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STEM保育(保育アーカイブ)

青虫を室内に入れてみる

2023/10/31

いつの間にか日本の秋にハロウィーンが入り込み、保育園に大鷲神社から「酉の市」の知らせが届きました。毎年、熊手を授かるのですが、長袖のシャツをまだ腕まくりして仕事をしているというのに、もう正月への準備が始まる季節だということに驚きます。

子どもたちも散歩に出かけるときは、半袖の服に薄手の上着という身軽な服装です。その度に秋らしい物を持って帰ってきます。玄関にはアゲハの幼虫がまだみかんの葉を食べていて、丸々と太ったピカピカの体が蛹になる準備に入っています。

スーパーなど果物屋には、ちょうど色々なみかんが売られていて、今日のお昼ご飯にもみかんが出ました。まだアゲハの季節が続くのでしょうか? みかんの新芽の季節はとうに過ぎたので、もうすぐ終わりでしょうが、よく分かりません。でも、お迎えの時などに一緒に観察してみてください。この週末には蛹になり、来週後半には朝、室内を蝶が舞っていることでしょう。

遊びからの広がりの可能性をどう見るか?

2023/10/26

話は昨日の続きです。保育参観で私が見えた光景についての話です。

◆セロテープが溶けた経験の波及度

火曜日にセロテープをお湯に溶かしてストローになったことを面白がっていた年長の女の子は、担任によると、その後、お友達にそれを再現して見せていたそうです。また、そのお母さんは先ほど「保育園の科学実験の本のコピーを持って帰って、卵を酢に溶かしてみたりして、家中が酢の匂いなって(笑)」と報告してくださいました。家でも実験が続いているそうです。

今日はパンダの人形を作りたいという別の3歳年少さんと、ノリの無くなっている容器に水を入れてかきませていたら「とかしているの?」と聞かれました。何かを溶かすなんてことは、しょっちゅうやっているわけで、改めて人の行動と意味(意図)がセットになっていることは、相当小さいうちから(1歳過ぎから他者の意図に気づく)人間の得意技だったと思い出したのです。溶ける、という物理現象の意味を理解するのとは違いますが。

確かに子どもは絵の具でもノリでも、固まったものに水をかけて溶かすということは、これまでもたくさんやっているのですが、見慣れた状況の中で思い出されてくるものの繋がりを柔軟にするためにも、これも溶ける、あれも溶けるというようなことがたくさんあるといいのかもしれませんね。

◆場所は違っていても音の広い空間の中で参加していたダンス

ある風景や活動が、その子には「面白そう、なんだろう」と近づいて手にしてみたい、やってみたい、と思える情報になる場合と、そうならない場合もあります。さっきまでごっこ遊びをしていた子たちが、別の場所でリズミカルでアップテンポなBGMがなり出すと、年中の何人かはそれに加わらず、先生の膝の上で、じっとみていたり、トランポリンを続けて跳んで遊んでいたりします。ところが、別の曲が聞こえてくると、トランポリンに乗って、その音楽に合わせて体を動かし始めました。

参加していないように見えながら、場所は違っていても自分にとって心地よい場では体が動いているのです。また、他にも、輪になって「鬼さん、鬼さん何するの?」とみんなが言うと、順番に回ってくる子が「これするの」と思い付きの格好をするという遊びがあるのですが、それには加わらなくても、「これするの」の格好をカーテン越しに真似している子もいました。

写真は今日、おうちを作っていた年中さん。ダンボールを切る鋸と上手に使ってドアと覗き窓も出来ました。

◆スポーツやアートだとなると、社会に認められるという感覚

ボールを屋上で転がしている2歳の子がいました。ゴルフやカーリングやラグビーやサッカーなどのスポーツになると、「転がる物」の、物の特性が巧みに取り入られているわけですが、大人はそういう文化的区分に慣れているから、そこにつながるようなことなら「上手になる」ことに、俄然、情熱を注ぐわけですね。でも昨日のような「ガムテープ転がし」だとそうはいきません。

でも「ガムテープ転がし遊び」は、私には幾何学や工学につながる遊びに見えてしまいます。円柱の中心に棒を差し込むと車輪になる、というつながりを見出したり、といったことです。世界に広がっていく可能性のあるもの、とでも言えるのでしょうか? 例えば、きっとガムテープのような円柱でも、それを絵の具に浸して、手袋でもして大きな模造紙の上を転がしてみたりしたら、きっと大きな造形作品ができるでしょう。そうなると、わあっ、となってあたかも幼児教育をやっているように見えるのかもしれません。実際にやってみたいですけれど。

