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見守る保育(保育アーカイブ)

千代田区が保育園と小学校のつながりについて研究会

2021/06/23

今日23日(水)は午後から、千代田区立いずみこども園・和泉小学校で「令和3年度保・幼・小合同研修会」が開かれたので参加してきました。この研修会は保育園や幼稚園、こども園にいる子どもたちが、それぞれの発達にあった生活と学びができるように、その連携のあり方を探るものです。小学校としては和泉小学校、幼児教育施設としては神田保育園といずみこども園が実施した連携活動を事例として検討しました。参加者の討議はなかったのですが、リモートによる授業参観と3園校からの実践報告を踏まえて、無藤隆(白梅大学名誉教授)さんの講演が行われました。

保育園と小学校の間には、いろいろな溝やハードルがあるのですが、その溝が深く大きく見えるのか小さく浅く見えるのか、あるいはハードルが高く見えるか低く見えるか・・それはそれぞれです。しかし、溝やハードルを過大に捉えるのは間違いです。正しく認識していただきたいことは、無藤隆先生の次のような言葉です。

「間違っていただきたくないことは、幼児教育を小学校教育に置き換えるとか、近づけるということではなく、乳幼児期と小学校教育とで、それぞれふさわしいことをやることをやることが大事だ、ということです」

小学校でやることを先取りして行うことではなく、それぞれの子どもにあった、発達にあったことをその時期にふさわしい体験をしておくということになります。千代田せいが保育園の保育には、「国語のはじまり」や「算数のはじまり」をはじめ、小学校以降の生活や学びで困らないような「資質・能力」を育む経験が生活の中に埋め込んであるのですが、その仕掛けや意味を関係者に可視化していくことが必要な時代になってきたようです。

かなり前から、この幼児教育と小学校教育の連携については、幼小連携という言葉で実践されてきたのですが(このテーマで、ずいぶん昔、本に実践を寄稿しましたが)どうも千代田区は始まったばかりのようです。まだ教員同士の交流もないですし、カリキュラムの連携もできていません。ましてや、子ども一人ひとりの発達と学びの連続性を保障する「つながりの仕組み」も制度化されておらず、それぞれの立場に任されているのが現状です。

ただ、学習指導要領と要領・指針などは整合性が取れているので、その内容をしっかり理解して実践していれば、子どもたちが困ることはあまりないので、今日のような研修会はとても大切です。それぞれがなさなけれはならないことが明確になるからです。そういえば、今日の夕方、この春卒園した1年生がお母さんと挨拶に来られました。小学校も学童も楽しいそうです。このような子どもの姿から作り上げていくつながりが、連携の最も大切な軸になると思います。

 

大笑いで始まる1日に

2021/06/22

子どもと大人の違いはいろいろあるけれど、笑顔が好きなのは同じです。しかも朝から大笑いできると、1日が幸せになるような気がします。この日記で朝の運動遊びの話題が多いのは、それが私の当番だからですが、それよりもこの時間が楽しいからです。子どもたちが、おなかの底から笑っている時が特に楽しい。当たり前と思うかもしれませんが、みなさん、朝から大笑いしていますか。大笑いで始まる毎日って、素晴らしいんじゃないでしょうか。

大笑いの発端は、なんてことはない、些細なことです。

今朝のつもり遊び運動は「はたらく車」ごっこでした。タクシーやパトカーや救急車になって、道に見立てた緑のマットやジャバラでできたトンネルを四つん這いで「走り」ます。

しばらくすると、電車が通ることになって、道路を横切る線路ができました。そこで「誰か踏切やってくれないかなあ」というと、我も我もと、踏切だけが4つも5つもできて、それぞれが「カンカンカン」とやり始めます。開かずの踏切です。クルマは一向に走れません。

