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見守る保育(保育アーカイブ)

ウェルビーングとしての水遊び

2021/07/16

教育目標は子どもの姿で表すことが教育界の常識なのですが、保育目標も同じです。千代田せいが保育園の保育目標は「自分らしく 意欲的で 思いやりのある子ども」です。この言葉は私がせいがの森こども園時代に、作ったものですが、そのとき苦心したのは、能力主義にならないようにすることでした。どういうことかというと、発達というのは「その人らしさ」が、ありのままに発現していくことなのですが、それは環境との関係で変わってきます。これをウェルビーングといいます。私はこれを「自分らしく」と表現しました。

たとえば今日、プールに入って遊んでいる子どもたちを見ていると、バシャバシャ水飛沫をかけあったり、水に潜ったりして遊んでいました。「イルカグループ」です。

これを選んでいるのは、3歳の子も、4歳の子も、5歳の子もいました。水との関わり方が、この子たちには「合っている」ので、どの子も「自分らしく」遊べていたのです。顔に水がかからずに遊びたいなら「カニグループ」で遊べます。潜ることはないけど、顔が水に濡れるぐらいは平気なら「ラッコグループ」が合っているのです。

この3つに優劣はありません。イルカの方が何がが優れているということではありません。泳ぐことができるとか、潜れるとか、そういう「ものさし」でみれは、蟹よりラッコやイルカが「優れている」ということになります。でも蟹は早く泳ぐことができることを求められているわけではなく、蟹らしく水と共生しています。ラッコも同じです。別にイルカのように、スイスイ泳げることが水との関係ではありません。蟹らしく、ラッコらしく、イルカらしく水と共生して豊かな活動をしているのと同じように、それぞれのグループらしい遊びができるし、その遊びで得ている力も大きいのです。

人間の能力を一つの「ものさし」で比較して並べるということをしてはならないのです。人の個性は多様です。外部から期待される能力を誰もが獲得するように期待されてしまうと、その力に向いていない個性は気の毒なことになってしまいます。人間の特性は多様にできていて、その特性に向いた学びや職業を選択できるようになるとよいのです。人間の特性は、旧石器時代からの長い時間をかけて環境に適応して進化してきた脳と身体の賜物です。その特性はそう簡単に変わるものではありません。

しかし、現代の生活環境は、人工的に激しく変わりすぎました。自然の産物である人間に、その特性に合わないような生活環境を押し付けてはいけないのですが、残念なことにそうなってしまいました。現実はこの200年の間、産業革命以降にできた工場労働者の「能力」を評価して選別するために始まった「学校」での学力評価は、今でも形を変えて「産業界」が「ものさし」に影響を与え続けています。まだ「自分らしく」に合った学びの環境を取り戻していません。

私たちが生命体である以上、そこには「意欲」があって、それが働くように生きることが幸せな人生に通じます。意欲的であるということは、生き生きとした生命の躍動ですから、そうなることは能力主義ではありません。誰もがもともと持っているものを発現することです。そして「思いやり」は、まさしく個人の能力に還元するものではなく、他者がいて初めて自分が成り立つような関係です。思いやりは、本来、個人的な能力として測定することはできないものです。個人の能力ではなく、関係の質の発達と捉えるべきものなのです。

発達障がいにしてもそうです。多動性は活動性が高いと思えばよく、衝動性は瞬発力が高いということです。スポーツ選手や起業家には、そのような個性の人がたくさんいます。先日、家具メーカーの株式会社ニトリの創業者である似鳥昭雄さんが「最近、私はADHDだということがわかった」とテレビで話していました。私がよく知っているIT関連の社長もADHDです。探究心が求められる研究者や科学者には、こだわりの強い特性を持っている人が成功しています。脳と身体に合っていない環境とのミスマッチ。このデザインをし直すことが、本来の教育改革でなければならないのですが、残念ながら、そうしたウェルビーングの視点からの教育改革は始まる気配がありません。

 

 

かたつむりくんのうんち

2021/07/13

今日のテーマは見守る保育の「見る」の意味です。

今日のちっち・ぐんぐんのブログを紹介します。顔の写っている写真を外し、名前をイニシャルに変えました。どうしてこのブログを紹介したいのかということは、最後に説明します。

