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見守る保育(保育アーカイブ)

個人の育ちと集団の育ち

2022/02/09

子ども集団が育つ、というと、皆さんはどんな場面を思い浮かべるでしょうか。それでわかりやすいのは、お楽しみ会などでお伝えした「劇遊び」などかもしれません。年齢別に劇を続けて観ると、その育ちがはっきりわかりますよね。保育では個人と集団の、どちらの育ちも大切にしています。この「園長の日記」では、教育の営みについて、主体者個人と環境の関係からいろいろと説明してきましたが、こんどは主体者が「集団」になった場合を考えてみましょう。

集団の育ちというのは個人の育ちがベースになるのですが、面白いのは個人が集団の育ちに影響を与える方向と、集団が個人の育ちに影響を与える両方向があることです。お互いに影響をしあっている複雑な関係になっています。

たとえば、今日の夕方のお集まりは、年長のHSくんが司会をしていました。どのゾーンを開けますか?と聞くと、「はい、はい」と、たくさん手が挙がります。司会者は「ちゃんとみている人にあてよう」というと、司会者の方に顔を向けます。でも司会者がなかなか指名しないのでKMさんが「早くやって。時間のムダ」といいます。すると指名されたKSくんが「ゲーム・パズル」と言います。さらに司会者が「他にどこがいいですか?」と聞くと、THくんが「みんなが制作遊ぶと思うから制作」という言い方をしたのです。

それを聞いていた年少のKAさんが「THくんばっかりでつまんない」というのですが、THくんはこう反論します。「え、だって、今のはみなんが制作で遊ぶから・・・」と。

このように夕方のゾーンを、どこを開けて遊ぶかを、そこにいる子どもたちが話し合って決めていくのですが、自分のことだけではなくてみんなのもそれをやりたいだろうから、それにする、という言い方が生まれています。これも集団ならではでしょう。これを少し大袈裟に考えると、自分の1票が他の人たちの意思も汲んだ結果の1票だ、というわけです。単純に自分がやりたい遊びを主張するだけではなく、他の人の意向も踏まえた意見だというわけです。自分の意見に説得力を持たせる、という意図ももちろんありそうです。

 

それにしても多数決で決するということではなくて、話し合いを通じて、集団としての意思決定に辿り着くことができるようになっているのです。このような集団の育ちは、集団の中で、色々な人間関係を体験してきたことから生まれてくる個人の力です。個性が発揮されるような集団の在り方としても、これからの時代の持続可能な社会に必要な資質だと言えます。

 

子育ては子どもを支えること

2022/02/07

子育てとは、本人が自立するまでに必要な援助です。子どもが大人になれば、なんでも自分できるようになり、援助がいらなくなります。自立すると言うことです。そして今度は自分が子育てをする側に回ります。子どもは大きくなるにつれて自立していき、援助する側になっていくことが大人になる、と言うことになります。すると、子育ては自立に向かって支えることですから、大人がさせてしまっては自立する機会を奪うことになります。本人の代わりになんでもやってあげてしまったら、自分で伸びようとする力を使うチャンスを失うことになります。これを過保護、と言います。

一方で、子どもの体験は、初めてのことが多いので、最初からうまくいくことはあまりありません。繰り返しやっていくうちに、身についたり、覚えたり、できるようになっていきます。その過程には「自分で考えて試す」ということが含まれてきます。いわゆる試行錯誤の過程です。自分でやってみようとしたり、挑戦してみたり、できるかな、でもちょっと怖いな、どうしようかな・・といった過程で、子どもは自分自身と向き合い、自分のことを振り返ります。決断して前に進むか、助けてと援助を依頼してくるか。このプロセスがとても重要な自立の過程になります。失敗を繰り返しながらも、試行錯誤しながらなんとかゴールに辿り着くと、達成感と共に自分への自信を持てるようになっていきます。

ところが、このプロセスがない子育てがあります。それは子ども自身に考える時間、試してみる時間、自分で創意工夫する時間がないような子育てです。ことある度に「ああしたら」「こうしたら」と指示を出し、言ってさせようとします。これを過干渉と言います。大人はできるだけ本人が困ったときだけ、援助してあげるようにします。「手伝って」「助けて」と言われたら支えてあげればいい、と言うことになります。