私はお客さんを乗せたタクシーだったのですが、「これじゃいつまで経っても踏切を渡れないなあ」というと、Mさんが「じゃあ、いっしょに(踏切を)開けよう」と側の友達に呼びかけると、「いちにのさん」で踏切が一斉に開きました。よし、これで通れるぞ、と渡り始めると、踏切がなぜが一斉に電車になって私の方へ走ってきます。団子状態です。それがおかしいらしく、やるたびに笑い転げています。

子どもからすると、開けたふりをして私を騙して喜んでいるような事態なのですが、まあ、それがいたって面白いらしい。

なんとも他愛のない遊びですが、こんなことが子どもは楽しくてしょうがないのです。子どもは体と心が一体です。こんなじゃれつき遊びが楽しいときに、たっぷり楽しんでおくことが、小学校以降の生活で集中力を発揮するようになるのです。

決まりの葛藤の中で学ぶ人との関わり

2021/06/21

決まりがどこまで適応されるのか、というのは、子どもにとって大問題になる時があります。自分はだめだったのに◯◯ちゃんはやっている、とかで揉める、アレです。この子どもの素朴な平等感がいつ頃、どのように芽生えてくるのかは面白いテーマなのですが、それはさておき、この手の矛盾を保育ではどう受け止めていくか? 大抵の場合は「やりたいけどやっちゃダメ」という場面で生じます。

もうお終いにして次のことをしないといけないとき。例えば今朝もありました。運動ゾーンで遊ぶには、今やっていた遊びを片付けてから移動するとか、人数が決まっているときはマグネットを移動するとか、靴下を脱ぐとか、あと好きなことを1回やって終わるとか、色々なところに「決まり」が出てきます。

子どもにとって不満が溜まるのは、自分は我慢しているのに、◯◯ちゃんは・・・というパターンです。この場合、◯◯ちゃんが、まだわいわい(3歳)だったりすると、そんなに問題になりません。まだ仕方ないよね、で年上の子どもたちには例外と共有できるからです。でも、それが同じ年齢同士になると「なんで自分だけ・・」のようになりがちです。それも余裕があるときは、自分もそうしている時があるから「お互い様」を自分にも当てはめることができるようになります。ようするに、お互いに「大目にみる」ことができるようになっていくのです。

しかし3歳ぐらい同士だと、まだそれができません。自分を高い棚の上に置いておいて「悪いのは◯◯ちゃん」で押し通すことが、この頃の自己主張なので、もう少し、育ちを待ってあげる必要があります。

こんな育ちを包み込むためにも、兄弟関係のような異年齢関係は、クッション材のように、年上の子が間に入ったり、それをそっとそばで見守ってあげたりすることがあります。そんな子は、どの子にもとても人気があります。子どもの中での気遣いは、子供同士でも心が通い合うもので、その紳士的な子はモテるようになります。また子ども同士にも信頼関係というものの濃淡があって、その不平等感を、周りの大人が同じように扱おうとしても、それはまたうまくいくものではありません。人間関係や信頼関係は、「育つ」ものだからです。子どももたちは、決まりをめぐる葛藤の中で「人と関わるスキル」を培っています。これも大事な経験ですね。

第55回保育環境セミナー 空間的環境(後編)実践から学ぶ

2021/06/19

今日は第55回保育環境セミナーの2回目が開かれました。今年度の一貫したテーマは「環境を通した保育」の環境についてですが、5月と6月はその中の「空間」についてです。前回の藤森先生の講義による理論篇に続き、今日は実践編となります。(1回目は5月29日の園長の日記を参照ください)参加者は会場参加の他に、オンラインで北は青森から南は沖縄まで、98施設述べ130名以上の参加者がありました。今回の司会は私がしました。

実践事例は、藤森先生が最初に創った八王子市の「省我保育園」(1978年開園)と、私が2018年までいた「せいがの森こども園」(1997年開園)の二つです。新宿せいが子ども園の森口先生による楽しい報告になりました。

