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見守る保育(保育アーカイブ)

さなぎの中を想像してみるように・・

2021/06/01

今日から6月ですが、大人が作り上げた生活習慣とは別の原理で、子どもの成長は止まることがありません。私たちは社会に住んでいますが、その当の私たち人間は自然界に属しています。子どももそうです。このことを、私たちは忘れがちなのですが、紛れもなく自然界の法則に従って成長(私は老化!)しています。

そんなことを思い出させたのは、年中のらんらんさんたちが見せてくれる、ある種の落ち着きです。

昨日のあの蛹は、静かにその中で、うごめいているのですが、ちょうど今、幼虫だったあおむしの頃の姿は全くなくなり、一旦、どろどろになっているのがちょうど今頃です。外から見てもその変化はわからないのですが、あと10日もすれば、あのアゲハ蝶になって蛹を破って出てきます。NHKのサイトに、もんしろちょうですが、サナギの中がどのように変化しているかの動画があります。(NHK  for School )

https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005301640_00000

 

その間の変化は、まさにミラクルなのですが、それと似たような大変化を、らんらんさんが日々行っていると思えてきたからです。わいわいの頃のあの幼い幼児の面影が、だんだん少年少女のようになっていく変化を、日々の言動から少しずつ感じます。

目に見えない変化は、実は大きな変化であって、ある時、びっくりするような姿を見えるようにしてくれます。その内面の揺れうごき、精神性の育ちは、相当に大きいもので、大きな変化を遂げるためには、蛹のような殻が必要なのかもしれません。

目には見えない、その殻の役割を言葉で表すと「そっとしておく」という役割です。関心を持って見守りますが、動かしてはいけません。人間がドロドロの状態にまでなるわけではありませんが、もしかすると、自分の中から湧き上がってくるままに楽しい、面白いと手を出しては触り、なんでも確かめていた子たちが、じっと物事を見つめ、考え始めました。周りの人と物をもう一度、確かめ直しているかのように、あるいは自分の中に位置付け直しているかのように、らんらんの子たちが、小さな哲学者のように、何やら思索的な面持ちを醸し出しているではありませんか。確実に、大いなる変化を遂げようとしているのです。

さて今月は、保育参観があります。らんらんに限らず、その年齢らしい、その子らしい育ちの姿を垣間見て欲しいと思います。園には家庭とは違う子どもたちの姿があるでしょう。違うのは当たり前です。環境が違えば見えてくる子どもの姿も変わります。そこが面白いところでもあります。参観といっても、コロナ対策のための、距離をとっていただくことになるので、思うような参観とはいきませんが、お子さんの成長ぶりを感じていただけたら嬉しいです。

第55回保育環境セミナー

2021/05/29

私たちの保育園は年間を通じて、職員の専門性を高めるための研修を実施しています。専門性の向上は、プロの保育者として欠かせない営みなのですが、大事にしていることは研修で学んだことが実践に生かされるということです。日々の生活は生活、研修は研修と繋がっていないなら、それは意味がありません。学んだことが日々の保育に生かされた初めて研修の意味があります。

そこで私たちはいくつかの工夫をしていることがあります。それはまず、誰から、あるいはどんな団体から、何を学ぶか、どんな組織からどんな内容を学ぶかというコンテンツに関わる精選の話がまず一つ。それから、学び手が学びたいという動機や意欲、何を学びたいのかという学び手の置かれている状況や文脈に即した学び方や学ぶタイミングという話があります。この二つがマッチしないと、本当にいきた豊かな研修にはならないものなのです。

この二つの学びの条件をクリアするために、私の上司の社会福祉法人省我会の理事長、藤森平司は、目指す保育理念が一致するものが集まって研修内容を作り上げることが必要であると考え、17年前に全国組織の保育環境研究所ギビングツリー(略称G T、会の名前は福祉的貢献を意味する「与える木」という題名の絵本の「ビギングツリー」から)を立ち上げました。毎年3種類の研修を計6回開催してきました。

3種類というのは、主に保育士が学ぶ入門的な位置付けになっている「保育環境セミナー」年3回、主任クラスが学ぶ「保育リーダー研修」年1回、看護師や調理員が学ぶ「職域別セミナー」年1回、そして園長や理事長が学ぶ「G Tサミット」年1会です。北海道から沖縄まで、全国に約250園の法人会員がいますが、どの園も子ども主体の保育を目指している保育園、幼稚園、こども園ばかりで、国が目指している保育を具現化している保育になっています。

