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園長の日記

お集まりと課題保育について

2021/03/08

保育園で子どもが生活している時間は、どのような時間的な流れで構成されているのか、少し説明します。今日8日は新年度へ向けた「移行保育」の一環として、3〜5歳の幼児クラス「わいらんすい」が、朝のお集まりを2階のダイニングで開きました。これから、この場所で続けます。

その様子を見ていて、「ああ、こんなに成長したのか」と実感したことが、いくつかありました。

(1)先生の方を全員が見ていること。今日は4人のお休みがあったので36人が集まっていたのですが、みんなよく先生の話を聞いていました。一斉保育と呼ばれる場面ですが、先生の話を聞くべき時は聞く、ということができています。

(2)年長のすいすい組の子が、リーダーシップを発揮していること。年少、年中、年長の3学年の子どもたちが、一緒に生活しているのですが、年長らしい育ちが明瞭です。3階から2階へ降りるために階段前での列の作り方を教えたり、グループ毎の移動で「こっちだよ」と伝えたりと、立派なモデルになっていました。

(3)目の目にゾーンがなくても、何をして遊ぶか決定できること。ここで生活してきた遊び方がよくわかっていて、自分がやりたいことを自覚できています。先生が文字で書いたゾーンプレートを説明するだけで、具体的な遊びをイメージできるようになっています。

(4)青、赤、黄、緑、ピンクの5色のグループに別れて座ったのですが、自分がどの色グループかで迷う子はいません。目標の色のポールがなくなっても、それで困る様子もありません。

このようなお集まりができるようになったことは、子どもたちの成長を表しているのですが、今日から早速、お集まりで「課題保育」を子どもたちが「選択」する流れがスタートしました。今日の課題保育は、新しくなった「制作ゾーン」の使い方を学ぶ、というものです。グループごとにそれを学んだのですが、それ以外の時間は、ゾーンの自由選択で過ごしました。課題保育で学んだことが、自由遊びの中で生かされます。課題保育での体験が楽しかったら、それをまた繰り返して遊ぼうとしたり、課題保育で身につけたスキルを他の時間で使ったりします。

このように、先生たちは、子どもたちの様子から課題やテーマを見出し、課題保育の中でふさわしい経験ができるように設定します。子どもたちは課題保育を経ることで、他の時間が充実し、より良い発達を促すことになっていくのです。

人類は共同保育の中で食べ物を分け合って進化した

2021/03/07

さあ、一体いつ頃から食事が「一人の方が気が楽だなあ」と思うような大人が増えてきたのでしょう。「こしょく」という言葉には、いくつか漢字があります。もっとも多く使われるのは「孤食」です。1人で食べる食事のことです。「個食」というのは1人ずつに分けられている配膳のことで、別々に食べることです。「小食」となると、少食のことです。少ししか食べない。「子食」はあまり使われないのですが子どもの食事のこと。そのほかにも「こしょく」はありそうですが、保育園の食事でとても大切にしているのが、共食です。一緒に食べること、家族でも友達でも誰かと一緒に食べた方が美味しいよね、という体験を大切にします。これこそ「孤食」の反対です。

今日の幼児クラス「わいらんすい」のブログで、友達と一緒の食べたい、隣に座りたいという子どもの様子が報告されています。このような気持ちが育てっていることに嬉しくなります。どこでも席が空いていれば、そこで1人で黙々と食べるからいいや、というのではなく、誰かと一緒に食べたいという欲求が自然と湧き上がるということが望ましいと思います。食事を美味しくいただくためには、「温かいものは温かいうちに、冷たいものは冷たいうちに」ということがありますが、それよりも、多少、冷めてしまっても、生温かくなっても、それよりも一緒に食べる方がいい、という心情が育ってほしいのです。

どうして「共食」にこだわるのか、というと、そこには「人間らしさ」の原点があるからです。人間が動物ではなく、人間らしくなっていった条件は、いろいろあります。二足歩行、火の使用、道具の使用、言葉の獲得、色々なことが言われていますが、進化人類学では「食べ物を分け合ったこと」と「共同保育」が人間らしさの決め手になったと考えられているからです。単純なことのようですが、実はヒト以外の霊長類は、食べ物は独り占めしますし、オスは自分の子ども以外は育てようとしません。人だけが家族を超えて村単位の共同体の中で食べ物を分かち合い、他人の子どもも育てあってきたのです。そこには共食とアロペアレンティングがあったのです。動物はできません。

