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見守る保育(保育アーカイブ)

グーカラ・グー カラ・チョーカラ!表象が繋がっていく契機をデザインするには?

2023/06/20

「グーカラグーカラ」というジャンケンが流行っています。グーで勝ったら「グーカラグーカラ」と言って、次に「チョーカラ」と言ってチョキを出したりする遊びです。バーを出すならパーカラです。あいこになったら先に「水」というと勝ちです。私も懐かしくてやってみたら、先に水と言われて負け続けました。子ども(年長)の方が、まぁ早い早い。

そのことの意味を考えていました。言葉の獲得にまつわる話として。言葉は文脈に即して獲得しやすいという話と、この遊びにようにグリコやしりとりのように、あるいはナンセンスな言葉遊びのように、それは言葉自体の、意味の文脈からちょっと離れた音そのものが主導する意味の世界で、独立的、あるいは自立的な発展みたいなこともあるということを考えていました。

ところが、さっきスマホにメールのアカウントを追加するために、備忘録を見ながらパスワード(記号でもあり言葉でもある)を打ち込んでいる時、突然、そうか!と閃き、この文章を打っています。その操作をしている時、過去にもこれと似たようなことをしていた、その情景が思い出されたのです。それとは違うでしょうが、その記憶の再現というようなことを子どもが毎日やっているのですが、どんな時にそれが再現されるのかという話です。

ちょっとめんどくさい話なのですが、体験したことがこうして、感覚的な、たとえば映像的な記憶、言い換えると状況的な記憶が丸ごと残っているということ自体が面白いと思います。人間の脳(と身体)というのはよくもいろんなことを蓄積しているものだと不思議な気がします。

その時、そうか!と思ったのは、その記憶が思い出されるのは、つまり自分のなから引き出されてくるのは、当たり前なのかもしれませんが、その状況と似た状況の中に置かれた時だ、ということです。状況の相似や類似が、そにれにまつわるあれこれの情報を引き出してくる感覚をリアルに覚えたからです。勝手に向こうからやってくるのです。

子どもは、それと似たことをしょっちゅうやっているのではないか。模倣やごっこ遊びや子ども同士の会話の中で、体験の再現と再構築を繰り返しながら、体験したことを自分なりの文脈の中に位置づけなおし、つまり意味づけながら、広がりと深さを獲得しているのではないか。

まるで子どもの方が「だったらこうもアリだよね」と言葉で言うわけではないのですが、現状以上の何かに進んでいく。自発的に動かしていくようなこと。遊びがはみ出ることや多頭性という特徴を持つのは、子どもが自分の文脈を再現して遊ぶことで、新たに足りないものや空白部分のようなものに無意識に気づき、そこにダアーっと目掛けていくような動きやエネルギーを感じます。そういうことをしているのかもしれない。

そういう風にでも考えないと、あれだけ自発的に活動していくエネルギッシュな姿には、大人が教えて身につくものを遥に超えていくような、あるいは自分達でやりたいんだ、という、場合によっては反抗的とも思えるほど、あるいはルールを破ってでも面白いからやりたいんだという欲求の強さを感じます。いったい、この生命力は、どんな仕掛けから生まれてくるんだろう。思わず遊びたくなる、というその「思わず」の仕掛けのところ。

生まれてすぐの、少ないはずの経験からこんなに爆発的とも言えるほど、どうやって色々なことを取り入れていってしまうのか?赤ちゃんが1歳半ぐらいまでに徐々に大きくなっていくのは、まだ「徐々に」という感じなのですが、それから数年の間に、6歳ぐらいまでの数年間に「もう大人と同じだよね」というぐらいに立派になる感じがします。大抵のことはできますし、話も通じます。たとえば言葉なら5000語ぐらいは獲得しているというのですから、すごいスピードです。幼児期後半ぐらいになると一日10〜15語ぐらいは覚えていくという計算になるそうなので、とても大人は真似できませんよね。

そんなことを考えていたものですから、子どもたちが毎日飽くなく遊び続けながらやっていることについて、私が「そうか、このタイミングの連続がプロセスなのかも!」と思ったのです。体験で得た表象がつながり合って、つまり表象=リレゼンテーションの原義、改めて目の前にあらわにするという再現性が働くタイミングのことです。どんな時に再現されるのか。それは状況が似ている時。そして物や空間などの環境が働きかけてくるとき(アフォーダンス的な)。

