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園長の日記

オニツカ家に赤ちゃん誕生〜年長児が編み出していく「ごっこ空間」〜

2024/12/20

年長さんの女子3人が家族ごっこをしています。赤ちゃんとうさぎのペットの5人暮らしです。

母親「じゃぁ、(子どもの)Rっちが誘って、私たちにあげるんだよ。私たちにちょうだい。3個ずつよ。6個あるから」。

転がっているボールは何か意味があるようです。

父親「あそこ、青いマットの下(にあるよ)」

母親と父親が3個ずつボールを受け取ると、母親が

「ちょっと買ってくるから。ちょっとお父さん、子どもとやっといて。私、行くから!」

といって、飛び出して行きます。一体どこ行くんでしょう? すると、子どもが「赤ちゃん泣いたよ」と教えると、母親が「あぁ泣いちゃった」と、部屋に戻ってきます。

私がそこから「トントンごめんください」と中に入れてもらうと、母親が「赤ちゃんです」と抱えて見せてくれます。名前を聞くと、まだなかったみたいで、ちょっと考えて「ななちゃん」といいます。

すると、子ども役のRちゃんが「ななみは?」とお母さんに提案。母親は「じゃあ、苗字は、おにつかななみ、ね」。(なんでオニツカなんだ?)

3人は私をリビングに案内してくれて、お父さんが「こっちにはすごいソファーがある」と説明してくれました。そしてお母さんが私に「写真撮ってもらいましょう」と言って、3人でポーズ。

「赤ちゃんちょっと泣いちゃったね」と、段ボールと布てきたベッドに寝かせます。お客さんである私に「ここは気にしないでください」と、ベッドが壊れ、かけてでもいたのが気になったのか「ここは違いますから。うさちゃんのベッド」と、お客さんに気を遣ってくれます。

すると、子供がペットのうさぎを連れてきて、ベッドに寝かせます。

「うさちゃん、おやすみ。ここでね。」お父さんが「2段ベッド」。

子どもが「うさちゃんのミルク」とミルクを飲ませます。私がお礼を言って帰ろうとすると、「じゃあ玄関開けなきゃ」とお父さんがドアを開けてくれます。

お母さんも走ってきて「ここはみんなの庭なんですけれど、ここは赤ちゃんのお庭なんです」と離れを見せてくれました。

・・・

私がお邪魔したのは、ほんの5分位ですが、こんな家族ごっこが1時間以上続いていたと思います。犬の散歩に出かけたり、野球をやったり、買い物に行ったり、ごっこ遊びといっても、オニツカ家は大忙しでした。

このように、遊びは単なる模倣に止まらず、そこに持ち込まれる道具としての物と、表現的な要素が流動的に影響しあい、新しい関係性や意味が生成される創造的な場であると言えそうです。

運動ゾーンで展開されるごっこ遊びの空間に入り込んでみると、既存の遊具が新しい道具として使われていることに気づきます。既存の何々ゾーンと言うラベリングを壊していく力を子どもたちの遊びは持っているようです。

公園の落ち葉がベランダにきてアリが誘う床の下の世界

2024/11/28

子どもを未知の世界に誘いたいと思っていたら、いつの間にか私たち大人も未知の世界に引き込まれていた!ということがあります。今週初めの1歳児クラスの保育の記録に、それが書かれていました。

<柳北公園の落ち葉が、テラスにやってきて、その葉っぱ遊びがアリの観察のきっかけになって、アリとの出会いが、テラスの床下の世界につながって・・・と、毎日の遊びがどんどん色々な方向につながっていく様子が面白いです。(テラスの床下を覗いたことなど、この保育園に勤めてから初めてでした…!)子どもたちは、大人が気付かない、いろんな世界を見せてくれます^^>

この「まとめ」の前の、1連の写真報告を、ぜひご覧いただきたい。

・・・・
いかがでしょうか?