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牧野先生が、ちっちぐんぐん組に かたつむりを連れてきてくれました。
箱をのぞきこんでみんなで観察です。みんな何やら思い思いにおしゃべりしながら眺めています。
・・・と、透明のフタの部分に、なんだか黒いものがついているのを見つけた子どもたちです。

「かたつむりのうんちかもね〜」と話していると、Sくんが早速ティッシュを持ってきました。

そして、ゴシゴシ。

続いて、Aちゃん、Rちゃんも…。

かたつむりのうんちがついていたのは、フタの裏面なので、どれだけ拭いても取れないのですが、それでも、一生懸命拭こうとする姿と、ティッシュで拭いてあげようという その発想がかわいらしい、ぐんぐんさんでした。

7月13日の「ちっち・ぐんぐん」ブログより

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どうして、このブログを紹介したいのかというと、こんなことを感じるからです。

「一生懸命拭こうとする姿と、ティッシュで拭いてあげようという その発想がかわいらしい」

この子どもたちの一途さや健気さ。可愛いですよね。

それにしても、そこまで一生懸命になるのはどうしてなんでしょう?

この行動を支えている心の原動力は、生き物へのケアです。

子どもらしい発想の中に、ケアリングが見えるのです。

かたつむりくんへの愛情、気遣いというものが、ここには息づいているのです。

大人になってしまったらできない(やらない)行動です。

私たち大人が、このような子どもの「心の動き」をキャッチできるかどうか。

こんなところに成長を感じることができるかどうか。

こんな視線で子どもがやろうとしている行為をちゃんと見とっていくこと。

これが「本当はどうなんだろう」を大切にしていく保育精神です。

ちょっといい話

2021/07/09

例によって朝の運動遊びのことでした。

やったー、園長ライオン、やろう!とはしゃいでいる子たち。上履きと靴下を脱いで、手を洗って、とせっせと準備をはじめました。

やっていい?という声に「どうぞ」というと、ネットやクライミングやトランポリンに一目散です。これ低くして!と、ネットを低くして欲しいという要望にもはいはい、と答えていたら・・

内線電話で「園長先生、お客さんです・・」。

わっ、このタイミングか・・どうしようかな、というわけでみんなに声をかけます。

「みんな、ちょっと大事な話があるから聞いてくれるかな」と言っても、始まったばかりの運動に夢中で通じません。そこで急いでいたので、少し大きな声を出して「強く言いたくないから、ちゃんと聞いてほしい」というと、遊びをやめて私の周りに集まります。シーンとしています。

えらい!内心「すごいね、みんな、やる気満々だから、聞くべき時はちゃんと話を聞くことができるようになったんだなあ」と感心していたら、その時です。

シーンとしている輪の中へ、経緯を知らないKちゃんが鼻歌まじりに、無邪気にらんらん気分で入ってきて遊び始めたので、一瞬「ん!」となったのですが、Kちゃんが自分が場違いなのに気づいた様子がおかしくて、みんな笑い出したのでした。

こんなことあると、ほのぼのとして幸せな気分になります。

映画のワンショットにしたいような出来事でした。

ごっこ遊びは「勉強であり復習である!」

2021/07/05

遊びの中には、物を何かに「見立て」たり、自分が何かになった「つもり」になったりと、「ごっこ遊び」がたくさんみられます。積み木が自動車に見立てられたり、その子がウルトラマンになったりしています。その時、子どもたちの頭の中にはその自動車がウルトラマンのイメージが躍動しているのですが、その再現をになっている積み木や子ども自身は、実物の自動車でもウルトラマンでもない「代役」です。これを「表象」といいます。「実物〜イメージ〜表象」の三項関係です。この表象のところには「言葉」でもいいのです。言葉も実物の代わりに指し示す表象なのです。

といったことを大学で説明しているときに、あることに気づきました。子どもにとっての自由遊びは、ほとんとの時間が何かの再現遊びになっているので、実際にリアルな体験よりも、はるかに豊かな経験になっているということです。お店屋さんごっこ、キャンプごっこ、腹べこあおむしごっこ、歯医者さんごっこ・・・数え切れないほどの「ごっこ遊び」が至るところで毎日、繰り広げられています。そのごっこ遊びの最中に、子ども同士の対話もあって、言葉を使ってコミュニケーションをとったり、見立てているものを友達に説明したりと、多くの学びが発生しています。