それは現実の生活空間でも絵本の世界でも同じ。そこに類似や相似があれば、人間は易々とそこに飛躍できるということ。そう考えると、子ども自身の文脈の多様性を考えた環境は、想像の世界も入ってくることになるのでしょう。仮想の世界と言ってもいいのでしょうけど、子どもたちは、自分の中に、どんな表象の広がりと深さを身体と環境のかかわりとしての「知」として作っていっているでしょう。身体知と環境知というそうです。

それぞれの人がどうやっているのか見えませんが、大人もやっているなあ、と思います。それは「チョーカラ」であいこになって、子どものいう「水」の速さに感心したり、忘れたパスワードを思い出せない時などに私の身体知の衰えは棚に上げて、環境のせいにしながらですけど。それに比べて子どもは、なんとしなやかなんでしょう。たくましいと思います。

大人は子どものトラブルをどう受け止めるか、の続き

2023/06/01

園だより6月号「巻頭言」より

子どもは「はみ出し」ながら育ちます。このことも付け加えておかなくちゃ、と昨日の「園長の日記」に書いたことの続きです。そのはみ出し具合を、できるだけ「ひろ〜く」とってあげたい。そういう話です。なぜ「広いか」というと、子どもは自然だから、と言うことなのですが。

大人が思う通りに育ってほしいというより、子どもはそれを飛び越え、予想外のことをやりながら、生きているのだと思います。それを「困ったこと」とか「例外」とか「普通じゃない」というように捉えたくありません。子どもを大人の狭い枠組みの中に押し込めたくはないのです。そうではなく、子どもは(つまり人間は)、そういうことが「自然」なんだと思えるといいのかもしれません。

子どもは自然そのものだという話は、私たち幼児教育に関わるものは、よく聞きます。自然というのは思う通りにならない、という性格を持っています。人間は自然を相手に都合のいいように変えて、都市や文明を築いてきたが、時々、自然災害や天変地異などが自然の怖さを思い出させる、というよくある話。それとはまた別に、人間の外側に自然を見るのではなくて、私たち人間が自然の一部であって、大きな自然の営みの中にあるという認識を忘れないでいよう、そういう話が一方にありますよね。子どもはその「うちなる自然」を思い出してくれるということです。

その話で私が思い出すのは、養老孟司さんの「子どもは自然に属する」という話です。どこかで聞いたことがある方も多いでしょう。大人は都会では道に段差があったり障害物があると、つまずいて怒ったりします。ちょっと不便なことや都合が悪い不合理なことがあると文句を言いたくなる、そんな気分を持っています。私たち大人が都合のいい「人工」世界にいるからでしょう。

でも山の中に入って、凸凹しているからといって、それに文句を言う人はいないでしょ。子どもが凸凹していて、大人が思うど通りにやらないからといってイライラしてしまうのは、山に入って歩きにくいと文句を言っているのと同じですよ、というそう言う話でした。

先ほど主任が「ある活動で、幼児がサンダルで山登りをしているところがあるんですよ」と教えてくれました。過保護にしないという趣旨の話ですが、もう一つ、自然の一部である子どもは自然の中なら裸足でいたがるもの、という話にも聞こえてきます。子どもは自然でいることを求めていて、その振る舞いの延長に、「人工的な」人間社会が求める決まりにうまく適応できないことが起きているだけ、という見方もなりたちます。ちょっと理屈っぽい話になってしまいましたが、子どものトラブルを有る意味で自然現象だから仕方ない、そんな大らかな受け止め方も必要な気がするのです。

大人は子どものトラブルをどう受け止めるか

2023/05/30

私たちが立ち帰るものに保育原理があります。そこに書いてあることは、長い年月をかけて先人たちが作り上げてきた教育や保育や育児の要諦が、簡潔に記載されています。大事な原理、原則のようなもの、あるいは保育の道標のようなものになります。こういうことが起きていて、どうしたらいいのだろうか、どう考えたらいいのだろうか、という時、私はまず、「保育は養護と教育が一体的に行われている営みである」という保育所保育の特性に立ち帰ることにしています。

養護は生命の保持と情緒の安定ですが、そのためにはさまざまな欲求が満たされていく必要があって、とりわけ社会的な欲求、つまり人と人の関わりの中で見えてくる欲求、社会的な欲求が十分に満たされていないと、とかく不安定になりがちです。どんな関わりの欲求なのだろうか。それはケースバイケースです。