◆子どもの遊びの広がりや深まりをどう捉えるか

このように大人に受ける活動の枠を作ってしまえば、大人はそれとして受け止めるようになります。大人のわかりやすさ(意味づけ)は、こうしてステレオタイプ化して、それを乳幼児の遊びを侵食していくのかもしれません。あるいは何が世界に開けていく経験になっていくのかを、見極めていくようなことが大事なのかもしれません。砂場での遊びのようなことをもっと再評価する説明力が必要になってきているのでしょうか?

・・・「どういうような形から科学的実験的探究活動は子どもに意味があるのか。多分、そこからの世界の広がりがあるかどうかだとは思うのですが。どう具体的に実践で検討するか。」

最近、実験用スケッチブックに書き込んだ言葉です。ここに立ち返って考えることが当分続きそうです。

 

子どもはガムテープを転がして遊ぶことができる

2023/10/25

◆保育参観でよく見かける子どもの姿

今月10月は「保育参観」が連日行われています。保護者の方が自分の子どもがどんな風に生活しているのか、遊んでいるのか、あるいはどんな風に食事をしているのか、寝ているのかなど、時間帯を選んで参観されています。散歩先の公園まで着いて来てみてもらうこともあります。今日は午前中は乳児は室内から屋上へ、幼児は戸外と室内の行き来がありました。乳児は子どもにみつからないように参観してもらう、というのも保育園の特徴かもしれません。

そこで必ずといっていいほど、家庭と園では見せてくれる姿が違うという話が出てきます。先日も年長の女の子とが「レバーのマリアナ風(ケチャップ味)」を、「美味しそうに食べていた、お代わりまでして!うちではレバーとかは絶対食べないのに」と驚いていらしたり、今日は0歳児クラスの赤ちゃんが屋上の野菜のナスをちぎったり、花壇ではなくビオトープの雑草(猫じゃらしやパンを上手に前歯でかみ切って食べている様子をご覧になって「毎日の写真もありがたいが、やっぱり実際の動きをみてよくわかった」という感想を語られていました。

◆環境の違いからくる子どもの「やりたがり度」

それは最も大雑把に言えば、家庭と園の環境が違う、というということですが、同じ保育園の中でも、同じ子どもが「そっちはやりたがり、でも、こっちは興味を示さない」というようなことが、その都度いっぱい起きています。今日はダンサーの青木さんたちもきて、身体を動かして遊ぶ時間もあったのですが、そういう活動に入ったり、入らなかったりする子どもの様子を私もみていて、このことを改めて考えてみたいと思いました。

その差は子どものさまざまな欲求(生理的欲求や社会的欲求)や、知的な興味や関心、それらを含めた個別の「発達の違い」などと言われているものを中心に捉えることが多かったように思うのですが、それだけでは捉えにくい姿が実際には起きていそうです。つまり遊びをみていると、子どもの内面や心理などの子どもの内側のことに主たる要因を求めるのではなくて、「同じ子ども」が新しく出会う「環境」と子どもの間に実際に起きていることは、別様の説明がいるのではないか、という感じのことです。特に遊びにおいて。

◆ガムテープを転がして遊ぶ姿

ある3歳児クラスの子たち4人ほどが、制作遊びで使うガムテープを床の上で転ばし始めました。タイヤの輪のような向きに転がせば「よく転がる」ということを、わかっているのか(気づいているのか)、わかっていないのか、録画していなかったので、今思うとそれはよくわかりませんでしたが、主に当てずっぽうに、放り投げたりしているように見えました。あわせてキャッキャと騒いで、自分の体も楽しそうに跳びはねています。いつもいる仲間と一緒にやっていることも楽しいようです。ガムテープは時々遠くまで転がったり、ぐねぐねと曲がったり、パタンと止まったり、カタカタと回ったり、緩やかなカーブを描いて戻ってきたり、しています。担任は「あ、戻ってきた!」など、多少演技性を発揮して注目してほしい現象をわざと言葉にしていましたが、子どもは特にそこに面白みを感じ取るわけでもなさそうです。

◆何が面白いのだろう?

