MENU CLOSE
TEL

見守る保育(保育アーカイブ)

湧き上がってくる心を受け止めながら

2019/08/08

今週は子どもの「心の解放」がテーマになっています。子どもが「自分の生きたい自分」を生き始めたとき、こんなことをやりたかったんだね、と教えてもらうことがいっぱいあります。今日8日には私たち誰もが持っている「身体をもっと使いたいという衝動」が溢れ出てきた時間がありました。

◆潜在的に持っている力

私がお昼寝マットを胴体に巻いてサンドバック役になってみたら、6人ぐらいの子どもたちが叩く、蹴る、頭突く、押す、剥がす、潜り込む、ぶら下がる・・など、必死で私に向かって「あらん限りの力」を出し切ろうとします。よーし、いいぞ、いいぞ、もっとかかってこい!と思いながら、どうなっていくのかやってみました。
きっかけはJ君が緑の布地の揺れる遊具を丸めて叩いて遊び始めたからで、それなら「園長先生がサンドバックになってあげよう」と試してみたのです。いろんな生活シーンや遊びの中で「やめてー」と叫ぶ子どもが多いのですが、どんな時に叫んでるのか、よーく観察すると、ほんの些細なことが我慢できないので、すぐに他人のせいにしています。まだ3〜4歳の自己中心性を脱していません。そんな彼らの発達心理的な意味を理解しながら、その子一人ひとりの心もちに応えていきました。
15分ぐらいでしょうか、しばらく続きましたが、私はあえて負けてあげなかったので、彼らには達成感はなかったでしょう。そうしたのには、理由があります。
◆私の実体験
私も4歳の頃、大人にこうして遊んでもらったことがあります。思いっきり押しても叩いてもビクともしない、圧倒的な強さの壁。そのときに味わった感情をよく覚えています。自分のなかにある攻撃性や闘争心に火がつく感じ、しかし、いくらやっても力では叶わない相手。やがて悟らされる軽い屈辱感。決してスカッとした爽快感ではありませんでした。もちろん当時こんな分析ができたわけではありません。でも、なぜか何度もやっていましたが、いつしかつまらなくなってやらなくなりました。相手が負けてくれていたら、もっとやっていたかもしれません。それはわかりません。
◆自分のいろんな気持ちに出会ってほしい
彼らもまた、ビクともしない私の身体を相手に、いろんな顔や声や気持ちを見せてくれました。びくともしないことに「アレッ」と意外に思う反応、単純に体を動かすのが楽しいと言う笑顔、タックルして自分がひっくり返ることの面白さ。よーし今度こそ、という気持ちと気合のギアチェンジ、助走を長くして走ってみる工夫、私も想定外なのは、胴体に巻いているお昼寝マットを剥がしにかかる作戦に出てくる子がいて「それもアリなんだ⁈」と、彼の意外なアプローチに彼らしさを感じました。
◆体験の意味について
保育の意味について、何に説得性を感じるかは、科学者でも違いますが、戦いごっこを好むのは「もっと強くなりたい!」という願いの表れということがいわれることがあります。もっと踏み込んで「自信をつけたいから」という深層心理と結びつけることもあります。人間なら誰もが持っている、闘争心や攻撃性、それらと関係もあるでしょう。
でも、そのような一般的な言説が、一人一人の子どものその時々の心理に当てはまるとは限りません。家庭での体験も影響するでしょう。複雑で、変化に富んだ心の動きを、一面的に切り取って解釈しても、真実とは似て非なるものだろうからです。
◆善さに向かう育ちを信じる
そこで私はこう考えています。私の実体験とも一致しているからですが、私は「人はなぜか自らより善き事へ向かって、調整していく力を持っている」(村井実/佐伯胖)という発達観を信じています、というか慣れ親しんでいます。
ですから、こう思います。
まずは子どもたちに、他人との関わりの中でしか噴き出て来ない感情を味わってほしい。お友だちとの関係の中で、息づいている感情と向かいあってほしい。
◆気持ちの調整には時間がかかります
そして、できればこう考えてあげてほしいのです。自分の感情を知りコントロールできるようになるのは、ゆっくりだということ。感情を子どもなりに整理して消化するには、時間がかかります。そのとき、大人から期待された行動がすぐにとれない心理状態というものがあって、自分を守るために、「なにもしない」「いやだ」という時間が必要な場合も多いのです。
家庭や地域には、子どもの同士の関わりの中で学ぶ機会がありません。園生活では、家庭では体験できない社会性を学んでいます。