それはある時は愛情かもしれないし、私をみて「これ作ったの、みて」と認めてもらいたいという承認の欲求かもしれません。あるいは自分でやりたい、思う通りにしたい!という自在感のようなものだったり、何かを成し遂げた時の達成感のようなものの時もあるでしょう。また、お友達という仲間の一員になりたいという仲間意識、所属感のようなものも、あるかもしれない。

規範意識が育ってきたからこ生まれる葛藤もあります。自分はきまりやルールを守っているのに、そうじゃない姿を目にすると「違う」と言いたくなる気持ち。そうすることになっているという事を守れないお友達への注意をめぐって、手が出てしまうこともあります。公平感や正義感からくる「守らないのは悪いこと」という意識から、強い働きかけが生まれてきます。指摘されて「あ、そうだった」と、行動が変わればいいのですが、そう簡単にはいかないものです。それができるようになるまでに、ある程度の時間がかかります。

とにかく、いろいろな「思い」の伝え合いの中で、それが子ども同士の中でぶつかり合ったり、受け損ねたりし、誤解しあったりすること、やりとりしている間に、こんがらがってしまってうことも起きます。子どもたちは、幾つもの「こうしたい、ああしたい」が絡み合って、それぞれの主張がぶつかってしまう時もあります。さらに感情的になって、気持ちを抑えきれず、手が出てしまうこともあったりします。

子どもは「やり方が違うよ、こうだよ」と優しく教えることができず「違うよ、ダメだよ」という強い言い方になることもしばしば。それを無視したり応えたりしないと、伝えた方が「制裁」への向かうことがあります。先生に言いつけにくる、といこともあります。守ってほしいルールは子どもがやることなので単純明快な方がよくて、人を叩いたり(バンしたり)、蹴ったり(キックしたり)、噛み付いたり(ガブしたり)はダメだよ、ということは、大体小さい時から理解していきます。それでも、相手がそうしてくると、つい自分も「応戦してしまう」ということだったあります。

このような我慢できる力や、感情をコントロールする自制心などは、持って生まれた特性や経験の積み重ねの度合い、他の欲求が満たされているか(睡眠不足とか運動不足、お腹が空いているか)など、生理的な欲求も含めて、どうなっているかという個別の影響なども相まって、いろいろなことが影響します。

先生や親の話も理解して、わかっているのですが、実際にその場面になるとまだできないということもあります。私たちは、起きた事柄の経緯から、それぞれの子どもの「こんなつもりだった」という思いを丁寧に受け止めていくこと(言葉で表現できないことも多いくて、察していくしかないことも多いのですが)を大切にしながら、伝わっていないときは、仲介して「こういうつもりだったんだって」と代弁したり、橋渡しをしたり、しています。どっちが正しかったか、ということはあまり優先しません。そもそも、白黒つけることが目的でもなく、それぞれの折り合いの付け方、気持ちの寄せ合い方、許し方、仲直りへの気持ちの整理の仕方などを、体験的に学んでいく、貴重な体験の積み重ねだと思っています。

「怖いけど、やりたい!」を助けてあげる子どもたち

2023/05/02

さてさて、今日を振り返ってみると、子どもの数は、GWのはざまの平日なので、昨日と同じく普段の3分の2ぐらい。比較的のんびりと過ごしました。5月に新しく入園したお友達に遊び方を教えてあげたり、絵を描くのも室内と屋上を行き来して使い分けたり、先生と一緒に食べる食事のときに、みんなで同じ話題を楽しんだり・・・ちょっと人数が減るだけで生活の流れ方がこうも違うものかと思う場面もありました。

子どもは友達になる名人です。昨日から園に来始めた年中の女の子。登園初日から数人の女な子たちと一緒にドレスに着飾って、ごっこ遊びを楽しんでいます。人形の赤ちゃんをベビーカーに乗せて、室内をお散歩です。ときどき、ソファのある絵本ゾーンにきて、赤ちゃんと一緒に寝転がり、くつろいでいます。

今日は幼児のクラスブログにあるように、運動ゾーンで微笑ましい子どもの助け合い、というか協力し合う場面がありました。ちょっと紹介します。

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今日の運動ゾーンでのエピソードです。
この5月からの新しいお友だち、らんらん組のKちゃんが、ネットの遊具に挑戦してみたい!と やってきました。