過保護は自立の機会を奪い、過干渉は考える機会を奪います。いずれも受け身な姿勢になって、自分からこうしたい、ああしたい、という意欲や自発性が損なわれてしまい、自信のない子どもになってしまいます。本来子どもは好奇心旺盛な心を持ってこの世に生を受けるのですが、過保護にされてしまうと、努力しないで目標に辿り着けるので、依存的な子どもになってしまいます。また過干渉にさらされると、本来自分で決めたい、自分で判断したい、という欲求があるので、自分なりの理屈や方法を編み出そうとして、反抗的になりがちです。

もう一つ、やってはいけない子育てが「放任」です。ネグレクト、育児放棄です。大人は子どもをしっかりみて理解し、子どもが困ったときに駆け込める避難場所、安全基地になってあげる必要があります。愛着(アタッチメント)というのは、この安全基地に大人がなるということです。不安になったり、困ったりしたときに、あそこに行けば助けてもらえるという見通しを持てる位置に、大人はどっしりと構えてあげるといいのです。エネルギーを補給に来たら補ってあげてください。気持ちをうけとめてあげて、しっかり応答しましょう。しっかりと抱きしめてげましょう。そうすると、子どもは回復してまた元気に遊び始めるでしょう。自分から離れます。大人は手を離すだけです。これを「ハンドオフ」するといい、日本語では「見守ること」に相当します。

自ら考えて判断する力、失敗しても挫けずに立ち直る力、自分で目標を立ててそれに打ち込む力、こういった力を使う機会を保障しましょう。すると、結果的に、その子育ての姿は「見守る保育」という姿になります。しかし、見守ることができるためには、いくつかの条件が必要になります。その一つが、自分らしさを発揮できる生活であること、一人ひとり異なる欲求が満たされるようなことを選べる環境になっていること、そして、子ども同士の豊かな関係があることです。この3条件が揃って初めて、見守ることができます。ただ3つ目の条件は家庭では難しいかもしれません。家庭には子ども同士で何かをして遊んだり、協力して何かを生み出したりできる環境に乏しいからです。

自分と相手の間にコミュニケーションを取りながら生活を作り出す当事者になること。これを生活への「参画」と言うのですが、昔、倉橋惣三はこれを「生活を生活で生活へ」と言いました。今では「環境を通した保育」と「子ども主体の保育」を併せて「社会生活者の一員として責任を持って、よりよい生活づくりに参画する」という意味になります。

コップの水としてのエージェンシー(主体性)

2022/02/02

屋上で遊んできた子たちが玄関に戻ってきました。年長のTくんが私に鬼ごっこで遊んだことを説明してくれます。ん、すごい!面白い!と感じたのは(成長を感じたのは)、彼の話の中には「楽しかったこと」もありますが、集団として思い通りにいかないことへの不満が含まれていることです。自分のことだけではなく、年長組すいすいとして期待されていることがうまくいくことを望んでいることがわかります。子どもの成長は自分ができたことへの喜びだけではなく、自分も含めて、その集団が目指している目的が達成されることへの喜びへと発達してきていることがわかります。

このような個人の成長は、個人の「自立」であると同時に、仲間意識が色濃い集団の中でしか望めない「協同性」の育ちと言えます。自分が所属している小さな社会(ここでは、年長組)が、よりよくなることを望み、その一員としての自分と他者を振り返ることができるようになっているのです。この子は友達の行為について、目的を達成するための行いとして捉えています。このような主体性は、これからも時代に必要な力の中で、ますます重視されいくものになっていくでしょう。

こんなこともありました。3階の積み木ゾーンに、新しい遊具が導入されて、ビー玉がジグザグに転がってきて、ポトンと落ちる受け皿として、まだ箱に入って出されていないパーツを使いたい、というのです。ところが、私が出してあげようとすると「まだ◯◯先生がいいと言ってないから」と、合意を得るプロセスを優先させようとします。「小さな社会」の中で決まっているルールを変更するためには、ある種の手続きがあって、そのプロセスにこだわるあたりにも「協同性」を感じます。

