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地域連携(保育アーカイブ)

青木尚哉さんのダンス公演を観て

2021/07/03

動作と演劇とダンスの境目って、どこなんだろう? 動きと静止を生むものは時間なのか光なのか? そんな思索に導くような刺激的な身体表現を観てきました。コンテンポラリー・ダンサー青木尚哉(あおき・なおや)さんが率いるダンスグループZer〇(ゼロ)の公演「Frasco!」のことです。暗闇から光が灯された瞬間から、観ている私の中に、色々な表象が動き出して、私の頭の中がフラスコの実験装置になったみたいに、色々な表象の化学反応が起きました。演じられたのは2作品。そして私の中に出来上がった化合物は、所作と速度が混ざり合ったものと、社会から視線だけを抜き出した動く身体標本のようなものでした。

演じた皆さんは、保育園で子どもたちにダンスを教えてくださっている方々です。昨年10月の「親子運動遊びの会」に来ていただいたので、ご存知の方も多いと思います。

(左が芝田和さん、右が木原萌花さん 昨年の運動会にて)

一つ目の作品「ひとごと」は、木原萌花(きはら・ももか)さんの振付です。そして、それを演じたのは青木さんと芝田和(しばた・いずみ)さん、もう一つの作品「Golconda」は坂田尚也(さかた・なおや)の振付・演出です。青木さん、芝田さんに常田萌絵さんも加わって、演劇のようなダンスを披露してくださいました。みなさんは、昨年2月から園児たちとの交流していただいています。

コンテンポラリーダンス、というと難しそうに聞こえるかもしれませんが、青木さんのダンスグループは、既存のダンスの要素を一旦解体して、身体そのものをテーマとした、全く新しい表現を再構築している、と言っていいのかもしれません。その活動分野は、舞踏に留まらず、音楽、映像、建築、医療、教育などに及びます。最後の教育、というのは小中学校や保育園にも活動の場が広がっています。千代田せいが保育園でやっていただいていることは、子どもが自由に体を動かして遊んでいる中に、子どもには、それとはあまり気づかれないように「ダンスのエッセンスが渾然と溶け込むように」楽しませてもらっていることでしょうか。

 

解体されているダンスのエレメントは、組み立て方によって、全く新しい創造になることを、今日は見せていただきました。この公演は昨日7月2日(金)から明日4日(日)まで3日間、小田急線・成城学園駅すぐの小劇場「アトリエ第Q芸術」で開かれています。興味ある方は、ぜひどうぞ。

<おまけ>

以下は私の頭の中で起きた印象の言葉によるスケッチです。パチパチと音を立てたり、光が走ったりしたのですが、それを言葉でお伝えするなんて、とてもできません。まして、どんな表現だったかということを、説明することなんてムリですから、結果、私の印象でしかありませんが、とにかく刺激的でした。ただ、これから観る方は、先に読まないでください。印象にネタバレはないはずですが、真っ白な状態の方がいいと思いますので。

一つ目の作品「ひとごと」。

開演すると会場は真っ暗になり、明かりがつくとまっすぐ立っている和さんと、うつ伏せに倒れている青木さんの姿が目に飛び込んできます。立っている和さんがバタンと上半身を崩す動きを見ていると、「あ、まるで操り人形のよう」と気づきます。見えない糸が背中や肘や膝を引き上げたり、急に緩めたりされているのですが、それだけでも「こんな体の動かし方ができるなんて!」と、体の柔らかさや敏捷さ、体幹の強さなど、日頃から身体をメンテして練習しているからこそできるんだなあと、まずそこに驚きました。

そのうち、その乱暴に操られる人形の動きが、正確に繰り返されていることに気づきます。最初はランダムに動いているのかと思ったら、違うんです、2度3度と繰り返されて初めて、そこにワンセットの動きの周期を発見します。すると、その形式に意味を見出したくなるから不思議です。さらに、人形の動きがだんだん早くなっていくのですが、あるタイミングからダンスのようになっていきます。その境目があるということは、私が持っているダンスの刷り込みイメージなのだなあと振り返り、でも身体の動きの多様な変化に見惚れてしまいます。