ところが、食べ物を分かち合ったりせずに別々に食べるようになってきたのが、各家族が基本になった現代の都市生活者たちです。さらに戦後広まった3歳児神話が子育てから社会的親を排除してしまいました。そこで何が起きたかというと、人間関係の弾力性を育てる機会が失われていったのです。人間関係の弾力性というのは私の造語ですが「人間関係の希薄化」の反対の意味です。伝統的な社会では、食べ物が豊かではありません。基本的にひもじい思いをしていたのですが、それでも食べ物を分かち合ってきました。多くの兄弟姉妹が食べ物の奪い合いや、分かち合いの中で、喜怒哀楽の感情コントロールの体験が発生していたのです。

人間は生理的早産といって、脳の巨大化と引き換えに産道が通れるくらいの間に未熟児を多く産む進化を遂げました。その代わり父親の子育て参加が必須条件となりました。未熟児多産の戦略ですから、年子が多くなり、上の子は下の子が生まれると親から抱っこされなくなるので、そのころに脳は母親とのスキンシップによる愛情を我慢をしなければならない状態に置かれるのです。それが精神のたくましいレジリエンス(復元力)の獲得に繋がり、濃密な人間関係の中で育っていったのです。

下のグラフは脳の感受性(敏感性)の発達を表したものですが、ほとんどが発達のピークが1歳頃から始まっています。人との関わりの中で育つ「エモーショナル・コントロール」(感情コントロール)はピンク色の曲線ですが、ちょうど1歳半ごろに人間関係の体験があることが望ましいことが読み取れます。

現代は子どもの数は少なく、赤ちゃんの頃の人間関係の葛藤はあまりありません。満3歳から集団での体験が始まるので伝統的社会の人間関係の経験と比べれば、ずいぶんと遅い体験の開始になるのかもしれません。それでも保育園は人類が進化してきた人的環境に近いので、そこで育まれる友達との友情や喧嘩や仲直りや葛藤は、貴重な経験だと思います。そのワンシーンが食事の時にもみられるのです。

乳幼児はアクティブラーナーである

2021/03/06

人は一生、何かを感じ、考え、学び続けています。赤ちゃんから大人まで例外はありません。ただし学んでそれを身につけるとき、それがよく身につくためには、それを実際にやってみることが一番です。小学校以降の学習には、国が定めた学習指導要領があって、そこに学ぶ内容が教科と特別活動ごとに系統的に整理されています。文字を読めるようになったり書けるようになったり、九九を言えるようになったり、足し算や引き算ができるようになったり、いろいろな基礎・基本の学習が待っています。

その時、授業で教えてもらったことがよく身につくようにするには、知識だったらその知識を他の人に説明できるまで理解すること、技能だったら使ってみること、どうしてだろうという疑問だったら誰かと一緒に話し合ったり考えをわかり合ったりするといいのです。このような学習の方法を、「対話的で深い学び」と言われているのですが、いわゆるアクティブラーニングのことです。

年長のすいすい組10人は、あと1か月すると、小学校の学習で今いったような学習が始まります。保育園で行ってきた学びと何が違うのかというと、実はこの「対話的で深い学び」こそ、保育園で行っている遊びの中の学びそのものなのです。しかも、それは赤ちゃんからやっているのです。例を挙げてみましょう。

つい先日、すいすいタイムの様子がわらすのブログで紹介されています。みかんの缶詰ができるまでについて、子どもが「どうやって大きさの違いを分けているんだろう」と考えてみたり、きっとこうじゃないか、ああじゃないかと、語り合ったに違いありません。これは小学校でのグループ討議のようなものです。そして「そうか!」とわかったことを、子どもたちは誰かに話したがります。おうちの人に「ねえねえ、あのね、みかんの缶詰ってね」と話してくれたのではないでしょうか。学んだことを言葉で人に教えることは、人類が延々と営んできた最も得意な知識共有の手段でした。

学んだことを人に教えることは、知識の定着度が最も高いと言われています。その次に高いものが「自分でやる」というものです。これも赤ちゃんの頃から、乳幼児の独壇場です。なんでも自分でやりたがります。先生がちょっとでも面白そうなことをやった見せたりすると、僕もやる!と大騒ぎになります。私のすいすいタイムでも「わくわく実験」でもそうです。つい先日も、こんな光景をみました。

