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見守る保育(保育アーカイブ)

さびしさと安堵と楽しさと

2021/04/05

◆ 淋しくなって、またホッとして・・

今日は月曜日。土日を親子で過ごした後の月曜日は、入園したばかりのちっち組の赤ちゃんにとっては、ちょっと淋しい気持ちになって、泣いてしまうこともあります。それはそうです。そんなに簡単にお母さんやお父さんに代わりにはなりませんよね。きっと日本全国の3万近い保育園で、今日は赤ちゃんにとって、ちょっとした試練の1日だったことでしょう。約90万人いる日本の0歳児のうち、約16%の15万人が保育園に入園したんですから。

でも、お迎えにきたお母さんやお父さん、おばあちゃんの顔を見て、ホッとして笑って、気を取り直してくれて、先生に「ばいばい」してくれました。私たちは「また明日ね」の気持ちなんですが、果たして本人は?どうかしらん?

「先週はママ(パパ)と一緒だったじゃん。なんで、いなくなっちゃうの。金曜日もそうだったよね。あんまり気づかなかったけどさ。保育園って、せっかく楽しそうなところだなあ、って気に入っていたのに。嫌だよ、置いていかないでよ。・・でもまあ、気になっている子もいるから、明日また連れてきてね。いや、別に嫌じゃないのよ、保育園は。でもね、ママがいなくなるのは、やだ! それは別の話だからさ・・ね、お願い」

こんな感じかな? ま、明日また元気にいっぱい遊びましょう。あんまり泣くと、ママも困るから、楽しく遊んでお迎え待とうね。

ぐんぐん組やにこにこ組の様子はどうだったでしょうか。ブログでは、遊んでいる様子や優しく慰めてもらっているやり取りが報告されています。子どもが持っている優しさが、思いやりのある行動となっていくために、こんなにも「心が動かされていく経験」というプロセスが積み重なって、育んでいくんだなあと、感じさせられます。ちっち、ぐんぐん、そしてにこにこへと成長してきた子どもたち。これからが楽しみです。

らんらん組保護者会

2021/04/05

◆らんらん組の保護者会を終えて

らんらん組の正式名称をご存知ですか?と言う質問には、予想通り(!)、ほとんどの保護者の方が「ぽかん?」とされていました。正解は「みんな なかよく らんらん組」です。お友達との仲の良さが、いろんなところで見られるのが年中さんの特徴なんです。そんな話から、子ども同士の関わりが、どのように心を育んでいくのか、という話をさせてもらいました。植物の生長が土壌の栄養と日光と水によって変わるように、人も持って生まれたものが、環境によって大きく変わります。心の発達の過程を踏まえると、満4歳になった子どもたちが、満5歳になっていく1年間は「社会的な心」の成長が著しい時期なのです。

今日お伝えしたことは、人の心の育ちの筋道です。0歳児の基本的信頼感の獲得から始まって、1〜2歳児から始まっている他律ではない自律を経て(基本的生活習慣を身につけていくプロセス)、それと伴奏するように自我の芽生えに伴うイヤイヤ期に見られるような自発性を発揮しながら、お手伝いなどの利他的行動を好む「自立心と協同性」の時代を経て、さらにしっかりとした道徳性や社会性を身につけてくまでの流れを、ごくごく簡単にスケッチしました。この話は、詳しくお伝えしたい子育ての秘訣が含まれる「発達の原理」なので、講演会を開いた方がいいかな、と今日話しながら感じました。詳しく聞きたいという方がいらしたら、いつでもやりますので、担任までお声かけください。

と言うわけで、幼児期の真ん中にある「らんらん」は、まさしく「自立心と協同性」の時代にいます。やってあげることが、楽しい時期に入っていきます。集団のある保育園生活の中で、案外、最ものんびりとできる1年かもしれませんよ。それだけに、何があったんだっけ?と終わってしまいがちな年中さんかもしれないので、見逃さないように、よーく、観察してみましょう。とても面白い成長を見せてくれる一年ですから。