シンカリオンを見てみる

2019/08/07

「子どもが興味や関心を持っているものは、大人も見たり体験してみよう」。私は保育士養成校で学生によくこう言っていました。「子どもがなぜ、それが好きなのか、どういう感じでそれを楽しんでいるのか、実際に感じてみよう!」と。
そこで今朝、シンカリオンを見てみました。一部の男子に人気のテレビ番組です。新幹線がロボットに変形して大怪獣と戦うのです。いまや日本アニメの代表として世界的に有名な「マジンガーZ」と同じタイプの操縦ロボものです。「E5はやぶさ」「E6こまち」「E7かがやき」「E3つばさ」「N700Aのぞみ」など、実際の新幹線の名前がついたロボットを、小学4年生から中学1年生の男女が操縦します。
今朝は「ブラックシンカリオン」が味方のピンチを救うストーリーでした。「ブラック新幹線なんて実際にはないけど・・・?」と思って番組サイトを検索したら、「10年前突如現われた正体不明の謎の新幹線」でした。うまくできてる!
ブラックシンカリオンが、大きな怪獣を押さえている間に、他のシンカリオンがでかい手裏剣のようなものを振り回してやっつけた!と思ったら、「さっきのは影武者だ」とかなんとか言って、また戦うことを約束して次回に続く・・。また次を見たくなるようなところで終るあたり、まぁ、そこも昔と同じでした。
◆男子が好きなツボを押さえた作り
男子が好きな要素を上手に取り込んでいます。変身、鉄道、怪獣、収集、小学生、忍者、戦い。本当の新幹線の系統番号などと同じで、走っている場所の都道府県が出身地になっていたり、女子のキャラクターも配置していたり、あまり過激な表現もないなど、親を敵に回さないための配慮が明瞭です。スポンサーはプラレールやトミカの(株)タカラトミーです。
◆テレビは表層イメージを共有しやすいのが強み
ごっこ遊びは「再現遊び」なのですが、登場するキャラクターを共有していれば、その名前を言うだけで相手にも伝わります。シンカリオンはそれぞれが得意技を持っていて、それを繰り出して戦うときに「フミキリシュリケン!」とか「ビームライフル!」とか、口癖の「ぶちおもしれえ」とか言って遊べるわけです。
運動ゾーンのネット遊びの中で飛び交っていた「言葉」の世界は、きっと、そんな感じだったのでしょう。テレビ映像を思い浮かべて少し想像できます。

◆子どもは手と足で感じて考える

昨日はこの「園長の日記」で、「週1回ぐらいのテレビの影響に負けたくない!」という趣旨を書きましたが、実はこの番組は毎日やっていました。火曜~金曜 の朝7:00~8:00に、2話ずつ放送しています。毎日見られるのです。これは、ちょっと「手強い相手」かもしれませんね。

でも大丈夫です。子どもは身体ぜんぶが感覚です。あくまでも例えですが「子どもは頭と手足で一緒に考える生き物」です。テレビは所詮テレビです。リアルに五感が揺さぶられるような遊びの魅力には、到底及ばないのです。

テレビ番組のシンカリオンよ、千代田せいがは「センス・オブ・ワンダー」な体験で、「しょーぶだぁ!」。

(カブトムシを幼虫の頃から育て、孵化するときも観察し、ジェリーの餌を与えて、飛ぼうとするとき羽を広げるところをみたり、カブトムシを持てるようになったり、こうやって、それを見せてくれたりしています。でも、先日、飼っている虫かごに、カブトムシは湿り気がある方がいいという話を勘違いして、ドボドボと水を入れてしまい、溺れて死んでいましました。そんな痛恨の失敗が起きるのも、実体験の詰まった生活です)

戦いごっこの是非

2019/08/07

今日は先月7月9日と同じく日本橋でギビングツリー主催の研修会がありました。その中で、いろんな保育の話をしましたが、自由遊びについては、偶然、男子の「戦いごっこ」が話題になりました。研修会から、その部分だけご紹介します。ちょうど、昨日までの続きになります。
◆役割交代のある遊びを
戦いごっこは、基本的に武器を使い、暴力で相手を負かすものなので、ヨーロッパのドイツやフランスでは遊びとしては推奨されていません。ただ、自由遊びの種類として、一定許容されているのは、役割交代のある場合です。