玄関先で自分の靴が靴箱から出ないので、お母さんが出してあげると、その子は<自分でやりたかったのに〜>と抗議の声を上げたのです。お母さんは、すぐにその気持ちがわかって「ああ、自分でやりたかったのね、ごめんごめん」と靴を戻してあげていました。子どものことをよくご覧になっているお母さんの、その応答的な対応は、まさしく子どもの自発性を損なわないで見守っていらっしゃいました。子どものことだからと、軽くみてはならないのであって、靴箱から自分の靴を自分で出して自分ではく、と言う意欲と態度は、学校での学習場面に置き換えるなら、自発的学習そのものです。

ヒトの脳は、何万年もの間、なすことを通じて学んできました。これはジョン・デューイが提唱した教育方法に極めて近いものなのです。彼の代表作『民主主義と教育』で「教育は、経験の意味を増加させ、引き続く経験の進路を方向づける能力を高めるような形での、経験の再構成または再組織化なのである」と述べていますが、この箇所は保育士試験に引用されています。

グループ討議、自分でやってみる、人に教える。この3つは学びの定着度が高い3方法だと言われています。私も聞いたり読んだり考えたりしたことを、こうして自分の書き言葉に置き換えるとき、知識の再構成や再文脈化が起きています。

子どもと一緒に物語の世界に入り込む

2021/03/04

子どもと一緒にいて幸せを感じるときは、どんなときですか? 何か素敵なものを分かち合っていると実感できる時ではありませんか。例えば「いいなあ、こういうの」と思っていることを「ね、いいよね」と頷き合うような時。あるいは夕食の一家団欒が、共感し合ううれしさで、笑顔や笑いがこぼれ出ているような時。こんな時間は多いに越したことはありません。何をするわけでもなく、「これしなくっちゃ」とか「ああでなきゃだめだ」という意識もスッコーンと抜けていて、脅迫めいた時間から解放されている。そんな「こどもの時間」をたくさん用意してあげたいと思います。

今日4日は、久しぶりに3階で絵本を読んであげる時間がありました。取り上げたのは、「たまごやきのたまこさん」と「どろんここぶた」そして「大どろぼうホッツェンプロッツ」の続きです。毛色の違う3種類の絵本は、その面白さの種類が違うのですが、子どもたちは、変な言い方ですが、それぞれの面白さを「しっかり」キャッチできる感性をもっています。これは心に余裕がないと、楽しめないんじゃないかと思います。それぞれの「おかしみ」を、クスクス笑ったり、「え〜っ」と、なんとも言えない感嘆の声をあげたり、それぞれの登場人物の気持ちを共感しているのが、よくわかります。

絵本を楽しむというのは、1人でその世界に入り込むのもいいのですが、こうやって1つの絵本をみんなで集まって読んでもらうというのは、案外、保育園のようなゆったりとした時間の中でしか、味わえない貴重なものかもしれません。小学校には、そんなまったりとした時間はないですし、家庭にはお友達がいません。

しかも、私が好きな絵本を読んでいるので、私がお話の世界の案内役とはいえ、完全にエコ贔屓している世界です。「ほら、いいでしょう」と、個人的な思い入れ100%の読み方です。私の心の動き、感情の起伏、どういう気持ちでいるかということが、子どもたちに伝わっているはずです。

大人が絵本を読んであげるのは、やってあげる保育であり見守る保育じゃない、と勘違いしないで欲しいのです。絵本の世界は、私という環境を通して子どもの体験になっているのです。私が媒体するものが絵本の世界です。子どもが1人で自分で絵本を読んで楽しむこととの違いは、私の心の動が環境となって、それを通じて魅惑の世界へ誘っていることにあります。佐伯胖さんの「ドーナツ理論」とほぼ同じです。私が文化的実践を通して、子どもたちをその世界へ誘う橋渡し役をしているという捉え方です。

 

私は私、私は私たち(「自分らしく」の意味)

2021/03/03

何かの集団の一員であるという所属の欲求を私たちはもっています。同じものに連なっているという生の連続性やルーツを求める傾向をもっています。私は何者なのか?というアイデンティティは、自分が自分であるための証明として、何かの価値や連続するものに同化しようとします。子どもの模倣衝動もこのラインにあるような気がします。

しかし、一方で、私は私であるというときは、私は違う!と言っているのです。私はあなたじゃない。私は私が決める、決定権は私にある。それをどう考えて、どう行動するかは私が選択して決めたい。私にはそういう意思決定の自由がある。このように考えるのも、また私たちの中にあります。