ここで、あえて「これからの時代に必要な力」という言い方をしたのは、昨日までの話で出てきた外から中に注ぎ込まれる「コップの水」だということに、着目して欲しいからです。ここで紹介したよう子どもの主体性をエージェンシー(Agency)といいます。OECDの「エデュケーション2030」プロジェクトで、最重要なキーワードになっています。その定義は「変化を起こすために、自分で目標を設定し、振り返り、責任をもって行動する力」のことで、行為主体、とか行為主体性、などと訳されているようです。

しかし、一方でこの水は、社会の中でこそ発揮される力でもあるのですが、ポイントはその社会がよりよくなるために、そのメンバーである個人が責任感を感じながら目標を達成させようとする自発性が育っているかどうかにあります。つまり「コップの中の水」が引き出される側面もあるのです。自発性が発揮される場面は、子ども同士という集団が生み出す活動(鬼ごっこ)や目的(より楽しい活動など)であるのでしょう。主体性という育ちは、外からとも、内からとも区切られない「水」だと言えます。社会性の育ちは個人と集団の両立の中に見られます。

小さな社会は霊妙に大きな世界と繋がっている

2022/02/01

今日から2月。大学と相談しながらコロナ科での保育実習も始まりました。保育園は一つの小さな社会です。これを小さな丸(○)で表すなら、家族の営みがこの○と重なり合って、ひょうたんのような楕円形の社会を作っているとしましょう。さらに外の世界にも囲まれているので、その外側には大きないくつもの大きな丸に包まれていると想像してみてください。子どもたちは、それぞれの環境から影響を受けながら、自らの体験を深めたり、広げたり、豊かにしていきます。鬼ごっこの深まりということ一つにしても、それを用意して見守る先生の意識の中には、鬼ごっこ協会という外の専門家集団の知恵が影響しています。子どもたちには、見えない関係の網の目が、色々な形で取り囲んでいることになります。それは子どもたちではなく、私たち大人も同じです。大学からやってきた実習生にも、そこでの学びと園生活での学びが繋がっています。

朝の挨拶の代わりに、家に地球儀がお目見えしたことを教えてくれる子どもがいます。「保育園にも用意しようかな」と答えながら、本物の地球が私たちに与えている大いなる意志について、この子たちもいずれ気づく時期が来るだろうか、と考えていました。保育園という、この小さな社会に見える場ですが、実はそれを取り巻く大きな社会と繋がっていて、霊妙に影響しあっていることを、人類は将来、もっと明確に共有できる社会になるといいな、と思います。私たちの先人が持っていた力を再開発しながら、私たちを取り巻く環境について、もっと目を凝らしていきたいものです。

注がれる水が「10の姿」になるまで

2022/01/31

教育の本質について「コップの中の水」に例えて考えています。教育というのは「何かを教えることであり、コップの中に水を注ぐこと」に似ているか、それとも「最初からコップに入っている水を、汲み出すこと」に似ているか、そんな話をしてきました。そして、前者の水は「大人が」身につけてほしいと願う知識や技能などの内容であり、後者の水は「子どもが」すでに持っている「生きる力」である、といった話でした。

しかし、教育はこの2つが分離しているのではありません。大人が子どもに学んでほしいと願うことと、子どもが自ら育とうとする自発的な力とは、相互に補い合って初めてうまくいくことが多いのです。自ら伸びようとする力、自ら使いたがる力、あるいは学びに向かう力、と言った子どもの側から湧き起こってくる生きる力が、ちょうど学んでほしい内容、身につけてほしい内容と出会い、その内容を自分の方へ引きつけてきて、身についていくようにすることが、教育の実態になります。

内容としての水がコップにちゃんと入るために、最初からある水が、生きる力という、いわばエネルギーになって外からの水を取り込むのです。それがうまくいっている時、子どもは遊びに没頭していたり、我を忘れて夢中で遊んでいたりするのです。遊びこむことが、自分の生きる力を使って、色々なことを学ぶことになっているわけです。それは遊びに限らず、食事や睡眠、排泄や服の脱ぎ着、手洗いなど生活の中でも、生きる力を発揮しながら生活習慣を身につけ、その過程で心身の発達が促され、望ましい文化的な営みに参加できるようになっていきます。