このちょっとしたことのように思える展開の中に、担任のきめ細かな観察や優しさが垣間見えます。公園の落ち葉への関心を大切にしてあげたいという思い、公園で落ち葉を集めている子に、袋を用意してあげるかどうか。それをベランダに撒くことを許してあげるかどうか。その中に見つけたアリを追いかけ始める姿に、心の鼓動の高鳴りを聴くことができるかどうか。床の隙間を覗くために、スマホのライトを用意してあげるかどうか。

こうした、その都度のつながりは、まるで小さな木の実に細い糸を通してあげるような、小さな保育の営みなのです。それを丁寧にその糸に通し続けてあげるかどうか。担任が「ぐんぐんさんように懐中電灯を用意したいな」と呟いていたのですが、そういうことが嬉しい話です。子どもの後ろをちゃんとついていくような保育。後ろいいても子どもが注意を向けている世界へのピントは外さない。こっちだよ、と子どもが教えてくれることも多いですけどね。

子どもの姿が表舞台なら裏舞台には担任の思いも

2024/11/25

保護者の方々が毎日みてくださっている「保育ドキュメンテーション」ですが、それを表舞台だとすると、その裏舞台に「今日の気づき・振り返り」という記述欄があって、その二つをみると、<保育劇>の両舞台が見えてきます。

たとえば、ちっち組の表舞台には「今日は天気が良く散歩日和でした。みんなの好きな和泉公園で落ち葉にたくさん触れて遊んだちっちさんです。いろんな色や形の落ち葉がありましたが、大きな葉っぱはみんな一度は手に取っていて魅力的なんだなぁと感じた担任です。」と書いてありましたよね。

その裏舞台には「気分等からバギーに乗りたくない、一人乗りがいい、抱っこがいいと泣いて訴える姿があるが、バギーの中で楽しいことを見つけると笑いが起こったり喃語を発したりと子どもたちの中で共通の遊びが始まる様子がある。子どもたちにとって楽しめる遊びや歌など取り入れながら、世界観を見守っていきたい。

和泉公園では地面が落ち葉でいっぱいになっており自然物に興味が惹かれる姿があった。ちぎる、握りしめる、降らせる、顔を隠すなど様々な使い方を見つけて楽しむ姿があった。引き続き自然に親しみを持って過ごせるようにしていきたい。」と書いてあるのです。

表舞台に登場する「大きな葉っぱ」が、いかに子どもにとって魅力的なものなのか、感心し、その様子をお伝えしているのですが、子どもによって葉っぱがさまざまな使い方を呼び起こす素材として、親しめるようにしてあげたいと願っている先生の心情が伝わってきます。とくに表舞台には描きにくいバギーの中での「共通の遊びが始まる様子」について、その世界観を見守っていきたい、という先生のまなざしからは、子どもたちの持つ何か良い兆しというか、何かの芽生えを感じ取っているように思えます。

もうひとつ。2歳児クラスでは「公園では、枝や、枯葉を集めて、バーベキューをごっこを楽しんだり、枝を組み合わせてなにを作ってるのかなー?と覗いてみると、ツリー作ってるのー!と子どもたちからの言葉が!」とありました。それについて、振り返りの方には「紅葉した葉っぱや、木の実、枝を使ってお友達と一緒に協同して遊ぶ姿が見られた。あれもってくるねー、私はこれといったような、役割的な所もあった。保育者にも枝もってきてーとリクエストしたりと、ごっこ遊びのリアリティが以前より高くなった遊びになってきている。一緒の物を作ろうといった、目的が一緒で遊ぶ姿があったことがよかった。」と分析しています。

先週から楽しみしていた4歳児のクッキー作りについては、「クッキングには全員が楽しんで取り組めており、五感を使って色々は発見や気づきがあった様子。エプロンを着る・脱ぐ・畳む・片づけるという所も、時間をゆっくりと確保することで自分でしっかりと行っており、成長を感じた。 Rちゃんは最近、Yちゃんとの仲が深まっており、年下の子に対しての気遣いや思いやりがとても素敵。それぞれの良い所を伸ばしていける関わりや活動を引き続き組んでいきたい」と振り返っています。