自分の手で放られて離れ、ガムテープが床に着地するときの勢いや向き(面)で、転がり方が変わるわけですが、ガムテープという穴の空いた短い円柱という形は、重力下の平面の上では、力を加えると、このような色々な動きをします。これまでにも、この子たちは、いろんなものを同様に投げたり転がしたりしてきたわけですが、そういうことを繰り返しながら、ボールとも風船ともシャボン玉とも違う、物の動きをそこに見出して(意識して比較してはいないのでしょうが)、物の形が持っている特性を、物の動きの中からピックアップしていく、その情報を取り出しているということをやっているのでしょう。そのつながり具合の中に言葉などの象徴的な記号も含まれていくのでしょうけれど。

ガムテープという、子どもが手にして投げることができる程度の大きさと重さ、そこにちょっと広い床があって、自分で難なく操作できるということが、その動きを誘発しているかのように見えてきます。そのものがアフォードした動きが子どもたちの間に生まれた、という見え方できるのでしょう。まずはそうした場が持つ、ある種のエネルギーのような空間を用意してみて、子どもがそこにどういう動きを誘発されて見出していくのかを見てみたくなります。

◆大人が期待することと子どもの遊びのズレ

ただ大人は、普通こんなことしません。ピタゴラスイッチの番組を作っているような人や、SNSでガラス瓶を階段から転がして割れる動画を作っているような人ならともかく、よっぽど暇でもなければ、ガムテープを転がしてみるという遊びなどはしません。それは、しなくても、どうなるかは大体予想がついているから、あえてどうなるか、やってみたいとは思わないのですが、またそういうものは用途が違う、そんなことはしないでほしいもの、だからです。

あえてやったとしても、こんなとき大人が思う「面白さ」は、どうやったらもっよ「よく転がる」か、というあたり向かいがちです。あるいはどうやったら高く積めるかとか、綺麗な形になるとか、大人はそれを思わず期待してしまいます。でも子どもは、あたかも大人のいう実験のように意識して試すというほどの意識もなく、ちょっとやったら面白そうだから、また続けてやってみるという感じで、自分の体も物も勝手に動いている感じです。そして実際に、子どもたちは飽きたら何もなかったように他のことに移っていきました。この話は、明日に続きます。

 

 

チョコが溶けてセロテープがストローに変身した

2023/10/24

毎週火曜日の午前中は、年長さんが3人ずつ3グループに分かれて、いろいろなことをします。私が相手をした3人はNK さん、NYさん、KSくんの3人でした。乳児用の遊具作りや生き物のお世話、装飾のお手伝いなどをしてもらうのです。今日は子ども用の実験セットを準備する予定だったので、それを手伝ってもらったのですが、その前にある実験をしてみました。この子たちは科学とか実験とかが好きなんです。そこで私が選んだテーマは「溶ける」です。

子どもの身近な生活の中には「溶ける」という現象がいたるところで起きています。しかし、同じところに重なっている存在の現象は難しいのです。三様態も見えない気体が液体になる「結露」とかも難しい。「コップの中の水が伝わってこっちにきた」と言った理解をしていることを、この日記で報告したことがあります。

でも、子どもなりに面白いと思うことがないかと考えていたら、昨日月曜日の夜のテレビで、美味しさを競う料理番組があり「口の中で溶ける」という話をやっていて、そうか!と思い至りました。毎日食べているものが口の中で溶けるということなら、子どもは体験している。それを目の前で再現するというのはどうだろう?

すると今朝、保育室にあった本に「マーブルチョコレートがお湯に溶けて花びらの模様を作っている写真」が目に入りました。そこで早速やってみたのです。近くのコンビニにそれを4人で買いに行き、紙皿に「近い色の順番に」並べます。(写真1)

それに電気ポットで沸かしたお湯を、紙皿中央にゆっくりと注ぎます。するとチョコのコーティングが溶け出して、綺麗な模様ができ、3人から歓声が上がります。(写真2・3)

お箸で一粒ずつをひっくり返してみると、裏側が白く、色がなくなっています。このあたりからICレコーダーもオンにして会話を録音します。「白くなってる」(コーティングしている色が溶けて、下地の白が出てきている)「チョコが目みたい」(紙皿と接触していた部分が解けずに白い下地にポツンと残っているから)などと色々言います。でも溶けたという言葉は出てきません。そうか・・と思いつつ、これが口の中でも起きているんだよね、と話を進めて、一粒ずつ舐めてもらいました。3人とも、こうなることを最初から期待していたので、超ご機嫌です(笑)