ところで、このように教育を捉えると、子どもがちが外から取り入れている内容は、私たちが満1歳以上の子どもたちについて「教育の五領域」で捉えている内容(健康、人間関係、環境、言葉、表現)の全てにわたることになります。また、その5つの領域にはそれぞれ3つの教育のねらいがあって、それが心情、意欲、態度という観点で捉えるように構造化されています。つまり「外から取り入れる水」には、3つのねらいが5領域にまたがってあるので、全部で15個あることになります。

そして、ここからが肝心なことなのですが、この15ある「ねらい」は、いわば「外にある水」です。このねらいを達成させるためには、子どもが自ら環境に関わって体験できるように、環境を用意することが必要になります。言って聞かせてさせるのではありません。子どもには自ら育とうとする自発的な力が備わっているので(つまり最初から水を持っているので)、これを使って環境から体験を引き出すことになります。したがって教育の最大のポイントは、子どもの方が自発的に遊び(学び)始めるようにすること、意欲的に自分から活動し始めることです。それは大人がさせるものではなくて、ある環境を用意することで、それをみて子どもが「やってみたい」と思うように、子どもにとって魅力的な環境にすることが肝心なのです。

コップの水に例えるなら、外から注がれる水は、子どもからみて「わあ、きれい!」とか「あ、面白そう!」とか「あれ、なんだろう!」というように、心動かされる心情体験を引き出すような、魅力的な水である必要があるのです。そして、嬉しい!、楽しい! 面白い!といった心情体験が、またやりたい!、もっとやりたい!という意欲を生み出し、そして、それを繰り返すことで、望ましい姿が身につくことになります。これを、心情、意欲、態度(心の姿勢、心構え)と言います。これを育みながら、学びに向かう力も育ちます、その姿が年長の頃になると、こうなるといいね、という形で表現されているものが「10の姿」ということになります。

 

コップに注がれる水とは

2022/01/30

『これからの保育者論 日々の実践に宿る専門性』(高橋貴志著:萌文書林)より

話は昨日までの続きです。コップの中の水は、いわば「生きる力」であり、それを上手に育むことが教育だとすると、その方法は、それにふわしい環境を用意することだったり、「生きる力」が発揮されるような体験ができることが大切ということになります。では、コップの中に水を入れる方の教育は、どんな内容や方法になるでしょうか。

 

こちらも用意されている「環境」が問題になるのですが、ちょうど一昨日の夕方、来年度の保育材料の予算を検討していたとき、「子どもたちが協力して何かを成し遂げる楽しさを体験してもらいたい」という話になり、それを年間の保育目標の一つとすることにしました。協力ゲームで遊んでいる、わらす組(3〜5歳児クラス)の子どもたちの姿を見ていると、とてもいい遊びになっているので、もっとこの活動を深めてあげたい!と担任が感じているからです。

このように、今の子どもの姿をベースにした遊びや活動の見通しについて、大人が抱く願いや意図が、教育の内容を生み出します。子どもの「生きる力」が発揮されるように、これからの時代に必要な資質や能力としてふさわしいかどうかについて、専門職としての判断がここにあるのです。これが、コップに注がれる「コップの水」になります。その判断の根拠の一つとして「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」などの、国が定めた要領や指針などを参照します。

幼児期の終わりまでに育ってほしい姿は10あるのですが、この協力ゲームの場合は、その3番目「協同性」に当てはまります。「友達と関わる中で、お互いの思いや考えなどを共有し、共有の目的の実現に向けて、考えたり、工夫したり、協力したり、充実感を持ってやり遂げるようになる」姿を目指します。これは年長さんの姿ですが、5歳になって突然、そういう姿を意識するのではなく、保育は乳児の頃から、一貫してみていくことになります。

昨日の1歳児クラスのブログで、散歩の時に鳥を見つけたり、それを伝え合ったりする姿が、報告されています。そして、面白いなあ、と感じるのは、望ましい環境との関わり方を、自分で自発的に考える姿が描かれているあたりです。

「おててつながないと、車が来るから危ないー?」と、先生に訊ねています。満2歳の子どもたち(1歳児クラス)は、散歩の時、手を繋いでいます。散歩をしていると、何かの拍子で手が離れることがあリます。すると、自分たちで「手つないでー」と繋ぎ直したり、手をつなぐ理由を理解しているので、きっとやむなく手が離れてしまったのでしょうか、<いま繋がないといけないんだよね>と、確認しているかのようのです。