こうした心を耕す体験は、保育園ならではのものです。全ての子どもにこの時代を過ごさせてあげたい。学年別のクラスや学校的空間では、自由遊びの中での子ども同士が織りなす体験は生まれにくいのです。ああ、もったいない。子どもたちもまた自然の一部であり、そこには、その奥深い「子ども社会」が生まれています。もし、そこに大人の指図が過剰に割り込んでしまうと、微妙なバランスで成り立っている自然の生態系が乱されてしまいます。それだけは避けてあげたい。本当にこの時代に必要な体験を保障してあげたい。それは不思議なことに、子ども同士の社会が、自分たちで作り上げていくものなのです。

自己紹介も楽しいものでした。ありがとうございました。お子さんの「よさ」をいっぱい見つけてあげてください。その数だけ、子どもは幸せになるでしょう。親御さんがいいなあ、と思っていることがきっと伸びていくんじゃないでしょうか。まるで新緑の芽が太陽を向くように。いいね、と認めてもらえることが最高の栄養になりながら。一緒にその一つ一つを愛しんでいきしょう。

 

 

わいわい組保護者会

2021/04/02

◆わいわい組の保護者会

3歳児クラスの「いつも元気なわいわい組」。夕方から保護者会がありました。新わいわいは定員10人に対して8人でのスタートとなりましたが、保護者会には6家庭の参加がありました。最初に私が昨日と今日の食事の様子の写真を見てもらいながら、すっかりと「わいらんすい」の仲間に溶け込んでいることをお伝えしました。また遊びへの集中度の高まりの例として、ごっこ遊びで服のボタンをつけるのに夢中のKKくんの動画を見てもらいました。3歳児クラスは、乳幼児期の前半と後半の境目です。その差をさほど感じさせないほど、スムーズな3歳児クラスのスタートになっています。

保育園では「一人ひとり」を大事にしているので、色々な「個人差」に対応できるようにしているのですが、2歳児クラスまでのそれと、3歳児クラスからのそれとでは、個人差の意味が変わってくることをお伝えしました。2歳児クラスまでの個人差は、どの子も通ってくる発達の差が個人差になるのですが(いつ、おむつが取れるか、いつ心地よく眠ることができるようになるか、など)、3歳児以降の個人差は、物事への興味や関心の差となって現れることが多くなります。

もう一つの特徴は、人間関係の広がりの中で、その体験の幅が広がることです。本格的な異年齢児保育の環境での生活が始まります。このことは、担任が「配膳でお茶をこぼした子へのお手伝い」動画で、関わり方の違いを説明しました。年長になるとこうなる、年中ぐらいだとこうなる、というわかりやすい場面でした。

自己紹介をしていただき、子どもの命名の由来をお聞きできたので、子どもの名前を呼ぶたびに、親御さんのお子さんへの「想い」を思い起こすことができます。心配した「見えない不安」は、3歳児クラスではあまりないようでした。

 

「励まし」より「共感」を、「教育」より「養護」を

2021/03/30

(本日30日に配布した園だより4月号 巻頭言より)

入園、進級おめでとうございます。

最近、スポーツ選手など「自分が頑張っている姿を見てもらうことで、勇気を与えることになれば嬉しいです」という趣旨のコメントをすることが増えました。コロナ禍で「前向きな気持ち」を出してほしいという励ましの気持ちです。ただ併せて、私たちが想像力を持ちたいのは、それを見て「ああ(自分は)ダメだ」と気落ちしてしまう方もいる、という事実です。人はそんなに頑張れないし、うまくやれないし、人が成功する姿が辛いものになる人もいます。がんばっている姿は人ぞれぞれです。「できないし、困っている、失敗した」という話に「自分も同じだ」と救われ、励まされることも多いのです。私も昔、先輩の「私もそうだったんだよ」と、上手くいかなかった話に救われた体験があります。