例えば、いわゆるヒーローものには、正義の味方や悪者役を演じ合うロールプレイになることが多いので、自由遊びの「条件」に当てはまるようです。女子なら「お姫様もの」が該当します。

いまの70歳前後の団塊世代なら「月光仮面」、「怪傑ハリマオ」その下の60歳前後世代なら「マグマ大使」「ウルトラマン」などのヒーローと悪者役で遊んでいます。その後は「仮面ライダー」シリーズが長い間、他に人気を譲らず、90年代からは「◯◯レンジャー」がテレビの特撮ヒーローの座を占めてきました。
◆テレビに負けるな、遊び!
ところが、今の子どもたちの「ヒーローごっこは、ちょっと心配です」と藤森統括園長はいいます。
「見ていると、悪者役がいません。力任せに強い方が勝ちです。それぞれが、自分が一番!という強さだけを競うヒーローになってしまっています」
テレビの影響が大きいとはいえ、たった週30分程度の番組が子どもたちの心を掴んでしまうことに、私たちは負けるわけにはいきません。そんなものよりももっと夢中にさせるものを用意しようと思います。

心の解放と自由遊び

2019/08/05

人は心が解放されると嬉しいと感じます。精神性の自由は、人間性の根幹だからです。空想の羽を伸ばし、自由な発想で自分らしく生きる時間を満喫出来ること。これこそ人権の核心です。だから現代の憲法もその自由を保障します。日本国憲法も同じです。国家は個人の心を縛ってはならないのです。それが「基本的人権の尊重」の意味です。

子どもは心が解放された状態のとき、自由に遊んでいることが多いものです。そのことは昨日お話しました。今日はその続きです。テーマは「自由遊び」についてです。自由遊びが人権の尊重と結びついていることを、私たちは深く理解する必要があります。
◆遊びという切実な要求
こんな文章があります。別冊日経サイエンス『心の成長と発達』から引用します。サイエンスライターのM・ウェンナーは2009年、米国の科学雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」に掲載されたレポート「遊びはシリアスなニーズ」で、次のように書いています。
ーーーーーー
「子どもの頃、ルールのない、空想力に任せた遊びをしたことがないと周囲に適応した幸せな大人に育ちにくい」。
ーーーーーー
そして、こう続けます。
ーーーーーー
「科学者は、そうした遊びを『自由遊び』と呼んでいるが、社会の中でうまくやっていき、ストレスに対処し、問題解決などの知的スキルを身につけるには、そうした自由遊びが極めて重要だ」
ーーーーーー
この結論に至るまで、アメリカの精神科医スチュアート・ブラウンは42年の歳月をかけて6000人から幼年期の話を聞いてデータを集めています。
◆ネットの上での自由遊び
園生活の中で、今日もそんな「自由遊び」を楽しんでいる場面がありました。私が担当している「園長による朝の運動遊び」のときです。ネットへのよじ登りがひと段落すると、ネットに乗ったまま、わいわい、らんらんの男子たちの井戸端が始まりました。
ーーーーーー
「ハヤトのシンカリオンだ」「オレはハヤブサ」「じゃあオレはかがやき」「怪物がやってくるぞー」「いまだ、ツバサ!いくぞ!」・・・。
ーーーーーー
運動遊びを見守っていたら、子ども同士の戦隊ごっこになっていたのです。ただ、ことばだけですが。その会話遊びは、ゲームなどのルールのある遊びではなく、自分たちで「面白い」「楽しい」と感じる中で思いつくことを友だちに伝えあい、共有していく遊びであり、まさしく「自由遊び」です。
例えば普段、無口なKくんの饒舌なことと言ったらありません。シンカリオンの役割を演じているとき、彼らはコミュニケーション能力、他者理解、自己主張、感情コントロールなどの力を駆使しています。自由遊び、おそるべし!
◆シンカリオンというヒーローたち
私は彼らが何を語っているのか、全くわからないので、こういうときに頼りになるHくんに「シンカリオンってなぁに?」と聞くと明瞭な回答が返ってきました。「新幹線が変身してロボットのシンカリオンになるの」。なるほど、新幹線が変身して新幹線ロボットになる戦隊アニメーションもので、テレビでやっているらしいのです。彼らの心のなかではテレビのヒーローが躍動していたのでした。