今年度の最初の保育環境セミナーが5月29日(土)に開かれました。主会場は新宿・高田馬場にある「新宿せいが子ども園」で、そこでは15名が参加し、そのほかはリモートで全国から約100園が参加しました。コロナ禍の研修はリモートが増えましたが、GT主催者代表の藤森は「抽象的な話が増えて、具体的な研修が減っている。コロナ禍であっても具体的にわかりやすい研修にしたい」と、理論的な背景と具体的な実践例をセットで語りました。

今回のテーマは「空間」です。子どもが主体的に生活するためには、子どもが自発的に関わる環境が良くなければならないのですが、幼稚園教育要領や保育所保育指針では、その環境はを「人、物、自然や事象などの場」と定義しており、保育者が意図してデザインできる環境としては「人、物、空間」ということになります。今回は、まず「空間」について学び直したわけです。次回6月は、その実践事例をG T会員園の実践事例から深めます。

ケアリングが見守る保育

2021/05/21

先生たちが「子どもの関わり方」を大事に見守っている様子に、私はとても安心します。子どもが対象をケアしていることを、大人がケアしているという関係が「見守る」ことの本質だからです。ここでいうケアとは、子どもが熱中して対象と「やりとり」が生じるような環境を用意してあげることも含まれます。その様子の報告がブログで続いています。

例えば、にこにこ(2歳児クラス)の子が、ぐんぐん(1歳児クラス)のおともだちの靴をはかせてあげている姿と、それを温かく見守っている先生の眼差し。そのかかわりに注目してブログに取り上げたいほど、先生がその育ちや「やりとり」に「善さ」を見出し、またその「やりとり」の中に自然な「思い遣り」の姿を描いています。

ここでいう「自然さ」というのは、協力することの自然さです。報酬系とは無縁な脳の働きが生じています。これは強い。褒められたり、励まされてやっていることではありません。承認欲求からの行動ではないのです。「大人の出る幕はありません」という言葉が、見守れていることを意味します。

そうなんです。私は研修会で見守る保育の説明を求められた時、大人が見守るのが大事なのではなく、見守れるように子どもが育つことが大事なんです、という話から入ります。そうなるためには3つの条件が必要ですよ、と。一つが子どもの主体性を尊重すること。二つ目が意欲的にかかわることができる選択できる環境を用意すること。そして三つ目が、子ども同士のやりとりが生じるような場を用意すること。この3つです。

これが「環境を通した保育」という意味なんですが、多くの保育園との違いは、大人が、いちいち褒めたり、子どもがことさら「みてみて」と承認欲求を求めてきません。子どもに自信が育ち、大人にかまってもらう必要性が減っているのです。子どもは困った時は先生が助けてくれるという「信頼」を持っています。先生の方も、子ども同士の世界に過度に介入しません。

わいらんすいの子どもたちが「生き物」に、こんなにも心奪われている様子が、数枚の写真に表れています。カブトムシの幼虫が土(腐葉土)に、モソモソと潜りこんでいく様子を、じっと見つめている表情。ここにはカブトムシへの愛すら感じますよね。

さらに私が感動し、微笑ましく思ったのは、ずらりと並んで虫に見入っている「佐久間橋児童遊園の背中」の写真です。これはすごく面白い。写真コンクールに応募したくなるような一枚です。副タイトルは「都会の自然、子どもたちが見つめているもの」です。こんなところに、子どもたちが熱中するものがある、という子どもの目線を大切にしてあげたい。この背中の先に何があるんだろうと、関心を持ってあげる大人でありたい。そこが大人が持ちたい子どもへの眼差しであり、心配りとしてのケアリング(思い遣り)になります。

 

何かになりきって遊ぶ

2021/05/20

子どもが本気で遊んでいるとき、ある種の共通した特徴を感じます。その方向へ深まっていくものです。それは「何かになりきってみる」という傾向です。その「なりきり」が徹底されていく中に、子どもは面白さを強く感じるようです。しかも、相手とのやり取りが必要で、働きかけると、その反応が戻ってくるという、相互性が豊かな方が盛り上がります。

しかも、子どもの編み出す表象の豊かさはものすごい物があります。子どもと本当に真剣に遊んだことがある方なら、かかわり方次第で、楽しさや豊かさがどんどん湧き出てくることをご存知だと思います。子どもの心が解放された時の精神の躍動感は、圧倒的ですよね。

「園長ライオン」「フラミンゴごっこ」「鳥のブランコ」などの幼児との遊びは、動物になってみる、という「ごっこ遊び」なのですが、こんなにも楽しそうに、嬉しそうにしている姿を目の当たりにすると、この欲求の強さは一体なんだんだろうと考えてしまいます。乳児も同じです。盛んにごっこ遊びを楽しんでいます。