目的に向かって「晴天を衝く」(NHK大河ドラマ)ような輝かしい姿に接すると、清々しい気持ちになり憧れることもあるでしょう。ところが、誰もが「自分も」と心が動き出すようなものではありません。遠すぎるもの、高すぎるものは「我が事」になりにくい人もいます。何に共感するか、誰からエンパワーされるか、感化されやすい相手も違います。何が違うのでしょうか。何が大事なのでしょうか。

子どもはどうでしょう? 実は子どもはいつも、親の本当の「地の心」に触れたいと思っています。励ましたり、諭したり、指示したりする姿だけを子どもに見せていませんか。それだけだと、子どもの「まっすぐな心」はげんなりしているかもしれません。子どもは励まされたいと思って生きていません。励ましは「(自分は)いつも励まされないといけない自分なんだ」と無意識が学んでしまいます。ちょっとやらせて、できたら褒める。一見正しいように見える子育てですが、努力しないと認められない自分でしかないと感じているかもしれません。それでは本当の自信は育ちません。条件付きの承認は無条件の承認よりも、心に届きません。

本当は気落ちしたり、困ったり、不安だったりする気持ちを「わかってほしい」と共感してもらいたいことが多いものです。もちろん嬉しい気持ちも。「ボクのこと、わかってもらえている」「わたしのこと、知ってくれている」という実感から、子どもは一歩を自ら踏み出すエネルギーが自然と沸き起こるのです。それが心の仕組みです。そこで私は「がんばって」とあまりいいません。言うときは「がんばってるね」です。子どもはいつだって、大人が思う以上に、いつだって、がんばって生きているからです。教育よりも養護が先なのです。

何をもって、その人が自ら一歩踏み出せるようになるか。それは人によって大きく違います。保育の要諦はここにあります。年度の初めは、こんな「初心」を思い起こすことから始まります。

気持ちを言葉でなぞってあげられるように・・・

2021/03/13

◆気持ちを言葉でなぞってあげられるように

最近の子どもたちの成長ぶりが、いろいろな場面で感じられて、また子どもに教えてもらうことも多くて、「頼もしいなあ」とか「すごいなあ」とか「こんなことまで!」とか、いろいろです。そんな成長に気づいている先生たちは、子どものちょっとした姿から見えてくる育ちや心の動きをいつも語り合っています。その一部がブログで紹介されているわけですが、それを読んでいると、子ども同士の関わりの中で育ちあう瞬間を目撃できる仕事が保育士なのかもしれないと思えてきます。型入れ遊びで「もういっかい」という言葉で感じ合っている、相手の気持ちへの想像力とか、身体測定を再現して、ペンギンの身長を図っているレゴについて「ペンギンさんが“おおきくなったかな”してるとこ」と表現できてしまう力とか、ほんとに面白いし愉快です。そして私たちは、子どもの姿から、その心の動きを「言葉でなぞってあげられるように」と思えるような子どもへの迫りかた(よく見守ること)への必要感を覚えるのでしょう。この感覚が大人に増えるなら、子どもたちはもっと幸せになることでしょう。

◆緊急事態宣言の解除の日が卒園式

姉妹園で卒園式がありました。明日もあります。来週21日はいよいよ千代田の番になります。昨日12日にすいすい組の保護者の方へ「卒園式のお知らせ」を配りました。今年は何かと節目の日に行事が重なります。21日は再延長されている緊急事態宣言の最終日にあたります。政府首脳は「よっぽどのことがない限り解除」の方針だそうですが、やはりリバウンドと変異種の広がりが気になります。「なぞりたい気持ちの相手」は、コロナで毎日なくなっていく方とその家族の方々です。もちろん震災や原発事故もそうです。そのためには、事実をよく知る必要があるのですが、遠いです。