ごっこ遊び(再現遊び)は、社会的経験の再現であり、縮図です。もし子どもたちが「ごっこ遊び」をしなかったら、社会性の獲得は覚束ないものなってしまうでしょう。例えば、買い物ごっこ、家族ごっこ、お医者さんごっこなどの様子を見ていると、そこでの子ども同士のやりとりは実に豊かで、あたかも実際に起きているかのようです。しかし実際に受診した時にしか体験できないとしたら、経験の量はほんの少ししかないはずです。ごっこ遊びは、限られた実体験を種にして、遊びの中でその体験を広げ、深め、発展させ、活用しているのです。その子どもは学んだこと、知ったことを話したがるし、色々な遊びで再現します。ある子は絵を描いたり、ある子は積み木で建造物を作ったり、そしてごっこ遊びになったりします。いずれの場合も表象活動、ブリコラージュしていることになるのです。

そう考えると、子どもの自由遊びは学んだことを復習しているとも言えます。再現することは学び直しであり、振り返りであり、勉強したことの復習をして知識を定着させていることになるのです。遊びは、学びであり、反芻であり、再現であり、復習にもなっているのです。遊びでありながら勉強の復習と同じだと思うと、もっと自由闊達に「ごっこ遊び」や「再現遊び」を楽しめるようにしてあげたいと思うのです。

わらべうた

2021/06/28

園だより7月号「巻頭言」より

見えないものだけど、存在するものが色々あります。心の動きもそうですが、子どもが何を体験しているのかということもそうですね。そして保育は環境を通して行うのですが、そのポイントとして、体験のなかに渾然と隠れたまま取り扱われることが大切なものが多いです。渾然と隠れたままのものとは、いろいろですが、それが子どもに気づかれることなく、しかし、大切なものが子どもの心と体に染み込んでいくような体験です。

たとえば、わらべうた。「いっぽんばし こちょこちょ」を、ぐんぐんの先生が楽しんでいました。

♪いっぽんばし こちょこちょ すべって たたいて つねって かいだん のぼって コチョコチョ

皆さんもやったことありますよね。赤ちゃんたちにやると大好きです。私がみていた時は、ぐんぐんの子たちが、「やって〜」と先生にせがんでいました。自分から横になって、手じゃなくて足も差し出していたから、可愛くて吹き出してしまいましたが。わいらんすいでも、きゅうりの収穫が始まった頃、♪きゅうりができた、〜しおふってパパパ〜さあ、食べよ〜 を楽しんでいました。大きなきゅうりの手触りや重み、味を体験しながらの遊びですから、それもまた豊かなイメージが頭の中で動いていて、とても楽しそうでした。一見、どれも他愛のない、ちょっとした遊びなんです。

こんなわらべうたですが、この遊びによって子どもたちに「渾然と隠れたまま伝わっていくもの」があります。それは、ミソラシだけでできた狭い音域、4拍子で歌いやすいリズム、日本語のイントネーション、高めのピッチといった音楽的要素を体感しています。わらべうたは、大人やお友達との「触れ合い遊び」でもあるのですが、心も体も同じイメージや感触を共有していく体験にもなっていて、意味や概念でつながるのではなく、感覚や気持ちでつながりあうことで、共感を支えています。わらべうたの触れ合い遊びは、共感する心の、その基礎みたいなところを、せっせと豊かに耕しているのです。心がふっくらと、柔らかく、優しい、包容力とユーモアが育つ心の土壌を作っているかのようです。

 

べつに先生も子どもも、「はい、わらべうたをやりましょう」なんて思っていません。ただ、平安時代や江戸時代に生まれた童(わらべ)の謡(うた)遊びは、その前の時代の日本書紀にも「童謡(わざうた)」と表記されていて、長い歴史があります。受け継がれてきたものには、時代を超えた普遍的な力が備わっているのでしょう。◯◯活動とか、◯◯遊びという名前のあるものではなく、生活に溶け込んだような見えない体験の中に、実に豊かな保育力が見出されるのです。