子どもの心が解放される意味

2019/08/04

子どもの心が解放されるときって、どんなときだろう? 今日はそんなことを考える1日でした。きっかけは「高畑勲展」に行ったからです。
◆心が躍動している時間
早々と脇道にそれますが、ここでいう「解放」は解き放すというときのカイホウです。「人質が解放されました」の方です。校庭開放の「開放」ではありません。自由になること。束縛や拘束から逃れ心や身体が自由になることの方です。
◆自由に解放された遊び
高いところへ登り、虫を触り、動物や植物の神秘に驚き、心を躍動させて思いっきり自由に遊んでいるとき、子どもの心は解放されています。保育園では、そんな時間があります。子どもの心が自由になる時間に、子どもの心は成長します。子どもの精神世界は、思い通りにやりたいことができる時に、広がっていきます。・・・・そんな思いを強くする展示と出会いました。
 
◆プレヴェールのことばから学んだこと
高畑勲がアニメーションの世界に進むきっかけとなったのが、アニメーション映画『やぶにらみの暴君』を観たからだそうで、展示会場で、その一部が上映されていました。その脚本がフランスの国民的詩人ジャック・プレヴェール(1900~1977)です。映画「天井桟敷の人々」の脚本も彼です。
そして驚いたのは、当時未訳のプレヴェールの詞華集(アンソロジー)の代表作 『ことばたち』(ぴあ2004年)を訳したのが、高畑勲だったのです。プレヴェールの詩は、大きな影響を与えているそうです。その本は絶版なので今、アマゾンで調べたら1万円以上するのですが、その本の中で高畑は、こう解説しているそうです。
ーーーーーー
「プレヴェールは、早くから太陽や月や大地や海への敬愛や、草木や動物たちへの連帯と自由意思尊重を、子どもの心とユーモアで歌った」
ーーーーーー
私の興味を引いたのは「子どもの心」で、どのように「太陽や月や大地や海への敬愛や、草木や動物たちへの連帯と自由意思尊重」を歌ったのだろうか?ということことです。
それがわかれば、私たち保育者も、子どもの心を捉えながら、子どもが心動かされている対象の「太陽や月や大地や海」つまり「自然」への敬愛や連帯そして自由意思尊重を捉えることができるはずだからです。
◆奈良美智の「子ども」
そして、わかったのです、「子どもの解放された心」の意味が。
まず、プレヴェールの詩『鳥への挨拶』(ぴあ2006年)を高畑が編・訳を手がけたとき、その詩に奈良美智の絵がついているのです。「子ども」はあの奈良美智の子どもです。自由の意味がはっきりしてきました。
さらに、私にとって「あぁ、そういうことか!」と、はっきりしてくるのは、高畑が手がけた作品「太陽の王子  ホルスの大冒険」「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」「じゃりン子チエ」「セロ弾きのゴーシュ」「火垂るの墓」「おもひでぽろぽろ」「平成たぬき合戦ぽんぽこ」に登場する子どもたちと、その子ども(=自然)が躍動するために必要な舞台こそ、高畑がこだわってきた部分であり、その装置にプレヴェールと同じ精神が息づいていることに気づいたのです。
◆ハイジは服を脱ぎ捨てて走る
展示でそれを象徴的に解説していたのは「アルプスの少女ハイジ」のオープニング・エピソードでした。「“解放される心”第一話アルムの山へ」で、ハイジが、ふうふういいながら急斜面を登りながら、重ね着をした服を一枚一枚脱ぎ捨てながら登り終わり、ペーターと屈託なく大笑いするシーン。こんなにわかりやすい「心の解放」があるだろうか、と誰もが共感するはずです。
◆8月になるといつも・・
高畑は2つの世界大戦をナチスから解放されるまでフランス人として生きたプレヴェールについて、こう書いています。
「まず何よりも自由と友愛の、そして徹底した反権威・反権力の詩人だった。彼はあらゆる支配や抑圧や差別に反対し、戦争や植民地支配を憎み、人間性の解放と自由を擁護して、抑圧された者たちへの友情と連帯を歌った」
平和しか知らない私たちには、想像しにくい心情かもしれません。そこにこだわって日本のアニメーションを世界に発信した高畑勲の遺作は「かぐや姫の物語」になりました。
(図録「日本のアニメーションに遺したもの  高畑勲展」より)
子どもの心が解放された生きやすい世の中かどうかが、私たちの目指す社会でありますように。