最後に年長さんが見つけたザリガニについて。「御徒町公園の池でザリガニを見つけ、最初は「飼いたい!」と興奮していましたが、特定外来生物の法律の話をできるだけわかりやすく伝え、持ち帰れないことを何とか理解してもらった。毒のある生物以外にも、このような特定外来生物もこの先増えてくることが考えられるので、併せて子ども達には伝えていきたい。」

どうでしょうか。毎回お伝えすることはできませんが、先生たちがこのように様々な願いをもち、何が子どもたちにとって望ましいかを考えながら、台本のない〈保育劇〉が展開しています。

 

勤労感謝の日に考える感謝の意味

2024/11/24

自分の意思で物事をちゃんと進めていくことを自立した姿と呼んでいいのなら、そうしていきたいという思いを伝えたい相手は、それまでの自分の経緯を理解してくれている人へ、かもしれません? しかも、その経緯をずっと支えてくれてきたと思える人だからこそ、そのことに応えたいと思うようになる気がします。

次のエピソードは、ある娘さんが結婚する時に父親に書いた手紙の内容です。こんな趣旨だったそうです。

<・・お父さん、これまで私を育ててくれてありがとう、というつもりはありません。私をこれまで見守ってくれてありがとう。・・私が結婚相手をつたえたとき、お前が決めた相手なんだから、とだけ言って信じてくれました。それでかえって本当にこの人でいいんだろうかと真剣に考えました・・云々>

見守ってもらえていると思う時、人は自分の歩みを、自分でもちゃんと振り返る、自分で自分も見返すようになる、ということかもしれませんね。つまり、見守ってもらえるという体験には、きっとその度合いの差、真剣さの度合いというものがあって、その強さが伝われば伝わるほど、自分で自分を大事にしようという気持ち生むのかもしれません。そしてそれを責任感、という言葉で語る場合もあるのでしょう。自分で決めたことだから責任をとりなさないという話ではありません。責任感というものが生まれてくる関係性というものが、先にあるのでしょう。

この話を聞いて思い出すのは、川上哲治が亡くなった時のお別れ会で、王貞治がこんな挨拶をしました。テレビでみたことを覚えています。ネットで検索すると、その全文を読むことができます。最後の文章は次のような言葉です。

<・・・巨人軍だけでなく野球界に残された大きな影響力は、これからも生き続けていきます。プロ野球界はもとより、野球ファンの間でながく語り継がれることでしょう。プロ野球界は力強く前進してまいります。どうぞ見守っていてください。  川上さんありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。ゆっくりお眠りください。 平成25年12月2日 読売巨人軍OB会長 王貞治>

これを聞いた時、野球界をもっと良くしていきたいというという王さんの決意が伝わってくるのです。そしてもう一つ、大事な人に見守られていることと、それに応えるべく向かう世界は、両者がともに大切にしたい世界を分かち合っているという関係がありそうだ、ということです。同じ方向を向いているのです。向かい合っているのではなく、二人が世界の方へ視線を送り合っているのです。

冒頭の自立した姿は、その歩む世界があって、その世界をよりよくしていく共同作業をしていくための自立に見えてきます。そこには見えないバトンが渡されていく、生きていく命の流れをそこに見出していくことも可能な気がします。そういう視点で歴史を学べると面白そうです。先人が見つけていた未来を思いをはせたり、そのつながりとしての未来を描いてみる。その営みはきっと子どもと過ごす生活に影響を与えていくことになるかもしれません。

見守ってもらえているからもっと良くなろうする

2024/11/19

神様からでも親からでも尊敬する先生からでも、自分のことをちゃんと思ってみてくれていることがわかると、人間は自分でもっと良くしようとし出します。自発性というものが、信じてもらえているというところから生み出されてくる感覚、わかりますよね。それが子どもにもあります。大人にもあります。その気持ちが伝わっていくように保育をすることの大切さを、いつも藤森先生から教わってきました。

 