ザラザラしてきて、ツルツルしてきた頃に鏡で口の中を見てもらうと、白くなって舌の上に乗っています(写真4)。

チョコは口の中で溶けるということと同じだとは、あまり感じないように見えましたが果たしてどうだったのでしょう。

今度は、透明アクリルのコップに一粒ずつ入れてお湯を注ぎ、割り箸で混ぜると、色水になって、白い粒が溶けずに残ります。どうも白い部分は色のところより溶けにくいようです。

その次に、どうして「トイレではトイレットペーパーじゃないといけないの」という私からのお題です。コンビニに行く途中でもらったポケットティッシュとトイレットペーパーを、溶かしてみました(写真5)。

すると結果が歴然で、ティッシュは水にほぐれることもないのですが、トイレットペーパーの方はドロドロ状になっていきます。これは厳密には溶けるということではないのですが、NKさんは「溶けた」と言い、NYさんは「わかった、トイレが詰まるから」という話まで結びつけています(写真6)

その後が面白い展開になりました。3人とも他のものではどうなるのかをやり出したのです。石を入れたり、砂を入れたり、そしてNKさんが面白いことを発見しました。セロテープを数センチ入れたら、「みて、みてストローになった!」というのです(写真7)。

私もそれは驚きました。そして混ぜ続けると、透明なセロファンになって「こうなったよ。でもくっつかない」と広げて見せてくれます。ノリが溶けてただのセロファンになったようなのです。私もそれは予想していなかったので、自分でもやってみましたが、確かにそうなるのです。

クラスに戻った3人について、担任は「またやりたい、すごく言っていて、とても面白かったようです」とのこと。チョコレート効果ではないといいのですが。このような活動は、少し大人側が主体性を発揮して活動を構造化する必要があるのですが、これまで絵の具や花びらで「色水あそび」はやってきたものの、それは色が変わる、綺麗になった・・の方へ注意が向っていたのですが、解けること自体に関心を持って「じゃあ、これはどうだろう」と試してみるという自発的な探究へ向かうには、そこまでの〈滑走路〉が必要だという感じがします。

こんなことを、いろんな場面で何度も繰り返していくことで、どうなっているんだろう?いいこと思いついた!(今日も数回、どの子からも、この言葉が出たのですが)という活動が増えていくのではないかと感じたのでした。

 

ドングリ遊びの中で起きていること

2023/10/21

昨日20日(金)は、保育園を選ぶために来園された方の見学が終わる頃、散歩から園児が帰ってきました。乳児も幼児も秋の収穫物がいろいろです。どんぐりや銀杏、ひめりんご、紫色の何かの木の実も混ざっています。さあ、それを並べたり、潰して色水にしたり、紙や布に浸したり、染めたり、実を転がしたり土に埋めたり、まあ色々なことがなされるでしょう。

どんぐりなら、幼児は毎年のようにコマや、やじろべえが作られたり、色が塗られたり、動物などのマスコットやリース、モビールなどの装飾に使われたりします。

4〜5歳児の子たちは、数日前から牛乳パックでできた長い道を、どんぐりを転がして遊んでいます。右に転がると行き止まりで「はずれ」。左に行くとさらに進めるのだそうです。道から落ちたどんぐりは透明カップの中にうまく落ちれば「あたり」です。さらにそこから先の道ができるのかどうか? そんなことをやるのに子どもの列ができたりしています。

その奥の方では面白いどんぐりマスコットができていました。どんぐりを顔に見立てて、マジックで目や口を描いています。それは絵本「かおかお いろんなかお」と同じコンセプトで、4歳の女の子二人が「眠いかお」とか「うんちのときのかお」などと、いろんな場面の顔を実際に担任にして見せてくれ、それをどんぐりの顔にしていました。

3歳児の男の子は床に落ちて跳ねるどんぐりが面白くなって、床に投げては跳ねさせることを繰り返したり、もっと上に高く投げてみる子どもが出てきたりします。今度は一つずつではなく、数個をまとめて続けて投げる子どもが出てきて、どんぐりがそこらじゅうに転がって散らばると、それに加わった5歳の子は「どんぐりまつりだ」とはしゃいでいます。ちょっとはしゃぎすぎると、先生から「ちょっと遊び方が違うかもなあ」と修正されたりしながらですが(笑)。