少し、足をかけて登ってみるけれど、まだロープがゆらゆら揺れるのが怖いみたい…。
「こわい〜〜」と半泣きになりながらも、降りるのはイヤ!と、挑戦してみたい気持ちはあるようです。諦めずにチャレンジするKちゃんです。

はじめのうちは、まわりにいたお友だちもおかまいなくネットによじ登ったり、となりのブランコに乗ったりして遊んでいたのですが…
ふとJくんが、「Kちゃん、揺れると怖いんだって!だから、みんな乗らないで!」と、Kちゃんのことを下から支えながらまわりのみんなに伝え始めました。

すると、そこから少しずつ、一緒に遊んでいたHちゃん やMくん も、 Kちゃんのためにロープが揺れないよう押さえたり、怖くないように下に立って支えようとしてあげたり、協力しながらのお手伝いが始まりました。

Jくんを筆頭に、「じゃあ、こっちを押さえといたら良いんじゃない!?」と案を出したり、あとから何も知らずにやってきたお友だちに「Kちゃん 揺れるのイヤだから、いま(ネットに)乗っちゃダメ〜!」と伝えたり…。
そして、後半から加わったRちゃんも 一緒にお手伝い。

↑赤い玉が揺れるとネットも揺れてしまうと気がついた子どもたち。みんなで押さえています!

頼もしいチームワークのわらすさんでした。

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人間は「人への関心」や「利他性を持って生まれてくる」と言われます。協力することがヒトの特性だという説もあります。そう考えれは子ども同士がすぐに仲良くなったり、協力しあったりするのも当然といえば当然かもしれません。それでも、他人が困っていたら助けようとする心が動き出すのは、子ども同士の中に気持ちの通い合いがあることや、その遊びの面白さを知っているからこそ、Kちゃんの「怖いけどやりたい」気持ちが分かる、という同じ体験に基づく共有された心情もあるからでしょう。そういう要素が重なり合って「わかった、そうだよね」が受け入れられて、伝播していったと言えるのかもしれません。

優しさや思いやり、お友達が喜ぶことが嬉しい、困っていたら助けてあげたいという心情の育ち。それは確かにその子の「資質・能力」としての育ちになっていってほしいものなのですが、このような姿を生む要因を個人の資質・能力だけに限定した見方をせず、やりたいと思うネットという遊具(もの)や、お友達(人)などの存在(環境)が影響しています。その場に創発している、とも言えるのでしょう。

さらにこのことを、幼児教育の「見方・考え方」から捉えると、Kちゃんはネットでの遊び方、つまり環境との関わり方と、こうしたらこうなるという意味に気づき、それを自分に取り入れようとして試行錯誤しながら、どうやったら上手く登れるようになるのかを、自分の身体と会話しながら、思い巡らしているように見えます。自分と物と人との関わりが同時に起きているわけで、身体的、精神的、社会的な関わりが、乳児に限らず生じています。

もちろん同時に、そこにお友達も助け合う過程で、助け方や声のかけ合い方などの関わり方や意味に気づき、それぞれがそれを学び取っていきます。行動の起点は困っているKちゃんへのJ くんの気づきと共感から始まったことですが、それが力強く広がっていった事実の中に、人が世界に関わっていく力強さの芽生えさえ感じます。

気づいてできるように「なっていき」、その手応えとしての世界の変化を感じとりながら、新しく遊びに加わってくるお友達に「〜なんだよ」と教えたりして協力を求めたり「しようとしています」。ここには、共感や見通す力などの非認知的なものを合わさって、考えることも判断することも表現することも含まれています。

より善いことをしようとしていると信じており、また、お互いの自由を認めながら、共にそれが実現できるようにすること、つまり公正さ(ジャスティス=正義)を実現させようとしているようにも見えます。これをきっと、よりよい社会をつくり出すための、学びに向かう力、人間性の陶冶と呼んでいいのかもしれません。こうした小さな積み重ねが大きな変化を生み出していくのではないでしょうか。

 

AIが回答した「見守る保育とは?」

2023/05/01

(園だより5月号 巻頭言より)

生成型の人工知能(AI)の一つ、chatGPTをよく使っています。どのようなものか、実際に使ってみようと思って始めたら、私にとっては、すぐに手放せなくなりそうなくらい便利なツールになっています。例えば次のように尋ねてみます。「藤森平司が唱えている見守る保育とはなんですか?」すると次のように回答してきました。