クイズが好きな子どもたち

2021/06/24

コロナ対策もあって今日の6月の誕生会も各クラスで開いたのですが、345歳児クラスのわいらんすいでは、「シルエットクイズ」を楽しみました。

クイズの内容は形から連想するものですが、それぞれの経験値と形が言葉と結びついて「はい、はい、はい」と手が挙がります。

この頃の子どもたちにとって、なぞなぞ、やクイズは言葉の獲得と拡大にもってこいの活動になります。

おたまじゃくしやてるてる坊主など、梅雨らしいモノから始まって、屋形船やダンゴムシなども当ててしまうのは、子どもたちの生活経験の広さを想像できました。

 

今年度1回目の歯科健診

2021/06/23

今日の朝「今日は歯医者さんが来るんだよね」と年長のMKさんがニコニコと言います。歯医者さんが来るのを楽しみしている子なんて、長い園生活で記憶にありません。それくらい、園児も自分から「あ〜ん」と口を開ける子が多いのです。山本歯科さんのなせる技、お人柄というものが、こんな形で現るのですね。

というわけで、今日は今年初めての歯科健診がありました。当園の保護者の方はデンタルIQが高く、多くの方が仕上げ磨きをしているので虫歯も少ないです。日頃の心がけで大きく変わるのが歯の健康です。この調子で今後もよろしくお願いします。

 

千代田区が保育園と小学校のつながりについて研究会

2021/06/23

今日23日(水)は午後から、千代田区立いずみこども園・和泉小学校で「令和3年度保・幼・小合同研修会」が開かれたので参加してきました。この研修会は保育園や幼稚園、こども園にいる子どもたちが、それぞれの発達にあった生活と学びができるように、その連携のあり方を探るものです。小学校としては和泉小学校、幼児教育施設としては神田保育園といずみこども園が実施した連携活動を事例として検討しました。参加者の討議はなかったのですが、リモートによる授業参観と3園校からの実践報告を踏まえて、無藤隆(白梅大学名誉教授)さんの講演が行われました。

保育園と小学校の間には、いろいろな溝やハードルがあるのですが、その溝が深く大きく見えるのか小さく浅く見えるのか、あるいはハードルが高く見えるか低く見えるか・・それはそれぞれです。しかし、溝やハードルを過大に捉えるのは間違いです。正しく認識していただきたいことは、無藤隆先生の次のような言葉です。

「間違っていただきたくないことは、幼児教育を小学校教育に置き換えるとか、近づけるということではなく、乳幼児期と小学校教育とで、それぞれふさわしいことをやることをやることが大事だ、ということです」

小学校でやることを先取りして行うことではなく、それぞれの子どもにあった、発達にあったことをその時期にふさわしい体験をしておくということになります。千代田せいが保育園の保育には、「国語のはじまり」や「算数のはじまり」をはじめ、小学校以降の生活や学びで困らないような「資質・能力」を育む経験が生活の中に埋め込んであるのですが、その仕掛けや意味を関係者に可視化していくことが必要な時代になってきたようです。

かなり前から、この幼児教育と小学校教育の連携については、幼小連携という言葉で実践されてきたのですが(このテーマで、ずいぶん昔、本に実践を寄稿しましたが)どうも千代田区は始まったばかりのようです。まだ教員同士の交流もないですし、カリキュラムの連携もできていません。ましてや、子ども一人ひとりの発達と学びの連続性を保障する「つながりの仕組み」も制度化されておらず、それぞれの立場に任されているのが現状です。

ただ、学習指導要領と要領・指針などは整合性が取れているので、その内容をしっかり理解して実践していれば、子どもたちが困ることはあまりないので、今日のような研修会はとても大切です。それぞれがなさなけれはならないことが明確になるからです。そういえば、今日の夕方、この春卒園した1年生がお母さんと挨拶に来られました。小学校も学童も楽しいそうです。このような子どもの姿から作り上げていくつながりが、連携の最も大切な軸になると思います。

 