こういう姿を見ていると、子どもは思いつきでいろんな遊びを楽しんでいるのですが、年齢によってもその差が見られ、遊びの「あてどなさ」とでもいうのでしょうか、受動的にあれもこれもと注意が拡散している時期から、だんだん目的を持ってやることが高度になっていく感じが確かにあるのです。その辺りの違いはクラスごとの保育ドキュメンテーションで比べてもらえるとわかるかもしれません。

しかし、そのことをもっと本質的に捉えると次のようなことになりそうです。無藤隆先生が、このような遊びの特質を次のように表現されていましたので、了解をいただきましたので、ちょっと長いのですが全文をご紹介します。

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○幼児は一歩前に踏み出し新鮮さに出会う

幼児はどうして毎日のように園に来て、毎日のように新しいことに取り組むような新鮮な気持ちで遊ぶのであろうか。

そもそも、今という時間は静止した固定したことではない。常に動きつつ、その流動はどうやらその瞬間といいながらもごく短い時間の継起としても経験されるらしい。その瞬間は今でありつつ、既にその次の一瞬に踏み出しかけ、そしてその少し先への予感としての開かれた先へと方向付けられる。より正確には、その踏み出す勢いがその先の何かを開き、方向付けとなるのだろう。

別に哲学的あるいは科学的な議論をしたいわけではない。幼児がその身近な環境に出会う様子を記述したいのである。その今を一歩踏み出す。そこに環境との呼応があり、気まぐれがあり、偶然があり、思いつきが促し、思いがけないことが起こる。そこに新鮮さが現れるだろう。

そこには型通りの行動や予定されたいつもの活動であり、時に昨日の続きであるにしても、そこにはそのような新たなことが生まれ、その新たなことへと踏みだし、踏み出すから新たなことが一層そうなっていく。それは「今」が揺らぎの中にあり、流動する中の瞬間であり、そこにその先への決定はできないからである。

とりわけ幼児はその統御より、その揺らぎにおいて生きている。統御がなされつつも、その先への大きな方向と切りかえのいわばギアは徐々に起こるのであり、それは半ばのことなのである。

その統御の不完全さは人としておそらく常にそうなのだが、とりわけ幼児はその不完全さが顕著であり、それがかえって新たな可能性をその一歩先の未来へと作り出す。それは例えば、何かを作りながら考え思いつき作っていくことであり、そのプロセスを生きることである。

朝の活動の開始を見れば分かるように、そこには昨日の続きはいつも曖昧にしか起こらない。ものを作ることと片付けることが一緒になっていることでもあり、新たに作り出すことが基本的なあり方となっている。昨日の活動の跡があろうと、それは痕跡であり、単なるパズルの続きをすることにはならない。

そして一歩新たに踏み出すと、そこでそれを通して生まれるものの配置は新たなものとなり、そこに未知の可能性が見えてくる。それをさらに踏み込めば次の可能性がまた多岐に広がるだろう。

幼児の世界はそのようにして、新鮮さに満ちている。新たな可能性の探究に常になっていく。遊びとはそのような新鮮さを充満させる営みなのである。そのようにして生きることは可能性を生み出し、その実現はさらなる可能性を広げることであり、そこに活動の豊さが生まれる。その新鮮な輝きは自分が世界の中にあり、その中で惑溺し、その感情を生きることである。

そこを振り返り、今後に向けて見渡すことを行って、その活動の流れが生起し、自覚され、方向付けることも増えていく。それは多様な活動を方向付け、ある制限を設けることだがそれに伴い、より焦点化した探究となり、深さの追究となるのである。

・・・・・・・・・

いかがでしょうか。連日、遊んでいる子どもたちには、確かに、こんなことが起きていると思えるのです。3歳の子どもたちが「どんぐり祭りだ!」と多少ハメを外すように見えたとしても、それに遊びの本質が現れていて、自分がやったことから、またフィードバックが起きて、新たに現れてくる新鮮さに惑溺しながら、その楽しさを満喫している瞬間の連続なのでしょう。