こんな姿が満2歳からみられるわけですが、先ほどの10の姿の4番目「道徳性・規範意識の芽生え」にぴったりです。「友達と様々な体験を重ねる中で、してよいことや悪いことが分かり、自分の行動を振り返ったり、友達の気持ちに共感したりし、相手の立場に立って行動するようになる。また、きまりを守る必要性が分かり、自分の気持ちを調整し、友達と折り合いを付けながら、きまりをつくったり、守ったりするようになる」。年長さんの普段の生活の中に、こんな姿がいっぱいみられます。それがぐんぐん組の頃から、つながっていることが見えてきます。

コップの注ぐ水は、こうなってほしいなあ、こんなふうに育ってほしいなあ、という、どこ子どもにもそうあってほしいと願わずにはいられない、現代社会の価値項目であると言っていいでしょう。それが特定の個人や団体が勝手に考えては困るので、幼稚園教育要領や保育所保育指針で「10の姿」のような形で定めているのです。これが、コップの水の内容になります。

 

持って生まれたコップの水

2022/01/29

教育がコップの中にある水を汲み出す方向にもあるとすると、どうやって、すでにコップの中に水があるのか? または、最初からあるその水と後から注ぎ込む水とは、何がどう違うのか? いろんな「?」があっていいのですが、私なりに納得しているのは、こんなことです。

生まれてきた赤ちゃんが、すでにそこに赤ちゃんとして存在すること自体が、とても不思議な人間存在の謎につながる話なのですが、しかし、その話を抜きには「なぜコップの水が最初からあるのか?」を説明することは難しいでしょう。人間が存在するのは、過去からつながっている生命があるからですが、一世代だけを考えれば、お父さんとお母さんから受け継がれてきたものがすでにあるから、という説明をしておくことにしましょう。

そして、もう一つの問い、最初からある水と、後から注ぎ込む水の違いですが、端的にいうと、原初の過去からずっと途絶えることなく受け継いできた「水」が最初からある水であり、ブッダの時代でもキリストの時代でも鎌倉時代でも江戸時代でも昭和の時代でもない、21世紀のこれからの時代を生きていくために必要な、資質や能力を培うために必要な水が、後から注ぎ込むことになる水と言えるからもしれません。

それでも、もしこの二つの水の大切さを天秤にかけてみるとしたら、生きているために重大な生命力としての水が乗っている皿がずっしりと沈み込み、もう一方の現代的課題としての知識やスキルとしての水が乗っている皿は、軽々と跳ね上がってしまうことでしょう。圧倒的に大切なのは、生きる力としての水だからです。

もう一つ、大切な疑問があるかもしれません。それは「引き出す、とか育むというのは、具体的にはどういうことか?」という、教育の方法に関する本質的な質問です。一つの考え方はその一人ひとりの子どもにとって、取り巻く環境が、その子にふわしいかどうか、ということになります。思わず遊び始めるような遊具がものがあるか、わくわくするような活動ができるか、自発的に自分のいろいろな力を使うことができる体験ができるかどうか、そのような環境との相互作用が生まれるように、環境を用意することです。

私はこれをよく植物に例えます。今私の目の前には花瓶に花が飾ってありますが、その蕾が花を咲かせるためには、水と日光を温度を用意します。花を咲かせる力は、花が最初から持っている生命力であり「コップの中の水」です。しかし、その生命力はある条件のもとで活躍します。水もやらずに真っ暗な中で、寒い外に放っておいたら、きっと枯れてしまうでしょう。あるいは、目の目には保育園の玄関に咲いていた朝顔の種があります。これはずっと種のままです。しかし、暖かい室内で、10日間ほど水に浸し、空気に触れるようにしておけば、きっと発芽するでしょう。

このことが「教育」のエデュケーションの意味です。本来、どの子も持っている、かけがえのないその子らしさを携えて、この世に生を授かった子どもたちは、それぞれの「コップと水」を持っているのです。それをわかりやすく個性ということがありますが、それは本当に一人ずつ異なるものであり、何か評価するようなものではありません。ましてや時代によって変わってしまう価値観や、社会が求めてくる資質や能力の物差しで評価を下してはならないのです。

コップの中に注ぐのか、それとも引き出すのか?

