に入り込んでみると、既存の遊具が新しい道具として使われていることに気づきます。既存の何々ゾーンと言うラベリングを壊していく力を子どもたちの遊びは持っているようです。

絵を見ないで話してあげるお話の世界<ケ言葉による伝え合い>

2024/12/19

絵の少ない物語を読んであげていると、子どもがじっと想像していることがよくわかります。お昼ご飯を食べた後で、エルマーの冒険の話になって、「どこまでいったけ?」「ねずみがでてくるところまで」というので、3階のクッションの上で読み始めました。食後はゆっくりしたいので、子どもたちは「ごろごろタイム」と呼んで、自分たちで絵本をもってきて見たりしています。

想像するというのは、目の前にないものを思い浮かべるということだとすると、じっと目をつぶって、頭の中に絵を描くことに似ています。それがちょっと難しい時は、私は「ここだよ」と地図などを広げてあげます。

「今ここだよね」などと地図を指差しながら、次々と出会う動物たちから食べられずに、うまく逃げていくエルマーの足取りをなぞっています。また所々に入っている最低限の挿絵が、状況を「思う浮かべる」手助けにもなっています。

話の途中で「どうして?」と聞かれることがあって、その理由がその次に書いてあったりするのですが、そこを読んであげると面白そうに納得しています。今日のメンバーは「りゅうがあばれたら、ゴリラにほうこくすること」という箇所で、大笑いになりました。子どもによって面白いと思う箇所が違うので、それも読み聞かせをするたびに、面白いと感じるところです。

あまり絵に頼らずに、言葉を聞くだけで情景を思い浮かべながら、お話を楽しむというのは、今の時代にあまりない体験のような気がします。私の読んであげる言葉に、じっと耳を澄ませています。

このような体験をたくさんすることは、考える力に影響する気がしますが、どうなのでしょうか? 映像にあふれている時代だからこそ、もっと必要なことかもしれません。

<ケ言葉による伝え合い>

保育士や友達と心を通わせる中で、絵本や物語などに親しみながら、豊かな言葉や表現を身に付け、経験したことや考えたことなどを言葉で伝えたり、相手の話を注意して聞いたりし、言葉による伝え合いを楽しむようになる。

子どもはなぜ数を数えがるのだろうか?<ク 数量や図形、標識や文字などへの関心・感覚>

2024/12/18

今日は不思議なことに、数をかぞえる姿が私に飛び込んでくるような日でした。毎日朝ラウンドしているのですが、7月で5歳になった年中の男の子が、RaQで作った輪が繋がったものをみせてくれました。仲の良い同じ位の友達と2人で作ったものです。「わあ、長いのができたね」というと、何かこんなに沢山作ったんだということを自慢したいようなことを言って、私の前でかぞえはじめました。

こういうことは、よくあるのです。1、2、3、4・・(いち、にい、さん、しい、ごお、ろく、ひち、はち・・)とずっと数えて、途中で指を差しているのがズレたり、跳んだり、だぶったりしながら、また正確さはイマイチなんですが、最後は63まで数えました。すこし数え慣れている子どもなら、にじゅういち、にじゅうに、とはいわずに「にーいち、「にーに」とやるのですが、律儀に「よんじゅうご、よんじゅうろく・・・」とやっていきます。

私は思わず「すごいね、63個も作ったんだ、よくつくったなあ」みたいなことを言っていました。本当は67個あったんですが。私が本当にすごいな、と感心したのは、「よくもこんなに同じものを作る根気があるなあ」ということと、「それきた〜、わざわざ数えるんだよね、それやりたいんだよね、そうだよね」ということでした。ちょっとよく見えるように、天井から下げてみました。

実は、1ヶ月ほどまえに、手作りのお手玉とつくろうということになって、数珠玉を手に入れたのですが、それを紙コップにいれて事務所のテーブルに置いていたら、年長の女子二人が、その中に入った数珠玉を数えたみたいで、数字が書かれた紙切れが置いてあったのです。453。

子どもたちには、何かと数えたがる時期があるようです。その意味合いについては、シェルマとかカミンスキーとか、シュテルンなどが唱えていることの概略を読んだことがあるのですが、私が感じるのは、その数えるという行為にみられる「あくなき姿」のようなものです。大体大人になったらめんどくさいと思ってしまうようなことだと思うのですが、子どもにとっては、何か新鮮なものらしいのです。

今日はもう一つこんなことありました。年長の男子一人と2時間ほど過ごしたのです。やったことは、あやとり、一円玉の浮かせ競争、逆さまにしてもこぼれない水、水に移る絵、コマ回し、かるた、将棋です。