自分らしく自由でいたい。しかし同じ共同体の一員でもありたい。この私は私でありながら、私は私たちでもあるということは、至るところにあります。結婚して、それまでの自分の姓でいたいのか、どちらかの同じ姓にするのかを決めるのは、個人の自由な選択になります。私が私でありながら、私たちでもあるあり方を姓名(氏名)で規定するとことに、いかにアイデンティティーが、その社会制度に縛られているかがわかります。その国の個人と国家の関係です。

同じ発想で、ジェンダーのことを考えてみましょう。自分の脳が生物学的に男性だったり女性だったりLGBTだったりすることは、生物学的な要因もあって、自分の意思、選択意識だけでは解決しません。本人さえ戸惑ってしまうこともあります。人と人との関係の中で、初めて自分のありように気づくこともあります。僕は男だと思っていたけど、違っていたことに後でわかるのです。これらの問題を考えるときに、立ち返るべき視点は「本人にとって」はどうなのか、ということが最優先されるといいのです。

そこで子どもと接するときに気をつけたいのは、ジェンダーの特性を一般化しないということです。普通は〜だとか、〜は◯◯が多い、とか量的に多いことをもって論拠としないということです。一人一人違うんだという、徹底した「自分らしく」の尊重から始めたい。したがって、当法人の保育は年齢別、性別、しょうがいで分けないことにしたのです。

心動かされる体験について

2021/03/02

見立て遊びは好きなことに限らない?そうか、痛いことや怖かったことも再現するのか、面白い!ーーー今日の1歳児ぐんぐん組のブログのことです。満2歳を過ぎている子たちが、お医者さんと患者さんという役割をもった「お医者さんごっこ」を楽しんでいる様子が報告されています。しかも注射しているところなのです。いまテレビをつけると「ワクチン接種の場面」がよく写されるので、その影響かもしれませんが、多分、自分が予防接種を受けた時の体験だと思います。痛くてきっと泣いたりしたでしょうに、それでもごっこ遊びになるんですね。そういえば、お化け屋敷なんて、怖くて悲鳴をあげたりしたのに、子どもはお化け屋敷ごっこが大好きだといことを思い出せば、そんなに不思議なことではないのかもしれませんね。

歯医者さんも、痛い思いをしたんじゃないかな、と思う方が多いと思いますが、実はうちの園医の山本歯科さんは、子どもたちに人気なのです。6月と10月ごろに年に2回の歯科健診をお願いしていますが、その時の様子を見ていると、もちろん子どもにもよると思いますが、あまり怖がりません。優しい先生なので、その雰囲気が子どもにはわかるようで、嫌がるどころか、むしろ、「あ〜ん」と自分から口を開けて診てもらう姿があります。

見立て遊びに取り入れられる場面は、子どもにとって、きっと印象深いシーンなのでしょう。昨日の0歳児ちっち組のブログでは、柳森神社での「お参り」が取り上げられていました。満1歳の子が、手を合わせてお参りする「ふり遊び」なんて、私も初めて見ました。心動かされる体験、という言い方に私たち保育者は慣れ親しんでいるのですが、深く考えると、何が心を動かしているの不思議です。「ああ、そこか!」と子どもは大人に教えてくれる印象的なシーン。数ある大人の振る舞いの中から、それを切り取ってくるセンサーは、誰に教えられたわけでもない、先天的な認知の枠組みなのでしょう。ここに人間の認知の秘密があるようです。

今日は久しぶりに、ダイニングで子どもたちと一緒に食事をしました。新型コロナウイルスの感染者数が多い時期は、事務室で昼食を摂るようにしていたのですが、3月になって、すいすい組の子たちとの残された時間を大切にしたいという思いが募ってきました。すると、すいすいの子は、昨年秋頃から読んであげてきた絵本の名前や、物語の印象深いシーンを、いくつもいくつも語り出すのです。それには驚きました、と同時にとても嬉しくなりました。このように話し出すことも、印象的なことの再現に違いないわけですが、私の方まで心が熱くなってしまいます。心を通わせるという意味は、大事なことを分かち合うこと、再確認すること、共有することなんだなあ、としみじみ思ったものです。そしてこう思うのです。「よーし、また楽しいお話をいっぱい読んであげるからね」。