ちなみに年長はその後、事務室にどんぐりの入った袋を冷蔵庫に入れて凍らせてくれと頼みにきました。

「第3回 乳幼児STEM保育実践研究会」での私の気づき

2023/10/17

昨日16日(月)に東京理科大学で開かれた3回乳幼児STEM保育研修会(主催・乳幼児STEM保育研究会)がありました。この研修会は、今回で3回目だったのですが、STEMという切り口から入ったとしても、実際の保育は要領や領域環境などの中で言われてきたことと変わりはなく、他の分野と同じように日常の中にあるものから、どのようにそれを見つけるか、取り出すか、あるいは実際に環境を用意するかということだと思います。

この数年、幼児教育と科学の関係を考えることが増えました。そこで読み返しているものに『理科大好き!の子どもを育てる 心理学・脳科学者からの提言』(無藤隆編者・北大路書房 2008年)があります。幼児期から中高生までの理科の在り方についての本で、出版されて15年ほど経ちますが、内容の性格からしても、普遍的なこと、原則的なことので、今でもとても参考になります。特に第1章の12の原則は、ことあるごとに読み返しています。その中に乳幼児にも通じるものがあるのです。

その12を書き出すと、次のようになります。

・身体的動きの原型から発する・自然への気づきは恣意的なものではない・驚異の念を保持する・好きなことから注意を育てる・日常的世界の見方をかえる・ものを作り出し、組み立てる・抽象への移行を支える心的モデルを作る・科学的探索の技能を教える・知識を組み替えていく・熟達のモデルに出会う・学びを尊重する文化を育てる・適時に学び、早期に展望し、遅く理解する

この本のことを思い出したのは、そこに書いてあることとで、研修会の実践を振り返ると理解がつながって、個人的にはとても有意義な気づきを得ることができました。

それは、誤解を恐れずに端的にいうと、次のような感じです。

・子どもの楽しい、面白いというところから始まって、既に持っている本人の既有知識が身体的働きを通じて新しい気づきを得ながら、それがセンスオブワンダーを保持していきながら、さらにもっとどうなっているんだろうという、世界への探究に向かっていく動きが生まれていくこと。

・そこには、わかった!やへえ、そうなんだ!などが起きていて、じゃあ、ちょっとこうしてみたらどうなるかな、という工夫や試行錯誤が、それは言い方を変えると環境との関わり方や意味を取り入れていくプロセスが生じていて、そのプロセスの中には、新たに関心から注意がそこに向かうので、つまり環境からの<呼びかけ>が新たに<聞こえてくる>ようなことなので、さらにそこへ入り込もうとする<思いつき>や<ひらめき>が生まれている。

・その思いつきやひらめきは、最初の楽しい、や面白いという感じがあればこそ、そこには遊び心が躍動している感じが大事。リラックスしていて、なんでもやっていいんだという開放された心理状態になっている方がいい。何か期待されていたり、正解が求められているという変なプレッシャーなない方がいい。自分と対象との関係の間に、面白さや楽しさがあるから、その営みの循環が起きていることで、さらに先に進んでいくことができる。

こんな感じです。ステムの実践は面白いですね。

環境との関わり方や意味に気づく

2023/10/12

先週から毎日のように午前中は外へ出かけています。乳児は佐久間公園、34歳は電車で十思公園、年長は科学技術館と北の丸公園です。園庭がない当園のような保育園は、地域を園庭代わりに使いこなすために、それぞれの場所の特徴を保育に取り込んでいきます。それぞれの活動の様子は各クラスのドキュメンテーション(スマホで見ることができます)でご覧ください。

私は今日は年長と一緒に過ごしたのですが、科学技術館はお泊まり会いらい2回目です。1回目よりも今回の方がそれぞれの場所や装置に馴染みがあるので、少し体験が深まったようです。鍵盤が描かれた床を足で踏むとその音が鳴るのですが、当てずっぽうで歩いたり走ったりすると、それで音がすること自体が面白いようで、何度も繰り返しています。

NHKのピタゴラスイッチで球が転がっていくと物が動いたり倒れたりしながら、ゴールまで辿り着くのがありますが、あれと同じようなことを、ボーリングの球ぐらい大きな金属球で、フロア全体をぐるりと一周させるようなゾーンがあります。

機械を操作して押したり、転がしたり、クレーンで持ち上げたりしながら、その都度、止まってしまう球をなんとか次の場所へ動かすような仕掛けになっています。かなり力がいるのですが、球を動かすことで、仕掛けの意味(物体に働く力のパターン)に気づくことができます。