保育環境は空間や物や人が含まれるわけですが、人だけは相互作用が特別なので人的環境は意味づけが異なります。また今回の空間も、室内も戸外も自然環境も宇宙もいわば全ての空間世界が含まれるわけですが、保育の場合は子どもにとっての生活圏、と考えます。具体的な生活の中での行動範囲と捉え直し、その動線の中での出会いをデザインします。

そうすると、園舎内だけが生活圏ではなく、散歩先や戸外活動の行き先も「空間としての保育環境」となります。その事例として2つの園を事例から振り返ってみると、要点は子どもにとっての「生活の場」として、どんな体験ができるような空間設計になっているか、ということです。思わず遊びたくなるような、子どもが主体となるような生活ができること。そこには一人一人にとって大切なこと、子ども同士の関わりが生まれるようなものが大切になります。

保育所保育指針には次のような4事項が「保育の環境」の留意点になっています。

ア 子ども自らが環境に関わり、自発的に活動し、様々な経験を積んでいくことができるよう配慮すること。

イ 子どもの活動が豊かに展開されるよう、保育所の設備や環境を整え、保育所の保健的環境や安全の確保などに努めること。

ウ 保育室は、温かな親しみとくつろぎの場となるとともに、生き生きと活動できる場となるように配慮すること。

エ 子どもが人と関わる力を育てていくため、子ども自らが周囲の子どもや大人と関わっていくことができる環境を整えること。

この4つの留意点を具体化したものを再確認しました。

みずみずしい「きゅうり」たち

2021/06/16

屋上で育てていたキュウリの収穫が昨日から始まっています。

そして今日は、その収穫の体験が、運動遊びになっていました。

このネットや壁にぶら下がっている子どもたちがキュウリです。

収穫されると、寝転がって、お友達がわらべうたを歌って、料理して食べます。

 

♪ キュウリができた キュウリができた キュウリができた さあ食べよ

♪ 塩ふって パパパ 塩ふって パパパ 塩ふって パパパ パパパのパ

♪ 板ずり キュッキュキュ 板ずり キュッキュキュ 板ずり キュッキュキュ キュッキュキュキュ

♪ トントン 切ってね  トントン 切ってね  トントン 切ってね

「いただきます」

(と言って、食べる真似をするが、くすぐったくて楽しい)

この遊び、とても優れていて、いろいろと効果満点なんです。

まず、一つはなりきり遊びなので、とにかく子どもがやりたがります。

どうしてこんなに子どもは模倣が好きなのか、謎ですね。

生き物としての人類の大いなる謎です。

これまでも、お楽しみ会の時に、模倣遊びについては散々お伝えしてきましたが、やっぱり謎です。

そして、なんと言ってもスキンシップが効果テキメン! 何に?というと

子どもたちの性格が落ち着いて、優しくなるんです。

イライラしやすい、落ち着きがない、といった気質が落ち着いて、フレンドリーになっていきます。

家でも抱っこしたり、頭を撫でてあげたり、スキンシップはたくさんとってくださいね。

ふれあいは人間関係を作っていく基本中の基本作法ですから。

そして、もう一つ、再現された遊びの中で、身体が心と一緒に嬉しいと感じる遊びだということです。

感触遊びのメリットと同じです。子どもは身体と心がくっついているので、一緒に躍動するといいのです。

身体と心を分けるような、頭で考えさせて、お行儀のいいことをさせていくと、心と体が分離してしまい、支障をきたすことが多いことは昔から言われています。想像力豊かな生命力が乏しくなって、こじんまりとした、聞き分けのいいお子さんになっていきます。クリエーティブなことができなくなるでしょう。

一方で、自由遊びの中で、自由に心と体を躍動させていくものは、子どもの発想を豊かにしていきます。自身の身体の反応が「心地よさ」として心に響いて返ってくるのですから、なりきり遊び自体がアート活動になっているのです。

アートというのは、世界の再現なのですが、この場合、自身の身体がキュウリという世界を再現していて、その表現の楽しさを心が味わっているのです。

意図して何かを表したら、あるいは結果的に表されたものを意識したら、いずれもその表現されたものはアートと言えるのですが、今日はその典型的な遊びが運動ゾーンで展開されていました。実に楽しそうでした。