そういうことがあるので、最も基本となる職員クレド「保育の三省」は、「子どもの存在を丸ごと信じただろうか?」から始まります。その次に「真心を持って接しただろうか?」となります。今日は保育環境セミナーの3回目が開かれて、全国各地からたくさんの方々が新宿・高田馬場に集まりました。今回のテーマの一つ「チーム保育」の根幹にある考え方は、この「相手を信じること〜信じてもらっていること」の関係を見守ると呼んでいることを再確認してもらいました。

藤森先生は決して誰も手放さない方です。最後の最後まで人が自分で立ち上がっていく潜在的可能性を信じてくださる方です。そのあり方は、子育てや保育や教育の文脈にだけではなく、人の生き方の根幹になる部分なので、多くの方々がそれを学びにこられます。教育関係者に限らず起業家やコンサルタントや行政担当者などの方々が、人が自立していく支え方を学ぼうとされて集まってこられます。

確かに方法や環境のあり方などの具体的なアイデアもあるので、それを学ぶことも多いのですが、最も大切なことは人間関係のあり方なのです。藤森先生のいう見守ることは、他者の潜在的可能性を信じて環境を整えるというあり方であって、ただの日本語としての見守るという意味に留まらないことを理解してもらいたいのです。

したがって、保育が生き方と関わる以上、保育学にとどまらず、保育道が必要になるという言い方が生まれる時もあります。

「気持ちが通い合う嬉しさ」ぐんぐん組の最近の様子をブログで紹介

2024/10/24

こんなに小さい子たちが、こんなに豊かに気持ちを通わせています。そして、こんなにも嬉しいことなんですよね。ぐんぐん組(1歳児クラス)のブログからご紹介します。ここでは、写真を加工しましたが、ブログではそのままですので、ぜひご覧ください。

・・・・

Nちゃんは最近、お友だちに水筒を配るお手伝いブームのようです。 今日の活動記録でも配信しましたが、プラザでRちゃんに水筒を差し出したり… 

(Rちゃん、気が付いて取りに来てくれました^^) 夕方も、Sくんの水筒を見つけて飲ませてあげようとしたり…。 でも、Sくんは、そのときあんまり飲みたくない気分だったみたいで、床にゴローンとしたままでした。 

フタまであけてくれて、何度かお茶をすすめるNちゃんでしたが、今はSくんは飲まなそう…と分かると、その水筒を大人のところに持ってきて、「せんせー!ごっごっごっ(ごくごく)」と言って、大人に飲ませる真似っこ遊びをして楽しんでいました^^

そんなやりとりをしたあと、もう一度Sくんのところへ行ってお茶をあげてみるNちゃん。 「Sちゃん、Nちゃんが、お茶もってきてくれたよ」と伝えると、Sくん、今度は飲もうかな?という気分になったみたい。 

「よかったねぇー!Nちゃん、ありがとう♪」とほほえましく見ていたら、Nちゃんも、とっても嬉しそうにニコッ! 

 

(嬉しくって、思わず、この笑顔…!) そんなNちゃんの表情を見て、そのかわいい姿に大人も思わず一緒に喜び合っていたら、Sくんも、思わずにっこり。 Sくんが飲んでくれて嬉しいNちゃんと、喜んでくれるNちゃんの姿が嬉しくてつられてニコニコするSくん。 

 

お互いなんだか嬉しくなって、そのあとも何度かお茶のやりとりを繰り返していました。 お友だちと気持ちが通い合う瞬間は、こんなに嬉しいものなのだなぁとそばで一緒に見ていた大人も、その喜びの輪に入れてもらった気分です♫

ぐんぐんさんたちは、誰かのお手伝いをすることへ意欲的な姿が増えています。こうして、自分がやったことを、誰かが受け入れてくれる・受け止めてくれる…そんなやりとりの中で、相手とのつながりを感じているのかな?と思います。

昨日は、お散歩中に、Hくんが、ちっち組のNちゃんに帽子を、かぶせてあげようとしていました。 

でも、Nちゃんはかぶるのがイヤだったみたいで、そのたびポイポイと脱いでしまいます。 すると、かわりに自分の頭へ。 

 