このようなことが面白いのは、自分の身体、感覚を使って働きかけながら、物が動いたり変わったり音がしたりするからでしょう。具体的に触ったり、握ったり、押したり弾いたり、引っ張って弾いたり、自分で働きかけたことで物が変化していく。そこには物理法則があるのですが、体験することで何か気づき、じゃあこうしたら?と考えたり工夫したりすることが起きていました。どうしたらいいのかわからなくなるときは、その仕組みを理解することが難しい場合です。それでも遊び方を教えるだけで、やり方がわかれば楽しめるので、大事なことはやることで気づけるようになっていました。

同じようなことが、お弁当のあと、北の丸公園の雑木林で遊んだ時にもありました。木登りです。

どの木なら登ることができるか?木の枝と自分の手足、バランスの関係を探りながら、あれこれ考えながら登ることができる手順を発見していきます。

枝の隙間に靴がや膝が挟まって動かなくなったり、斜めの木にお尻と足を押しつけてバランスをとっている状態から、次の上の枝に手が届かない時は諦めるしかない、ということに気づいたり。身体と木との会話のようなことが繰り広げられていました。環境との関わり方と意味に気づくことが、こんな形でも起きているんですね。

食べているお米に近づく過程

2023/09/16

栽培や飼育という活動は、食育や自然との関わり・生命尊重のテーマとして、生活の中に位置づいています。以下の記録は、5月から始まった長い活動が、一つの節目にきたことを取り上げています。12日月曜日に年長さん9人がやった稲刈りの様子です。収穫が終わると、これから白米に至るまでのプロセスを丹念に体験していく活動が始まります。

・・・・・・・・・・・

5月末にそれぞれのバケツに植えた稲🌾

 

 

・・・😳

こんなに大きくなりました..!

野菜と一緒に毎日水をたっぷりあげ、月曜日、ついに!稲刈りをしました。

たくさんの葉っぱの中にある 稲 を探し出し、根本からハサミで切る作業は難しくもありましたが、神宮司先生に説明してもらうとすぐにコツをつかみ、器用に収穫していました。

 

今日は、この稲が食べられるようになるまで(みんなのご飯になるまで)の過程を、みんなで観察しながら共有しました。

(少し見えづらくてすみません.. )

「どの順番でお米になると思う〜?」と子どもたちに言ってみると、

じっくり観察しはじめました。

Yちゃんが少しずつ稲からお米に近づいている過程を発見し、みんなに伝えると、「ほんとだ〜〜!」とみんなも近くで見ながら発見!

稲刈り→乾燥→脱穀→もみすり→玄米→白米になって、みんなの食べているご飯になっているという過程を、実際に育て、収穫して体験しながら学んだ時間でした。

受動的な気づきから自覚的な気づきへ

2023/09/11

こういうことが、STEAMの基本なんだろうな、と思います。あれ、色が変わっていく、面白いな、という感じだったらしい。4歳児クラスの男の子。10月で5歳になる。こういうところに注意が向くようになってきたんですね。

私たちが「もの」の世界の法則(物理や化学や地学など)を理解していく学びは、本人がその世界が面白い!と感じながら、その世界に入り込んでいけるといいな、と思います。

いろんな刺激を受動的に受け止めていた乳児のころ。水や色で遊んできた体験のなかから、彼なりに、慣れ(馴れ)親しんできたとこ(現象)とは違うこと(新奇性)に気づいた(発見)したようです。それまでのこととは違う、新しいと感じることと同じような体験を重ねることで、ある種の規則(法則)を気づくのかもしれません。

以下は、9日の先生のブログです。8日の出来事です。

・・・

絵の具遊びでスポイトを使っているうちに、だんだん水分が増えて「色水」になってきたので、そのまま水道台へお引越し。色水遊びになりました。

色水に、水道水が足されていくと、だんだん透明になっていく様子に気が付いた らんらん組のRくん。


「色がなくなった!」と、実験を繰り返していました。

(蛇口の下のカップの、水の色の変化に注目!)