保育学の構造に分け入っていくと、その根底には哲学があります。昔、村井実さんの自宅で「善さ」について話を伺ったとき、ソクラテスやプラトンにはじまって西田哲学まで、何がよいことなのかを徹底的に分析してたどり着いたものですという話を聞きました。私はシュタイナー思想に染まっている、神秘主義一辺倒の若かりし時代だったので、観念主義哲学をいくらこねくり回しても存在学にはならないのに、と不遜にも「ふーん」と聞いていました。

しかし、実際に保育という仕事をする立場になると、村井さんが提唱した「善さの構造」の意味深さがよくわかるようになってきました。その村井哲学の継承者である佐伯胖さんが紹介する認知科学に基づく保育観がまた、子どもの見方を刷新してくれます。そうやって見えてくる子どもの姿や保育の形は、新しい保育のビジョンを生み出してくれます。そこに保育学の深いところにある価値創造としての保育の営みに「触れる」面白さを感じています。

実行機能と自分らしさ

2021/05/17

学びは面白い。面白いというのは「そうか!」と気づくような時で、混沌としている世界から何かの意味や構造を見出してくるような発見があるときです。この「おもしろさ」は、生きる喜びにもつながっていきます。

土曜日と日曜日に日本保育学会(倉橋惣三が創設)があったのですが、いろんな発見がありました。研究の醍醐味は、物事を首尾一貫して説明できたり、矛盾しているように思えたものが矛盾なく解消したり、お互いに影響しあっていくことが心地よかったりして、それが美しいと思えるような発見です。この4つは「善さ」(村井実)の定義そもものですが、それの視点で保育を振り返ると、いろんなことが見えてきます。驚きや感動にもつながります。

そんな「時」の流れの中で、自分の時を生きようとしているが「子ども」です。子どもは自分が自分であるために、必死で生きています。そんな「時」(セネカ)がたくさん生起するような人生だったら、忙しさを理由に時間を奪われずに(エンデ「モモ」)子どもたちの時を守ってあげられそうです。

子どものために、よかれと思って大人が作ったルールに適応できるかどうかが大切なのではありません。その差はあまり発達に関係ありません。何にでも適応できれはいいというものではなく、教育の歴史を振り返れば、何かに上手に適応できても自分自身を生きられず、もっと大きなものを失ったという事例はたくさんあります。

一見、バラバラに見えるような子どもの生活であっても、一見、子どもの言いなりになってしまうように見える場面であっても、そこには深い保育者の意図があります。本人が「何をしたいと思っているか」を本当に親身になって理解してあげようとすることを放棄してしまってば、それはもはや保育ではありません。ちゃんと子どもに聞く(倉橋惣三)ことをしないで、子どもがそうなっている行為だけを捉えていい、悪いを決めつけてしまってはいけません。

日頃そんなことを考えている時の日本保育学会で、脳科学に詳しい発達心理学者の森口祐介(京都大学)が、初日の基調講演で次のような枠組みを提示していたのです。

子ども自身が自分で目標を見つけて成し遂げいけるような脳の仕組みを「実行機能」と呼んでいます。「わたしを律するわたし」です。それを育むための保育が検討されました。面白かったのは、乳幼児に身につけて欲しいものが3つあって、その一つが、今言った自分を自分で律するための「実行機能」。2つ目が他者を理解する機能、そして3つ目が社会の中で「思いやり」を発揮できることです。

この3つは「自分らしく、意欲的に、思いやりのある子ども」の3つと関係するな、と感じたのです。その自分らしく自分であることを援助しようとすることが、まさしく実行機能を育てている事になると理解できました。他人との関わりの中でさらにそれが発揮されていくように、乳幼児のころからの積み重ねを大切にしたいものです。

 

 

環境の再構成について

2021/05/14

入園、進級してからGWも終わり1か月以上が経ち、今は子どもたちの生活がある程度、落ち着いてきた時期になります。そこで見えてくる子どもの姿は、1人ずつ異なっているのですが、それでも「その子らしさ」が際立ってくるのがこの時期の特徴かもしれません。これまでもそうでしたし、これからも、きっとそのような時期であるでしょう。