一方で、倒れていた青木さんが、ゆっくりと四つん這いで起き上がり、後ろ向きに椅子に座るのですが、それも上から吊るされている人形のように見えます。ところが、和さんの動きと違うのは、まるで普通の人のように振る舞います。劇が始まったのか、と思います。それはある意味で正しくて、青木さんがセリフを語り出すのです。「二つの出来事があって、それが一つになって・・」みたいなことを、客席に語りかけるようにも見えなくもなく。そのうちに、ボタンを押して移動して何かを手にして一旦躊躇して、引き出しから何か四角い枠状のものを取り出して水に浸して揺すって戻して蓋をして、クルリと移動してまた立ち上がり、そしてまた見えない空中のボタンを押して・・・を繰り返していくのですが、だんだん、それが速度をましていくのです。すると日常の動作が、ある地点から踊りのように見えてきます。加速されて早回しのフィルムに、サイボーグの自動人形が写っているかのよう。・・・・

二つ目の作品「Golconda」

坂田さんの振付・演出です。背を向けた4人がバラバラに生活しています。赤の他人なんでしょう。片目でみたり、足を触ったり、さすったり、踵を振り返ったり、いろんな仕草が切り取られ、空間が動く所作でできたコラージュになっていきます。所作同士の距離やバランスが面白いというか心地よいのです。しかし青木さんが手のひらにリンゴを乗せてゆっくりと空間を横切って歩き出すと、不意にそのリンゴが床に落ちて、音を立てて転がります。重力の所作まで加わって、人の動きの中に、自然の働きが違和感をもたらすのです。いつしか、個人が視線によってまとまっていくような予感を見るものに与えます。何によって集団はできるのでしょう。4人が着ている青白いシャツは、誰でもない、匿名の代名詞。でも助け合いながら生活している生活者たち。自己の軸が4人の軸になって連動して動き出すと、ソ連邦時代の映画のよう。社会には希望と絶望の間でできていて、その自立と共生が危うことを、立てても立てても崩れ落ちてしまうから、それでも、がむしゃらに支えようとする若き青年の痛ましさ。・・・古代から現在までの歴史を身体にしたらこうなるのかもしれないという、ダンスによる現代批評になっているのでした。シュールリアリズムの旗手だった同名の絵画がタイトルなので、私たちの無意識が何を語り出すか、その発光や発酵が面白いですよ。

Zer〇の実験的レッスンの面白さ

2021/06/27

2人が手で持っている「物」は、いったい、どちらが持っている物なんだろう? 第三者が見ているだけでは、判然としないけど、やっている2人にとっては、はっきりとその差があるらしい・・・

こんな現代アーチストの練習風景を、リモートで公開しているライブを見せてもらいました。コンテンポラリーダンサーの青木尚哉さんが主催している「Zer〇」(ゼロ)の公開レッスンです。昨年10月の千代田せいが保育園の運動会を始め、継続的に子どもたちにダンスを教えてくださっている方です。こんな貴重な機会はないので、自宅で見せてもらいました。場所はご存知、近所付き合いをさせていただいている海老原商店です。

間に入っている「物」は棒だったり、ボールだったり、傘だったりしたのですが、このセッションのダンス提案は、青木さんの元で、ダンス教室の講師をなさっている木原萌花さん。2人で持っている「物」は、実は、「自分が持っている」「相手が持っている」「相手と持っている」という3つの違いがあるのですが、その動きを2人の表現として眺めていると、一体、どんな違いがあるのかよくわかりません。

でも、明らかに「持っている」人の、物への支配権というかイニシアティブが働いているので、それを動かそうとする側は、跳ね返ってくる感触が全く変わってきます。自分の物と思うか、相手の物と思うか、それとも2人の共同物と思うかで、自己の意識や配慮が変わってきます。相手への配慮とか、返ってくる反応とかが全く変わってくるようです。

こんな感覚を実験しながら、クリエイティブな身体との対話と表現を繰り返しているエクササイズがあることを垣間見せてもらい、正直、静かな感動を覚えています。インプロビゼーション(即興的な表現)が生まれてくるプロセスが公開されているような、ダンスの実験室あるいは孵化装置の空間のようです。このような丁寧な身体との付き合い方を、子どもが経験できたら素敵だろうなと思いました。大人が「表現」を意図的に表すとしたら、子どもの場合は、思わず動き出す遊びの中の身体性になるのでしょう。