 

真剣なまなざしです。

にこにこ組のAくんは、さまざまな色を作って、きれいに並べていました。

 


Rくんが、「これ、凍らせてみたい」とのことで、遊び終わったあと、冷凍庫へ。週明け、どんなふうに固まっているでしょう…!?カラフルな氷ができるかな?と大人もちょっと楽しみです。

大人が模造紙にクレヨンで絵を描くと、その上を絵の具で塗ってみる すいすい組(5歳クラス)のYちゃん。

「あれ?!塗れない〜!」と、クレヨンが絵の具をはじくことを不思議そうに発見していました。


Rくんも、同じように試してみます。

遊びの中でさまざまなことを発見し、不思議がり、試し、繰り返してみる子どもたちです。その子なりの世界の広がり方が面白いです。

第2回 全国実践研究大会 in 石川・富山(2日目)

2023/08/26

全国実践研究大会の2日目は、実践発表です。6つの実践が報告されたのですが、その後の藤森代表の講評の内容に沿って、実践の特徴を以下に簡単にまとめておきます。今年こども基本法が施行されました。これは子どもの権利条約を制度化したもの、と捉えることができます。そこで子どもの人権を大切にするということを、改めて保育で考えるとき、いくつかのキーワードから保育実践を振り返ることができそうです。そういう意味でも6つの実践は全てその参考になるものでした。

まず、子どもの人権や主体性を考えるとき、キーワードとなるのは「参加・参画」でしょう。子ども自身がどうするかを思い巡らしたり、意見や思いを反映を物事の決定に反映させてもらうこと。また意思決定のプロセスで話し合いなどをしたりしながら、子どもたちなりに最善の方法を考えていくことも含まれます。子どもの権利条約で「4つの柱」と言われているものの一つ「参加する権利」の具体化と言えます。

そうした「自己決定」と「選択」という視点から実践を報告したのは、芦花の丘かたるぱ保育園(東京都)の「君たちはどう育つか」。自分の意見だけではなく、他人の意見も受けとめて考える保育を積み重ねてきた結果「今では傾聴する力や受容する力が根付いてきた」といいます。年長児が野菜を育てていく活動の様子から「仲間と作る1年」が報告されました。

子どもの人権には「自分らしく育つことの権利」もうたわれています。その根底になるであろう心の基盤の一つとして大切に育てたいのは「自己肯定感」です。国際比較でも日本の若者のそれが低いことが、この間ずっと懸念されてきました。これは「今のありのままの自分を受け入れる力」と言っていいものですが、そこに注目した発表が、新宿いるまこども園(東京都)からありました。子どもの自発的な活動や、他者から認めてもらう経験を大切にする保育です。発達が異なる集団の中での生活や遊びの中に、そうした関わりが生まれ自己肯定感が育まれていくことがよくわかる内容でした。

同じ法人のいるま保育園(埼玉県)からは「我が国の課題に向き合う、見守る保育・藤森メソッド」と題して、自己有用感にスポットを当てた実践の分析が報告されました。乳児が幼児の姿をじっと見つめ、それを真似てお友達にやってあげる・させてあげる姿、幼児クラスでの当番活動、年下の子どもへのお世話や手伝い、ピーステーブルでの話し合いなどが動画で報告されました。異年齢での生活や遊びの中にそうした関わりが自然とたくさん発生しています。

子どもは障がいの有無や年齢、ジェンダーで差別されてはなりません。保育における包摂のテーマを取り上げたのは、幼保連携型認定こども園 城山幼稚園(熊本県)の「見守る保育におけるインクルーシブ」でした。具体的にはオープン保育、チーム保育、お手伝い保育、共食などを通じて「みんなと同じように活動に参加できない子どもを年長児が自然に受け入れ、その子用に遊具を用意したり、みんなで遊べるルールを作り始める」様子が報告されました。

「園庭にどんな遊具や場所があったらいいと思う?」。子どもにカメラを持たせ、子どもが何に興味を持ちどんな園庭を望んでいるのかを把握しながら園庭を作り直したのは、ちゅうりっぷ認定こども園(富山県)です。「子どもの様子や視点から園庭環境を考える」取り組みで、「子どもの参画」を大切にしていました。子どもの意見が反映させた園庭が徐々にできていく様子を、わくわくした顔つきで見つめていました。

子どもの人権には、子どもの育つ権利を含まれます。子どもの驚きや不思議に思う体験が起きるような環境づくりに取り組んでいるのが、わかばこども園(石川県)の「子どもの驚き・不思議さを引き出せ!〜STEAM保育の実践とこれから〜」でした。日常の中で感じた不思議について、自分達で調べたり遊びに発展させられるような保育を目指しています。

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