余談ですが、こんな栽培、収穫、調理、見立て遊びという一連の活動は、ここまでが食育で、ここからが運動で、ここからがアート活動で、と言った風に分けることなんてできません。

 

 

6月の最初の週を振り返る

2021/06/05

この日記を読んでくださっている方は、時々、週末の日記がその週の反省になっていることに気づかれていると思います。反省といっても「ごめんなさい」ではなくて、ああしたけど、本当はこうした方がよかったかなあ、とか、ああ言ってしまったけど、本当はこう言った方が良かったかなあ、とか反省しているわけです。それは週末に改めてやっているというよりも、その直後やその日に思ったり、感じたりしているのですが、それを改めて思い巡らす時間がやってくるのです。

疲れていると、それさえも億劫になってしまいます。反省も元気な時でないと人はできないものです。子どもが叱られて「反省しているの!」と言われることありますが、そんな時、子どもも反省していません。そう言われるから「はい」と言っているだけのことが多くて、本当の反省は、自分から「これこれこうだったから、これからはこうしなくっちゃ」決められた時です。ましてや気持ちが凹んでいる時は、できるものではありません。「だって、こうだったんだもん」が胸いっぱいだったり、思わず「イラッとしてやってしまった」自分への情けなさや、不甲斐なさや、怒られていること事態が心を硬くしてしまっていることもあります。

反省も前へ一歩進めて考えること、気持ちを自分で前へ動かすことですから、いい悪いの判断が「理解」できても、心と体が前向きによくしようと動き出すとは限りません。ちょっと脱線しますが、多くの人は心と体は別物だと思っているのですが、違います。多くの人は体を目に見える部分だと思っています。あるいは感じ取れる部分だと思っています。目に見えない部分や感じ取れない部分は、説明されないとそこも体だと思っていません。

心はみんな「ある」と思っているのですが、どこにあるのですか?と聞かれたら、まともに答えられる人はあまりいません。胸に手を当てたり、頭の中の脳だという人もいます。でもよく考えてみて欲しいのですが、私たちの心身は、私たちがデザインして作ったものではなくて、大いなる自然からの贈り物です。体も心も自然に属しているということを認めてもらえると思います。そしてその心身は、物として見えたり実感できる部分を「からだ」とよび、目に見えない心身の部分を「こころ」と区別してしまっているのです。本来は、精子と卵子が受精して受精卵が分裂を始めて以来ずっと、心身は同じ物であり、分かれていないものでした。

と、道草はここまでで、話に戻ってくると、反省して自分で考えも行動も動き出すには、この心身共々が一緒に動き出すことなのです。心の方だけを「理解」させて正しい行動をさせようとしても、からだの方が納得していない、ということが多いのです。からだの方というのは、カッとなりやすい、気が散る、落ち着きがない、寝不足である、睡眠リズムが乱れている、動物性タンパク質の過剰摂取が感情の不調をもたらしている・・・いろいろなトラブルを抱えていたりして、からだの方のコンデションが悪くて、心が憂鬱になったり、気分が滅入ってしまったり、我慢強さが発揮できなかったりします。

頭で理解できたからと言って、心身がバラバラだとうまくいかないのです。心身はもともと同じ物です。ちょうど、子どもが言葉を獲得する頃に、自分というものを認識できるようになっていくのですが、なぜが人間だけが自分を自分だと(客観視して)認識できる「自我」を持つので、こうやって私も反省ができるのです。

そして、それを精神というのですが、それが心だと勘違いしている人がとても多い。今思ったり、考えたりしていることは精神がやっているのですが、実際に鬱症状になったり、人に会いたくなかったり、人にあたり散らかしたり、世の中を恨んだり、理由もなく人生に焦ったりしているのは、本来は一体である心身の不調かもしれません。