ぼくがかぶっちゃおう!と、そんなユーモアで、Nちゃんの思いを受け止めてくれたのかな? 大人が思わず、Hちゃんかわいい〜!とみんなで言い合っていたら、照れ笑いのHくんでした。笑 

Sくんにお茶を勧めるNちゃんもですが、こうして、お友だちの様子を見ながら、相手はどうかな?いまはイヤなのかな?などと、子どもたちなりに距離感を確かめながら関わっているような姿が見られます。   

(水筒どうぞ) 

(ありがとう〜・・・こんな光景が、日常にたくさんあります。)   ぐんぐんの今年の年間目標には、「自分の気持ちをたっぷり受け止めてもらう」ということと、「少しずつ相手の気持ちにも目を向けていく」という内容が含まれています。 最近の子どもたちの姿を見ていると、それぞれに、お互いの気持ちを主張したり、察して受け止めたり…そんな心の交流がそっと行われているように感じます。(もちろん、真っ向勝負の気持ちのぶつかり合いもたくさんしていますが笑)。

 

それでも、子ども同士で、こうして自分の思いと相手の思いの距離感をはかりながら、そのやりとりの中で気持ちが通じ合っていく体験を喜んでいる姿。そして、やってあげる体験・やってもらう体験、その両方を、その時々に応じて子ども同士で体験し合っているのも、素敵なことですね。 そうした姿を感じるたびに、その成長を嬉しく思っています。

「初めて」や「再会と繰り返し」におきる新しい関わり方と意味

2024/10/22

今日はいつも親しんでいる人やものに繰り返し「再会」している姿、反対に初めて電車に乗ったり、初めて広い場所で野球をしたりと、そのコントラストのある1日だったように感じます。それぞれの記録を拾ってみました。

 

0歳児クラス「今日はお友だちとの関わりもたくさん見られる一日でした。

いずみ公園にも慣れ親しんできた様子で、いろいろな場所へ行ってみてたくさん新たな発見をしたり、

お友だちのいるところに行って自分もその場で遊んだりと、遊びが広がってきただけでなく、子どもたちの表情も豊かになってきました。

言葉がない中でも、ちっちさんならではのコミュニケーションがあり、お友だちと楽しさを共有できて嬉しい気持ちが増えてきているようです。」

 

1歳児クラス「きのうまでのお散歩の記憶を反芻するように色々なことを思い出しながら…

そして同時に新しいことも発見したり興味を広げたりしながら、お散歩を楽しんでいます。

佐久間公園では、砂場遊びをじーっくりと満喫したり、広場でたっぷりかけまわったりして、遊んでいました。」

2歳児クラス「今日は、旧今川中学校へ遊びに行きました。初めて行くルートだったからか全員が「歩きたい」と言っていたにこにこさん。

学生さんも授業の一環で来てくれていたこともあって、目的地までゆったりと歩いていくことが出来ました。

少しずつ先生と手を繋ぐからお友達と一緒に歩くことを誘ってみると、「わらすさんみたいだね~」とお互いに顔を見合わせて嬉しそうな姿もありました。」

3歳児クラス「今日は、わいわい組だけでどのくらい出来るのかなと子どもたちの持っている力を見て見たいと初めての活動を行いました。

集団活動や社会生活(今回は鉄道)に参加していく中では多少の我慢が必要です。自律ですね。 どのくらいできるだろうかと思っていた通り、難しいシーンもあってその時々にじっくりと時間をもって考えました。

電車には乗れてとてもいい経験でしたがそれに至るまでの多様な時間があったことが良かったです。」

45歳児クラス「今日は旧今川中へ行きました✨中々近隣の公園では、ボールあそびが出来ない所が多いのですが、唯一旧今川中は、のびのびとボールあそびが出来る場所です。

月に1度は千代田せいが保育園が使える日となっているのですが、その他の日は他園の利用日になっていて相談が必要なため、中々利用出来ない日が続いていたのですが、やっと行くことが出来ました!野球やバスケ、サッカー等、色々なボールあそびを楽しみました^^✨」