これだけの時間がかかるのは、先生や友達同士の関係が大きく変化し、その変化の結果に再適応するまでには、どうしてもある程度の時間がかかるからです。この時、自分と他者の間にうまくバランスをとっていくためのスキルの発達の程度によって、個人差が生じます。特に2歳児クラスから3歳児クラスへの進級が最も変化が大きいのですが、4月当初が大きな変化であるように思いがちですが、そうではなくて、この1か月ぐらいの間に、周りの人的環境が大きく変化していくので、そのへの再適応がどうしても必要になってきている時期なのです。

そこで私たちは5月から環境の再構成に力を入れていきます。その様子は、各クラスのブログで紹介されています。少しそのポイントと方針を説明します。

新たな空間には必ず安全基地を充実させることが必要です。リラックスできて、ころごろしたりして、アタッチできるもので安心を得ることができるような空間です。ふわふわしたもの、柔ないものなどが必須になります。物も繰り返し同じ動きが生じるものや、見通しが立つようなものが有効です。また人の環境も大事で、子どもの同士の関係の中に安心できる関係を見出せない場合も生じるので、そこでは大人がそれまで以上に応答的に対応していくことを大切にしています。決して甘やかすということではありません。

この時の安心できる人や遊びや空間があることがとても大切な時期であり、決まりやルールを優先させて、それに従うことを強く言葉で促すようなことよりも、何をしたいという欲求が生まれているのか、その背景や理由や心理機構をよく理解してあげるような、じっくりとした関わりや受容が大切なのです。

こんなことを話し合いながら、一人一人の姿の意味を読み取っていきたいと考えています。

こんな姿が増えて嬉しい日々です

2021/05/12

皆さん、自分の子どものが「しっかりしてきたなあ」と感じる時は、どんな時ですか? 私がそれを感じるのは、自分で自分の行動をしっかりコントロールしているなあ、と感じる時です。

たとえば、私の担当になっている朝の運動遊びの中では、最近のお気に入りは「ブランコ」なのですが、その順番を待つこととか、遊びをおしまいにできるとか、時間になったから交代するとか、そんなことがかなりスムーズに切り替える力がついてきたなあ、と感じることが増えました。ごっこ遊び、見立て遊びのおしまいの仕方も上手になってきた気がします。

そんな場面に注目してしまうのは、大人の勝手な都合なのかもしれませんが、特に日本の文化の特徴が表れているかもしれません。子ども同士が自分の思いと他者の思いを上手にすり合わせたり、調整したりできることに価値を見出したがる自分がいます。それは自己主張して相手を「論理的に打ち負かす」ことが望まれるような文化ではなく、自分の気持ちや考えもあるけれども、相手のことも考えてどうしたら共に良くなるかを考えよう、という志向が強い気がします。その結果が、日本人は「同調圧力に弱い」という国民性につながっているようにも思えます。

しかし、これからの社会に望まれるのは、共生社会ですから、自分の意見や考えもちゃんと持っていながらも相手の気持ちや考えも理解していくようなスタンスでしょう。そんな大人になってもらうための「ブランコ」や「アゲハ蝶」との関わりだったらいいな、と思っています。

新宿せいが子ども園の環境を視察しました

2021/04/17

今日は新宿せいが子ども園へ出かけて、保育環境を見学してきました。藤森統括園長から「これからの時代の教育や保育」のポイントをレクチャーしていただき、その後、じっくりと環境を見てきました。子どもたちが生きていくことになるこれからの「不確かな社会」は、少子化とAIの社会になります。そこでは共感や協同する力が不可欠になります。そのために乳幼児の頃から、集団の中で粘り強さや気持ちを立て直す力(レジリエンス)などの根っことなるものを育んでいくことが必要です。そのためにも「子ども同士の関わり」の中で、感情をコントロールできる力や、話し合ったり協力して何かを成し遂げる力が必要です。

そんなこと確認しながら保育を考えるのは楽しいものです。私たちの生活にどんな意義があるのか、それを確認しながら保育を計画していくことができることに、仕事のやりがいを感じます。世界的には産業革命以降に始まった個人のスキルを社会の目的に合わせる教育から、180度転換する必要があるのですが、OECD(経済協力開発機構)でさえ、すでにその転換を唱えているのですが、日本ではそのための教育改革ビジョンがなかなか見えてきません。しかし、それが必要なことは間違いなく、それに気づいている教育者たちが独自に取り組んでいるという状態です。

新宿せいがの2階は幼児の生活空間なのですが、伝承遊びゾーンは「多文化ゾーン」に変化し、また年長組すいすいの活動の中にお手伝い活動に加えて、科学実験活動の充実が図られていました。時代の変化が保育ゾーンの変化となっていました。千代田せいがは狭いので、知恵を出して工夫していこうと思います。