2022/01/28

(園だより2月号 巻頭言より)

皆さんは教育というと、どんなイメージを持たれるでしょうか。きっと、勉強とか宿題とか学校とか先生、あるいはちょうど今行われている試験などを思い浮かべるかもしれません。教育というのは、教えること、あるいは教えてもらって身につくこと、何かが分かってできるようになること、そういうイメージだと思います。空のコップに水を注ぐことです。これは間違いではないのですが、私たち保育者は、もう少し広くとらえます。この広がりを皆さんと共有しておきたくなりました。

教育という日本語は、英語のeducationを訳したものですが、このeducationの語源には、「引き出す」という意味のラテン語educere(エデュケーレ)と、「養いつつ育む」という意味のeducare(エデュカーレ)があると言われています。この二つの意味から考えると、教える、あるいは教えてもらって身につくという「外から中へ入れる」というのとは、反対の意味になります。つまり「中から外へ出ていく」ようにすることが教育だったということになります。

人の中には「最初から何かがあって」、それがうまく引き出されていくようにすることが教育である、と。例えると、コップの中にはすでに水があって、それを取り出すということになるのですが、果たして、そんなことができるのでしょうか。「最初からある何か」というのは、自ら育つ力、発達する力のことです。人間は、あるいは子どもは元来、自ら育つ力、発達する力を持っていて、それを支えながら、さらに伸びていくように援助すること、それが「引き出す」とか「養いながら育む」ということになります。

私たち保育者は、教育について、こちらの方に力点を置いてとらえています。こちらの方が、いつの時代にも普遍的であり、変えてはならない不易の方であり、教育の本質になるからです。なぜなら、時代や環境によって姿が変わってしまうものは、狭義の教育、流行の教育の方になるからです。私たち保育者は、あるいは教育者は、どんな時代になろうとも、子どもが人間である限り、この普遍的で本質的な教育の役割を手放すわけにはいかないことになります。

そこでよく私は、最初から元来持っている自ら育とうとする力は「見えない」という話をします。種の中に、その後に芽が出て膨らんで花が咲いて・・という姿に変化させる力は、種をじっと見つめていても、解剖しても、物理的に分解しても、どこにも見えません。それは細胞の中のDNAだ、という人がいるかもしれませんが、それでも、そのDNAを動かしている力は、現代の科学でも見出せてはいないのです。でも、確かに存在するその何かに、私は畏敬の念を覚え、私たちの命の不思議さ、分かっていない事柄に謙虚な気持ちで、謎は謎として大切にしてく姿勢を保持したいと思います。

保育というのは、子どもを育てるという営みは、何か大事そうに見える内容を、外から注ぎ込み、覚えさせたり、できるようにさせたりすることで身につく事柄を「超えたところ」にあります。その基盤となるものをまずは、しっかりと育みたい、支えたい、守りたいと考えています。

15日は保育の質を高めるための研修日でした

2022/01/15

保育という仕事の面白さと難しさは、目に見えないものに関わっているからですが、それは見えないからと言って、存在しないわけではなくて、しっかりとあります。例えば、人の心を思い浮かべてもらえばいいでしょうか。心は見えませんが、存在します。それと同じように、保育は物ではないので、見えませんが、人の営みとして、文化の中に存在します。したがって、そこには望ましい考えや方法というものがあります。

私たちは、その文化的実践としての保育をよりよくしていくために、いろんな工夫をしています。その工夫の一つは、保育実践に質の違いがあると想定して、その質がどんな要素で成り立つのかを分析します。その要素の成り立ち方を明らかにして、また全体と部分の関係を明らかにして、質を高める方法を編み出すようにします。

実は、いまだに保育の質には、その定義がありません。見えない営みである保育の質が、いまだに定義されていないのです。しかし、保育を成立させている要素はあります。子どもと親や保育者の大人がいて、必ずわたしたちを取り巻く環境があります。したがって、保育はその3つの要素、子ども・保育者・環境の相互作用からなる文化的実践である、ということができます。