にこにこの部屋を模様替え

2019/08/02

にこにこ組は今日、保育が終わってから模様替えをしました。ちょうど4ヶ月経ったところで、子どもたちが今求めている「空間」へ再構成しました。

遊びの空間を大きく静と動に分け、右側の静の空間には従来からある絵本、制作、見立て遊びに加えて隅に「くつろぎ」を、そして窓側には「観察」の場を設けます。のんびりと安心してリラックスして過ごす場所は、とても大切だからです。また、せっかく乗り物がたくさん通る昭和通りも生活環境として、取り入れたいからです。にこにこさんたちの月曜日が楽しみです。

心の世界が広がるという意味

2019/07/30

人の心が発達するというのは、心の通いあいが豊かになること、そして関わりの中でそれぞれの「世界」を広げているんだなぁと、実感します。身長、体重、身体機能など体の成長も大事ですが、外からは見えにくい「心」の健康や発達は、その子が住んでいる精神的な世界、社会的な世界そのものですから、その「世界」が豊かになることは、素晴らしいことです。
◆気持ちのキャッチボール

毎日の「世界の広がり」は、気づけないほど、ちょっとずつです。そのちょっとずつの変化を、園のクラスブログが紹介しています。とても面白いです。

例えば7月27日の「キャッチボール」。13ヶ月のRちゃんが5ヶ月Mちゃんの頭を「いい子いい子」とやさしくなでてあげると、されたMちゃんが、きっと嬉しかったのでしょう、いい子いい子してくれたRちゃんの右手を触っていたそうです。
5ヶ月のMちゃんはこう思ったのではないでしょうか。「なでなでしてくれて、気持ちいいよ」と。だから「そう、この手だよ、気持ちよくしてくれたのは」とでも伝えたいかのようです。
Rちゃんの方も、自分の手を触り返されるのですから、自分で働きかけた相手からの反応にまた、何かの関興を覚えたに違いないのです。
◆情感のこもったやりとり
まだ、明確な感情の分化はこれからという時期に、このような情感の発生と交流が起きていることが、ものすごく意義深いことなのです。どうしてかというと5ヶ月の赤ちゃんがとった反応は誰かに教えてもらったことではありません。心地好さを生じさせた「手」に自分の手を伸ばすこと(リーチングすること)は、手をうごかしている「相手」の意図を感じ、それを確かめているのかようです。不思議な事ですが、そうして「相手」との関わりの中で自分を作り上げていく、まさに二者関係の中の自分作り、そのプロセスを私たちは目の前で目撃しているのです。
◆言葉を獲得した指差しの意味
7月27日の「友だちたくさん」では、14ヶ月のYちゃんが、写真絵本のお友達の顔を見て、本物のお友達を指差します。
はっきりと三項関係が成立していて、自分とお友達の間に表象としての写真が介在していて、その関係(二つは同じ)を指し示していることになります。その表象に「Rくん」という発語が伴ったときが言葉の獲得ではありません。すでにYちゃんは表象としての「Rくん」をしっかりとイメージしており、内面世界では言葉を獲得しているのです。言葉は表象の一つだからです。この関係世界の広がりが、人間らしい社会性の基盤を象っているのです。

【巻頭言】皆さんからの言葉を受けとめながら

2019/07/29

私にとても大切な宝物ができました。

皆さんから頂いたアンケートの「言葉」です。毎日忙しく働いていらっしゃるにも関わらず、園からのアンケートに心を込めてご返事をくださり、本当に感謝です。一枚一枚にお子さんへの愛情を感じながら、そこに込めて頂いた思いをこぼさず受け止めようと、熟読しました。また職員全員で回覧して読み込みました。