『保育の起源』の書評を頼まれて

2021/02/25

日本には3つの保育団体があるのですが、その1つに「全国私立保育園連盟」という団体があります。そこが発行している月刊誌「保育通信」から、書評を頼まれました。本は藤森平司著『保育の起源 保育を巡る今日的論考』(世界文化社)です。以下のように書いて渡しました。(そういえば、千代田せいが文庫で藤森先生の本を閲覧・貸し出しができるようにしないといけないですね)

この本の著者は私の師匠です。先生は日本で「見守る保育」と呼ばれるようになった子ども主体の保育を全国に広げた保育者であり、私にとっては生き方の導師であり、保育の探求者です。まず本書の「はじめに」から、以下に少し紹介します。

「・・今日では、見守る保育として広く受け入れられている私の保育論ですが、振り返れば、私自身が人類学や脳科学、発達心理学などのさまざまな学問に触発され、それぞれの分野における優れた研究者と出会い、語り合う中で多くのものを取り込んできました。今、私が保育に関わり始めてから現在までの社会的な背景を振り返ると、『見守る保育』は何も特別なものではなく、世界各国に共通する流れの中で、必然的に構築されてきたことがわかります」

さて、この「見守る保育」は、最近では海外から「mima-approach」略して「mima」と愛称される「藤森メソッド」として世界で普及し始めています。アジアの保育を代表する乳幼児保育法として注目されているのです。その教えは多岐に渡るのですが、最も大切な教えは「保育の探求は、保育実践の中からしか生まれない」ということです。保育の<真と新>は現場にあるのです。「保育は学問ではなく保育道である」ということです。そんな、保育をめぐる考察の一部始終が一冊になったものが本書です。

23章480ページからなる大部ですが、保育の質を本気で探求したい人にとって、この考察を辿ることは、保育理念を汲み出す井戸となることでしょう。あるいは「保育の地平」全体を見渡すことにもなります。その地平は人類の進化、人類学、民俗学、脳科学、住居学、心理学からスポットライトが当たります。さらに通底している「保育の起源」を踏まえて、本書後半は保育理念を巡る議論が展開されます。そのテーマは発達、教育、乳児研究、愛着、自立、見守る保育、その意図性、異年齢保育、チーム保育、室内環境、屋外環境、見守る保育における5M、食育、リーダー論、海外の保育、家庭での育児と、16にのぼります。

また、アフォリズム(警句)のような言葉が興味の扉を開かせてくれます。例えば・・。

「人類の始まりという太古の話が、新しい保育のテーマにつながりました。乳児保育の大切さは、人類の原始にルーツを持っていたのです」(第1章人類の進化)だとか、「愛着について新しい考えを持ちました。愛着とは自己防衛のために自ら築くものであり、決して大人から与えられるものではない」(第10章乳児研究)などという言葉に出合えるのです。

この本は、辞書のようにどこから読んでも(引いても)いいのですが、知らないうちに、保育の質を思考する面白さという渦の中へ引き込まれますからご注意ください。この本の隠れたサブタイトルは「保育理念を構築するための思索ガイドブック」かもしれません。園長なら必携?かもしれませんね。

協力ゲームについて

2021/02/20

保育園が子どもにとっての生活の場所で、家庭も同じ子どもにとっての生活の場所であるとき、その両方の生活環境の同異に敏感なのは、自分の子どもを保育園に預けている保育士かもしれないと、気づきました。先日、その先生と保育園にある遊具を家庭にも紹介したいというテーマを語り合いました。19日の「わらすのブログ」をご覧ください。

◆園の遊具と家庭の遊具の違い

保育園にある遊具は、確かに家庭にはあまりないかもしれません。それはなぜかというと、家庭向けは一人遊びの玩具が主流なのに対して、園では複数で遊ぶことを想定したものが多いという傾向があるからかもしれません。

たとえば、東京おもちゃ美術館の館長の多田千尋さんとは知り合いなので、前の保育園に園内研修などで話をしてもらったりしたことがりますが、昔から彼とよく語り合ったことは「グッドトイ、つまり良いおもちゃというのは、一人の子どもにとって、という暗黙の前提があるよね」ということでした。彼の父親の信作さんは世界各地のおもちゃを収集して、世界中の良いおもちゃの種類と歴史にとても詳しい方ですが、彼はそこからおもちゃの美術館が生まれ、遊びとアートをを子どもから高齢者まで、また家庭から団体まで多方面に発展させる活動に邁進されています。日本で初めて「木育」ということを提案したのも彼です。