他園との交流が初めて実現

2021/06/25

月に1回の「旧今川中学校校庭」での遊び。今日は4歳児らんらん組と5歳児すいすい組で行ってきました。当初の予定は6月8日(火)だったのですが、その日が歯科指導と重なったために、神田ベアーズ保育園のご好意で、今日に振り替えてもらったのです。が、ただ交代ではもったいないので、神田ベアーズの子どもたちには来てもらい、交流することになったのです。

お互いの園の名前、クラスの名前、人数などを紹介しあって、一緒に遊びました。縄跳びを使った電車ごっこや、綱引きが自然とはじまって、二つの園の子どもたちが混ざり合っていきました。これが子どもの持っている力ですね。高い社交性とでもいうものが発揮されて、あっという間に距離感がなくなっていきました。

つなきひは子ども対子どもだけではなく、子ども対大人(先生)もあったのですが、子どもが力を合わせると、それはかなりのパワーで、大人が本気を出しても負けてしまいました。

10時50分ごろから雨が降り出したので、約1時間の交流遊びを満喫できました。

 

千代田区が保育園と小学校のつながりについて研究会

2021/06/23

今日23日(水)は午後から、千代田区立いずみこども園・和泉小学校で「令和3年度保・幼・小合同研修会」が開かれたので参加してきました。この研修会は保育園や幼稚園、こども園にいる子どもたちが、それぞれの発達にあった生活と学びができるように、その連携のあり方を探るものです。小学校としては和泉小学校、幼児教育施設としては神田保育園といずみこども園が実施した連携活動を事例として検討しました。参加者の討議はなかったのですが、リモートによる授業参観と3園校からの実践報告を踏まえて、無藤隆(白梅大学名誉教授)さんの講演が行われました。

保育園と小学校の間には、いろいろな溝やハードルがあるのですが、その溝が深く大きく見えるのか小さく浅く見えるのか、あるいはハードルが高く見えるか低く見えるか・・それはそれぞれです。しかし、溝やハードルを過大に捉えるのは間違いです。正しく認識していただきたいことは、無藤隆先生の次のような言葉です。

「間違っていただきたくないことは、幼児教育を小学校教育に置き換えるとか、近づけるということではなく、乳幼児期と小学校教育とで、それぞれふさわしいことをやることをやることが大事だ、ということです」

小学校でやることを先取りして行うことではなく、それぞれの子どもにあった、発達にあったことをその時期にふさわしい体験をしておくということになります。千代田せいが保育園の保育には、「国語のはじまり」や「算数のはじまり」をはじめ、小学校以降の生活や学びで困らないような「資質・能力」を育む経験が生活の中に埋め込んであるのですが、その仕掛けや意味を関係者に可視化していくことが必要な時代になってきたようです。

かなり前から、この幼児教育と小学校教育の連携については、幼小連携という言葉で実践されてきたのですが(このテーマで、ずいぶん昔、本に実践を寄稿しましたが)どうも千代田区は始まったばかりのようです。まだ教員同士の交流もないですし、カリキュラムの連携もできていません。ましてや、子ども一人ひとりの発達と学びの連続性を保障する「つながりの仕組み」も制度化されておらず、それぞれの立場に任されているのが現状です。

ただ、学習指導要領と要領・指針などは整合性が取れているので、その内容をしっかり理解して実践していれば、子どもたちが困ることはあまりないので、今日のような研修会はとても大切です。それぞれがなさなけれはならないことが明確になるからです。そういえば、今日の夕方、この春卒園した1年生がお母さんと挨拶に来られました。小学校も学童も楽しいそうです。このような子どもの姿から作り上げていくつながりが、連携の最も大切な軸になると思います。

 

屋形船乗船イベントについて

2021/06/17

コロナのために昨年は園内で実施した夏の納涼会。今年こそ開園1年目と同じように「屋形船」に親子で乗りたいと思っています。リバーサイドプロジェクトの岡田さんと相談してきたのですが、東京都の緊急事態宣言が6月20日(日)で解除されることが決まった今日17日(木)、来月7月か9月に「屋形船」イベントを実施したいと思います。