・・・・・・

見守る保育とは、保育者が子どもたちを徹底的に観察し、子どもたちの個性や特性を理解した上で、必要に応じて手を差し伸べることで、子どもたちの自主性や自己表現力、思考力などを育む保育の方法です。

従来の保育は、どちらかというと保育者が主体的に子どもたちに指導を行うことが多といわれ、子どもたちはそれに従うことが求められていました。しかし、見守る保育では、子どもたちの興味や関心に合わせて保育内容を調整し、子どもたちが自ら学ぶ力を育むことを目的としています。

また、見守る保育では、子どもたちの成長過程を共有することが重要視されており、保護者とのコミュニケーションも密に行われます。保育者は、子どもたちの成長について保護者と共に考え、協力してこどもたちを育てることが求められます。

・・・・・・

どうでしょうか。よくこんなに平気でわかったような断定ができるものだと感心します。ネット上にある情報を集めて瞬時に回答するのですから、大したものです。藤森先生も同じことをやって「下手な解説よりも、よっぽどいいんじゃない?」と、新宿せいが子ども園だよりにも、A Iの解説を載せて、本人が間違いないと言っているから、正しいです、とユーモアたっぷりに紹介したそうです。

一方で、使っていくと、このチャットの限界もわかります。回答について、さらに詳しく問い質していくと、行き詰まりが露呈します。例えば見守る保育と要領・指針との違いを聞くと、方法でアプローチが異なることがある、というので、さらにそれは具体的に何が違うかと問うと、最初の回答の言い方を変えたものに、いくつかの要素を新たに加えてきました。それはどこでもありうる保育方法でした。自信ありげに平気で嘘もつくのです。この辺りから、知らない世界のことだと、私も騙されるかもしれないと思いました。

こう言う意味での精度は、ユーザが使うほどデータ量も増え技術もあっというまに、どんどん進化していくでしょうから解決されていくのでしょう。人間が言葉や映像や記号や音など、デジタル化されうる表象は全てAIの独壇場となるのかもしれません。しかし、もちろん人間の物理的な身体性に由来するものはAIそのものでは代替できないでしょうが、倫理的問題は別にすれば、人工人体などとの融合技術は進むでしょう。それでも人間の内部で起きている事実と人間性の関係にどんな影響を与えていくのか、専門家はきっと、そこの周辺を真剣に議論していることでしょう。

環境との関わり方や意味に気づいていくプロセス

2023/04/24

私がぶらぶらと園の中を歩き回っていると「これからお店やさん、やるの!。これから準備するの」と2歳児クラスの女子二人が私にそう言って遊び始めました。「〜やるの!」のところで両足でピョンと飛び跳ねながら、抱きかかえたぬいぐるみを振り回しながら、足取りも軽やかにルンルンしています。自分がこれから始めることをそう言って始めるのは、それが楽しいことで、それを人に伝えたいコトになっているからでしょう。そこに気を許せる親しい人(私)が来たから、またそれはすでに知っている担任に言うのではなく、今ここに現れた私にいうのは漠然と「この人はそれを知らないだろうから」と意識したか、しないかはわかりませんが、とにかく私に教えてくれたのです。

子どもが言葉を獲得していく過程には、自分が伝えたいことがあって、それを親しい人や好きな人、特定の大人に伝えようとして、表現し始めるのでしょう。その時、私が現れなかったら「これからお店やさん、やるの!。これから準備するの」という言葉は発せられなかったかもしれません。彼女たちの表現にとって、私はそれを引き出すきっかけになったとわけです。私が現れただけで、彼女たちにとっての環境は変化し、言葉を引き出すリソース(資源)として働いた、と見ることもできるのでしょう。その子がそう言った時、多分あまり意識しているとは思えないので、無意識的なメカニズムが働いているように見えます。

そのような人と人、人ともの関係やかかわりに焦点を当てながら、その時のことを振り返ると、どうしてそういうことが起きたのかな、ということの理解の仕方が、変化することを実感できます。本人の特性にだけ還元して「気になること」をその子どもの原因として語るようなことではなく、そこで創発したことの複雑な要因のネットワークに視線を凝らすようなことが必要だと思えてきます。