目で見える体の方は、物に還元して治療を試みる近代医学(漢方も含む)に任せるとして、もう一つの目に見えない身体である心の方も、治療としてもメンタルケアが必要なのです。その二つがセットで健康であることが、人生に前向きな態度を生むことになるのでしょう。心の不調の方は、目に見えにくいので、発熱のような症状にならない限り、正しく受け止めてもらえにくいという事情があります。あたかも反抗的だとか、決まりを守らないとか、甘えているとか、誤った判断になってしまうこともありうるのです。

と、また脱線してしまったのですが、子どもの「心身=こころとからだ」が求めているものに感度よく傾聴しながら、大人は子どもにとって心の避難場所であり安全基地でありたいと思います。

運動「はらぺこあおむし遊び」の環境構成

2021/06/04

国が示している保育の基本には「環境を通した保育」という考え方があります。これは、普段私たちが生活している中で行っている「いって聞かせてさせること」と、真反対、180度異なります。

子どもの方が自ら環境に働きかけて、そこで受ける経験が発達を促す、と考えるのです。子どもが環境に働きかけるのです。大人が子どもに働きかけるのではありません。子どもの方が、思わず遊びたくなるような環境にします。そんな環境を通して保育をしてくださいというのです。

これは、幼稚園教育要領も保育所保育指針も、幼保連携型認定こども園教育・保育要領にも、その冒頭で強調しています。

この「環境を通した保育」は、千代田せいが保育園の最大の特徴です。空間も物も人も、子どもの方から働きかけてくるようにしているからです。子どもにとって、通いたくなるような、遊びたくなるような、自分の居場所になるような空間、物、人をデザインします。

昨日は朝の運動遊びで「園長ライオン」をしましたが、これは「環境を通した保育」のなかの人的環境が「園長ライオン」であるということです。それを用意してくれ!というのが子どもからのリクエストでした。

今日6月4日は、私の方で空間と物を用意してみました。それは「はらぺこあおむし遊び」です。いつものネットやクライミングだと、入りにくい子どももいるので、誰でもやりたくなるようにしました。ちっち組からトンネルを借りてきて、そこをくぐり抜けると、あおむしになります。

続く緑の3枚のマットが、みかんの葉っぱです。これを四つん這いになって、むしゃむしゃ食べながら行くと、あおむしは大きくなって、さなぎになります。そしてちょうになったら、トランポリンで飛び跳ねます。

さなぎになる場所は、ネットの上でも、クライミングウォールでも構いません。そこから降りる時が、ちょうになる時です。

こんなシチュエーションを用意してあげると、どの子もにこにこ楽しそうです。その気になって、つまり自分があおむしやさなぎやちょうになっているのです。

この「つもり遊び」は、強力です。遊びの中心には模倣、つまり再現欲求が強力に働いているとしか考えられません。その欲求を空間と物が引き出すのです。

何を引き出すのかというと象徴作用であり子どもの身体としての表象力です。「環境を通した保育」は、子どもが思わず遊びたくなるような環境を用意しなければならないわけですが、その要素の一つは、子どもがイメージしやすいものを再現するような遊びの場を作り出すことでしょう。今日はそのことを強く感じました。

久しぶりの園長ライオン

2021/06/03

今日6月3日は久しぶりに朝の運動タイムは「園長ライオン」で遊びました。何度かこの遊びは紹介しているので、ご存知の方が多いと思いますが、いくつかの大切な保育のねらいがあって、61歳の園長がライオンになって遊んであげているのですから、なんとも「見守らない保育」の最たるものだと、自覚しているわけですが、それでもやった方がいいという判断なのですから、それなりのねらいがあるわけです。

この遊びは、いってみれば、子どものセロトニン増産活動です。朝起きて光を浴びて目覚めた体が、じゃれ遊びによって活性化されます。朝、この時間があると夜の睡眠タイムに向けて起床後16時間後のメラトニン産生へと加速されます。まず、この生活リズムづくりが一つ。