年長なのでかなり高度なことができるのですが、一年玉が浮いている数が多いときが勝ちにしたとき、沈んだ一円玉の数に対して、1対1、2対1、3対1、4対1、4対2、5対2・・というふうにスポーツ競技でやるような点数の進行を、やりながらなにも見ずにどんどんやっていって、最後は31対19で勝ち、ということができるようになっていたのです。

途中で沈んだりするので、25対11が、24対12になったりするのですが、それも数えなおすこともなく、そうだという確信があるようです。全部で50枚なので最終的には数が合わずに、私が数えなおしたのですが。それは浮いている一円玉を順序よく数えることが難しいということで、大人でもそうでしょう。

物のはずみで始まったカウンティングですが、よく考えると、この子たちは今年、野球ごっこで試合をたくさんやってきていたのでした。またトランプやオセロゲームなどのゲームは何十種類と遊んでおり、数は知らず知らずのうちに、多い少ないとか勝ち負けとか、何かをはっきりさせるものとして、機能しているのでしょう。そのようにして、何かと数えたがるのは、そうすることが自分の中に世界を把握する一つの方法を手に入れているからでしょう。

小さいうちから指折り数えていた時期に始まり、たぶん数を数えていくと必ず最後に行きつき、さらにそれがどんどん増えていき、それでも自分でやって結論がでる出る手応え感があって、しかも他の人に「こうだ」と通用する感じが、確かな認識を得ていくことの予感になっているのでしょうか。

そういえば、今月初め3年生になった卒園児がそろばんで賞を取ったと、わざわざ私に見せに来てくれました。数を数えるスキルはこうして大人のそれを、越えてゆくのですね。

<ク 数量や図形、標識や文字などへの関心・感覚>

100センチに近い方が勝ち!<ク 数量や図形、標識や文字などへの関心・感覚>

2024/12/11

午前中の課題保育として、木製の積み木を6分以内に積み上げ、100センチに近い方が勝ち!というゲームをやりました。主任が動画で配信しています。運動ゾーンのマットをどけて、床を平らにしています。入り口のところに、これが100センチという「正解」が置いてあります。

二つのチームに別れています。その高さにするために、片方のチーム(A)はだんだん近くなってくると、野球のバットを物差し代わりに使って、「これだけ(1本分)と残りこれだけ」のようにやっています。もう一つの方(B)は、OYさんが立った姿勢でままの自分の体の部位に手をつけて、そのまま移動して「ここ」とやっています。

どちらのチームも、ありがちな方法を思いついてやっており、同じ高さにするという方法を考えることよりも、積み木を高く積み上げることに興味がいっていました。Bチームは高くなりすぎたことに気づくと、慌てて低くしようとして、せっかく積んだ積み木が崩れてしまいました。でも「まだ時間あるよ」と主任が声をかけると、急いで積み上げ直していました。

最終的にはBチームが100センチぴったりで、勝ち。この経験から何に気づいていくのか、楽しみです。ちょうど100センチにするという目的のために、どんな知識やスキルを活用して、どう考えたり、試したり工夫したりしだすのか、次の機会が待ち遠しいのですが、主任がメジャーを使って測定していたので、それを使いたいとなったら、どうするつもりでしょうか?・・・その代わりのものを用意するとか、そういうことに気づくものかどうか? 楽しみです。

<10の姿 ク 数量や図形、標識や文字などへの関心・感覚>

遊びや生活の中で、数量や図形、標識や文字などに親しむ体験を重ねたり、標識や文字の役割に気付いたりし、自らの必要感に基づきこれらを活用し、興味や関心、感覚をもつようになる>

クリスマスらしくローストチキン!(味の探究)

2024/12/11

毎月野菜の味を探究している「味覚の冒険」ですが、今月は、12月らしく趣向をちょっと変えてローストチキンをやってもらいました。なんとも香ばしいにおいがダイニングに広がり、まるでぐりとぐらの絵本の世界のように、その香りに誘われて集まってきます。

1羽丸ごと焼いていくので、始まる1時間ぐらい前から準備が始まりました。いつものように午前中は2歳児クラス。夕方は幼児クラスを対象に2回やりました。

野菜とちがって「とり」となると、調理の途中を観察することがどうなるのか、ちょっと気になるところでしたが、上手くいきました。美味しい、おかわり!という声ばかりでした。

この活動をここで紹介するときに、毎回思うのですが、文字と写真では味のおいしさをお伝えできないということ。ただ、じっと見つめている表情や、それを美味しいと食べている子どもたちの様子、見学に来られている民生児童委員の方々の率直な感想を介して、想像していただきましょう。