◆俯仰天地に愧じず

(以下は妄想)それにしても毎日、これだけの死者の数が報道されているのに、もし700円ぐらいのイベルメクチンを飲んでいたら、この数がもっと減っていたのだろうか。海外の実態をルポするジャーナリストもいないのだろうか。そのためにクラウドファンディングでもなんでも、皆保険制度の外側に「薬の自主ルートをつくる会」でも立ち上げて、早く治療薬を届けるルートを作るような出光佐三は現れないのだろうか。北里大学の研究グループが厚労省の認可を得るために必要な費用が4億とかで足りないのなら、300億とか使ってでも第三層の治験データを集められないのかしらん。変異株蔓延の前に承認できないのでしょうか。

◆「薬の神じゃない」のチョン・ヨン(程勇)はいないだろうか

(これは願望)昨年の中国映画に「薬の神じゃない」という、格安のジェネリック医薬品をインドから輸入する話を思い出しました。密輸なので違法になるけれども白血病の患者を救う話だった。似たような英雄談を日本人は好むはずなのに。そもそも儲からないから、どの製薬会社も治験をやろうとしないのなら、ここでこそ「医療原則」に立ち返って、市場価値原理から使用価値原理への転換を「福祉」の観点から乗り越えてもらいたい。有事ではなく、福祉の観点から市場原理に任せないでほしい。死んでいく国民を前にして、効く薬があるかもしれないのに、使えないという仕組みは「どうにかしているとしか思えない」という感覚を、学校の道徳ではぜひ教えてもらいたいものです。

 

藤森先生の研修

2021/01/30

今日はズームによる研修がありました。講師は藤森平司統括園長。参加者は全国のギビングツリー(GT)加盟園の先生たち約120人です。テーマはコロナ時代のおける保育です。保育園は家庭に代わって預かる役割だけではなく、これからの時代に必要な教育の役割について考えました。以下は要約です。

コロナの影響で明らかになったのは2つあります。まず1つ目は子どもへの影響です。子ども同士の関わりがなくなることによる悪影響です。子供の育ちにとって集団の場は不可欠であることが明確になりました。保育園は社会的スキルの基礎を培うために必須の場所なのです。

もう一つの影響は、時代の危機が早まったと言うことです。何が起きるか予測できない時代の中で、人は力を合わせて協力したり、それぞれに得意な事を発揮し合って生きていくための力が求められます。どんな状況になっても、それに応じて判断して行動できる力を育てる教育が不可欠であることがはっきりしてきました。

そのための乳幼児教育のおいて、子どもが何を身に付けるかと言うと、新たな価値を見出していく力です。これまでの保育はアートに落とし込みすぎていて、もっと科学的な視点を増やしたい。だからSTEM保育が必要です。例えば積み木遊びにしても、どうやったら倒れないかを考えたり、どの公園に散歩する話し合うなら、どういうルートを歩くかの見通しを述べ合ったり。それがプログラミング教育になります。科学的な視点の重視は物事の因果関係を考える力を育むことにもなります。

子ども同士の関わりから育つものを重視し始めたのはシンガポールや中国です。見守る保育を導入するようになってきています。特に国の人口問題から一人っ子政策を取った中国は、その見直しの中で乳幼児からの子ども同士の関わりの大切さに気づいたのと事でした。

またリモート保育のメリットデメリット、教科書のデジタル化などメディアのあり方などの話もありました。その後、乳幼児のとっての大人のマスク、保育園への共感的支援など参加者からの質問に答える質疑応答も行われました。

園長からの心からのお願い

2021/01/14

私の上司である藤森平司統括園長と一緒に働き始めた頃ですから、それは1997年頃のことです。「倉掛さん、保育園は今何でもやってあげすぎて、親が自分の子どもから聞こうとしなくなっているんですよ」と話し始めたことを覚えています。「どういうことですか?」というと、こんな話でした。たとえば遠足に持っていく物に「おしぼりと水筒を持ってきてください」とお願いすると、乾いたハンドタオルと空の水筒を持ってくる保護者がいるというのです。