存在を喜び合うちっち・ぐんぐんの朝の会

2021/04/15

「◯◯ちゃ〜ん」、と子どもの名前を呼ぶと、ちょうど1歳になるKちゃんが、嬉しそうに「は〜い」と手をあげてパチパチします。周りの子たちもパチパチしています。ほんの半月前までは「集団」を知らなかったはずの子が、ちゃんとご返事ができる、ということに先生たちの間に温かい歓声があがりました。名前を呼び合う間柄になるということは、あなたがそこにいることだけで、私たちは嬉しいということを確認していることになっています。

0歳の子たちにとって、気持ちが通じ合うということは大切な「社会的発達」の経験になっています。1歳ごろと言えば、自分と相手と世界の3つが「表象」によってつながり合っていく時期です。自分が先生から「◯◯ちゃ〜ん」と呼ばれることも、自分についての「◯◯ちゃ〜ん」という自己イメージをもてていることになります。「は〜い」と応答できているということは、自分についての自己イメージ(表象)と「◯◯ちゃ〜ん」と声を自分に結びつけるという三項関係が成立しており、言葉がで始める前の発達の条件が整っていることがわかります。

このことは家庭でも起きることですが、集団があると、このように「声」をかけてくれる他者の存在があり、そばに模倣したくなる対象がたくさんあることになります。そのやり取りの中で、それを喜んでくれたり、嬉しがってくれたりすることで「気持ちが通じ合う」という社会的な発達の経験になっているのです。楽しい体験はまたやりたい、また僕のこと、私のことを呼んで!認めて!という存在自体への承認欲求が満たされていくことになります。

朝のお集まりは、今日も元気にいるね!という、お互いの存在を確認し合うことになっています。出席をとるということの本来の目的です。そこに存在すること自体の重要性を感じあっています。これは自信の育ちにも関わっています。無条件の自信が他者と信頼し合う関係に育ちます。1歳ごろまでに気持ちを通じ合わせる中で「人と関わること」そものもが発達の経験になっているのです。

利他性が発揮されている毎日

2021/04/14

今週4月12日(月)から、東京でコロナ感染の蔓延防止対策が始まったわけですが、「春に三日の晴れなし」と言われるように、春は意外とカラリと腫れた日が少ないもの。ちょっとでも晴れていたら「外遊び」を取り入れたいと考えています。今日14日は雨だったので、室内やベランダでの様子がクラスブログで紹介されています。

そこで見られる姿は、面白いことに子どもたちが元々もっている「利他性」が発揮されていることです。利他的という言葉はちょっと難しい言い回しですが、「利己的」の反対です。自分にとっては直接メリットがなく他人のために役立つような行為です。そうした「態度」は、お手伝いをやりたがる、率先して掃除や片付けを手伝う、お友達の気持ちに気づいて優しく接する、楽しそうな遊びをお友達にも伝える・・・そうした姿の中に見出されます。

千代田せいが保育園の保育が何を目指しているのかというと、色々な言い方ができるのですが、子どもの育ちゆく姿としては「保育目標」というものがあります。学校だったら教室の前に額縁に入れて掲げてある「教育目標」と同じ位置付けのものです。保育園も幼稚園も学校も、それは子どもを主語に書かれています。例えば和泉小学校は「人にやさしく 自分につよく 明るく 元気な 和泉の子」です。省略してありますが、主語が「子どもは」になっているでしょ。社会性、克己心、内面性、健康などの要素が盛り込まれていますね。注目して欲しいのは、トップに「人にやさしく」と利他性を含む人間性が掲げられているということです。

千代田せいが保育園の場合は「自分らしく、意欲的で、思いやりのある子ども」です。思いやりというのは、他人への「共感」の育ちがベースになるのですが、その育ちの基盤は持って生まれたもの(つまり教えて学んだものではなく、生得的に持って生まれるもの)と言われる模倣の力です。じっと見て真似をするという力が、相手の心の動きを想像しながらなぞるようにイミテーションできる力のことです。

したがって、心をなぞりたい!、一緒になりたい!と愛着を持てる対象がそばにいなければ、模倣する対象をもてませんし、共感体験が生じません。ちっちやぐんぐんやにこにこの頃から、その体験を積み重ねていく中で、他人への信頼感を獲得しながら、言葉も獲得し、やさしさを育て、思いやりという心の姿勢を形作ることができるようになっていくのです。この育ちのまとまりを利他性の発達と言います。SDGsなど持続可能な社会を実現できるかどうかは、保育のテーマとして捉えなおせば、この心の姿勢を育てることに他ならないのです。

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