さて、では保育の質はなんでしょうか。子どもの質でしょうか。保育者の質でしょうか。環境の質でしょうか。

保育は3つの要素の「相互作用」ですから、3つ別々の質を高めるのではなく、子どもと環境の関係、子どもと保育者の関係、保育者と環境の関係を考えることが、どうしても必要になります。教育には、次の図のような3角形があります。子どもは教材や体験を通して学習をします。その学習がうまくいくように、先生は児童・生徒のために学習指導をするのですが、その決め手は教材開発や教材研究、授業方法の研鑽になります。

同じように、私たち保育者も、三つの関係からなる三角形があります。これは、誰も言わないので、私はこれを「保育の三角形」と名づけています。子どもと環境の関係は、生活と遊びになります。保育者と子どもの関係は援助だったり遊び相手だったり見守ったりする関係になります。そして保育者と環境との関係は、環境研究になります。子どもが環境とどう関わっているのか、その関係を分析したり、デザインしたり、読み取ったりして、どんな環境を用意したらいいのかを考えます。この最後の営み「環境研究」で大切なことは、先生同士の打ち合わせや研究や研鑽、そして計画づくりと振り返りです。

15日(土)は、職員全員が集まって保育の質を高めるために研修会を開きました。まず午前中に藤森統括園長にきてもらい「保育の基本」についておさらいをしてました。保育の質は定義されていなくても、保育の目的は明確にあります。それは子どもの発達をきちんと保障することです。保育は、もちろん子どものためにあるのであって、保育者のためでも環境のためでもありません。したがって、保育の質は、子どもが環境に関わって経験している質を高めることある、と言えます。そのために、私たち保育者は、どんな環境を用意すれば、子どもがそれに関わって経験する質が変わるのかを、見極めていく力量が問われることになります。

その力量を身につけるためには、環境のあり方について、望ましい指針が必要です。私たちの法人が創り上げたものが「見守る保育10か条」です。その一つひとつを確認し、さらにその理解に基づく実践事例を確認しました。子どもは時間の経過とともに変化します。しかし経験する内容によって、よく育ったりしなかったりします。例えば優れた遊びや生活がある環境と、例えば何もない空っぽの空間で何もしないで過ごすことでは、子どもの発達に大きな差が生じます。私たちは、子どもの姿を見るとき、どんな経験でどのように変化したのかを見極める力が求められます。

ちょうど、今日のわらすのブログで、Bブロック遊びの様子を見て、過去の遊びの姿との変化への気づきが書かれています。ブロック遊びの中に、過去の体験で記憶に残っている表象が再現されていることがわかります。体験があるからこそ、その効果が遊びの姿の中に現れ、体を使ってトンネルになったり(健康)、子ども同士の関係にも(人間関係)、ものとの関わりにも(環境)、言葉でのやり取りも(言葉)、表現される姿も(表現)、変わっていることを見てとることができるのです。

また子どもの体験は、先生たちによって生じるように計画されていくわけですが、午後からは来年度の保育方針を話し合いました。例えばバス遠足を計画しなければ、木場公園での遊びが生まれないわけですが、私たち職員だけでは生じさせることができない子どもの体験があります。鬼ごっこの遊びをもっと楽しくなるように工夫したり、バリエーションを増やすために、その専門家からアドバイスをもらいます。そこで鬼ごっこ協会の羽崎さんにも、参加してもらいました。またもっとダンスを楽しむために青木さんとは、ダンスと学びの関係を語り合いました。また睡眠の質を高めるために永持さんにも参加してもらい、SDG’Sの食育を作り出すために、レストランを経営している鳥海さんとも今後のプランで合意しました。

職員が保育についての学びを深めるということは、子どもの経験の質を高めること、経験の幅を広げることに結びつくようにします。子どもの体験が発展したり深まったり豊かになったりするとは、一体、どんなことを言うのか。そのことを常に考えながら、保育の三角形を考えていくことになります。この三角形は保育の質が生まれる場所です。ここで目に見えないものが生まれ、動き、成長しているのです。見えないものを捉えるという保育は、面白くもあり、難しくもあるのですが、それを積み重ねがら、見ているものは、子どもたちの笑顔です。保護者の皆さんと、子どもの育ちを一緒に喜び合いたいと思います。