「いつも何でもやってあげるものだから、先生からタオルも濡らしてもらえると思っているし、水筒にも麦茶を入れてもらえると思っているんですよ」

毎日給食のある保育園は、普段の持ち物として、エプロンやお手拭きタオルを持ってきてもらっていますが、確かに、それは乾いたタオルです。でも遠足の持ち物として弁当と一緒に濡らしていないタオルをリュックに入れることが不自然に思わなくなってしまうのが保育園の保育サービスというものなのか、と半分笑い話のように聞いた思い出があります。これが幼稚園や学校だったらありえないことはすぐにわかるはずです。藤森先生はこうも話を続けました。

「やり過ぎているかも?と思うのは、連絡帳もそうです。毎日どんな風に園で過ごしたのかを書いてあるので、お迎えに来たときに、自分の子どもと話をしようともせず、また子どもも見ないで、すぐさまお便り帳を読み出す親がいるんですよ」

この話は、実は深刻な問題を孕んでいたことが、四半世紀も経った今、はっきりとわかります。保護者は、自分の子どもが自立することよりも、保育園に説明責任を果たすことを強く求めるような時代に変わってしまったのです。自分の子どもを育てる第一次的責任は親にあるのですが、何を誤解しているのか、まるで保育園に養育義務があるかのような雰囲気ができてしまいました。

緊急事態宣言が出てから、きっと皆さんの職場や生活の中で、大変な状況に置かれてしまう方がいらっしゃるかもしれません。そこで予想されるリスクを少しでも軽減していくために、このタイミングで大切なことをお話ししておきたいと思います。

コロナの長期化で保育園も疲れているということです。話は保育の脆弱性についてです。実は保育園という組織は見かけと違ってとても弱く、ちょっとした人の言葉でガラガラと崩れてしまうかもしれないほどナイーブなものだということです。そうなってしまったのは歴史があります。

保育サービスという言葉が、市民権を得ていく過程で、児童福祉施設の役割を超えて、延長保育などの長時間保育、一時保育、病後児保育、休日保育などの「預かり保育」事業が増えていきました。確かに就労形態や社会構造が変わったとはいえ、この変化は保育園に勤める良心的な保育者を病に追い込みました。子どもが大好きな保育者が、精神的に参ってしまいました。そんな時代がありました。

一方で、子どもの保育に携わる保育士の数(国が決めている基準)は全く変わっていないのに、保育園に求められる仕事は「子どもの保育」を大幅に超えて、保護者への「子育て支援」という名の業務がものすごく増えていったのです。核家族の子育て環境では親の養育力が低下するのは当たり前ですから、保育園が社会的親として子どもの育ちを支えるパートナーの役割が期待されるようになるのも自然な成り行きでした。皆さんはすでにご存知だと思いますが、私が常々申し上げてきた「アロペアレンティグ」です。

そういう意味で、保育園や先生を信頼して手を携えてこの困難を乗り越えていきたいのですが、先程の歴史の中で、我が子可愛さからか、パートナーであるはずの保育園に対して問い詰めるように説明を求める親が出てきたのです。本人は保育サービスの需要者として正当な権利を行使していると思っているのですが、それは筋違いも甚だしく、保育者のストレスや心理的負担は計り知れず、保育現場から離れていく保育者がどんどん増えていった時代があります。保育者養成に携わる大学や短大、専門学校で学生に「保護者支援」をどう教えるか、大きな問題になったのです。

国の基準についても覚えておいて欲しいことがあります。その基準は最低基準というのですが未だに「サイテー」なままです。たとえば2歳児クラスは一人の先生が6人の子ども保育するという割合です。それが3歳児クラスになると一人の先生で20人をみなければなりません。6対1から20対1になるのです。それはそれだけ子どもが自立しているという前提になっているからです。

その自立というのは、いわゆる身辺自立です。食事、睡眠、排泄、衣服の着脱、清潔の5つです。これが自立していることが3歳児クラス(年少保育)の大前提です。ここに保育者の手が必要な子どもが多いと、3歳児以上の幼児教育はできません。幼稚園が3歳からなのはそのためです。