納涼会は8月21日(土)に実施しますが、これとは別に、屋形船の乗船イベントは、コロナ情勢に左右されるので、タイミングが肝心になります。7月がいいのか、9月がいいのか。報道の見通しによると、感染上昇は、増え続ける「人流」を抑えないとリバンドは避けられないといいます。急ピッチで進むワクチン接種ですが、集団免疫の目安とされる6割まで届くのは、今のペースで加速しても9月。だとすると、東京都が「蔓防」を講じても、お盆とオリンピックを経れば、その途中で第5波がくる可能性があります。

そこでオリンピック直前の7月17日(土)に、実施する案を検討します。ソーシャルディスタンスと三密回避、感染防止策を徹底した上での実施です。近く参加の意向をコドモンでお聞きします。よろしくお願いします。

神田消防少年団に入ろう!

2021/06/16

神田消防少年団に入りませんかーー。今日、神田消防署からお知らせが届きました。小学生になると入ることができます。毎月1回、主に日曜日の午前中に、色々な活動を教えてもらえるのでお勧めです。防火・防災の知識や技術はもちろん、結索といってロープの結び方(5月)や、野外キャンプ(7月)、出初式への参加(1月)などもあり、一年を通じて多彩な活動が用意されています。指導するのは、消防署の方ですから、安全面もバッチリです。また生活リズムが崩れやすい日曜日の早起きにもなります。小学生になったら、の話ですが、

20210616 消防少年団の募集

 

第1回 睡眠講座「Mam’s Salon」開く

2021/06/15

今年度初めての睡眠講座「Mam’s Salon」を開きました。参加者は保育園の保護者の方と、地域の方の2名でしたが、これから連携をとっていきたい千代田区社会福祉協議会のアキバ分室の方もオブザーバー参加していただきました。この睡眠講座の内容は、日本人の多くの大人が知らないことが多いものです。しかも、何も知らないで子育てを始めてしまうと、当たり前と思ってやっていることが、実は違っていたということが結構あるのです。ぜひ、一度は聞いていただきたいと切に思います。詳しくは、このホームページのアーカイブ「睡眠講座」や「早寝早起き」をご覧ください。

疑った方がいい「当たり前」とは、たとえば「寝かしつけ」がそうかもしれません。子どもは赤ちゃんの頃から、自分で寝る力を持っており、なんとか寝たいと思って、むにゃむにゃいったり、指しゃぶりしたりしながら眠ることができます。あるいは寝ようとしているのです。そこを大抵の日本人の親は、誤解してかまってしまいます。このことは、なかなか理解してもらえない、最大のポイントかもしれませんね。今日の講座でも、最後にその話になりました。このテーマほど、「もっと早く聞きたかった」となる話なので、妊娠したらぜひ押さえておきたい子育てのポイントの一つのようです。

アキバ分室を見学してみて

2021/06/14

千代田区社会福祉協議会のアキバ分室を、睡眠講座の永持伸子さんと見学してきました。行ってきたのは先週11日の金曜日。目的はこの分室との連携です。散歩コースにしたり、この子育てひろばへ「親子遊びを打前」したり、社協主催の睡眠講座を開いてもらったり、地域の民生委員の方と交流したり、やりたいことはいっぱいです。その全てを語り「ぜひ一緒にやりましょう」となりました。

 

場所は万世橋の交差点を渡ったらすぐ。社協のフロアは6階で、そのベランダから眼下に中央線が走っています。まずはこの見晴らしを、子どもたちに体験させたいと思います。今日14日(月)から東京も梅雨に入りました。お出かけ先の一つになるといいですね。

「おとといの富士 あさってのブルーライト」展示は6/25まで

2021/06/13

昨日でも明日でもない間(あわい)の光景。そのもう一つの、別のアーティストによる作品群もまた、海老原商店に溶け込んでいるような展示になっていました。作者の林俊さんからは、かなり長い時間、作品の背景や意図などの説明を聞かせてもらいました。