午後の振り返りでは、鳥が出てきた時は「いつもと違う目つきだった」と、子どもにも強い印象があったのようです。

子どもたちの目の前で切り分けていったのですが、手羽先や胸肉、ささみ、ものなどの部位も説明していたので、そういう意味での「リアルさ」も、子どもなりにあったはずです。そのさじ加減は大事なところだったので、「あまり突っ込みすぎないように」配慮していました。

大人でも、生きている時の様子を思い浮かべてしまうと、食欲に影響します。その心配です。そこはさらりと流してもらいました。またシェフの江口さんによると「何度もやってきた経験から、そこは絶対に外さない自信がありました」と話していました。

つまり「そら先生」と子どもたちとの間にできている信頼関係が、その心配を消し去っていったようです。この信頼関係というのは、8月9月10月11月と過去4回の積み重ねから、子どもに「いつものように美味しいだろう」という予感を抱いているということです。確かにとびきり美味しかったから、もっと食べたいという声になっていたのでしょう。

今回は、子どもの味の探究という意味では、普段とは違う視点からの考察になりました。考えがいのあるテーマです。

 

 

公園の落ち葉がベランダにきてアリが誘う床の下の世界

2024/11/28

子どもを未知の世界に誘いたいと思っていたら、いつの間にか私たち大人も未知の世界に引き込まれていた!ということがあります。今週初めの1歳児クラスの保育の記録に、それが書かれていました。

<柳北公園の落ち葉が、テラスにやってきて、その葉っぱ遊びがアリの観察のきっかけになって、アリとの出会いが、テラスの床下の世界につながって・・・と、毎日の遊びがどんどん色々な方向につながっていく様子が面白いです。(テラスの床下を覗いたことなど、この保育園に勤めてから初めてでした…!)子どもたちは、大人が気付かない、いろんな世界を見せてくれます^^>

この「まとめ」の前の、1連の写真報告を、ぜひご覧いただきたい。

・・・・
いかがでしょうか?

このちょっとしたことのように思える展開の中に、担任のきめ細かな観察や優しさが垣間見えます。公園の落ち葉への関心を大切にしてあげたいという思い、公園で落ち葉を集めている子に、袋を用意してあげるかどうか。それをベランダに撒くことを許してあげるかどうか。その中に見つけたアリを追いかけ始める姿に、心の鼓動の高鳴りを聴くことができるかどうか。床の隙間を覗くために、スマホのライトを用意してあげるかどうか。

こうした、その都度のつながりは、まるで小さな木の実に細い糸を通してあげるような、小さな保育の営みなのです。それを丁寧にその糸に通し続けてあげるかどうか。担任が「ぐんぐんさんように懐中電灯を用意したいな」と呟いていたのですが、そういうことが嬉しい話です。子どもの後ろをちゃんとついていくような保育。後ろいいても子どもが注意を向けている世界へのピントは外さない。こっちだよ、と子どもが教えてくれることも多いですけどね。

子どもの姿が表舞台なら裏舞台には担任の思いも

2024/11/25

保護者の方々が毎日みてくださっている「保育ドキュメンテーション」ですが、それを表舞台だとすると、その裏舞台に「今日の気づき・振り返り」という記述欄があって、その二つをみると、<保育劇>の両舞台が見えてきます。

たとえば、ちっち組の表舞台には「今日は天気が良く散歩日和でした。みんなの好きな和泉公園で落ち葉にたくさん触れて遊んだちっちさんです。いろんな色や形の落ち葉がありましたが、大きな葉っぱはみんな一度は手に取っていて魅力的なんだなぁと感じた担任です。」と書いてありましたよね。

その裏舞台には「気分等からバギーに乗りたくない、一人乗りがいい、抱っこがいいと泣いて訴える姿があるが、バギーの中で楽しいことを見つけると笑いが起こったり喃語を発したりと子どもたちの中で共通の遊びが始まる様子がある。子どもたちにとって楽しめる遊びや歌など取り入れながら、世界観を見守っていきたい。

和泉公園では地面が落ち葉でいっぱいになっており自然物に興味が惹かれる姿があった。ちぎる、握りしめる、降らせる、顔を隠すなど様々な使い方を見つけて楽しむ姿があった。引き続き自然に親しみを持って過ごせるようにしていきたい。」と書いてあるのです。

表舞台に登場する「大きな葉っぱ」が、いかに子どもにとって魅力的なものなのか、感心し、その様子をお伝えしているのですが、子どもによって葉っぱがさまざまな使い方を呼び起こす素材として、親しめるようにしてあげたいと願っている先生の心情が伝わってきます。とくに表舞台には描きにくいバギーの中での「共通の遊びが始まる様子」について、その世界観を見守っていきたい、という先生のまなざしからは、子どもたちの持つ何か良い兆しというか、何かの芽生えを感じ取っているように思えます。