次に「じゃれ遊び」であること。スキンシップの効果によって、人と人のふれあいが深まること。「抱っこ」をお願いしなくても、ライオンに捕まると抱っこされるので、それが嬉しいようです。人間も動物ですから、この皮膚と皮膚の触れ合いは極めて重要です。

3つ目は「ドキドキ感」です。捕まりたくないから逃げるという鬼ごっこと同じスリル感がたまらないようです。このドキドキ感は、前頭葉を発達させます。ワクワクとドキドキは実行機能を高める前頭葉を育てることがわかっているので、子どもが鬼ごっこや、追いかけっこをしたがるのは、その脳の機能を使いたがっていると言えます。

ちょっと脱線しますが、何かをやりたがることは大事なことが含まれているという目線で理解できることが大事なのですが、それは「自発的利用の原理」と同じです。一般になんでも能力は「使わないと伸びない」ものだからです。追いかけっこごっこが好きなのは、そのドキドキ感が脳のその部分を使っていることに他なりません。どう使っているのかというと、ドキドキして興奮させていることが、気持ちと体のエンジンをアクセルを全開にして使っているのです。

すると、今度はアクセルをふかしっぱなしではなくて、抑えないといけないタイミングがやってきます。ブレーキをかける必要が出てきます。「さあ、あと5分でおしまいの時間になるよ。あと一回やったら終わりにしよう」と必ず言います。もうすぐ終わりなんだな、と子どもたちは、ブレーキペダルを意識します。

5分が経ちました。「さあ、終わりの時間になったね。楽しかった人?」と言います。すると「は〜い」と全員が手をあげて、おしまいになっていきます。どの子も「楽しかった」と満足げです。この興奮と抑制が4つ目のねらいです。この興奮と抑制のリズムを毎朝、体験すること。これがその後の時間の過ごし方に、精神の集中と発散のリズムをもたらすのです。

取り立てて難しい遊びではなくて、ふりあそびの世界に子どもが没頭している間に、身体的な力も身につきます。バランス力、懸垂力、支持力、跳躍力(ライオンに食べらると、トランポリンを10回とぶのがルールなのです)など、いろんな力が育つことになります。この身体機能の育ちがねらいの5番目です。

まとめると、睡眠サイクル、スキンシップ効果、興奮と鎮静の脳機能、模倣遊びによる想像力、身体機能の育成、とでもなるでしょうか。他にもある気がします。色々な言葉の発達、コミュニケーション能力の育成、チームワークの育ち。たった30分ですが、面白くて意味のある30分でした。

 

さなぎの中を想像してみるように・・

2021/06/01

今日から6月ですが、大人が作り上げた生活習慣とは別の原理で、子どもの成長は止まることがありません。私たちは社会に住んでいますが、その当の私たち人間は自然界に属しています。子どももそうです。このことを、私たちは忘れがちなのですが、紛れもなく自然界の法則に従って成長(私は老化!)しています。

そんなことを思い出させたのは、年中のらんらんさんたちが見せてくれる、ある種の落ち着きです。

昨日のあの蛹は、静かにその中で、うごめいているのですが、ちょうど今、幼虫だったあおむしの頃の姿は全くなくなり、一旦、どろどろになっているのがちょうど今頃です。外から見てもその変化はわからないのですが、あと10日もすれば、あのアゲハ蝶になって蛹を破って出てきます。NHKのサイトに、もんしろちょうですが、サナギの中がどのように変化しているかの動画があります。(NHK  for School )

https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005301640_00000

 

その間の変化は、まさにミラクルなのですが、それと似たような大変化を、らんらんさんが日々行っていると思えてきたからです。わいわいの頃のあの幼い幼児の面影が、だんだん少年少女のようになっていく変化を、日々の言動から少しずつ感じます。

目に見えない変化は、実は大きな変化であって、ある時、びっくりするような姿を見えるようにしてくれます。その内面の揺れうごき、精神性の育ちは、相当に大きいもので、大きな変化を遂げるためには、蛹のような殻が必要なのかもしれません。