大笑いで始まる1日に

2021/06/22

子どもと大人の違いはいろいろあるけれど、笑顔が好きなのは同じです。しかも朝から大笑いできると、1日が幸せになるような気がします。この日記で朝の運動遊びの話題が多いのは、それが私の当番だからですが、それよりもこの時間が楽しいからです。子どもたちが、おなかの底から笑っている時が特に楽しい。当たり前と思うかもしれませんが、みなさん、朝から大笑いしていますか。大笑いで始まる毎日って、素晴らしいんじゃないでしょうか。

大笑いの発端は、なんてことはない、些細なことです。

今朝のつもり遊び運動は「はたらく車」ごっこでした。タクシーやパトカーや救急車になって、道に見立てた緑のマットやジャバラでできたトンネルを四つん這いで「走り」ます。

しばらくすると、電車が通ることになって、道路を横切る線路ができました。そこで「誰か踏切やってくれないかなあ」というと、我も我もと、踏切だけが4つも5つもできて、それぞれが「カンカンカン」とやり始めます。開かずの踏切です。クルマは一向に走れません。

私はお客さんを乗せたタクシーだったのですが、「これじゃいつまで経っても踏切を渡れないなあ」というと、Mさんが「じゃあ、いっしょに(踏切を)開けよう」と側の友達に呼びかけると、「いちにのさん」で踏切が一斉に開きました。よし、これで通れるぞ、と渡り始めると、踏切がなぜが一斉に電車になって私の方へ走ってきます。団子状態です。それがおかしいらしく、やるたびに笑い転げています。

子どもからすると、開けたふりをして私を騙して喜んでいるような事態なのですが、まあ、それがいたって面白いらしい。

なんとも他愛のない遊びですが、こんなことが子どもは楽しくてしょうがないのです。子どもは体と心が一体です。こんなじゃれつき遊びが楽しいときに、たっぷり楽しんでおくことが、小学校以降の生活で集中力を発揮するようになるのです。

決まりの葛藤の中で学ぶ人との関わり

2021/06/21

決まりがどこまで適応されるのか、というのは、子どもにとって大問題になる時があります。自分はだめだったのに◯◯ちゃんはやっている、とかで揉める、アレです。この子どもの素朴な平等感がいつ頃、どのように芽生えてくるのかは面白いテーマなのですが、それはさておき、この手の矛盾を保育ではどう受け止めていくか? 大抵の場合は「やりたいけどやっちゃダメ」という場面で生じます。

もうお終いにして次のことをしないといけないとき。例えば今朝もありました。運動ゾーンで遊ぶには、今やっていた遊びを片付けてから移動するとか、人数が決まっているときはマグネットを移動するとか、靴下を脱ぐとか、あと好きなことを1回やって終わるとか、色々なところに「決まり」が出てきます。

子どもにとって不満が溜まるのは、自分は我慢しているのに、◯◯ちゃんは・・・というパターンです。この場合、◯◯ちゃんが、まだわいわい(3歳)だったりすると、そんなに問題になりません。まだ仕方ないよね、で年上の子どもたちには例外と共有できるからです。でも、それが同じ年齢同士になると「なんで自分だけ・・」のようになりがちです。それも余裕があるときは、自分もそうしている時があるから「お互い様」を自分にも当てはめることができるようになります。ようするに、お互いに「大目にみる」ことができるようになっていくのです。

しかし3歳ぐらい同士だと、まだそれができません。自分を高い棚の上に置いておいて「悪いのは◯◯ちゃん」で押し通すことが、この頃の自己主張なので、もう少し、育ちを待ってあげる必要があります。

こんな育ちを包み込むためにも、兄弟関係のような異年齢関係は、クッション材のように、年上の子が間に入ったり、それをそっとそばで見守ってあげたりすることがあります。そんな子は、どの子にもとても人気があります。子どもの中での気遣いは、子供同士でも心が通い合うもので、その紳士的な子はモテるようになります。また子ども同士にも信頼関係というものの濃淡があって、その不平等感を、周りの大人が同じように扱おうとしても、それはまたうまくいくものではありません。人間関係や信頼関係は、「育つ」ものだからです。子どももたちは、決まりをめぐる葛藤の中で「人と関わるスキル」を培っています。これも大事な経験ですね。

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