人やものからその子どもに届く情報は、子どもにとってそれ見るだけで伝わってしまう意味が色々あって、それがその子どもの認識の変化を引き起こして、あることが気づかれたり、わかったり、できたりするように見えてきます。またそうやって発した言葉を聞いた私が「そう、お店屋さんやるの、いいね、何屋さんになるんだろうねえ」などと応えるものですから、より嬉しく思え、また楽しくなったりして、子どもが思ったことの注意の向かう仕方に影響を与えます。昨日までの話の続きに戻るなら、環境との関わり方や意味に気づいていくプロセスの一コマのようでもあります。

その子たちの遊びは、その後、延々と展開されていきました。このようにちょっとした「一コマ」をあえて虫眼鏡で拡大するかのように取り出しているのは、環境と子どもの間に起きている相互作用と言われているものの姿をよく理解し直したいからです。なぜなら、子どもにとっての経験のあり方をどう捉えるのかということについて、私たちの方が見方を変える必要性を感じているからでもあります。それは無藤隆先生の導きが大きいのですが、併せていま私が面白がっているのは佐々木正人さんの説明しているアフォーダンスと、鈴木宏昭さんの認知科学の知見、そして戸田山和久さんの知識論になります。

春の教育講座からの学び

2023/04/08

ChatGPTのようなツールが日常化してきたように、私たちの「情報編集環境」が急速に変わってきました。知識や記憶や思考のための人間の表象操作ツールが格段に便利になっていくと、社会はどう変化していくのか。今の子どもたちが大人になっていくときの社会を思い浮かべた時に、今の保育はどうあるべきなのか? そんな問題提起から始まったのが今日の「春の教育講座〜藤森先生の講義」でした。保護者の方が18人、職員や他園の先生方などのリモートを含めて36人弱の参加がありました。ご参加ありがとうございました。

 

講演を私なりに要約するとこうなります。(ChatGPTではありません・・)

視野に入れておきたい代表的な社会変化を4つ(少子社会、人工知能、グローバル化、ダイバシティ)を取り上げました。子ども家庭庁ができたり、異次元の子育て対策とか、保育士配置改善が議論されたりしていますが、これまでと何を大きく変えるのかが、よくわからない。スローガンだけがまた踊って、本当に現場の保育が変わるか疑問。子育て支援はあっても、子どもにとってどんな保育や教育にすべきかがよくわからない、だから保育はあまり変わらないままになるんじゃないか、という危惧を持つ。だから地道に実践を積み上げて交流していこう。

人工知能などの技術革新は大人の働き方や生活を大きく変える。なくなる仕事もある。新しい仕事が生まれるかもしれない。過去もそうだったが、その変化は過去のはあまり参考にならない。その変化を前提とした時に必要なものとしてOECDが提案している3つのコンピテンシーなどがある。世界は教育をこんな風に変えようとしている。例えば中国は小学校の先取り幼児教育を禁止したことなど。IQと同時にEQの重視や非認知的なものが注目されるようになった経緯も。実際に15の非認知的スキルについて「自己チェックしてみましょう」と一つずつ解説。

日本の教育改革はこんなことを目指している。日本の大学入試改革も変わってきた。このままでは日本の若者の世界での競争に太刀打ちできないかも。そんな危機感も強まっているように見える。産業界からは文系にも数学は必要な社会になったとか、文理が分かれている日本の高等教育は大丈夫か、とか。英語は大前提で、世界的に見ればそれは学力以前のもの。いくらAIが出てきてもそこはどうなるか?語学を超えた先の力が勝負。それは何か。最低は好奇心や探究心だろう。協同性やクリティカルシンキングも。例の「3つのC」も。

インクルージョンの話。男女差、LGBTQ、年齢、障がいなど。個人と環境の関係でみる視点を社会がもっと理解して取り入れないと。日本はそこで足踏みしているように見える。乳幼児期からの人間観を開かれたものにして保育をする。課題はその具体的な保育の姿。

問題に気づき始めた海外の保育関係たちは、乳幼児のコエイジェンシーが関係性の中で発揮されてくる方法として見守るアプローチを参照し始めている。例えばシンガポールでは個と他者の関わりの中で解決の姿として、中庸の視点を取り入れたりしながら。世界の平和維持に果たす日本の役割がこの辺りにあるのではないか、そんな話とも繋がっていくものでした。

 

 