目には見えない、その殻の役割を言葉で表すと「そっとしておく」という役割です。関心を持って見守りますが、動かしてはいけません。人間がドロドロの状態にまでなるわけではありませんが、もしかすると、自分の中から湧き上がってくるままに楽しい、面白いと手を出しては触り、なんでも確かめていた子たちが、じっと物事を見つめ、考え始めました。周りの人と物をもう一度、確かめ直しているかのように、あるいは自分の中に位置付け直しているかのように、らんらんの子たちが、小さな哲学者のように、何やら思索的な面持ちを醸し出しているではありませんか。確実に、大いなる変化を遂げようとしているのです。

さて今月は、保育参観があります。らんらんに限らず、その年齢らしい、その子らしい育ちの姿を垣間見て欲しいと思います。園には家庭とは違う子どもたちの姿があるでしょう。違うのは当たり前です。環境が違えば見えてくる子どもの姿も変わります。そこが面白いところでもあります。参観といっても、コロナ対策のための、距離をとっていただくことになるので、思うような参観とはいきませんが、お子さんの成長ぶりを感じていただけたら嬉しいです。

第55回保育環境セミナー

2021/05/29

私たちの保育園は年間を通じて、職員の専門性を高めるための研修を実施しています。専門性の向上は、プロの保育者として欠かせない営みなのですが、大事にしていることは研修で学んだことが実践に生かされるということです。日々の生活は生活、研修は研修と繋がっていないなら、それは意味がありません。学んだことが日々の保育に生かされた初めて研修の意味があります。

そこで私たちはいくつかの工夫をしていることがあります。それはまず、誰から、あるいはどんな団体から、何を学ぶか、どんな組織からどんな内容を学ぶかというコンテンツに関わる精選の話がまず一つ。それから、学び手が学びたいという動機や意欲、何を学びたいのかという学び手の置かれている状況や文脈に即した学び方や学ぶタイミングという話があります。この二つがマッチしないと、本当にいきた豊かな研修にはならないものなのです。

この二つの学びの条件をクリアするために、私の上司の社会福祉法人省我会の理事長、藤森平司は、目指す保育理念が一致するものが集まって研修内容を作り上げることが必要であると考え、17年前に全国組織の保育環境研究所ギビングツリー(略称G T、会の名前は福祉的貢献を意味する「与える木」という題名の絵本の「ビギングツリー」から)を立ち上げました。毎年3種類の研修を計6回開催してきました。

3種類というのは、主に保育士が学ぶ入門的な位置付けになっている「保育環境セミナー」年3回、主任クラスが学ぶ「保育リーダー研修」年1回、看護師や調理員が学ぶ「職域別セミナー」年1回、そして園長や理事長が学ぶ「G Tサミット」年1会です。北海道から沖縄まで、全国に約250園の法人会員がいますが、どの園も子ども主体の保育を目指している保育園、幼稚園、こども園ばかりで、国が目指している保育を具現化している保育になっています。

今年度の最初の保育環境セミナーが5月29日(土)に開かれました。主会場は新宿・高田馬場にある「新宿せいが子ども園」で、そこでは15名が参加し、そのほかはリモートで全国から約100園が参加しました。コロナ禍の研修はリモートが増えましたが、GT主催者代表の藤森は「抽象的な話が増えて、具体的な研修が減っている。コロナ禍であっても具体的にわかりやすい研修にしたい」と、理論的な背景と具体的な実践例をセットで語りました。

今回のテーマは「空間」です。子どもが主体的に生活するためには、子どもが自発的に関わる環境が良くなければならないのですが、幼稚園教育要領や保育所保育指針では、その環境はを「人、物、自然や事象などの場」と定義しており、保育者が意図してデザインできる環境としては「人、物、空間」ということになります。今回は、まず「空間」について学び直したわけです。次回6月は、その実践事例をG T会員園の実践事例から深めます。

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