15日は充実した研修日になりました。ご協力いただき、ありがとうございました。

すいすい「ブレーメンのおんがくたい」

2021/12/23

私は、社会の中で大人になるというのは、自分の意見をしっかりもつ、ということと同時に、他人の意見もしっかり受け止めるという両立や合意や共生を創り上げていくことだと思っています。保育所保育指針や幼稚園教育要領の教育のねらいにこうあります。「他の人々と親しみ、支え合って生活するために、自立心を育て、人と関わる力を養う」(人間関係)。人は協力するために自立するのです。

現代の社会の大きな課題の一つは、このデモクラシーの危機と直面していることです。保育園生活といえども、立派な人格を持った一人ひとりの子どもたちが、大人と一緒に創り上げていく生活ですから、その生活の中には、意見の調整という力の育ちも期待されています。何かを創り上げていく中で、そうした営みに、どれだけ一人ひとりが「参画」できているかが、保育の大きな焦点になります。

人間関係が発達していくというのは、このような力が引き出されて育っていくような集団になっていくことを意味します。すいすい組という小さなコミュニティが、どのように成長してきたか、そこを感じてもらえたら嬉しいです。

ですから、まず、好きなお話がそれぞれあって、どれにするかを自分たちで決めることができたところに、とても大きな発達の意味を感じます。

以下、担任が見とった言葉を紹介します。公開動画のイントロダクションから、引用したところは<  >で表します。

<数冊ある絵本との出会いから始まった話し合い>。テーブルには「おおさまとこどもたち」「ブレーメンのおんがくたい」が乗っていますが、実は「スイミー」も候補になっていました。

<子どもたちが元々知っている絵本もあれば、新しく見た絵本もある中で、話し合いが始まりました。初めは「ぼくは、わたしは、これがいい」と自分の意見を伝え合うだけだったのが、話し合いの途中から。「どうやって決めようか?」「どうしてこれがいいの?」「やりたい役はどれ?」と相手の気持ちを引き出すやりとりが始まりました。ただ、そうはいってもなかなか決まらず、「こっちの絵本で◯◯役をやりたい」と、話し合いは1時間続きました。そんな中、子どもたちの中で意見をまとめる役が生まれて、一人ひとりの気持ちを聞き、譲ってあげる子がでてきたり、提案する子が出たりして、劇遊びは「ブレーメンのおんがくたい」に決定しました。>

まず、ここが素晴らしいですね。決まるまでの過程に大きな成長を感じます。

さらに、すいすい組(5歳児クラス)の劇遊びを見ていると、劇が仕上がっていく過程で、子ども自身がその面白さを発見してくことプロセスが伝わってきます。

<台本を見ながら読み合わせをしたり、自分の役の台詞を何度も練習したり、練習する時間は少なかったですが、すいすい組みんなで協力しながら取り組んできました。練習が終わると「またやりたい!」とアンコールが出るほど、子どもたちは楽しんでいたようです。友だちと一緒にいう台詞、一人でいう台詞、それぞれの表現で楽しんで出来たと思います。>

関係性の発達として、付け加えるなら、子どもたちは保護者の皆さんに録画して見られる、ということを知っていますから、「よく演じる」という意識も感じられます。その場合の「よく」ということは、本人たちは、それこそ「よく」は、わかっていないのですが、それでも「見られる自分」ということから「演じる」という役者的な振る舞いが感じられるところが少しありました。

またナレーターも登場したり、台詞も随分と長いものになっています。らんらん組の時に「人生は旅に例えられる」という話をしましたが、この「ブレーメンのおんがくたい」も、その典型的なお話でしょう。旅に出て知らない人と出会い、悪と闘い、守るべき価値に気づく。生きることの真実に触れている感触が、謎のようになって残るような物語。長く伝わっている神話やお話というのは、どの物語にも、行って帰ってくる幸せの場所が示されていますね。

劇遊びの世界と現実の世界。その区切りも、自分たちで「おしまい!」と宣言して、「〇〇を演じた◯◯です」と自己紹介という形で、保育園生活に戻ってきます。そして「また、やりたい!」と、子どもの本分=遊びへと帰っていくのでした。

 

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