実はうちの法人はあまりアンケートを取りません。なぜかというと「家族でアンケートなんか取らないでしょ」ということです。満足度調査などのアンケートを取ることは、人間関係を消費社会の役割を演じる関係に位置づけてしまう力が働きます。サービスを提供する人とそれを享受する人という関係です。しかし保育コミュニティの形成は、その次元を超えていく必要があるのです。本当に伝えたいことや大切にしていることは、一緒に生活していると、いい意味で以心伝心、いいも悪いもわかり合うことになるからです。夏目漱石ではありませんが、言いたいことも言っても角が立たない、情に流されることもない、でもそういう信頼関係というか、家族のようなありようが、現代社会には必要なのです。お互いに性格やタイプがわかり合うまでは、コミュニケーションを潤滑にするためにも、メッセージ性の強いアンケートを取らせていただきました。そうはいっても改善すべきことは改善するPDCAはしっかり回します。

とても嬉しい言葉をたくさんいただきましたが、その中で、こんな一文と出会いました。

「担任の先生はもちろんですが、全ての先生が子どものことをよく把握して下さって安心しております。お友達を含めて大きな一つの家族のようだと感じております。保育園生活が始まってから子どもの目覚ましい成長を目の当たりにし、先生方と共に子育てしていけることが、私自身の仕事を続けていくモチベーションになっております」

現代社会は核家族や三歳児神話にみられるように、人類史上、過去にやったことのない子育てスタイルに追い込まれています。生物学的な親だけが子育てを担うということは、一度も経験したことがありません。いわば壮大な子育て実験が行われていて、その中で保育園がそれぞれの家庭の「第二の家族」「大きなお家」の役割を期待されています。それは託児という商業的サービスの延長にあるものではなく、人と人が信頼し合うことの延長にあります。

そのためのアンケートです。心を通わせる手段としてのアンケート。ですから、私どもへ伝えたい、こうであってほしい、でも直接的に言うとトゲが立つしという配慮を感じる文面もありました。ありがたく、また心して行間を受け止めさせていただきました。

私ども保育園に与えられた資源(予算と人材)の中で、できる限りのことに挑戦しますので今後も楽しい園生活の創造にお力をお貸しくださいますようお願いします。(園だより8月号より)

ちっちゃな指が伝えてくれる気持ち

2019/07/12

子どもといると人生が豊かになります。どの子からも、それぞれ「何が大事か」ということを感じさせてくれるからです。面白いことに、今日はいろんな「指」で、それを伝えてくれました。

ーーーーーーーー
Hちゃんは、蛹になろうとしている動かないアオムシのアタマを、そっと優しく撫でようとする人差し指で。
ーーーーーーーー
Rくんは、絵本の「パンダ銭湯」から帰るとき右耳の後ろだけパンダワックスを塗り忘れたパパに「ここ」って教えてくれる人差し指で。
ーーーーーーーー
Yちゃんは、水筒の蓋は「こうやって開くの」とボタンの押し方を教えてくれる親指で。
ーーーーーーーー
Hくんは、昼食を食べた後で一緒に行こうと3階への方に向ける人差し指で。
ーーーーーーーー
Rちゃんは、「そっち」じゃなくて「こっち」と読んでほしい絵本を開き、お尻大使がここに「いた!」と確かめる人差し指で。
ーーーーーーーー
Kくんは、水のなかにゆっくりと落ちていくお魚の餌を「雪」といって教えてくれる人差し指で。
ーーーーーーーー
Kくんは、指を開いたらそこにダンゴムシをつまんでいた親指と人差し指で。
・・・こんなにたくさんの「大事なこと」が、子どもたちの指にはくっついていました。ちっちゃな指の、ちっちゃなキラキラした気持ちです。

日本赤ちゃん学会に参加する

2019/07/07

 
今日7日に学んだこと。共感と同感は違うこと。子どもは「共感」する力を持って生まれてくること。 子どもたちが出会っている世界の素晴らしさを一緒に本当に実感をもらって「共感」出来ているか。子どもがなんだろう?どうしてだろう?と興味を持っていることに、一緒になって探ろうとするような生活をしたい。その子どもたちが持つ共感する力を壊さないためにも、過剰な指示や教え込みは控える方がよいこと。過剰に適応させると共感することができなくなること。反対に大人の方が子どもに「共感」してもらっていることにも一杯起きていること。こんなことについて、エピソードを通じて考えることができた一日でした。場所は広尾で開かれた「日本赤ちゃん学会」でした。
top