もうひとつ。2歳児クラスでは「公園では、枝や、枯葉を集めて、バーベキューをごっこを楽しんだり、枝を組み合わせてなにを作ってるのかなー?と覗いてみると、ツリー作ってるのー!と子どもたちからの言葉が!」とありました。それについて、振り返りの方には「紅葉した葉っぱや、木の実、枝を使ってお友達と一緒に協同して遊ぶ姿が見られた。あれもってくるねー、私はこれといったような、役割的な所もあった。保育者にも枝もってきてーとリクエストしたりと、ごっこ遊びのリアリティが以前より高くなった遊びになってきている。一緒の物を作ろうといった、目的が一緒で遊ぶ姿があったことがよかった。」と分析しています。

先週から楽しみしていた4歳児のクッキー作りについては、「クッキングには全員が楽しんで取り組めており、五感を使って色々は発見や気づきがあった様子。エプロンを着る・脱ぐ・畳む・片づけるという所も、時間をゆっくりと確保することで自分でしっかりと行っており、成長を感じた。 Rちゃんは最近、Yちゃんとの仲が深まっており、年下の子に対しての気遣いや思いやりがとても素敵。それぞれの良い所を伸ばしていける関わりや活動を引き続き組んでいきたい」と振り返っています。

最後に年長さんが見つけたザリガニについて。「御徒町公園の池でザリガニを見つけ、最初は「飼いたい!」と興奮していましたが、特定外来生物の法律の話をできるだけわかりやすく伝え、持ち帰れないことを何とか理解してもらった。毒のある生物以外にも、このような特定外来生物もこの先増えてくることが考えられるので、併せて子ども達には伝えていきたい。」

どうでしょうか。毎回お伝えすることはできませんが、先生たちがこのように様々な願いをもち、何が子どもたちにとって望ましいかを考えながら、台本のない〈保育劇〉が展開しています。

 

勤労感謝の日に考える感謝の意味

2024/11/24

自分の意思で物事をちゃんと進めていくことを自立した姿と呼んでいいのなら、そうしていきたいという思いを伝えたい相手は、それまでの自分の経緯を理解してくれている人へ、かもしれません? しかも、その経緯をずっと支えてくれてきたと思える人だからこそ、そのことに応えたいと思うようになる気がします。

次のエピソードは、ある娘さんが結婚する時に父親に書いた手紙の内容です。こんな趣旨だったそうです。

<・・お父さん、これまで私を育ててくれてありがとう、というつもりはありません。私をこれまで見守ってくれてありがとう。・・私が結婚相手をつたえたとき、お前が決めた相手なんだから、とだけ言って信じてくれました。それでかえって本当にこの人でいいんだろうかと真剣に考えました・・云々>

見守ってもらえていると思う時、人は自分の歩みを、自分でもちゃんと振り返る、自分で自分も見返すようになる、ということかもしれませんね。つまり、見守ってもらえるという体験には、きっとその度合いの差、真剣さの度合いというものがあって、その強さが伝われば伝わるほど、自分で自分を大事にしようという気持ち生むのかもしれません。そしてそれを責任感、という言葉で語る場合もあるのでしょう。自分で決めたことだから責任をとりなさないという話ではありません。責任感というものが生まれてくる関係性というものが、先にあるのでしょう。

この話を聞いて思い出すのは、川上哲治が亡くなった時のお別れ会で、王貞治がこんな挨拶をしました。テレビでみたことを覚えています。ネットで検索すると、その全文を読むことができます。最後の文章は次のような言葉です。

<・・・巨人軍だけでなく野球界に残された大きな影響力は、これからも生き続けていきます。プロ野球界はもとより、野球ファンの間でながく語り継がれることでしょう。プロ野球界は力強く前進してまいります。どうぞ見守っていてください。  川上さんありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。ゆっくりお眠りください。 平成25年12月2日 読売巨人軍OB会長 王貞治>

これを聞いた時、野球界をもっと良くしていきたいというという王さんの決意が伝わってくるのです。そしてもう一つ、大事な人に見守られていることと、それに応えるべく向かう世界は、両者がともに大切にしたい世界を分かち合っているという関係がありそうだ、ということです。同じ方向を向いているのです。向かい合っているのではなく、二人が世界の方へ視線を送り合っているのです。

冒頭の自立した姿は、その歩む世界があって、その世界をよりよくしていく共同作業をしていくための自立に見えてきます。そこには見えないバトンが渡されていく、生きていく命の流れをそこに見出していくことも可能な気がします。そういう視点で歴史を学べると面白そうです。先人が見つけていた未来を思いをはせたり、そのつながりとしての未来を描いてみる。その営みはきっと子どもと過ごす生活に影響を与えていくことになるかもしれません。

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