保育園の遊具は、一人遊びから集団遊びまで、赤ちゃんから就学前まで、遊具を含めた素材や物(廃材や水や土など)など幅広く関わる対象を捉えていることが「おもちゃ」とは大きく異なります。子どもが必要とする遊びにとっての「もの」は遊具だけとは限らないからです。

◆子どもの協同性を育てるボードゲーム

しかも当園のボードゲーム類は、協力ゲームと言って、何人かで遊ぶのは普通のゲームと同じなのですが、できるだけ「誰かが勝って終わり」に「ならない」ようなものを増やしています。何人かでうまく協力した方が勝ちとか、勝ち負けがなくて何かが出来上がって終わり、とか、協力し合う工夫の仕方が多様であるなど、複数の子どもたちが協同性を発揮するようなものを意識して導入しているのです。

そんな協力ゲームは、日本にはあまりなくて、国や文化が異なる子どもたちが一緒に生活していることが多いEU各国、特にドイツやフランスの遊具には、コーヒージョンと言って、人と人と結びつけるという機能を大切にした遊びが多く取り入れられています。意識して人と人をくっつけることを乳幼児の頃から保育実践として行っているのです。移民が多い国は、州政府がそういう政策に力を入れています。日本も単一民族ではないのに、そういう幻想が強いので、何もしなくても一致団結できると思い込んでいる節があるのですが、実は社会学の研究では、日本は他者を信頼する力が弱いと言われているのです。エコ贔屓はよくするのですが、外部とみなすと非常に冷たい国民性があります。

日本には絆という言葉や「結ぶ」という言葉がありますが、それが人間としての学びや経済活動の中で、他者との関係をしっかりと作り上げる人間力として、しっくりと使われる機会が減っているような気がしてなりません。放っておくと、色々な競争に追い立てられ個人や家族が分断されていることに気づかずに、孤立している人が増えているように思います。それはコロナ危機で露わになっていて、こんな時に苦しい立場になっているのは、日常的な協力や支え合いの生活から孤立されている方たちです。

子どもの頃から、そもそも人間が持って生まれてきた協力する力や環境を理解することは、脳に初期設定されているものです。それがデフォルトですから、他者のお手伝いを率先してやりたがるのは人類の特徴です。エプロンをつけたがり、お手伝い保育をやりたがり、ひな壇飾りを手伝いたがるのは、学習ではありません。ただし、ここが肝心なのですが、小さいうちからそれを「発現させる」ような環境、つまり人的環境がなければ、育たないということです。

異なる他者が集う場所に協力ゲームがあるといいのです。ミュンヘンには街中にボードゲームカフェがありました。神田でも似たような店を見かけましたが、コロナでその後どうなっているでしょうか。

意欲と思いやり

2021/02/19

2歳4ヶ月の子がお友だちに何かをやってあげたいと思った時、やり始める前にその相手に「自分でやりたい?」と尋ねることができるーー。今日19日の「ちっち・ぐんぐん」のブログを読んで、次の2つの意味で私は大変嬉しくなりました。1つは子どもの育ちが嬉しいこと。もう1つは、その姿に、先生たちが感激していることです。この子の姿に当園の子ども像が実現しているのですが、お分かりでしょうか?

まず、最初にUさんが「やってあげたい」という姿にUさん「らしさ」を感じます。とてもお世話が好きな子です。そこには、お友だちにステイやエプロンをつけてあげたい!という強い「意欲」を感じます。そして、ここからが凄いのですが、それをそのままやってあげてしまうと、これまでの経験の中で、場合によっては相手に嫌がられたり、嫌われたりすることもあったのかもしれません。その経験からなのかどうかわかりませんが、いずれにしても「待てよ、自分でやりたいかな?」と、相手の気持ちを確かめようとしています。

これは自分の気持ちと同じ気持ちを、相手も持っているのかもしれないという想像力の育ちがあります。これは世間では「思いやり」と呼ぶ力と同じです。相手の思いを想像する力です。相手の気持ちを察する力、共感する力です。Uさんらしく、意欲的で、思いやりのある姿です。これはまさしく当園が目指している育ちの姿、つまり保育目標である「自分らしく、意欲的で思いやりのある子ども」そのものではありませんか。この育ちが見られることが嬉しいですし、この姿に感激している先生がいることに、さらに嬉しいのです。