毎日のドキュメンテーションをみていると、0歳から幼児まで、子どもたちの環境への関わり方と意味が多様に、また繊細に変容していくことが見えてきて面白いものです。確かに「できる」ことが増えていくのが目立ちやすいのですが、同じ人やものであっても「感じ」たり「気づいたり」することも違い、広がったり深まっていくようにみえます。また色々な関わり方が変わっていく様子も面白く、いろいろ考えたり、工夫して試す姿もたくさんあります。

すべてのクラスのドキュメンテーションが読みたいと言う方の声もあるので、今後そういう仕組みに変えてみたいと思います。

 

 

 

公園という環境から得ていくさまざまな身体感覚

2024/10/17

和泉公園での散策の様子の写真が24枚。0歳児クラスの赤ちゃんたちは、保育ドキュメンテーションによると「葉っぱや石の観察、足踏みをして音を鳴らしてみる、気になるところへの探索、たくさん走る…と子どもたちそれぞれが楽しい遊びを見つけて伸び伸び過ごしていました。「今はこれに夢中なんだなぁ」と思う場面が一人ひとり違っいてとても興味深かったです…!」と描かれています。

こんな様子から、私たちが大事にしている姿を再確認してみると・・・。0歳の頃に遡って「身体的発達に関する視点」を参照すると「まず環境に働きかけることで変化をもたらす主体的な存在としての自分という感覚を育むこと」ということが保育所保育指針の解説書には書かれています。すこし拾ってみます。

「自ら感じ、考え、表現し、心地よい生活を追求していく健やかな自己の土台は、安全に守られ、保育士等による愛情のこもった応答的な関わりによって心身共に満たされる、穏やかで安定した生活を通じて築かれる」

「身近な環境との関わりを通して身体感覚を得ていく」

「身体の諸感覚が育つ中で、子どもが自分の働きかけを通して心地よい環境を味わう経験を重ねることが重要である」

「こうした生活の中で、周りの人やものに触ってみたい、関わってみたいという気持ちが膨らみ、子どもは対象にむかって盛んに自分の体を動かそうとする。興味を引かれたものをつかもうと懸命に体を動かそうとする・・・」

いかがですか。写真の一枚一枚に、こんな姿を感じませんか? このことは一歳になっても継続していく姿です。

子どもたちは毎日、身近なものを面白がって触り、動かし、その身体感覚を得ています。ダンスにもあった身体感覚、今日は自然の中にいるとまた違ったそれを感じているのでしょう。

そして他のクラスの写真と記録と繋いでみてもらうと、同じ公園でありながら、その関わり方が大きく変化していくことがわかります。

次の写真は、幼児たちが同じ公園で野球ごっこを楽しんでいるところです。自分たちで道具を作り、大リーグ選手にはなれないけれど、その世界に強烈な眼差しを向けて先取りし、自分たちの世界を切り開いているように見えます。

その変化の中に変わらない傾向のようなものが見えてくるのですが、そこに私たちが「世界を開く」とでもいっていいような関わり方をしているように感じます。そこをもっと繊細に広がりを持たせてあげたいと思います。

「ねこのお医者さん」にみる2歳児の言葉の理解

2024/10/02

子どもたちが環境の方から自らに取り入れていくものはたくさんありますが、ことばはその最たるものかもしれません。昨年ベストセラーになった今井むつみさんと秋田喜美さんとの共著『言葉の本質』を読んだら、保育園で散々やっているCDS(チャイルド・ダイレクテッド・スピーチ)やらオノマトペやらがいかに大事なことかと再認識する機会ともなり、また赤ちゃんたちにとっての周りの人の「声」や身体的な体験(専門的には「身体的接地」ということなのですが)のありようを振り返る機会にもなっています。

先週のお誕生会で、また数年前の3歳児のお楽しみ会で親しんだ「ねこのお医者さん」を、夕方4時ごろ満2歳半の子どもがお医者さん役になって、担任と楽しんでいました。歌に出てくる患者さんは、その場のアドリブで先生がいろいろ演じます。