こちらも秋山さんと同様にボンベが登場します。でも本物のボンベもあります。林さんは実家がガス屋さんだったそうで、幼少の頃から、ボンベを運ぶ台車に乗せてもらって遊んでいたそうな。ボンベとボンベがぶつかる音を毎日聞いて育った林少年は、それが運ばれ、管で繋がれ、ボンベの中身と使う場所とのつながり具合のようなものが作品のモチーフになっていった、のかもしれません。

林さんの話を聞いているうちに、私たちは誰もが自分と他者を隔てている境目を、無意識のうちに持つようになるが、それが身体の皮膚が境目であるという思い込みがどこから来たののだろう、と勝手なことを想像し始めてしまった。どうも人によってその境目は「扉のこちら側と向こう側」のような関係になっていて、その境目と感じるイメージも、時間を遡っていくと、かなり個人的な世界の深みにハマっていってしまいそうなイメージがわきおこってくる。

林さんには、その境目に美しさを感じるようで、ボンベが錆びてしまっている箇所だったり、朽ちて壊れた破片が落ちてしまったり、割れてしまったりしたものを、もう一度気持ちのいい「かたち」にコラージュしてしまう。作品は扉が壊れまた再生されている途上のようなあわいを、固定していました。というわけで、海老原商店そのものが、コラージュされるキャンパス自体になっているので、作品と展示会場の境目がわからない。そこが面白い。

昨年秋、歯科の山本先生にミニ講座を開いてもらった、1階の畳の和室が、床が剥がされて、まるで工事中かのような風景になっていたのですが、それが作品でした。林さんは、ステレオタイプ化された社会問題の「枠」ではなく、あくまでも個人的な実存の問題としての「枠」をモチーフにしているように感じました。

2階にあがると、壁に飾られたオブジェがしつらえてあって、それも壁と融合しているのですが、その美しさのままでいてほしい空間に仕上がっているのでした。

 

「おとといの富士 あさってのブルーライト」

2021/06/13

ここに「勿体」がある。

勿体とは、物体のことであり、物質の本質、物事のあるべき姿といった意味だったものから、それを損なうことを「勿体ない」というようになったし、一方で尊大なものや、大袈裟なものも意味するようになり、「勿体つける」という言い方もある。

という言葉の意味を踏まえて、この作品には「勿体」と書いてあるわけです。これは勿体です、と自己表示してあるのですが、形はボンベです。ガスボンベの中身がどんなガスかはわからないのですが、ガスですから見えません。でもその容器であるガスボンベに勿体と書いてあるということは、見えないガスを大事にしてね、という意味かな?と想像したりしていました。

すると、このボンベは全部、蜜蝋でできているというではありませんか。匂ってみると確かにロウの匂いがします。大事なのは中身じゃなくて、この蜜蝋でできた容器そのものの方にしか意識が向かわなくなりました。

それはそうです。それが作品なのですから。ペンケースのような形をしたカラフルな容器から、床の間のサイズを実測して作られた巨大な直方体にしても、すべて蜜蝋でできています。それだけでも圧巻です。

作品はあたかも、古民家の床や畳や棚に無造作に置かれているようでいながら、しばらくいると、ずしっとした人体のような重さを感じてしまうのは、柔らかな素肌のような鈍い光だからでしょう、海老原商店の空間と均衡関係をつくりながら、「そうか、勿体はこの海老原商店自体がキャンパスだと思えば、この蜜蝋は絵具の位置にあるのか」と気付くのです。

そう、この作品はオブジェでもスカルプチャーでもなく、絵画なんだそうです。

これを作成したアーティストの秋山珠理さんは、6月11日夕刻のトークタイムで、エキゾチックな雰囲気で語ってくださいました。

「作っているときは、肌も髪も蝋まみれになって」「よくある表現って、どうしても何か貼り付けている感じがあるけど、蜜蝋にはその境目がどこかわからない」「センセーショナルなものがないとアートたりえないとしたら」・・・

自身の口から語られる言葉を瞬間凍結させながら、何もないのかもしれないことを過去のものにしながらも保存される容器に、なぜか郷愁とエキゾチズムとエロティズムを古民家空間で表出させているのです。

そうか、だから今と昨日と明日がないのか。そんな鮮明な時間はここには似合わないから「おとといの富士 あさってのブルーライト」なんだろうか。このことに気づかないと、もったいないってことか。

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