栄養士を目指す学生が保育体験に

2023/03/10

千代田区にきて4年、区内の大学との連携を進めているのですが、コロナで思うように進まなかったのが実習や交流です。やっとその一環として栄養士を目指している学生さんが保育園のボランティア体験に来ました。8日と10日の二日、それぞれ2名ずつです。保育園の調理業務、食事の提供の実際などを説明し、見学してもらいました。ほとんどの保育園は自分の園の中に調理室を持っているのですが、例外的に外部で作った「弁当」を持ち込む園があります。当園も園の中に厨房があって、直接雇用した栄養士3名(うち1名は非常勤)が、午前のおやつ、昼食、午後のおやつ、延長保育があるときは夕食(あるいは夕方のおやつ)を提供しています。

私は保育園の中に調理室があり、子どもも保育士も一緒に「食を営む生活」が展開されることが大事だと思っています。たとえば、園生活の中で料理をつくるプロセスを子どもたちが見て、色々なことに気づき、その活動の一部(下ごしらえを手伝ったり、お米を研いだり)を共有できること。そこで働く栄養士さんや調理員さんたちと一緒に食事をすること(コロナ感染対策時はできないのですが)。保育士だけではなく栄養士も喫食状況を把握して次の献立に活かすこと。子どもも知っている先生が作ってくれている料理であるという、日常的な会話や心の交流があること。子どもが簡単な料理をするときに、その指導をしてもらえること。プランターで育った野菜を収穫したらすぐに調理に生かしてもらえること。そうしたことが実現しやすいからです。

管理栄養士が各園の子どもの実態を把握しないで自治体単位の統一献立で給食を提供することは、今述べたようなことがやりにくいだろうと想像しています。離乳食ひとつ考えも、月齢はあくまでも目安であって、離乳の進み具合、咀嚼や嚥下の状態、家庭で食べたことのある食材の種類、食事の時間と生活リズムや体調から生まれる食欲などが違います。これは保育と同じで、一人ひとり家庭での過ごし方を含めた生活の連続性、24時間のサイクルのつながり具合を大切にします。

食べ具合を見ながら、どんなメニューや食材、調理法なら食が進むだろうかと考えながら、毎月の献立を見直しています。そうやってできた料理も、その日の個々のコンディションによって、子どもの喫食の様子は違います。そこで配膳は子ども一人ひとりに応じて、その都度の適量が変わってきます。まずは子どもの方からこれぐらいでいい、という考えを言えるようにしてあげて、それに応じて盛り付けてあげます。その日々の変化から大人は子ども理解が深まります。

また今日の学生ボランティアには、当園の栄養士がそうしているように、保育にも入ってもらい、子どもと一緒に遊んでもらいました。子どもと直に触れ合って、子どものことを知って、その子どもたちの食べるものを良くしたい、美味しいといって食べてもらいたい、そういう気持ちから食事を提供していく動機が育っていくと思うからです。

 

シンガポールの学生たちが来日

2023/03/08

都内のある大学がシンガポールの養成校の学生を招き、日本の保育を案内しました。約1週間の日程の中で今日8日、シンガポールとの交流がある藤森平司(省我会理事長)が、その大学で学生向けに2時間半の講演をしました。テーマは日本の保育の特徴、中でもに非認知能力と言われるようになった背景、こども同士の関わりから育つ自立心と協同性について、新宿せいがこども園の実際の保育の動画を使って語りました。

シンガポールといえば、世界の学力調査で上位になる「教育先進国」のイメージがあります。講演の後半のグループ・ディスカッションや、その後のグループ発表などを聞いていると、日本の大学生との差を感じます。それは自分の意見をはっきりと話すことです。質問もすぐに手があがります。その内容も率直です。たとえば「子どもの自主性を大切にすることはよくわかったが、保育者はそれをウォッチ・アンド・ウェイトとしていたら、親から何もやっていない、お金を払っているのに何もしないのか、と言われませんか」といったことを聞いてきます。

講演のテーマが保育者のペタゴジーに焦点を当てた切り口になっていないので、質問内容がそうなるのかもしれず、それはよくあることなので、それほど意外ではなかったのですが、やはり、なんでもはっきり疑問点を口にして問う、ということは大事なことだと思えます。控室で大学の先生ともその話題になりました。大学にもよるのでしょうが、概ねそういう意見は多い気がします。自分の考えや意見を伝え、相手の話を聞いて再構築していくような対話のスタイル、日本の学びの中にそのスタイルをもう少し取り入れていいだろうと思います。

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