まぁ、なんでもいいので、先生がお熱が出て体温を測ってもらったり、咳が出たからと咳止めをもらったり、隣にいたRちゃんが鼻水が出ているからそばのティッシュをもってきてもらったりと、2歳のお医者さんが、できそうなことをお願いしながら、いろんな病気を治してもらっていました。

その都度、言葉が通じて、何か行動ができてしまうというのは、一見あたりまえのことのようですが、この本を読んだ後だと、それがいかに凄いことなのかということがわかるのです。

そこで気づいたのですが、あれは何と「もの」の名前をどんどん覚えていく年齢なのですが、「もの」や「動作」から「名詞」や「動詞」を覚えていく方向と同時に、名詞や動詞から、それを理解して見立てることもできてしまう姿をみていると、本に出てくる「言語の本質」のアブダクション推論の「洞察」の具体的な実例を確認しているかのような感覚を覚えました。この本の面白さは「オノマトペ言語起源説」という提案になっていることですが、著者はあくまでも「それも仮説です」と断ってあります。このテーマは永遠の近似値さがしなのでしょうけれど。

とにかく、人間は不思議なことですが、人間の知性がとらえる範囲を超えたところに、世界に組み込まれている生命の仕組みは働いているように思えるので(別に神秘的なことをいいたいのではないのですが)、知覚と行為のその間をいくら細かく分析してみても、子どもの成長という事実は、そうした理屈を超えているように感じてしまいます。

子ども理解を深めていくプロセスを実習生と共に歩む

2024/09/05

今週から保育士養成校(大学)の保育実習生(3年生)が来ています。当園は実習1に続き、2回目になります。本人と話し合って幼児クラスに連続して入ります。今日で4日目だったのですが、毎日、昨日の実習日誌を読んで、コメントを書き、その補足と今日の実習を振り返っての話をしています。2回目なので、前回来た時よりも子どもたちがいろんな意味で成長しており、その変化に驚きながら、子どもとの関わりを深めています。

子ども理解をテーマとした話が連日続いています。昨日はある子どもとの信頼関係ができてきた経緯の中で見えてきた姿を共有しました。そこには「心の交流」があって「それはあなたとしか通わせることができなかった、かけがえのないもの」ということを伝えました。そして「そういう意味で、他の先生たちと対等なんですよ」とも。

その話を昨日したこともあって、今日の日誌には自分と担任との姿の捉え方の違いに気づいたエピソードが出てきました。明日でプールでの遊びも終わるのですが、それを選ばなかったRくんに姿について実習生は最初「プールは苦手、あまり好きではないのかと思った」そうです。ところが違っていました。担任がその姿に気づいて声をかけると、嬉しそうに入りに行ったのだそうです。何があったのか?

日誌にはこうあります。「・・・全然そんなことなく、本当はプールに入るし、好きだけど水が顔にかかることが好きではないと」と先生が「聞き出して最終的にプールに行かせることができて凄いと思った」そうです。「ピアノを弾いている後ろ姿が少し悲しそうに見えたため、仲のいい友だちが(プールに)参加し、自分だけ残ってしまっていたことが嫌だったのかなと考えた。それを自分からは言えないため、先生に気づけてもらえて嬉しかったのではないかと考えた」とあります。

その子と先生の対話にいたく感動したらしく「本当は入りたかったという気持ちが見えていなかった」と振り返り、どうして声をかけたのかと先生に聞くと「R君は前楽しそうに入っていたため何かが不満でやりたくないと思うので、その場合は一応声をかけて何故やりたくないかを聞く」との返事だったそうで、実習生は「日々の保育をして、その子の特性や言動を見ていなければ気づくことができないと思った」と書いています。

ここはよく出てくる「子ども理解」の二つ目です。さて、これからもう少し深い世界に入っていくとになりそうです。

(余談ですが、この大学とは紙のやりとりはなくなり、全て日誌はオンラインです。これは双方ともにスムーズで、職員間での共有もしやすくなりました)

 

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