ですから当園の場合は、わいわい組(3歳児)10人に一人の先生をつけているので国の基準の倍の態勢にしてあります。さらにらんらん4歳、すいすい5歳は合わせて30人に一人というのが国の基準です。30対1なのです。この基準に従えば、らんらんすいすい合わせて20人ですから一人の先生もつけられないのです。つまり本当は幼児30人に対して、0.5人+0.66人=1.2人しかつけられないのです。

実際には各クラス一人ずつの3人によるチーム保育です。つけてもいいのですが「国からの運営費(公定価格)」がその計算でしか来ませんから、地方自治体が加算します。それでもギリギリの運営であるとは変わりません。

この日本の認可保育園の「貧しさ」を理解していただき、保育を支え合っていただきたいのです。あまりにも細かなことまで正確な説明を求めたり、職員が何でも共有理解を図っておくべきだ、などと思わないで頂きたいのです。

ましてや、新型コロナ対策が始まって以降、それまで以上に清掃消毒や換気などの業務も増えています。感染の可能性がある中での保育です。さらに今は緊急事態の中での保育なのです。

どうぞ支え合う姿勢を大切にしていただき、大変な保育環境の中で、不安を抱えながら保育をしている保育者を大切に守っていただけないでしょうか。心からお願いします。

人と人のコミュニケーションは言葉の気楽なやりとりが基本です。胸襟を開いた中での関係が基本です。人間関係には何度でも言葉が行き交い、心が通いあい、感情の交流があるものです。

保育園の先生と保護者の皆さんとの間に、信頼できる関係がなければ、その狭間で子どもは親の顔色を伺い、自分の気持ちを押さえ、親の意向に沿おうとして本音を隠したりします。

しかし保育園ではありのままの姿を見せてくれていることが明瞭です。親は家にいる時の子どもの姿が真実だと思いたいし、その姿しか知りません。でも違うのです。人はその環境によって見せる姿が違うのです。人間とはそういうものなのです。また人と人の間には言葉や気持ちのキャッチボールが成立することで人間になります。この大前提を肯定し合うことが、子どもの保育には不可欠なことなのです。

自然に属する子どもにたずねよ!

2020/12/24

人間は頭で考えると間違えることがあるので、人間の「内なる自然」に耳を傾けよう。こんな趣旨のことを聞いたことありませんか? このようなことに耳を傾けた方がいいのは「大人」です。子どもに向かって、このようなことを言いたくなることはあまりありませんよね。頭でっかちで気難しく、頑なに心を通わせにくいのは大人の方が多いですからね。なぜでしょうか。答えは簡単です。子どもは自然に属しているからです。西欧宗教圏なら「子どもは7歳までは神の子ども」という言い方もあります。確かに子どもはまだ「自然」そのものの要素が大きいのです。

子どもといると、その真っ直ぐな心のありように「自然」を感じます。この子どもらしさを変に歪めたくない、と感じます。当園は、この子どもの「自然性」を大切にした保育を実施しているつもりなのですが、当然ながら行事も同じ考えにあります。昨日でお楽しみ上映会の期間は終わりましたが、今日24日の追加上映のときにも、にこにこのHちゃんが「ぐんぐん」の映像を見ながら一緒に体を動かし始め、「にこにこ」の劇を見終わって「もっと見たい」といっていました。その様子を見て、私はやはり自然そのものである子どもが望むものには、そこに自然の摂理が働いていると感じます。

私はよく「子どもが繰り返し求めるものには発達に必要なものが含まれている」という言い方をします。発達は使うことで伸びるからです。何かを身につけるときに練習や訓練をすることを思い浮かべて貰えば分かりやすいでしょう。あるスキルを身につけるには繰り返すことに効果があることは誰も否定しないでしょう。これは言い方を変えれば、スキルはその能力を使うことで上達するといえます。それを自発的にやるのが「遊び」です。遊んでいるとき使っている能力が伸びます。遊びは練習や訓練ではなくても、同じ効果があるのです。