この姿はUさんに限りません。どの子もその子らしく、意欲と思いやりが育っています。実はこの2つの要素は、思春期になった頃に花咲く根っこです。この発達課題がしっかりと身につくとき、同時に自己肯定感も培われています。これは人生を力強くスタートさせるエンジンを手にしたと言っていいのです。この2つは昔、平井信義さんが大切にしていたものと同じです。

さらに私にとって、格別に嬉しいのは、次のことです。

「思いやりは、道徳心ではありません。躾のように外から形づけられるものでもありません。あくまでも心を通わせ合っているお友達との関係の中から、自ずと芽生えてくるように育つものではないでしょうか」

この育ちの真実を、このエピソードは明かしているように思えるのです。

 

 

「入園説明会」開かれる

2021/02/17

今日17日(水)は午前中に「入園説明会」がありました。来年度令和3年度も定員は変わりません。51名です。新しく0歳児クラスに6名、1歳児クラスに1名、2歳児クラスに2名が入りました。3歳児クラスは千代田区によると2時募集で決まるそうです。新しく入園される方のためにも、保育園の考え方やルールなどもお伝えしていきます。すでにご存知の方は繰り返しの話になってしまいますが、再確認の意味でもお読みいただくと嬉しいです。

◆集団生活のメリット

本日、新しく入る保護者の皆さんに理解を「お願い」したことがあります。それは「園生活」が集団の場所であるということです。すでに入園されている皆さんは、何度もお伝えしてきた「アロペアレンティング」のことはご理解いただいていると思いますが、子どもたちは親だけでは育ちません。アロは否定形の接頭辞prefixで、親の子育てを意味するペアレンティングの前についているので、「子育ては親による子育てだけではない」という意味になります。子育ては親御さんだけではなく、私たち保育園の職員や、園にいる子どもたちと一緒に作り上げていきたいと考えています。

実は、このことは学術的にもヒトの子育ての特徴として理解が広がりつつあります。日本乳幼児医学・心理学会でも、理事長の根ケ山光一・早稲田大学教授が次のように述べています。

「親以外の人たちによる子どもの育ちへの関わりはアロペアレンティング(アロケア)システムとして、ヒトの子育ての大きな特徴となっています。このことは、私たち人間の子育てが母子のみで完結しているのではなく、そういった豊かな社会文化的システムのバックアップ抜きには語りえないことを教えてくれています」

https://www.jampsi.org/message/

子どもが子「ども」と複数形で表されているように、子は人間と人間の間で育つものです。特に保育園では、乳児の頃からその子ども同士の関わりがあるので、私たち人間のDNAに刻み込まれている発達が発現しやすい「人的環境」になっていると言えるのです。

◆集団であることのリスク

それから理解をお願いしたもう1つは、集団ならではのリスクです。メリットと同時にリスクであるのは、感染症などがうつりやすい場所だということです。お子さんは、元気な状態で保育園にお預けください、というお願いです。発熱、咳、鼻水、嘔吐・下痢、発疹などの症状が現れたら、それは感染症である可能性があり、それだけに医師の診断を仰いてほしいということです。

たとえば、冬はウイルス性の胃腸炎が流行ります。子どもは嘔吐するとケロリと元気になったように見えるのですが、実はそれは感染症の初期症状であって「病児」なのです。というより、まだこれから病気になっていく途中です。症状は治ったように見えても、ウイルスを排泄する状態であり、まだ「病後児」でさえありません。

そこで「ウイルス性胃腸炎」に罹患している状態から「治っている」ことを医師に証明してもらう「登園許可書」の提出か、医師が治ったかどうかをみる再受診が必要ないという場合だったら「登園届」を提出していただきます。また、もし受診しないときは、嘔吐症状がなくなってから2日間はお休みいただくというルールもお願いしていく予定です。

◆成長展は今日から明日まで「ちっち・ぐんぐん」

今週から始まった成長展は、今日から乳児です。0歳のちっち組と1歳のぐんぐん組です。

小さいうちから豊かな心の動きが、画用紙に投影されている絵やぬりえやシルエット。

それがまだできない0歳のちっちさんだけは、先生が作った「成長のアルバム」があり、この1年の保育園で見せてくれた乳児の姿を、春夏秋冬のフォーシーズンに分けて写真のコラージュにしてあります。乳児の一年の大きな成長をじっくりとご覧いただけます。

 

 

 

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