しかも「自発的」にやるので、意欲満々です。イヤイヤやるのと違って効果テキメン、そこにも、発達における自由遊びの重要な意味があるのです。劇遊びで育まれる資質や能力は、知識や技能だけではなく、思考力や判断力も働いているし、もっとやりたい、できるようになりたいという意欲などの非認知的能力が含まれています。

子どもは、このようなことを誰に教わるわけでもなく「遊び」を通じて身につけていきます。こんなことは、人為的にできるようなものではありません。やはり自然の摂理が働くものなのです。それを信じることが「子どもを信じる」と言う意味になります。自然に属する子どもにたずねよ!という感性を大人は磨く必要があるのでしょう。

 

WHO国際生活機能分類(IFC)2001

2020/11/14

5年ぶりに田口教育研究所主催の「発達障がい基礎講座」で話をしました。テーマは「困難さは私たちの意識と環境が作り出しているのかも〜障がいという概念を超えた保育を目指すために、子どもの特性理解を深めよう〜」です。3時間の内容で、保育現場の先生たちが約30人参加されました。私がこれまでの保育の経験から、実践的な視点で子どもと環境をとらえる方法を説明しました。

事前の案内には、次のように書きました。

「私たちが使っている障がいの種類や程度は、医療の診断が根拠になっています。具体的にはアメリカ精神医学会のDSMの基準が大きな影響を持っています。しかし、このような医療モデルに従うだけでいいのでしょうか。障がいは環境が作り出している面があるのではないでしょうか。その時代の価値観や環境によって、かなり違った様相になってくるのかもしれません。そのような人と人、人と環境との構造や関係を踏まえた上で、当事者のためにふさわしい生活を創り出していきませんか。」

世界保健機構(WHO)は2001年から、障がいの概念は、個人の特性だけから生まれるのではなく、環境との関係の中で生じるという定義に変えました。講義はその説明から入ったのですが、この考え方はとても大切で、どんなところで生活するか、どんな道具やサポートがあるかで、生活の質は変わります。私たち大人の意識次第で参加できる生活圏も広がります。このことは、いろいろなところに応用して、広がっていくといいと思っています。

柳原堤

2020/09/20

先週は2度、クリスタルビル11階に登って秋葉原駅周辺を一望しました。「江戸名所図会」(上の写真)を見ると、天保5年(1834年)の頃の「柳原堤」は、和泉橋を町人が行き交い、柳原通りにならぶ店の前には侍や旅人が描かれ、柳森稲荷を参る人もいます。その図会の角度は、ちょうどクリスタルビル辺りからの展望と一致する図柄です。ちょうど江戸城のある方から、神田川の南側から北側を、ドローンでも飛ばしたかのように北北西に向かった眺望を描いているのですが、当時はそんな高いところはありませんから、想像で遠近法を用いて描いています。

それと重ね合わせて、現代の風景を眺めてみると、目の前にホテルや高層ビルが立ち並び、その向こうの遠い風景を望むことはできません。もっと高いところからでないと、風景の奥行きが取れません。それでも秋葉原駅を南北に通過していく電車を、子どもたちはたっぷりと堪能できました。

ビルが立ち並ぶと、そこを歩いている人々や生活の生業を風景として眺めることはできないのだな、と再確認してました。

人が見えるのは、ふれあい橋を行き交う人と、眼下の柳原通りを歩く人だけです。そのほかは建物で隠れて見えません。大都市の風景は、高いところに上がっても建物や道路や鉄道などは見えても、そこで生活する人々の風情や表情までは見えないのです。

江戸時代の図会も、それは想像で描いています。その場所、あの場所ででみた人々の様子を頭の中で再構成して、つないで一枚の絵にして描いたのですから、子どもたちも、きっと同じことをするに違いありません。見えてないけど「そこにはこれがあるんだよ」と描いたり、作ったりするでしょう。人間は心動かされたイメージを再現したがる(表象)からです。

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